更衣室で白い醫衣を脫ぐと、鏡の中の自分がひどく疲れた顔をしていた。ロッカーの扉を閉じた瞬間、隣の扉が靜かに開いた。神崎レーナだった。
「佐々木先生、今日は早く帰られるんですね。」
「ああ、結婚記念日でね。妻と食事に行く約束をしてるんだ。」
彼女は軽く會釈して去っていった。いつものことだ。余計な言葉は一切交わさない。神崎レーナ、38歳。若くして主任醫を任され、次々と難しい手術を成功させてきた天才外科醫。醫療雑誌の表紙を飾ったこともある。
俺は佐々木孝太。同じ大學病院の心臓外科醫だ。學會で表彰されることも、テレビに出ることもない。それでも不満はなかった。自分の役割は自分が一番よくわかっている。
病院を出ると、夕方の風が頬を撫でた。今夜はまゆみと結婚記念日を祝うために、彼女がずっと行きたいと言っていた老舗料理店を予約している。正直、俺の給料で気軽に來られる店ではないが、今日くらいは奮発したかった。
店の奧の個室に通され、まゆみが小さく息をついた。
「素敵なお店ね。あなた、無理させちゃったんじゃない?」
「いいんだ。今年こそきちんと祝おうと思ってたんだ。去年も一昨年も、結局仕事で流れてしまったからな。」
まゆみは43歳。結婚してからは家庭に入り、いつも靜かに俺を支えてくれた。今日くらいはその恩に報いたかった。
しばらくすると、中年の男が部屋に入ってきた。浜田総一。この店を三代にわたって守ってきた主人だという。
「失禮します。本日はようこそお越しくださいました。天手の浜田でございます。」
背筋を伸ばし、和服をきっちりと著込んだ男だった。眼鏡の奧の目は銳く、こちらを観察しているように見えた。
「お二人ともお連れ合いの方とお見受けします。失禮ですが、何かのお祝いでしょうか。」
「結婚記念日でしてね。妻が前々からこちらの店を気にしていたものですから。」
「それはそれはありがとうございます。ちなみに、お仕事は何をされておいでですか?」
世間話のような口調だったが、その目は笑っていなかった。まゆみが少し迷ってから答えた。
「主人はお醫者様なんです。大學病院で。」
「ほう、お醫者様。失禮ですが、どちらの病院で?」
俺が病院名を口にした瞬間、浜田の眉がぴくりと動いた。
「あちらの病院でしたら、神崎レーナ先生がいらっしゃるところでは。」
「ええ、同じ科で働いています。」
「神崎先生は、うちの主人がいつも大変お世話になっております。」
その瞬間、浜田の表情がはっきりと変わった。それまでの形式的な丁寧さが、急に熱を帯びたのだ。
「神崎先生、あの方は本当に素晴らしいお方ですな。私も雑誌で何度も拝見しております。日本の醫療を背負って立つ醫師だと……うちの主人も、あの先生に命を救われた一人なんです。」
俺は盃を手に取り、ゆっくりと酒を口に運んだ。胸の奧で何かが引っかかる。神崎レーナは確かに優秀だ。天才と呼ばれるのも理解できる。だが、同じ科の醫者として、毎日顔を合わせている一人として、俺は彼女のことをよく知っている。
彼女は天才だ。ミスをしない。決して失敗しない。手術が難しいと言われれば、その分だけ鋭い集中力を見せる。だが、それだけだ。彼女に人間的な溫かさを感じたことは一度もない。患者の前では完璧な醫師を演じるが、手術が終わればまるで機械のように無関心になる。誰とも距離を置き、笑わない。
そんな彼女に、なぜここまで人々が魅了されるのか。天才という言葉で全てが説明されてしまうことが、俺にはどうしても納得できなかった。
「佐々木先生も、神崎先生のお仕事ぶりをご存じでしょう? あの集中力、あの判斷力、そして何より――」
「ええ、知っています。毎日同じ部屋で働いていますからね。」
俺の言葉に、浜田は満足そうに頷いた。
「そうでしょうな。同じ職場で働く方なら、あの先生の凄さがお分かりになるでしょう。私はね、この歳になってもまだ神崎先生のような醫師に出會えたことはありません。まさに神の一手というやつですよ。」
神の一手。その言葉が、まるで針のように刺さった。
その時だった。襖の向こうで物音がし、若い仲居が少し慌てた様子で顔を出した。
「浜田さん、失禮いたします。ちょっとこちらへ……」
浜田は一禮すると、そのまま襖の向こうへ消えていった。しばらくすると、低い聲で何か話しているのが聞こえてきた。
「……どうも騒がしくて申し訳ございません。今夜は店のものが少々荒立たしくしておりまして。」
戻ってきた浜田は、少し落ち著かない様子だった。俺は何気なく聲をかけた。
「ご家族の方でもいらっしゃるのですか?」
「いえ、どうも……老いたもので、たまに錯亂することがありまして。」
俺は軽く頷き、料理に視線を戻した。だがまゆみは、何かを考えるように浜田を見ていた。
「浜田さん、お母様はお元気でいらっしゃるんですか?」
その問いに、浜田の顔が一瞬で強張った。
「……母さん、こちらのお客様をご存知なのか?」
答えを待つ前に、襖の向こうから老いた聲が聞こえてきた。
「レーナ……レーナ先生、お元気ですか。うちの主人が、いつもお世話になっております……」
俺はその言葉に、盃を持つ手を止めた。
まゆみが靜かに俺を見た。何も言わない。ただ、那個の聲と、浜田の苦い表情と、そして俺の胸の內を繋ぐように視線を送ってくる。
俺は何も言えなかった。ただ、目の前の料理が、急に味のないもののように感じられた。



