離婚して半年。あの日、元夫の声を聞いたのは、十一月の寒い夜だった。
電話の向こうで、彼の低い声が言った。「来月の八日に、レナさんと結婚する。君にも来てほしい」
その瞬間、私はお腹を押さえた。痛みが走ったからではない。いや、違う。あの日、私はもう一人じゃなかった。ただ、彼はそれを知る由もなかった。
「行けないわ」私は静かに言った。「今、赤ちゃんを産んだばかりなの」
三十秒後、病室のドアが勢いよく開いた。息を切らせた彼が立っていた。消毒液の匂いが、昨夜の手術を鮮明に思い出させた。切り裂かれた腹の痛みが、蘇る。
ベッドの隣の保育器で、私の息子が眠っていた。二週間早く生まれた小さな命は、まだ赤く、しわしわで、真っ白な布に包まれていた。彼の名前は、もう決めてあった。斗和。私がつけた名前。彼には、まだ知らせていなかった。
東京の空は灰色だった。冬の雨が窓を叩き、高層ビル群の輪郭をぼやけさせていた。この回復室は、まるで世界から切り離されたように静かだった。町の騒がしさは、窓の向こうで消えていた。
私は息子を見つめた。胸の奥で、幸福感と悲しみが入り混じる。夫も、家族も、いない。唯一の友人である弓が、必要なものを準備しに家へ戻っただけだった。
その時、テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面には「元夫」という二文字が、冷たく浮かび上がった。
私はためらった。出るつもりはなかった。それなのに、指は無意識に緑のボタンへ滑っていた。古い習慣は、そう簡単に消えないものだ。
「もしもし」
声が震えた。彼の低い声は、大学時代にあれほど私をときめかせた声だった。今は、恐ろしいほど丁寧な距離感を帯びている。
「しおり、元気か」
藤堂健二。彼は不動産グループの社長だ。社員数千人を束ねる男。そんな彼が、元妻の安否を尋ねるために電話するはずがない。何か用があるんだ。
「元気よ。何の用?忙しいんでしょう」
彼は笑った。全ての交渉で優位に立つ男の、余裕のある笑い声。
「相変わらずだね。その強気な性格、変わってないな」
「用件は?」
「知らせたいことがあって電話したんだ。僕たちが夫婦だった仲だから、他人から聞かせるわけにはいかなかった」
私は布団の端を握りしめた。不吉な予感がした。
「来月の八日、レナさんと帝国ホテルで結婚式をあげるんだ。君にも来てほしい。どうせ彼氏もいないんだろ?友達として、付き合えるんじゃないか」
彼の言葉が、一文字ずつ耳に突き刺さった。レナ。あの、名家の娘。事業的にも彼にとって大きな助けとなる相手。私たちが離婚した理由は、まさにそこにあった。私が彼の隣に立つには、釣り合わない。そう思われたからだ。
それなのに、なぜ今、胸の片隅が刃物でえぐられたように痛むのか。
「…行けるわよ。招待状を送って」
私は、異常なほど落ち着いた声で言った。
彼の息を飲む気配が聞こえた。「本当に来てくれるのか?」
「ええ。もちろん」
私は、保育器の中の息子を見た。斗和。彼はまだ、この子のことを知らない。明日、知ることになる。
「楽しみにしてるわ」
電話を切った。手が震えていた。涙は出なかった。代わりに、何かが心の奥で固まっていくのがわかった。
彼は、私のいない人生を歩み始めるつもりだ。私を、自分の人生の脇役として、ただの友達として招待しようとしている。
でも、彼は知らない。私には、彼の人生を揺るがす秘密がある。いや、秘密というべきか。私の息子、斗和という存在だ。
彼は、自分の息子が生まれたことを知らないまま、別の女性と結婚するつもりだ。
私は立ち上がった。麻酔の残る体を引きずって、保育器に近づいた。
「斗和」私は囁いた。「パパはね、今はまだ、あなたのことを知らないの。でも、もうすぐ知ることになるわ」
私はスマートフォンを手に取った。電話帳から、弁護士の番号を探す。
明日、私は彼と話す。全てを話す。そして、この小さな命を守るための、取引を始める。
窓の外の雨が、やがて雪に変わりそうだった。



