元義母から突然電話がかかってきたのは、離婚してから一年が過ぎた頃だった。「うちの家を建て替えるから、来月からあなたの家に住むわ。家賃は30万円、あなたが払ってね」—…

元義母から突然電話がかかってきたのは、離婚してから一年が過ぎた頃だった。「うちの家を建て替えるから、来月からあなたの家に住むわ。家賃は30万円、あなたが払ってね」—...

自分の名前を呼ぶ声に、私は書類から顔を上げた。同僚の佐々木さんが、少し申し訳なさそうな表情を浮かべて立っている。

「佐々木さん、ちょっといいですか?」

進行中のプロジェクトの調整役である私にとって、この言葉は日常の一部だ。彼が差し出してきたのは、担当部署から上がってきた見積書の修正案。数字を確認し、スケジュールに問題がないかを素早く頭の中で整理する。

「ここ、納期が厳しくないですか? このままでは現場がパンクします」

指摘すると、佐々木さんは「ですよね…」と困ったように笑った。こういう仕事だ。期日が食い違う人たちの間に立って、落としどころを見つける。バラバラだったものが綺麗にまとまった時の達成感は、この仕事の醍醐味でもある。

私の名前は海原。35歳。結婚も出産も経験したが、仕事をやめるつもりは一度もなかった。夫の朝木も同じ会社に勤めている。真面目でしっかりもの。価値観が似ていると感じ、自然と一緒にいる時間が長くなっていった。仕事も家庭も、どちらも同じくらい大切だ。

そんな日常が、ある日突然音を立てて崩れることになるとは、その時はまだ知る由もなかった。

あれは確か、朝木が単身赴任先から久しぶりに家へ戻ってきた日のことだ。リビングで他愛のない会話を交わしていると、彼が突然、切り出しにくそうに口を開いた。

「海原さん。…話があるんだ」

その前置きに、私は無意識のうちに背筋を伸ばした。彼が私を名字で呼ぶのは、真剣な話をする時の癖だ。

「突然なんだが、…離婚したいと思っている」

一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「…え?」

「申し訳ない。君には感謝している。だが、他に好きな人ができた」

冷めた言葉が、静かに、しかし確実に私の心臓を締め付ける。私はしばらくの間、何も言えずにただ彼を見つめていた。怒りよりも先に感じたのは、信じていた人が裏で何かを抱えていたという、形容しがたい虚しさだった。

「…そう。わかった」

私の口から出たのは、それだけだった。修復を試みる気も、怒鳴り散らす気も起きなかった。ただ、目の前の現実を処理するのに精一杯だったのだ。

離婚自体は、思いのほかすんなりと進んだ。慰謝料も財産分与も、彼が提示した条件を呑んだ。住んでいた家も売却し、私は新しいアパートを借りて新しい生活を始めた。朝木はすぐに新しい女性の元へ行った。私は仕事に打ち込んだ。それが一番の精神安定剤だった。

それから約一年。私はようやく、新しい生活のリズムに慣れてきたところだった。

そんなある日、見慣れない番号から着信が入る。出てみると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。

「もしもし、海原さん?」

それは元義母、つまり朝木の母親だった。彼女が私に連絡をしてくること自体が珍しい。離婚した以上、もう関わりはないはずだ。

「お久しぶりです。どうされました?」

用件を尋ねると、元義母はどこか軽い調子で言った。

「ああ、聞いてくれる? 実はね、うちの家を建て替えることになったの。で、まあ、その費用なんだけど」

「費用…ですか?」

「そう。来月から始まるんだけど、工事の間、私、あなたの家に住むわよ。それで、どうせならって、家賃はあなたが払ってくれない?」

私は自分の耳を疑った。何を言っているのか、全く理解できない。

「…何をおっしゃっているんですか?」

「何って、そのままの意味よ。あなたが払うに決まってるでしょ。だって、あなた、うちの息子と結婚してたんだから」

元義母の口調は、どこまでも当然のことのように続ける。そこには、疑問の余地すらないという確信がある。私はスマートフォンを持つ手に、自然と力が入った。

「…離婚したから、払いませんよ」

「だって、あんたが息子をうまく支えられなかったから、こうなったんでしょ? 責任はあるわよね?」

逆ギレにも似た、彼女の言葉。ここに来て、ようやく事の全容が見えてきた。彼女は何も変わっていない。私と息子が離婚した事実を、まるで認識していないか、あるいは認識したくないのだ。

「私はあなたの家族でも何でもありません。息子さんに請求してください」

「あんた、そんな冷たい言い方しなくてもいいでしょう! 昔は良くしてあげてたじゃない!」

「ええ、感謝しています。ですが、家賃を払う義務はありません。もしどうしてもというなら、弁護士を通してください。それで失礼します」

一方的に電話を切った。手が微かに震えていた。昔は良くしてくれた。確かにその通りだ。しかし、それとこれとは別問題だ。

私は深く息を吐き、冷静さを取り戻そうとした。だが、元義母はこんな電話一本では引き下がらない人だと、私はよく知っている。彼女の中では、私は今もなお「朝木家の人間」であり、都合の良い存在なのだ。

数日後、案の定、電話が再び鳴った。今度は狼藉な内容だった。

「あんたのせいで、うちの息子は今も不幸なんだからね。私が何とかしないと。慰謝料として、きっちり払ってもらうから」

携帯の向こうから聞こえてくる、高圧的な声。どうやら彼女は、私と朝木の問題を「私が彼女を困らせている」という認識でしか捉えられていないらしい。話し合いにならない。きっと何を言っても無駄だ。

私はスマホをテーブルに置き、天井を仰いだ。もういい。この面倒なものから早く手を切らなければ。だが、この女を黙らせるためには、素人の対応では難しそうだ。

数日後、私は会社を早退し、駅前のビルの一室を訪れていた。ドアには「田島法律事務所」というプレートが掛かっている。受付で名前を告げると、ほどなくして年の頃60前後の穏やかな雰囲気の男性弁護士が応接室に現れた。

「ご相談ありがとうございます。で、どんなご用件でしょう?」

私は渡された書類に目を落とし、養育費と旧姓に戻す手続きの件だと伝えた。弁護士は静かに頷き、話を聞いてくれた。元義母の話をすると、彼は顔をしかめた。

「それは…ご愁傷さまです。法的には、あなたに支払い義務は一切ありません。無視しても構いませんし、もし強硬な態度に出るなら警告書を送ることも可能です」

「ありがとうございます。お願いします」

後日、田島弁護士から元義母宛に内容証明郵便が届いた。そこには「今後、直接の接触や金銭要求は控えていただきたい。違反した場合は法的手段を取らざるを得ません」という、事務的な文章が綴られていた。さすがに、元義母からはそれ以上連絡はなかった。

一息つけた。だが、真の問題はここからだ。弁護士との会話の中で、私は知った。離婚後、私は旧姓に戻る手続きを取っていなかったことを。まだ法的には、「朝木」姓のままなのだ。

「旧姓に戻る場合は、家庭裁判所に申し立てをする必要があります。あと、戸籍の附票を確認してみることをお勧めします。もしかしたら、想定外のことが残っているかもしれません」

弁護士の言葉に、私は嫌な予感がした。自身の住民票を取り寄せてみると、そこには私が以前住んでいたアパートの住所が記載されていた。すでに退去しているはずの場所だ。

「この住所のまま?」

自分で借りていたアパートだから、住民票はもある程度自由に動かせる。だが、役所に問い合わせると、私が現在住んでいる新居の住所と、古いアパートの住所が併記されていることが判明した。どうやら前のアパートを退去した際、転出届を出していなかったらしい。住民票は、まだ旧住所のままの状態になっていた。

面倒だ。通常の手続きなら、取り直せばいい。しかし、ここで別の可能性が頭をよぎった。もしかすると、これは誰かが意図的に放っておいた可能性はないのか。

私は何となく、元夫の現在の住所を調べてみることにした。すると、そこには私が以前住んでいたアパートの住所が記されていた。つまり、離婚後も朝木は、あのアパートに住み続けていたのだ。しかも、住民票の登録地は私の名前のまま。つまり、法律上はまだ「朝木海原」がそこに住んでいることになっている。そして、私の住民票の住所は旧住所のまま。

私はすぐに職場の人事課へ相談した。社宅や福利厚生の関係もあるからだ。だが、人事は「会社として関与できない」と無難な返答を返すだけだった。仕方なく、私は市区町村の窓口で転出届を提出しようとした。しかし、窓口の職員は書類を見て首をかしげた。

「お住まいが確認できないため、転出届を受理できません」

「どういうことですか?」

「ご本人が現在どちらにお住まいかを証明していただく必要があります。賃貸契約書や公共料金の領収書など、お名前と現住所が確認できるものをお持ちください」

私は新居の賃貸契約書を持参した。だが、窓口は「契約書だけでは確認が難しい」と言う。新居は私の名前で借りている。しかも、住民票を動かすには、旧住所からの転出届がないと先に進めない。

私は手続きの煩雑さに頭を抱えた。何のための契約書なのか。

途方に暮れて、私は田島弁護士に相談の電話を入れた。すると、彼は静かに言った。

「もしかすると、それは表沙汰にできないようなあれかもしれませんね」

「どういうことです?」

「住民票の住所が古いまま、というのは、単なる手続き漏れで片付かない場合があります。例えば、役所のシステムが旧住所のままだと、税金の請求書や選挙の通知なども、すべて旧住所宛に届きます。もし、そこに住んでいる人間がいるのなら、あなた宛の郵便物を全て受け取れてしまう状態です」

恐ろしい話だ。ずっと、私は住民票の住所を知られている状態だったのだ。実際に暮らしているのは新居なのに、公式には旧住所に「朝木海原」が存在し続けている。

「もしかすると、元夫はそれを利用して、あなた名義の何かを作っている可能性はないですか?」

弁護士の言葉に、私はスマートフォンのローン契約を思い出した。心当たりはない。だが、何か作られていたら。

私はすぐに信用情報機関へ開示請求をした。結果、私の名義で、見覚えのない消費者金融からの借入があることが判明した。しかも、契約日は離婚の約一ヶ月後。旧住所に、私の住民票がある状態で。

「これは、なりすましですね。あなたの名前を騙って、融資を受けています」

弁護士の声が、ゆっくりと重く響いた。私は自分の身に何が起きているのか、ようやく理解し始めた。元夫は、私の名前を使って金を借り、その金をどこかに流していたのだ。

怒りよりも先に、寒気がした。あの、真面目でしっかりものだと思っていた男が、裏でこんなことを。

「まずは警察に相談することをお勧めします。あと、金融機関にも被害届を出しましょう。あなたがこの契約をしていないことを立証する必要があります」

電話を切り、私は手元の書類を握り締めた。窓の外では、雨が降り始めていた。

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