「この夜を越えれば、ぼっちゃまのお命はございませぬ。」
11歳の雪乃は、震える手で毒の粉がわずかに残る小さな紙包を懐から差し出した下女・お福の言葉に、息を呑んだ。お福は、己の実の弟を若様に見せかけて養子として育てていたのだという。
雪乃は、病で臥せっていた母の最期に託された銀の簪と、父から渡された矢筈だけを懐に隠し、真夜中の裏庭を抜けた。裸足の足裏に小石が食い込み、木の枝が頬をかすめても、少女は決して振り返らなかった。
けれども雪乃はまだ知らなかった。その二つの品と、お福が命がけで守り抜いた毒の証が、十五年の時を経て、引き離された弟との再会、そして奪われた家の名を取り戻す最後の鍵となることを。
物語は、二人がまだ何も知らぬ幼子であった頃、屋敷を追われるさらに二年ほど前へと遡る。
品野の国、とある山の町に、大和屋現造という格式ある商家があった。江戸とも取引をし、近隣の町でその名を知られた主人である。妻の千乃と、一人娘の雪乃がいたが、その穏やかな暮らしは長くは続かなかった。
千乃は生まれつき体が弱く、二人目の子を身ごもってからは床に臥せることが増え、雪乃が痩せた母の手を握るのが一日の中で何よりの勤めとなっていた。
「おっか様、今日は具合はいかがでございますか?」
雪乃が訪ねると、千乃はいつも笑って頷いた。けれどもその笑みが少しずつ薄れていくのを、幼い雪乃もなんとなく感じ取っていた。ただ、床に着く前、親子は縁側に並んで針仕事をしたものだ。晴れた日の光の中、糸を引く母の指先を雪乃はいつまでも見つめていた。
「おっか様、この結び目がどうしても曲がってしまいます。」
雪乃がそう言うと、千乃は娘の手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「あずることない。ゆっくり心を落ち着けて、もう一度やってご覧。」
その手の温もりを、雪乃は長く忘れることができなかった。それが二人にとって共に過ごす最後の春になるとは、その時は誰も知るよしもなかった。
その年の冬、千乃は男の子を産み、雪之助と名付けた。ところが産後の肥立ちが思わしくなかったのか、千乃は出産からわずか数日で床に伏したまま、二度と起き上がることができなかった。雪乃は生まれたばかりの弟を胸に抱き、母の枕元を離れなかった。千乃は息も絶え絶えになりながらも、娘の手を離そうとはしなかった。
「雪乃、この母がいなくなっても、そなたはこの子を守ってやらねばなりませぬぞ。良いですね。」
雪乃は涙をいっぱいにためながら、こくりと頷いた。千乃は銀の簪を一つ、娘の手に握らせた。代々の成果である、この家に伝わる品だった。
「人の値打ちというものは、生まれではなく、いかに生きるかにある。どのような境遇に置かれようとも、それだけは忘れてはなりませぬ。」
雪乃にはその言葉の意味を組み取ることができなかった。ただ、母が何か恐ろしいことを口にしているということだけは伝わってきた。幼い心にはあまりに重い言葉だった。
数日後、千乃は静かに息を引き取り、屋敷には三日三晩、泣き声が絶えることはなかった。雪乃は富蔵の間で、生まれたばかりの弟を胸に抱いたまま、涙を流すことも忘れて座り込んでいた。
それからおよそ二年後、父・現造の後添えとして、若い継母が屋敷にやってきた。名を「しの」と言った。初めて山で雪乃と雪之助を見つけた時、しのは雪乃が首に下げていた銀の簪を目にし、すぐに気づいたのだった。
「されば、あの時からお前様は全てをご存知でございましたか? 何ゆえこれまでお証しくださらなかったのでございますか?」
しのは静かに首を振り、こう言った。
「全てを明かすには、まだ時が早い。お前の父は、お前たちを守るために偽りの過去を選んだ。その真実を受け止める覚悟ができた時、私は全てを話そう。」
雪乃はその言葉に、胸の奥で何かが凍りつくのを感じた。けれども、その真実を問いただす前に、継母はさらに続けた。
「そして、お前たちをこの屋敷から追い出そうとしている者がいる。今夜、その手が動く。」
雪乃の手の中で、銀の簪が冷たく光った。



