結婚7周年の記念日に、夫から高級レストランで離婚届を突きつけられた。彼は取引先の令嬢との結婚を決め、「お前みたいな無能な女、もう限界だ」と笑った。私が何も持たない貧乏な女だと思い込んで。彼は知らない。私がその離婚届に判を押した瞬間、彼の人生が終わることを。私は静かにスマホを取り出し、ある人物に電話をかけた。「終わったわ。彼、離婚届を受け取ったところ」と伝えると、夫の笑い声が止まった。彼が何を…

結婚7周年の記念日に、夫から高級レストランで離婚届を突きつけられた。彼は取引先の令嬢との結婚を決め、「お前みたいな無能な女、もう限界だ」と笑った。私が何も持たない貧乏な女だと思い込んで。彼は知らない。私がその離婚届に判を押した瞬間、彼の人生が終わることを。私は静かにスマホを取り出し、ある人物に電話をかけた。「終わったわ。彼、離婚届を受け取ったところ」と伝えると、夫の笑い声が止まった。彼が何を...

「これに判を押せ。お前みたいな無能な女、もう限界なんだよ。」

その一言で、テーブルを挟んだ空気は完全に凍りついた。高級フレンチレストランの個室。かすかに流れていた優雅なクラシックのBGMさえ、今の私には不協和音のように耳障りに響く。目の前に乱暴に投げ出されたのは、すでに夫の署名が入った離婚届だった。

私はただ黙って、その薄っぺらい紙を見つめていた。何かがおかしい。夫の表情には、別れを切り出す者の悲しみや罪悪感など微塵もなく、なぜか勝ち誇ったような歪んだ薄ら笑いが浮かんでいたのだ。

だが、この時、目の前で偉そうに腕を組むこの男は知るよしもなかった。この離婚届に私が判を押した瞬間、彼自身が、そして彼の一族全てが地獄のどん底へと突き落とされることになるとは。

「ねえ、聞いてるのか、みさ。さっさと判を押せ。」

夫のかずやが苛立たしげに指先でテーブルをコツコツと叩いた。今日は私たち夫婦の結婚7周年の記念日だった。数週間前から予約が取れないことで有名なこのレストランをかずやが手配してくれた時、私は心の底から喜んだ。最近すれ違いが多かった私たちの関係を、彼なりに修復しようとしてくれているのだと信じていたからだ。

しかし現実は全く違っていた。運ばれてきた色鮮やかな前菜には一切手をつけず、かずやはワイングラスを傾けながら、冷ややかに私を見下ろしていた。

「かずやさん、これどういうこと?今日は記念日のお祝いじゃなかったの?」

私は震える声で尋ねた。心臓が早鐘のように打ち、膝の上に置いた手は冷たく濡れていた。

「お祝い?本気で言ってんのか?お前みたいな何もできない専業主婦と、これ以上一緒にいるメリットが俺のどこにあるんだよ。」

かずやの言葉は鋭い氷の刃となって私の胸に突き刺さった。

「私が何もできないって…家のことは全部私がやってきたじゃない。あなたの小母さんの介護の手伝いだって、毎日通って…」

「あー、うるさい。介護の手伝いだの、そんなの誰だってできるだろうが。俺はな、会社の常務なんだぞ。俺の妻になる女は、もっと華があって、品があって、俺のステータスを引き上げてくれるような女じゃなきゃダメなんだよ。」

かずやは義父が経営する中堅商社・大和貿易の取締役だ。ゆくゆくは社長の座を継ぐとされている。結婚した当初は優しくて思いやりのある人だった。だが役職が上がり、周囲からちやほやされるようになるにつれ、彼の態度は日に日に尊大になっていった。そして、いつの間にか私を見下し、言葉の暴力を浴びせるようになっていたのだ。

「華があって、ステータスを引き上げてくれる女。それって、どういう…」

私の問いにかずやは鼻でせせら笑った。

「実はな、俺、もう新しい相手がいるんだ。取引先の社長の娘だよ。お前とは育ちも教養も天と地ほど違う、本物のお嬢様だ。彼女と結婚すれば、うちの会社の売上もさらに飛躍する。親父も大賛成してくれてるんだよ。」

言葉を失った。私が妻でありながら、すぐに次の結婚相手を見つけること。そして、義父であるその人までもがそれを公認しているというのだ。

「小母さんも知ってるの?」

「当たり前だろ。お袋なんて、お前みたいな貧乏臭い女、最初から気に入らなかったんだからな。やっとあの子から解放されるって、大喜びしてたぜ。」

頭の中が真っ白になった。結婚して7年、義母の嫌味に耐え、理不尽な要求に笑顔で応えてきた。それでもいずれは本当の家族として認めてもらえると信じていた。しかし彼らにとって、私はただの都合のいい家政婦以下の存在でしかなかったのだ。

「慰謝料なら払ってやる。どうせお前の実家はボロボロの町工場で、貯金なんてないんだろう。少しばかりの金があれば、しばらくは生きていけるだろう。だから今すぐここに判を押せ。」

かずやは胸ポケットから高級な万年筆を取り出し、離婚届の上に乱暴に放り投げた。

「早くしろよ。彼女が俺の帰りを待ってるんだ。」

私は目の前にある離婚届と万年筆をじっと見つめたまま、深い沈黙に落ちた。悲しみよりも先に、静かな怒りとある種の呆れが胸の中に広がっていくのを感じていた。彼らは私のことを、ただの何も持たない貧乏な女だと思い込んでいる。昔、私の実家が小さな町工場だと言ったのを、そのまま都合良く解釈し、見下し続けてきたのだ。

かずやは私の沈黙を、ショックで何も言えないのだろうと受け取ったらしい。さらに畳みかけるように、最も卑劣な言葉を口にした。

「お前、本当に呪われた女だな。結婚して7年、子供の一人も産めない役立たずのくせに。俺に捨てられたら、お前なんてただのゴミ同然だぞ。さっさと自分の立場を理解して、その紙に名前をかけ。」

「子供の一人も産めない」――その言葉が、私の中の最後の温かい感情を完全に断ち切った。私たちが子供に恵まれなかったのは、私だけの責任ではない。以前病院で検査を受けた結果、問題があったのはかずやの方だったのだ。しかし彼はその事実を絶対に認めようとせず、結婚以来、全て私のせいにして逃げてきた。

私はゆっくりと顔を上げ、かずやをまっすぐに見据えた。今までのような、彼の顔色を伺う従順な妻の顔はもうしていないはずだ。

「分かったわ。判を押せばいいのね。」

「お、やっと分かったか。物分かりが良くて助かるよ。お前みたいなバカでも、自分が捨てられる状況くらいは理解できたみたいだな。」

かずやは満足そうに赤ワインを飲み干した。私はかすかな震えを押し殺し、冷たく静まり返った心で万年筆を手に取った。そして、一切のためらいもなく、離婚届の妻の欄に自分の名前を書き込んだ。最後に、ハンドバッグから持っていた印鑑を取り出し、赤い朱肉をしっかりとつける。私が判を押した瞬間、かずやはひったくるようにその紙を取り上げた。

「はっ、これでやっと自由だ。明日、朝一番で役所に出してやるよ。お前は今日中に俺の家から出ていけよ。お前の荷物なんて、ゴミ袋一つで収まるだろう。」

勝ち誇ったように高笑いするかずや。だが彼は知らない。私が万年筆を置き、ハンドバッグから静かにスマートフォンを取り出した意味を。そして、彼が今、全てを失うためのカウントダウンのボタンを、自ら押してしまったということを。

私は画面を操作し、ある人物への発信ボタンを押した。呼び出し音が静かな個室に響き渡る。すぐに電話は繋がった。

「もしもし。お父様、私です。ええ、終わったわ。彼、今、離婚届を受け取ったところ。」

私がそう口にした瞬間、かずやの下品な笑い声がぴたりと止まった。しかしそれも束の間、彼はすぐにまた鼻を鳴らし、面白くてたまらないといった様子で肩を揺らした。

「なんだよ、今の三文芝居は?お前のあの貧乏な親父に泣きついてんのか?笑わせるなよ。あの油まみれのボロ工場のおっさんが、一体何できるってんだ。」

電話の向こうからは、低く落ち着いた、しかしどこか凄味のある声が響いていた。

「そうか。よく決断したな、みさ。今まで本当によく耐えてくれた。もう十分だ。あとはこちらで全て引き受けよう。」

「ええ、お願いします。予定通り、明日の朝一番で動いてちょうだい。」

「ああ、分かっている。奴らに、自分たちが誰を怒らせたのか、骨の髄まで思い知らせてやろう。」

通話を切り、スマートフォンをバッグにしまう私を、かずやは虫けらでも見るような目で見下ろしていた。

「強がり、一言一句、聞き逃さなかったぜ。『明日の朝一番で動く』だと?お前の親父が軽トラでうちの会社に怒鳴り込みにでも来るのか?来てもいいぜ。警備員に叩き出させてやるからな。」

かずやの嘲笑を浴びながら、私は反論する気すら起きなかった。彼が「町工場」と言った。確かに私の父が若い頃に立ち上げた会社は、小さな町工場から始まった。結婚の挨拶の時、父はあえてかずやたちにその町工場の古い写真だけを見せ、「うちは物作りの小さな会社でして」とだけ言った。父はかずやの人間性を見極めようとしていたのだ。そして結果として、かずやも義父母も、私の実家を底辺の貧乏人と決めつけ、その後一切の関わりを持とうとしなかった。

しかし彼らは知らない。その小さな町工場が、今や国内の製造業を牛耳り、世界中に数十の関連会社を展開する巨大企業グループ「神崎ホールディングス」であることを。そして、私がその創業者であり会長である神崎竜之助の、たった一人の娘であるということを。

結婚生活の7年間、私は自分の正体を完全に隠し通してきた。普通の家庭の温かさに憧れていた私は、肩書や権力ではなく、私自身を愛してくれる人と生きていきたかった。だからこそ、かずやの暴言にも、義父母の冷たい仕打ちにも耐え続けてきたのだ。

最初は優しかったかずや。だが彼が義父の会社である大和貿易で出世するにつれ、その本性は見るも無惨に歪んでいった。大和はここ数年で急激に業績を伸ばしていた。かずやはそれを自分の実力だ――「俺の営業センスがずば抜けているからだ」と豪語し、高級外車を乗り回し、毎晩のように夜の街で飲み歩くようになった。だが、その業績アップの裏には、私がこっそりと父にお願いして回してもらった神崎グループからの莫大な下請け発注があったのだ。かずやがふんぞり返っているその椅子の足は、私が密かに支えていたにすぎない。

義父母での扱いも、思い出すだけで吐き気がする。義母は私をことあるごとに呼びつけ、家政婦のようにこき使った。「あんたみたいな貧乏育ちに、うちの高級な食器の扱いが分かるわけないわよね。」とネチネチと嫌味を言われ、熱を出して寝込んだ時ですら、夕飯の支度を強要された。義父からは「子供も産めない、親元からの資金援助もない、かずやの足を引っ張るだけだ。お前のような女は我が家の恵だ」と冷たく言い放たれた。それでも私は、いつか本当の家族になれると信じていた。だがそれは、私のただの幻想だったのだ。

「おい、聞いてんのか?さっさと荷物をまとめて出ていけって言ってんだよ。俺の家にお前の貧乏臭い匂いが残るのは我慢ならないんだよ。」

かずやの苛立った声で、私は過去の記憶から引き戻された。

「荷物ならもうまとめてあるわ。今日の昼間、引っ越し屋に全部運び出してもらったから。」

「はあ?なんだと?」

かずやは目を丸くした。

「私があなたの家に残しておくものは、もう何一つないわ。」

かずやは一瞬言葉を失ったが、すぐにまた薄気味悪い笑みを浮かべた。

「へえ、準備がいいことで。まあいい、好都合だ。明日は俺の会社で、レナとの婚約を正式に発表する大事な日なんだ。お前みたいな貧乏神が自ら消えてくれて、これで清々するぜ。」

「レナさん、それが取引先の社長のお嬢さんね。」

「ああ、そうだ。お前も知ってるだろう。帝国物産の社長令嬢だ。お前とは育ちが違う、超セレブだよ。彼女の父親は、うちの会社に大型の出資をしてくれる約束になってるんだ。これで俺は、常務として盤石な地位を築けるってわけだ。」

かずやは自分がこれから手にする輝かしい未来を想像して、得意げな表情を浮かべている。帝国物産。確かに中堅の商社としてはそこそこの規模だ。だが、その帝国物産の最大の親会社がどこなのか、彼は調べてすらいないらしい。

「そう。おめでとう。それじゃあ、私はこれで。」

私は静かに席を立ち、バッグを手にした。

「おい、ちょっと待て。今日の飯代、半分置いていけよ。俺はお前みたいな無能な女に奢る義理はねえんだ。」

私はため息をつき、財布から一万円札を数枚取り出してテーブルに置いた。

「これで足りるわね。じゃあ、さようなら。」

個室を出る時、背後からかずやの揶揄するような声が聞こえた。

「細々と路頭に迷わないように気をつけるんだな。」

レストランの外に出ると、夜風が火照った頬を覚ましてくれた。深呼吸を一つ。7年間の鎖が、ようやく解き放たれたのだ。悲しみはなかった。あるのは、これまで私を虐げ続けてきた者たちへの、冷たく鋭い決意だけ。

目の前の道路に、黒塗りの最高級車・センチュリーが静かに滑り込んできた。運転手が慌てて降りてきて、深く一礼しながら後部座席のドアを開ける。

「お嬢様、お迎えに上がりました。会長がお待ちです。」

「ありがとう、鈴木さん。」

ふかふかのシートに身を沈めると、私は再びスマートフォンを取り出した。明日の朝、かずやは自分の会社で晴れやかな婚約発表をするのだろう。自分は選ばれた人間だと信じて疑わずに。だがその時、彼は自分の足元がすでに完全に崩れ去っていることに気づくのだ。私が今日、この日のために仕掛けておいた、たった一つの罠によって。

翌朝、晴れやかな青空とは裏腹に、私の心は氷のように冷たく澄み切っていた。私はタクシーを降り、大和貿易の本社ビルを見上げた。都内の一等地にある立派なガラス張りのビル。しかし、その売上の半分以上が、神崎グループからの下請け仕事の利益で賄われていることを、ここの社員は誰も知らない。

エントランスの自動ドアを抜けると、すれ違う社員たちの視線が私に突き刺さった。

「おい、見ろよ。常務の奥さん――いや、元奥さんだ。」

「聞いたか?昨日ついに追い出されたらしいぜ。」

「帝国物産の令嬢が来てるのに、気まずくないのか?」

ひそひそと陰口を叩かれる中、私は背筋を伸ばし、堂々とエレベーターへと向かった。私がわざわざこんな場所に出向いたのは、義父である大和貿易の社長・秋夫から一方的な呼び出しを受けたからだ。

「お前の母親の形見の銀の指輪、うちの金庫に預かっていたな。返して欲しければ、今日の午前中に社長室まで来い。ただし、ただで帰れると思うなよ。」

昨夜、私のスマートフォンに届いたそのメッセージは、彼らの浅ましい本性を如実に表していた。

最上階にある重厚な社長室のドアをノックする。「入れ」という声に促され、中に入ると、そこには予想通りの胸くその悪い光景が広がっていた。イタリア製の高級ソファにふんぞり返る義父・秋夫。その隣で、私の持っているものなど足元にも及ばないような下品な大粒のダイヤを首から下げた義母・節子が、私を見て鼻で笑った。そして向かいの席には、かずやと、まるでファッション雑誌から抜け出してきたような全身シャネルで固めた派手な若い女が、寄り添って座っていた。

「あら、本当にのこのこやってきたのね。まあ、貧乏臭い地味な服でうろうろして。少しは身の程というものを知ったらどうなの?」

義母が扇子で口元を隠しながら高い声で笑う。

「お義母さん、私の指輪を返してください。あれは亡くなった母が最後に残してくれた、大切な形見です。掃除の邪魔だからと勝手に持ち出したのは、そちらでしょう。」

私が静かにそう告げると、義父がバンとテーブルを強く叩いた。

「義理の親に向かって、なんだその口の聞き方は!お前のような育ちの悪い女が、うちの息子の嫁になれただけでもありがたいと思え。あの薄汚い銀の指輪を返して欲しければ、まずはこれにサインしろ。」

義父がテーブルの上に滑らせてきたのは、分厚い書類だった。同封されていたのは「慰謝料及び財産分与の請求放棄」、そして「今後の大和貿易及び親族への一切の接触と情報漏洩を禁ずる誓約書」と書かれている。要するに、私を無一文で放り出し、会社の不正やかずやの素行について週刊誌などにリークされないための口封じである。

「こんな一方的な内容にサインできるわけがありません。」

私がきっぱりと拒絶すると、かずやが鼻で笑って立ち上がった。

「おいおい、まだ自分がどんな立場か、分かってないのか?お前の実家のあの油ボロ工場。俺の親父が取引先に一斉に根回しすれば、明日には資金ショートで倒産だぞ。親父さんが借金取りに追われて首を吊るのを見たいのか?」

かずやのあまりにも卑劣な脅しに、私はただ深く静かな沈黙で答えた。怒りですらない。ただただ彼らの底知れぬ愚かさに、背筋が凍るような呆れを感じていた。私の実家がどれほどの規模の企業か知りもせず、自分たちのちっぽけな権力で世界を動かしていると勘違いしている。この男は井の中の蛙どころか、水溜まりの中で跳ねるボウフラに過ぎない。私の後ろ盾である神崎ホールディングスが指を一本動かせば、大和貿易など数日で消し飛ぶというのに。

私の長い沈黙を、彼らは形勢を盾に取られて震え上がっていると、都合よく勘違いしたのだろう。かずやの隣に座っていた若い女が、優雅な仕草で立ち上がり、カツカツとヒールを鳴らして私に近づいてきた。彼女が帝国物産の社長令嬢・麗奈なのだろう。むせ返るような甘い香水の匂いが鼻をつく。

「初めまして、みささん。あなたがかずやさんを今まで縛りつけていた、かわいそうな女奥様ね。」

麗奈はまるで道端の汚いゴミでも見るような目で私を見下ろした。

「かずやさんから聞いてるわ。教養もなくて、家事もろくにできないんですって。おまけに結婚して7年も経つのに、子供の一人も産めない、劣等品だとか。」

その言葉に、義母とかずやがゲラゲラと下品な笑い声をあげた。

「本当だよ、麗奈さんの言う通りだ。うちの優秀な家系に、こいつみたいな劣等種の血を残さなくて本当に良かったよ。」

かずやの容赦ない侮辱の言葉が、社長室に響き渡る。私はゆっくりと麗奈の顔を見つめた。

「劣等品ですか?」

「ええ、そうよ。妻としての価値も、女としての価値もゼロってこと。」

麗奈は勝ち誇ったようにふふふっと笑い、自分の平らなお腹を、何かを慈しむように撫でた。

「かわいそうだから、最後に最高のニュースを教えてあげる。実はね、私のお腹の中には、すでにかずやさんの赤ちゃんがいるのよ。」

その瞬間、部屋の空気が一変した。義父母は「おい、本当なのか!」と歓声をあげ、かずやは照れ臭そうに鼻の下を伸ばしている。

「お、おい、麗奈。それはまだ親父たちにも内緒にする約束だったろ。」

「ごめんなさい、かずやさん。でも、このかわいそうな女奥様には、はっきりと現実を教えてあげた方が親切だと思って。」

幸せの絶頂にいる4人。彼らは私の絶望する顔を見たかったのだろう。しかし私は、一人、全く別の意味で衝撃を受けていた。頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。かずやの子を妊娠している?そんなことは絶対にありえない。なぜなら、結婚3年目に、こっそり私が行かせた精密検査で、かずやは完全に生殖能力がないと診断されているのだから。彼はその事実を隠蔽し、全て私のせいにしてきたのだ。

私は目の前で勝ち誇るように微笑む麗奈の顔を、ただまじまじと見つめ返していた。一体、彼女のお腹にいるのは、誰の子なのだろうか。

「かわいそうだから、最後に最高のニュースを教えてあげる。実はね、私のお腹の中には、すでにかずやさんの赤ちゃんがいるのよ。」

麗奈のその一言は、社長室に爆発的な歓喜の渦を巻き起こした。

「まあ、本当なの、麗奈さん。でかしたわ。さすがは由緒ある帝国物産のお嬢様ね。」

義母の節子が手を叩きながら甲高い声で叫んだ。

「どこかの誰かさんみたいに、7年も産まずに役立たずだった貧乏人の嫁とは大違いよ。これで我が家の血筋も安泰だわ。」

義父の秋夫も顔を真っ赤にして立ち上がり、満面の笑みでかずやの肩をバンバンと叩いた。

「はっはっ、よくやった、かずや!これで大和貿易の未来も約束されたようなものだ。帝国物産との太いパイプができれば、業界でのうちの立場はさらに不動のものになるぞ。」

かずやは誇らしげに胸を張り、麗奈の肩を抱き寄せた。

「親父、お袋、喜んでくれて俺も嬉しいよ。麗奈のおかげで、ようやく俺も全うな家庭が築ける。俺の優秀な遺伝子をちゃんと残せるんだからな。」

優秀な遺伝子。その言葉を聞いた瞬間、私は内心で込み上げてくる嘲笑を必死に押し殺した。彼らは知らないのだ。数年前、私たちが不妊治療のクリニックを訪れた際、医師から「かずやさんには自然妊娠は愚か、体外受精でも子供を授かるのは極めて困難」という残酷な宣告を受けていたことを。あの時、かずやはプライドをズタズタにされ、病院の待合室で怒鳴り散らし、それ以来全てを私のせいにして逃げ続けてきた。私に生殖能力の問題は一切なかった。

つまり、彼が自分の優秀な遺伝子と信じて疑わないそのお腹の子供は、100%かずやの子ではないのだ。私は、自分の夫以外の男と関係を持ち、それをかずやの子だと偽って得意げに微笑む麗奈の顔を、ただまじまじと見つめた。そして、そんな女に騙されていることにも気づかず大喜びしているこの家族の底知れぬ愚かさに、もはや哀れみすら覚えていた。

「ふふ、かやさん、かやさま、ありがとうございます。かずやさんにも似て、きっと優秀で可愛い子が生まれますわ。」

麗奈は猫撫で声でそう言った後、私の方をちらりと見て、大げさに顔をしかめた。

「あ、でも、そこに薄汚い不吉な女がいると、お腹の赤ちゃんに悪影響だわ。早く追い出していただけない?」

「そうだな。みさ、さっさとその誓約書にサインして消え失せろ。お前の顔など、二度と見たくない。」

かずやがテーブルの上の書類を指さして怒鳴る。

「サインはしません。慰謝料も財産分与も放棄して構いませんが、あなたたちの不正や素行を隠蔽するような誓約書に署名する義務はありませんから。」

私が静かに、しかし毅然と言い放つと、義父が顔を真っ赤にして激昂した。

「貴様、まだ自分の立場が分からんのか?サインしないなら、お前の実家のボロ工場を今すぐ潰してやるぞ。取引先に手を回して、こてんぱんにしてやる。」

ちっぽけな中堅商社が、日本経済を裏で操る神崎ホールディングスを潰す。あまりにも現実離れしたその滑稽な脅しに、私は深く冷たい沈黙で答えた。反論する価値すらない。彼らが自らの手で破滅の階段を登っていくのを、私はただ冷ややかに観察していた。

私の沈黙を、怯えて声も出せないと勘違いした麗奈が、ふと義父のデスクの上に置かれていた小さなベルベットの箱に目を止めた。

「あら、これがおっしゃっていた形見の指輪?」

彼女は勝手に箱を開け、中から銀の指輪をつまみ上げた。

「やだ、くすんで汚いわね。ダイヤの一つもついてないじゃない。シャネルやハリーウィンストンの足元にも及ばないわ。こんな安物に執着するなんて、本当に貧乏人って閉口ね。」

「麗奈さん、それに触らないで。」

私が鋭く声をあげると、麗奈は口角を意地悪く釣り上げた。

「あら、怖い顔。お腹の赤ちゃんが怯えちゃうわ。こんな不吉なゴミ、私が処分してあげる。」

言うが早いか、麗奈はその指輪を部屋の隅にあるゴミ箱に向かって力いっぱい投げ捨てた。からんと鈍い音が社長室に響く。

「あはは、麗奈さん、いいぞ!そんなガラクタ、うちの立派な金庫に入れておくのも、気持ち悪かったんだ。」

かずやと義父母は手を叩いて下品な笑い声をあげた。亡き母の形見をゴミ箱に捨てられ、嘲笑される。私の中の静かな怒りが、ついに臨界点を超えた。

私はゆっくりと歩み寄り、ゴミ箱から指輪を拾い上げた。埃を丁寧に払い、しっかりとポケットにしまう。そして振り返り、笑い転げるかずやを氷のような視線で見た。

「かずやさん、最後に一つだけ言っておきます。」

「あ?なんだよ、負け犬の遠吠えか。」

「この麗奈さんのお腹の子、本当にあなたの子だと本気で信じているんですか?」

その瞬間、かずやの顔からすっと笑みが消えた。

「なんだと?どういう意味だ?」

「そのままの意味よ。自分の胸に手を当ててよく考えてみれば、あなたに本当に子供を作る能力があるのかどうか。」

かずやの顔が一瞬にして青ざめ、次いで沸騰したように真っ赤に染まった。彼が隠し続けてきた、最も触れられたくないコンプレックスを真正面から突かれたのだ。

「て、てめえ、自分が不妊だからって、俺たちに嫉妬して、出たらめを言ってるんじゃないのか!ふざけるな!」

かずやがわなわなと怒り、右手を振りかぶって私に殴りかかろうと突進してきた。私が身構えた。まさにその瞬間だった。

社長室の重厚なドアが、壊れんばかりの勢いで開け放たれた。

「社長、大変です!」

顔面を蒼白にさせた秘書が、息を切らして飛び込んできた。

「なんだ、騒々しい。今は取り込み中だと言っただろう!」

義父が怒鳴りつけるが、秘書はガタガタと震えながら、信じられない言葉を口にした。

「そ、それが、当社のメインバンクである東京第一銀行の頭取と、神崎ホールディングスの役員の方々が、突然、無断でエレベーターを上がってこられました!」

「なんだと?」

振り上げた手を止めたかずやも、義父母も、一瞬にしてその場に凍りついた。私は心の中で静かにカウントダウンを始めた。さあ、地獄の幕開けだ。

「なんだと?東京第一銀行の頭取と、神崎ホールディングスの役員が来たというのか!」

義父の秋夫は顔色を変えたかと思うと、次の瞬間にはくしゃくしゃになっていたネクタイを慌てて締め直し、もみ手をしながらドアの方へと駆け出した。先ほどまで私を殴りつけようとしていたかずやも、振り上げた手を不自然に下ろし、大慌てでスーツの襟を伸ばしている。

「お、親父、なんでそんな雲の上の人たちが、うちみたいな会社に直接来るんだよ?」

「バカ者!帝国物産との大型提携の話を聞きつけて、融資の拡大や新規取引の挨拶に来たに決まっておるだろうが!神崎グループと直接繋がれる、この上ない大チャンスだぞ!」

義父のその言葉にかずやも麗奈も、ぱっと顔を輝かせた。数秒後、社長室の重厚なドアが静かに開かれた。現れたのは、仕立てのいいスーツを着こなした初老の男性。東京第一銀行の頭取である。そしてその後ろには、異様な雰囲気を放つ鋭い目つきの男たちが数名、まるで屈強な護衛のように控えていた。彼らこそが、日本経済を裏で操る神崎ホールディングスの最高幹部たちだ。

圧倒的な存在感に、社長室の空気は一瞬にしてぴんと張り詰めた。

「頭取、それに神崎ホールディングスの皆様、本日はわざわざ弊社のようなところへ足をお運びいただき、誠に光栄の極みでございます。」

義父は床に頭が擦れるほどの勢いで深いお辞儀をした。かずやもそれに習い、必死に慇懃な声を出している。

「大和貿易常務のかずやと申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。」

麗奈までがちゃっかりと上品な社長令嬢の笑みを浮かべて会釈をしていた。しかし頭取は挨拶には一切答えず、ただ冷ややかな視線で室内を見渡した。この冷たい沈黙に、義父は嫌な汗を流し、はっとしたように部屋の隅に立つ私を指さした。

「お、おい、申し訳ございません。今すぐこの薄汚い女をつまみ出しますので。おい、かずや、早くそいつを追い出せ!」

かずやは機敏に動き、私に飛びかかると、私の細い腕を強く乱暴に掴んだ。

「てめえ、こんな大事な時にいつまでうろちょろしやがって。さっさと出ていけ、この疫病神が!」

さらに麗奈もわざとらしく悲鳴をあげて、かずやの背中に隠れた。

「きゃあ、怖い!この人、かずやさんに未練があって、私とお腹の赤ちゃんに危害を加えようとしていたんです。頭取様、どうか助けてください!」

息を吐くように嘘を重ねる麗奈。それに合わせてかずやは私の腕をさらに強く締め上げた。骨がきしむような痛みが走る。

「おい、早く警備員を呼べ!この頭のおかしいストーカー女を、今すぐビルの外に叩き出せ!二度と近づけるな!」

私を完全な悪者に仕立て上げ、自分たちは哀れな被害者ぶる。そして、この絶対的な権力者たちの前で、私を社会的なゴミとして徹底的に排除しようとしているのだ。腕には青あざができるほどの激痛が走っていた。だが私は一切抵抗せず、一言も発することなく、ただ静かに冷めた目でその光景を見つめていた。

私のこの不気味なほどの沈黙にかずやはさらに苛立ちを募らせる。

「なんだそのふざけた目は!まだ自分がどういう状況か分かってないのか!お前なんか、ここにいる方々の靴の裏の泥以下の存在なんだよ。さっさと消え失せろ!」

義父も顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「神崎ホールディングスの皆様の視界に、こんな底辺の人間を入れるなど、我が社の最大の恥だ。早く引きずり出せ!」

私を徹底的に見下し、辱め、絶対的な敗北を味わわせようとする彼ら。駆けつけてきた屈強な警備員2名が、私の腕を乱暴に掴もうと手を伸ばした。かずやが勝ち誇ったように、見るも無惨に歪んだ笑みを浮かべる。

「さあ、さよならだ。お前は一生、ゴミ捨て場で蹲って生きていけ。」

その時だった。社長室に入ってから一言も発していなかった東京第一銀行の頭取が、静かに口を開いた。いや、頭取だけではない。彼の後ろに控えていた神崎ホールディングスの重役たちが、一斉に動いたのだ。

「その方から、今すぐ汚い手を離せ。」

血を吐くような、恐ろしく凄絶な声が社長室に響き渡った。かずやも義父も警備員たちも、びくっと肩を震わせて動きを止めた。

「え、頭取。今、何と…」

かずやが間の抜けた声を出した次の瞬間、彼らの目の前で信じられない光景が繰り広げられた。日本経済のトップに君臨する神崎ホールディングスの重役たちと東京第一銀行の頭取が、かずやと警備員を乱暴に突き飛ばしたのだ。どすんと鈍い音を立てて、かずやたちが床に尻餅をつく。

そして、絶対的な権力を持つ初老の男たちは、部屋の隅でただ静かに立っている私に向かって、揃って深々と――それこそ床に額がつくほどの勢いで――最敬礼をしたのである。

「お嬢様、お助けするのが遅くなり、誠に申し訳ございません。」

神崎グループの専務である黒田が、慟哭するような声で叫んだ。

「あの下劣な男たちから乱暴を…ああ、腕に青あざが。なんということだ。神崎の宝であるお嬢様に、穢れた手で触れるとは。」

黒田のその言葉に、社長室の空気は完全に凍結した。床に尻餅をついたままのかずやは、目を限界まで見開き、口をぱくぱくと金魚のように開閉させている。義父の秋夫に至っては、あまりのショックに呼吸すら忘れているようだった。

「お、お嬢様?黒田専務?一体何かの冗談でしょう?」

義父が震える声でようやくそれだけを絞り出した。

「こ、この女はただの町工場の娘です!うちの不出来な嫁でして、神崎グループ様のような雲の上の皆様が頭を下げるような人間では…」

「黙れ!」

東京第一銀行の頭取の怒号が、雷鳴のように社長室を震わせた。

「貴様、自分が今誰に向かって暴言を吐いているのか、分かっているのか!こちらにおわすは、神崎ホールディングス創業者であり会長、神崎竜之助の、たった一人のお嬢様であるぞ!」

「神崎会長の娘…みさが…?いや、ありえない。だってこいつの実家は、油まみれの貧乏なボロ工場で…」

かずやの口から間抜けな声が漏れた。私は静かに口を開いた。

「そのボロ工場こそが、現在の神崎グループの原点よ。」

かずやはびくっと肩を跳ねさせた。

「私の父は、小さな町工場から世界的な企業を作り上げたの。結婚の挨拶の時、父が古い工場の写真を見せたでしょう。あなたたちが肩書きやお金で人を見下す人間かどうか、父は試していたのよ。そして見事に、あなたたちはその罠にかかったというわけ。」

「なんだって…」

かずやの顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。

「私はね、普通の家族の温かさが欲しかったの。神崎という名前や財力ではなく、私自身を見て愛してくれる人と生きていきたかった。だから7年間ずっと、正体を隠してきたわ。」

私は冷たい目で見下しながら、ゆっくりとかずやに近づいた。

「でも、あなたたちは違った。私が何も持たない貧乏人だと分かると、家政婦のように扱い、毎日毎日、私をゴミのように見下し、侮辱し続けたわね。」

「み、みさ、これは何かの間違いで…」

かずやは床に座り込んだまま、後ずさりを始めた。

「間違いじゃないわ。大和貿易がここ数年で急成長できたのは、かずやさんの営業センスのおかげなんかじゃない。私が父に頼んで、神崎グループからの大型案件を下請けに回してあげていたからよ。あなたたちが座っているその豪華な椅子は、私が用意してあげたものなの。」

「そんなバカな…俺の実力じゃなかったっていうのか!」

かずやは頭を抱え、信じたくない現実から逃避するように叫んだ。その時、義母の節子が錯乱したように甲高い声をあげた。

「う、嘘よ!こんな地味で貧乏臭い女が、あの大財閥の令嬢だなんて、絶対に嘘よ!騙されないわよ、このペテン師!」

「奥様、言葉を慎みなさい。これ以上お嬢様を侮辱するなら、我々にも考えがあります。」

黒田専務が氷のように冷たい声で言うと、義母はひっと喉を鳴らして、義父の後ろに隠れた。圧倒的な現実の前に、ついに大和貿易の人間たちは為す術もなかった。今まで見下し、暴言を吐き、つい先ほどまで追い出そうとまでした相手が、自分たちの命運を握る絶対的な支配者だったのだ。

しかし、この部屋にはもう一人、まだ自分の立場を理解していない愚かな人間がいた。帝国物産の社長令嬢、麗奈である。

「ちょっと、さっきから聞いていれば、偉そうに何様のつもり?」

麗奈はヒステリックに叫びながら私の前に立ち塞がった。

「あんたが神崎の令嬢だろうが何だろうが、関係ないわ!私のお腹の中には、かずやさんの赤ちゃんがいるのよ!私は帝国物産の社長令嬢よ。うちのお父様が、こんな屈辱を絶対に許すわけないんだから!」

麗奈はバッグからスマートフォンを取り出し、画面を乱暴にタップした。

「今すぐお父様に電話して、あなたたち全員を会社ごと潰してやるわ。帝国物産の力を思い知るといいわ!」

誰も止める者はいない。むしろ神崎の重役たちも頭取も、そして私も、哀れなピエロの最後の見得を見るかのように、冷たく静かに彼女を見守っていた。麗奈のスマートフォンからコール音が響き渡る。しかし、彼女が思い描いているような救いの声が、その電話から聞こえてくることは絶対にないのだ。なぜなら、彼女の最大の盾である帝国物産の真実を、私はすでに握っているのだから。

「もしもし、お父様!私、今、大和貿易に来てるの。変な女とじじいたちが私をいじめるの!」

電話が繋がった瞬間、麗奈は余裕たっぷりの声でそう叫んだ。だが、次の瞬間、スマートフォンから聞こえてきたのは、血を吐くような父親の絶叫だった。

「麗奈!終わった!帝国物産は今日で完全に倒産だ!」

静まり返った社長室に、その凄絶な声が不気味なほど響き渡る。勝ち誇った笑みを浮かべていた麗奈の顔が、一瞬にして間抜けなほど引きつった。

「お父様、いきなり冗談はやめてよ。それより早く、この生意気な女とじじいたちを、帝国物産の力で潰してちょうだい!」

麗奈が苛立たしげに画面に向かって叫ぶと、電話の向こうの父親は錯乱したように怒鳴り返してきた。

「お前は自分が今、誰を相手にしているか分かっているのか!神崎ホールディングスだぞ!今朝一番で、神崎グループから全ての取引を即時打ち切るという通達が来たんだ!それを知った銀行が一斉に口座を凍結しやがった!うちはもうどうしようもない。莫大な借金だけが残ったんだ!お前、神崎の姫君に触れるような真似をしたんじゃないだろうな!」

その瞬間、麗奈の手からスマートフォンが滑り落ちた。鈍い音を立てて分厚い絨毯の上に転がった後も、「おい、どうにかして神崎の会長に謝罪を…」という情けない声が漏れ続けている。

社長室の空気は、もはや恐怖と絶望で麻痺状態になっていた。帝国物産が倒産。その事実を突きつけられた大和貿易の社長である義父は、白目を向いてソファに倒れ込んだ。かずやもまた、全身の血の気が引き、ガタガタと生まれたての子鹿のように震え始めている。

「嘘よ…こんなの、何かの間違いよ…」

麗奈は両手で頭を抱え、まるで発狂したように首を横に振った。そして、血走った目で私をぎっと睨みつけたのだ。

「あんたのせいね!あんたみたいな地味で何の取り柄もない女が、卑怯な手を使ってお父様を騙したんだわ!この嘘つき!子供の一人も産めない劣等品のくせに、私に嫉妬して嫌がらせをしてるんでしょ!絶対に許さない!あんたなんか、ただのゴミよ!」

顔を真っ赤にして口汚く罵る麗奈。私は彼女の言葉に一切の表情を変えず、ただ深く、氷のように冷たい沈黙を保ったまま、彼女を見つめ返した。怒りすら覚えない。自分の足元が完全に崩れ去っていることにまだ気づかず、虚勢を張り続けるその姿は、あまりにも滑稽で哀れだった。

「黙れ、下劣な小娘。」

私の沈黙を破ったのは、神崎グループの黒田だった。彼は麗奈を一瞥し、虫けらを払いのけるような冷徹な声で言い放った。

「帝国物産など、我々神崎グループの末端の末端にも満たない下請け企業に過ぎない。昨夜、お嬢様から時にあの会社との関係を全て断ち切るようご指示があったのだ。お嬢様を侮辱した報いだ。お前たちはもう、社会的に完全に終わったのだよ。」

その宣告に、麗奈は糸が切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。

「おい、嘘だろ…」

呆然と呟いたのはかずやだった。彼は麗奈を助け起こすどころか、汚いものでも見るかのように距離を置いた。

「帝国物産が倒産ってことは、うちの大型出資の話はパーになったってことか…」

「それどころではありませんよ。」

私はゆっくりとかずやに歩みより、冷ややかに言った。

「帝国物産が抱えた莫大な負債。ひょっとすると、娘の婚約者であるあなたに泣きついてくるかもしれませんね。」

「ひっ…」

かずやが短い悲鳴をあげた。金と権力目当てで麗奈に乗り換えた彼にとって、倒産した会社の令嬢など、ただの巨大な負債でしかない。つい数分前まで「俺の愛する麗奈」と甘い言葉を囁いていた男の顔には、今や明確な嫌悪感と打算が浮かんでいた。

「かずやさん!」

麗奈がすがるようにかずやのズボンの裾を掴む。

「大丈夫よね?お父様の会社がなくなっても、私にはかずやさんがいるもの。私のお腹の中には、かずやさんの赤ちゃんがいるんだから。私たち、幸せになれるわよね?」

かずやははっと、麗奈の中を見た。そうだ。たとえ実家の金がなくても、麗奈は自分の優秀な遺伝子を受け継ぐ子供を宿している。自分の男としてのプライドを満たしてくれる、唯一の存在だ。思い直したかずやは、私に向かって再び虚勢を張り始めた。

「そ、そうだ!麗奈には俺の子供がいる!お前みたいな不肖とは違ってな!俺には守るべき家族がいるんだ!お前がいくら神崎の令嬢だろうが、俺と麗奈の愛の結晶だけは奪えないからな!」

私はその言葉を聞いて、思わず小さく吹き出してしまった。愛の結晶?彼が心の底からそう信じていることが、どうしようもなく滑稽だった。

「かずやさん、まだそんな夢を見ているのね。」

私が冷たく言い放つと、かずやは顔を歪めた。

「なんだと?」

「あなたに現実を教えてあげるために、今日はもう一人、特別なお客様を呼んであるの。」

私がそう言って社長室のドアの方へ視線を向けると、黒田専務が素早くドアを開け放った。

「さあ、中へ入りなさい。」

専務に促され、おずおずと社長室に入ってきた人物の顔を見て、かずやと麗奈は同時に息を飲んだ。かずやの顔には驚愕が、そして麗奈の顔には、帝国物産の倒産を聞いた時以上の決定的な恐怖が張り付いていた。

「た、田中!お前、なんでここにいるんだ?」

かずやが震える声で叫んだ。現れたのは、大和貿易の若手営業マンであり、かずやの直属の部下である田中だった。いつもかずやにこき使われ、顎で使われていた、気弱そうな青年だ。

田中はかずやの顔を見ることができず、真っ青な顔で下を向いたまま、私の前に歩み出て深く頭を下げた。私は彼に、優しくしかし逃げ場のない声で問いかけた。

「田中さん、あなたがずっと隠していた真実を、今ここでかずやさんと麗奈さんの前で、はっきりと言いなさい。」

田中は激しく肩を震わせた後、意を決したように顔を上げ、かずやに向かって涙ながらに叫んだのだ。

「課長、本当に申し訳ありません!麗奈さんのお腹の中にいる子供は、課長の子ではありません。僕の子供です!」

田中の震える声が、静まり返った社長室に爆弾のように響き渡った。かずやは目を限界まで見開き、口を半開きにしたまま完全にフリーズしている。まるで理解できない外国語を聞かされたかのように、首を小刻みに振っていた。

数秒の死んだような沈黙の後、かずやの喉から、理性を失った獣のような叫び声が漏れた。

「ふざけるな!俺の部下の分際で、何をふざけたことを言っているんだ!帝国物産の令嬢である麗奈が、お前みたいな冴えない平社員を相手にするわけないだろうが!」

かずやは田中の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。そのまま勢いよく右の拳を振り上げ、田中の顔面を思いきり殴りつけた。鈍い音が響き、田中は床にのびたに倒れ込んだ。しかし田中は口の端を切って血を流しながらも、すぐに立ち上がり、逃げることなくかずやをまっすぐに見据えたのだ。

麗奈は顔を真っ青にさせ、ヒステリックな悲鳴をあげる。

「そ、そうよ!こいつ、私のストーカーなの!いつも気持ち悪い視線で私を見てきて、勝手に妄想を膨らませて。頭がおかしいのよ!早く警察を呼んで、彼をここからつまみ出して!」

二人の見苦しい言い訳とパニックを、私はただ冷たい沈黙を保ったまま見下ろしていた。私が自ら手を下さなくとも、真実は勝手に暴かれていく。数週間前、かずやの浮気を疑った私が、神崎グループの優秀な調査部を使って調べさせた結果、真っ先に浮かび上がってきたのが、この気弱そうな部下の田中だったのだ。

田中は口から一筋の血を流しながら、スーツのポケットから自分のスマートフォンを取り出し、かずやの目の前に突きつけた。

「ストーカーなんかじゃありません。麗奈さん、あなたが僕に送ってきたメッセージの数々です。昨夜もホテルの部屋で、僕に言ったじゃないですか。『大和貿易の常務なんて肩書きだけ、夜は全然ダメな役立たずだから。私には、あなたみたいな若い男が必要なのよ』って。」

その言葉は、かずやの男としてのちっぽけなプライドを根底から粉砕する、最も残酷で屈辱的な侮辱だった。

「なんだと…」

かずやの拳が小刻みに震え始める。田中はスマートフォンの画面を操作し、複数の写真やメッセージの履歴を大画面のモニターに転送するよう、あらかじめ打ち合わせていた黒田に目で合図した。専務が無言でリモコンを操作すると、壁の大型モニターに、麗奈と田中の生々しいやり取りや、ホテルのベッドの上で密着して撮られた写真が次々と映し出された。「今度の週末も温泉に行こうね、私の本命のダーリン」という麗奈からのメッセージが、大画面にデカデカと表示される。

かずやは血の気の失せた唇をわなわなと震わせ、モニターの証拠画像と麗奈の顔を交互に見比べた。

「う、嘘だろ…え、麗奈、お前、俺というものがありながら、こ、この底辺の平社員と体を重ねていたのか!」

かずやが血走った目で睨みつけると、麗奈はもはや逃げ切れないと悟ったのか、突然態度を豹変させた。先ほどまでの余裕たっぷりの上品な令嬢の仮面は完全に剥がれ落ち、般若のような険しい顔つきでかずやを指さした。

「うるさいわね!あなたの方こそ、次期社長だなんて偉そうにふんぞり返ってたけど、結局はこの地味な女の実家にすがってただけじゃない!帝国物産は倒産、大和も神崎グループに見捨てられておしまい。あんたみたいな無能で子供も作れない種なしの貧乏人、こっちから願い下げよ!田中との子、あんたの子って偽って結婚して、大和貿易の財産を丸ごと乗っ取ってやろうと思ったのに、全部パーじゃない!」

かずやの顔が、極限の怒りと絶望でどす黒く染まっていく。

「てめえ!俺の金を散々当てにして!」

「あんなの、私に対する慰謝料代わりよ!ああ、本当に最悪。もっとマシな男だと思ったのに、ただの見えっ張りのクズだったなんてね!」

社長室は、つい先ほどまで永遠の愛を誓い合っていたはずの二人の、凄まじい罵倒が飛びかう地獄へと変貌した。義父はあまりのショックに白目を向いて完全に気絶しており、義母は「ああ、我が家が、大和が終わってしまう…」と床に腰を抜かして、幼児のように泣き喚いている。

東京第一銀行の頭取は、このあまりにも低劣で救いようのない修羅場を前に、呆れ果てて深いため息をついた。

「神崎会長のご令嬢に対し、このような下劣な男が夫として振る舞っていたとは…我々の目が節穴でした。大和貿易への融資は全額、直ちに引き上げさせていただきます。」

その冷徹な宣告は、大和貿易の完全なる死刑執行のサインだった。

私はこの滑稽な光景を、最後まで黙って見届けていた。自分が一番優秀で、自分が一番正しい。そう信じて疑わなかった男が、最も見下していた部下に寝取られ、金目当ての女に騙され、そして挙句にまで捨てられる。これこそが、彼が自ら招いた結末だ。因果応報という言葉すら生温い。全てを失い、床に這いつくばったかずやが、ふと動きを止めた。そして、何かひらめいたかのように、はっと顔を上げて私の方を見たのだ。その目は、狂気に満ちたすがりつくような光を放っていた。

「み、みさ…」

かずやが這うようにして私に近づき、私の足元にすがりつこうと手を伸ばしてきた。しかし黒田専務が素早く私の前に立ち塞がり、その汚い手を革靴で容赦なく踏みつけた。

「ぎゃっ!」

かずやが悲鳴をあげるが、それでも彼は私を見上げて必死に懇願してきた。

「俺が悪かった!俺はこの悪女に騙されていたんだ!俺が本当に愛しているのは、お前だけだ!お前は神崎の令嬢なんだろ?俺たち、まだ夫婦じゃないか!やり直そう!なあ!お前の力で、大和を助けてくれよ!」

今まで私を家政婦以下に扱い、昨夜は「お前はゴミ同然だ」と言い放った男の、あまりにも身勝手で浅ましい命乞い。私は黒田の肩越しに、絶対零度の冷たい視線で彼を見下ろし、静かにそしてはっきりと口を開いた。

「かずやさん、あなた、昨日の夜、自分で私に何を渡したか忘れたの?」

私の氷のように冷たい声が響くと、這いつくばっていたかずやの顔がはっとこわばった。そして、信じたくない現実を突きつけられたように、引きつった笑みを浮かべた。

「離婚届。でも、あれは俺が持っている。まだ役所には出していないんだ。今すぐあの紙を破り捨ててしまえば、俺たちはまだ夫婦のままだ。そうだろう?」

かずやは狂ったように立ち上がり、自分のスーツのポケットをあちこち探り始めた。右のポケット、左のポケット、そして内ポケット。しかし、いくら探しても、彼が勝ち誇った顔で私に突きつけたあの薄っぺらい紙は出てこない。

「探しても無駄よ。昨日あなたがテーブルに放り投げたあの離婚届。私が自分のバッグにしまったもの。そして今朝の8時半、役所の開庁と同時に、神崎グループの顧問弁護士に提出してもらったわ。書類に不備は一切なく、無事に受理されたという連絡も受けている。つまり、私たちはもう、戸籍上も完全に赤の他人よ。」

私がバッグから離婚受理証明書のコピーを取り出して見せると、かずやは膝から崩れ落ち、「嘘だ!」と頭を抱えて絶叫した。大財閥の令嬢という、彼にとって最高のステータスであり最大の金蔓を、自らの手で永遠に手放してしまったのだ。

その絶叫で、気絶していた義父の秋夫がようやく目を覚ました。彼は焦点の定まらない目で周囲を見回し、泣き叫ぶ息子や、そして冷徹に見下ろす私と神崎グループの重役たちを見て、ついに現状を理解したらしい。恐怖を通り越し、完全な逆切れ状態に陥った義父は、顔を真っ赤に腫れ上がらせて私に向かって怒鳴り散らした。

「この恩知らずの毒婦め!7年間も我が家で飯を食わせてやった恩を仇で返して!お前のような底辺の生まれが、絶対に許さんぞ!我が大和貿易を潰す気なら、お前も道連れにしてやる!」

あまりにも検討違いで、自己中心的な侮辱の言葉。しかし私は、義父に対して一言も反論しなかった。怒る気すら起きず、ただ氷のような冷たい視線で彼を見下ろしたまま、深く深い沈黙を保ったのだ。私の不気味なほどの沈黙に、義父は逆にたじろぎ始めた。

その静寂を破ったのは、東京第一銀行の頭取だった。

「秋夫社長。己の愚かさをまだ理解していないようですね。大和貿易への融資は、即刻全額引き上げます。さらに、会社の運転資金としてあなたの個人資産であるご自宅も担保に入っていたはずですな。」

「まさか…」

「ええ、直ちに差し押さえの手続きに入ります。月末までに、ご自宅から退去していただきます。」

その宣告に、今度は義母の節子が「いやあああ!」と鼓膜を破らんばかりの悲鳴をあげた。

「私の豪邸が!私の集めた高級家具が、ブランド品が!そんなの絶対に嫌よ!かずや、なんとかしなさいよ!あなたの稼ぎで、新しい家を買ってちょうだい!」

泣きつく母親を、かずやは汚いものでも見るかのように思いきり突き飛ばした。

「ふざけるな!俺は会社の連帯保証人にはなっていない!親父の借金なんて、知るか!俺はまだ若いんだ!こんな泥船の会社なんて辞めて、どこかでやり直す!俺は逃げるぞ!」

妻を捨て、愛人に裏切られ、最後は自分を育ててくれた両親すらも見捨てて、自分だけ助かろうとする男。その浅ましさに、私は静かに冷笑を浮かべた。かずやが社長室の重厚なドアに向かって駆け出した。まさにその時だった。

バンと外側からドアが開かれ、地味なスーツを着た3人の鋭い目つきの男たちが、かずやの行手を完全に遮ったのだ。

「どこへ行くつもりですか?かずやさん。」

「誰だ、お前ら!退け!俺の邪魔をするな!」

かずやが怒鳴りつけると、先頭に立っていた男が胸ポケットから黒い手帳を取り出し、彼の眼前に突きつけた。

「警視庁捜査二課です。かずやさん、及び秋夫社長。あなたたち二人に、業務上横領及び詐欺の容疑で、逮捕状が出ています。」

「た、逮捕?横領だと?俺はそんなこと…」

「とぼけても無駄です。過去3年間に渡り、会社の資金約3億円をダミー会社に不正送金し、裏金として夜の街での飲食費や愛人への貢ぎ物に使っていた。確固たる証拠が、すでに我々の元へ提出されています。」

かずやは目を見開いて息を飲んだ。

「証拠だと?そんな裏のデータ、俺と親父のパソコンの極秘フォルダーにしか…一体誰が、そんなものを警察に渡したんだ!」

刑事は何も答えず、ただ静かに道を譲った。そして、開け放たれたドアの向こうから姿を表したのは、この場にいる誰もが予想していなかった、あまりにも意外な人物だった。大和貿易の警備部で、万年係長として部屋の隅に追いやられていた初老の男、佐藤である。

かずやと義父の秋夫は、佐藤の顔を見た瞬間、完全に言葉を失い、ぽかんと口を開けた。佐藤はいつもよれよれのスーツを着て、かずやから日常的にゴミのように扱われてきた人物だ。

「おい、このボケ老人!お前みたいな脳なしは、簿記一つできないくせに!息をしているだけで会社の空気が汚れるんだよ!」

かずやは日ごろからそう言って、佐藤に書類の束を投げつけ、雑用ばかりを押し付けていた。その佐藤が今、鋭い目つきの刑事たちを従え、堂々とした足取りで社長室の中央へと進み出てきたのだ。

かずやの顔面が、驚きから一転して怒りで真っ赤に染まった。

「さ、佐藤!てめえ、何様のつもりだ?俺が情けで雇ってやってるだけの、底辺のゴミのくせに!まさか、お前…俺のパソコンの極秘フォルダーを盗み見たっていうのか!警察にでたらめを吹き込んだのも、お前だな!」

かずやの口から飛び出す、最低の侮辱の言葉。しかし、佐藤は今までのように怯えて縮み上がることはなく、冷たく静かにかずやを見据え返した。

「情けで雇ってやった、ですか?冗談も休み休み言ってください。私はこの会社が立ち上がった頃から、必死に帳簿を守り、資金管理に奔走してきました。それをあなたたち親子は、会社の金を私物化し、社員の給料やボーナスを不当にカットし、自分の欲望のためだけに使い込んだ!」

佐藤は胸ポケットから小さなUSBメモリを取り出し、かずやの目の前で高く掲げた。

「極秘フォルダーのパスワードくらい、長年あなたたちの浅ましい行動を見ていれば、簡単に推測できます。自分が天才だとでも思っているようですが、あなたのような愚かな人間が設定するパスワードなど、自分の誕生日と愛人の名前を組み合わせただけの、ひどく単純なものでしたからね。」

かずやの顔がぴくっと引き攣り、言葉に詰まった。急所を突かれたのだ。私は一切の感情を顔に出さず、深い沈黙の中でこのやり取りを冷ややかに見つめていた。私が直接手を下すまでもなく、彼らが日頃から見下し、虐げてきた人々が、今、彼らの足元を確実に崩していく。これこそが因果応報の、最も美しい形だった。

佐藤はゆっくりと振り返り、私の方を向いて深々と頭を下げた。

「私が警察に全てを告発する勇気を持てたのは、みささん、あなたのおかげです。」

「み、みささん?」

かずやが間の抜けた声を出した。

「社長やあなたに隠れて、残業続きで疲弊する私たち社員に、夜食を差し入れてくれたり、私が過労で倒れた時には、病院まで付き添って治療費までこっそり全額負担してくれました。あんなに心優しく、誰に対しても平等に接してくださるみささんを、あなたたちは毎日家政婦以下に扱い、苦しめ続けた。私はそれが、どうしても許せなかったんです。」

佐藤の言葉に、神崎グループの黒田専務が静かに頷いた。佐藤が警察に横領の証拠を持ち込んだのは事実だが、その裏で彼の身の安全を保証し、警察の上層部に話がスムーズに通るよう根回ししたのは、神崎グループの力だった。

「だ、誰が!俺は常務だぞ!お前らみたいな底辺の平社員が、俺に逆らってただで済むと思ってるのか!」

かずやが虚勢を張って吠えるが、その声はひどく震えていた。佐藤が哀れなものを見るような目でかずやを一瞥する。

「次期社長をまだそんな夢物語を見ているのですか?あなたの横領のせいで、会社の金庫はすでに空っぽなんですよ。」

「だと?いくら俺が3億使ったとはいえ、会社にはまだ何十億と内部留保の資金が残っているはずだろう。俺が築き上げた会社の財産だぞ!」

かずやが反論すると、佐藤は首を横に振った。

「ええ、本来なら残っているはずでした。私もつい先ほど、銀行からの連絡で知ったのですが、会社の口座に残っていた全ての資金が、昨夜の深夜、海外の謎の口座に向けて全額送金され、痕跡もなく消え去っているんです。」

「なんだって!」

かずやと義父は、信じられない言葉を聞いたというように顔を見合わせた。

「誰がそんなことを?親父、あんたが隠し口座に移したのか?」

「ば、バカを言うな!わしは何も知らん!経理のお前が横領したんじゃないのか!」

見苦しく責任をなすりつけ合う親子。その時だった。先ほどから部屋の隅にへたり込み、田中への怒りと帝国物産の倒産という絶望の淵で震えていた麗奈が、ふっと薄気味悪い笑い声をあげたのだ。

「うふふ…あはははは!」

狂気をはらんだその笑い声に、全員の視線が麗奈に突き刺さる。麗奈はゆっくりと立ち上がり、乱れた髪を掻き上げながら、かずやに向かって勝ち誇ったような、そしてどこか哀れみを含んだ視線を向けた。

「かずやさん、あなた、本当に救いのない馬鹿ね。」

狂気をはらんだ笑い声をあげながら、麗奈は自分のスマートフォンを操作し、その画面をかずやの目の前に突きつけた。

「会社の全財産、昨日の深夜、全部私の名義の海外口座に移させてもらったわ。あなたのパソコンの極秘フォルダー、パスワードが単純すぎて笑っちゃった。自分の誕生日と私の名前だなんて、中学生でも思いつくわよ。」

麗奈のその言葉に、かずやと義父は雷に打たれたように完全に硬直した。会社の金庫を空にした真犯人は、身内の経理でも何でもなく、かずやが最も愛し、最も信頼していた愛人の麗奈だったのだ。

「き、貴様!俺の会社から金を盗んだのか!今すぐ返せ!この泥棒猫が!」

義父の秋夫が怒りで顔を紫色にして飛びかかろうとするが、麗奈はふっと鼻で笑って、軽やかに身をかわした。

「泥棒猫?人聞きの悪いこと言わないでよ。どうせ帝国物産も大和貿易も、潰れる運命だったんだから。このお金は、私と田中君のお腹の赤ちゃんのために、有効活用させてもらうだけよ。」

麗奈はそう言うと、泣きそうな顔で縮こまっている田中の方へ振り返り、余裕たっぷりの猫撫で声を出した。

「ねえた、田中君。これだけの資金があれば、海外の南の島で一生遊んで暮らせるわ。ファーストクラスのチケットも手配済みよ。さあ、こんな沈みかけの泥船なんて捨てて、早く空港へ行きましょう。」

田中は顔を輝かせた。

「はい!麗奈さん、一生あなたについて行きます!」

今までかずやに顎で使われてきた底辺社員と、自分を裏切った愛人が、自分の会社の全財産を持って目の前で逃げようとしている。かずやは絶望と怒りで顔を歪め、「うおおお!」と獣のような叫び声をあげて、麗奈に掴みかかろうとした。

「させない!絶対に逃さないぞ!その金は俺のものだ!」

「きゃあ!触らないでよ、この負け犬!」

見苦しい取っ組み合いが始まる。私はその底知れぬほど見苦しい光景を、一歩引いた場所から氷のような冷たい視線で、ただ黙って見つめていた。金と欲望だけで繋がっていた人間関係が、金が尽きた瞬間にこうも脆く崩れ去り、互いを喰らう野獣になり下がる。私が何か言葉を発する価値すらない。ただの滑稽な喜劇だった。

「刑事さん!早く、このバカ男を捕まえて!私はただの被害者よ!」

麗奈が叫ぶと、刑事たちは冷ややかな目で彼女を見つめ返した。

「被害者?会社の資金を無断で海外へ不正送金したのは、立派な窃盗罪ですよ、麗奈さん。」

「え?」

麗奈は一瞬ひるんだが、すぐに強気な態度を取り戻した。

「ふん。捕まえられるものなら、捕まえてみなさいよ。私が送金したスイスの口座は、絶対に身元がバレない完璧な口座なんだから。ね、田中君、早く残高を見せてあげて!」

麗奈は田中のスマートフォンを奪い取り、得意げにネットバンキングの画面を開いた。しかし、その画面を見た瞬間、麗奈の勝ち誇った顔が固まった。

「え?嘘?なんで?」

麗奈の喉から、ひゅっと空気が漏れるような音がした。彼女は狂ったように画面を何度もスクロールし、更新ボタンを連打している。その手はガタガタと激しく震えていた。

「残高がゼロ?昨日、確かに30億送金したはずなのに…なんで1円も残ってないのよ!」

麗奈の悲鳴のような叫びに、かずやがぴたりと動きを止めた。

「ゼロ?はは、ざまあみろ!お前、騙されたんだな!誰かにその金を持ち逃げされたんだ!」

かずやの嘲笑が響く中、神崎グループの黒田専務が静かに、そして残酷な事実を口にした。

「持ち逃げされたのではありませんよ。あなたが送金したそのスイスの口座は、すでに国際警察の資金洗浄対策ユニットによって、完全に凍結されています。」

「な、なんでそんなことが…」

「あなたが資金の移動を依頼した海外の投資コンサルタントは、我々神崎グループが用意したダミーです。あなたが大和貿易の金を横領する際、同士、その資金を安全に回収するための罠だったのです。もちろん、没収された資金は、後日、大和の正当な債権者への支払いとして充当されますがね。」

黒田専務の言葉に、麗奈は白目を向いてその場に崩れ落ちた。

「嘘よ…私の…私の30億が…南の島でのセレブ生活が…」

資金を手にしたと信じていた全ての敵が、完全に逃げ道を断たれ、地獄の底へと突き落とされる。刑事たちが無言で近づき、銀色に光る手錠をかずやと義父の手首にはめた。

「かずやさん、秋夫さん。業務上横領及び詐欺の容疑で、逮捕します。そして、麗奈さんも、不正送金の実行犯として、同行願います。」

冷徹な宣告。手錠をかけられたかずやは、もはや涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私に向かって地に頭を擦りつけた。

「み、みさ…俺が悪かった!土下座でも何でもする!だから、この逮捕だけは取り消してくれ!俺たち、7年も夫婦だったじゃないか!」

その見苦しい命乞いに、私は静かに歩み寄った。そして彼を冷たく見下しながら、ゆっくりと口を開いた。

「かずやさん、あなた、昨日の夜、自分で私に何を渡したか忘れたの?あなたは私に『お前はゴミ同然だ』と言ったわね。でも、現実を見て。価値がないのは、一体誰?」

かずやは、恐怖に泳ぐ目で私を見上げる。

「あなたは、自分では何も生み出せず、親の威光と妻の内助の功に寄りかかっていた。最後は愛人に金を奪われ、部下に寝取られた。あなたこそが、この世界で最も無価値で、醜悪なゴミよ。」

私がそう言い放つと、かずやはまるで魂が抜けたように、その場に崩れ落ちた。彼は今、自分が地獄の底に落ちただけでなく、その地獄そのものが、かつて自分が踏みつけにしていた女の手によって作り出されたものだと知ったのだ。

その時、ずっと沈黙を守っていた田中が、震える手で麗奈の肩を抱こうとした。

「で、麗奈さん。お金がなくても、僕たちにはお腹の赤ちゃんがいます!僕が必死に働いて…」

「話しかけないで!」

麗奈は田中の手を激しく振り払い、狂ったように叫んだ。

「赤ちゃん?そんなの、最初から嘘に決まってるじゃない!あんたみたいな男と本当に結婚するわけないでしょ!かずやから金を引き摺り出すための、ただの道具よ!私のお腹の中には、最初から赤ちゃんも、未来も、何もありはしないわ!」

田中の顔から、一瞬にして光が消えた。愛の結晶だと信じていたものは、ただの詐欺の道具に過ぎなかった。かずや、田中、麗奈、節子。この場にいる全員が、自分たちの欲望という鏡に映し出された、見苦しい自らの姿を突きつけられ、精神を完全に破壊されていた。

私は崩れ落ちた彼らの醜態を、まるで勝利の女神のように優雅に通り過ぎた。もはや彼らにかける言葉は、一言も残っていない。

「黒田さん、行きましょう。新しい会社の再建計画を、会議室で詰めなくてはならないわ。」

「はい、みさ社長。」

私は一度も振り返ることなく、社長室を後にした。背後からは、手錠をかけられた男たちの絶叫と、女たちの獣のような鳴き声が響き渡っていたが、それも分厚いドアが閉まった瞬間、心地よい静寂へと変わった。だが、この逆転劇はまだ終わっていない。本当の、さらなる頂点へと登り詰めていくのだ。

社長室の分厚い扉が閉まった後も、中からはかずやたちの獣のような絶叫が漏れ聞こえていた。だが、それも廊下に整列した神崎グループの警備員たちが、警察車両への移送を開始すると同時に、遠くへと消えていった。私は黒田と共に、大和貿易のメイン会議室へと向かった。そこには、緊急招集された全社員が集まっていた。かずやと秋夫によって虐げられ、サービス残業やパワハラに耐え続けてきた、100名以上の社員たちだ。

壇上に上がった私を、社員たちは複雑な表情で見つめていた。昨日までの無能な社長夫人が、今、神崎グループの最高幹部を従え、凛としたスーツ姿で目の前に立っている。そのギャップに、会場全体が息を飲むような静寂に包まれていた。

「皆さん、急な招集で驚かせて申し訳ありません。」

私はマイクを握り、ゆっくりと、しかし全員の心に届くような声で話し始めた。

「本日をもって、大和貿易の経営は刷新されました。前社長の秋夫、及び前取締役のかずやは、業務上横領及び詐欺の容疑で逮捕されました。そして、この会社は今日から、神崎ホールディングスの完全子会社として、生まれ変わります。」

会場にどよめきが走った。不安と期待が入り混じった、波のようなざわめきだ。

「これまでの不当な労働条件。見合わない残業代。そして、心ない言動の数々。皆さんがどれほど苦しんできたか。私は妻という立場から、そして一人の人間として、ずっと傍で見てきました。これからは、私がこの会社の代表取締役社長として、皆さんと共に、新しい歴史を作っていきたいと考えています。見合わない残業代は、今月中に、全額、遅延損害金を含めて支給します。」

その瞬間、会議室のあちこちから、こらえきれないすすり泣きの声が聞こえてきた。最前列にいたベテランの女性社員が、震える手で目元を拭いながら、「ありがとうございます。本当にありがとうございます」と呟いた。それが合図だったかのように、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。

その時、会議室の重厚な後ろ扉が開き、一人の人物が静かに入ってきた。白髪を綺麗に整え、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ、圧倒的な存在感を放つ老紳士。私の父、神崎竜之助だった。

「お父様、どうしてこちらに?」

私が驚いて口を開くと、父は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、私の肩に優しく手を置いた。

「みさ、よくやったな。7年間、正体を隠してまで、あの男たちを見極めようとしたお前の忍耐強さ。そして、最後に見せた見事な采配。神崎の後継者として、これ以上の成長を見せてもらったよ。」

父の登場に、神崎グループの役員たちは一斉に立ち上がり、最敬礼をした。社員たちも、テレビや経済誌でしか見たことのない経済界の巨人の姿に、言葉を失って直立不動になっている。父はマイクを手に取ると、社員たちに向かって力強く宣言した。

「諸君、安心してほしい。私の娘みさが、新しいリーダーだ。神崎ホールディングスは、神崎大和に対し、100億円の緊急融資と技術支援を、即刻、決定した。これからこの会社は、日本の物作りを支える中核企業として、復活する!」

この予想外の人物による決定的な支援の表明に、社員たちの不安は完全に吹き飛び、歓喜の声が爆発した。一方、警察署の取り調べ室では、かずやと秋夫が最後の、そして最も見苦しい醜態を晒していた。

「嘘だ!みさが社長なんて認めない!あの女は俺の嫁だ!妻の財産は夫のものだろうが!」

かずやは手錠をガチャガチャと鳴らし、机を叩いて暴れていた。

「かずやさん。」

取り調べ室に入ってきたのは、神崎グループの顧問弁護士だった。彼は冷静な手付きで、かずやの前に大量の書類を並べた。

「これは、あなたが過去7年間に渡り、奥様――いえ、みさ社長に対して行ってきた、不当な扱いの記録です。音声データ、動画、日記、そして医師による診断書。これらは全て、婚姻関係を継続しがたい重大な事由及びハラスメントの証拠として、裁判所に受理されています。あなたが今主張している『夫の権利』など、1円の価値もありません。」

「そんな…でも、俺を助けてくれるって、親父が…」

かずやが隣の取り調べ室にいるはずの父に助けを求めると、弁護士は哀れみを含んだ笑みを浮かべた。

「秋夫さんは、自分の横領罪を少しでも軽くするために、全ての責任をあなた――つまり、実の息子に押し付ける供述を始めていますよ。『息子が勝手にやったことで、私は止めようとしたが、聞き入れられなかった』とね。」

「あっ…親父が、俺を売ったのか…」

かずやの顔が、絶望で土色に変わった。最も信頼していたはずの父親に、真っ先に生贄として差し出されたのだ。彼らが気づいてきた家族の絆など、金と地位がなくなった瞬間、ただの共食いの道具でしかなかった。

「それから、麗奈さんについても、報告しておきましょう。」

弁護士は追い打ちをかけるように続けた。

「彼女は、妊娠を偽装して婚姻を迫った結婚詐欺の容疑、及び海外口座への不正送金の容疑で、起訴が確定しました。彼女の両親、つまり帝国物産の元社長夫妻は、娘の不祥事を知って、夜逃げ同然で姿を消したそうです。彼女には、もう帰る場所も、守ってくれる人も、一銭の財産も残されていません。」

かずやはがたがたと全身を震わせ、ついに言葉を失った。自分たちが手に入れようとした輝かしい未来。それが実は、自分たちの欲望が作り出した幻想であり、その足元には、自ら掘った深い深い墓穴が広がっていたのだ。

私は神崎大和の社長室の窓から、暮れゆく街の景色を眺めていた。7年前、この会社に嫁いできた日のことを思い出す。あの時は、こんな結末になるとは夢にも思っていなかった。だが、後悔はない。私はスマートフォンを手に取り、ある人物にメッセージを送った。それは7年間ずっと私の味方でいてくれた佐藤さんや田中さん、そして苦労を共にした社員たちへの、明日からの新しい船出への励ましだった。

逆転劇は終わった。しかし、これまでの全ての侮辱と苦しみを、真のスカッと劇として消化させるための仕上げが、もう一つだけ残っている。それは、法廷という公開の場で行われる、彼らへの最後の公開処刑だった。

裁判所の廊下には、独特の冷たく重い空気が漂っていた。かつては大和貿易の常務として、高級ブランドのスーツをこれ見よがしに着こなしていたかずや。だが、今、私の前に立つ男の姿に、かつての面影は微塵もなかった。擦り切れた安物の服を着て、手錠を隠すための布をかけられたかずやは、猫背になって地面ばかりを見つめている。その横には、実の息子に全ての罪をなすりつけようとして失墜し、顔色を土色に変えた義父・秋夫。そして、派手な化粧が剥げ落ち、幽霊のように青ざめた麗奈が並んでいた。

傍聴席には、大和貿易の社員たちや、彼らに踏みつけられてきた下請け会社の経営者たちが詰めかけている。彼らにとって、これは単なる裁判ではない。長年積み上げられた怒りと恨みを晴らすための、生贄の儀式だった。

「これより、被告人・大和貿易前代表取締役・秋夫、及び前取締役・かずやの業務上横領事件、並びに被告人・麗奈による詐欺及び窃盗未遂事件の口頭弁論を開廷します。」

裁判長の厳かな声が法廷に響き渡る。検察官が淡々と読み上げる罪状は、あまりにも醜悪で、あまりにも身勝手なものだった。会社の金を湯水のように使い込み、愛人に貢ぎ、私腹を肥やすために社員の血と汗を搾り取ってきた記録。

「被告人、かずや。以上の起訴内容について、異議はありますか?」

裁判長に促され、かずやがゆっくりと顔を上げた。その目は充血し、狂気と絶望が入り混じった色をしていた。彼は震える声で、絞り出すように言葉を発した。

「異議、あります!俺は…俺は悪くない!全部、あの女が悪いんだ!」

かずやは傍聴席に座る私を指さし、身を乗り出して叫んだ。

「神崎みさ!お前が最初から自分の正体を明かしていれば、俺はこんなことしなかったんだ!お前が俺を試すような真似をしたから、俺は道を踏み外したんだ!お前は俺の妻だったんだろう!夫を助けるのが妻の義務じゃないのか!それを、裏でこそこそと株を買い占めて、会社を乗っ取るなんて!お前こそ、詐欺師じゃないか!」

法廷内に、冷ややかなざわめきが漏れた。自分たちの罪を棚に上げ、なおも私を悪者に仕立て上げようとするその姿は、哀れを通り越して滑稽ですらあった。私は彼の暴言を、微動だにしない表情で受け流した。反論する価値などない。私は深く静かな沈黙を守ったまま、ただまっすぐにかずやの目を見つめ返した。その沈黙こそが、今の彼にとって最大の、そして最も残酷な拒絶だった。

「黙りなさい、被告人。今はあなたの不満をぶつける場ではありません。」

裁判長が厳しくたしなめるが、かずやの暴走は止まらない。

「お前らも騙されるな!この女は冷酷なモンスターだ!自分の夫と義理の親を地獄に突き落として、一人で高笑いしている悪魔なんだよ!れ、麗奈!お前も言ってやれ!俺たちはこの女の被害者なんだって!」

かずやに話を振られた麗奈は、びくっと肩を揺らした。しかし、彼女の口から出たのは、かずやへの弁護ではなく、自分を守るための冷酷な裏切りだった。

「かずやさん、いい加減にして!私、あなたに騙されたのよ!あなたは『大和貿易は安泰だ。みさはただの居候だ』って言ったじゃない!私はあなたの嘘に巻き込まれただけ!本当は…本当は、かずやさんが無理やり私に横領の手伝いをさせたんです!」

「なんだと!れ、麗奈!お前、昨日まで俺と一緒に南の島に行くって…!」

「そんなの、捕まらないための口よ!あんたみたいな無能な男と、誰が本気で一緒にいたいと思うのよ!ねえ、みささん!私、本当はあなたに憧れていたの!かずやさんの浮気に気づいて、私に近づいて、利用したんでしょう?あなたはすごいわ!でも、私はただの被害者なの!お願い!私だけは助けて!」

麗奈はなりふり構わず私にすり寄り、涙を流して哀訴しようとした。だが、その芝居が通用するほど、この法廷は甘くなかった。

「被告人・麗奈の銀行口座の履歴、及び田中氏との共謀を示す音声データは、全て証拠として採用されています。今さら被害者面するのは無意味です。」

検察官の冷静な一言で、麗奈の泣き落としはぴたりと止まった。彼女は床に膝をつき、まるで魂が抜けたように動かなくなった。

裁判の後半。私は証人として証言台に立った。

「みさ社長。被告人たちに対して、何か望むことはありますか?」

検察官の問いに対し、私はゆっくりと、しかし法廷の隅々まで届くような明確な声で答えた。

「望むこと。それは、彼らが自分の犯した罪の重さを、一生をかけて理解することです。彼らは金や地位を失ったことを悲しんでいますが、本当に失ったのは、自分たちを信じていた社員たちの信頼、そして人としての誇りです。私は、彼らへの報復として会社を買い取ったのではありません。彼らが壊そうとした、多くの人々の生活を守るために、私はここに立っています。」

私の言葉に、法廷から小さな感嘆の息が漏れた。かずやは私の声を聞きながら、がたがたと全身を震わせていた。彼が最も見下していた無能な妻が、今、自分には決して手が届かない崇高な場所に立っている。その事実が、何よりも彼を傷つけ、打ちのめしていた。

「主被告人・秋夫、懲役8年。被告人・かずや、懲役10年。被告人・麗奈、懲役6年に処する。未決勾留日数のうち…」

裁判長の宣告が下された瞬間、かずやは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。10年。彼が最も華やかで、最も自由でいたいと願っていた30代の全てを、彼は冷たい鉄格子の向こうで過ごすことになる。

裁判後、私は一人で法廷に残った。がらんとした空間に、これまでの7年間の記憶が蘇っては消えていく。苦しみ、耐え、沈黙し続けてきた日々。それが今、ようやく報われたのだ。だが私は知っていた。彼らにとっての本当の地獄は、刑務所に入ることではない。刑期を終えて社会に戻った時、誰からも必要とされず、帰る場所もなく、ただ自分たちが踏みにじってきた人々が幸せに暮らしている光景を、指を加えて見守るしかないという、永遠の孤独こそが真の罰なのだ。

私は法廷を出て、青空が広がる外へと踏み出した。そこには、神崎グループの黒田専務、そして神崎大和の社員たちが、私を待っていた。

「社長、お疲れ様でした。さあ、会社へ戻りましょう。新しいプロジェクトが動き出しています。」

「ええ、行きましょう。」

私は微笑んで頷いた。全ては終わった。しかし、私の人生という物語の本当の第一章は、今、ここから始まったのだ。私は一つ深く呼吸をした。そして、スマートフォンに届いた一通の通知に目を落とす。それは、刑務所への移送を待つかずやから、弁護士を通じて届いた最後の手紙だった。そこには、あまりにも身勝手で、あまりにも衝撃的な、最後のお願いが記されていたのだ。

判決から数週間後。私は神崎大和の社長室で、弁護士から手渡された一通の手紙を読み終え、静かにため息をついた。それは、刑務所への移送を待つかずやから届いた、あまりにも身勝手で、あまりにも救いのない、最後のお願いだった。

「みさ。本当にすまなかった。刑務所の中の冷たい床で、俺はようやく気づいたんだ。俺が本当に愛していたのは、麗奈のような派手な女じゃなく、7年間ずっと俺を支えてくれた、お前だったんだ。俺は上訴しない。罪を受け入れ、真面目に刑に服する。だから、10年して俺が出てきたら、また一からやり直してくれないか?お前は神崎の令嬢なんだろ。俺を、秘書としてでもいい。そばに置いてくれ。俺たちの7年間を、どうか無駄にしないでくれ。」

手紙の最後には、震える文字で「愛している」と書かれていた。全てを失い、誰からも見捨てられた今になって、私を金蔓として繋ぎ止めようとする、透けて見えるような本音。愛という言葉を、これほどまでに汚らわしく感じたことはなかった。

私はその手紙を、迷わずシュレッダーにかけた。細かく切り刻まれていく紙くずを見つめながら、私の中に残っていた最後の一片の未練すらも、完全に消え去っていくのを感じた。

「社長、そろそろお時間です。例の場所へ向かいましょうか。」

黒田専務がドアをノックして現れた。私は頷き、コートを手に取って席を立った。向かったのは、都内の繁華街から少し離れた場所にある、古びた、しかし手入れの行き届いたアパートだった。そこには、家を差し押さえられ、路頭に迷った義母・節子が身を寄せていた。

私が部屋の前に立つと、中からひどくやつれた節子が出てきた。かつての豪華な毛皮や宝石はどこにもなく、スーパーの安売りで買ったような色褪せた服を着て、手には近所の工事現場で日雇い労働をしているという、泥だらけの軍手が握られていた。

「み、みささん…来てくれたのね。助けてちょうだい!私、もう限界なの!毎日朝から晩まで立ち仕事で、腰が痛くて…あんなボロ屋に住まわされて、近所の人からは犯罪者の身内だって指を差されて…ねえ、あなたから神崎の会長さんに言って、せめて元の家だけでも返してちょうだい!」

節子は私の靴にすがりつき、泣き喚いた。かつて私を「貧乏人の嫁」「劣等品」と呼び、母の形見をゴミ箱に捨てて嘲笑っていた女性。そのプライドは完全に打ち砕かれ、今や一片の恵みを請う物乞いのようになっていた。

私はすがりつく彼女の手を、一言も発することなく、静かに、しかし冷淡に振り払った。彼女がどんなに泣こうが喚こうが、私の心は一ミリも動かなかった。沈黙という名の拒絶。それが今の私にできる、彼女への唯一の答えだった。

「さようなら、小母さん。いえ、赤の他人の節子さん。二度とお会いすることはありません。」

私が背を向けて歩き出すと、背後から「白痴者!」「悪魔!」という節子の獣のような叫び声が聞こえてきたが、それも遠ざかる車のエンジン音にかき消されていった。

一方、麗奈と田中は、互いに罪をなすりつけ合い、法廷でも泥沼の争いを続けているという。麗奈は拘置所の中で狂ったように「私は帝国物産の令嬢よ!こんなところにいるべき人間じゃないの!」と叫び続け、精神的に不安定になっていると聞いた。田中もまた、愛した女に利用された絶望から、抜け殻のような日々を過ごしているらしい。彼らの人生は、これから始まる長い刑期の中で、ゆっくりと、しかし確実に崩壊していく。金と嘘で塗り固めた偽りの輝きが消え去った後、彼らに残されたのは、自分たちが踏みにじってきた時間の数だけ続く、終わりのない孤独だけだった。

夕暮れ。私は父・竜之助と共に、実家の庭園を歩いていた。夕日に照らされた木々が、黄金色に輝いている。

「みさ、大和貿易の立て直し、順調なようだな。」

父が慈しむように目を細めて言った。

「ええ、お父様。社員のみんなも、新しいプロジェクトに生き生きと取り組んでくれています。かずやさんたちが壊そうとしたもの、ようやく少しずつ、元に戻り始めている気がします。」

「そうか。お前なら、そう言うと思ったよ。だが、仕事もいいが、自分の幸せも忘れるなよ。」

父の優しい言葉に、私はふと涙が込み上げてきた。7年間、孤独な戦いを続けてきた。自分を偽り、侮辱に耐え、沈黙を守り続けてきた。でも、その暗闇を抜けた先に、こうして私を心から信じ、待っていてくれる本当の家族がいた。

「はい。私、今、とても幸せです。自分の名前で立ち、自分の足で歩いている。それだけで、十分すぎるくらい幸せよ。」

私は空を見上げた。一番星が、静かに瞬き始めている。かずやは刑務所の中で、10年後の未来を夢見ているかもしれない。節子は、いつかまた贅沢な暮らしに戻れると信じているかもしれない。だが、彼らが二度と私の人生に関わることはない。私は彼らを憎むことさえ、もうやめることにした。憎しみという感情すら、今の私にはもったいない。無駄な時間でしかないからだ。

私の物語はここで一旦幕を閉じる。しかし、それは終わりではなく、神崎みさという一人の女性が、真の自由を手に入れた、新しい人生の始まりだ。

翌朝、私は新しい会社のバッジを胸につけ、社長室の椅子に座った。窓から差し込む朝日は、昨日よりもずっと眩しく、そして温かかった。

「おはようございます、みさ社長。本日のスケジュールですが…」

秘書の明るい声が響く。私は微笑んで、新しい資料を広げた。そこには、私と仲間たちが共に作り上げる、希望に満ちた未来の設計図が描かれていた。もう、誰にも私を止めることはできない。本当のスカッとできる結末は、復讐を遂げた瞬間ではなく、こうして自分が自分らしく、最高に輝いて生きる日々の中にこそあるのだから。

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