頭から滴る水が、静かに床に落ちていく。目の前で腹を抱えて笑い転げる営業部長が、ペットボトルの水を俺に浴びせて言った。「おい、感謝しろよ。汚い作業着を、わざわざ俺が洗ってやったんだからな」。飲みかけの水を他人にかけておいて、平然と笑える神経が理解できなかった。水滴を拭いもせず、俺は怒鳴り声を上げた。「ここの社長に伝えろ。10億の取引は即刻中止だ」。部長は口を開けたまま、呆然と俺を見つめていた。そしてこれが、大波乱の幕開けだった。
俺は今井平という建設会社の社長だ。元々は祖父が個人で経営していた会社で、父が若くして亡くなった後、話し合いの末に俺が跡を継ぐことになった。大学を卒業してから祖父の下で働き、建設の仕事を頭と肌で覚えた。60歳になった今でも、現場仕事を精力的に続けている。
そんな中、ある契約の打ち合わせのため、取引先の企業を訪れることになった。その会社は業界では中堅だが、建物は現代的で、いかにも今時の会社という感じだ。開放的なロビーを抜けて受付で用件を告げると、5階の会議室に向かうように指示された。エレベーターで5階に上がり、扉が開いたその時だった。
ちょうど隣のエレベーターを待っていたらしい男性が、俺の姿を見るなり、その神経質そうな眉を思いきり歪め、不愉快そうな口調で吐き捨てた。「誰だ、お前? 汚いなあ」。その男性はじろじろと俺を見下すように眺めてくる。実は今日、この会社を訪れる前に急な現場仕事が入ってしまい、俺は作業着のままだったのだ。自社に着替えに戻ると約束の時間に間に合わない可能性があったため、このまま行くことにしたのだ。
男性の態度に腹が立ったが、まずは打ち合わせを優先しようと、俺は努めて冷静に名乗った。「今井です。契約の打ち合わせで参りました。受付で案内されたのですが」。しかし男性は鼻で笑って、「こんな格好で来るなんて、非常識にもほどがあるぞ。お前のような人間が、うちの会社に入れると思うな」と言い放った。俺はカバンから名刺を取り出したが、男性は受け取ろうともしなかった。
その時、隣のエレベーターが開き、中から別の男性が現れた。どうやらこの会社の役員のようだ。俺の姿を見るなり、顔色を変えた。「あ、今井社長! お待ちしておりました。どうぞどうぞ」。俺に丁寧に頭を下げ、先ほどの男性に「何をしているんだ。今井社長は、当社にとって大切なパートナーだぞ」と厳しい口調で言った。男性は驚いた顔で俺を見つめ、何も言えなくなった。
役員に案内されて会議室に入ると、そこには営業部長と、先ほど水をかけた男性の姿があった。部長は俺を見て、すぐに顔を強張らせた。「さっきは失礼しました。まさか社長だとは知らずに…」。俺は「いや、こちらの方もずいぶんお盛んだね」と皮肉を言ったが、心の中では怒りが収まっていなかった。
打ち合わせが始まり、契約内容の説明を受けた。しかし、俺の頭にはさっきの出来事がこびりついて離れない。説明を聞くふりをしながら、考えるのはあの無礼な態度のことばかりだ。10億の取引。それは確かに大きい。だが、この会社とこのまま付き合って、また同じことが起きるのはごめんだ。
説明が終わり、役員が「ご不明な点はありますか?」と尋ねた。俺はゆっくりと立ち上がり、全員を見渡して言った。「確かに、契約は素晴らしいものだ。しかし、私はここでの扱いに納得がいかない」。役員は驚いた顔をした。「何かございましたか?」。俺は先ほどの出来事を簡潔に話した。営業部長は青ざめ、水をかけた男性は下を向いた。
「私は、自社の社長として、そして一人の人間として、侮辱されたことに腹を立てています。この契約、一旦保留にさせてもらいます」。役員は必死に謝罪した。「今井社長、お詫びいたします。どうか、ご再考を」。しかし俺の気持ちは固かった。「気分を害したことは事実です。会社としてきちんとした対応をしていただけるなら、また話を伺います。今日はこれで失礼します」。
そう言って会議室を後にした。エレベーターに乗り、下の階で降りると、後ろから慌てた足音が聞こえた。「すみません、今井社長!」。振り返ると、先ほど水をかけた男性が、汗を拭いながら走ってきた。「あの、さっきは本当に申し訳ありませんでした。私の不明瞭な言動が、社長を怒らせてしまったのだと思います。どうか、お許しください」。
俺は彼を見つめた。彼の目は真剣だった。だが、許すかどうかは別問題だ。「あなたの言動は、私の会社に対する侮辱であり、私自身に対する侮辱でもあります。謝罪を受け入れますが、契約の再開は会社同士の誠実な対応があってからです」。そう言い残して、俺は会社を出た。
翌日、役員から電話があった。「昨日は大変失礼いたしました。関係者を処分いたしました。今井社長には、改めてお詫びを申し上げたいと思います。再契約について、一度お会いしてお話しさせていただけませんか?」。俺は考えた。この会社は、反省しているようだ。だが、俺の心の中のわだかまりは消えていない。
それから数日後、俺は取引先の会社に呼ばれて、役員と直に会った。役員は深々と頭を下げ、公式な謝罪文を差し出した。「これまでの不誠実な対応を、心よりお詫び申し上げます。今後は今井社長を、当社の最も重要なパートナーとして敬意を払います」。俺は謝罪文を受け取り、一言、「今度の契約は、白紙から話しましょう」と伝えた。
結果、取引は新たな条件で成立した。俺の会社との関係も、以前よりも良好なものになった。あの日、冷静さを失わずに対応したからこそ、相手に敬意を払わせることができたのだと思う。作業着のまま取引先に行くことは、今でもたまにある。だが、あの時の教訓を胸に、俺は誰に対しても、自分の値打ちを決して下げないと心に誓った。



