一緒に新幹線に乗るはずだった同僚が、私の席を取ったと言いながら、実際は自分だけグリーン車の切符を握っていた。 「俺はこっちで行くわ」 そう言われた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。でも、私は笑顔を崩さなかった。 「物忘れって、一度始まると進行早いって言うからね」 その一言で、彼の顔色が変わった。…

一緒に新幹線に乗るはずだった同僚が、私の席を取ったと言いながら、実際は自分だけグリーン車の切符を握っていた。 「俺はこっちで行くわ」 そう言われた瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。でも、私は笑顔を崩さなかった。 「物忘れって、一度始まると進行早いって言うからね」 その一言で、彼の顔色が変わった。...

私の名前は春がり保。31歳。都内の中堅企業で働く普通の会社員だ。特に目立つタイプではないけれど、気づけば周りに人が集まっていることが多い。先輩後輩問わずよく話しかけられるし、相談されることも少なくない。自分では特別なことをしているつもりはないけれど、「りほさんと話すと安心する」と言ってもらえるのは素直に嬉しかった。

昔から新しいものや知らないことに触れるのが好きだった。興味を持てばとりあえずやってみる。休日はふらっと知らない街を歩いたり、気になったカフェに入ってみたり、展示やイベントに顔を出したりする。計画をきっちり立てるより、その時の気分で動く方が性に合っている。周りからは「行動力があるね」と言われるけれど、私はただ楽しいからやっているだけだ。

人との距離感も大切にしている。心を開いた相手にはとことん優しくしたいし、困っている人がいれば放っておけない。仕事でも忙しそうな人がいれば自然と手を貸すし、後輩から相談されれば時間を作って話を聞く。しっかりとした人間関係を築けるのは単純に嬉しい。その一方で、自分の中にははっきりとした線引きもある。どれほど親しくしていても、「あ、もう無理だな」と思った瞬間、その人との距離は一気に離れる。周りに流されて関係を続けるタイプではないし、自分をすり減らしてまで誰かに合わせるつもりもない。冷たいと言われるかもしれないけれど、それが私の生き方だ。

まな道くんとは、同じ部署になってから仲良くなった。年下の彼は明るくて誰からも好かれるタイプで、私も自然と距離を縮めていた。彼が「席取っておくよ」と言ってくれた時は、ただ純粋に嬉しかった。新幹線での移動日、私は指定されたホームに立っていた。まな道くんが先に来ていて、手を振ってくれた。

「おはよう、春がり保さん」

「おはよう、まな道くん。今日はありがとうね、席取ってくれるって」

彼は一瞬、目をそらして軽く笑った。

「ああ、うん。まあ、そんな感じで」

何か変だなとは思ったけれど、深く考えなかった。改札を抜けて、新幹線に乗り込む。まな道くんは先に歩いて行き、私も後を追った。

ところが、彼が突然立ち止まった。私も足を止める。

「どうしたの?」

彼はこちらを振り返らず、ぼそっと呟いた。

「あ、そういえば……切符、間違えたかも」

「え?」

私は首を傾げた。まな道くんはポケットをごそごそ探って、切符を取り出した。それを見せてくれる。

「これ、グリーン車の指定席なんだよ」

「グリーン車? すごいじゃん、奮発したんだね」

私は笑ったけれど、彼の表情は固いままだった。

「いや、俺はこっちで行くわ」

そう言って、彼は普通車の方向へ歩き出そうとした。私は焦って声をかける。

「ちょっと待って、私の席は?」

まな道くんは足を止めて、面倒そうな顔で振り返った。

「君の席? そんなのないよ。そもそも取ってないし」

「え? だって、取ってくれるって言ったじゃん」

「言ったけどさ、忘れたんだよ。物忘れって始まると進行早いからね」

彼はそう言って、軽く笑った。でもその笑顔は、私にはすごく嫌なものに見えた。

私は一瞬、言葉を失った。驚きと悲しさで、胸がぎゅっと締め付けられる。それでも、すぐに気持ちを落ち着けた。私は深く息を吸って、静かに言った。

「そっか。仕方ないね。物忘れって、一度始まると進行早いって言うから」

まな道くんの顔色が変わった。ぎゅっと眉間にしわが寄る。

「は? 何言ってんの?」

「別に、そういうこともあるよねって話」

私は軽く肩をすくめた。まな道くんはこちらを睨みつけ、舌打ちをした。そして荷物を持って、さっさと車両の奥へ歩いていった。

私はその背中を、ただ見送った。

あの時、私は理解した。彼は最初から私の席を取るつもりなんてなかったんだと。私をからかうつもりだったのか、それとも本当に忘れたのかはわからない。でも、私の中で何かがぷつんと切れたのを感じた。

それ以来、まな道くんとの距離は静かに広がっていった。私は彼に笑顔を向けることはなくなったし、彼も気まずそうに目をそらすようになった。周りの人たちは何かあったのかと聞いてきたけれど、私は「ちょっとね」と流した。

それから数週間後、まな道くんが別の部署に異動することになった。送別会の日、彼は私のところへ来て、少し気まずそうに言った。

「あの時はごめん。俺、ひどいことしたよな」

私は微笑んで、こう答えた。

「いいよ、もう忘れた」

彼はホッとしたように笑ったけれど、私は本当に忘れていたわけじゃなかった。ただ、どうでもよくなったんだ。あの瞬間から、彼は私の中では「終わった人」になっていた。

私はこれからも変わらない。新しい出会いを大切にし、心を開いた人には優しくする。でも、一度「無理だ」と思ったら、その関係はそこで終わり。それが私の選んだ生き方だ。

今日も私は、自分の道を歩いていく。他人のために無理をする必要なんて、どこにもないのだから。

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