朝の商店街はまだ眠そうな顔をしていた。向かいの八百屋が水を撒く音。隣の薬局のシャッターが上がる金属音。その奥から漂ってくる味噌汁の匂い。どれも俺がこの町を出た30年前とほとんど変わっていない。
俺の名前は田所誠、歳。ここから電車で1時間半ほど離れた大学病院で、ほんの半年前まで外科医をしていた。新聞には「医療ミスで患者を死亡させた医師」と書かれていた。病院は俺を切り捨て、世間も俺を切り捨てた。
俺が行き着いたのは、生まれ育ったこの商店街の小さな空き店舗だった。
入口のガラス戸には、自分で書いた紙が貼ってある。
「ここは医療相談室。診療はいたしません。血圧測定・健康相談のみ承ります」
上手くない字だ。それでも、あの日のことはよく覚えている。あの日、俺は何度も書き直して、ようやく筆を置いた。「診療はいたしません」の「し」の字を書くのに、随分と時間がかかった。
ガラス戸の向こうを、ランドセルを背負った子供たちが走り抜けていく。その後ろから、白衣を着た若い女性が歩いてくる。隣の薬局の薬剤師、秋月さんだ。彼女は俺の店の前で一度立ち止まり、軽く会釈してから自分の店に入っていった。
椅子が2脚、折りたたみの机が1つ。壁には血圧の表と食事のバランスを示したポスター。それだけの部屋だ。俺はその机の前に座って、誰も来ない時間をただ静かに待つ。
午前10時を回った頃、ガラス戸を勢いよく開けたのは、町内会長の原田さんだった。68歳になる。
「田所さん、ちょっといいかね?」
「どうぞ。お茶でも入れましょうか?」
「いらん。長居はせんよ」
原田さんはパイプ椅子に腰を下ろさなかった。立ったまま店の中をぐるりと見回す。血圧計、体温計、健康ポスター。そして机の隅に置かれた古い革のバッグ。彼の視線がそこで止まる。
「あんた、本当に診療はせんのかね?」
「しません。看板に書いた通りです」
「なら、なぜわざわざ医療相談室なんて名前にした。健康相談所でいいじゃないか」
「ご指摘の通りです。考えてみます」
「考えるな。帰ろう。商店街には商店街の付き合いがある。下手なことをして、近所の連中と揉められちゃ困るんだ」
ぶっきらぼうな言い方だった。言葉の端々にはっきりと棘がある。俺は黙って頷いた。
「あんたの噂は聞いとる。新聞に載ってたこともな」
「はい」
「俺はあんたを信用しとらん。だが、商店街の組合員として空き店舗を借りてくれた以上、家賃の分くらいは挨拶に来た。それだけだ」
こう言って、原田さんは出ていった。俺は深く息を吐いた。椅子の背もたれに体を預ける。
しばらくすると、隣からノックの音がした。秋月さんだった。小さな紙袋を手にしている。
「すみません。これ、血圧計のカフ、古いのを使ってらっしゃるみたいだったので、うちで余ってたものを」
「いや、それは申し訳ない。お代は払います」
「いいんです。期限の近い在庫整理ですから」
彼女はそう言って紙袋を机の上に置いた。それから、ためらうように一呼吸置いて口を開く。
「会長さん、何かおっしゃってましたか?」
「商店街の作法を教えに来てくださいました」
「あの人は口は悪いんですけど、悪い人じゃないんです。気にしないでください」
「ええ、気にしていません。むしろはっきり言ってくれる方が助かります」
秋月さんは少しだけ笑った。笑うと目元が柔らぐ。彼女がこの商店街で薬局を継いだのは3年前だと聞いた。父親が倒れ、東京の病院の薬剤師をやめて戻ってきたのだという。詳しいことは知らない。俺も聞かない。
「もしお薬のことで相談を受けたら、うちに回してくださって構いませんから」
「助かります。こちらこそよろしくお願いします」
秋月さんは軽く頭を下げて店を出ていった。
夜になった。商店街のシャッターが次々と降りる。俺は店の奥の小さな部屋に布団を敷いた。住居も兼ねている。台所とトイレと風呂。それで足りる。
電気を消す前に、俺は押し入れの奥から古い革のバッグを取り出した。医学生の頃から使っているものだ。革はすり切れ、持ち手の縫い目はほつれている。中には聴診器、メス、縫合糸。全て自前で買い揃えた、俺の手に馴染んだ器具たちだった。
最後にこれを開いたのは、半年前のあの夜だ。洗浄して消毒して布に包んで、それきり蓋をした。もう使わないと決めたからだ。
机の上に置いて、しばらく見つめた。あの日のことが頭の中をよぎる。
緊急手術。消化管感染症の患者。執刀は理事長の息子の黒川周一だった。彼は手術の途中で明らかな判断ミスをした。俺は第二助手として入っていた。気づいた俺は黒川に指示したが、彼は譲らなかった。結局、俺が代わってメスを握り、患者を救おうとした。だが、間に合わなかった。
カンファレンスで、俺は事実を述べた。黒川の判断ミスがあったこと、自分が途中で代わったこと、その上で患者を救えなかったこと。全て記録に残るよう淡々と話した。それが間違いだった。
翌日、病院は俺一人を医療ミスとして扱い、全ての責任を俺に負わせた。黒川の名前はどこにも出なかった。
俺は反論しなかった。反論しても勝てる相手ではなかった。理事長の息子と、地方出身の中堅医師。
俺は革のバッグの蓋をそっと指でなぞった。中を開ける気にはなれない。あの器具たちを見たら、また自分が医者であることを思い出してしまう。
「もういいんだ」
独り言が暗い部屋に落ちた。逃げているのかもしれない。俺はバッグを押し入れに戻し、蓋をピシャリと閉めた。布団に横になり、天井を見上げる。古い木目が薄暗い豆電球の光に浮かんでいた。
風が強くなり始めたのは、夕方の4時を回った頃だった。ガラス戸がガタガタと音を立て、軒先のビニール幕が大きく波打っている。俺は店の前に出していた血圧計の案内板を中にしまい、シャッターを半分まで下ろした。
商店街のあちこちで同じような作業が始まっていた。向かい側のクリーニング店はもう明かりを消していた。町内会長の原田さんが、傘も差さずに通りを歩いてくる。拡声器を片手に、店から店へと声をかけていた。
「早めに閉めなさい。警報が出てるよ。川の方は氾濫しとるから、出歩かんように」
俺の店の前で、原田さんは一瞬足を止めた。目があった。会釈だけして去っていった。
隣の薬局からはまだ明かりが漏れていた。秋月さんが店じまいをしながら、最後の客に薬剤を渡している姿が見える。俺はシャッターを完全には下ろさず、店の中で一人ラジオをつけた。
雨足が急に強くなる。屋根を打つ音が太鼓のように響いていた。
時計の針が7時を回ると、外はもうほとんど真っ暗だった。俺は湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作ろうとしていた。ちょうどその時だった。
ガラス戸が叩きつけるように開いた。鈴が壊れそうな勢いで鳴った。
「先生、先生、いますか?助けてください」
男が一人、ずぶ濡れのまま転がり込んできた。腕の中に小さな子供を抱えている。女の子だった。額から顎まで血が筋になって流れ落ちている。子供の白いブラウスが半分以上赤く染まっていた。
俺は反射的に立ち上がった。体が自分でも驚くほど素早く動いていた。
「机の上に寝かせてください。早く」
「家に帰る途中で、風で看板が…うちの娘が…」
「お父さん、落ち着いてください。まず娘さんを寝かせて、深呼吸して」
男は震える手で娘を机の上に下ろした。俺は男の顔を見た。作業着を着ている。40前後だろうか。顔面は蒼白で、唇が紫になっていた。
「救急車は呼びました。呼んだんですけど、川向こうの道路が氾濫して、こっちに回ってくるのに1時間以上かかるって」
「1時間…」
俺は少女の額に清潔なガーゼをそっと押し当てた。傷は深い。眉の上から髪際にかけて5センチほど。出血の量と勢いから見て、皮膚の下の動脈が一本切れている。このまま圧迫だけで1時間持たせるのは難しい。
少女の目は半分閉じかけていた。頬を軽く叩く。
「お嬢ちゃん、聞こえるかな?名前は?お名前教えてくれる?」
「ゆい…村瀬ゆい」
「ゆいちゃんか。よし。いい子だ。ちょっとだけ我慢な。お父さんがそばにいるからな」
声は自然に出ていた。半年間、誰の傷も見ていなかったはずの俺の口から、あの頃と同じ調子の言葉が出ていた。
ガラス戸がまた開いた。今度は秋月さんだった。店の物音に気づいて駆けつけてくれたらしい。彼女は一瞬息を飲んだが、すぐに表情を引き締めた。
「先生、何が必要ですか?」
「メス、ガーゼ、消毒液、生理食塩水。できれば局所麻酔。あとは清潔なタオルをあるだけ」
「すぐに持ってきます」
秋月さんは雨の中、自分の店へ走っていった。入れ替わるようにシャッターを叩く音がした。原田さんが外から覗き込んでいた。
「田所さん、あんた、まさか…」
「会長、申し訳ありません。救急車が間に合わないんです」
「だがあんたは診療しないと」
「ええ、しないと決めていました」
机の上でゆいちゃんが小さくうめく。血がガーゼの上をまた赤く染めていく。父親の村瀬さんは娘の手を握ったまま、声を殺して泣いていた。
「あんた、どうするつもりだ?」
「会長、この子の出血を止めなければ1時間は持ちません。私は目の前の命を見捨てることはできません。後で何を言われても構いません。全て私の責任です」
原田さんは何も言わなかった。唇を結び、ぎゅっと拳を握って、俺の机の脇に立っていた。
俺は奥の部屋へ走った。押し入れの蓋を開ける。革のバッグが、半年間の沈黙のままそこにあった。あの夜、二度と開けないと決めたバッグだ。
俺は持ち手を掴んだ。指がわずかに震えた。
俺はバッグを抱えて机の方へ戻った。机の上で布を広げた。聴診器、メス、縫合糸。秋月さんが戻ってきた。両腕いっぱいに薬剤と布類を抱えている。
「先生、リドカインの1%ありました。ガーゼも食塩水も。手袋はサイズ違いですが、未開封です」
「十分です。秋月さん、補助に入ってもらえますか?傷の洗浄から始めます」
「はい」
「お父さん、申し訳ないが、ゆいちゃんの足元の方に立って、声をかけ続けてあげてください。眠らせないでください」
「あ、はい。ゆい、ゆい、お父さんだぞ。聞こえるか?ゆい」
手袋をはめる。パチンと乾いた音がした。その音だけで、体の奥に忘れていたはずの何かが戻ってくる。
生理食塩水で傷口を洗う。血と泥を流し、傷の深さを確かめる。皮下組織に達しているが、骨膜は無事だ。動脈の切断面が脈に合わせて拍動している。
俺は局所麻酔をゆっくりと打った。
「ゆいちゃん、ちょっとチクッとするよ。すぐ終わるからね。お父さんの手をぎゅっと握ってな」
「うん」
秋月さんが俺の手元に光を当ててくれていた。薬局から持ってきた小さなペンライトを、絶妙な角度で構えている。
縫合器を握る。針を構える。最初の一針を入れた。メスではなく針。それでも、これは紛れもなく医者の手仕事だった。
一針、二針、三針。動脈の止血をまず確実に行い、それから皮下を寄せ、最後に皮膚を縫合していく。出血が少しずつ落ち着いていく。
最後の一針を結び終えて、糸を切った。傷口に薄くガーゼを当てる。ゆいちゃんの顔色が少しずつ戻ってきていた。
「もう大丈夫です。出血は止まりました。あとは病院で詳しい検査を受けてください」
「先生、先生、ありがとうございます。ありがとうございます」
村瀬さんは机に体を擦りつけるようにして、何度も頭を下げた。俺は何も答えられなかった。ただ、自分の手を見ていた。半年間、誰の傷にも触れなかったこの手を。
遠くからサイレンの音が近づいてきた。原田さんがようやく長い息を吐いて、俺の方を見た。その目から朝の険しさは消えていた。
俺は手袋を外した。指がまだわずかに熱を持っている。
翌朝、商店街は嘘のように静かだった。空は薄い水色をしていて、昨夜の風が嘘のようだ。俺はいつも通りの時間に起き、シャッターを上げ、店の前に水を撒いた。
向かいの八百屋が顔を出した。
「田所さん、聞いたよ。夕べ、村瀬さんとこの娘さんを助けたって」
「いえ、応急処置をしただけです」
「それでも大したもんだ。ありゃ普通の人にはできんことだよ」
俺は曖昧に笑って、また箒を動かした。褒められることにまだ慣れていない。半年間、俺の名前は新聞の見出しの中にしかなかった。そこに書かれていたのは、全て悪意の言葉だった。
しばらくすると、商店街の入り口の方から男の声が響いてきた。村瀬さんだった。作業着のまま、人々の間を歩いてくる。
「みんな聞いてくれ。うちのゆいがな。ゆいが助かったんだ。田所先生のおかげだ」
歩きながら、出会う人一人一人に頭を下げ、また顔を上げて言葉を続ける。
「病院の先生がな、応急処置が完璧だったって言ってくれたんだ。あのまま運ばれてたら危なかったかもしれんって。田所先生は本物の医者だ」
商店街の人々が店先から顔を出した。八百屋の女将さんも、クリーニング店の主人も、みんな黙って村瀬さんの声を聞いていた。
俺は店先に立ち尽くした。村瀬さんは俺の前まで来ると、深く深く頭を下げた。
「先生、本当に、本当にありがとうございました」
「頭をあげてください、村瀬さん。ゆいちゃんが無事で、それが何よりです。お父さんがずっと声をかけ続けてくれたから、あの子も頑張れたんですよ」
村瀬さんは目元を作業着の袖で拭って、何度も頷いた。
昼を過ぎた頃、店のガラス戸が開いた。会長の原田さんだった。手には紙袋を下げている。
「田所さん、ちょっといいかね?」
「どうぞ。お茶を入れます」
「今日はいただこう」
俺は湯呑みを二つ机の上に並べた。黙って茶を差し出した。
「田所さん、疑って悪かった」
短い言葉だった。飾りもなかった。
「俺は新聞の記事だけ見て、あんたを判断しとった。商店街の作法だなんだと、偉そうに説教までした。情けない話だ」
「会長、頭をあげてください。あなたが警戒されたのは当然のことです。新聞に書かれたのは私の名前ですから」
「だがな、夕べ、あんたが手を動かしとる姿を俺は見ちまった。あれは悪いことをした人間の手じゃない。命に向き合ってきた人間の手だ。そのくらい俺にも分かる」
原田さんは紙袋を俺の方に押し出した。
「うちの女房が作った稲荷寿司だ。大したもんじゃないが」
「ありがたくいただきます。奥様にもよろしくお伝えください」
原田さんは小さく頷いて、湯呑みの茶を飲み干した。立ち上がりかけて、ふと思い出したように言った。
「看板のことだがな。医療相談室のままでいいんじゃないかね。あんたに合っとるよ」
そう言って、原田さんは出ていった。
午後になると、商店街の人々がぽつりぽつりと店を訪れ始めた。風邪をひいた老人。膝の痛みを相談しに来た女将さん。孫の食事のことで悩む人。
俺は一人一人の話を聞き、できる範囲で答え、必要なことは病院や秋月さんの薬局に繋いだ。
夕方、秋月さんが新しい血圧計のカフを持って入ってきた。
「これ、うちの取引先から取り寄せました。今度はちゃんとお代をいただきますからね」
「もちろんです。これからは正規の値段でお願いします」
「先生、夕べはお疲れ様でした」
「秋月さんがいなかったら、俺一人では無理でした。あのペンライトの角度、見事でしたよ」
「東京でオペ室の見学をさせてもらった経験があるだけです。先生こそ、あの状況であの落ち着き。私、震えるくらい安心しました」
彼女は少しはにかんで、店を出ていった。
その晩、一通の手紙が届いた。差出人を見て、俺は短く息を吐いた。黒川周一。あの夜、判断を誤った男からだった。
便箋には丁寧な字で、復職の打診が書かれていた。理事長が代わること。半年前の件は院内で再調査が始まっていること。外科部長のポストを用意できる可能性があること。最後に、当時のことを謝罪する言葉が短く添えられていた。
俺は便箋を二度読んで、机に置いた。窓の外で商店街の街灯が一つ、また一つと灯っていく。
半年前の俺なら、この手紙にどれほどすがったか分からない。名誉を取り戻したい。汚名を晴らしたい。もう一度あの手術室に立ちたい。そう願っただろう。
だが、今、心は静かなままだった。
俺はペンを取り、返事を書いた。
「復職のお話は辞退させていただきます。私には、今いる場所があります」
封筒に入れて、投函した。それで終わりだった。
翌日の夕方、商店街の入り口の方から子供の声が聞こえた。
「先生」
額に大きな白いガーゼを貼ったゆいちゃんが、村瀬さんと手を繋いで歩いてくる。退院したばかりだという頬は、元気な赤みを取り戻していた。
俺の前まで走ってきて、ゆいちゃんは深々とお辞儀した。
「先生、ありがとうございました。お父さんが、先生のおかげで助かったって、何回も言うの」
「ゆいちゃんがよく頑張ったからよ。お父さんの声をちゃんと聞いてたからな」
「先生、これ、お礼がしたいんです」
差し出されたのは小さな包みだった。受け取って、礼を言った。ゆいちゃんはもう一度大きく手を振って、父親と一緒に商店街を歩いていった。
俺は箒を持ったまま、しばらくその後ろ姿を見送った。隣の薬局から、秋月さんがそっと顔を出して、同じ方向を見ていた。
会長の原田さんが商店街の奥から歩いてくる。俺と目が合うと、何も言わずに軽く右手を上げた。
俺は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと茶を入れた。湯気がまっすぐに立ちのぼっていく。
俺の医療は、ここからまた静かに始まっていく。



