面接官の一人が、私の母の名前を聞いた瞬間、会長の顔が真っ青になった。手に持っていたペンが床に落ちる音が、静まり返った会議室に響いた。「す、鈴木し子……」震える声で繰り返す会長。私はただ戸惑うだけだった。なぜ母の名前が、大企業の会長をここまで動揺させるのか。その日の夜、病院で母の寝言を聞いた。「賢介さん、ごめんなさい」その名前を母が口にするのは、初めてだった。翌日、私は再び会社に呼ばれ、会長室…

面接官の一人が、私の母の名前を聞いた瞬間、会長の顔が真っ青になった。手に持っていたペンが床に落ちる音が、静まり返った会議室に響いた。「す、鈴木し子……」震える声で繰り返す会長。私はただ戸惑うだけだった。なぜ母の名前が、大企業の会長をここまで動揺させるのか。その日の夜、病院で母の寝言を聞いた。「賢介さん、ごめんなさい」その名前を母が口にするのは、初めてだった。翌日、私は再び会社に呼ばれ、会長室...

未来エレクトロニクス本社33階の大会議室。最終面接の最中、応募者の女性が自分の母親の名前を口にした瞬間、面接官5人の表情が一斉に凍りついた。特に中央に座っていた斎藤賢介会長の顔は、まるで幽霊でも見たかのように青ざめていた。

「お母様のお名前が鈴木し子さんとおっしゃいましたが……」

会長の震える声に、会議室の空気が張り詰めた。木村部長をはじめとする他の役員たちは、訳が分からないまま会長と応募者を交互に見つめるだけだった。

時間を数日前に戻そう。

鈴木み咲はその日も午前5時に目を覚ました。狭いワンルームの窓の向こうには、まだ夜が明けきらない空が広がっていた。机の上には、昨夜遅くまで整理した面接準備の資料が山積みになっている。未来エレクトロニクスの最終面接まで、残された時間はちょうど3日。

彼女は静かに起き上がり、キッチンへ向かった。お湯を沸かしながら、リビングの一角に置かれた母の写真を眺めた。

「お母さん、今度こそきっとうまくいくよ」

写真の中の母は、いつものように温かい微笑みを浮かべていた。

み咲の一日はいつも時間に追われていた。朝6時、彼女はすでに図書館の閲覧室の前に立っていた。開館まで30分もあるのに、すでに列をなしている人々が十数人見える。皆、彼女のように切実な思いを抱えた人々なのだろう。

図書館が開くと、み咲は慣れた足取りで3階の就職活動生専用閲覧室へ向かった。窓際の席に日差しが入るその場所が彼女の指定席だった。鞄から取り出した古いノートパソコンを開くと、画面には未来エレクトロニクスの企業分析資料がびっしりと整理されていた。過去5年間の売上推移、主要事業分野、経営哲学、そして斎藤賢介会長のインタビュー記事まで。

彼女は特に斎藤賢介会長に関する資料を丹念に読み込んだ。裸一貫から大企業を築き上げた立志伝中の人物。しかし、私生活に関する情報はほとんどなかった。現在の夫人と2人の息子がいること。そして20年前に再婚したという短い記述がすべてだった。

昼休みになると、み咲は閲覧室を出てコンビニへ向かった。おにぎりとカップラーメン。いつもと同じメニューだったが、彼女にとってはこれすらも贅沢だった。コンビニのイートインスペースに座り、おにぎりを食べていると電話が鳴った。友人・里子からだった。

「みさ、ちょっと無理しすぎじゃない? たまには休みながらやってもいいんじゃないの?」

み咲は淡々と答えた。

「時間がないの。お母さんが手術してから、病院代がかかり続けてる。今回のチャンスを逃したら、本当にどうしていいかわからなくなる」

里子はため息をつきながら言った。

「それでも体だけは大事にしてよ。倒れたら元も子もないんだから」

電話を終えたみ咲は、再び閲覧室に戻った。午後はずっと模擬面接の動画を見ながら想定問答を整理した。

「なぜ当社を志望したのですか?」
「ご自身の強みは何ですか?」
「10年後、どのような姿でありたいですか?」

ありふれた質問だったが、彼女は真心を込めて回答を準備した。

夜9時、み咲は母が入院している病院へ向かった。バスを2度乗り継いで到着した病院。3階の病室へ上がる彼女の足取りは重かった。病室のドアを開けると、母が嬉しそうに迎えてくれた。

「だいぶ良くなったから、心配しないで」

しかしみ咲は分かっていた。母の顔が昨日よりもやつれていることを。

母が尋ねた。

「面接の準備は順調?」

み咲は明るく答えた。

「うん。今度は本当に自信があるの。絶対合格して、お母さんをもっと良い病院に移してあげるから」

母は娘の手を固く握りながら言った。

「あまり無理しないでね。健康が一番大事なんだから」

そして少し躊躇してから、慎重に口を開いた。

「みさ、お母さんごめんね。あなたをお父さんもいないのに……」

み咲は首を横に振った。

「そんなこと言わないで。お母さん、一人でも十分に立派に育ててくれたじゃない」

しかし母の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。まるで古い秘密を抱えた人のように、何か言いたげな様子だったが、結局口を閉ざした。

病院を出たみ咲は、家に着くと夜11時を過ぎた頃、机に向かい、明日行われる勉強会の準備を始めた。窓の外には都会の灯りがきらめいている。あのたくさんの光の中に、果たして自分の居場所はあるのだろうか。そんな思いがよぎるたびに、み咲は一層熱心に勉強に打ち込んだ。

午前1時、彼女はようやくベッドに入った。明日も5時に起きなければならなかったからだ。

面接2日前。み咲は丸の内で行われた面接の勉強会に参加した。カフェの2階にあるスタディルームには、すでに5人の就活生が集まっていた。全員、未来エレクトロニクスの最終面接を控えた人々だった。ライバルでありながら同志でもあるという奇妙な関係だった。

模擬面接が始まった。一人ずつ交代で面接官役と応募者役を務める。み咲の番になると、他のメンバーの視線が集中した。

最初の質問が投げかけられた。

「人生で最も辛かった瞬間と、それをどう乗り越えたか話してください」

み咲は一息ついて答えた。

「大学3年生の時、母が倒れた時です。手術費用を稼ぐために大学を休学し、手当たり次第にアルバイトをしました。コンビニの夜勤、家庭教師、翻訳のアルバイトまで。1日に4時間も眠れない日々でしたが、母のためならと頑張れました」

メンバーたちは静かに耳を傾けていた。頷く者もいれば、痛ましそうな表情を浮かべる者もいた。

2つ目の質問が続いた。

「未来エレクトロニクスで成し遂げたい目標は何ですか?」

み咲の答えは明確だった。

「安定した職を得て、母に良い治療を受けさせてあげることが第一の目標です。そして会社では、海外マーケティングの専門家として成長したいです。英語と中国語が話せるという自分の強みを生かし、会社のグローバル展開に貢献したいと思っています」

模擬面接が終わった後、メンバーたちは互いにフィードバックを交わした。一人が言った。

「鈴木さんの回答は素晴らしいけど、あまりに正直すぎて、かえって弱点になるかもしれない。大企業はもっと計算された答えを求めると思う」

別の人が付け加えた。

「特に斎藤会長は気難しいことで有名だから。去年最終面接で落ちた先輩の話だと、会長自らが出てきて圧迫質問をしたらしい。個人的な質問も平気でするって」

み咲はメモを取りながら聞いていた。しかし心の片隅では思っていた。取り繕った答えより、真心を伝える方が正しいと。どのみち嘘は長くは続かないのだから。

勉強会が終わった後、み咲は家に帰らず、会社の建物を直接見に行った。未来エレクトロニクスの本社ビルは丸の内のど真ん中にそびえ立っていた。ガラス張りの外壁が夕日を浴びて黄金色に輝いている。ビル前の広場には、退社する社員たちが溢れ出ていた。きちんとしたスーツ姿の彼らは、自信に満ちているように見えた。

み咲は彼らの中に立ち、思った。数日後にはあの人たちと一緒に働いているかもしれない。あるいは永遠にこことは縁がないかもしれない。

その時、黒いセダンがビルの前に止まった。車から降りてきたのは斎藤賢介会長だった。写真でしか見たことのなかった彼の実際の姿は、さらにカリスマ性があった。会長は秘書たちを従え、ビルの中へと入っていった。み咲は遠くからその姿を見つめた。あの人が自分の運命を決める人なのだと思うと、緊張が走った。

家に帰ったみ咲は母に電話をした。母は元気のない声で電話に出た。今日の検査結果があまり良くなかったとのことだった。医師から新しい治療法を提案されたけれど、費用が相当なものだと。

み咲は努めて明るい声で言った。

「心配しないで。今回の面接で絶対合格するから。そうすれば全部解決するから」

母はため息をつきながら言った。

「私があなたをあまりに苦しめているようで、胸が痛いわ。もし私がいなければ、あなたがこんなに苦労しなくても済んだのに」

み咲は「そんなこと言わないで。お母さんがいるから、私は頑張れるんだよ」と答えた。

電話を終えた後、み咲は鏡の前に立った。面接用のスーツを着て練習した。

「おはようございます。鈴木み咲です」
「はい、お聞かせください」
「ありがとうございました」

同じ言葉を何十回も繰り返した。表情や声のトーンまで細かく調整しながら練習した。夜が更けるにつれて、緊張感は増していった。窓の外からは雨音が聞こえてくる。天気までもが彼女の心を映しているようだった。

み咲は机の引き出しから古い手帳を取り出した。その中には母と撮った写真が挟んであった。幸せだった頃、まだ母が元気だった頃の写真だった。写真を見ながらみ咲は誓った。必ず合格して、母をもう一度笑顔にさせて見せると。それが唯一の目標なのだと。

午前2時、み咲は最後に会社の資料をもう一度見返した。斎藤賢介会長の経営哲学、未来エレクトロニクスのビジョン、最近の事業動向まで。彼女のノートには赤ペンでのメモがびっしりと書かれていた。特に斎藤賢介会長がインタビューで語った言葉が大きく記されていた。

「誠実さのない人間はすぐに見抜かれる。私は賢い人材より真実の人間を求める」

み咲はその一文を何度も読み返した。そして決心した。どんな質問が来ても、真心で答えようと。それが自分にできる最善なのだと。

ついに運命の日が明けた。み咲は午前4時に目を覚ました。緊張でよく眠れなかったのだ。窓の外はまだ真っ暗だったが、彼女はすぐに起き上がり準備を始めた。シャワーを浴び、スーツに着替えたみ咲は鏡の前に立った。髪をきっちりと結び、最低限の化粧だけをした。派手すぎず、地味すぎないように。

午前7時、み咲は家を出た。面接は午前10時だったが、万が一に備えて早めに出発した。地下鉄の中は通勤する人々でごった返していた。み咲は隅に立ち、最後に準備した資料を読み返した。しかし文字が目に入ってこない。心臓があまりにも早く鼓動していたからだ。

丸ノ内駅に到着したみ咲は、近くのカフェに入った。まだ1時間半も時間があった。温かいお茶を注文し、窓際の席に座った彼女はスマートフォンを取り出した。母にメッセージを送った。

「面接頑張ってくるね。心配しないで」

すぐに返事が来た。

「母は頑張って。あなたならきっとできるわ」

9時30分、み咲は未来エレクトロニクス本社ビルへと向かった。ロビーにはすでに多くの応募者が集まっていた。皆、緊張した面持ちだった。み咲は受付で番号札を受け取り、待合室へと移動した。待合室には20名ほどの応募者がいた。静かな中に緊張感が漂っている。時折聞こえる咳払いだけが静寂を破っていた。

10時ちょうど、社員が入ってきて案内を始めた。

「これより最終面接を開始します。お一人ずつお名前をお呼びしますので、33階の大会議室へ移動してください」

最初の応募者が呼ばれた。彼が立ち上がって出ていく姿を、誰もが緊張した面持ちで見つめた。時間が流れ、み咲の番が近づいてきた。前の応募者たちは大体20分から30分ほど面接を受けて出てくる。ある者は明るい表情で、ある者は暗い顔をしていた。

「鈴木み咲様、お入りください」

ついに彼女の名前が呼ばれた。み咲は深く息を吸い込み、立ち上がった。エレベーターで33階に上がる間、彼女は心の中で繰り返した。真心を伝えよう。飾らず、ありのままの自分を。

エレベーターのドアが開くと、広い廊下が現れた。案内係の社員に従い、廊下の突き当たりにある大会議室へと向かった。ドアを開けて入ると、5人の面接官が横一列に座っているのが見えた。しかし中央に座っている人物を見て、み咲は息を呑んだ。斎藤賢介会長だった。直接面接に参加するという噂は聞いていたが、いざ対面すると、その存在感に圧倒されそうだった。

「おかけください」

木村部長の案内に従い、み咲は面接官たちの向かいの椅子に座った。最初の質問は人事部長からだった。自己紹介をしてくださいという基本的な質問だった。み咲は落ち着いて準備してきた内容を話した。自分の名前、経歴、そしてなぜ未来エレクトロニクスを志望したのかを。

続いてマーケティング部長が質問した。海外市場進出戦略に関する見解を問う専門的な質問だった。み咲は東南アジア市場を例に挙げ、具体的な戦略を提示した。現地化の重要性、文化的な違いへの理解、そして長期的な視点の必要性を理路整然と説明した。面接官たちは頷きながらメモを取っていた。

その時、斎藤賢介会長が初めて口を開いた。

「鈴木さん、お父さんは何をされていますか?」

予期せぬ質問にみ咲は一瞬戸惑った。しかしすぐに落ち着いて答えた。

「私には父はおりません。母が一人で私を育ててくれました」

会長の目差しが微妙に変わった。何かをさらに聞きたげだったが、しばらく沈黙した。

「お母さんはどのようなお仕事を?」

み咲は答えた。

「小さな食堂を営んでおりましたが、今は体調を崩しており、休んでおります」

会長が再び尋ねた。

「お母様のお名前は何とおっしゃいますか?」

奇妙に個人的な質問だったが、み咲は答えた。

「鈴木し子と申します」

その瞬間、会議室の空気が凍りついた。斎藤賢介会長の顔がまたたく間に青ざめた。手に持っていたペンを落とすほど衝撃を受けたようだった。

「す、鈴木し子……」

会長の震える声に、他の面接官たちも驚いた表情を浮かべた。木村部長は会長とみ咲を交互に見ながら、状況を把握しようとしていた。み咲も戸惑った。なぜ母の名前を聞いてこのような反応をするのか、理解できなかった。

会長はしばらくしてようやく正気を取り戻し、訪ねた。

「お母様のご出身はどちらですか?」

「静岡です」

会長の表情がさらに硬直した。まるで過去の亡霊と対峙したかのような表情だった。

「もしやお母様は、25年ほど前に東京で働かれていたことはありますか?」

み咲は頷いた。

「はい。母が若い頃、東京の会社で働いていたと聞いております。ですが詳しい話はしてくれませんでした」

会長は立ち上がった。他の面接官たちが驚いて見つめる。

「少し休憩にしよう」

彼はよろめきながら会議室を出ていった。木村部長が慌てて後を追った。残された面接官たちは戸惑った表情で互いを見つめ合った。み咲も同じだった。一体何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。

会議室には気まずい沈黙が流れた。残された面接官たちは互いに顔を見合わせ、ささやき合った。人事部長がマーケティング部長に静かに尋ねる。

「部長がどうしてあんな風に?」

マーケティング部長も首を横に振るばかりだった。み咲は不安な気持ちで座っていた。自分が何か言い間違えたのではないか。なぜ母の名前を聞いてあのような反応をされたのか、全く理解できなかった。

10分ほど経っただろうか。木村部長が再び入ってきた。表情は複雑そうだった。

「申し訳ありません。部長が体調ができたとのことです。面接は我々で続けさせていただきます」

しかし雰囲気はすでに壊れてしまっていた。残された面接官たちも集中できていないようだった。形式的な質問をいくつかした後、面接は終了した。み咲は疲れ果てながら混乱していた。面接を台無しにしてしまったような気分だった。しかし自分が何をしでかしたのかは分からなかった。

その時、スマートフォンが鳴った。病院からの電話だった。看護師が言った。

「お母様の容態が良くないので、急いで来てください」

み咲はタクシーを拾い、病院へと駆けつけた。面接の結果など、すでに頭の中から消え去っていた。病室に着くと、母は酸素マスクをつけて横たわっていた。医師が説明した。突然呼吸困難に陥ったが、幸い今は安定を取り戻したと。しかし状態が悪化しており、早急な治療が必要だと。

み咲は母の手を固く握った。母はようやく目を開けた。

「面接はどうだった?」

母の最初の言葉は、娘を心配するものだった。み咲は涙をこらえ頷いた。

「うん。うまくいったよ。きっと合格すると思う」

母は安心したように微笑んだ。そして何かを言おうと口を開いたが、咳き込んでしまい、言葉を続けることができなかった。

一方、未来エレクトロニクスの会長室では、斎藤賢介が窓の外を眺めていた。木村部長が慎重に尋ねた。

「会長、大丈夫でございますか? 先ほどの面接では……」

斎藤賢介は首を横に振った。その目には複雑な感情が宿っていた。

「木村君、25年前を覚えているかね?」

木村部長は首をかしげた。

「25年前と申しますと、会長が事業を始められたばかりの頃でございますね」

会長は続けた。

「あの頃、私には愛する女性がいた。鈴木し子という名の」

木村部長は驚いた表情を浮かべた。会長の過去の恋愛沙汰は、徹底的にベールに包まれていたからだ。

「だが家が反対した。家柄も学歴もない女だと。結局、別れるしかなかった」

会長の声には深い後悔が滲んでいた。

「しかし今日、その名前を再び聞くことになるとはな。それも、彼女とほぼ同じ年の若い女性の口から」

木村部長が慎重に尋ねた。

「では、もしやあの応募者は……」

会長は首を横に振った。

「いや、そんなはずはない。偶然の一致だろう」

しかし彼は引き出しから古い写真を取り出した。色あせた写真の中には、若い頃の斎藤賢介と一人の女性が幸せそうに笑っていた。

「しず子と別れた後に知ったんだ。彼女が妊娠していたことを。だがもう遅かった。彼女は連絡を断ち、姿を消してしまったからな」

木村部長は衝撃を受けた。

「では、会長にはもしや他にもお子様が……」

斎藤賢介は寂しそうに笑った。

「いれば、25歳くらいになっているだろうな。いや、28歳か。あの鈴木み咲という応募者は28歳と言っていたか」

木村部長は素早く面接書類を確認した。

「はい。その通りでございます。鈴木み咲さんは28歳です」

そして木村部長は書類をさらに詳しく見つめた。

「出身地は静岡。母親の名前は鈴木し子。父親の欄は空欄でございます」

会長の手が震えた。

「木村君、内密に調査してくれ。その鈴木し子という人物が、私の知るあの女性に間違いないかどうかを」

その夜、み咲は病院の廊下の椅子に座っていた。母は眠りにつき、彼女は一人座って考え込んでいた。面接の結果はおそらく良くないだろう。会長が途中で退席してしまったのだから。

その時、見知らぬ番号から電話がかかってきた。

「鈴木み咲様でいらっしゃいますか? 未来エレクトロニクスの人事でございます」

み咲の心臓がドキリとした。

「明日の午前中、もう一度ご足労を願えないでしょうか。追加の面接を予定しております」

追加の面接。み咲は怪しく思いながらも、ひとまず承諾した。電話を切った後、み咲は母の病室に戻った。母はまだ眠っていた。み咲は母の手を握りながらささやいた。

「お母さん、明日また面接に呼ばれたの。今度こそ本当にうまくいく予感がするよ」

しかしその時、母が寝言を言った。

「賢介さん……ごめんなさい」

み咲ははっとした。賢介。初めて聞く名前だった。母は夢の中で誰を呼んでいるのだろうか。

翌朝、み咲は再び未来エレクトロニクス本社を訪れた。今回は直接会長室へと案内された。緊張しながらも、不思議な気分だった。なぜ会長室に呼ばれたのだろう。

会長室のドアが開くと、斎藤賢介会長がソファに座っていた。昨日とは違い、ひどく疲れているように見えた。まるで一睡もしていないかのようだった。

「おかけください。鈴木さん」

会長の声は震えていた。会長室の雰囲気は重かった。斎藤賢介会長はみ咲を見つめた。その目差しには言いようのない感情が宿っていた。まるで遠い昔に失った何かを見つけた人のようだった。

「鈴木さん、昨日は申し訳なかった。急に席を立ってしまって」

み咲は首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。お察しします」

しかし実際のところ、全く察することはできなかった。会長はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩いて行った。東京のスカイラインが一望できるその場所で、彼はしばらく沈黙した。

「鈴木さん、いくつか個人的な質問をしてもよろしいかな」

み咲は緊張しながら頷いた。

「お母様から、私の父親について何か聞かされたことはありますか?」

奇妙な質問だったが、み咲は正直に答えた。

「母は父のことはほとんど話してくれませんでした。私が小さい頃に亡くなったとだけ。それ以上聞くと悲しむので、聞かないようにしていました」

会長の方が微かに震えた。

「では、お母様が若い頃どのような仕事をされていたかはご存知ですか?」

み咲が答えた。

「詳しくは知りませんが、東京の会社で秘書として働いていたと聞きました。でも急にやめて、故郷に帰ったと」

会長が振り返った。彼の目頭は赤くなっていた。

「その会社がどこかはご存知ないのですか?」

み咲は首を横に振った。母が過去について話したがらなかったと説明した。

その時、会長室のドアが開き、木村部長が入ってきた。彼の手には書類の入った封筒があった。木村部長が会長に静かに言った。

「会長、確認が取れました。静岡にいらっしゃる鈴木し子さんで間違いございません」

会長の足がふらついたようだった。彼はソファに崩れるように座った。み咲は戸惑った。一体何が起こっているのか、なぜ自分の母親を調査したのか、理解できなかった。

「あの、すみません。何が起こっているのか説明していただけませんか? どうして私の母を……」

会長が顔を上げた。彼の目には涙が浮かんでいた。

「鈴木さん、君のお母さん、鈴木し子さんは、25年前私の秘書だったんだ」

そして彼は少し言葉を止めた。あまりにも大きな真実を口にするのが怖いようだった。

「私たちは愛し合っていた。結婚を約束するほどに。だが家の反対で別れるしかなかった」

み咲は衝撃を受けた。母がこの会社の、いやこの会長とそんな関係だったなんて。

会長は続けた。

「別れた後に知ったんだ。しず子が妊娠していたことを。だがもう彼女は姿を消した後だった。25年間、私は彼女と子供を探し続けた」

み咲の頭の中が真っ白になった。妊娠、25年。それじゃ、まさか。

「その子が、私だというのですか?」

会長は震える手で書類を差し出した。

「これは君のお母さんの医療記録だ。25年前、静岡の病院で出産した記録がある。日付が君の誕生日と正確に一致する」

み咲は書類を受け取った。手が震えて、文字がよく見えなかった。でも、これだけでは確実とは言えない。

「でも、これだけでは確実とは言えないじゃないですか」

会長は頷いた。

「だから提案したい。DNA鑑定をしてみないか。もし本当に君が私の娘なら……」

彼は言葉を続けられなかった。感情が込み上げてきたようだった。み咲は混乱していた。生涯父なしで生きてきたのに、突然父親が現れたなんて。それも大企業の会長だなんて。

「私は、まず母に聞いてみないと」

会長が急いで言った。

「お母さんが病院にいらっしゃると聞いた。私も一緒について行ってもいいだろうか? 25年ぶりにしず子に会いたいんだ」

み咲は躊躇した。母がこの事実をどう受け止めるか心配だった。しかし会長の切実な目差しを見ると、断ることができなかった。

1時間後、彼らは病院に到着した。病室の前で会長は立ち止まった。勇気が出ないようだった。

「25年だ。25年ぶりに再会するんだ」

み咲が先に病室のドアを開けた。

「お母さん、私、お客さんを連れてきたの」

母が目を開けた。そしてドアの前に立つ男性を見た瞬間、顔が真っ白になった。

「け、賢介さん……」

母の声はほとんど聞こえないほど小さかった。斎藤賢介がゆっくりと近づいてきた。彼の目からはすでに涙が流れていた。

「しず子、本当に久しぶりだ」

母も涙を流し始めた。25年間隠し通してきた秘密が明らかになる瞬間だった。

「どうして分かったの?」

会長がみ咲を振り返った。

「私たちの娘が、私を尋ねてきてくれたんだ。面接を受けに」

母がみ咲を見つめた。罪悪感と申し訳なさでいっぱいの目差しだった。

「みさ、お母さんごめんね。あなたに隠していたことがあるの」

み咲は母の手を握った。

「大丈夫だよ。お母さん、全部分かるから」

母がようやく言った。

「賢介さんが、あなたのお父さんよ。でも私たちは一緒にはなれなかった。彼の家が、私のような女は受け入れられないって」

そこで母は咳き込んだ。話すのが辛そうだった。会長が母の手を握った。

「しず子、私が知らなかったんだ。君が妊娠していると知っていたら、全てを捨ててでも君と一緒になったはずだ」

病室に重い沈黙が流れた。25年の時間。その長い間、互いを思いながら生きてきた2人。そしてその間に生まれ、父を知らずに育った娘。運命は実に奇妙な形で彼らを再会させたのだった。

病室の沈黙を破ったのは、母の咳き込む音だった。み咲が急いで水を持ってくると、斎藤賢介も母の体を支えた。25年ぶりに再会した2人の手が一瞬触れ合った。その瞬間、時が止まったかのようだった。

母がようやく息を整えながら言った。

「賢介さん、あなたには家庭があるじゃない。今更こんなことをしたら……」

会長は首を横に振った。

「しず子、私は25年間、一日たりとも君を忘れたことはなかった。再婚はしたが、それは家の圧力によるものだ。私の心にはいつも君がいた」

そして彼はみ咲を見つめた。

「私たちの娘がいるかもしれないという希望を抱いて生きてきたんだ」

み咲はまだ現実が信じられなかった。昨日までただの就活生だった自分が、突然大企業の会長の娘だなんて。

「私、私はどうすればいいのか分かりません」

会長が慎重に言った。

「みさ、君に無理強いしたくない。ただ、25年間できなかった父親としての役目を、今からでも果たさせてはくれないだろうか」

母が弱々しく笑った。

「みさ、お母さん、あなたにまだ隠していることがあるの?」

み咲と会長が同時に母を見つめた。

「実はね、お母さん、賢介さんがあなたを探していることは知っていたの。数年前から探偵が私たちの近所を回っていたから。でもお母さんは隠れた。あなたに普通に育って欲しかったから」

会長が驚いて尋ねた。

「では、わざと避けていたのか」

母は頷いた。

「あなたが財閥の隠し子として生きるより、平凡でも堂々とした子に育って欲しかったの」

しかし母はみ咲を見つめた。

「でも、あなたがこうして自力でお父さんを見つけ出すとは思わなかったわ」

み咲が尋ねた。

「お母さん、じゃあどうして今までお父さんは亡くなったって嘘を?」

母の目に再び涙が浮かんだ。

「ごめんね、みさ。でもどう説明すればいいか分からなかったの。あなたのお父さんは生きているけれど会えない。彼には別の家庭がある。なんて、幼いあなたにそんな傷を負わせたくなかったの」

木村部長が静かに入ってきた。

「会長、病院側でDNA鑑定の準備が整いました。ご希望でしたら」

会長がみ咲を見つめた。み咲も会長を見つめた。そして頷いた。

「やります。はっきりと知りたいんです」

2時間後、彼らは病院の相談室で待っていた。母は病室で休んでおり、み咲と会長だけが結果を待っていた。会長が言った。

「みさ、もし本当に私が君の父親なら、君に選択権を与えたい。私の娘として生きることもできるし、今のように普通に生きることもできる」

み咲が尋ねた。

「もし私があなたの娘だとしたら、会社はどうなるんですか? あなたにはもうご家族がいるじゃないですか」

会長は苦しそうに笑った。

「彼らは私の財産にしか興味がない。だが君は違う。君は私を知らずに、自分の力だけでここまで来たじゃないか」

その時、医師が入ってきた。手には鑑定結果の書類があった。

「鑑定結果が出ました」

み咲と会長は緊張した面持ちで医師を見つめた。医師が結果の紙を広げながら言った。

「親子確率99. 99%です。お二人は生物学的な父娘関係で間違いありません」

瞬間、会長の目から涙が溢れ出た。彼は突然み咲の前に膝まづいた。誰もが驚いた。大企業の会長が膝まづくなんて。

「みさ、娘よ、すまなかった。28年間そばにいてやれなくて、父親らしいことを何もしてやれなくて」

み咲も涙をこらえることができなかった。生涯恋い焦がれていた父。存在すら知らなかった父が、こうして自分の前で膝まづいている。

「立ってください。お父さん」

初めて「お父さん」と呼んだ瞬間、2人とも感情が込み上げてきた。会長は立ち上がり、み咲をそっと抱きしめた。28年ぶりの、初めての抱擁だった。

「私の娘、本当に私の娘なんだな」

木村部長もそばで涙を拭っていた。20年以上会長に仕えてきましたが、こんなに人間的な姿は初めてでしたから。

み咲が尋ねた。

「でも、この事実をどうするんですか? マスコミに知られたら……」

会長がみ咲の肩を掴んだ。

「それは君が決めていい。公表したければするし、隠したければ隠してもいい。ただ……」

彼は少し躊躇した。

「ただ、私は君を私の娘として堂々と認めたい。もちろん君の意思が一番大事だが」

み咲は深い考えに沈んだ。突然の身分の変化、そして彼の娘としての責任と重圧。しかし同時に、母の治療費の心配から解放されるチャンスでもあった。

「少し時間をください。母とも相談しなければなりませんし、私も心の準備が必要です」

会長は頷いた。

「もちろんだ。28年待ったんだ。数日待つことなど何でもない」

彼らが病室に戻ると、母は目を覚ましていた。み咲が言った。

「お母さん、鑑定結果が出たの。私、本当にこの方の娘だった」

母が会長を見つめた。複雑な感情が入り混じった目差しだった。

「賢介さん、これからどうなさるおつもり?」

会長が答えた。

「まずは君の治療を最優先させたい。最高の医療チームを集めてでも」

そして彼は娘を見つめた。

「みさは、みさが望むようにする。会社に入りたければ正当に実力で入らせるし、別の道を進みたければそれも支援する」

母が弱々しく笑った。

「あなたは変わらないのね。相変わらず原理原則を重んじる頑固な人」

その夜、み咲は病院の屋上に上がった。東京の夜景が目の前に広がっている。ほんの2日前まで、あの光の中に自分の居場所はあるのだろうかと心配していたのに。今では全く違う悩みを抱えることになった。

スマートフォンが鳴った。友人の里子からだった。

「面接どうだった?」

み咲は少し躊躇してから答えた。

「うん。うまくいったよ、多分。合格すると思う」

それは嘘ではありませんでした。ただ、合格の理由が変わってしまっただけでした。

1週間が過ぎた。母は斎藤賢介会長の計らいでVIP病室に移され、国内最高の医療チームが治療を担当することになった。み咲は毎日病院と家を往復し、母の回復を見守った。

その日もみ咲が病室に入ると、思いがけない人々が来ていた。スーツ姿の中年の女性と2人の若い男性。会長の現在の夫人と2人の息子だった。

夫人が冷たく言った。

「あなたが鈴木み咲さん? 突然現れた隠し子」

雰囲気が凍りついた。母が不安な表情でみ咲を見つめる。長男があざけるように言った。

「父さんもこの年になって娘がいたなんてな。それも28年も隠していたとは」

次男もそれに続いた。

「もしかして財産目当てで現れたんじゃないのか。タイミングが絶妙すぎるだろう」

み咲は落ち着いて答えた。

「私はお父様の財産に興味はありません。私はただ就職したくて面接を受けただけです」

夫人が鼻で笑った。

「女、純情なふりをしなくてもいいのよ。DNA鑑定の結果が出た途端、お父様があなたにどれだけのお金を注ぎ込んでいるか知っているんだから」

その時、病室のドアが開き、斎藤賢介会長が入ってきた。彼の表情は冷たかった。

「ここで何をしている?」

夫人が答えた。

「あなたが隠していた娘さんに会いに来たんですよ。私たちにも知る権利があるでしょう」

会長はきっぱりと言った。

「みさは私の娘で間違いない。だが君たちがこんな無礼な振る舞いをする権利はない」

長男が反論した。

「父さん、これは私たちの家族の問題だ。突然現れたこの人のせいで相続問題が……」

会長が息子を冷たく見つめた。

「家族? 私がまだ死んでもいないのに、もう相続の心配か」

次男が言った。

「でも父さん、これはあまりに不公平だ。俺たちは20年以上父さんの下で……」

会長が彼の言葉を遮った。

「君たちは私の金で贅沢に暮らしてきた。だがみさは、父親なしで28年間生きてきたんだ。どちらがより不公平かね」

夫人が鋭く言った。

「それで、会社の株をあの子に譲るおつもり?」

会長は首を横に振った。

「みさは正当に実力で会社に入る。特別扱いはしない。それがみさが望むやり方だからだ」

み咲が静かに言った。

「その通りです。私は父の娘という理由で特別扱いされたくありません。自分の実力で認められたいんです」

夫人が皮肉っぽく言った。

「上品ぶっちゃって。結局は全部持っていくつもりでしょうけどね」

その時、母がようやく起き上がった。

「おやめなさい。私の娘はそんな子ではありません」

夫人が母を睨みつけた。

「あなたが何を言うの? 人の家庭を壊した女が」

母は淡々と言った。

「私は賢介さんと別れてから、一度も連絡を取ったことはありません。むしろ隠れるように生きてきました。みさが自力で見つけ出したんです」

会長が家族に言った。

「出て行け。全員。そして二度とみ咲やしず子を苦しめるな」

夫人と息子たちが出て行こうとした時、次男が振り返って言った。

「父さん、このことはマスコミに知れるぞ。こうなったら会社のイメージが……」

会長は肩をすくめた。

「だからこそ、私は娘を隠さない。堂々と認める」

彼らが出て行った後、病室には重い沈黙が流れた。み咲が先に口を開いた。

「お父さん、私のせいでご家庭に問題が……」

会長は首を横に振った。

「いや、すでに壊れていた家庭だ。愛情ではなく家の都合で作られた家庭だ。君に罪はない」

数日後、斎藤賢介会長は記者会見を開いた。数多くの記者が詰めかけた。大企業の会長の隠し子の話は、とてつもないスキャンダルだった。会長がマイクの前に立った。

「私に、28年前に別れた女性との間に娘がいることを最近知りました」

記者たちがどよめいた。会長は続けた。

「私はこの事実を隠しません。私の娘、鈴木み咲は、私を知らずに自力で成長した素晴らしい人材です」

一人の記者が尋ねた。

「では、お嬢様は会社の経営に参加されるのですか?」

会長は首を横に振った。

「いいえ。み咲は他の応募者と同様、公正な採用プロセスを経ます。実力で証明できれば入社するでしょう。そうでなければ別の道を進むでしょう」

別の記者が尋ねた。

「相続問題はどうなるのですか?」

会長はきっぱりと言った。

「それは私が決める問題です。ただ一つだけ明らかなことは、み咲も私の子として正当な権利があるということです」

記者会見が終わった後、み咲は会社のロビーで父を待っていた。

「お父さん、必ずしも記者会見までしなくても……」

会長が娘の肩に手を置いた。

「みさ、私は君を隠したくないんだ。28年間君なしで生きてきた。今からでも堂々とした父親になりたいんだ」

み咲の目頭が赤くなった。

「でも、私はまだ準備が……」

会長が微笑んだ。

「ゆっくりでいい。私は待てる。ただ、君がもう一人ではないということだけ覚えていてくれ」

その夜、み咲は母の病室でニュースを見ていた。画面には記者会見の様子が映し出されていた。母がみ咲の手を握った。

「みさ、お母さんごめんね。あなたにこんな重荷を負わせてしまって」

み咲は首を横に振った。

「ううん。お母さん、むしろ感謝してる。これでやっと、自分が誰でどこから来たのか分かったから」

母が尋ねた。

「後悔してない? 普通に生きることもできたのに」

み咲は微笑んだ。

「平凡もいいけれど、今はもっと大きな責任を感じるの。父の娘としてではなく、私自身として何かを成し遂げたい」

窓の外では東京の夜が更けていった。28年ぶりに見つけた家族。しかしそれは終わりではなく、新しい始まりだった。

2ヶ月が過ぎた。母の健康は驚くほど回復し、み咲は再び未来エレクトロニクスの公募採用に挑戦した。今回は誰もが彼女の正体を知っていた。面接会場に入ってきたみ咲を見て、面接官たちは緊張した。会長の娘をどう扱えばいいのか分からなかったのだ。しかしみ咲は淡々と言った。

「私を特別扱いしないでください。他の応募者と全く同じように評価してください」

面接は予想よりもはるかに困難だった。むしろ、より厳しい質問が浴びせられた。まるで彼女に本当に実力があるのか試しているかのようだった。面接が終わった後、木村部長がみ咲に近づいてきた。

「鈴木さん、面接官たちがわざと厳しく質問したようで、申し訳ない」

み咲は微笑んだ。

「いえ、むしろ感謝しています。そうでなければ、私が本当に実力で入ったと証明できませんから」

1週間後、合格発表があった。み咲は震える手で結果を確認した。そして合格だった。しかし喜びもつかの間、インターネット上にはすでに悪意のあるコメントが書き込まれ始めていた。会長の娘だから合格したんだろう、という非難だった。

その時、人事部から異例の告知が出された。

「鈴木み咲応募者は、全応募者中最高得点で合格したことをお知らせします。面接の評価も満場一致で最高点でした」

それでも疑いの目は向けられ続けた。み咲の初出勤の日、会社のロビーには記者たちが集まっていた。一人の記者が尋ねた。

「お父様の会社に入ったお気持ちはいかがですか?」

み咲は堂々と答えた。

「父の会社ではなく、私が働きたい会社に入ったのです。私はここで新入社員の鈴木み咲としてスタートします」

海外マーケティングチームに配属されたみ咲は、他の新入社員と同じように一番下の仕事から始めた。コーヒーを入れ、コピーを取り、資料を整理する。誰も彼女を特別扱いしなかった。むしろ、より徹底的に指導した。チームリーダーがみ咲に言った。

「鈴木さん、君が会長の娘だということは、ここでは何の意味もない。実力で証明しろ」

み咲は頷いた。それが彼女が望んでいたことだったから。

3ヶ月が経った頃、み咲は重要なプロジェクトを任された。東南アジア市場進出戦略のレポートだった。彼女は昼夜を問わず働いた。現地の市場調査、競合他社の分析、文化的な違いの研究まで。レポートの発表日、役員全員が集まった。斎藤賢介会長も出席していた。み咲は震えを抑えながら発表を始めた。中国語と英語を交えながら流暢に説明した。発表が終わると、役員たちは感嘆した。一人の役員が言った。

「新入社員がこのレベルのレポートを作成するとは、本当に驚きだ」

しかし会長は何も言わなかった。ただ頷くだけだった。会議が終わった後、み咲は会長室を訪れた。

「お父さん、私の発表、不十分でしたか?」

会長が微笑んだ。

「いや、素晴らしかった。だが、私が褒めたら周りが何というかね。父親だからひいきしていると言うだろう」

み咲は理解したように頷いた。

「そうですね。私もそれは嫌です。私は自分の実力で認められたいですから」

その時、会長が引き出しから何かを取り出した。古いネックレスだった。

「これは君のお母さんが若い頃につけていたものだ。私が送ったんだ。今、君に渡したい」

み咲はネックレスを受け取った。小さなハートのペンダントがついた、素朴なネックレスだった。

「ありがとうございます。お父さん」

会長が娘の頭を撫でた。

「みさ、君を誇りに思う。私の娘だからではなく、君が君だからだ」

1年が過ぎた。み咲は自らの能力を認められ、主任に昇進し、中国支社への派遣メンバーに選ばれた。送別会の日、同僚たちが心から祝福してくれた。一人の先輩が言った。

「最初は正直、色眼鏡で見ていた。でも今は認めるよ。鈴木さんは本当に実力のある人だ」

み咲は感謝の言葉を述べた。

「皆さんが偏見なく接してくださったから、私は成長できました」

その夜、み咲は母と父が一緒にいるレストランへ行った。29年ぶりに初めて、新しい家族が共に食事をする席だった。母が言った。

「みさ、あなたがこんなに立派に育ってくれてありがとう」

父も付け加えた。

「しず子、君がみさを立派に育ててくれてありがとう」

み咲が2人の手を握った。

「お母さん、お父さん、これでやっと完全な家族になれた気がする」

レストランの窓の外では、東京の夜景がきらめいていた。一つの面接会場から始まった運命的な出会い。それは単なる就職以上の意味を持っていた。29年間離れ離れになっていた家族が、再び一つになる奇跡だった。もちろん、これからも多くの挑戦が待ち受けているだろう。会長の娘と言われる複雑な家族関係。そして証明し続けなければならない実力。しかしみ咲は恐れていなかった。今や彼女には頼もしい家族がいたのですから。そして何より、彼女は自分が誰であるかを知ったのです。斎藤賢介会長の娘であると同時に、自らの力で未来を切り開いていく鈴木み咲であるということ。

数年後、み咲は中国支社の支社長になった。彼女の成功は父の威光ではなく、純粋に彼女自身の努力と実力によって成し遂げられたものだった。あるインタビューで記者が尋ねた。

「お父様が会長であることは、負担ではありませんでしたか?」

み咲は答えた。

「原動力になりました。もっと努力しなければ、もっと証明しなければと思いましたから。でもその過程で、私はより強くなりました」

「お父様に何か伝えたいことはありますか?」

み咲はカメラを見つめ、微笑んだ。

「お父さん、28年遅れましたが、これでやっと本当の娘になれた気がします。愛しています」

東京の会長室でそのインタビューを見ていた斎藤賢介の目頭が熱くなった。彼は額縁の中の家族写真を見つめた。み咲、しず子、そして自分が共に笑っている写真。

「私も愛しているよ。私の娘」

運命は時に残酷に人々を引き裂きますが、また時には奇跡のように再会させてくれます。鈴木み咲と斎藤賢介の物語は、そんな奇跡の証でした。

10年が経ちました。鈴木み咲は今や38歳、未来エレクトロニクスの最年少副社長になっていました。しかし彼女のオフィスの机の上には、依然としてあの日の面接資料が額縁に納められていました。忘れてはならないスタート地点でしたから。

その日の朝、み咲はいつもより早く出社しました。今日は特別な日でした。新入社員の最終面接がある日。そして彼女が面接官として参加する初めての公募採用でした。秘書が入ってきて報告しました。

「副社長、本日の面接応募者リストです。総勢30名、10時より開始となります」

み咲はリストに目を通し、ある名前で手が止まりました。小林拓也、28歳、東京大学経済学部卒、自動養護施設出身。なぜかその名前が目に留まりました。おそらく自分と同じような年齢で面接を受けに来たこと、そして困難な環境で育ったことが心に引っかかったのでしょう。

面接会場へ向かう途中、み咲は会長室に立ち寄りました。斎藤賢介会長は今や62歳、髪はさらに白くなりましたが、依然としてカリスマ性がありました。

「お父さん、今日面接官として参加するの」

会長が微笑みました。

「緊張するかね? 10年前、私がその席に座っていたのが昨日のことのようだ」

み咲は頷きました。

「だからこそ、もっと公正に評価しようと思うの。私のようにチャンスを必要としている人がいるかもしれないから」

会長が娘の肩を叩きました。

「そうか。君が受けたチャンスを、今度は君が与える番なんだな」

面接が始まりました。応募者が一人ずつ入ってきて、み咲は他の面接官と共に丹念に評価しました。そして午後、小林拓也が入ってきました。端正な顔立ち。しかし、どこか不安げな目差し。安いスーツでしたが、きちんとアイロンがかけられていました。

人事部長が最初の質問をしました。

「自己紹介をお願いします」

小林拓也が答えました。

「おはようございます。小林拓也と申します。私は自動養護施設で育ちましたが、それが私の限界ではなく、原動力となりました。独学で大学に入り、奨学金で卒業しました」

み咲の胸が熱くなりました。自分よりもさらに困難な環境で育った青年でした。み咲が質問しました。

「最も辛かった瞬間はいつでしたか?」

小林拓也は少し躊躇してから答えました。

「大学3年生の時、一緒に育った施設の弟が白血病にかかった時です。治療費を稼ぐために休学して働きましたが、結局弟を失いました」

会場に重い沈黙が流れました。小林拓也は続けました。

「しかしその時気づいたんです。お金がないせいで大切な人を守れないということが、どれほど無力かということに。だからもっと一生懸命勉強し、この場まで来ました」

み咲は10年前の自分の姿を見ているようでした。母の病院のために切実だったあの頃。面接が終わった後、評価会議が開かれました。一人の役員が言いました。

「小林応募者はスペックは良いが、バックグラウンドが弱いな。経験もないだろう」

別の役員もそれに続きました。

「我が社にはもっと安定した背景を持つ人材が必要ではないかね」

み咲はきっぱりと言いました。

「背景ではなく、実力と潜在能力を見るべきです。彼は誰よりも切実で、その切実さこそが成長の原動力になるはずです」

しかし他の面接官たちは依然として懐疑的でした。その時、み咲は立ち上がりました。

「私が10年前、この席に座っていた時のこと、覚えていらっしゃいますか? 私も何もない、ただの就活生でした。しかしチャンスをいただき、今この場にいます」

数日後、合格者発表がありました。小林拓也は合格者リストに自分の名前があるのを見て、膝まづきました。施設の屋上で一人泣きました。

「兄ちゃん、俺やったよ。空から見てるよな」

彼が空を見上げてつぶやきました。白血病で亡くなった弟への言葉でした。

初出勤の日、小林拓也は海外マーケティングチームに配属されました。それは、み咲が10年前にスタートした、まさにそのチームでした。チームリーダーが小林拓也に言いました。

「うちのチームは鈴木副社長が始められた場所だ。基準は高いが、その分成長できるぞ」

小林拓也はさらに意欲を燃やしました。ある日の夕方、小林拓也が遅くまで残ってレポートを作成していると、み咲が部署を見回っていて彼を見つけました。

「まだ仕事をしているのかね」

小林拓也が驚いて立ち上がりました。

「副社長。はい。明日の発表資料をもう少し手直ししておりました」

み咲が彼のモニターを覗き込みました。東南アジア市場進出戦略でした。

「興味深いアプローチだね。現地の文化を深く研究しているようだ」

小林拓也が照れ臭そうに笑いました。

「施設に東南アジア出身の友達が多かったんです。彼らに教わったことが役立ちました」

み咲は彼の情熱に感銘を受けました。

「コーヒーでもいっぱい、どうかな? 私が新人の頃よく行っていたカフェが近くにあるんだ」

2人は会社の近くの小さなカフェへ行きました。み咲が言いました。

「私も新人の頃は毎晩遅くまで働いたものよ。証明しなければならないことがたくさんあったから」

小林拓也が慎重に尋ねました。

「副社長にも証明しなければならないことがあったんですか? 会長のお嬢様でいらっしゃるのに」

み咲は苦しそうに笑いました。

「むしろ、だからこそもっと証明しなければならなかった。実力ではなく背景でここにいると思っている人がたくさんいたから」

小林拓也が頷きました。

「僕もそういう視線を感じます。施設出身者がどうしてここまで来れたんだ、と。同窓会で合格したんじゃないか、と」

み咲が彼の目をまっすぐに見つめました。

「そんな視線は気にするな。実力で証明すればいい。時間はかかるが、結局は認められるようになるから」

その日以来、み咲は時々小林拓也の成長を見守りました。彼は本当に懸命に働き、急速に成長しました。3ヶ月で重要なプロジェクトを成功させ、同僚たちの信頼を得始めました。

そんなある日、み咲は父の会長室で衝撃的な話を聞かされました。

「みさ、実は私にはもう一つ秘密があるんだ」

み咲が驚いて父を見つめました。会長がようやく言葉を続けました。

「30年前、君のお母さんに会う前に、少しだけ付き合っていた女性がいた。彼女も妊娠していたんだが、私が知らない間に姿を消してしまったんだ」

み咲は衝撃を受けました。

「それじゃ、私以外にも兄弟がいるかもしれないということですか?」

会長は頷きました。

「最近、その女性が亡くなったと聞いた。そして、彼女が施設に子供を預けたということも」

み咲の頭に稲妻が走ったようでした。

「施設ですか? もしかして、どこの施設か?」

会長が書類を渡しました。

「世田谷にある『希望の家』というところだ」

み咲は息が詰まりました。小林拓也が育った施設が、まさにそこだったからです。

み咲は数日間悩みました。小林拓也が本当に自分の弟かもしれないと思うと、混乱しました。しかし確証がない状況で軽率に行動することはできませんでした。彼女は静かに調査を始めました。木村部長に頼み、小林拓也の施設の記録を確認しました。そして驚くべき事実を発見しました。小林拓也が施設に預けられた日付が、正確に30年前、会長が話した時期と一致していたのです。

もっと確かな証拠が必要でした。み咲は小林拓也を昼食に誘いました。

「小林さん、もしやご両親について何か知っていることはある?」

小林拓也は寂しそうに笑いました。

「全くありません。施設の園長先生の話だと、若い女性が僕を預けて、そのまま行ってしまったとだけ。手紙一枚なかったそうです」

み咲が慎重に尋ねました。

「もしや、家族を探したいという気持ちはない?」

小林拓也は首を横に振りました。

「子供の頃はそうでした。でも今は違います。僕を捨てた人たちを、どうして探すんですか? 僕は一人でも立派に生きてきたのに」

彼の言葉には傷が滲んでいました。み咲はそれ以上聞くことができませんでした。

一方、斎藤賢介会長も小林拓也の存在を知りました。

「みさ、あの青年が私の息子である可能性があるとは……」

会長の声が震えました。み咲が言いました。

「お父さん、でも彼は家族を望んでいないようです。傷が深すぎるんです」

会長はため息をつきました。

「それでも、確認はしなければならんだろう。もし本当に私の息子なら、今度こそ手放したくはない」

結局、彼らは小林拓也に内緒でDNA鑑定をすることにしました。会社の健康診断を口実に、血液サンプルを入手しました。そして1週間後、結果が出ました。親子確率99. 99%。小林拓也は本当に斎藤賢介の息子でした。

み咲は複雑な心境でした。突然弟ができたことも驚きでしたが、彼がどれほど孤独に生きてきたかを思うと、胸が痛みました。

会長室で緊急の家族会議が開かれました。み咲の母・しず子も出席していました。彼女は今や完全に健康を取り戻していました。しず子が言いました。

「あの子にどう話すつもり? 30年間、一人だったのに」

会長は首を振りました。

「分からない。どう切り出せばいいのか」

み咲が提案しました。

「私がまず近づいてみます。職場の先輩として親しくなってから、ゆっくりと心の準備をさせるのはどうでしょう?」

み咲は計画通り、小林拓也と親しくなり始めました。プロジェクトを共に頻繁に会い、助言を与え、時にはプライベートな話も交わしました。ある日、小林拓也がみ咲に告白しました。

「副社長、おかしなことを言うようですが、副社長といると落ち着くんです。まるで家族のような感じがします」

み咲の胸が熱くなりました。

「私もよ、拓也君。あなたを見ていると、弟のような気がするの」

それは嘘ではありませんでした。実際に彼は彼女の弟だったのですから。

時が流れ、年末の会社の忘年会が開かれました。小林拓也は新入社員代表として出し物を準備しました。彼はギターを手にステージに上がりました。

「僕が一番辛かった時、僕を支えてくれた歌を聞いてください」

彼が歌ったのは、家族についての歌でした。一人だったけれど、いつか会える家族を夢見て生きてきたという歌詞でした。歌を聞いていた斎藤賢介会長の目に涙が浮かびました。み咲も同じでした。

会が終わった後、会長が小林拓也を呼びました。

「小林君、少し話せるかね」

小林拓也が緊張しながら会長室について行くと、そこにはみ咲としず子もいました。会長が震える声で言いました。

「小林君、もう真実を話す時が来たようだ」

小林拓也が居心地悪そうな表情を浮かべました。み咲がDNA鑑定の結果を差し出しました。

「拓也君、驚かないで聞いて。あなたは、私たちのお父さんの息子よ。私の弟なの」

小林拓也の顔が真っ白になりました。

「な、何ですって? それがどういう……」

会長が立ち上がり、彼に近づきました。

「すまなかった、息子よ。私が君の存在を知らなかったんだ。知っていたら、決して一人にはしなかった」

小林拓也が後ずさりしました。

「嘘だ。これは嘘だ。僕は捨てられた子だ。誰にも望まれなかったんだ」

彼の声には、30年間溜め込んできた傷が爆発していました。み咲が彼の手を握りました。

「拓也、私たちがあなたを捨てたんじゃない。私たちもあなたの存在を知らなかったの。今からでも会えたこと……」

小林拓也が手を振り払いました。

「今更家族で吸って? 30年間、どこにいたんですか? 僕が施設で泣いていた時、誰も世話をしてくれなかった時、弟が死んでいく時、皆どこにいたんですか?」

彼は涙を流しながら会長室を飛び出していきました。

小林拓也は1週間、会社に来ませんでした。み咲が彼の育った施設を尋ねると、彼は屋上に座っていました。

「拓也」

小林拓也は振り返らずに言いました。

「どうして来たんですか? 今更、姉さんぶるために?」

み咲が彼の隣に座りました。

「ううん。ただ、一緒にいたくて」

しばらく沈黙が流れました。小林拓也が先に口を開きました。

「分かっています。あなたたちのせいじゃないってことは。でも、あまりに混乱していて。生涯、一人だと思って生きてきたのに」

み咲が言いました。

「私もそうだった。28歳まで父なしで生きてきたから。いざ父に会った時、恨んだし、拒絶もした」

「どうやって受け入れたんですか?」

み咲が微笑みました。

「時間が解決してくれた。そして気づいたの。家族になるっていうのは、血の繋がりだけじゃなくて、お互いを理解して受け入れていくことなんだって」

小林拓也が初めてみ咲を見つめました。

「僕も、家族になれますか?」

み咲が彼の肩を抱きました。

「もう家族よ。あなたが受け入れようと受け入れまいと、私たちはあなたの家族なの」

小林拓也が泣き崩れました。30年間、堪えてきた涙でした。

数日後、小林拓也は会長を再び訪ねました。

「まだ、お父さんと呼ぶ準備ができていません。でも、時間をいただければ……」

会長は頷きました。

「ああ、ゆっくりでいい。私も30年待ったんだからな」

小林拓也が慎重に尋ねました。

「僕の母は、どうして僕を捨てたんでしょうか?」

会長が思い詰めたように言いました。

「彼女は不治の病にかかっていた。長くは生きられないと悟り、君を安全な場所に預けたんだ。そして私には知らせなかった。私の人生の重荷になることを恐れて」

小林拓也の目からまた涙が溢れました。

「じゃあ、愛していたから捨てたんですか?」

「そうだ。あまりにも愛していたから、君がより良い人生を生きることを願って」

1年が過ぎました。小林拓也は今や斎藤拓也になっていました。姓を変えたのです。会社の人々は驚きましたが、今では誰もが彼を会長の息子として認めていました。しかし彼は依然として平社員として懸命に働いていました。み咲と拓也は本当の兄弟になりました。共にプロジェクトを進め、週末には家族で集まりました。しず子も拓也を実の息子のように可愛がりました。

ある日、拓也がみ咲に言いました。

「姉さん、やっと分かったよ。家族が何なのか。お互いの開いた場所を埋め合う人たちのことだよ。30年間の空白を、今埋めていっているんだ」

斎藤賢介会長の70歳の誕生日、初めて完全な家族写真を撮りました。み咲、拓也、しず子、そして斎藤賢介。それぞれが違う時間を生きてきましたが、今や一つの家族でした。拓也が初めて言いました。

「お父さん、誕生日おめでとうございます」

その一言に、斎藤賢介は涙を流しました。

運命とは実に奇妙なものです。ある会社の面接会場から始まった縁が、10年後、別の面接会場へと繋がり、離れ離れになっていた家族が完全に一つになったのですから。

み咲が会社の講堂で新入社員たちに講演をしました。

「皆さん、チャンスは思いがけない場所から訪れます。私が10年前に面接を受けた時、父に会えるとは夢にも思いませんでした。そして、私の弟がこの会社の面接を受けに来るとは、思ってもいませんでした」

聴衆の中で拓也が微笑んでいました。

「だから皆さんに伝えたいのです。今この瞬間も、運命の始まりかもしれないと。諦めないでください。あなたの物語は、今始まったばかりです」

拍手が湧き起こりました。その夜、家族全員が集まった食卓で、斎藤賢介が言いました。

「私の人生最高の贈り物は、お前たちに出会えたことだ。遅くなったが、完全になった。私たちの家族」

皆がグラスを掲げました。

「家族に乾杯」

窓の外では、東京の夜景がきらめいていました。彼らの物語は、これからも続いていくでしょう。時には辛く、時には痛みを伴うかもしれない。でも、もう一人ではないのですから。家族という名の下に、共に歩んでいくのですから。

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