「ママに応募される方ですね。それでどうしてこのお仕事に?」
思わず言葉を失った。夫に浮気され、愛人に子供ができたらしい。今しがた無一文で追い出されたので、仕事を探しているとは言えなかった。
「えっと、夫と離婚することになって」
適当にぼかして答える。対応してくれた和服の女性は私を上から下まで確認して頷いた。
「それは大変でしたね。では中へどうぞ」
女性が屋敷の門を広げる。この時の私は中で面接をするのだと思っていた。仕事を見つけ、生活を整えなければ勝に復讐するのは難しい。まずは面接を成功させることだと気合いを入れた。
私を簡単に捨てたのも浮気したことも絶対に許さない。貯金も慰謝料もゼロだと笑ったところも本当にふざけていると思った。人を好きになり結婚した自分が恥ずかしくなる。けれどもう終わったことだ。過去は忘れてしまえばいい。最後に勝とカナに復讐をしてすっきりした後で、と私は呟いていった。
私は中村く子37歳。10年ほど前に夫の勝と結婚した。優しくしてくれるいい夫だが、それでも不満はある。
一番困っているのは見えっぱりなところだろうか。同僚や後輩と飲食した時は勝が全て支払うらしい。旅行や出張に行けば同僚の家族にまでお土産を買う始末。困った私が少し注意すると、彼は不愉快そうな顔でこう言い返してきた。
「お前は養ってもらっている立場だろう。大黒柱の俺に口応えをするな」
こういう人を見下すようなところも苦手だ。多くが望まないからもう少し自分を見つめ直してもらいたい。私が忠告するたびに彼が何を考えていたのか、もっと早く気づくべきだった。ただ勝にもいいところはある。初めて会った時から彼はとても気遣いができる人だった。
出会ったのは互いの同級生の結婚式だ。私の同級生は平凡な会社員だが、相手はお金持ちの医師だった。おかげで結婚式の列席者は有名企業の社員ばかり。普通の保育士だった私は完全に気後れしていた。
話題になるのも世界経済とか難しいことばかりだ。一介の保育士には理解できなかった。適当に相槌を打ち、あとは愛想笑いで乗り切るだけ。有料物件を手に入れるチャンスなどと考える余裕もなかった。そんな中、話しかけてきたのが勝だ。
同じような話をされるのだろうと身構える私に、彼はこう言った。
「最近のコンビニスイーツでお気に入りのやつは?」
思わず吹き出してしまう。勝は気にせずに続けた。
「あれ?面白い話をするのはこれからだけど」
「ごめんなさい。もっと難しい話をされると思ったから」
「そう、じゃあ俺も難しい話をしようかな。今一番人気があるお菓子は何だと思う?」
真面目な顔でそう話すので、私は大笑い。答えるどころではなかった。しかし分かったことが一つある。勝が私を気遣ってくれたということだ。私たちが付き合うきっかけになった出来事がこれだった。
交際は順調に進み、やがて結婚に至る。けれど、結婚の直前に一つ問題が起きた。それは結婚後に私が仕事を続けるかどうかだ。
保育士は体力的には大変だが、女性が長く続けられる仕事の一つでもあった。
「私は仕事を続けたいわ。確かに。あなたに迷惑をかけるかもしれないけれど」
「いや、絶対にダメだ。認めない」
強く反対する勝。私は顔を顰めた。
「どうして?家事はちゃんとするつもりよ」
「そんな話じゃない。妻を働かせるような男に見られたくないんだよ、俺は」
共働きになれば自分の給料だけでは生活できないと評価される。稼ぎの悪い男だと世間に思われるのは嫌だ。勝の主張はそうだった。
「これからの時代、女性が働く機会は増えるわ。別に共働きの家庭も珍しくなくなるわよ」
「なんでそんなことが分かるんだ。お前は学者なのか?」
「そうじゃないけど、保育士として働いていた経験よ。子供を預ける働く女性が増えていたから、私はそう思ったの」
結婚や出産後も働く女性が増えている。当時の私は保育士として肌で実感していた。だからこその主張だったのだが、勝はどうしても首を縦に振ってくれない。
「事実かどうかは関係ない。俺が同僚にどう見られるのか。それが問題なんだよ。だから専業主婦も立派な仕事だろう。違うか。お前に苦労させるつもりはないんだから、別にいいじゃないか。そうだろ」
言い返そうと思えばまだ続けられた。だが以上は水掛け論になるだけだ。互いに感情的になり大喧嘩になるかもしれない。そう考えた私はこちらから折れることにした。
「分かったわ。仕事をやめて専業主婦になればいいんでしょ」
「最初からそういえばいいんだよ。何が不満だったんだ」
「別に不満はないわよ。ただもう少し仕事をしたかっただけ」
ため息をつく。勝は少し考えてからこう言った。
「あのな、結婚したら、ずれは子供が生まれるだろう。俺は保育士として働くより自分の子育てに集中してもらいたいよ」
「それもそうね」
「頼んだぞ、く子」
「ええ、任せておいて」
結局結婚と同時に仕事をやめることとなった。今考えると私を専業主婦にしたのも勝が見えっぱりだったからだろう。本当にもう少し早く気づきたかった。
ともあれ、私は徐々に彼の本性を知っていく。次に違和感を覚えたのは結婚式の準備を進めている時だった。話題が結婚後の生活になったので、ふと新居のことを聞いてみる。
「そういえば新居はどうするか考えてる?」
「新居?そうだなあ。思い切って広いマンションでも買うか」
勝が冗談めかした言い方をした。反射的に私は表情を曇らせてしまう。
「え、もったいないわよ。二人で暮らすのに」
「なんだよ。ほんの冗談だろ」
口を尖らせる勝。私は真剣な顔で言い返した。
「冗談なのは分かってるわよ。でもね、今は冗談を言っている場合じゃないの。こっちは真剣に結婚後の話をしているんだから」
「はいはい。それでお前の希望はあるのか?」
勝がめんどくさそうに聞いてくる。
「そうね。やっぱり賃貸マンションかしら」
「賃貸か」
「ああ。何?賃貸は嫌なの?」
何気なく理由を尋ねてみた。すると勝は険しい表情で答える。
「当たり前だろう。賃貸とか何かケチ臭い感じがしないか」
賃貸物件でも多種多様だ。家賃が高額な部屋もあれば安いところもある。彼の言っていることがよくわからなかった。とっさに聞き返してしまう。
「は?ケチ?どうして?」
「なんだよ。分かるだろう」
首をかしげる私に腹を立てたのか。勝は強い口調で主張してきた。
「分かるって何が?賃貸とケチは繋がらないわよ」
「バカだな、お前は。マンションを買うのをケチったと思われるだろうが」
呆れてしまった。結婚直後に家やマンションを買う人はそこまで多くないと思う。普通は結婚した後に二人で貯金をしてから考えることじゃない?
「いや、それはそうかもしれないけど」
「だったら慌ててマンションを買う必要はないでしょ」
正論をぶつけた。しかし勝は納得するどころか屁理屈をこねる。
「でも家賃を払い続けるのは無駄だぞ。その分をローンに回した方が」
「それならマンションよりも一戸建ての方がいいんじゃないかしら。け散らずにお金を出すという意味では同じでしょ」
「金を出すのは同じでも、一戸建ての方が安いだろう。ケチったと思われる」
一戸建ての方が安いかどうかは周囲の状況次第だ。都会のど真ん中ならマンションも高騰しているが、私たちが暮らす予定なのは地方の小さな都市の住宅街だった。利便性に優れた地域のマンションは確かに高いけれど、離れた場所になれば一戸建てと大差ないようなエリアだ。
「悪いけど調べる時間が欲しいわ」
「何をバカなことを言ってるんだ。そんなことをしてたら」
「契約して即入居できるマンションはすでに建築済みのところでしょう。そんなところ、すでに資産価値が落ち始めているんじゃない?」
私の指摘に勝は全然納得しない。すかさず追い打ちをかけるかのように続けた。
「理解できた。資産価値が落ち始めたマンションを買うようだと。さすがにケチったと思われるわよね」
「あ、でも」
「買うならこれから便線のいいところに建設されるマンションよね。そういう物件を貯金しながら探せば一石二鳥じゃない」
勝が悔しそうに頷く。思わず勝ったと心の中で呟いた。
「とりあえず新居は賃貸物件にしましょう。それでいいわよね。けど場所は勝が選んでいいわ。それなら文句ないでしょ」
案に停裁が保てる場所を選ぶように告げる。勝は視線を逸らしたままで首を縦に振っていた。こうして新居の問題は無事に解決。私たちの新婚生活は勝が選んだ駅に近い新築マンションで決まった。しかし新婚生活は思っていたほど楽しいことばかりではない。特に気が重かったのが義母のお見舞いだった。
義母は私たちが結婚する少し前から体調が悪かったようだ。結婚式の直前には入院し、当日の列席も危ぶまれたくらい。周囲の支えもあってなんとか出席できたけれど、その後は再び入院生活。退院は難しいと医師からも宣告されていった。
「たまにはあなたも一緒にお見舞いに」
「悪い。仕事があるからお前一人で行ってくれ」
こんなやり取りをしたのも一度や二度ではない。私は懸命に勝を誘ったが、彼の答えはいつも同じ。気が重い一番の理由は勝を連れていけないことだった。今日は何と言い訳しようかと考えながら、私は病室の扉をノックする。
「はい、どうぞ」
中から聞こえたのは義姉の小橋ゆき子の声だった。
「こんにちは」
「あら、くにこさんいらっしゃい」
「お母さんは?」
ベッドの方に視線を向ける。義母は静かに寝息を立てていた。
「ごめんなさい。さっき眠っちゃって。外で話しましょうか」
「あ、はい」
ベッドの脇にある椅子に腰かけていたゆき子が立ち上がる。彼女はそのまま病室を後にすると病院の談話室へ向かって歩き出した。急いで追いかける。談話室に入ったゆき子は自動販売機でお茶を二つ買った。それから窓際の椅子に座ったので、私は向かい側に腰を下ろした。
「これよかったら」
ゆき子にお茶を差し出され、私は礼を言う。
「ありがとうございます。いただきます」
「でも本当にごめんなさいね。定期的に来てくれって」
「いえ、本当は勝も連れて行きたいんですけど」
力を尽くせず申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな私の思いが伝わったのか、ゆき子は笑いながら答えた。
「いいのよ。あの子はそういうところがあるから。でも本当に気にしないで。あなたが悪いわけじゃないし」
本音ではないとしても安心する。その後は互いの近況報告をした。やがて話題が義母のことになると、ゆき子は少し険しい顔で言った。
「お母さん、もう長くないらしいわ」
「え、そうなんですか」
ショックを隠せない。結婚前から優しくしてもらっていた。それに義とはいえ母親でもあるからだ。
「それでね、もしお母さんが亡くなったら、あなたにも遺産相続の話し合いに来てほしいのよ」
「え、でも私は法定相続人ではないと思いますが」
養子縁組をすれば私も法定相続人になれるけれど、そんな予定はなかった。
「三族に口を出せとは言わないわ。ただ勝のタを握っていてほしいの」
「勝の?」
「トラブルになればあなたにも迷惑をかけるから」
ゆき子の言いたいことは理解できる。しかし私が話したところで勝が聞いてくれるだろうか。不安ばかりが募っていく。結局頷くことができないまま、その日は帰宅した。
自宅で家事をしながら勝の帰りを待つ。彼をどう説得しようか。何も手につかないくらい懸命に考えていた。
倉行するうちに勝が帰宅する。彼はすぐに風呂に入ろうとしていた。
「勝、ちょっといい話があるの?」
「ああ、なんだよ。風呂から上がった後でもいいだろ」
不愉快そうな顔をする勝。私はできるだけ笑顔で話した。
「ごめん。すぐに終わるから先に話したいの」
「仕方ないなあ。なんだよ」
めんどくさそうにした勝がリビングのソファーに向かう。こちらを睨みながら彼はソファーに腰を下ろした。私はそっと隣に座る。
「ねえ。話って何だよ」
「今日ね、ゆき子さんから聞いたんだけど、お母さんもう長くないって」
「あ、そっか。まあ、あの病情だからな。仕方ないだろ」
多少の覚悟はあったと思うが、妙にあっさりしている。私は無として彼を問い詰めた。
「悲しくないの?勝」
「悲しいとかそういう話じゃないだろ。お前だって母さんの病情は分かっていたんじゃないのか?」
「それはそうだけど」
当然のことを言われ、返す言葉もなくなる。口をつぐんでいると勝が尋ねてきた。
「話はそれだけか」
「あ、うん。あとね、ゆき子さんから万が一の時は遺産相続の話し合いに私も参加して欲しいと言われたわ」
「あ、姉貴がお前に」
勝が生きり立つ。とっさに視線を外して頷いた。
「ええ、あなたと揉めたくないからって」
「なんだよそれ。俺が無茶な要求でもするっていうのか」
「ゆき子さんはそう心配してるわ」
だから話を続けようとしたところで、勝が深いため息をつく。私の方を見ながらこう呟いた。
「それで釘を刺してきたのか。姉貴も余計なことをしやがるな。まあいい。俺も遺産相続で揉めるつもりはないからな」
「本当に?」
「当たり前だろ。遺産相続は税金も絡むんだぞ。それに身内同士で揉めたら、みっともない姿をさらすことになりかねないからな」
安心する。彼の見えっぱりな性格がいい方向に出た。
「じゃあ私が同席しなくても大丈夫?」
「当然だ。何かあっても姉貴の言う通りにする。第一、母さんの遺産なんて高が知れてるからな」
ゆき子から聞いた話だと、主な財産は家と土地。他は余金が少しあるくらいだそうだ。ただ病生活が長く現金の方は随分と減っているらしい。揉めるとすれば家と土地の名義をどうするかだろう。
「分かった。あなたを信じるわよ」
「はいはい。任せておけ。じゃあ風呂に入ってくるから」
笑いながら言った勝はさっさと浴室へ向かった。
義母が亡くなったのはそれから一ヶ月ほどが経った後のことだ。結婚からは一年半くらい。少しは安心させられただろうと私はほっとしていたけれど、問題はその後だ。葬儀の手配などは長女であるゆき子と彼女の夫がやってくれた。私も手伝ったが、隣にいた勝が何もしなかったのだ。
関連者に適当に挨拶したくらい。ほとんどの時間、彼は携帯電話をいじっていた。さすがに気になって声をかけると、こんな言い訳を始める。
「今大事な仕事の連絡をしているところなんだよ」
「今じゃなくてもいいでしょ。大体会社の方も来てくださっているし」
「やることはやっているから平気だって。それよりも今は現場の話を聞いておかないと、次に出社した時に困るからな」
確かに停裁を取り作ろって言った。散立した上司と挨拶をした際には涙を流す様子も見受けられたくらいだ。だが実際は悲しくなかったようで、葬儀が終わった途端彼は帰ると言い出した。
「これから家で親戚の方と話をしないと」
「それは姉貴に任せればいい。仕事もあるし」
「でも」
ゆき子の方を見る。彼女は葬儀場を後にする親戚の見送りをしていた。
「うちに来るのはどうせ近い親戚だけじゃないか。大半は帰るんだから平気だよ」
「それは分かっているわよ。でも遺産相続の話もあるでしょ」
重要な話を持ち出す。しかし勝は全く動揺しなかった。
「だからこの間お前とも話しただろう。遺産に関しては揉めない。全部姉貴に任せておけばいいんだよ」
揉めないという点は助かる。ゆき子に頼まれた手前、醜態をさらされるのだけは勘弁してもらいたかった。
「とにかく俺は仕事に戻るから。あとはお前と姉貴でうまくやっておいてくれ」
「は?私に任せるの?」
「当然だろ。お前は俺の妻なんだから。それに遺産相続の話とか今日はしないだろうからな」
確かに彼の言う通りだろう。葬儀の後は個人の思い出を語るのが一般的だ。
「じゃあな」
「あ、ちょっと」
止める暇もなく、勝は葬儀場を後にする。後ろ姿を見送りながら深いため息をついた。そこへゆき子がやってくる。
「く子さん、どうしたの?」
「あ、ゆき子さん、すみません。実は勝が」
正直に帰ったと告げた。ゆき子は呆れたようにため息をつく。
「そんなことだろうと思ったわ。仕事というのは実ね」
「実ですか?」
「多分親戚の人と話すのが面倒だっただけ。本当に仕方のない子ね」
彼女はすぐに自分の夫のところへ行き、この後の話をしていた。
「ああ、こうなると私まで帰るわけにはいかないわね」
ゆき子とは比較的仲がいいけれど、他の親戚とは結婚式で顔を合わせたくらいだ。うまく対応できる自信はなかったが、不安でもやるしかないと覚悟を決める。
やがてゆき子が戻ってきた。
「悪いけど、く子さんも家に来てくれる?うちに帰ってこれから色々と話をするみたいだから」
予想通りの展開だ。私は笑顔を作って頷いた。
「はい。もちろんです」
「助かるわ。勝と結婚したのがあなたでよかった」
軽く抱き寄せられる。勝手な思い込みかもしれないが、ゆき子とは本当の姉妹のようになっていった。
その後、私は義実家へ向かい、ゆき子と一緒に親戚をモてなす。食事は手配していた仕出し料理を出した。話し合い手は彼女の夫がしてくれていたが、恒例の親戚から次々と声をかけられる。どうやら若い嫁にお酌をさせたいらしい。断るわけにもいかず、作り笑いで彼らの相手をした。
結局親戚が引き上げたのは数時間後のことだ。私もゆき子もクタクタ。彼女にねぎらわれた後、タクシーで帰宅する。家にたどり着いた時にはもう日付が変わっていた。テーブルの上にはカップラーメンのカップが放置されている。ちょっと寝室を覗くと、勝が高いびきで寝ていた。
どれだけ苦労したと思ってるのよ。本当に腹立しい。しかし彼を起こして文句を言っても始まらない。喧嘩を避けるためにも私は我慢することにした。テーブルの上を片付け、残り物で簡単に食事を取る。あとは入浴してさっさと寝てしまった。
翌日、音で目が覚める。リビングへ行くと勝がパンを焼いていた。
「ごめんなさい。寝坊しちゃった」
「いや、大丈夫。出張だから早めに起きただけだ」
入り口のところにはキャリーバッグが置いてある。荷物の量から察するに数日分だろうか。
「急な話なのね。どこへ行くの?」
「今回は東京だ。五日の予定だよ」
五日かと考えてしまった。仮にも仮にも親が亡くなったばかりの社員に会社が出張を命じるだろうか。急に疑わしくなった私は勝に尋ねた。
「出張の話っていつ決まったの?」
「え、先週だったかな?話さなかったっけ?」
とぼけた様子の勝。どうにも怪しいと思いつ、私はさらに続けた。
「聞いてないわよ。もしかして浮気じゃないでしょうね」
冗談をかけてみる。親が亡くなった場合、会社の忌引きは三日から一週間というところが多い。この忌引きを利用して彼が浮気旅行に行くのではないかと思ったのだ。
「ああ、そんなわけがないだろう」
勝は平然と答える。顔色を変える様子もない。考えすぎだったようだと、私は彼に背を向けた。キッチンへ向かい自分の朝食の用意を始める。
「お前本当に疑い深いな」
「そう?普通だと思うけど」
「いや、普通じゃないよ。大体結婚して十二年で浮気とか、どう考えてもありえないだろ」
勝はため混じりに言う。むっとして私は反論した。
「新婚だろうと浮気する人はするわよ」
「違う」
「まあ、そういう人間もいるだろうけど、俺は違うぞ」
「それなら安心ね」
少し強く言うと、勝は嫌な顔でこう切り返してきた。
「本当にそう思ってるのか?目が笑ってないぞ」
「そう見えるとしたら、あなたに後ろめたいところがあるんじゃない?とにかく浮気をしたら絶対に許さない。それだけは忘れないでね」
「はいはい。肝に命じておくよ」
着かしたように言った勝はさっと立ち上がる。
「じゃ、そろそろ行くから」
「ええ、気をつけてね」
笑顔で勝を送り出した。玄関を閉めた直後、すぐに携帯電話を手にする。迷わず彼の会社に電話をかけた。
「もしもし。私、営業部の中村勝の妻ですが」
勝の予定を尋ねる。理由は申し訳ないが、義母の名前を使わせてもらった。葬儀のお返しの相談をするためと言うと、向こうが察してくれる。それから詳細に勝のスケジュールを教えてくれた。
「ありがとうございました。改めて連絡します。それでは」
電話を切る。思わずため息がこぼれた。本当に出張だったのか。どこか複雑な思いが溢れる。正直に話してくれていたことは嬉しかったけれど、一つだけ不安がある。同行するのが女性社員だったことだ。しかも会社が別の社員を生かせると言ってきたのに無視したって。
浮気という文字が脳裏をよぎった。同行する女性社員が相手とは言わないけれど、出張先で浮気する可能性もある。不安は尽きないが、考えていても意味がない。何かあったら浮気調査を依頼しようと思う程度にとどめておいた。
五日後、どっと疲れた様子の勝が帰宅する。私はそれとなく出張の話を聞いてみた。
「お疲れ様。どうだった?出張は」
「ああ、部下が同行するはずが旧病とかで女性社員になって」
どうやら女性社員が同行したのはアクシデントだったようだ。勝は愚痴をこぼし続けた。
「仕事はできないし、本当に使えなかったよ」
「ちょっと言いすぎじゃない?」
「違うな。使えない人間に使えないとはっきり言ってやるべきだ。勘違いされたら仕事に影響が出るからな」
確かに厳しい言い方かもしれない。だが仕事をする人間としては正しいような気がした。
「とにかくお疲れ様。お風呂に入ってきて」
「ああ、そうするよ」
浴室へ向かう勝。彼の話を聞く限り浮気でないことは明らかだ。私は少しだけ安堵した。
それから半年ほどが経った時のこと。不意にゆき子から電話がかかってきた。
「く子さん、遺産の話をしたいから、次の休みに勝と一緒に来てくれる?」
「あ、そのことですが」
勝に同席を断られたと告げると、ゆき子は少し考え込んだ。
「ねえ、あの子、私には何も言わなかったのに」
「すみません。そういうことなので、私は遠慮しようと思います」
「そう。それじゃ勝に伝えておいて」
私たちの関係を思いやってくれたのだろう。ゆき子は余計な口出しをせず、私の話を素直に聞き入れてくれていた。
その後、数回にわたり遺産相続の話し合いが行われる。法定相続人はゆき子と勝の二人だけだ。それなのに話し合いはなかなか決着しない。不安になった私は勝に事情を尋ねた。
「揉めているわけじゃないのよね」
「当たり前だろう。問題は遺産がどれだけあるかってことなんだよ」
「え、どういうこと?」
眉を潜めて聞き返す。
「借金がないかとか、色々と調べてもらっているんだよ」
「そんなに時間がかかるの?」
私のおじいちゃんの時、自分の祖父が亡くなった時のことを思い出す。当時、相続人になったのは父と叔父だった。話し合いはすぐに終わり、数ヶ月で決着したと記憶している。
「ま、色々と調べる場合もあるんだよ。とにかく弁護士の調査に時間がかかっているだけ。心配するな」
「だったらいいけど」
少し気になった。ゆき子に連絡してみたが、勝と同じ話をされただけ。結局一年経った頃にようやく手続きが全て終わったと勝に告げられた。
「不動産の名義変更とかに時間がかかってたな。まあ、無事に終わってよかったわ」
ほっと胸を撫で下ろす。実は勝の話を聞く前にゆき子から無事に終わったとメールをもらっていた。しかし遺産がどう分配されたのかは知らない。私は彼に詳細を尋ねた。
「それでどうなったの?」
「お前に話すことは一つだけだ。俺の実家に引っ越すことになった。大丈夫か?」
突然の報告に驚き、首をかしげて聞き返す。
「どうして?」
「姉貴たちは家を買っているだろう。だからあの家には俺たちが住むしかない。そういう話になったんだよ」
言われてみれば確かにそうだ。結婚した直後、義母のお見舞いでゆき子と話すようになり、私たちは色々な話をしていた。実際、彼女が結婚してすぐに家を買ったことも聞いている。
「そっか。じゃあ引っ越すしかないわよね」
「問題ないよな」
そう言われると、問題ないとは返しにくい。新居のことを話した時、いずれ家を買うという話になっていた。結婚してからはそのために貯金を始めていたくらいだ。
「家を買うための貯金が無駄になるけど、それは引っ越し代にすればいい。家を空き家にするわけにはいかないだろう」
「そうね」
仕方がないから家の購入は諦めよう。それに古いとはいえ、土地付きの一戸建てが無料で手に入るチャンスだ。手放すのはもったいないとも思ってしまった。
「じゃあ近いうちに引っ越すの?」
「ああ、仕事を休める日を選んで引っ越しをする。いいか?」
「分かったわ」
こうして私たちは義実家へ引っ越すことになった。
義実家への引っ越しは意外とスムーズに終わる。特に問題はなかったが、一つだけ気になることがあった。それが勝の態度だ。彼は引っ越し業者に対してかなり横柄な態度で臨んでいた。
「おい、さっさと運べよ」
こんな風に怒鳴ったのも一度や二度ではない。勝の声が聞こえるたび私が取りなしたけれど、彼の態度に大きな変化はなかった。仕方がないので、引っ越しが終わって業者が帰ったところで彼に注意する。
「ねえ、勝。あれはどういうつもりなの?」
「あれ?何のことだよ」
「業者さんを怒鳴ったことよ」
しかし勝は拠団とし無自覚な顔でこちらを見ていた。
「俺、何か悪いことをしたか?」
「自分で分からないの?」
「当たり前だろ。俺は何もしてないからな」
悪びれる様子もない。呆れた私は少し大きな声を出した。
「引っ越し業者さんも一生懸命に仕事をしてくれていたじゃない。それなのにどうして怒鳴ったの?」
「どうしてって?奴らの仕事が遅いからだよ。だから早くしろと言っただけ。何も悪いことじゃないだろう。あいつらも仕事でやっているんだから」
ふんと鼻を鳴らす勝。私はため息をついていった。
「いくら仕事でも言い方ってものがあるでしょう。失礼だとは思わないの?」
「金をもらってる以上、こちらの要求には答えるべきだろう」
そうだけど、彼と私では価値観が違う。反射的にそう思った私は口をつぐんだ。
「大体力仕事をしている連中は底辺なんだよ。そんな人間に丁寧に話しても時間の無駄。怒鳴られないと何もできないんだからな」
完全に呆れてしまう。もう一度私は深いため息をついた。
「もういいわ。とにかく人に失礼な態度を取るのは改めた方がいいわよ」
「なんで底辺に媚びろっていうのが」
「そうじゃないわよ。人のことを底辺とか見下すのをやめてって言ったの」
ついカッとなり声を荒げてしまう。驚いた勝は目を白黒させていた。呼吸を整えてから、を悟と悟す時の容量で告げる。
「見下される人もいい気がしないと思うし、私も気分が悪くなるの。だからもう少し気をつけてってこと、分かってくれるでしょ?」
「おお、そういうことか。底辺にも配慮しろってことね」
「ええ」
言いたいことはまだあったけれど、この辺でやめておく。そうしないと喧嘩になって、私の方から離婚しようと言い出しそうな気がした。価値観の相違はそれくらい大きな意味を持つ。結婚生活では大事だと両親が言っていたことがようやく理解できた。
それはさておき、日常生活では特に気になることはない。人を見下すというところを除けば、至っていい夫だった。家にはきちんと給料を入れるし、休日は買い物にも行ってくれる。家事を手伝う機会は少ないけれど、休みの日に彼が掃除するのは珍しくなかった。私が小言を言っても一応は黙って聞いている。時には反論されることもあるが、最後には必ず妥協してくれていた。おかげで私たちの夫婦生活はうまくいっていると思う。ただ一つ、いつまで立っても子供ができない点を除けば。
もう結婚から十年か。そろそろ限界かな。
気づけば結婚生活は十年目に突入。二十代後半で結婚した私は三十半ばを過ぎていた。妊娠する確率も下がり始める頃。そろそろ本気にならなければ、子供を授かるのは難しくなる。色々と考えるが、埒が明かないのでゆき子に電話で相談してみた。
「妊活とか始めてみた方がいいですかね?」
「そうね。私は自然妊娠だったから何とも」
ゆき子には中学生になる子がいる。彼女が結婚したのは私たちの結婚の五年ほど前。逆算するとすぐに妊娠したということになる。秘訣があるとは思わないが、念のために聞いてみた。
「妊娠するために何かしたこととか」
「ないわよ。そんなこと」
あははと大きな声で笑われた。
「ですよね」
「そうそう。でもね、気になるなら一度検査を受けてみたら」
「検査?」
「ええ、妊娠できるかどうかの検査よ。問題ないと思うけど、勝を病院に連れていく手間にはなるでしょ」
言われてみれば確かに迷暗だ。急に妊活をしようと言っても勝は嫌がるだろう。しかし検査を受けるだけなら多少はハードルが下がると思えた。ついでに医師に指導してもらうことでスムーズに妊活を始められる。
「それやってみます」
「あなたの参考になったならよかったわ」
そんな会話をしてから電話を切った。でも勝を誘う前に一人で行ってみようかしら。医師に相談するだけなら一人の方が都合もいい。私と同じように夫の協力が得られない妻も世の中には大勢いるはず。彼らがどうやっているのか話を聞けるかもしれないと思った。
とりあえず今度一人で病院へ行ってみよう。まずはネットで色々と調べてみる。最近は妊活に力を入れている病院も多いことが分かった。ネットの情報によると、どこの病院でも同じような治療をしているらしい。それならと、家から一番近い総合病院の婦人科を予約した。
数日後、予約した病院へ向かう。かなり緊張したが、医師も看護師も優しい人ばかり。すっかり安心した私は素直に相談できた。検査を受けた結果、私の体は大丈夫だとのこと。あとは勝だが、意外と男性側に問題があるケースは多いそうだ。
問題は勝が協力してくれるかどうかよね。呟きながら診察室を後にする。会計の順番を待っていると、ふと聞き覚えのある声がした。
「どうだった?妊娠してたか?」
勝の?と思いつ、声がした方に目を向ける。そこには若い女性と勝がいた。
「ビンゴ。妊娠してるって」
「やったな、カナ」
「言ったでしょ。私ならすぐに妊娠するって。どうよ?」
軽いノリで話す女性。隣にいた勝はガッツポーズで喜んでいた。思いもよらない光景にあ然とする。すぐに駆け寄って問い詰めようとも思ったがやめた。証拠がない以上、言い逃れされるに決まっているからだ。
これどう見ても浮気よね。一人で呟いた。当然勝も女性も私の存在には全く気づいていない。それなら気づかれる前に立ち去った方がいい。浮気の件を問い詰めるのは証拠を集めてからだ。そう考えた私はひっそりと会計を済ませ、病院を後にした。
逃げるように病院を出たから、二人がどうなったのかは分からない。おっぴらに喜んでいたところを見ると、浮気だと知っている人は皆無なのだろう。覚えてなさい。この浮気男。悔しさから帰りのバスの中で爪を噛んでしまった。
帰宅後はすぐにゆき子に連絡する。彼女は電話口で大声をあげていた。
「浮気ですって。これ本当?」
「最悪ですよ。二人して手を取り合って喜んで、もう悔しくて」
思いの丈を打ち明ける。
「そっか。じゃああれはそのために」
ゆき子が何かついた。反射的に聞き返す。
「何の話ですか?」
「実はね」
彼女から驚愕の事実を教えられ、開いた口が塞がらない。
「あの時は私もこんなことになるとは思わなくて、ごめんなさい」
「いえ、そんな」
彼女の話が事実なら、勝は随分前から浮気していた。それどころか私との離婚を考えていた可能性もある。本当に許せないと怒りが込み上げてきた。
「この件、私に任せてくれる?あの子の浮気調査を依頼してあげるわ」
「え、でも」
「いいのよ。あなたが依頼したら勝にバレるかもしれないでしょ」
優しいゆき子の言葉が胸に突き刺さった。思わず涙が溢れてしまう。
「ありがとうございます」
「さっきの話のこともあるし、罪滅ぼしとは言わないけど手伝わせて」
「はい」
私は強い味方を手に入れた。しかし一つだけ問題がある。ゆき子が依頼してくれる勝の浮気調査が間に合うかどうかだ。病院にいた勝とカナと呼ばれていた女性の話から考えると、二人に子供ができたのは確実だ。そんな二人が次にどうするのかと言えば、おそらくは一緒になろうとするだろう。少なくとも勝は責任を取るしかない。最終的には私に離婚を迫ってくるはずだ。
長にしている時間はないわよね、きっと。まずは自分たちの資産を確認した。保険を始め、資産と呼べるものはあまりない。通帳の中身も空に近かった。勝が無駄遣いばかりするから。出張に行く度、彼は必要以上にお土産を買ってくる。言うまでもなく会社や近所の人に配るためだ。多少は許容できるが、最近はひどくなっている。見えっ張りもここまで来ると非常に迷惑だった。それ以外にも彼は後輩や同僚に奢ることが多い。本人は信用を得るためだと言っているが、知ったことではない。普段から人を見下したような態度を取っておきながら、誰かに信用されようと思うのが間違っていると私は思う。
とにかくそういう無駄遣いのせいで、我が家の貯金は底をつく寸前だったわけだ。今離婚を切り出されたら、一銭ももらえないわ。懸命に貯金の総額を確認する。結婚前に貯めたお金もほとんど残っていない。私は何か残っているものを書き集めていった。
走行するうちに数日が経過。金曜日の夜、帰宅した勝は笑顔で私にこういってきた。
「なあ、く子、明日だけど知り合いを呼んでもいいか?」
「知り合い?」
少し考えてすぐに発っとする。あのカナという女の顔が脳裏をよぎった。
「それ、女性?男性?」
「あ、それは来てからのお楽しみだ。お前にサプライズもあるし」
絶対にそうだと確信する。ただこちらが浮気に気づいていると知られるのはまずい。後々彼に仕返しをすることができなくなる恐れがあるからだ。
「分かったわ。じゃあ明日は朝から準備しておくわね」
「ありがとう。俺は朝から迎えに行くから」
「だったらお茶菓子を買ってきてくれると助かるわ」
適当に話を合わせる。勝は分かったと喜んでいた。
「じゃ、風呂に入ってくる」
「ええ、夕食の用意をしておくわ」
できる限り笑顔で対応する。ふふふと湧き出る怒りは心のうちに秘めておいた。夜、勝が寝た後でこっそりとゆき子に連絡する。当然だが、彼の浮気調査はまだ途中だった。
「仕方ないわね。一度は負けてあげましょう」
悔しいけれど、今は負けたふりをするしかない。一度引いてから仕返しの方法を考えよう。私は復讐を誓ってから眠りに着いた。
翌日、朝から楽しそうだった勝が早々に出かけていく。私は彼が家を出た直後に荷物をまとめ始めた。合間に部屋を簡単に掃除する。そうしていると勝が帰ってきた。
「ただいま。く子、部屋は片付いているか?」
「ええ、お帰りなさい」
玄関まで出ていく。私の予想通り、彼の隣には病院にいたあの女がいた。何も知らないふりで尋ねる。
「そちらがお客様かしら」
「初めまして。平井カナです」
はにかむ表情が鼻についた。だが我慢して頭を下げる。
「初めまして。妻のく子です。人がお世話になっております」
「あ、ええ」
こちらが動揺していないことに驚いたのか、間の抜けた返事をするカナ。私は笑顔で家の中を示しながら続けた。
「さあ、中へどうぞ」
「あ、はい。お邪魔します」
カナは悔しそうに顔を顰める。勝を一瞥すると、彼は小さくため息をついていた。カナをリビングに案内する。ソファーに彼女が座ったところで、なぜか隣に勝が腰を下ろした。堂々としたものだと思いつつ、二人の向かい側に着く。その瞬間、勝が口を開いた。
「ここでく子にサプライズだ」
「サプライズ?何かしら」
とぼけてみると、勝は嬉しそうにこう言った。
「お前はもう用なしだ。とっとと出ていけ」
「え?」
とっさに聞き返す。
「聞こえなかったの?妊娠できないバーは用なしって言ったのよ」
カナが追い打ちをかけてくる。私が眉を潜めると、落ち着き払った勝がわざわざ説明してくれた。
「お前の代わりにカナが妊娠したんだよ。だからお前は用なし。分かるか?」
「よくわからないけど、それって浮気ってことかしら?」
確信をつく。勝はひるみながらも反論してきた。
「カナとは浮気じゃねえよ。本気だ」
「じゃあ私は?」
「今からただのババーだよ。さっさと出ていけ。離婚だ」
バンと勝がテーブルの上に離婚届を叩きつけた。すでにサイン済みのようだ。
「離婚って、浮気したんだから慰謝料くらいはもらえるわよね」
「ああ、そんな金はねえよ」
「え、じゃあこの家と土地を売って」
私が言い終わらないうちに勝が割り込んできた。
「残念だが、家と土地は姉貴のものだ。俺のじゃない」
「何ですって?」
数日前ゆき子に聞いていたから知っているけれど、知らないふりをした。
「家も土地も仮物、貯金もほぼゼロ。よって慰謝料はなし。財産分与もねえから、早く出ていけ」
「それで後悔しない」
念を押す。勝はにやりと口元を緩めた。
「後悔するわけねえだろ。これからはカナと幸せに暮らすんだからな」
「そういうこと。バーは邪魔だから早く出ていって」
隣にいたカナも勝に同調する。どうやら塩時きのようだ。私はゆっくりと立ち上がった。
「無一文で追い出されるのは納得できないわ。だから離婚協議書は作らない。とりあえず離婚届にサインしてくれればそれでいい」
ちゃんと言ったから。離婚協議書がなければ、後から慰謝料を請求することができる。慰謝料は三年。財産分与は二年の時効があるが、難しい話ではない。奥歯を噛みしめたまま離婚届にサインする。最後にボールペンを置いた後、離婚届を勝に投げつけた。
「受け取りなさい。この浮気男」
怒鳴りつけた私は自分の部屋に戻る。まとめていた荷物を持つと、さっさと玄関に向かった。すぐに勝が追いかけてくる。
「なんだ?用意がいいな」
「夫の浮気に気づかない妻がいると思ったの。絶対に後悔させてあげるわ」
「ああ、楽しみにしてるぜ」
笑い声が耳に残る。私は勢いよく玄関の扉を閉めた。さて、どうしましょうか。予想通りとはいえ、無一文で追い出されるのはさすがに応える。財布の中にはわずかばかりのお金。当座の資金はそれだけだ。ホテルに数日も宿泊すれば、あっという間になくなるだろう。とりあえずどこか止まれる場所へ向かいましょうか。試案した結果、宿泊先を決め、ゆき子に連絡するのが一番いいと思った。おそらく彼女は助けてくれるはずだ。問題があるとすれば、この先どうやって生きていくのかということ。勝に慰謝料を請求するとしても、彼がすぐに払えるとは思えない。給料の差し押さえを始め、手段を講じる必要があるはずだ。
やっぱり働くしかないわね。最終職はすでに検討していた。保育士の資格があるから、簡単に仕事は見つかるだろう。そう思っていたのだが、意外と保育士の募集はなかった。少子化でもあるし、保育園の運営が厳しく、保育園の運営が難しくなっている件も影響しているようだ。
コ服でもいい子。駅前のホテルに向かうため、まずはバス停へ行った。時刻を確認しようとして、ふと広告が目に入る。
「うん。ママ募集」
妙な内容に目を奪われた。よくよく見ると、瀬戸口さんという地主さんの家の募集広告だった。ママというのはよくわからないけど、要するに使用人よね。募集要綱には子供の面倒が見られる人と書いてある。他にも家事全般ができることなどとあるが、主婦歴の長い私には増しなかった。ちょうどいいし、これ応募してみようかしら。
広告の電話番号に連絡する。するとすぐに来てほしいと言われた。バスに乗るのをやめ、山の方へ向かう。目的地は住宅街の外れにある、地元では有名なお屋敷だった。屋敷の前で立ち止まる。迷いながらチャイムを鳴らすと、中から和服姿の高齢女性が現れた。
「はい。どちら様でしょうか?」
「あ、私、先ほどお電話差し上げたものですが」
そう言ったところで女性が笑顔になる。
「ママに応募される方ですね。それでどうしてこのお仕事に?」
思わず言葉を失った。夫に浮気され、愛人に子供ができたらしい。今し方無一文で追い出されたので、仕事を探しているとは言えなかった。
「えっと、夫と離婚することになって」
適当にぼかして答える。対応してくれた和服の女性は私を上から下まで確認して頷いた。
「それは大変でしたね。では中へどうぞ」
女性が屋敷の門を広げる。この時の私は中で面接をするのだと思っていた。仕事を見つけ、生活を整えなければ勝に復讐するのは難しい。まずは面接を成功させることだと気合いを入れた。私を簡単に捨てたのも浮気したことも絶対に許さない。貯金も慰謝料もゼロだと笑ったところも本当にふざけていると思った。あんな人を好きになり結婚した自分が恥ずかしくなる。けれどもう終わったことだ。過去は忘れてしまえばいい。最後に勝とカナに復讐をしてすっきりした後で、と私は呟いていった。
それから和服の女性の指示に従い、敷地の中へ入る。外から見ただけでは分からなかったが、かなり豪華な屋敷だった。
「参りましょうか。お名前をお聞きしても」
女性に問いかける。彼女は静かに首を縦に振った。
「使用人の風と申します」
「風さんですか?」
「ええ、まあそうですね。はい」
一つ一つの動作がとても軽やかだ。私の母親と同じくらいに見えるが、しっかりしていると思った。
「こちらです」
門から続く飛び石の上を歩く。すぐに玄関にたどり着き、私は中へ案内された。廊下を歩き、奥へと進む。私が通されたのは中庭が見える座敷だった。
「こちらで少しお待ちください」
「あ、はい」
頭を下げる。風が座敷を出ると、入れ替わるように小さな女の子が入ってきた。
「あなたは?」
声をかけるが返事はない。少女は私の向かい側にそっと座り、本を広げた。一人で黙々と本を読んでいる。何かあれば話しかけてくるだろう。私は軽い気持ちで少女を見守った。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。不意に少女が立ち上がり、さっさと部屋を出ていってしまった。廊下の方で話し声がして、すぐに私と同年代の男性が入ってくる。
「どうも。あなたがママに応募された方ですね」
「はい、中村く子と申します」
まあ、夫とは離婚するので中村ではなくなると思いますが、自分で言っておいて少し恥ずかしくなる。私が俯いているところで男性が名乗った。
「私は瀬戸口裕介。さっきの子は私の弟の娘で、誠と言います」
「誠ちゃんですか?」
「ええ、実は弟夫婦が事故で亡くなり、あの子を引き取ったのですが、やはり女の子なので母親が必要だろうと思いまして」
裕介が事情を語る。話を聞く限り、誠のママを募集していたようだ。
「本人もあなたがいいと言っていますので、よかったらママになって」
「あ、そのことですが」
さすがに急にママというのは、状況から考えてママになるのは目の前にいる裕介との結婚を意味している。悪い人には見えないが、会ったばかりで結婚を決断するのは難しかった。
「ああ、そうですね。もちろんママというのは言葉の綾ですよ。あの子の面倒を見てくれればと思います。給料もきちんと払いますから」
お金がもらえるなら仕事と考えていいだろう。私は喜んで引き受けた。その後、裕介が具体的な仕事を説明する。主な仕事は二つ。一つは誠の世話係だ。風と言い換えても問題ない。彼女の勉強を見て相談に乗るのが仕事だった。もう一つは裕介の秘書の子供も預かること。秘書は彼の従姉の辻美穂という女性がしているらしい。子供の名前は健太で、誠の一つ上。二人とも小学生なので、送迎と放課後の世話が私の仕事になった。
「よろしいですか?」
「結婚前は保育士をしておりましたので、問題ないと思います」
「そうですか。それは助かります」
裕介はメイトの接し方に困っていたようだ。少し微笑ましいと思ってしまう。
「そういえば、もう一人風さんがいらっしゃいますよね。子供たちが学校へ行っている間の家事は、あの方に聞けば」
「ええ、そうですね。お願いします。昼間は私も仕事で家を開けますので」
「わかりました。では明日、いえ、本日からよろしくお願いします」
一歩下がり、丁寧に頭を下げた。こうして私のママ業が始まったのだ。
仕事はママと言うだけあって、完全に住み込み。無一文で家を追い出された私にはちょうど良かった。不安がなかったと言えば嘘になるが、思ったよりも仕事は楽しかった。保育士になったのも子供が好きだったからだ。少し大きいとはいえ、相手は子供。やはり誠や健太の相手をするのは楽しかった。二人とはすぐに打ち解け、やがて誠は私をお母さんと呼びたいと言い出す。さすがに外では恥ずかしいので、家の中だけは認めることにした。
そうして誠のママになってから一ヶ月が経った時のことだ。夕食の買い出しに出たところで、ふと背後から声をかけられた。
「おい、く子」
「え?」
聞き覚えがあると思いながら振り返る。そこに立っていたのは勝だった。反射的に表情が曇る。睨みつけると、彼は驚いたように笑った。
「なんだよ、そんなに睨むなよ」
「睨むな?そんなの無理に決まってるでしょ。私はあなたが嫌いなんだから」
「釣れないなあ。離婚したとはいえ、夫婦だろ。俺たち」
ゾっとする。思わず私は顔を背けた。
「それで何の用事?私、忙しいんだけど」
「いや、ちょっと小耳に挟んだんだが。お前、瀬戸口さんの家で働いてるそうだな。それ本当か?」
こちらの視線の先に回り込んでくる勝。むっとした私は払いのけた。
「あなたには関係ないわ。そんなことより、さっさと慰謝料を払ってくれる?」
「あのことだよ」
「とぼけないで。浮気した慰謝料よ。浮気の事実を知ってから三年以内なら慰謝料を請求できるわ。離婚の慰謝料も三年以内なら可能だ。どちらにしても、私たちは一ヶ月前に離婚した。彼の浮気を知ったのはその直前だ」
「慰謝料ね。でもそれ、俺に払う理由があるのか?」
「あるに決まってるでしょ。浮気相手と子供まで作ったくせに」
声を荒げる。さすがに罰が悪かったのか、勝は大きく両手を振った。
「おいおい、こんな道のど真ん中で何を言い出すんだ?」
「今になって否定するつもり?浮気した上に嘘までつくの?」
「これだから女は」
ぶつぶつと文句を言う勝。やがて何かを思いついたように道路の反対側を指さした。
「とりあえずファミレスでも入らないか。こんなところだとな」
「少しだけなら付き合ってあげるわ。その代わり、後悔することになるから覚悟しておきなさい」
「それはこっちのセリフだよ」
勝が小さな声でつぶやく。私にはそれが聞き取れなかった。
「こっちだ。ついてこい」
偉そうに私を先導する。目の前のファミレスに入り、勝手にドリンクバーを注文した。
「それじゃ、落ち着いて話をしようか」
「悪いけど、私には話すことはないわ」
「そうか。でも聞かないと後悔するぞ」
脅すような口調で言ってくる。私は首をかしげた。今更勝の話を聞いたところで何の得もないだろう。疑いの目を向けていると、彼がため混じりにこう言った。
「お前のために言ってやるんだが、今謝れば離婚届を取り消してやるぞ」
あ然としてしまう。私には謝る理由がなかった。どうして頭を下げてまで彼と復縁しなければならないのか。言いたいことはたくさんあったが、馬鹿らしくて言葉に詰まっていた。
「なんだ、これが最後のチャンスだぞ。俺とやり直したくないのか?」
「じゃあ聞くけど、どうして私がやり直す必要があるの?」
「俺に離婚届を突きつけられて泣いていたじゃないか。捨てられて本当は寂しかったんだろ」
自信満々に言われると否定しにくい。泣いていたとすれば、悔しかっただけだ。決して捨てられるのが嫌だったわけではない。
「だから今なら謝れば離婚届を取り消してやる。どうする?」
「お断り」
ぴしゃりと言い返した。目をむく勝。やがて彼はこう切り出した。
「いや、でもお前、俺と離婚したくなかったんだろ」
「はあ?浮気男と離婚したくない女はいないわよ。それに離婚したかったから荷物を用意していたの。理解しなさい。このまま抜け」
つい声が大きくなってしまう。同時に周囲の人の視線がこちらに集中した。
「おい、声が大きいぞ」
「仕方がないでしょ。あなたがバカなことを言うから」
皮肉めいた言い方をする。周囲からはくすくすと笑う声が聞こえてきた。目の前のカフを見ると、顔が真っ赤になっている。彼でも恥ずかしいという感情は持ち合わせているようだ。
「恥ずかしいなら、浮気が恥ずかしいということも理解しておいていい」
「な、なんだと」
「分からなかった?じゃあはっきりと言ってあげる。浮気したあなたとは二度と関わり合いたくないの。さっさと消えて」
テーブルを軽く叩く。勝は私を睨みつけて言い返してきた。
「人が仕出かしたらいい気になり」
「それはこっちのセリフよ」
「うるせえ。俺はお前の浮気を見逃してやるって言ってるんだ」
「は?私の浮気?」
呆然としてしまう。浮気をしていたのは勝の方で、私は被害者だ。それなのにどうして責められないといけないのか。
「悪いけど、浮気をしたのはそっちでしょ」
「いや、違うな。お前も浮気をしていた。そうじゃなかったら、離婚からたった一ヶ月で再婚とかありえないだろ」
そういうことかと納得する。彼は盛大に勘違いしている。確かに私の今の仕事はママだ。しかしそれは雇い主がそう言ってるだけ。実際はただの使用人に過ぎない。
「残念だけど、私、再婚なんてしていないわよ」
「え、でもママだって噂を聞いたんだけど」
「ええ、ママという触れ込みで募集していたけど、単なる使用人よ」
明言した途端、急に勝が小さくなった。勢いを一気に失う。
「大体、証拠もないのに浮気をしたって騒ぎ立てるとか最低。これ以上、虚偽中傷を繰り返すなら、あなたのことを訴えるわよ」
追い打ちをかけておいた。勝は完全に沈黙する。弁明の一つも思い浮かばないようだった。
「話は終わりみたいね。それじゃ、私は仕事があるから」
すっと立ち上がる。彼の横を通りすぎようとした時、不意に腕を掴まれた。
「何よ。話しなさい」
強引に腕を振りほどく。次の瞬間、勝が頭を下げた。
「じゃあ俺が謝るから、再婚してくれ」
「あ、なんでそうなるのよ。あのカナって子がいるでしょ」
「いや、カナのことは別として、ほら、も一人だと大変だと思って」
急に釈明が雑になった気がする。じっと見つめると、つい彼の本音が漏れた。
「お前がママなら、再婚すれば俺が父親になれるだろう。大富豪の親戚だったら金もあるだろうし」
狙いは誠の財産か。確かに彼女は両親を亡くしたそうだから、いくらかのお金が入っただろうけれど、引き換えに大事なものを失っている。そんな子供の気持ちを一切考えない勝の発言に腹が立った。
「ふざけるんじゃないわよ。親を亡くした子供の気持ちが分からないの」
怒りを込めて言った私は、テーブルに思いきり手をつく。彼を睨みつけ、脅すように続けた。
「あんまりふざけたことを言ってると、本当に訴えるわよ。誠はね、私の可愛い子供なんだから」
張り上げた声にひるんだのか、勝が言葉を失う。
「とにかく話はこれで終わり。私はあなたと再婚なんかしないから」
私は彼の横を通りすぎた。さっさと店を出たが、勝がしつこく追いかけてくる。
「待てよ。ちょっと落ち着けって」
「は?落ち着けるわけがないでしょ」
興奮気味に言い返すと、勝はニヤニヤしながらポケットから紙切れを出す。私の目の前でちらつかせてこう言った。
「これ、何か分かるか?」
「え?」
彼が手にしているものに目をやる。そこには婚姻届と書かれていた。
「婚姻届じゃない。あのカナって子と再婚するの?人にはあれこれと文句を言っていたくせに」
「残念でした。これは俺とお前の婚姻届だ」
「え、私の?」
反射的に紙切れを奪い取る。確かに私の名前や住所が書き込まれていた。
「どういうこと?」
「どうもこうもない。こいつを提出すれば、俺とお前の再婚が成立する」
「そんなわけがないでしょ」
すぐに婚姻届を破り捨てる。しかし、彼は再び紙切れを取り出した。やはり私の名前が書き込まれている。
「それはコピーだ。一枚や二枚破ったところで意味はないぞ」
「それ、有効文書偽造よ。提出すれば偽造有効文書行使になるわ」
「残念。これを書いたのはお前だ。結婚前に書いたのを忘れたのか」
指摘されて昔のことを思い返す。言われてみれば確かに、なんつうか、婚姻届を書いた覚えがあった。
「あの頃のお前は可愛かったな。俺が言った、結婚したらすぐに婚姻届を出そうっていう言葉を信用していたし」
そういえば。時効の婚姻届であっても、同意がない場合には無効になるけれど、別人が書いた偽造と違い、証明するのは困難だ。提出前なら不受理申し出で未然に防げる。仮に提出されても、異議申し立てを行って無効にできると聞いたことがあった。しかしそこには大きな問題がある。公員無効の裁定や訴訟には時間がかかるという点だ。あれこれと手を尽くしている間に、誠に迷惑をかけると思われた。
「勝手に出せば、あなたは犯罪者よ。いいの?」
「そっちこそいいのか?子供に迷惑がかかるぞ」
脅しているらしい。こうなったら私にできることは一つしかない。
「いいわよ。言文を聞いてあげるわ。何が狙いなの?」
「瀬戸口に合わせろ。話はそれからだ」
「分かった。彼に話してみるわ。それでいいのね」
「ああ。日時が決まったら連絡してこい。断るならそれまでだ。じゃあな」
勝は私を残してさっさと帰って行った。本当に腹が立つ男だ。絶対に復讐してやると、私は決意を新たにしていた。
すぐにキビスを返し、屋敷に戻る。風に事情を話し、裕介が帰ってくるのを待つことにした。途中、誠と健太を迎えに行く。思ったよりも不安だったのか、帰り道、誠が私に話しかけてきた。
「ねえ、何かあったの?」
「え、別に何もないわよ」
ごまかしたけれどダメだった。誠は真剣な顔で問い詰めてくる。
「私には分かるもん。ちゃんと話して」
そう言われても、大人の居ざこ座を子供に話すわけにはいかない。
「少し問題が起きたのよ。でもすぐに解決すると思うわ」
「本当に?」
「ええ」
誠が納得したとは言いがたい。しかし今の私にはそれが精一杯の対応だった。屋敷に戻ると、誠と健太は宿題を始める。それからしばらくして、裕介が帰ってきた。
「ごめんね。ま、ちょっと席を外すから、二人で宿題をしててね」
「うん、分かったよ」
二人ともいい返事だ。私はそっと部屋を抜け出し、裕介のところへ行く。彼は風から話を聞いたようだった。
「あ、く子さん、ちょうど良かった。今、話を聞いたところだよ」
私に気づいた裕介がこちらを振り返る。
「そうですか。ご迷惑をおかけします」
頭を下げると、風が軽く頷いた。彼女はそのまま退散し、部屋には裕介と二人になる。
「風から事情を聞いているだろうが、私は自分の口で説明したというわけです」
「なるほど。私と会いたいということですか?」
全て話し終わったところで、裕介が頷く。彼はすぐに手帳をめくっていった。
「明日ならなんとか都合がつきそうだけど」
「いいんですか?」
「ええ。彼にはちゃんと言い聞かせないと、しつこいですからね」
なぜか彼は勝の性格もよく分かっているようだ。私を雇った後で調べたのかもしれない。とにかく助かったと安堵した。
「すみません。お時間を取らせてしまって」
「いえ、別に構いませんよ。私もきちんと話す機会が欲しかったので」
「え、それどういうことですか?」
問い返すが、裕介は笑うだけだった。
「こちらの話です。では、明日ということで、彼に伝えてください」
期待した回答は得られなかった。首をかしげつつ裕介の部屋を出る。廊下に出たところで、時間と場所を勝にメールで送った。
勝負は明日。覚悟していなさい。携帯電話を握りしめる。続けて、私はゆき子に電話をかけた。言うまでもないが、勝の浮気調査の結果を送ってもらうためだ。ついでに、あることもお願いしておく。
「じゃあ、お願いしますね」
「ええ、明日が楽しみね。本当に」
いつもよりもゆき子の声が低い。おそらく本当に怒っているのだろう。
明日が平日で良かったわ。誠たちは学校だから。子供には見せられない状況になる。私の中にそんな確信があった。
そして翌日、いつも通り誠を学校へ送っていく。屋敷に戻ると、ちょうど勝が現れたところだった。門の前にいた彼が声をかけてくる。
「よ、話はついたか?」
「私から話すことは何もないわよ」
ふんと鼻を鳴らした。ほどなく中から風が姿を表す。門の前に設置された監視カメラに私たちの姿が映っていたのだろう。彼女は丁寧に頭を下げると、勝にこう言った。
「中村勝様ですね。中へどうぞ」
様はいらないと思いつつも、口には出さない。深いため息をつき、案内に従って行った。勝が通されたのは座敷だ。あの日、最初に私が通された場所だった。
「く子さん、お茶を入れるから手伝っていただける?」
「はい」
素直に従う。勝を座敷に残し、私は風と一緒に廊下へ出た。キッチンへ向かう途中、裕介とすれ違う。彼は小さな声でこう呟いた。
「話はまとまった。君は頷くだけでいい」
とっさに振り返るが、裕介は前を向いたまま。こちらを見ることもなく座敷へ入っていった。すぐに勝の声が聞こえてくる。私は唇を噛みしめて風を追いかけていった。
キッチンでお茶を入れた後、一人で座敷へ運ぶ。中に入ると、勝が大笑いしているところだった。
「おお、く子か。待っていたぞ」
「失礼します」
取りすまして、通常の客人と同じ対応をする。いわゆる他人のふりだ。精一杯の意趣返しでもあった。
「ありがとう、く子さん」
「いえ」
「あなたもこちらに座って」
裕介が自分の隣を示す。
「いいんですか?」
「もちろん。あなたに関することでもありますから」
高都合だと思いつつ、私は裕介の隣に座った。少しの間、沈黙が支配する。やがて口を切ったのは勝だった。霊の婚姻届のコピーをテーブルに出し、裕介に文句を言い始める。
「さっきも話したが、これは婚姻届のコピーだ。く子は今でも俺に気がある。あんたと再婚なんか、俺は認めないからな」
「それはあなたの言い分ですよね。彼女は再婚の意思がないようですが」
裕介がこちらを向く。私は静かに頷いた。
「昨日も話したけど、あなたと再婚するつもりはないわ」
「ということですので、それを出せば罪に問われますよ」
冷静に指摘する。しかし勝は一歩も引かない。
「じゃあ、俺の妻と浮気した慰謝料を払いやがれ。それで許してやる」
「浮気?何のことですか?」
「お前、俺と離婚したばかりのく子にプロポーズしたんだろ。それって婚姻中から付き合っていた証拠じゃないか。そうだろ」
バンと大声で手をつく勝。昨日勘違いだと説明したのだが、どうやら彼は自分の主張を貫くようだ。
「それは誤解ですよ。確かにママを募集していましたが、それは言葉の綾で」
「言葉の綾?知ったことかよ。そんな言い訳が通じると思ってるのか」
本当に呆れた。自分が浮気を追求された時は懸命に言い逃れをしておいて、人の弁明に対してはここまで厳しく非難する神経が理解できない。
「困りましたね。では、こちらも追求しましょうか」
「え、追求?」
「はい。あなたはく子さんと婚姻中に浮気をしていましたよね。愛人のカナさんでしたか。彼女は妊娠までしている」
裕介はそう言いながら、持ってきたタブレットをテーブルの上に置いた。手早く操作し、勝とカナが一緒に映っている写真を表示する。
「こちらで調べさせてもらいました。どうぞ、ご自分の目で確認されてください」
裕介はそっとタブレットを勝の方へ差し出した。続けて、彼は私の方を見る。
「く子さん、あなたも彼の浮気の証拠をお持ちですか?」
「ええ、まあ」
私が頷いた途端、勝がっとした。
「は?お前、どういうことだよ」
「当然でしょ。自分の夫が浮気をしたら調べるのは」
そこを調査を依頼したのは私ではないが、同じようなものだ。だから詳細は言わずに、携帯電話をテーブルに置いた。裕介がやったように、私も勝とカナの写真を表示する。
「多くはないけど、私の方も裁判に勝てるくらいの証拠は揃っているわ。あまり文句を言うようなら、裁判をするつもりよ」
あ、でも旗色が悪くなったからか、勝は口ごもり始めた。世話しなく視線を泳がせている。
「この写真、会社に送り付けてもいいのよ。どうする?」
「お前、そんなことをしたら名誉毀損だぞ」
「いいのか?そうね。やるというだけでも脅迫だわ。でもね、先に脅してきたのはあなた。子供を守るためなら、鬼にだってなれるわよ」
勝を怒鳴りつけた。瞬とする彼を睨む。もう反発する気力もないようだった。
「さて、どうしますか?」
「くそ。お前ばっかり」
勝がつぶやく。
「何が私ばかりよ。先に浮気したあなたが悪いんでしょ?」
「確かに浮気した俺が悪いかもしれないが」
「かもじゃなくて、あなたが悪いのよ。認めなさい」
急つく。何か言い返そうとする勝だが、言葉にならなかった。しばらくの間、彼は無言を貫く。たまりかねた私は口を開いた。
「全く。どうしてこんなことをしたのよ」
理由を尋ねるが返事はない。やがて深いため息をつくと、勝が小さな声で言った。
「お前ばっかりずるいと思って」
「古い?何が」
「だから、こっちは片身が狭い思いをしているのに、お前は平気な顔で高い金をもらって生活していることに腹が立ったんだよ」
自分が浮気をしたのだから、当然のことではないか。少しくらい片身が狭い思いをするのは分かっていたことだろう。
「今更何を言ってるの?分からなかったの?それくらい」
「いや、分かっていたけど、急に窓際に追いやられるとは思わないだろう。大体、浮気は就業規則とは関係ないし」
そういうことかと納得した。一般的に会社の就業規則に反しない限り、社内で処分されることはない。道徳的に問題がある浮気でも、会社を解雇されるようなケースは稀だ。しかし勝の話から察すると、彼は処分に相当するような扱いを受けたと思われた。実際、会社側は処分とは言わないだろう。おそらくは移動などの言葉を使うはずだ。彼としてはそれが納得できなかった。
「でもそれって自業自得じゃないの?それに会社の決定が不満なら、会社に文句を言うべきね」
「それは分かってるけど」
要するに私にやつあたりをしたかった。そういうこと。ずるかったのか、勝は黙り込む。さすがにカチンと来た。
「もういいわ。話はここまでにしましょう」
「ま、待ってくれ。もう少し」
「うるさい。これ以上くだらない話を聞いても仕方がないわ。もう決めたわ。あなたを訴える」
テーブルの上の携帯電話とタブレットを引き寄せる。写真をつきながら、勝に宣言した。
「証拠は十分に揃ってるわ。裁判で負けて、さらに惨めな思いをすることね。そうなったら、もう会社での立場は完全になくなるでしょうね。でも別にいいんじゃない?どうせ後がないと思っていたんでしょ。そうでなければ、罪になるリスクを背負ってまで婚姻届を勝手に出すなどと言ってくるはずがない」
裏を返すと、それだけ追い詰められていたということだ。気持ちは分かるが、許すことはできなかった。
「頼む。謝るから。本当に、少し金が欲しかっただけなんだ」
涙を流し始める勝。私は見て見ぬふりをした。顔を背けるが、彼はすがりついてくる。
「なあ、頼む。お願いだよ。く子」
「うるさい。もう帰って」
入り口の方を指さす。すると、そこで裕介が割り込んでくる。
「そんなにお金に困っていらっしゃるんですか?」
「当たり前だろ。子供が生まれるんだぞ。窓際に追いやられ、給料も満足にもらえないままだと」
確かに同情の余地はあったけれど、情けをかけるつもりはない。甘い顔を見せれば、勝が付け上がるだけだ。そんな私の思いとは裏腹に、裕介は彼に助けを差し出した。
「では、私と取引をしませんか?お互いにいい話だと思いますよ」
「は?」
勝が眉を潜める。裕介は笑顔で話を続けた。
「まず、あなたには公正証書の作成に応じてもらいます」
「って、何の?」
「あなたとく子さんの離婚協議書ですよ」
離婚協議書は、離婚する際の約束ごとを書き記した書類だ。公正証書にすることで、大きな効力を発揮する場面がある。最大のメリットと言われているのが、相手の財産を差し押さえできることだった。
「公正証書にすれば、あなたが慰謝料を踏み倒すことが難しくなります。浮気の慰謝料を確実に手に入れられるのが、彼女のメリットですね」
「そんなの、俺には何の得もないじゃないか。応じる理由がない」
「いえ、ありますよ。もし公正証書の作成に応じるなら、私があなたを雇いましょう。どうですか?」
妙な提案に勝が首をかしげる。私も思わず考え込んだ。
「あの、それどういうことですか?」
「聞いたままですよ。あなたは彼ときっぱり別れたい。違いますか?」
尋ねられ、素直に頷く。
「でしたら、あとは離婚協議書があれば解決ですよね」
確かに、今後は関わらないと約束してもらって、慰謝料が払われるなら、こちらは十分だ。勝も、公正証書を作成するだけで裕介に雇ってもらえるなら、十分なメリットだろう。けれど、裕介には何の得もない気がする。
「やはり、裕介さんにはメリットがないと思いますが」
「いえ、ありますよ。労働力が手に入り、子供のために働いている方を守れます。私には十分なメリットですよ」
裕介が微笑む。本当に驚いた。ほとんど私のためにやってくれているようなものだったからだ。
「ありがとうございます」
「いいえ。それに」
言いかけた裕介が私に顔を近づける。それから、あることを耳打ちした。
「え、それっていいと思いませんか?」
彼の真意がやっと理解できた。色々と言っていたが、彼の真の目的は私の復讐を手伝うこと。それだけだった。でも、彼が、な、何て言うか、勝の方を向く。
「本当に公正証書を作成すれば、俺を雇ってくれるんだな」
「はい。当社で雇用します」
瀬戸口グループの会社なら給料は破格。しかも、で入ったとすれば、俺を下げる人間もいないはずだ。口元に悪い笑みを浮かべる勝。初詮は浮気をする程度の人間ということか。思わず顔を顰めてしまった。そんな私の反応に気づかない勝は、息と返事をする。
「分かった。公正証書作ってくれ」
「では、弁護士を呼びましょう。それと、彼女への慰謝料ですが」
裕介が私の方を向く。
「浮気と離婚の慰謝料だろ。相場は百万か二百万か、それくらいじゃないか」
「詳しいことは弁護士に話してください。いいですよね、く子さん」
念押しされ、私は頷くしかなかった。
「あ、でも、俺、金が」
「それは大丈夫ですよ。退職金があるじゃないですか」
「は?退職金をく子に渡しちまったら」
急に不安そうな顔をする勝。そんな彼に、裕介は笑顔で告げた。
「大丈夫ですよ。仕事をやめても、すぐにうちで雇用します。給料は途切れませんから、退職金を使っても平気です」
「そ、そうか。そうだよな」
勝は納得したようだが、全く気づいていないらしい。自分が裕介の仕掛けた罠にはまったことに。
「ついでに雇用契約書も作りましょうか。それなら安心ですよね」
「そうだな。雇ってもらえる保証があるなら、安心して会社に退職届を叩きつけられる」
「それじゃあ、あとは弁護士がついてから。く子さんは仕事に戻ってください」
遠回しに部屋から出るように告げられた。
「わかりました。では失礼します」
弁護士が到着したのは、私が座敷を出た三十分後のこと。色々と話をしていたようだが、詳細は分からない。後で私が弁護士から聞かされたのは、慰謝料が二百五十万円になったことと、今後は勝とカナが私に関わらないと約束したということだった。
その夜、仕事が終わった頃を見計らって、裕介に呼ばれる。部屋を訪ねると、彼はまだ仕事をしていた。
「く子さん、すみません。夜遅くに」
「いえ、何かお話でしょうか?」
「ええ、公正証書の件ですが、弁護士に一任しました。交渉承認と協議の上、後日書類が完成するということです」
ほっとする。
「ありがとうございました」
「いえ、後のことは私に任せてください。きっと彼に後悔させますから」
裕介が笑う。私は静かに頭を下げた。数日後には公正証書が手元に届く。さらに一週間が経つ頃には、慰謝料も振り込まれていた。裕介には本当に感謝しかない。私はますます仕事に励んでいった。
そうして二週間が経った頃のことだ。誠が手伝いたいと言ったので、彼女と夕食の準備をしていると、不意に勝が訪ねてきた。彼は玄関先で大声をあげる。
「おい、さっさと出てこい。いるんだろ」
監視カメラの映像を確認した。間違いなく勝だ。ただ、珍しく作業服を着ている。顔も汚れていて、本当に彼なのかと見間違うほどだった。
「ふざけやがって。この門を蹴破って入るぞ。いいのか?」
近所迷惑なくらいに怒鳴っている。さすがに腹が立った私は、風の代わりに応対した。
「どちら様でしょうか?」
わざとらしく言いながら門を開ける。その途端、勝は大声をあげた。
「瀬戸口はどこだ?あいつを出せ」
「瀬戸口って、裕介さんのこと?」
「ああ、そうだよ。あの大嘘つきを出せ」
勝は私を睨んだまま門を蹴る。ふと見ると、近所の人が窓からこちらの様子を伺っていた。私は大げさな仕草で彼を注意する。
「申し訳ありませんが、お客様、こちらで騒がれますと、近所の方にご迷惑になりますので」
「はあ?急に何を?」
勝が顔を顰める。イラっとした私は、彼に耳打ちした。
「静かにしろって言ってるのよ。分からないの?通報されるわよ」
「知ったことか?第一、俺を騙したあいつが悪いんだよ」
その場で足を踏み鳴らす。随分と苛立っているのが分かる。懸命に笑いをこらえて、私は彼に尋ねた。
「騙したって、何の話?」
「だから、仕事のことだよ。俺を雇うとか言って」
「雇ってもらったんでしょ。その下げを吹く胸源に名が入ってるじゃない」
勝が来ていた作業服の胸元を指さす。そこには「瀬戸口ビルサービス会社」と書かれていた。確かに瀬戸口グループの会社だが、ただの清掃会社じゃないか。
「でも、雇ってくれたんでしょ。じゃあ、彼は嘘をついてないじゃない」
「でも」
悔しそうに勝がはぎ知りをする。
「清掃会社とは思わなかった」
「当たり前だ。俺は底辺の連中とは違うんだからな。それなのに、俺をあんなところに送り込みやがって」
勝が愚痴をこぼし始めた。彼の話を聞く限り、今日が初日だったらしい。スーツ姿で出社したら同僚に笑われたとのこと。すぐに作業服に着替えさせられ、その後は汚れる一方だったそうだ。自分よりも若い社員に怒鳴られ、昼も喉を通らないくらいに働かされた。そして帰り際に言われたのが「給料は安いけれど、やめるなよ」だった。
「分かるか?俺の気持ちが」
「分からないわよ。あなたが私の気持ちを分からなかったのと同じで」
「なんだと?」
むっとする勝に、すかさず私は話を続ける。
「前に言ったわよね。人を見下すのはやめてって。でも、あなたは分かってくれなかったじゃない」
「あれは」
「そういうことよ。自分が同じ立場になったら、よく分かったでしょ。彼らがどれだけ真剣に働いているのかってことが」
彼は引っ越し業者のことを見下していた。肉体労働は底辺の仕事だと。今の彼はまさに力仕事をする人間だ。自分が見下していた同じ仕事につき、どう思っているのだろうか。
「文句があるなら、仕事をやめればいいじゃない」
「だ、そんなことをしたら」
「嫌なら続けることね。私が話すことは何もないわ」
すっと勝に背を向ける。
「ま、待てよ。あいつに、瀬戸口に合わせてくれ」
「まだ帰っていないわ。そこで待っていれば」
「いつ帰るんだよ。それくらい分かるだろ」
ものすごい勢いで聞かれた。私は首をかしげて見せる。
「さあ、彼も忙しい人だから。じゃあね」
「あ、おい、く子」
何か言っていた気がしたが、私は耳を塞いだ。振り返らずに門を閉める。自業自得なのよ。呟いた私は屋敷に戻った。
その日、裕介が帰ってきたのは深夜零時を過ぎてからだ。勝の件は別として、単に仕事が忙しかったらしい。
「家の前に勝がいませんでしたか?」
「誰もいなかったよ。まあ、近いうちに文句を言ってくるかもしれないけど」
裕介は笑いながら話した。しかし笑い事ではない気もする。とりあえず気をつけておこう。密かに誓っていった。
その数日後のことだ。誠と健太を迎えに行くと、ふと小学校の前をうろつくカナに出くわした。
「あ、見つけた」
彼女は私を見るなり、そそくさと近づいてくる。
「何ですか?」
「あなたに話があるの」
「話?」
「うん。瀬戸口さんに合わせてくれない?」
お前もかと心の中で叫んでしまった。それはさておき、少し考えてから理由を尋ねる。
「どうして彼に会いたいんですか?」
「え、だって、彼、ママを探しているんでしょ?だから、私が立候補しようと思って」
平然と言い放つカナ。あ然としてしまう。
「あなた、自分の子供がいるでしょ?」
「え、もうすぐ生まれるわ」
彼女のお腹は随分と大きい。詳しくは知らないが、妊娠八ヶ月から九ヶ月というところか。
「子育てをしながらママもやるつもりなの?」
「はあ?そんなわけないじゃん。この子は勝にあげるの」
「あげる?」
思わず言葉を失いかける。自分の子供なのに、まるで物のような扱いだ。さすがに我慢できなくなり、彼女を怒鳴りつけた。
「何よ、その言い方は。自分の子供でしょ?愛情はないの?」
「うるさいばね。関係ないでしょ。あんたにはあるわよ」
「自分の子供に愛情をかけられない人が、ママになって他人の子供を幸せにできるはずがないじゃない」
正しいかどうかは分からない。ただ、私がそう思っていただけだ。
「子供を産んだこともないくせに、偉そうに説教するな」
痛いところを突かれた。そう言われると反論できない。
「とにかく、私を瀬戸口さんのところに案内してくれればいいの。あんたの仕事はそれよ。わかる?」
少し強い口調で聞かれる。どう言い返そうかと考えていると、近くから健太の声がした。
「お前、く子さんに何をしてるんだよ」
「え?何よ、このガキ?」
カナが不快感をあらわにする。反射的に私は健太をかばった。
「私が面倒を見てる子よ。手出しはさせないわ」
「あ、この子が」
にやりとカナの口元が緩む。その瞬間、私はゾっとした。
「この子に手を出したら、絶対に許さないわよ」
「はあ。手を出すわけがないでしょ。ねえ」
健太に話しかけるカナ。彼はそっぽを向いていた。
「とにかく帰ってくれる?これ以上何か言うなら、警察を呼ぶわよ」
「ふん。生きな。まあいいわ。今日のところは帰ってあげる。でも、私は勝みたいに甘くないわ。あんたの仕事、奪ってやるから覚悟しなさい」
カナがこちらを指さす。しかし、私は健太を庇うことで精一杯だった。気づけば周囲の視線も私たちを捉えている。普段から健太と誠の送り迎えをしている私を知っている人は少なくないけれど、見慣れないカナを警戒する人は多いようだ。どこからか「怪しい女がいるわ」と聞こえてくる。カナはすぐに察したのか、私にこう言い放った。
「瀬戸口さんに会いたいって伝えなさい。いいわね」
「ええ、伝えるだけなら」
「それでいいわよ」
ふんと鼻を鳴らしながら帰っていくカナ。彼女の後ろ姿を見送った私は、アドする。それからしばらくして、誠が校舎から出てきた。興奮している私を見て、彼女は拠とんとしてこう聞いてくる。
「お母さん、どうしたの?」
「うん、なんでもないわ」
その時の私は、初めて外でお母さんと呼ばれたことに気づいていなかった。
「帰りましょうか?ま、健太」
「うん」
誠が腕に抱きついてくる。その仕草の意味に気づくのは、もう少し先のことだった。
帰宅した後、誠はいつも通りに宿題を始める。私は彼女の向かい側に座り、その様子を眺めていた。いつもと同じ光景。一つ違ったのは、健太が友達と遊びに行ったことだ。彼は男の子だし、友達も一緒だから大丈夫だろうと私は考えていた。実際、美穂からも遊びに行かせても構わないと言われている。だから深く考えずに健太を送り出した。
倉庫するうちに、宿題を終えた誠が私の服の袖を引っ張る。
「ねえ、お母さん、今日もご飯の準備手伝っていい?」
「え、いいわよ」
「じゃあ、何を作りましょうか?」
「えっとね、私、ハンバーグが食べたい」
笑いながら話す誠。私が最初にここに来た時よりも、随分と口数が増えた気がする。少しは立ち直ってきたのかしらと、誠の頭を撫でた。
「じゃあ、今日はハンバーグね。頑張りましょう」
「うん」
二人でキッチンへ向かう。すでに風が夕食の準備を始めているところだった。彼女に話しかけようとした瞬間、携帯電話が鳴る。
「ごめんね、ま、ちょっと待ってて」
誠のことを風に頼み、その場から離れた。廊下の隅で電話に出る。
「もしもし」
「く子さん、誠は?」
電話の相手は裕介だった。
「誠ですか?」
言いながら、キッチンで風と話す誠の方を向く。楽しそうに笑う様子を確認してから、裕介に告げた。
「今から一緒に夕食の準備をするところですけど」
「え、一緒に?」
「はい」
「変わりましょうか」
だが返事が帰ってこない。通話口の向こうからは、数人が何か話している声が聞こえる。
「あの、他の人が近くにいるんですか?」
「誠はそこにいるんだよな」
なぜか要領を得ない言葉が返ってくる。私は首をひねりつつこう答えた。
「はい。いますよ。当然じゃないですか」
「そっか。よかった」
これ見よしにため息をつく裕介。何か妙だと思い、事情を尋ねた。
「あの、何かあったんですか?」
「いや、実はね、私のところに、お前の子供と一緒にいるという電話があって」
彼の話はこうだ。ほんの数分前の話。仕事中に彼の携帯電話が鳴った。公衆電話からの通話で、相手は女性だったとのこと。彼女は「お前の子供と一緒にいる。すぐに来い」と告げると、すぐに通話を終えた。当然、裕介の脳裏に浮かんだのは誠の顔だ。学校の送り迎えは私がやっている。家でも一緒にいるから問題ないと思ったけれど、私に万一があれば誠がいなくなる可能性はある。そう考えた裕介は、私に電話をかけたということだった。
「でも、誠が一緒にいるならよかった」
「ええ、学校が終わってから、彼女とはずっと一緒に」
言いかけたところで、私は発っとする。突然、頭にカナの顔が思い浮かんだからだ。学校の前で彼女とは揉めたばかり。しかも、私と健太が一緒にいるところを見られている。
あの時、私、なんて言った?自分の言葉を思い出す。確か、健太のことを「面倒を見てる子」と告げた。悪い想像が一気に駆け巡り、つい黙り込んでしまう。
「どうしたんだ、く子さん」
不安になったのか、裕介が語りかけてくる。私は自分の頭に思い浮かんだとんでもない話を口にした。
「もしかしたら、誠じゃなくて健太かも」
「え、何が?」
「その電話をかけてきた人と一緒にいるのが、健太かも」
「なんだって?」
裕介の叫ぶ声が聞こえる。その時の私の頭には、カナの顔が浮かんでいた。話は少しだけ遡る。勝にファミレスに誘われた時のことだ。私は彼に文句を言う中で、誠の名前を出してしまった。だから彼は、裕介の子供の名前が誠だと知っている。同じように、カナは私と健太が一緒にいるところを見た。私が面倒を見ていると言ったこともあり、健太が仕事に関係がある子供だと認識しているはずだ。これだけなら何も問題はなかった。しかし、勝は裕介に恨みを持っている。雇うと言われた結果、清掃業につかされた。不本意だとして、裕介に司会しすることを考えても不思議ではない。カナも同じようなものだ。自分が私の代わりにママになろうと考えていた。この二人が一緒になれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだ。互いが持っている情報を付き合わせ、裕介に言うことを聞かせようとするだろう。最も手っ取り早いのは、誠を利用すること。ただ一つ問題がある。勝が知っているのは「誠」という子供の名前のみ。そしてカナは、私が男の子だけを世話していると思い込んでいる。
「だから、あなたの子供が誠という男の子だと思ったカナと、勝が健太と一緒にいるのかもしれません」
「そういうことか」
彼も理解してくれたようだ。
「あとはこっちで何とかする。君は誠と」
「はい」
返事をするや否や、電話は切れた。それから三十分ほどが経ち、再び裕介から連絡が入る。
「もしもし。健太は?」
「大丈夫?無事だから、迎えに来てくれないか?」
「あ、でも、誠が」
「連れてきてくれ。君がいないと話にならないからね」
話が見えないが、言われた通りにした。誠と一緒にタクシーで指定された住所の場所へ向かう。着いたのは公園の近くにある喫茶店だった。表には数台のパトカーが止まっている。誠を抱きしめつつ中を覗くと、裕介の姿が見えた。入り口のところにいる警察官に事情を話す。すると、すんなりと中へ入れてもらえた。
「裕介さん、く子です」
入り口で声をかける。すぐに気づいた彼は軽く手を上げた。
「こっちだ」
誠と手をつないで奥へ行く。彼のそばに着くと、目の前に星座させられている勝が目に入った。さすがに妊娠中のカナは座席に座らされている。しかし両脇は女性警官に固められていた。
「あんた、よくも騙してくれたわね」
私の顔を見るなり、カナが立ち上がる。
「おい、黙れ。大人しく座ってろ」
「でも」
「喋るな。それとも、今すぐに刑務所に入りたいのか?」
温厚な裕介の低い声に驚いた。ふと見ると、近くの席では健太がアイスクリームを口にしている。
「健太、大丈夫?」
「お、別に平気だよ」
よかった。胸を撫で下ろした。誠を健太の隣に座らせ、近くにいた店員に声をかけた。
「あの、この子にも何か出せますか?」
誠を指さす。店員は軽く頷くと、店の奥へ引っ込んでいった。
「ま、少し健太と一緒にいてね」
「うん、分かった」
彼女が承知したのを確認し、席を移動する。二人の様子がよく見える位置に座り、勝とカナの方を向いた。
「やっぱり、この二人だったんですね」
「ああ。一緒にいただけと言っているが、誘拐の現行犯だ」
裕介が厳しい視線をカナと勝に投げかける。
「はあ?だから、誘拐じゃないって言ったでしょ」
すかさずカナが反論した。
「うるさい。健太を公園からここに連れてきた。それだけでも十分に誘拐だろ」
誘拐の基準の一つに、場所の移動がある。子供の生活から離れた場所へ連れて行った場合、その時点でアウトだ。公園にいた健太を喫茶店に連れ込んだとすれば、十分に誘拐になると思われた。
「だから、子供を連れてきたのは勝。私は関係ないわ」
「なんだと?お前が連れてこいって言ったんだろ」
「人に罪をなすりつけるつもり?最低ね、あんた」
カナがテーブルの上のものを投げつける。勝は両手で自分をかばいつつ言い返した。
「お前の計画だろ?これは正直に白状しやがれ」
「なんですって?あんたが言い出したんでしょ?子供を盾にして、あいつに言うことを聞かせればいいって」
互いに睨み合うカナと勝。どちらも似たり寄ったりというところか。
「ああ、もういい。警察署に連れて行ってくれ」
呆れた裕介がそう口にする。すると、カナも勝も急に弁明を始めた。
「ち、違うのよ。お金もないし、生活に困っていたから、あなたに私を雇ってもらおうと思っただけ」
「そうだ。姉貴には家から出て行けと言われるし、本当に困って」
懸命に言い訳をしている二人だが、裕介は全く聞いていない。そっぽを向き、ため息をついていた。仕方がないので、私が相手をする。
「勝、家を追い出されたの?」
「ああ、なんか姉貴が急に出ていけとか言ってきて、俺もカナも木の実木のままで追い出されたんだ」
「まあ、それは仕方がないわね。あの家の名義はゆき子さんなんだから」
遺産相続の際、義母の家と土地は勝が受け取ればいいとゆき子は最初から主張していたけれど、なぜか彼は固く拒否したらしい。ゆき子には自分の夫の家と土地があるため、勝が断る理由が分からなかった。
「く子は自分で家を選びたいと言っている。俺は彼女の気持ちを尊重したい」
話し合いの最後には、聞こえのいい言葉を並べ立てる勝。さすがのゆき子も納得するしかなかった。遺産相続の話が長引いていた理由の一つがこれだ。こうして義実家の家と土地はゆき子の名義となったのだが、この話には裏があった。本当は勝は私のために家と土地の受け取りを拒んでいたわけではない。理由は別のことだった。
「あなた、私と離婚する時に、家と土地があると困ると考えていたのよね」
「あ、いや」
この反応だけで十分だ。自分の答えが正しいと確信できた。
「でもね、あなたは一つ勘違いしてるわ。相続した財産は特有財産。離婚の財産分与の対象にはならないのよ」
「え、本当に?」
目を見張る勝。私は大きく頷いた。
「なんだよそれ。早く言ってくれよ。だったら姉貴に譲らなかったのに」
勝がだれる。
「でも、結果的には正解だったかもしれないわよ。あなたは浮気をした。私から慰謝料を請求されたら、特有財産とか関係なく支払う義務を負うんだから」
「じゃあ」
「そう考えると、相続してても結果はあまり変わらなかったはずよ。ただ、少しくらいは手元にお金が残っていたと思うわ」
「マジか」
深いため息をつき、彼はがっくりと肩を落とした。
「とにかく、ゆき子さんに頼んで正解だったわ。あなたに随分と大きなダメージを与えられたから」
「は?頼んだ?」
さっと顔を上げる勝に、私は笑顔で答えた。
「ええ、私があなたたちをあの家から追い出してもらうように仕向けたの」
「なんだって」
「住むところがなくなれば、生活費の負担が増えるでしょ。浮気したあなたへの仕返しとしては少し物足りないけれど、ごめんなさいね」
本当にうまくいったと思い、嬉しくて仕方がない。悔しそうな勝を見ていると、横からカナが口を挟んできた。
「あんたのせいだったのね」
「うん。何が?」
「私たちが家から追い出されたことよ。あれがなければ、なんとかなっていたわ。勝の仕事だって、我慢させれば少しくらいの収入にはなってたし」
勝をカナが睨みつける。
「しかも、子供のことでも私を騙して」
「ああ、それはあなたが勝手に勘違いしたんでしょ。私は何も悪くないわ」
「はあ。あの時、あんたが面倒を見てることか言わなかったら、言わなかったら、誠に手を出していたんでしょう」
「どっちでも同じ。犯罪を企てる人の生活なんか、私が考慮してあげる必要はないわ」
カナを怒鳴りつける。彼女は不機嫌そうに視線をそらした。
「結局、あなたは自分のことだけ。人の迷惑とか、何も考えてないでしょう」
「あんたには関係ないわ」
「いえ、違ったわ。あなたは自分の子供の父親が誰かも分かっていないのよね。まずは自分の行動に責任を持つことから始めなさい」
私が言った途端、店内の空気が固まる。こちらを見上げた勝が、そっと聞いてくる。
「く子、今の話、どういうことだ?」
「え?何が?」
さすがにまずいと思って、とぼけてみた。
「カナの子供の親が分からないって言っただろ」
ごまかせなかったようだ。私は深いため息をついた後、携帯電話を取り出した。
「彼女、あなた以外にも複数の人とお付き合いしていたのよ。あなたには見せなかったけど。これが証拠ね」
そう言いながら、片手で携帯電話を操作する。流れるように表示されていく写真の数々。全てにカナが男性と映っているが、相手の男性はどれも違う人だった。
「はい、終了。数えるのも面倒だから、さんいるとだっけ?言っておくわね」
カナの方を向くと、彼女は真っ青な顔をしていた。
「おい、カナ。どういうことだよ。俺の子じゃないのか?」
「ち、違うわよ。この女が出たらめを言ってるの」
私のことを指さすカナ。額には汗が滲んでいる。
「私のせいにするのは勝手だけど、勝がDNA検査とかしたら、すぐにバレるんじゃないの?違うかしら」
わざとらしく、正解を確認する方法を提示した。途端に勝が。
「確かにそうだな。子供が生まれたら、DNA検査をするか」
「待ってよ。私のこと疑ってるの?」
勝は平然と頷く。
「当然だろ。お前、さっきなんて言った?今回の件、全部俺のせいにしようとしたじゃないか」
「あれは」
「そういうふうだから、信用できないって言ったんだよ」
いきなり声を荒げる勝。彼は腕を組んで顔を背ける。でも、もう無理だと私は思ったけれど、カナは懸命に取りなそうとする。
「自己保身っていうかつい口から出た言葉だったの。仕方ないでしょ」
「はあ。仕方ないで済むか。自分の一言でどれだけの人間に迷惑がかかるか、分かっていないのか?」
どこかで聞いたようなことを、勝が偉そうに言っている。自分のことは棚に上げて。これはさすがに見過ごせない。私は少しだけ口を挟むことにした。
「勝も、許してあげればいいじゃない。自己保身くらい、誰でもするでしょ」
「なんだと?許せるわけないだろ。第一、関係ないお前が口を出すな」
「はいはい。ごめんなさいね。でも、あなたも自己保身をしたことがあるでしょう。彼女に『お前だけを愛している』とか言ってない?たくさん愛人がいるのに」
「五尾」を強調する。カ発入れず、カナが聞き返してきた。
「それ、どういうこと?詳しく聞かせてくれる?」
「この人にも愛人がたくさんいるってこと。あなたと同じ。分かりやすく言えば、同じ穴の無え」
「そうなんだ。勝。よくも怒鳴り散らしてくれたわね」
ミクジを立てるカナ。本当によく似ている二人だ。
「カナ、少し落ち着こうか」
「なんで?」
「いや、あんまり怒ると体に良くないぞ。子供にも影響が」
今度は勝が言い訳を始める。これ以上は打速というものだ。
「裕介さん、この辺りで終わりにした方が」
「そうですね。すみません。この二人を警察署へ連行してください」
近くにいた警察官に裕介が告げる。頷いた警察官は、現場にいた全員にアイスを送った。次の瞬間、勝とカナが強引に立たされる。
「え?あ、ちょっと待って」
「待ってくれ。話を、話を聞いてくれよ」
オロオロするカナと、声もなく騒ぐ勝。結局、抵抗の甲斐なく、二人は店の前のパトカーに乗せられていた。裕介と店の外へ出たところで、パトカーが発射する。その姿はすぐに見えなくなっていった。
警察署に連行された二人は、健太に対する誘拐で逮捕されたそうだ。法定目的ではないと言い張ったようだが、果たして二人の言い分が認められるか。初期の段階ではかなり微妙だった。最終的には二人の主張は認められず、裕介から金銭やそれに類いするものを手にすることが目的だったと判断されたらしい。今は裁判を待っているのだが、実刑判決になるだろうと示唆されていった。また、裁判を待っている間に、カナは男の子を出産する。彼女は勝の子供だと供述したとのこと。真実かどうかは分からないけれど、おそらくは他の人の子供だろう。私は勝に問題があると思っていた。これは妻だった自分が妊娠しなかったからでもあるけれど、最大の理由は彼の浮気相手が誰も妊娠していないことだった。カナを除いて。勝に問題があると考えれば、浮気相手が妊娠しなかった件にも説明がつく。浮気したのが一人や二人の話ではなかったため、信憑性があると私は考えていた。彼は子供のDNA検査をすると息巻いているし、今は結果が出るのを待ちたい。
ついでに話すと、私は少しだけ生活環境が変わった。仕事をやめたわけではない。相変わらず健太と誠の面倒を見ているし、ゆき子ともメールなどをやり取りしていた。大きく変わったのはたった一つ。裕介から正式にプロポーズされたことだ。さすがに驚いたが、断る理由もない。確かに私は彼に惹かれていた。それに、誠のことも最近は本当の娘のように思えている。健太の事件があった日、彼女は私のことを外で初めてお母さんと呼んだ。否定しなかったから、本当に受け入れられたと感じたそうだ。私に強く抱きついたのがその証拠。あの日、私と誠は本当の親子になったのだ。
「だから、結婚はいいけど、もう少し時間がね」
「ああ、もちろん。もう何年も待ったから、少しくらい酒でも」
「え、何年も?」
首をかしげて聞き返す。すると、彼は真実を打ち明けてくれた。
「実は、あなたが元夫の彼と出会った結婚式に、俺も出てたんですよ。声をかけたかったけど、うまく話せなくて」
「本当に?」
「だから、いくらでも待ちますよ。母さんも賛成してくれてますし」
裕介が風を振り返る。彼女はにこやかに頷いていた。そんな話をしていると、誠が部屋から出てくる。私に飛びついた彼女はこう言った。
「これからは、いつでもお母さんって呼んでいいよね」
「もちろんよ」
「ありがとう、お母さん。大好き」
この時、誠の中では義母から母に変わっていたらしい。私にそれを話してくれたのは、数日後のことだった。



