「私たち、お父さんもお母さんもいないの?」
その言葉に、俺ははっとした。目の前の双子の姉妹が、悲しそうにうつむく。
「車と車がバーンってぶつかってね、いなくなっちゃったの」
もう一人の子が、手と手をパチンと合わせて、切ない目で空を見上げた。
俺は何も言えなかった。
俺の名前は高田ケント。もうすぐ三十路を迎える平凡な独身サラリーマンだ。一人暮らしも八年目に入り、家事や料理にもやっと慣れてきた。実家を出るとき、両親は寂しそうだったけど、笑顔で送り出してくれた。
「いつでも帰ってこいよ」「風引かないようにな」
初めてのボーナスでマッサージチェアをプレゼントしたら、二人とも大喜びしてくれた。もっと親孝行しようと誓ったのに、その三年後に父が亡くなった。
母は一人で大丈夫だと強がって、実家に戻ることを拒んだ。だから俺は毎週末、実家に帰ることにした。仏壇に挨拶して、リビングで母とコーヒーを飲みながら話す。それが俺のルーティンになった。
あの日も、天気予報通りに雪が降った。母がぎっくり腰をやったと電話してきたのは、その翌日のことだ。
「雪かきしなくちゃ、近所に迷惑かかっちゃうわ」
「無理するなよ。明日、俺がやるから」
「あなた、明日は水曜でしょ。仕事があるじゃない」
母は明るく言うけど、無理に決まってる。俺はすぐに部長に連絡して、休みをもらった。
翌日、電車が止まるんじゃないかとヒヤヒヤしながら、なんとか最寄り駅までたどり着いた。見たことないような雪景色に、しばし呆然と立ち尽くす。屋根も木々も、すべてが雪の重みに包まれていた。
実家の前に着くと、雪かきされた跡があった。
「母さん、無理するなって言ったのに」
そう思って門をくぐると、小さな女の子が二人、スコップを持って雪をかいている。
「あ、おばちゃん、けんちゃん帰ってきたよ」
女の子の一人が、なぜか俺の名前を呼んだ。
「けんちゃんでしょ? おばちゃん、今日けんちゃんが帰ってくるからって、嬉しそうに言ってた」
もう一人の女の子が、無邪気に笑う。
「あらあら、お帰り」
奥から、柱に捕まりながら母が出てきた。
「大丈夫なのかよ。無理するなって」
俺は慌てて母を支えながら、この子たちは誰かと聞いた。
「川本です。もうすぐ一年生になります」「川本秋です。私ももうすぐ一年生になります」
双子だった。大きな瞳と丸いほっぺがそっくりで、可愛い。
聞けば、数日前、道端で腰を痛めて座り込んでいた母を、この子たちが助けてくれたらしい。
「買い物袋からりんごを拾おうとしたら、腰がグキーってなって動けなくなっちゃって。人通りもない場所で困ってたら、公園で遊んでたあきちゃんたちが気づいてくれてね。交番まで走ってくれたの」
「おかげで助かったわ」
母がにっこり笑うと、女の子たちも嬉しそうに笑った。
「次の日に偶然うちの前を通る二人を見かけたから、お礼がしたくて声をかけてお菓子をあげたのよ。近所に越してきたばかりだっていうから、それ以来時々うちに来て手伝ってくれるの」
「そうなんだ。ありがとうね。お父さんとお母さんにもお礼しなくちゃな」
俺が何の気なしに言うと、母は眉間にしわを寄せて、人差し指を立てた。
「え、俺、なんかまずいこと言った?」
「私たち、お父さんもお母さんもいないの?」
さきちゃんが悲しそうにうつむく。
「車と車がバーンってぶつかってね、いなくなっちゃった」
あきちゃんが手を合わせて、空を見上げる。
「そ、そうなんだ」
この小さな二人が、そんな状況にあるなんて想像もしていなかった。
「でも寂しくないよ。みかちゃんと一緒だから」
さきちゃんはパッと顔を上げて、笑顔を見せてくれた。
「みかちゃんってね、この子たちのおばさんに当たる方らしいんだけど、若いのに彼女たちを引き取って育ててるそうよ」
「へえ」
「みかちゃん、お料理すっごく上手なの。とっても美味しいのよ」「それに面白いしね。いつも楽しいこと言って笑わせてくれる」
二人は顔を見合わせてニコニコしている。両親を失った悲しみを抱えているはずなのに、こんなに屈託のない笑顔でいられるのは、みかさんという人のおかげなのだろう。
「私もお会いしたことあるんだけど、あなたより少し年下くらいかしら。すっごく可愛くて素直ないい子なのよ」
「あら、噂をすれば」
玄関が開く音がして、入ってきたのは、目がぱっちりと大きく、ショートカットがよく似合う小柄な女性だった。
「お世話になってしまってすみません。仕事が終わったので迎えに来ました。ほら、帰ろう」
みかさんは母にぺこりと頭を下げ、申し訳なさそうに双子の手を引いた。
「あらあら、そんなに急がなくてもいいじゃない。いただきものの美味しいクリームがあるのよ。みかちゃんも一緒に食べない?」
「ああ、シュークリーム!」
さきちゃんは手を離して、目をキラキラさせて母のところへ駆け寄った。
「もう、さきちゃん。すみません、本当にいいんですか?」
「いいの。ほら、ケント、みかちゃんにコーヒーをお出しして」
「はい」
俺はキッチンに立ち、母とみかさんのコーヒーを入れ、双子のために牛乳を温めた。
「息子のケントよ。一人で暮らす私を心配して、こうやって時々帰ってきてくれるの」
「そうなんですか。優しい息子さんですね」
リビングから、みかさんと母の話し声が聞こえてくる。
「わあ、甘い。美味しいね」「本当だ。すっごく美味しいクリームだね」
みんなでテーブルを囲んでシュークリームを頬張ると、なんだか温かい気持ちになった。
「やだ、秋、クリームついてる」
みかさんはあきちゃんの口元についたクリームを優しく拭いてあげている。まるで春の日差しのように温かいそのまなざしは、俺の心までも包み込んだ。
だけど、ふと気がついてしまった。みかさんの袖口はほつれ、靴下には小さく穴が開いている。それに、軽く触れるだけでも折れてしまいそうなほど細い体。目の周りには深い影が浮かび、まるで毎日の苦労が刻まれているかのようだった。
「みかちゃん、あなたちゃんと食べてる?」
母も同じことを思ったようだ。シュークリームを食べ、庭で遊び始めた二人を窓越しに眺めながら、心配そうに尋ねる。みかさんは黙り込んだ。
「余計なお世話かもしれないけど、心配なのよ。双子ちゃんを育てるのは大変だと思う。困ったことがあったら言ってくれない?」
「私に何ができるか分からないけれど」
俺も母と全く同じ思いだった。今日会ったばかりの女性なのに、なぜか無性に守ってあげたい、助けてあげたいと強く感じていた。
「詳しい事情は分からないけれど、一人で抱え込むことないよ。大変な時は人に頼ってもいいんじゃないかな」
そう声をかけると、みかさんはぽろぽろと涙を流し始めた。
「私しかいないんです。あの子たちには。大好きだった姉夫婦が、命より大切にしてた可愛い子供たちなんです。私が育てないと」
そう言って肩を震わせた。
「施設に預けることも進められましたが、そんなことできません。私自身、両親が早くに亡くなって、姉と二人で施設で育って寂しかったんです。もちろん施設の先生たちはよくしてくれましたが、どうしようもなく寂しくって」
「そうだったの」
涙もろい母が鼻をすする。
「でも結局、私一人じゃ経済的にギリギリで、あの子たちには我慢させてばかりです。保育士の仕事は大好きなんですが、やめてもっとお給料のいいところに転職しようかと思ってるんですが、なかなか」
肩を落とすみかさん。
「とりあえず今日はうちで夕ご飯食べていって。ケントもいることだし、美味しいお肉奮発して焼肉でもしようと思ってたのよね」
昔から困っている人を見ると放っておけない性格の母。そして悲しい時はとりあえず美味しいものを食べようという考えは、昔から変わらない。俺もそんな母に何度救われたことか。
「いいね、焼肉。俺、買い物行ってくるよ。みかさんも子供たちも、嫌いなものとかアレルギーとかない?」
「ないですけど」
「買い物なら二人で行っておいでよ。さきちゃんたちは私が見てるから。お肉いっぱい買ってきてちょうだい。雪で滑らないように気をつけてね」
そう言って母は俺に財布を渡した。
「オッケー。じゃあ行ってきます」
みかさんは戸惑いながらも、俺の後をついてきてくれた。
「すみません。なんだかお言葉に甘えて、夕ご飯までいただくことになってしまって」
みかさんは隣を歩く俺を遠慮がちに見上げる。上目遣いで俺を見る大きな瞳に、どきっとしてしまう。
「ああ、いや、こっちこそなんだか強引に。お気遣いなんて。俺も母も、そんなこと」
「私たち、引っ越してきたばかりで知り合いもなくて心細かったので、親切にしてくださって本当に嬉しいんです」
そう言って、みかさんはふっと笑った。
スーパーに着くまでの間、俺たちは歩きながらいろんな話をした。人見知りで初対面の人とはなかなか打ち解けられない性格の俺だが、なぜだかみかさんとは不思議と話が途切れない。みかさんの温かいまなざしと柔らかな声が、俺の緊張を解きほぐしてくれるようだった。
みかさんも、お姉さん夫婦との思い出や仕事のこと、さきちゃんたちのことなど、いろんな話をしてくれた。
「さきちゃんたち、来年は小学生なんですね。準備大変じゃないですか? なんてったって二人分ですもんね」
「そうですね。まずランドセルを買ってあげなくちゃいけないんですが」
そこまで言って、みかさんは唇を噛みしめた。
「最近はラン活とか言って、早いうちから購入しておかないと人気のものはすぐに売り切れるってニュースでやってたっけ?」
「あ、着きましたね。さあ、買いましょう」
一瞬暗い表情を見せたみかさんが気になったが、スーパーに到着し、俺はみかさんと二人で食材をたんまり買い込んだ。
その夜は、すごく楽しくて幸せな食卓だった。俺と母さん、みかさんと子供たち。こんなにわいわい賑やかに過ごす夜は、いつぶりだろうか。母も嬉しそうで、いつにも増してお酒が進んでいたようだ。
「ほら、母さん、飲みすぎちゃだめだぞ」
「大丈夫、大丈夫。ほら、みかさんもどう? いっぱいだけ」
「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ」
みかさんもアルコールには強い方らしく、美味しそうにビールを口にした。
「さきちゃんたち、春には小学生ね。ランドセルは何色?」
ほろ酔いの母が嬉しそうにさきちゃんに尋ねた。
「うーん。わかんない。何色がいいかな?」
そんな二人を見るみかさんは、なんだか複雑な表情だ。
「みかさん、あの、もしかして」
ランドセルはピンキリだけど、意外と値が張る。最近は祖父母の財布から購入してもらう人も多いってニュースで言ってたことを思い出した。もしかしてみかさん、二人分のランドセルを買ってあげる余裕がないんじゃないだろうか。
「はい。恥ずかしながら、まだ買えてなくて。去年のモデルのものは少し安くなってるんですが、それでもまだ手が届かないんです。情けないですね」
みかさんの目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「俺、二人にプレゼントさせてもらえませんか?」
「え?」
「あら、ケント、かっこいいこと言うじゃないの」
母が驚いて俺の肩を叩く。
「一人で暮らす母が何かと心配だったんですけど、みかさんやさきちゃんみたいな優しい人がそばにいてくれると思うと安心なんです。そのお礼にっていうか、いや、お礼ってわけじゃなくて、単純に俺が買ってあげたいんです。可愛いさきちゃんとあきちゃんに」
「ランドセル買ってくれるの? けんちゃん」
二人がキラキラした目で俺を見上げた。
「うん。これも何かの縁だ」
首をかしげるあきちゃんとさきちゃんの、その可愛い表情に胸を抜かれる。
「そうね。みかちゃん、ケントに甘えてもいいんだよ。じゃないとあなた倒れちゃう。無理してるでしょ」
「私、大丈夫です。この子たちのためなら」
「うん。自分の食費削ってまでお金を節約して、ランドセル買ってあげようと頑張ってるんじゃないの? そんなに痩せてしまって」
母はうつむくみかさんの背中をさすりながら続けた。
「こういう時はお互い様なのね」
「ありがとうございます」
みかさんは声を上げて泣いた。
後日、俺たちはみんなでランドセルを買いにデパートに行った。はしゃぎ回って迷った挙句、手にしたのは、さきちゃんもあきちゃんも同じ綺麗なラベンダー色のランドセルだった。
「ママの好きな色」
言いながら嬉しそうに真新しいランドセルを背負うさきちゃんを見ていると、俺も嬉しくなる。
「けんちゃん、おばちゃん、入学式見に来てくれる?」
「来てほしいね。いいでしょ?」
「ほら、二人とも無理言わないの。おばちゃんもケントさんもお忙しいのよ」
「はい」
ちょぼんとした二人に、思わず笑ってしまった。
「もちろん行きたいわ。二人の晴れ姿見たいもの」
「うん。俺も」
「やった。けんちゃんがお父さんで、みかちゃんがお母さんで、おばちゃんがバーだね」
「え?」
俺とみかさんは顔を見合わせ、お互いが真っ赤になっていることに気がついた。
「そうだね」
母は俺とみかさんを交互に見ては、おかしそうに笑っていた。
そんなことがあってから、俺たちはお互い意識し合うようになる。初めて会った時から、どこかで会ったことがあるような、ずっと知り合いだったような気がしていたみかさん。彼女の笑顔やまなざしに、俺は何か懐かしいものを感じていた。それは言葉では言い表せない不思議な感覚だった。
「ケントさんと話してるとなんだか、昔からの知り合いだったような不思議な気持ちになるんですよね」
「え、不意に」
みかさんが呟いた言葉に、俺は心底驚いた。
「みかさんも? 実は俺もなんだ。人見知りなんだけど、みかさんとは最初から緊張せずに話せた。なんだろう。不思議だよな」
「ケントさんも? 嬉しい。不思議ですね」
みかさんがにっこりと微笑み、俺たちの間には心地よい沈黙が流れた。こんな沈黙さえも気にならない。そして、時間が経つのも忘れるほど、みかさんとの会話は楽しかった。
そして俺は確信した。この不思議な感覚は、俺たち二人の間に特別な絆があるからだと。理由は分からないが、きっと前世か何かで深い縁があったのではないだろうか。
「みかさん、俺と付き合ってもらえませんか?」
「はい」
みかさんは即答してくれた。まるでこうなるのが分かっていたかのように。
こうして気持ちを通じ合わせた俺たち二人は、周りに祝福され、一年後には結婚。あきちゃんとさきちゃんは、様々な手続きを経て俺たちの娘となった。
「ひりちゃん、よしよし。おむつ濡れちゃったかな? お姉ちゃんが抱っこしてあげるからね」
さきと秋は、今、半年前に生まれた妹の世話に夢中だ。そう、光は俺とミカの間に生まれた娘。俺たちは三人の娘の親となり、日々忙しく過ごしている。
思い切って二世帯住宅を増築し、一人で暮らしていた母さんを呼び寄せて同居も始めた。
「可愛い孫が三人に、可愛い嫁さん。私、今本当に幸せよ、父さん」
父の仏壇に向かい、母は毎朝同じ言葉を呟いている。
「お姉ちゃん、お兄さん、さきと秋は私たちに任せてね。絶対幸せにするから」
日当たりのいいリビングに置かれた二人の遺影に話しかけるのは、ミカだ。
日々の中で、俺たちは幸せを噛みしめていた。奇跡的に出会えた俺たち夫婦。これからもこの大切な家族を守るため、一生懸命頑張るつもりだ。



