「特許部品ごときが偉そうに意見するなら、契約終了するぞ」
取引先の部長が、工場の前で社員全員に聞こえる声でそう言い放った。私は49歳、上野。父が40年前に立ち上げた時計部品工場の2代目社長だ。社員は少なく、社長業の傍ら現場も営業もこなしている。
父の代から使い続けた工場の外壁は黒ずみ、看板の文字も薄れている。廃業寸前だと疑われるような見た目だ。
「社長、そろそろ工場を立て替えましょうよ」
出勤後、事務所でノートを確認していると、ベテラン職人が声をかけてきた。苦笑いを浮かべてノートを閉じる。このボロボロのノートは、工場のどの機械よりも価値がある。父が長年の試行錯誤の末にたどり着いた調整値が、びっしりと手書きで記されているのだ。
現在作っている部品は、父の努力の結晶だ。調整値は細かく、工場の全機械の数値が記録されているため、覚えるのは不可能に近い。だから私は毎朝、父のノートを確認しながら機械を微調整している。
完成するのは一見地味な小さな金属パーツだが、材料の配合比率や加工時の温度・圧力の調整は非常に繊細だ。父が導き出した数値は、古い機械固有の誤差まで折り込んで最適化されている。最新鋭の設備でも、同じレベルの部品を作るのは不可能だろう。
「機械はそのまま使うとしても、立て替え費用だけでもかなりの出費になるな」
ノートを机の奥にしまい、電卓を取り出して計算する。出た数字を見て大きなため息をついた。
「まとまったお金が転がり込んでくればいいのに」
我ながら願望が過ぎる発言に、周りの社員たちが苦笑いを浮かべた。
そんなある日、大手取引先の担当者が変更になった。前任が急病で倒れたらしい。新しい担当者は、3ヶ月前に本社の部長に就任した織田という人物だ。
その織田部長が、今日の午前中に挨拶に来た。
「随分古い工場だな。こんなところで本当に特許部品を作ってるのか」
挨拶もそこそこに、工場内を歩きながら信じられない発言をする。工場の見た目だけで判断する取引先は過去にもいたが、織田部長の言動は露骨すぎて、私はしばらく何も言えなかった。
「ふん。これがうちに下ろしてる部品か。俺でも作れそうだな」
どれだけの努力が詰まっているか、この人には分からないらしい。説明しようとすると、織田部長は虫を追い払うように手を振った。
「つまらん話を聞かせるな。あ、なんだこれは?」
織田部長は、作業スペースに置いてあった父のノートを手に取った。
「機械の数値が書いてあるノートです。それを見ながら調整作業をするんですよ」
「データで管理してないのか?この工場は見た目もシステムも古いんだな」
鼻で笑う織田部長。私はノートをさっと取り上げ、机の中にしまった。雑に扱われて破損したらたまらない。
その後も織田部長は工場や仕事を見下す発言を続けた。
昼休み、妻が作ってくれた弁当を食べながらため息をつく。今日は箸が進まない。午前中織田部長の相手をしたせいで疲れきっていた。
「社長、織田部長はどうでした?」
事務の女性社員が声をかけてきた。
「なんというか、個性的な人だったよ」
「やっぱり」
「何か知ってるの?」
彼女はこう教えてくれた。
「仲のいい近所の奥さんの旦那さんが、織田部長と同じ会社に勤めてるんです。奥さん伝いに聞いた話だと、織田部長は3ヶ月前に支社から本社へ移動してきたそうです。部長を務めていた人が定年退職したため、その椅子に座ることになったんですが、実力でなったわけじゃないらしいんです。大学時代の先輩で仲のいい副社長のコネを使ったんだとか」
「実力はないけど、年功序列で支社の部長を務めてたんですよ。仕事ができるタイプじゃないらしいです。自分の業務は部下に押し付けてばかりで、旦那さんも迷惑してるそうです」
さらに、織田部長は支社時代に取引先の一つを切り捨てたらしい。うちと同じく歴史のある会社だったが、時代遅れの中小企業と軽視した。ところが切り捨てた直後、その会社の技術が競合他社に渡り、売上で負けたという痛い経験をしたそうだ。それが原因で支社内での評価が下がり、居場所を失いかけた織田部長は、副社長に泣きついて本社に逃げてきたらしい。
「まあ、あくまで噂ですけど。あの人と接した後だと、信憑性があるなって思いますよ」
思わず本音を口にしてしまう。
「取引先をうわべだけで判断して失敗したくせに、俺の工場でも同じことを繰り返すつもりなのか」
「自分の失敗を認めたくないのかな」
誰にも聞こえない声で小さくつぶやく。俺の工場を、かつて切り捨てた中小企業と重ねているのか。とすれば、異常な攻撃性の理由も理解できる。しかし、こちらにとってはいい迷惑だ。
「何も起こらないといいけど」
そう言って、今日何度目かのため息をついた。
俺の願いは虚しく、織田部長は担当着任早々に問題を起こした。初めて会ってから1週間後、いきなり工場にやって来たかと思うと、一方的に仕様変更を突きつけてきたのだ。
「その変更では精度に影響が出ます」
「言い訳は聞きたくない。取引先の俺の言う通りに作ればいいんだよ。ここの社員はこんな簡単なこともできないのか」
この発言に、若手社員が顔を曇らせる。織田部長が帰った後、若手社員が俺にこう言ってきた。
「あんな扱いを受け続けるなら、これから先やっていく自信がありません」
織田部長は長時間にわたり社員を侮辱する発言をしていた。まだ若い社員は深く傷ついたらしい。
「君は悪くない。あの人の言うことは気にしなくていいから」
俺の慰めに、社員はうつむいた。若手社員だけでなく、他の社員にも動揺が広がっている。
このようなことが度々起こり、織田部長のせいで社内の空気は徐々に悪くなっていった。
試練はさらに続く。長年の付き合いがある別の取引先から、こんな電話が入った。
「品質管理ってちゃんとやってますか?」
「え、どうしてですか?」
「知り合いから教えてもらったんですけど、御社が昨今の原材料費の値上げを受けて、安い原材料で増量してるって聞いたんです」
根も葉もない噂だ。しかし、電話をかけてきた担当者は若く、会社との付き合いは長いが担当者個人との関わりは1年にも満たない。担当者は俺ではなく、知り合いの話を信じることにしたようだ。
「今進めてる新規案件の件、いただけますか?」
「わかりました」
俺が何か言ったところで無駄だ。電話を切った後、思わず深いため息をついた。
昼休み、落ち込みながら昼食を食べていると、事務の女性社員がまたあることを教えてくれた。
「織田部長、かなりやばいですよ。うちの工場の変な噂を社内で流してるらしいです」
織田部長は、うちの工場が態度が悪いとか、ボロいから品質が怪しいと周りに言っているらしい。ふと先ほどの電話を思い出した。担当者が言っていた「知り合い」というのは、織田部長かもしれない。証拠はないが、強い確信がある。しかし、どうすることもできない。本人にやめろと言ったところで聞かないだろうし、名誉毀損だと騒がれる可能性もある。
打つ手なしの現状に、俺は頭を抱えた。
数日後、俺を悩ませている張本人がアポイントなしで工場にやってきた。
「コストの見直しをする。単価を15%下げろ」
現場で作業していた俺のところへ近寄ってきたかと思うと、挨拶もなしに一方的に要求を突きつけてきた。
「その価格では材料費も出せません」
「材料費?おたくは安い原材料を混ぜて増量してるんだろ?」
口の端を歪めて笑う。やはり根拠のない噂を流しているのはこの人だと確信した。
「それに」と織田部長は続ける。「特許料として単価に上乗せしている分があるはずだ。だから材料費分と合わせて15%値下げしても何の問題もない」
「安い原材料も使ってませんし、特許料はこちらの権利です。そもそも特許は…」
「特許部品ごときで偉そうに俺に意見するなら、契約終了するぞ」
俺の言葉を遮り、織田部長は現場にいる社員全員に聞こえる声で言い放った。次の瞬間、俺の中で何かが切れる音が聞こえた。49年生きてきた中で、他人にここまでの怒りを抱いたのは初めてだ。
心の中で思う。うちの部品がないとそっちが困るのに、あんたのところのラインは止まるんだぞ。
だけど、もう知ったことではない。
「わかりました。では、今日限りで契約終了ということで」
俺の言葉に、織田部長は目を丸くする。
「おい、自分が何を言ってるか理解してるのか?」
「ええ、話はそれだけですか?」
怒りが抑えられず、無意識のうちに挑発的な物言いになってしまう。織田部長は一気に顔を赤くして怒鳴り声をあげた。
「上等だ。こんな低レベルな部品、代替はすぐ見つかる」
「そうですね。もう帰ってください。仕事の邪魔です」
織田部長はまだ何か言っていたが、俺は仕事に戻り徹底的に無視する。
「クソが、舐めやがって」
叫び疲れた様子の織田部長は捨てゼリフを吐くと、足音を立てて工場を後にした。
織田部長が立ち去った後、現場にいた社員たち全員に謝罪する。
「俺のせいで嫌な思いをさせた。本当にすまなかった」
「社長は悪くないです」
若手社員がすぐに返してくれた。
「でも社長、大丈夫なんですか?」
不安そうな若手社員に、俺は笑顔で頷いた。
「心配かけてごめんな。少し待っていてくれ」
現場での仕事を終えた俺は事務室へ行き、自分のパソコンを開く。
「覚悟しててくださいね、織田部長」
誰にも聞こえない小さなつぶやきは、事務室に溶けて消えていった。
翌日の午前中、いつも通り仕事をしていると携帯が鳴った。
「もしもし」
「おい、一体何をしたんだ?」
電話の向こうで叫んでいるのは織田部長だ。
「何をとは、分かるように説明してください」
「うちの工場のラインが止まったんだよ。工場長は原因はお前だと言ってたぞ」
「ああ、その件ですか。確かに俺が原因です。昨日、特許部品の使用中止通知を送って、即達で御社に送付したんですよ」
一瞬、織田部長が言葉を失う。その隙に俺は事情を説明した。
「こちらは契約書に従い対応をしただけです」
「け、契約書?何のことだ」
やはりこの人は契約書の中身を把握していなかったらしい。事務の女性社員に「仕事ができない人」と聞いた時から、もしかしてとは思っていた。
「契約書にはこう書かれています。『契約終了後は、当該特許部品の使用を即時中止するものとする』。我が社と御社は、あなたが下した判断に基づき、契約書に書かれた通りの対応をしただけですよ」
契約書は前の担当者の時にかわしたものだ。特許取得の部品という特殊性もあり、念のために盛り込んだ一文だ。前の担当者は納得済みで、会社側にも承諾を得ている。何も知らなかったのは、真面目に仕事をしなかった織田部長だけだ。
「ふざけるな。ラインが停止したせいでうちは損害が出てるんだぞ。責任を取ってもらうからな」
「俺が責任を取る義務はありません。では」
言いたいことを一方的に怒鳴ったかと思うと、いつの間にか電話が切れていた。俺はスマホをしまい、作業に戻る。すぐに織田部長が泣きついてくるだろう。
1週間後、工場エリアで機械の調節をしていた俺に、社員が声をかけてきた。
「社長、お客様が来てます」
工場エリアの入り口を見ると、そこにいたのは半泣きの織田部長。そして、パリッとしたスーツに身を包んだ60代くらいの男性だった。
「初めまして。朝川です。工場管理部門の責任者をしております」
入口へ向かうと、男性が名刺を差し出す。書かれた内容を見て、俺は慌てて頭を下げた。
「朝川専務でしたか。初めまして。社長の上野と申します」
工場管理部門の責任者が自ら足を運ぶとは、よほどのことだ。背中に社員たちの視線を感じつつ、話を進める。
「この度は誠に申し訳ございませんでした」
朝川専務が頭を下げ、織田部長も続く。
「ライン停止の報告を受け、織田部長に聞き取り調査をしました。織田部長は一方的に契約終了にされたと言ってましたが」
隣にいる織田部長を一瞥し、朝川専務が小さく息を吐いた。
「御社から送られた使用中止通知書には、織田部長の契約終了宣言によるものと書かれていました。御社とは長い付き合いです。前担当者は御社の仕事ぶりや対応力を高く評価していました。そんな取引先が一方的に契約終了にするはずがない。そう考えて社内調査を進めてみたところ、織田部長の問題行動が明らかになったのです」
織田部長は我が社の評判を貶める噂を社内に流していた。その件が朝川専務の耳に入ったのだろう。
「本人は代替品を探していましたが、御社は世界的に有名な高級ブランドの時計の部品を作っている工場です。そんなレベルの高い部品の代替品が見つかるはずありません」
この事実を、部長はついぞ調べようとしなかった。1週間前、織田部長が泣きついてくるだろうと予想していたのは、これが理由だ。我々が作っている部品は唯一無二。他の工場が簡単に真似できるものではない。父が長い年月をかけ、必死になって努力して完成させた部品だ。仮に他の工場が同じものを作ろうとするのであれば、同じくらいの年月と努力が必要になる。
朝川専務の発言に、織田部長が驚いたように俺を見た。
「え、そ、そうなのか」
「朝川専務が言ってることは本当ですよ。うちは高級ブランドの時計の部品も作っています。逆に聞きますけど、担当者のあなたがなぜこのことを知らないんですか?」
俺のツッコミに、織田部長は気まずそうに視線をそらした。朝川専務が鋭い目で織田部長を睨みつける。そして再度俺に向かって頭を下げた。
「無理を承知でお願いさせてください。もう一度、我が社に特許部品を下ろしていただけませんか?」
「それは難しいですね。織田部長の対応を見る限り、今後の付き合いは難しいと判断しました」
「何があったかお聞きしてもよろしいですか?」
朝川専務が行ったのは社内調査だけだ。我が社への聞き取りはしていない。織田部長から何を言われ、どんなことをされたのか、詳細に伝える。朝川専務の額に怒りの青筋が浮いた。
「お前は大切な取引先に何てことを」
専務の声はそこまで大きなものではなかったが、威圧感がある。織田部長はびくっと肩を揺らし、目に涙を浮かべた。
「工場が停止し、我が社の損失は現時点で1000万円となりました。今すぐラインを再開させなければ、損失は増えていく一方です。織田部長には厳しい処分を下し、担当者は優秀な社員に変更させていただきます。それと、再契約の際には料金を上乗せさせていただきますので、どうか再考をお願いできませんか?」
朝川専務が差し出した書類を見て、俺は軽く目を見開く。契約金額に驚いたのだ。ふと頭の中にある考えが浮かぶ。これだけもらえるなら、工場の立て替え費用も捻出できるだろう。織田部長との問題が起こる前、「まとまったお金が転がり込んでくればいいのに」と我ながら願望が過ぎる発言をしたが、まさかこんな形で叶うとは夢にも思っていなかった。
「ご提示の条件でしたら、考えさせていただきます」
契約金額に惹かれたことは悟られないよう、余裕のある笑顔を朝川専務に向ける。専務は表情を明るくしたが、織田部長は顔面蒼白だ。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、謝ったじゃないですか」
「謝ってもどうにもならんことがある。いい勉強になったな」
朝川専務の厳しい言葉に、織田部長は息を飲む。額に冷や汗を滲ませながら、今度は俺にすがってきた。
「頼むよ。2度とこんな問題は起こさないと約束する。だからお前からも専務に言ってくれ」
「あなたの言葉は信用できません」
作業服を掴んだ織田部長の手を振り払う。そして、覚めた目と声を部長に向けた。
「あなたの身勝手な行動のせいで、すでに1000万円の損失が出ています。責任を取る必要があるでしょう」
「責任は仕事で挽回する。俺にもう1度チャンスをくれ」
「お断りします。契約書も確認せず、取引先がどのような仕事をしてるかも把握してないような人が、仕事で失敗を取り返せるとは思えません。はっきり言って、部長の実力では無理ですよ」
仕事ができないと真正面から言われ、織田部長は言葉を失う。
「というわけで、大人しく処罰を受けてください」
織田部長が力なくその場に膝をつく。俺と朝川専務、そして織田部長に散々馬鹿にされてきた社員たちは、覚めた目でその姿を見ていた。
織田部長を連れ帰った朝川専務は、約束通り厳しい処罰を下した。部長は降格処分の上、本社から元いた支社へ追い返された。今回の件は支社ですでに広まっていて、織田部長は職場で居場所を失い、憔悴しているらしい。部長職を与えた副社長にも厳重注意が入り、進退に関して話し合いが進められているとのこと。織田部長は役職だけでなく、後ろ盾も失うことになりそうだ。
「自業自得ですね」
報告に来た朝川専務は、呆れた様子でそう言った。
一方、俺は忙しいが平和な日々を送っている。新しい担当者は優秀な人で、とても仕事がやりやすい。上乗せされた契約金額が書かれた書類を見ながら、思わず笑みが浮かんだ。
来年には工場の立て直しを始められそうだ。綺麗になった工場を想像するだけで嬉しい気持ちになる。社員たちもきっと喜んでくれるだろう。



