深夜1時、成田空港の帰国ロビーに男の絶叫が響き渡った。「お母さん、一体どういうことですか!?」スマホに映る不動産の売却通知を、夫の健太が震える手で握りしめていた。六泊七日のヨーロッパ旅行をたった一日で切り上げて帰ってきた私たちを待っていたのは、もう私たちのものではない自宅だった。隣で私は泣き崩れていた。でも電話の向こうにいる72歳の義母は、驚くほど淡々としていた。「私の家だから、私の好きにし…

深夜1時、成田空港の帰国ロビーに男の絶叫が響き渡った。「お母さん、一体どういうことですか!?」スマホに映る不動産の売却通知を、夫の健太が震える手で握りしめていた。六泊七日のヨーロッパ旅行をたった一日で切り上げて帰ってきた私たちを待っていたのは、もう私たちのものではない自宅だった。隣で私は泣き崩れていた。でも電話の向こうにいる72歳の義母は、驚くほど淡々としていた。「私の家だから、私の好きにし...

深夜一時、成田空港の帰国ロビルに、男の絶叫が響き渡った。三十代の男、健太がスマートフォンに映る不動産の売却通知を震える手で握りしめていた。六泊七日の予定で出かけたヨーロッパ旅行を、たった一日で切り上げて帰ってきた夫婦を待っていたのは、もはや自分たちのものではない自宅だった。

「お母さん、一体どういうことですか!? 」

隣で妻の弓が泣き崩れていた。しかし、電話の向こうにいる七十二歳の母親、さち子は淡々としていた。七十二年の人生で、これほど息子が自分を恨んで泣き叫ぶ姿を見たことはなかった。それでも後悔はなかった。

「私の家だから、私の好きにしたのよ。これからはあなたたちはあなたたちで、うまくやっていきなさい。そして、二度と私を探さないで」

そう言い放って電話を切った。健太とは三十五年、弓とは十年、積み重なってきた寂しさのすべてを、その一言で吹き飛ばしてしまったのだ。

すべては三か月前に始まった。

さち子は朝五時半に目を覚ました。四十年間、一度も欠かしたことのない習慣だった。夫が生きていた時も、亡くなってからの七年間も、同じだった。リビングを通り過ぎる際、息子夫婦の寝室のドアをそっと見たが、まだ静まり返っていた。健太はだいたい八時に、弓は七時に起きてくる。さち子にとって、この時間は一日で最も貴重な時間だった。

台所で米を研ぎながら窓の外を眺めると、近所のマンション群が一望できた。同じ時間、同じ動作を繰り返す人々の部屋に、一つ、また一つと明かりがともる。味噌汁の香りが家中に広がった。昔はこの匂いだけで夫は伸びをしながら起きてきたものだが、今では誰も反応しない。健太夫婦は朝食を抜く日が多く、食べても簡単なトーストやシリアルで済ませていた。

「全く、この子たちは、この母さんが心を込めて作ったのも知らないで」

さち子は一人つぶやいた。同じ家に住んでいながら、彼女はすでに彼らの日常から消えた影のような存在だった。それでも今日も三人分の朝食を準備した。

「お母さん、コーヒーありますか?」

顔を見るなり、挨拶もなく、それが弓の第一声だった。さち子が準備した食卓には目もくれず、インスタントコーヒーを入れている。

「朝ご飯、作っておいたのに、少しでも食べたら?」

「私たちは簡単に済ませますから」

弓はコーヒーカップを手に寝室へ戻っていった。数分後、健太も起きてきたが、同じようにコーヒーだけを飲んで部屋に入っていった。さち子は一人で朝食を食べた。三人分のうち、二人分はそっくりそのまま残った。

「出しておけば、結局は自分が全部食べることになるの」

さち子は知っていた。

皿洗いをしていると、玄関に見慣れた宅配便が届いた。また弓の実家からの贈り物だった。弓の母親が送ってきた健康食品やおかずの数々。週に一、二度は必ず届いた。

「あら、うちのお母さんがまた送ってくれたのね」

弓が嬉しそうに荷物を開ける。健太も出てきて一緒に中身を確認した。

「お母さんの真心はすごいな。うちの母さんも少しは見習ってくれたらいいのに」

健太がさち子を見ながら言った。冗談のようでもあり、本気のようでもある口調だった。さち子は何も言わなかった。

「母さん、俺たち、来週旅行に行くんですよ。弓の実家の家族と。弓のお父さんも体調が良くないし、まともに親孝行したこともなかったから、ヨーロッパに行こうと思って」

「それなら私も一緒に行けるわね」

「母さん、行ったじゃないですか。弓さんの体調が理由で行くんですよ。それにお母さんは少し休んでいてください。家のこともお願いしますし、次の機会にその時は一緒に行きましょう。それに、たくさん見て回るから、長く歩くのはお母さんには大変でしょう」

その瞬間、さち子の胸に何か鋭いものが突き刺さるような感覚があった。しかし、表情は平静を装うのが精一杯だった。

「私はどの道、誘われたって足が痛いから行かないつもりだったよ」

その夜、さち子はなかなか寝つけなかった。

翌日から、家の雰囲気が変わった。弓がせわしなく旅行の準備を始めたからだ。ネット通販で服を注文し、スーツケースを引っ張り出して荷物を詰め、実家の家族とひっきりなしに電話をしていた。

「お母さん、お父さんの血圧の薬はちゃんと持った?」

「ヨーロッパは医療費が高いって言うから、心配しないで。全部持ったわよ。それに健太さんが旅行者保険も家族全員分、契約してくれたから」

電話の向こうから聞こえてくる声は温かいものだった。さち子は皿洗いをしながらも耳を傾けていた。いつ、自分をあんなに心配そうな声で呼んでくれたことがあっただろうか。

午後には弓の母親が直接訪ねてきた。手には大きな風呂敷包みを抱えている。

「弓、ヨーロッパで食べる漬け物と味噌を持ってきたわよ。それと健太さんの栄養ドリンクも」

「お母さん、本当にありがとう。旅行で大事にいただくわ」

弓の声には心からの感謝が込められていた。さち子がこれまで一度も聞いたことのない声音だった。弓の母親はリビングでお茶を飲み、夕食まで一緒に食べていった。弓が心を込めて食卓を整えた。肉を焼き、会え物も何種類も作っていた。

「うちの息子さんは本当に親孝行ね。こんな旅行に連れて行ってくれるなんて」

「いえ、とんでもないです。お父さんの体調も良くないですから。家族で良い思い出を作らないと」

さち子は台所で皿洗いをしながら、この会話を聞いていた。胸の片隅がずしりと重くなるのを感じた。

リビングのテーブルに置かれたカレンダーを見ると、赤いペンで旅行の日付が丸で囲まれていた。そして、そのすぐ次の週が自分の誕生日であることにふと気づいた。七十三回目の誕生日だった。去年は健太が小さなケーキくらいは買ってきてくれたのに、今年は旅行のせいで、すっかり忘れ去られてしまいそうだった。

「まあ、いいか。子供じゃあるまいし、誕生日がそんなに大事なものかね」

一人でつぶやいてみたが、心の片隅が痛むのはどうしようもなかった。

翌朝、リビングの引き出しを見ると、息子夫婦が前もって書いておいたメモがあった。おそらく旅行当日は忙しいだろうと、あらかじめ準備しておいたのだろう。さち子は静かに健太のメモから読み始めた。

「お母さんへ。僕たち一週間旅行に行ってきます。病院の予約があったら一人で行ってきてください。緊急の時は県一か県二兄さんに連絡してください」

「一人で行ってきてください」という言葉が、ひどく心に引っかかった。この七年間、病院に行くのに付き添ってほしいと頼んだことなど一度もなかったのに、わざわざそんなことを書く必要があったのだろうか。メモの下の方には、弓の字で追伸があった。

「お母様へ。植木鉢の水やりをお願いします。高価なものなので、一日に一回は必ずあげてください。食事もちゃんと取ってくださいね。おかずがなかったら、ラーメンでもいいので必ず作って食べてください」

同じメモなのに、弓の文章からはなぜか違う印象を受けた。遠回しに皮肉を言われているようでもあり、からかわれているようでもあった。

その日の午後、さち子は近所の病院へ行った。定期検診の日だったのだ。いつもは健太が一緒に行って医者の話を一緒に聞いてくれたのに、一人で行くとなんだか居心地が悪く感じた。

「付き添いの方はいらっしゃいませんか?」と看護師が尋ねた。

「息子が忙しいものですから」

「では、検査結果はいつ聞きにいらっしゃいますか?」

「私が一人で聞きに来ます」

そう答えたが、帰り道はひどく長く感じられた。

夕方、ガサガサと音がして、健太と弓がいくつものショッピングバッグを抱えて帰ってきた。

「お母様、旅行用品を買いに行ってきました」

弓が鞄から新しい服やサングラス、帽子などを取り出して見せる。全て弓の実家の家族の分まで含めて買ってきたようだった。

「いくらかかったんだい?」とさち子が尋ねると、

「まあ、旅行の準備って思ったよりお金がかかるものですね」と健太は言葉を濁した。

その夜、さち子は寝室で古い通帳を取り出してみた。夫が残してくれたものと自分が貯めてきたものを合わせても、それほど大きな金額ではなかった。しかし、この家の名義は自分のものだった。夫が亡くなる前に、相続の整理をしておいてくれたのだ。

「私が死んだら、この家は末えっこに譲ってやる」と夫とは言っていたが、さち子は独り言を言いながら、不動産の登記簿をもう一度確認した。間違いなく自分の名前で登記されていた。窓の外では相変わらずマンションの明かりがまたたいていた。同じ光なのに、今日に限ってはひどく遠く感じられた。

旅行を一週間後に控え、さち子は息子夫婦の生活パターンをより詳しく観察するようになった。普段は何気なく見過ごしていたことが、妙に目につくようになったのだ。健太は毎晩九時過ぎにならないと帰ってこない。会社で受けたストレスが顔にそのまま現れていた。肩はいつも落ちていて、玄関のドアを開ける音も力ないものだった。

そんな健太に真っ先にかけ寄るのは弓だった。

「あなた、今日もお疲れ様。うちのお父さんからまた連絡があって、あなたのことを心配していたわ」

弓は健太のスーツの上着を受け取りながら言った。自然に肩を揉んであげることもあった。健太の表情が、その時になってようやく少しほころぶ。

「弓さん、なんて言ってた?」

「今の会社務めがどれだけ大変か、よく分かってらっしゃるのよ。だから今回の旅行で少し羽を伸ばして来いって」

さち子は台所でこの会話を聞きながら、妙な気持ちになった。自分も息子が大変な思いをしているのは知っていたが、わざわざそんな言葉をかけたことはなかった。

「やはり、義理の父は理解が深いな」と健太が答えた。声に安堵感が混じっていた。

夕食の時も、会話は主に弓の実家の話だった。義父の健康状態、義母の近況、義兄の就職活動。さち子は時々会話に加わろうとしたが、タイミングを逃すことがほとんどだった。

「ところで、お母様は最近血圧のお薬はちゃんと飲んでいらっしゃるんですか?」と弓が尋ねた。

「あ、そういえば母さん、最近の血圧はどう?」と健太が遅れてさち子の方を向いた。何気なく訪ねてくる息子の言葉にも、さち子は嬉しくなった。

「大丈夫だよ。薬もちゃんと飲んでるし」

「それならよかった。うちの父は薬を飲むのをすぐ忘れちゃうから。母さんが毎日チェックしてるのよ」

弓の言葉に健太が頷いた。

「俺たちももう少し気をつけないとな」

しかし、その言葉だけだった。

翌日から健太は相変わらず遅くに帰り、弓も自分の母親と電話で話す時間が、さち子と会話する時間よりもずっと長くなった。特に週末になると、その差は歴然となった。土曜の午後、弓は「実家に行ってくる」と出かけた。健太も一緒について行った。

「お母様もご一緒にいかがですか?」と弓が形式的に尋ねたが、さち子にはその意図が感じ取れた。

「いいんだよ。お前たちだけで行っておいで」とさち子が答えると、弓の表情に安堵の色が浮かんだ。

一人残されたさち子は、リビングでテレビを見ながら時間を過ごした。バラエティ番組では、芸能人たちが家族旅行に出かける様子が流れていた。三世代が一緒に笑い、はしゃぐ場面が何度も繰り返された。

夕方帰ってきた健太夫婦の手には、また大きな風呂敷包みが握られていた。

「お母さんがまた色々持たせてくれたよ」と健太が笑いながら言った。

「うちのお母さん、あなたの好みを本当によく知ってるのよね。今回もあなたの大好きな獲物を作ってくれたわ」と弓が冷蔵庫におかずの容器をしまいながら言った。

さち子は、自分が作ったおかずが手つかずで残っているのを見た。弓の実家から持ってきたおかずはすぐになくなるのに、自分が作ったものは何日もそのままになっていることが多かった。

その夜、健太と弓が話す声が、部屋の外まで聞こえてきた。

「旅行費、大丈夫かな? 思ったよりかかりそうだけど」

「心配しないで。うちのお父さんが少し援助してくれるって言ってたから。それに、こんな機会、実はあるかわからないじゃない。お父さんも体調も良くないし」

「だからこそ、早く行かなきゃいけないんじゃない? 後で後悔しないように」

さち子は布団を頭までかぶり、聞こえないようにしようとした。しかし、会話は続いた。

「でも、うちの母さん、本当に大丈夫かな? 一週間、一人で」

「あなたのお母さんは、元々自立してるじゃない。それに、健一兄さんや健二兄さんもいるし、私たちがいないからって何か起きるわけないでしょう」

弓の言葉に、健太はそれ以上何も言わなかった。

さち子はその時、悟った。彼らにとって、自分は心配する必要のない存在になっていたのだ。「自立していて強い人」「一人でもうまくやっていける人」。そんなイメージで固まってしまっていた。しかし、当のさち子自身はそうは思っていなかった。年を取るに連れて、ますます寂しくなり、家族と一緒にいたいと思うようになっていたのだ。特に夫が亡くなってからはなおさらだった。

翌朝、弓が旅行の日程表をプリントアウトして冷蔵庫に貼った。

「もし連絡することがあったら、この日程を見て時差を計算して電話してくださいね」

親切に説明してくれたが、さち子には「緊急時以外は連絡してくるな」という意味に聞こえた。日程表を見ると、本当に細かく計画が立てられていた。弓の実家の家族の体力まで考慮して、一日のスケジュールが適度に分けられている。健太がどれだけ気を遣って準備したかが分かった。

「うちのお父さん、すごく楽しみにしてるの。生涯で一度も海外旅行に行ったことがなかったから」と弓が言った。

さち子も海外旅行は一度も行ったことがなかった。夫が生きていた頃も、いつも家計が苦しくて、国内旅行すらまともに行ったことがなかった。しかし、わざわざその話をする必要はないだろうと思った。代わりにただ頷いた。

「それは良かったね。気をつけて行ってらっしゃい」

その言葉を口にしながらも、さち子の心の片隅には小さな疑問が芽生えていた。私は本当にこの家の家族なのだろうか。それとも、ただ同じ家に住む他人なのだろうか。

その夜、さち子は引き出しの奥深くにしまってあったアルバムを取り出した。最初のページから最後のページまで、ゆっくりとめくっていった。三人の息子が幼い頃の写真、家族で出かけた時の写真、結婚式の写真。その頃はみんなが同じ方向を向いていた。家族という中心点を。

長男の健一は東京大学を出て、今はドイツで研究員として働いていた。年に一度ほど帰国し、数日滞在してはまた戻っていく。次男の健二は大阪で事業をしており、成功して、今では月に一度、仕送りもしてくれる。

「末えっこだけでも、そばにいてくれるからよかった」と夫が亡くなる前に言っていた言葉だった。その時はさち子もそう思っていた。

夫の葬儀の日が思い出された。その日、初めて奇妙な感覚を覚えたのだ。門客が帰り、家族だけになった時のことだった。

「お母さん、これからどうするんですか?」と長男の健一が尋ねた。

「末えっこと一緒に暮らせばいいじゃないか。俺たちは大阪で遠いし」と次男の健二が答えた。

その時、健太と弓は新婚一年目だった。まだ子供もおらず、小さなワンルームで暮らしていた。

「僕たちが母さんと一緒に住みます」と健太が言った。弓も頷いた。

「じゃあ、この家はどうする?」と健一が尋ねた。

「当然、末えっこが継ぐべきだろう。一緒に住んで面倒を見るんだから」と健二が言った。

そうやって、ごく自然に決まっていった。さち子の意見を尋ねることもなく、もちろんさち子も反対する理由はなかった。一人でこの大きな家に住むには、あまりにも寂しすぎたからだ。

最初の数年間は、問題なかった。弓も親切でしたし、健太も頻繁に様子を気遣ってくれた。三人で一緒に夕食を食べ、週末には映画を見に行ったりもした。

しかし、いつからか変わり始めた。弓が自分の実家とより親密になってからだ。結婚三年目から弓の母親と頻繁に会うようになり、四年目からは週に二、三回は実家に出入りするようになった。

「うちのお母さん、体調が良くないものですから」それが弓の説明だった。しかし、実際の弓の母親はさち子より一回り若くて、健康状態もずっと良さそうに見えた。さち子が血圧の薬を飲んでいる時、弓の母親は登山に出かけていたのだ。

五年目からは、お盆や年末年始も弓の実家で過ごすようになった。

「義理の家の家計が少し苦しいみたいで、僕たちがもう少し面倒を見てあげないといけないと思うんです」それが健太の説明だった。

さち子は反対しなかった。嫁の実家も家族なのだから、分け隔てなく大切にするのが正しいと思ったからだ。代わりに、長男や次男と共に過ごした。しかし、去年から長男はドイツから帰国できなくなり、次男も仕事が忙しくなって実家に帰って来られなくなった。結局、さち子は一人で過ごすことになった。

「お母さん、ごめんなさい。来年は必ず一緒に過ごしますから」と健太は申し訳なさそうにしていたが、翌年も結局同じことの繰り返しだった。

今思えば、その頃からだった。自分がこの家でだんだん透明人間になっていくような感覚を覚え始めたのは。

アルバムをめくっていると、健太の大学の卒業写真が出てきた。その時、さち子がどれほど誇らしく思ったことか。長男と次男は元々勉強ができたので当然だと思っていたが、末えっこは少し出来が悪いと思っていた。しかし、その末えっこも四年生大学を卒業し、ちゃんとした会社に就職した。結婚も、綺麗な花嫁さんとしました。

「うちの末えっこが一番優しい」と夫がいつも言っていた言葉だった。本当にそうだった。長男と次男は幼い頃から自分のことばかりしていたが、末えっこは親の使い走りもよく聞き、お小遣いをもらうと必ず何かを買ってきてくれた。

そんな末えっこが、今は――。さち子はアルバムを閉じた。これ以上見たくありませんでした。台所へ行き、水をいっぱい飲んだ。冷蔵庫に貼ってある旅行の日程表が目に止まった。色とりどりの蛍光ペンで整理されている。

ふと気になった。健太はこの旅行に一体どれくらいのお金を使うつもりなのだろうか。健太の部屋に静かに入り、机の上を調べてみた。旅行関連の書類が整理されていた。航空券代、ホテル代、現地でのツアー代。計算してみると、想像していたよりもずっと大きな金額だった。四人分の費用なのだから当然多いのは当たり前だが、そのお金があれば小さな車が一台買えるほどの金額だった。

書類の下から、健太の通帳の明細書を見つけた。ここ数ヶ月の間に、定期預金を解約した記録があった。「義父の病院」という名目で引き出されたお金も見えた。

ここまでしてまで――。さち子はため息をついた。その時、玄関のドアが開く音がした。健太と弓が帰ってきたのだ。さち子は急いで健太の部屋から出て、自室に戻った。

「お母様、ただ今帰りました」と弓が大きな声で言った。

「ああ、お帰り。夕飯は食べたのかい?」

「はい。母の家で頂いてきました」

やはり実家に行っていたのだ。

その夜、さち子はベッドに横になって天井を見つめながら考えた。いつからこうなってしまったのだろう。いつから自分はこの家で客のような存在になってしまったのだろう。夫が生きていた頃は、明らかに違っていた。夫はいつも家族会議を開いたものだ。大きな決断をするたびに、家族全員の意見を聞いた。さち子の意見も重要視してくれた。しかし今では、誰もさち子の意見を尋ねない。旅行の計画も、家の行事も、夕飯のメニューさえも、さち子に相談なく決められてしまった。

私は本当にこの家の家族なのだろうか。そんな考えが何度も頭をよぎった。窓の外に、他の家の明かりが見えた。あの家も、みんな同じような状況なのだろうか。年を取った親は透明人間になり、子供たちはそれぞれの生活にだけ集中する。そんな家なのだろうか。さち子は布団をより深くかぶった。明日からは旅行の準備でさらに忙しくなるだろう。自分の居場所はますますなくなってしまうような気がした。

旅行を三日後に控えた火曜日の朝、さち子は奇妙な夢を見て目を覚ました。夫が現れて、何か重要なことを言おうとしているのだが、いざ目が覚めると内容が思い出せなかった。ただ、夫の表情が深刻だったことだけが鮮明に残っていた。夢の余韻のせいか、一日中心が落ち着かなかった。何かが間違った方向へ進んでいるという感覚が、ずっと付きまとっていたのだ。

午前中、近所のスーパーへ買い物に行った。いつもよりたくさん買わなければならなかった。一週間、一人で食べるものを準備しなければならなかったからだ。

「奥さん、今日はたくさんお買い物ですね」と行きつけのスーパーの店員が声をかけてきた。

「息子が旅行に行くものですから」

「あ、それはいいですね。親孝行な息子さんが、奥さんも連れて行ってくれるんですね」

その瞬間、さち子の手が止まった。

「いえ、嫁さんのご家族とだけ行くんです」

「あ、そうですか。それは残念ですね」と店員の口調が濁った。なんだか気まずい空気が流れた。

家に帰り、冷蔵庫に食材をしまいながらも、ずっとその会話が頭から離れなかった。「残念ですね」という言葉が、ずっと気になっていたのだ。

昼過ぎ、弓が実家の母親と長電話をしていた。さち子が家にいるのを忘れたのか、スピーカーフォンで話していたので、内容が全て聞こえてしまった。

「お母さん、健太さんのお母さん、本当に大丈夫かしら? 一週間も一人でいらっしゃるのに」

「心配いらないわよ。元々、事実上の強い方じゃない。それに、私たちが気にするようなことじゃないわ」

「でも、なんだか申し訳ないわ。私たちだけ連れて行ってもらうなんて」

「そんなこと言わないの。あなたの義母さんも理解してくださるわよ」

電話の向こうの声はきっぱりとしていた。「私たちが気にすることじゃない」という言葉が、ひどく大きく聞こえた。

午後には健太が早く帰ってきた。旅行前なので、相対してきたようだった。

「母さん、旅行中、何か必要なものがあったら今のうちに行っておいてください」

「大丈夫だよ。全部あるから」

「でも、万が一ということもあるから。緊急の時は健一、健二に連絡してくださいね」

健太が冷蔵庫に兄たちの連絡先を書いたメモを貼った。

「まあ、私に何の緊急事態が起きるって言うんだい」とさち子が笑いながら言った。

「でも、万が一ってことがあるじゃないですか。母さんももう七十を過ぎてるんですから」

健太の言葉に、さち子は一瞬動きを止めた。「もう七十を過ぎてるんですから」という言葉が妙に引っかかった。まるで、自分を年老いた老人扱いしているように感じたのだ。

「そんなこと言わないでおくれ。私はまだ元気だよ」

「分かってます、分かってます。ただ念のためですよ」と健太は手を振りながら笑ったが、さち子の心には何かが残った。

夕食の最中、弓が言った。

「お母様、私たちがいない間、もし退屈だったら、近所の老人会にでも行って時間を潰されたら、いかがですか?」

「老人会?」

「はい。ここの地域の老人会は施設も立派で、プログラムも色々あるそうですよ」

さち子は箸を止めた。自分を老人会に送り込もうというのか、と思った。

「私は家にいるのが好きだから」

「でも、人と交流する方が健康にもいいと思いますけど」

弓の声には、心からの心配というよりは、義務感のようなものが感じられた。

その夜、さち子はまた眠れなかった。次から次へとおかしな考えが頭を駆け巡った。私は本当にこの子たちの重荷になっているのだろうか。私はいつから、こんなに厄介な存在になってしまったのだろうか。

深夜三時頃、さち子は静かに起き上がり、リビングへ向かった。暗闇の中で、家の中を見回した。二十年間住み慣れたこの家が、急に見知らぬ場所のように感じられた。リビングの一方の壁には家族写真が飾られていた。しかし、ここ数年で撮った写真はほとんどない。健太夫婦二人だけで撮った写真が大部分だった。さち子はその写真を一枚一枚眺めた。いつからか、自分が写真から外れるようになったことに気づいた。最初は写真を撮られるのが面倒だと言って断っていたが、後には誘われることさえなくなっていたのだ。

台所へ行き、水をいっぱい飲んだ。冷蔵庫に貼ってある旅行の日程表がまた目に止まった。六泊七日の日程だった。もう一度、正確に計算してみたくなった。この旅行に一体どれくらいのお金がかかっているのか。健太の部屋に再び入り、旅行関連の書類を詳しく見てみた。航空券代、宿泊費、食費、ショッピング代、保険料。全てを足してみると、本当に莫大な金額だった。そのお金があれば、自分の病院代を何年分も払える金額だった。あるいは、長男や次男にお小遣いでも送ってあげることができた。

ここまでしてまで――。つぶやいていると、ふと恐ろしい考えが浮かんだ。もし自分が本当にこの子たちの重荷なのだとしたら。もし自分がいなければ、この子たちはもっと楽になるのではないだろうか。

そんなことを考えている自分に驚いた。これまで、そんなことを考えたことは一度もなかったのだ。しかし、ここ数日の出来事を振り返ってみると、そう考えてもおかしくはなかった。自分の存在感はどんどん薄れていき、家族も自分抜きで計画を立て、実行することに慣れてしまっていたのだ。

明け方四時過ぎにようやく眠りに着いたが、また奇妙な夢を見た。今度は夫が不動産の登記簿を持っていた。

「さち子、この家はお前の名義になっているじゃないか」と夫が言った。

「それがどうしたの?」

「お前の家だから、お前の好きにしていいんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、目が覚めた。しばらく天井を見つめていた。夫の言葉が、ずっと頭から離れなかった。

「私の家だから、私の好きにしていい」

おかしい。これまでそんなことを考えたことは一度もなかったのに、急にその言葉が頭から離れない。朝になっても、その考えは続いていた。健太夫婦が忙しそうに旅行の準備をしている姿を見ながらも、さち子の頭の中ではずっと「私の家」という言葉が回っていた。本当に不思議なことだった。これまでこの家を「私たちの家」だと思っていたのに、急に「私の家」という考えが浮かんでくるのだ。そして、その考えと共に、何か自分にできることがあるのではないかという気がしてきた。

旅行二日前の水曜日、さち子は初めて具体的な行動に出た。午前中、近所の不動産屋に入ったのだ。

「奥様、いらっしゃいませ。どういったご要件でしょうか?」と若い不動産屋が尋ねた。

「うちの家の相場をちょっと知りたくて」

「あ、そうでございますか。ご住所はどちらになりますでしょうか?」

さち子が住所を告げると、店員はパソコンの電源を入れた。

「こちらのマンションですね。最近かなり値上がりしていますよ。広さはどのくらいですか?」

「三LDKです」

「それですと、現在の相場では大体このくらいになりますね」

店員が見せてくれた金額を見て、さち子は仰天した。夫が亡くなった時よりも、ほとんど倍近くに上がっていたのだ。

「本当に、こんなに上がったんですか?」

「はい。この辺りは開発計画もありますし、交通の便も良くなりましたから。特に今年に入ってから、かなり上がっています」

さち子はその数字を頭の中で何度も繰り返した。そのお金があれば、小さなワンルームを一つ買っても、まだお釣りが来るほどの金額だった。

「もし急いで売るとしたら、どのくらいで売れますか?」とさち子が訪ねた。

「急ぎの売却ですと、相場よりは少し下がりますね。それでも、このくらいは受け取れると思いますよ」と店員が別の数字を見せてくれた。それも十分に大きな金額だった。

「ただ気になったものですから」とさち子が立ち上がろうとすると、店員が名刺を差し出した。

「もし気が変わられましたら、ご連絡ください。この辺りのマンションは、すぐに買い手がつきますから」

家に帰る道すがら、さち子の心は複雑だった。それほどの資産を自分が持っているということが、今更ながら実感できたのだ。しかし、同時に、このお金の存在を当の家族は大して重要視していないように思えた。

家に到着すると、弓がスーツケースを引いて出てくるところだった。

「お母様、どちらへお出かけでしたか?」

「ちょっと近所を散歩してきただけだよ」

「あ、そうでしたか。私は実家へ荷物をもう少し取りに行ってきます。母がまた色々持たせてくれるというものですから」

弓の表情は明るいものだった。旅行を控えているから、なおさらなのだろう。

「気をつけて行ってらっしゃい」

弓が出ていった後、さち子はリビングに座って物思いにふけった。先ほど不動産屋で聞いた金額がずっと頭にあった。この家がそんなに高値で売れるのなら――おかしな考えが次々と浮かんできた。もしこの家を売ったらどうなるだろうか。そのお金で、小さな部屋で一人で暮らすのはどうだろうか。しかし、すぐに首を横に振った。そんなことを考えている自分がおかしいと思ったのだ。

夕方、健太が帰ってきた。手にはまたショッピングバッグが握られている。

「母さん、また旅行用品を買ってきたんですよ。弓さんの実家の家族へのお土産です。ヨーロッパで買うと高いですから、あらかじめ準備しておきました」

健太が鞄から色々なものを取り出して見せた。化粧品、バッグ、マフラー。どれも高そうに見えた。

「いくらかかったんだい?」

「結構かかりましたね。でも、義父さんや義母さんに良い思い出を作ってあげないといけませんから」

健太の顔には満足感が浮かんでいた。その時、弓が帰ってきた。実家から持ってきた荷物で両手がいっぱいだった。

「うちのお母さんが、また色々持たせてくれたの。ヨーロッパで食べる漬け物と味噌。それと、あなたの下着も新しく買ってくれたわ」

「義母さんは本当に気が効くな」と健太が笑いながら言った。

さち子はその様子を見ながら、妙な気分になった。弓の母親は健太のために下着まで新しく買ってくれたというのに、実際の身の母親である自分は、そんなことをしてあげたのはいつのことだったか、思い出せなかった。

「母さんも、何か必要なものがあったら買ってきますよ」と健太が尋ねたが、さち子は首を横に振った。

「大丈夫だよ。私は全部あるから」

「それじゃあ、旅行中、寂しくないですか? ご近所の方とでもお付き合いされたら」

「心配いらないよ。私は一人でいる方が楽だから」

さち子がそう答えると、健太はすでに別のことに気を取られていた。

その夜の食事の時間も、会話はもっぱら旅行の話ばかりだった。

「明日、荷造りが終わったら、早く寝ようか」

「うん。空港に早く行かないといけないからね」

「うちのお父さん、本当に楽しみにしてるの。生涯の夢だった、ヨーロッパ旅行だって」

「義父さんが喜ぶ顔が目に浮かぶようだ」

さち子は静かにご飯を食べながら聞いていた。自分もヨーロッパとは言わないまでも、海外旅行には一度も行ったことがない。そう言いたかったが、場の雰囲気を壊すようで言えなかった。どうしても口が開かなかった。こういうことは向こうから気を遣って「一緒に行こう」と先に言うべきものであり、無理やりついていったところで旅行が楽しいはずがないことを、さち子は知っていた。

食後、健太が言った。

「母さん、僕たちがいない間、何か必要なことがあったら、健一、健二兄さんに連絡してください」

「ああ、そんなことがあるもんかい」

「でも、万が一ってことがあるじゃないですか。それに、もしすごく退屈だったら、健二兄さんにでも電話してください」

健太の言葉を聞きながら、さち子はおかしな考えが浮かんだ。なぜ、こうも自分を他人に押し付けようとするのだろう。

その夜、さち子はまた眠れなかった。今日、不動産屋で聞いた言葉がずっと頭をめぐっていた。「この辺りのマンションは、すぐに買い手がつきますからね」「急ぎの売却なら、このくらいは受け取れるでしょう」。なぜそんな言葉が、こうも思い出されるのだろうか。自分は本当にこの家を売ることを考えているのだろうか。

深夜二時頃、さち子は静かに起き上がり、リビングへ向かった。暗闇の中で、家の中を見回した。二十年間、愛着のあったこの空間が、急に違って見えた。台所で水を飲みながら、窓の外を眺めた。他の家の明かりが、一つ、また一つと消えていく。みんな寝床に着いている時間だった。

ふと気になった。あの家々も、みんな自分と同じような状況なのだろうか。年老いた親は阻害され、子供たちはそれぞれの生活にだけ集中する。そんな家なのだろうか。冷蔵庫へ行き、牛乳をいっぱい注いで飲んだ。旅行の日程表がまた目に止まった。明日になれば、本当に旅立ってしまうのだ。

その時、突然明確な考えが浮かんだ。この子たちにとって、私は一体何なのだろうか。そして、この子たちがいなければ、私は何をすべきなのだろうか。これまで、そんなことを考えたことは一度もなかったのに、急にその問いが浮かんできたのだ。

健太夫婦がいなければ、この家は本当に自分だけの空間になる。誰の目も気にすることなく、自分の好きなように生きられるだろう。もちろん、寂しいかもしれない。しかし、今だって十分に寂しいのだ。同じ家に住みながら、まともな会話を交わしたのがいつだったか、思い出せなかった。

もしかしたら、一人で暮らす方がいいのかもしれない。そんな考えが浮かんだ瞬間、さち子は仰天した。自分がこんなことを考えるようになるとは、夢にも思わなかったからだ。しかし、一度始まった考えは簡単には止まらなかった。もし本当にこの家を売り、小さな場所へ引っ越したなら、その残ったお金で、自分がやりたかったことをしてみたなら。例えば、旅行にも行けるだろうし、長男や次男にお小遣いを送ってあげることもできるだろう。

いや、何をそんなことを。さち子は首を横に振った。しかし、心の一方では、その考えが広がっていくのを感じていた。

自室に戻り、ベッドに横になったが、眠気は訪れなかった。明日になれば、本当に一週間、一人になる。その一週間、何をしようか。本当にただ家でテレビだけを見て過ごすのだろうか。それとも――さち子は枕を裏返しながら、他の可能性を想像してみた。何でもできる一週間。誰にも干渉されない、完全に自分だけの時間。その考えだけでも、妙に心がときめくのを感じた。

旅行前日の木曜日。さち子はいつもより早く目を覚ました。朝の四時半だった。どういうわけか、ぐっすりと眠れなかったのだ。夢の中でも、ずっと何かを決断しなければならない状況が繰り返された。台所でお茶を沸かしながら窓の外を眺めた。まだ闇は深かったが、遠くのいくつかの家で明かりがともり始めていた。みんな忙しい一日の準備をしているのだろう。さち子も今日は、何か重要なことをしなければならないような予感がした。

午前九時、健太と弓が最後の荷造りをしている時、さち子は静かに外出した。

「ちょっと出かけてくるよ」

「どちらへ行かれるんですか?」と弓が尋ねたが、さち子は答えずに玄関のドアを出た。昨日行った不動産屋へ向かった。足取りはいつもより早かった。心の一方では「こんなことをしてはいけない」と言っていたが、もう一方では「一度くらいはやってみないか」という声の方が大きかった。

「奥様、昨日いらした方ですね」と若い不動産屋がさち子に気づいた。

「ええ、もう少し詳しく知りたくて」

「どうぞお座りください。どのようなことを、より詳しくお知りになりたいですか?」

さち子が座ると、店員が慎重に尋ねた。

「もしもの話ですが、本当に急いで売らなければならないとしたら、どのくらい早く売れるものでしょうか?」

「あ、急ぎの売却ですね。条件が良ければ、一週間以内でも可能です。特にこの辺りのマンションは、元々人気が高いですから」と店員がパソコンの電源を入れながら説明した。

「一週間以内ですか?」

「はい。価格を適正に設定すれば、すぐに決まりますよ。今もこの広さの部屋を探している方は大勢いらっしゃいますから」

さち子の心臓が早く鼓動し始めた。本当に可能なことなのだと、実感できたのだ。

「では、手続きはどうなるんですか?」

「まず売り物件として登録しますと、興味を持った方から連絡が入り、直接見にいらっしゃいます。気に入っていただければ、契約となります。最近は現金で取引される方も多いので、さらに早いですよ」

店員の言葉を聞きながら、さち子は頭の中で計算してみた。健太夫婦が旅行に立つのは、明日の早朝。帰ってくるのは一週間後だ。もし明日から売りに出したら、どうなるだろうか。

「明日からですか? それですと、今日契約書を作成し、写真撮影もしなければなりませんが、大丈夫ですか?」

さち子は一瞬、躊躇した。本当にここまで来てしまったのだろうか。

「少し考えさせてください」

「分かりました。ところで、ご家族の方々はご存知なのでしょうか? 後で問題になることもありますので」

「私の名義ですから、私が自分で決めます」

さち子の声には、普段にはないきっぱりとした響きがあった。

不動産屋を出て、近所を一周した。普段は何気なく通り過ぎていたワンルームマンションが、新しく見えた。あんなところで一人で暮らすのはどうだろうか、という考えが浮かんだ。小さなワンルームなら、管理も楽だろうし、掃除もすぐに終わるだろう。何よりも、誰の目も気にせず、自分だけの空間で暮らせるのだ。

家に帰ると、健太夫婦がリビングでスーツケースの整理をしていた。

「母さん、どこへ行ってきたんですか?」

「銀行へ。ちょっとね」

「銀行? 何か用事があったんですか?」と健太が顔を上げた。

「ただ通帳の整理をしようと思って」

さち子は適当にごまかした。本当に銀行へ行くつもりもあったのだ。家を売ったら、そのお金をどう管理するか調べなければならなかったからだ。

「ああ、そうでしたか。僕たちの旅行費用のことでしたら、気にしないでください。もう全部解決しましたから」と健太が笑いながら言ったが、さち子にはその笑顔が少し無理をしているように見えた。

昼食の時間、弓の実家の母親がまたやってきた。今回は旅行用のお菓子をたくさん抱えていた。

「弓、飛行機で食べるお菓子を、少し持ってきたわよ」

「お母さん、またこんなにたくさん。うちの息子さんのおかげで、年を取ってからヨーロッパ旅行にも行けるなんて、幸せだわ」と弓の母親が健太を見て言った。

「いえ、とんでもない。家族なんですから、当たり前ですよ」

健太の言葉を聞きながら、さち子は自分も家族なのに、なぜその「当たり前」からは外れているのだろうか、と思った。

午後には健太が最後の買い物に出かけた。旅行用品で買い忘れたものがあるとのことだった。弓と二人きりになると、気まずい空気が流れた。

「お母様、私たちがいない間、本当に大丈夫ですか?」と弓が尋ねた。

「心配しないで。私は一人でいても大丈夫だから」

「でも、もし寂しかったら、いつでも電話してくださいね。時差のせいですぐには出られないかもしれませんが」

弓の言葉には義務感が混じっていた。心から心配しているというよりは、儀礼的に言っているように感じられた。

夕方、家族全員で最後の夕食を食べた。明日の早朝に出発しなければならないので、早めに就寝する予定だった。

「母さん、本当に一週間、元気でいてくださいね」と健太が言った。

「ああ、お前たちも気をつけて行ってらっしゃい」

「もし急な用事ができたら、健一、健二兄さんに連絡してくださいね」

「分かったよ」

さち子はそう答えたが、心の中では別のことを考えていた。本当に急な用事ができたなら、それは兄たちでもどうしようもないことだろう、と。

食後、健太夫婦は早めに寝室へ向かった。朝四時に出発しなければならないので、十分な睡眠が必要だったのだ。一人残されたさち子は、リビングでテレビを見ながら時間を過ごした。しかし、テレビの内容は全く頭に入ってこなかった。頭の中は、全く別の考えでいっぱいだったのだ。

夜十時頃、さち子は静かに自室へ入り、引き出しを開けてみた。不動産の登記簿本と印鑑、そして通帳が入っていた。登記簿本をもう一度確認してみた。間違いなく、自分の名前で登記されていた。夫が亡くなる前に、整理しておいてくれたものだった。

本当に私の家なんだな。これまで当たり前だと思っていた事実が、急に新しく感じられた。印鑑を手に取り、しばらく見つめた。この小さな印鑑一つで、全てを変えることができるというのが不思議だった。

深夜一時を過ぎて、ようやく寝床に着いたが、なかなか寝つけなかった。明日の朝になれば、本当に一人になる。そして、その瞬間から、一週間は誰も自分を止めることができない時間が始まるのだ。

さち子は布団を深くかぶりながら、最後に考えた。本当にやってみようか。その考えと共に、胸の奥から何か熱いものが込み上げてくるのを感じた。長い間忘れていた感情だった。それは、勇気だった。

朝の四時、アラームが鳴る前に、さち子はすでに目を覚ましていた。一時間前から眠りが浅くなっていたのだ。健太夫婦が動き出す音が聞こえた。

「お母さん、起きないでください。僕たち、静かに出ていきますから」と弓が小声で言ったが、さち子はすでに起き上がり、台所へ向かっていた。

「それでも、朝ご飯は食べていきなさい」

「時間がないんです。空港で食べますから」と健太がスーツケースを玄関へと引いていった。弓も、いくつもの鞄を抱えていた。

さち子は彼らを玄関まで見送った。タクシーはすでに下で待機していた。

「本当に気をつけて行ってらっしゃい」

「はい。お母さん、連絡、頻繁にしますね」と弓が抱きつくようにしたが、形式的な感じだった。

「母さん、もし何かあったら、すぐに連絡してくださいね」と健太もさち子の手を握った。

「分かったよ。心配しないで行ってらっしゃい」

タクシーが発進するのを、四階の窓から見下ろした。小さな光が、闇の中へと消えていった。本当に一人になる瞬間だった。

さち子はリビングに戻り、ソファに腰かけた。家の中が急に静まり返った。時計の音だけが、カチカチと聞こえていた。朝の六時まで、そうやって座っていた。特に何も考えず、ただ時間を過ごしていた。

ところが、六時ちょうどに突然立ち上がった。頭に、不思議と明確な考えが浮かんだのだ。さち子は引き出しから登記簿本と印鑑を取り出した。そして、コートを羽織り、家を出た。足取りに、ためらいはなかった。

不動産屋はまだ開いていなかった。九時に開店するので、一時間待たなければならなかった。さち子は近くのカフェに入り、コーヒーを注文した。

「早いですね」とカフェの店員が言った。常連なので、顔を知っていたのだ。

「今日は用事があるものですから」

「何か、大事なご用事なんですね。表情がいつもと違いますよ」

さち子は鏡を見た。本当に、表情が違って見えた。何かを決意した人の顔だった。

九時ちょうど、不動産屋のシャッターが開いた。さち子はコーヒーを飲み終え、すぐに店に入った。

「奥様、早いですね」と昨日の店員が笑顔で迎えてくれた。

「決めました」

「あ、本当ですか? では、契約書を準備します」

店員がすぐに書類を取り出した。まるで準備ができていたかのように、素早かった。

「価格はどうされますか?」

「早く売りたいんです。一週間以内に」

「それですと、相場より少し低く設定するのがいいですね。このくらいでいかがでしょう?」

店員が見せてくれた金額は、昨日聞いた急ぎの売却価格より少し高めだった。

「それでいいです」

さち子が答えると、店員が驚いた表情をした。

「本当に早いご決断ですね。ご家族の方々はご存知で?」

「私の家ですから、私が決めます」

さち子の声に、揺らぎはなかった。契約書の作成に三十分かかった。さち子は一度もためらうことなく、印を押した。

売り物件の写真を撮るために、一緒に家に戻った。

「わあ、本当に綺麗に管理されていますね。これならすぐに買い手がつきそうですよ」と店員が部屋ごとに写真を撮りながら言った。

「いつから見せられますか?」

「今日の午後から可能です。インターネットに掲載すれば、すぐに問い合わせが来ると思いますよ」

本当にその通りだった。午後二時頃から、不動産屋から電話がかかってき始めた。

「奥様、もう三組の方から見たいと連絡が来ています。いつお時間がありますか?」

「いつでも大丈夫ですよ」

最初の購入希望者が来たのは、午後三時だった。三十代の夫婦だった。

「本当に急ぎの売却なんですか? 価格があまりにも良いのですが」と夫が疑わしそうな目で尋ねた。

「個人的な事情があるものですから」とさち子が答えた。彼らが家を見回した後、出て行くとすぐに次の組が来た。四十代の夫婦で、子供たちも一緒だった。

「学校も近いし、交通の便もいいですね。いつまでに決めればいいですか?」

「早い方がいいです」

三番目に来たのは、一人暮らしの五十代の男性だった。

「現金ですぐに決済できますよ。明日でも」

その言葉に、さち子の心臓が早く鼓動した。

夕方六時になると、不動産屋からまた電話がかかってきた。

「奥様、すごいですよ。もう五組の方が興味を示しています。明日までに決めたいという方も三人いらっしゃいます」

「そうですか」

「はい。こんなケースは初めてですよ。それだけ条件が良いということでしょうね」

電話を切ると、急に実感が湧いてきた。本当に、この家が売れていくのだ。

夕方、隣の家の奥さんが訪ねてきた。

「さち子さん、どうしたの? 今日一日ずっと人が出入りしていたけど」

「家を売りに出したんです」

「家を? 急にどうして? 健太さんは知ってるの?」と隣の奥さんが驚いた表情をした。

「まだ知りません。旅行に行っていますから」

「旅行に行っている間に、家を売るなんて。さち子さん、正気なの?」と隣の奥さんの声が高くなった。

「大丈夫です。全部、考えてやったことですから」

しかし、隣の奥さんは理解できないという表情だった。

「これは、あまりにも急すぎるわ。家族と相談もせずに」

「私の家ですから、私が決めます」とさち子がきっぱりと言うと、隣の奥さんはそれ以上何も言えなくなった。

その後も、次々と近所の人たちが訪ねてきた。噂が広まったのだ。

「本当に売るんですか? どうして?」

「せっかくのいい息子さんは、何て言ってるんですか?」

同じ質問が繰り返された。さち子は全ての質問に、同じ答えを返した。

「私が決めたことです」

夜九時になって、ようやく静かになった。さち子はリビングに一人で座り、一日を振り返った。本当にやってしまったのだ。取り返しのつかないことを始めてしまったのだ。胸はドキドキしていたが、後悔はなかった。むしろ、何かすっきりとした気分だった。長い間、閉じ込められていた何かが、吹き出したような感じだった。

携帯電話を見ると、健太からメッセージが届いていた。

「お母さん、無事に着きました。心配しないで、元気でいてください」

さち子はそのメッセージを見ながら、今自分が何をしているかを知ったら、どれほど驚くことだろうか、と思った。返信はしなかった。まだ言うべき言葉がなかったのだ。

不動産屋から、最後に電話がかかってきた。

「奥様、明日の午前中に、現金で購入される方が契約にいらっしゃいます。本当に進めてよろしいですね」

「はい、進めてください」

「承知いたしました。では、明日十時にお会いしましょう」

電話を切ると、本当に終わりが見えてきた。明日になれば、この家はもはや自分の家ではなくなる。

その夜、さち子はぐっすりと眠った。久しぶりに、安らかな眠りだった。夢の中に、夫が現れた。今度は笑っていた。

「さち子、よくやった」と夫が言った。

「本当に、よくやったのかしら」

「ああ、これでやっと、お前はお前自身になれたんだ」

その言葉と共に目が覚めた時、さち子の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。ついに何かが始まったのだ。

翌朝、約束していた購入者が時間通りに到着した。五十代の男性で、名前はパク・ジスさんだった。現金で即時決済が可能だと言っていた方だった。

「本当に良いお家ですね。綺麗に管理されていて」とジスさんが家の中を見回しながら、満足そうに言った。

不動産屋と一緒に契約書を確認するのに、一時間ほどかかった。さち子は一度もためらうことなく、全ての書類に印鑑を押した。手は震えなかった。

「では、残金のお支払いは来週の金曜日にお願いします。その時に、鍵をお渡しいただければ結構です」

「はい。承知いたしました」

契約が済むと、ジスさんが手を差し出した。

「良い家をありがとうございます。大切に住まわせていただきます」

その握手をした瞬間、さち子は本当にこの家の主人ではなくなるのだな、と思った。しかし、名残惜しさはなかった。むしろ、晴れ晴れとした気分だった。

契約が終わり、不動産屋が帰った後、さち子は一人で家の中を見回した。二十年間住んだ空間だったが、すでに見知らぬ家のように感じられた。

午後二時頃、携帯電話がけたたましく鳴った。健太からの電話だった。

「お母さん、一体どういうことですか?」と声が切羽詰まっていた。

「どうしたんだい?」

「兄さんから連絡があったんですけど、うちの家を売ったって。これ、一体どういうことですか?」

健太の声がどんどん高くなっていく。おそらく、健一か健二が近所の人から話を聞いたのだろう。

「売ったよ」とさち子が淡々と答えた。

「いや、本当に売ったんですか?」

「ああ、昨日、契約したよ」

電話の向こうで、健太が息を飲む音が聞こえた。

「お母さん、今、冗談言ってるんですよね。私たちの家を。本当に売ったんですか?」

「冗談じゃないよ。本当に売ったんだ」

その時、弓の声が聞こえた。健太がスピーカーフォンに切り替えたようだった。

「お母様、どうしてこんなことができるんですか? 私たちに、一言も相談せずに」と弓の声は涙に濡れていた。

「私の家だから。私の好きにしたのよ」

「お母様の家ではありますけど、私たちが一緒に住んでいたんですよ。これは、あんまりじゃありませんか?」と弓が叫んだ。

「じゃあ、お前たちは私に相談したのか? ヨーロッパ旅行に行く時」

工事の問いに、電話の向こうはしばらく静まり返った。

「それは、それは旅行じゃないですか? 家を売るのとは違いますよ」と健太が再び口を開いた。

「私にとっては同じことだよ。お前たちが私を抜きにして決めたように、私もお前たちを抜きにして決めたんだ」

「お母さん、本気で狂ってしまったんですか? 僕たちが帰る家が、なくなったんですよ」と健太の声は絶叫に近かった。

「お前たちは、弓さんの実家に行けばいいじゃないか。あんなに歓迎されているんだから」

「お母様!」と弓が泣き崩れた。

「私たち、今すぐ帰ります」

「帰ってきたところで、もう遅いよ。契約も済んだし、来週には鍵を渡さないといけないんだから」

さち子の言葉に、電話の向こうで弓がむせび泣く声が聞こえた。

「お母さん、お願いです。契約をキャンセルしてください。僕が悪かったです」と健太の声が懇願に変わった。

「もう遅いよ。それに、私は後悔していない」

「じゃあ、僕たちはどこで暮らせばいいんですか?」

「それぞれ、自分で何とかしなさい。もういい大人なんだから」

その言葉を最後に、さち子は電話を切った。電話を切ると、家の中は再び静まり返った。しかし、胸はドキドキしていた。ついに、やってしまったのだ。これまで胸のうちに溜め込んでいた全てのこと――。

携帯電話がまた鳴ったが、出なかった。健太からの電話に違いなかった。

午後四時頃、長男の健一から電話があった。

「お母さん、どうしたんですか? 健太が泣きながら連絡してきたんですけど」

「別に、どうもしないよ。ただ、家を少し整理しただけだ」

「家を売ったことが、整理なんですか? お母さん。もしかして、どこか具合でも悪いんですか?」と健一の声には心配が混じっていた。

「具合は悪くないよ。元気だ」

「じゃあ、どうして急に」

「急じゃないよ。ずっと考えていたことだ」

「お母さん、僕、来月帰国します。それまで、何もしないでください」

「お前も忙しいだろうに。わざわざ帰ってくることはないよ、お母さん」

しかし、さち子はこの電話も切ってしまった。

夕方には、次男の健二からも電話があった。

「お母さん、一体何を考えてるんですか?」

「何を考えてるって? 私の家を、私が処分するのに、何の考えが必要なんだい」

「それにしても、兄弟と相談くらいはすべきでしょう」

「相談? 誰が私に相談したって言うんだい。健二も言葉に詰まったようで、しばらく沈黙が流れた。

「お母さん、お金が必要なんですか? 僕が送りますよ」

「お金の問題じゃないよ」

「じゃあ、何なんですか?」

「お前たちには、分からなくてもいい。それぞれ、今まで通りに生きていけばいい」

さち子はリビングに一人で座り、今日一日を整理してみた。ついに、嵐が始まったのだ。家族全員が驚き、怒っていたが、さち子は意外にも心は穏やかだった。これまで一人で抱え込んでいた寂しさや孤独を、ついに表現できたような気分だった。もちろん、やり方は極端だった。しかし、他の方法では、彼らは気づいてくれなかっただろう。

携帯電話を見ると、不在着信が三十七件も入っていた。健太、弓、健一、健二、全員からの電話だった。しかし、今は出たくなかった。言うべき言葉がなかったのだ。代わりに、小さなメモ用紙に言葉を書き留めた。

「もしお前たちが私を家族だと思うなら、理解してくれると信じています。母より」

そのメモを冷蔵庫に貼り、寝床に着いた。不思議とよく眠れた。嵐の真っただ中にいながらも、心だけは静かだった。夢の中でも、夫が現れた。今度は、拍手をしていた。

明日からは、また別の嵐が待ち受けているだろう。しかし、さち子は怖くなかった。ついに始まったのだから。

翌朝四時、さち子はけたたましいチャイムの音で目を覚ました。こんな早朝に誰だろうと、インターホンを確認したが、画面には誰も映っていなかった。しかし、チャイムは鳴り続けている。まるで、誰かが狂ったようにボタンを押しているかのようだった。さち子はガウンを羽織り、玄関のドアを開けてみた。

廊下の向こうから、健太がスーツケースを引いて上がってくるところだった。後ろには、弓の姿も見える。二人とも、顔はひどくやつれていた。一晩泣いていたのか、目はパンパンに腫れていた。

「お母さん!」と健太がさち子を見るなり叫んだ。声は完全に枯れていた。

「どうして、こんなに早く帰ってきたんだい?」

「早いって。お母さんが私たちの家を売ってしまったのに、旅行なんてしてる場合じゃないですよ」と弓が泣き崩れながら言った。スーツケースを廊下に放り出し、その場に座り込んでしまった。

「中に入って話しなさい」とさち子がドアを開けると、健太が弓を支えながら入ってきた。二人とも、完全に疲れきっていた。二十四時間でヨーロッパから日本まで帰ってきたのだから、当然だろう。

リビングに座るなり、健太が再び声を荒げた。

「お母さん、本当に、もう取り返しがつかないんですか?」

「契約もしたし、手付け金も受け取ったよ」

さち子の淡々とした様子に、弓はさらに大声で泣き始めた。

「お母様、私たちが、何をそんなに悪いことをしたって言うんですか?」と弓の声は絶叫に近かった。

健太はリビングを行ったり来たりしながら、頭をかきむしっていた。完全にパニック状態だった。

「弓の実家の方々が、何て言うと思いますか? ヨーロッパ旅行を一日で切り上げて帰ってきたんですよ」と健太が叫んだ。

「それで、何て言われたんだい?」とさち子が訪ねた。

「何て言われるかって。私たちの家がなくなったって言ったら、みんなパニックですよ」と弓がむせびながら言った。

「特に、うちのお父さんが。うちのお父さんが……」

弓は言葉を続けられず、泣き続けた。健太が代わりに説明した。

「義父さんが胸の痛みを訴えて、救急病院まで行ったんですよ。あまりにもショックで」

その言葉を聞いて、さち子も一瞬心が揺らぎた。しかし、すぐにまた毅然とした態度を取り戻した。

「それなら、しばらく弓さんの実家にお世話になればいいじゃないか」

「お母さん。それが筋の通った話だと思いますが、私たちは新婚でもないんですよ。結婚してもう七年になるんです」と弓が叫んだ。

「これまで、弓さんの実家ばかり大切にしてきたんだから、向こうも面倒を見てくれるだろうよ」

さち子の言葉に、弓の顔が青ざめた。

「それ、それはどういう意味ですか?」

「どういう意味か? お前も分かっているだろう。お盆も年末年始も実家で過ごし、週末も実家で過ごし、旅行も実家の家族とだけ行く」とさち子が一つ一つ、ゆっくりと言った。

健太がどうしていいか分からない様子で言った。

「お母さん、それは、弓の実家の事情が大変だったからですよ」

「こちらの事情は、大変じゃなかったのかい? それは違いますけど――。私は七年間、一人だった。夫も亡くなったのに、息子まで私を一人にした」

さち子の声が震えた。これまで耐えてきた感情が、吹き出し始めたのだ。

弓が顔を上げて言った。

「私たちが、お母様を放っておいたって言うんですか? 同じ家に住んでいたじゃないですか」

「同じ家に住んでいれば、家族なのかい? それなら、下宿人も家族だね。お母様。あなたたちは、私を下宿人扱いした。家賃も取らない、下宿人として」

さち子の言葉が、だんだん鋭くなっていった。健太が膝まずいた。

「お母さん、僕が悪かったです。本当に悪かったです。だから、どうか」

「今更、悪かったと言って、何が変わるんだい。もう七年も経ってしまったんだよ」

さち子は、健太が膝まずく姿を見ても、心は揺らがなかった。弓が突然立ち上がって叫んだ。

「じゃあ、お母様は、私たちがどうなってもいいとでも言うんですか?」

「行くところもないのに?」

「死にはしないだろう。弓さんの実家もあるし、お金も稼いでいるじゃないか」

「実家に頼れって言うんですか?」

「私も七年間、遺棄されていたようなものじゃないか。自分の家で」

その言葉に、弓は完全に打ちのめされた。床に座り込み、泣き崩れた。

「お母様、私たちは、本当にそんなにひどい人間でしたか? 本当に、そんなに悪い嫁、悪い息子でしたか?」と健太も涙を流し始めた。

「悪くはなかったよ。ただ、私のことを忘れていただけだ」

さち子の声は少し柔らぎたが、決心は変わらなかった。

「お母さん、本当に、これが最後です。どうか、もう一度だけ考え直してください」と健太が必死にすがりついたが、さち子は首を横に振った。

「考えるのは七年間、もう十分にしたよ」

その時、健太の携帯電話が鳴った。弓の実家からの電話だった。健太は電話に出ることもできず、そのまま切ってしまった。

「弓さんの実家でも、心配しているだろう。早く行ってあげなさい」とさち子が言った。

「お母さん、本当に、こんなことをするんですか?」

「もう終わったことだ。来週の金曜日に、鍵を渡さないといけないんだから」

その言葉を聞いて、弓が気絶しそうな表情をした。

「一週間、一週間以内に引っ越せって言うんですか?」

「そうだ」

「お母様。本当に、ひどすぎます。本当に、ひどすぎます」と弓が叫びながら立ち上がった。そして、鞄を掴むと、ドアの方へ向かった。

「弓、どこへ行くんだ?」と健太が追ったが、弓は振り返らずに出ていってしまった。健太も結局、後を追って出ていった。ドアがバタンと大きな音を立てて閉まった。

さち子はリビングに座り、しばらくそのままの姿勢でいた。胸は苦しかったが、後悔はなかった。むしろ、胸のつかえが取れたような気分だった。これまで言えなかったこと、全て言ってしまったような気分だった。

窓の外を見ると、健太夫婦がタクシーを待っていた。スーツケースを引きずりながら立っている姿が、哀れに見えた。タクシーが来て、二人を乗せて行った。本当に、行ってしまったのだ。

午後になって、少し後悔し始めた。やりすぎたのではないか、と。しかし、もう取り返しはつかなかった。

夕方、健一から電話があった。

「お母さん、健太から連絡があったよ。本当に、そんなことをするつもりなのかい?」

「ああ、お母さん。それは、あまりにも極端だよ」

「極端でなければ、お前たちは分かってくれないんだよ」

健一も、それ以上何も言えなかった。

その夜、さち子は一人で夕食を食べた。久しぶりに、本当に一人だった。七年ぶりに、完全に一人になったのだ。不思議と、怖くはなかった。むしろ、穏やかな気持ちだった。嵐は過ぎ去った。しかし、もっと大きな嵐が来ることは知っていた。しかし、もう引き返すことはできなかった。

さち子は窓の外を見ながら、独り言を言った。

「これからが、始まりだ」

二日後の土曜日の午前、さち子は予想していた電話を受けた。長男の健一からの電話だった。

「お母さん、僕、明日の早朝の便で、そっちへ向かいます」

「わざわざ、なくていいよ。忙しいだろうに」

「いえ、行かなければなりません。それに、健二も上がってくるそうです」

健一の声は落ち着いていた。健太のように、切羽詰まってはいなかった。

翌日の日曜日の午後二時、玄関のチャイムが鳴った。健一と健二が、一緒に来ていた。二人とも真剣な表情だったが、健太ほど動揺しているようには見えなかった。

「お母さん、大変でしたね」と健一がさち子を抱きしめながら言った。予想とは違う反応だった。

「何が大変だったって、健太のことで心を痛めたでしょう」と健二も笑いながら言った。

さち子は驚いた。二人の息子の反応が、全く予想と違っていたからだ。

「お前たち、私が家を売ったこと、怒らないのかい?」

「怒る理由がどこにあるんですか? お母さんの家じゃないですか?」と健一の答えに、さち子はさらに驚いた。

リビングに座ると、健二が鞄から書類の入った封筒を取り出した。

「お母さん、これ、持ってきました」

封筒の中には、小さなワンルームの賃貸契約書が入っていた。さち子の名前で、すでに契約が完了していた。

「これは、何だい?」

「お母さんが引っ越される家です。僕たちが、あらかじめ探しておきました」と健一が説明した。

「あらかじめ?」

「はい。一か月前から」

さち子は理解できなかった。自分が家を売ると決心したのは、数日前のことだったのに、どうして一か月も前から準備ができたというのだろうか。

「お母さん、僕たちはバカじゃないですよ。お母さんがどれだけ辛い思いをしていたか、全部分かっていました」と健二が笑いながら言った。

「いつから?」

「去年の年末年始からです。お母さんが一人でいらっしゃるのを見て、僕たちで話し合ったんです」と健一が言った。

さち子は、ますます驚いた。

「じゃあ、お前たちは、私が家を売るだろうと分かっていたっていうのかい?」

「予想はしていました。お母さんの性格からして、いつかは爆発するだろうと」と健二の言葉に、さち子は呆れてしまった。

健一がお茶を一口飲んで、説明を続けた。

「健太だけが、知らなかったんです。僕たちは、もう数か月前から準備を進めていましたから」

「何の準備を?」

「お母さんが一人で暮らせる場所を探したり、生活費を計算したり、全部やっておきました」

健一が鞄からまた別の書類を取り出した。通帳のコピーと、生活費の計算書だった。

「これは、また何だい?」

「家を売ったお金で定期預金を作って差し上げて、毎月お小遣いも振り込む計画です。僕たち二人で分担して」と健二が言った。

さち子は、ますます驚いた。自分が衝動的にやったことだと思っていたのに、息子たちはすでに全てを計画していたのだ。

「じゃあ、お前たちは、私が健太を追い出すことにも賛成だっていうのかい?」

「賛成というよりは、必要だと思っています」と健一の言葉に、さち子は仰天した。

「健太は、あまりにも甘えていました。お母さんを当たり前の存在だと思っていたんですよ」と健二も同調した。

「僕たちも、反省しています。遠くにいることを言い訳にして、健太ばかり任せきりにしていましたから」

さち子は、この全ての状況が信じられなかった。一人で決心し、一人で実行したと思っていたのに、実は息子たちは全てを知っていたのだ。

「じゃあ、健太が電話で泣き叫んでいた時も、知っていたっていうのかい?」

「はい。少し可哀そうでしたが、必ず必要な家庭だと思っていました」と健一が正直に言った。

「健太は、このことを知っているのかい?」

「まだ知りません。今日の夕方、会って話すつもりです」と健二が答えた。

さち子はソファに深く身を沈めた。ここ数日間、一人で耐えてきたと思っていた全てのことが、実は一人ではなかったのだ。

「どうして、先に行ってくれなかったんだい。言っていたら、お母さんは実行されましたか?」

健一の問いに、さち子は言葉がなかった。本当に、先に知っていたら、勇気を出せなかったかもしれない。

健二がまた別の書類を見せた。

「これは、新しい家の鍵です。もう家具も運び入れましたし、生活必需品も準備しておきました。お母さんが不動産屋へ行かれた日の夜から準備しました。健太から電話があった途端、すぐに動いたんです」

さち子は、息子たちの機転の利いた対応に驚いた。自分よりもずっと先を見越して、全てを計画していたのだ。

「健太は、しばらく辛いでしょうけど、必ず必要なことです。弓さんも同じです」と健一がきっぱりと言った。

「弓さんの実家で頼りながら過ごすのも、経験してみるべきです。そうしないと、お母さんの気持ちは分からないでしょう」と健二の言葉に、さち子はふっと笑った。

「お前たち、本当に恐ろしい子だね。いつから、そんな計画を立てていたんだい?」

「お母さんが寂しそうにしていると気づいた時からですよ」

「じゃあ、私がバカだったんだね。一人でくよくよ悩んでいたなんて」

「バカなのではなくて、優しすぎたんです。健太が大人になるまで待ってあげようとしていたじゃないですか」と健一の言葉に、さち子は頷いた。

「でも、本当に大丈夫なのかい? 健太が、完全に潰れてしまうかもしれない」

「潰れてみるべきです。そうしないと、また立ち上がることはできません」と健二の声には確信があった。

その時、さち子の携帯電話が鳴った。健太からの電話だった。

「出てください」と健一が言った。

「お母さん、兄さんたちがそっちへ行っているそうですね」と健太の声は疲れていた。

「ああ、来ているよ」

「僕も、そっちへ行ってもいいですか?」

「来てもいいけど、私の考えは変わらないよ」

「分かっています。ただ、兄さんたちと話がしたいんです」

一時間後、健太が到着した。顔はひどくやれていた。ここ数日、まともに眠れていなかったのだろう。健一と健二を見ると、健太の表情はさらに暗くなった。

「兄さんたちは、お母さんの味方なんだね」

「味方なのではなくて、正しいと思っているんだ」と健一が言った。

「健太、お前だけが知らなかったんだよ」と健二の言葉に、健太はうなだれた。

その夜、三人の息子とさち子は、長い時間話をした。七年間溜め込んできた全てのこと、打ち明ける時間だった。健太は最初は怒っていたが、だんだんと自分の過ちを認め始めた。

「本当に、知らなかったんです。お母さんがあんなに寂しい思いをしていたなんて」

「もう、分かったんだから、いいんだよ」とさち子が言った。

夜が更けて、ようやく全ての話し合いが終わった。健太は帰り際に、最後に言った。

「お母さん、本当に、許してくれるんですか?」

「許すも何もないよ。これからが、始まりなんだから」

さち子の言葉に、健太は初めて微笑んだ。

その夜、さち子は一人で物思いにふけった。自分一人で戦っていると思っていたのに、実は家族全員が同じ方向を向いていたのだ。ただ、その家庭が、少し劇的だったというだけだった。

翌週の月曜日から、健太の日常は完全に変わった。七年間、当たり前だと思っていた全てのものが、なくなったのだ。朝起きても、母親が作ってくれた朝食はなく、夜帰っても、温かい明かりはなかった。

弓の実家で暮らすのは、思ったよりも大変だった。義父は相変わらず胸の痛みに苦しんでおり、義母は健太を見る目が以前とは違っていた。数日前までは自慢の息子だったのに、今では心配の種になっていたのだ。

「健太さん、本当に、お母さんと仲直りする方法はないのかしら?」と義母が慎重に訪ねた。

「さあ、まだ難しいと思います」

健太の答えに、義母のため息は深くなった。弓も大きく変わった。以前のように実家で気楽に振る舞うことができなくなっていた。自分たちのせいで両親が苦労していることを、分かっていたからだ。

「あなた、私たち、本当にどうすればいいのかしら?」と弓が毎晩泣きながら尋ねたが、健太にも答えは分からなかった。

会社でも、健太は集中できなかった。同僚が家庭の話をするたびに、肩をすぼめた。自分だけが家がない人間のように感じたのだ。

「健太君、最近何かあったのかい? 顔色がひどく悪いけど」と上司が心配そうに尋ねた。

「あ、いえ、ただ個人的なことで」

「家族のことなら、休暇を取ってもいいんだぞ」

しかし、健太は首を横に振った。休暇を取ったところで、行く場所もなく、できることもなかったからだ。

昼休み、健太は一人で会社の屋上に上がることが多くなった。空を見上げながら、この七年間を振り返った。本当に、母親を愚かにしていたのではないか。考えてみると、その通りだった。弓が実家へ行く度について行ったが、母親とどこかへ出かけた記憶はほとんどなかった。年末年始も、義理の家の予定を優先し、休暇の時も義理の家の家族との旅行を先に計画した。母親は、いつも後回しだった。

「お母さんは、寂しくないだろうと思っていたけど……」

健太は、自分がどれほど無神経だったか、気づき始めた。

水曜日の夜、健太は勇気を出して、母親に電話をかけた。

「お母さん、僕です」

「ああ、元気にしているか?」とさち子の声は、以前より明るかった。

「お母さんは、どうですか?」

「いいよ。一人でいると、楽でいい」

その言葉が、健太にはより一層、辛く聞こえた。

「お母さん、僕は、本当にそんなに悪い息子でしたか」

電話の向こうで、沈黙が流れた。

「悪くはなかったよ。ただ、子供みたいだっただけだ」

「子供ですか?」

「ああ、自己中心的だった。お母さんは、いつもいるものだと思っていたし」

健太の胸は、痛んだ。

木曜日には、健太が新しく借りたワンルームを見に行った。指金も足りず、家賃も負担だったが、弓の実家にずっといるわけにはいかなかった。小さなワンルームを見ながら、健太は初めて現実を実感した。これから、本当に一人で生きていかなければならないのだ。

「いい部屋ですね。いつから入居されますか?」と不動産屋が尋ねた。

「来週からです」

「では、契約されますか?」

健太は一瞬躊躇してから、頷いた。

金曜日の夜、弓と一緒に荷造りをしながら、健太はまた別のことに気づいた。

「私たち、義母さんに、何かして差し上げたことってあるかしら?」と弓が突然訪ねた。

健太も考えてみたが、特に思い浮かぶことはなかった。

「誕生日プレゼントも、まともにあげてないな」

「年末年始のお小遣いも、健一さんや健二さんより少なくしていたし」

二人が一つ一つ上げていくうちに、恥ずかしくなってきた。

土曜日、健太は一人で、母親の家の近くまで行った。しかし、チャイムを押すことはできなかった。まだ心の準備ができていなかったのだ。マンションの周りを一周しながら考えた。お母さんは、本当に一人で元気にしているだろうか。寂しくないだろうか。

その時、母親が近所のお年寄りたちと一緒に出てくるのを見た。みんな笑顔で話していた。母親の表情も、明るかった。

「お母さん、幸せそうだな」

健太はその姿を見ながら、複雑な気持ちになった。安堵感と同時に、寂しさもあった。

日曜日の朝、健太は弓と真剣に話し合った。

「僕たち、本当に間違っていたんだな」

「ええ、私もそう思うわ。お母さんに謝らないと。ちゃんとした謝罪を」

弓も、心から反省していた。

その日の午後、健太は長兄の健一に電話をかけた。

「兄さん、僕、本当に変わりたいんです」

「変わりたいって、どういう意味だ?」

「お母さんにとって、本当の息子になりたいんです」

健一の声が柔らぎた。

「それなら、時間が必要だ。焦るな」

「どうすればいいですか?」

「まず、自分の足で立て。それから、ゆっくりと関係を修復していけばいい」

健一の助言が、心に響いた。

その夜、健太は日記を書いてみた。子供の頃以来、初めてのことだった。

「今日気づいたこと。僕は七年間、母親を当たり前の存在だと思っていた。母親にも、自分だけの人生があり、感情があることを忘れていた。今からでも遅くないことを願う」

日記を書いてみると、心が少し整理されたような気がした。

月曜日から、健太は新しい生活を始めた。ワンルームで一人で暮らすのだ。弓も実家を出て、一緒に暮らすことになった。最初は、全てがぎこちなかった。ご飯を作ること、洗濯、掃除。全てを自分たちでやらなければならなかったのだ。

「こうやって生活するのって、こんなに大変だったのね。お母様が何気なく作ってくださったご飯が、こんなに大変で、ありがたいものだったなんて、本当に知らなかったわ」と弓が夜、疲れ果てて言った。

「お母さんが、七年間、一人で全部やっていたんだな」と健太も気づき始めた。

その日から、健太は毎日、母親に安否を尋ねるメールを送るようになった。長いメッセージではなかったが、真心が込められていた。

「お母さん、今日は天気がいいですね。お元気ですか? 夕食は美味しく召し上がりましたか? 僕たちも、ちゃんと食べました」

さち子は最初は返信しなかったが、一週間後から、簡単な返信を送るようになった。

「ああ、元気でいなさい。お前たちも、健康に気をつけて」

小さな変化だったが、健太にとっては大きな希望だった。

今、健太は本当の大人になろうとしていた。一人で暮らしてみて、世界が違って見えたのだ。特に、母親のありがたさを身を持って知った。

「これからが、始まりだな」

健太は鏡を見ながら、独り言を言った。顔はだいぶやつれていたが、目は以前よりしっかりとしていた。真の変化が、始まっていたのだ。

一か月が過ぎ、さち子の新しい日常が定着していった。小さなワンルームだったが、全てが自分のものだという感覚が、心地よかった。朝起きてコーヒーを入れることから、夜にテレビのチャンネルを自由に変えることまで、全てが自由だった。

特に、近所のお年寄りたちと交流する時間が楽しかった。毎日午後三時になると、下の階のコミュニティセンターで会い、花札をしたり、おしゃべりをしたりした。一人暮らしのお年寄りがほとんどなので、お互いの気持ちをよく理解し合えた。

「さち子さん、息子さんから連絡は?」と花札仲間のキクおばあさんが尋ねた。

「最近は、毎日メールを送ってくるんですよ」

「それは、良かったじゃないか。少しは大人になったんだね」

さち子は笑って頷いた。本当に、健太が変わりつつあることを感じていた。健太のメールは、最初は形式的だったが、だんだんと真心が込められるようになった。単なる安否の挨拶から、一日の出来事を共有する内容へと変わっていった。

「お母さん、今日、初めて若布スープを作ってみました。お母さんが作ってくれたのが、どれだけ美味しかったか、今になって分かりました」

「お母さん、洗濯したら靴下の色が落ちて、下着が全部ピンク色になってしまいました。どうすればいいか、教えてもらえませんか?」

こんなメールを受け取るたびに、さち子はふっと笑った。以前では、絶対に想像もできなかった内容だった。

弓も変わっていた。最初は健太を通じて安否を伝えていただけだったが、ある日から直接メールを送るようになった。

「お母様、弓です。料理を習っているのですが、お母様の味噌汁のレシピを、教えていただけませんか?」

さち子は数日間、返信を悩んだ。まだ心が完全に溶けてはいなかったのだ。しかし、結局、簡単なレシピを送ってあげた。味噌は大さじ一杯、水は二杯、豆腐、ネギ。沸騰したら弱火で。短い変身だったが、弓にとっては大きな意味があったようだ。

その夜、健太から感謝を伝えるメールが届いた。

「お母さん、弓がお母さんのレシピで味噌汁を作ったんですけど、本当に美味しかったです。『ありがとう』と伝えてくれと言っていました」

そんなささやかな交流が続くうちに、さち子の心も少しずつほころんでいった。

ある土曜日の午後、さち子が市場で買い物をしていた時のことだ。向こうから、健太と弓が一緒に買い物をしているのを見た。二人とも、随分痩せていた。健太は魚を選びながら、どこかぎこちない様子で。弓は野菜を見ながら、値段を確認していた。以前では、想像もできなかった光景だった。

さち子は、彼らが自分に気づかないように、そっと別の道へ回り込んだ。まだ顔を合わせる準備ができていなかったのだ。しかし、彼らが自力で生きていこうと努力している姿を見ると、心が少し痛んだ。特に、健太が魚の値段を尋ねながらためらっている姿を見ると、なおさらだった。

その夜、さち子は久しぶりに、健太に自分からメールを送った。

「魚は、目が澄んでいて、鱗が鮮やかなものを選びなさい」

健太から、すぐに返信が来た。

「お母さん、もしかして、僕たちのこと、見ましたか?」

さち子は返信しなかったが、健太はメールを送り続けた。

「お母さん、最初は寂しかったけど、今は感謝しています。僕たちがどれだけ子供だったか、分かりました。一人で暮らしてみて、お母さんがどれだけすごい人だったか、気づきました。まだ未熟ですけど、少しずつ学んでいます。待っていてください」

最後のメールを読んで、さち子の目に涙が浮かんだ。健太が、こんな気持ちを表現したのは、本当に久しぶりのことだった。

その日以来、健太のメールの内容が、また変わった。一方的に自分の話ばかりするのではなく、母親の安否を先に訪ねるようになったのだ。

「お母さん、今日は肌寒いので、風に気をつけてください。血圧の薬を飲む時間を、忘れないでくださいね。一人でいらっしゃるから、食事を抜かないでくださいね」

小さな変化だったが、さち子にとっては、意味のあることだった。

一か月半が過ぎた、ある日曜日。さち子がコミュニティセンターから帰ってくると、ワンルームの前に小さな箱が置かれていた。健太が置いていったようだった。箱の中には、おかずの入った容器が入っていた。見た目は不格好だったが、心を込めて作ったおかずだった。短い手紙も添えられていた。

「お母さんへ。弓が作ったおかずです。まだお母さんの味には及びませんが、心は込めました。まずかったら、捨ててください。健太・弓」

さち子はおかずを、一つ一つ味わってみた。少し味は濃いようだったが、それなりに真心が込められていた。

その夜、さち子は久しぶりに、健太に長いメールを送った。

「おかず、受け取ったよ。少し味は濃いけど、食べられるよ。ありがとう」

健太から、すぐに返信が来た。

「お母さん、返信してくださって、ありがとうございます。次は、もう少し味を薄くします」

その後も、週に一度、おかずが届けられた。だんだんと、味も良くなっていった。さち子の心の片隅で、希望が芽生え始めていた。いつかは、本当の家族になれるかもしれない、という希望が。

さち子は窓の外を見ながら、独り言を言った。

「ゆっくり行こう。焦らずに」

関係の修復は、すでに始まっていたが、まだ慎重な段階だった。お互いがお互いを理解していく、長い旅の中間地点にいるようだった。

土曜日の午前、さち子は久しぶりに手紙を書き始めた。手書きで手紙を書いたのが、いつだったか思い出せなかった。何度も書いては破り、また書いては破ることを繰り返した。ようやく、満足のいく内容に仕上がった。

「健太へ。そして、弓さんへ。お前たちが私を憎んでいるのではないかと、この手紙を書くのもためらわれました。しかし、今では言わなければならないという気がします。

家を売ったのは、お前たちを憎んでいたからではありません。むしろ、愛していたからです。あまりにも愛していたから、お前たちが子供のように振る舞うのを、ただ見過ごすことはできなかったのです。もちろん、寂しくて涙が出そうになり、孤独な時もありました。七年間、私はだんだんと透明になっていきました。家族会議から外れ、年末年始の計画からも外れ、果ては旅行からも外れました。

最初は、嫁の実家を気遣っているのだと思いました。しかし、時間が経つにつれて、そうではないことに気づきました。お前たちは、私を当たり前の存在だと思っていたのです。いつもいるものだと。何も言わずに耐えるものだと。

家を売ると決心したのは、怒っていたからではありません。お前たちが本当の大人になってほしかったからです。特に健太、お前はまだ子供のようなところが多かった。一人で暮らしたこともなく、結婚してからは弓さんの実家にばかり頼っていた。弓さんも同じでした。自分の親だけが大切だと思っていた。義理の親も同じ親だということを忘れていた。

今、少しずつ変わっていくようで、安心しています。お前たちが送ってくれるおかずも、美味しく食べているし、メールも待っています。しかしまだ、もう少し時間が必要です。七年間、溜め込んできた寂しさが、一日で消えるわけではないのですから。

それでも、お前たちが努力している姿を見ると、心が少しずつ溶けていきます。特に、健太が一人で暮らすようになって、随分大人になったようです。

最後にもう一つ、言いたいことがあります。家を売ったお金で、お前たちの名義で定期預金を一つ作っておきました。後で本当に困った時に、使いなさい。しかし、簡単には引き出さないように。本当に必要な時だけ。

母より」

手紙を書き終えると、心がずっと軽くなった。封筒に入れ、ワンルームの郵便受けに入れてきた。

二日後の月曜日の夜、健太から電話があった。

「お母さん、手紙、受け取りました」と声が涙に濡れていた。

「ああ」

「本当に、本当に、知らなかったんです。お母さんが、そんな気持ちでいたなんて」

「もう、分かったんなら、いいんだよ」

健太は、しばらく何も言えなかった。おそらく、泣いているのだろう。

「お母さん、僕たち、本当にバカでした」

「バカというよりは、幼かったんだよ。これから、大人になればいい」

「はい。本当に、大人になります」

一週間後、さち子に特別な贈り物が届いた。健太と弓が、一緒に送ってくれた花束だった。カードも添えられていた。

「お母様へ。これまで、本当にありがとうございました。そして、申し訳ありませんでした。お母様のおかげで、私たちは大人になることができました。まだ未熟ですが、これからも努力し続けます。愛しています。健太・弓」

さち子はそのカードを、何度も読み返した。「愛しています」という言葉が、何度見ても嬉しかった。

さらに一か月が過ぎた時、さち子に避けられない瞬間が訪れた。病院へ、定期検診の結果を聞きに行く日だった。今回は、一人で行かずに、長男の健一と一緒に行った。

診察室で、医者がMRIの写真を見せながら説明した。

「前回と比較しますと、少し進行が見られます。まだ初期段階ではありますが、徐々に記憶力の低下が始まるでしょう」

さち子は淡々と聞いていたが、健一の表情は暗くなった。

「あと、どのくらい、大丈夫でしょうか?」と健一が慎重に尋ねた。

「個人差はありますが、一、二年ほどは、日常生活に大きな支障はないでしょう。しかし、その後は――」と医者は言葉を濁した。

病院を出ると、健一が母親の手を固く握った。

「お母さん、いつから、気づいていたんですか?」

「半年前から感じていたよ。時々、物忘れがひどくなってね」

「それで、その時から、計画を立てていたんですね」と健一の言葉に、さち子は頷いた。

家に帰り、健一が慎重に尋ねた。

「健太には、いつ話すんですか?」

「もう、その時が来たようだね」

「僕も、一緒にいますか?」

「ああ、一緒にいておくれ」

その夜、健太と弓をワンルームに呼んだ。突然の連絡に、二人とも緊張した表情だった。

「どうしたんですか?」と健太が尋ねた。

さち子はお茶を一口飲み、ゆっくりと話し始めた。

「お前たちに、話していないことが、一つあるんだ」

「何ですか?」

「私、認知症の初期だと診断されたんだ」

健太と弓の顔が、真っ白になった。

「いつですか?」と健太の声が震えた。

「半年前だ」

「じゃあ、家を売られた時も、すでにご存知だったんですか?」と弓が手で口を覆った。

「ああ、だから、余計に急いだんだ」

「お母さん、まだ大丈夫だよ。日常生活には支障はない。でも、いつかは――」

さち子の言葉が途切れた。健一が代わりに説明した。

「僕と健二は、すでに知っていました。お母さんが計画を立て始めた時から」

健太が兄を見つめた。

「兄さんも、知っていたんですか?」

「ああ。母さんが、正気なうちに、健太にちゃんとした教訓を与えたいと言ったんだ」

健太はうなだれた。

「じゃあ、僕たちのために、極端なことを」

「極端ではなかったよ。必ず、必要なことだったんだ」と健一が言った。

「お前は、あまりにも甘えていた。お母さんは、いつもいるものだと思っていたんだろう。でも、時間は、あまり残されていなかったんだ」

弓が泣き崩れた。

「お母様、本当に、申し訳ありませんでした。私たちが、それを知っていたら」

「知っていたら、どうしたと思う? もっと優しくしてくれただろう。それは、私が望んでいたことじゃないんだ」

さち子の言葉に、健太も涙を流した。

「お母さんが、望んでいたものは、何だったんですか?」

「本当の家族になることだったんだ。義務ではなく、心から」

健太は、その時になって初めて、母親の本当の気持ちを理解した。家を売るという衝撃的な方法を使ってでも、自分たちを目覚めさせたかったのだ。

「認知症が進行すると、どうなるんですか?」と弓が震える声で訪ねた。

「徐々に記憶を失っていく。お前たちのことも、分からなくなるかもしれない」

その言葉に、健太が膝まずいた。

「お母さん、これからは、本当にちゃんとします。本当に、ちゃんとしますから」

「もう、やっているじゃないか。最近、随分変わったよ」とさち子が健太の頭を撫でた。

「じゃあ、これから、どうすればいいんですか?」

「今まで通りでいい。お互いを大切にして、頻繁に連絡を取り合って」

「一緒に、暮らしてはだめですか?」と健太が必死に尋ねた。

「まだ大丈夫だ。私も、一人でいる方が楽だし」

「でも、後々は。後々は、私たちがお世話します。必ず、お世話しますから」と弓も泣きながら言った。

健一が落ち着いて説明した。

「お医者さんの話では、一、二年は今の状態を維持できるそうだ。その間に、お互いに良い思い出をたくさん作らないと」

「じゃあ、旅行にも行けますか?」と健太が尋ねた。

「行きたいね。お前たちと一緒に」

「お母さん、僕が計画します。本当に、良いところへ」

健太の顔に、決意が浮かんだ。

その夜、全ての真実を知って、ここ数か月の出来事全てが、新しい意味を持って迫ってきた。さち子の行動の一つ一つが、時間との戦いだったのだと気づいた。

「お母さん、本当にすごい人です」と健太が心から言った。

「すごくなんかないよ。ただの、母親だっただけだ」

「いえ、違います。僕たちを、本当の大人にしてくれたんです」と弓も頷いた。

「正気なうちに、私たちを変えようとしてくださったんですね。本当に、すごい計画でした」

「計画というよりは、最後の贈り物だと思っていたよ」

さち子の言葉に、皆静まり返った。

「もう、後悔はないよ。お前たちが、こんなに変わってくれて」

「お母さん、僕たちが、もっとちゃんとします。残された時間、本当に幸せにしてあげますから」

健太の強い決意に、さち子は微笑んだ。

一か月後、健太がサプライズを準備した。

「お母さん、僕たちと、北海道旅行に行きませんか? 三泊四日で」

「北海道?」

「はい。お母さんが行きたがっていたじゃないですか」

さち子の目が輝いた。

「本当に、行けるのかい?」

「もちろんです。僕たちが、全て準備しました」

その時、さち子は気づいた。自分の計画が、本当に成功したのだと。健太は今や本当の息子になり、弓も本当の嫁になった。残された時間は少ないかもしれないが、もう後悔はなかった。本当の家族を作ったのだから。

「ありがとう。本当に、ありがとう」とさち子が涙を流しながら言った。

「僕たちの方が、感謝していますよ。お母さん」と健太も泣きながら、母親を抱きしめた。

最後の答えは、これだった。全てのことが、愛から始まったということ。そして、その愛が、結局、本当の家族を作り出したということ。

半年後、さち子は朝六時に起き、窓の外を眺めた。秋が深まっていた。綺麗に色づいた紅葉が、朝日に照らされて、キラキラと輝いていた。以前なら、一人で見る景色だったが、今は違った。

「おばあちゃん、起きましたか?」と弓が台所で朝食の準備をしながら言った。

一か月前から、健太夫婦がさち子のワンルームの隣に引っ越してきたのだ。毎日、朝夕、顔を出し、安否を確認し、一緒に食事をしていた。

「ああ、よく眠れたよ。お前たちは、いつ?」

「三十分前に来ました。健太さんは、まだシャワーを浴びています」

弓の口調は、ずっと柔らかくなっていた。「おばあちゃん」と呼ぶのも、自然だった。さち子が「お母さん」よりも「おばあちゃん」と呼ばれる方が親しみやすいと言ったからだ。

朝食は、三人で一緒に食べた。以前のように、それぞれが別々に食べるのではなく、同じ食卓で、同じ料理を分け合って食べた。会話も、途切れることはなかった。

「おばあちゃん、今日は天気がいいから、公園に散歩に行きませんか?」と健太が尋ねた。最近の健太は、ほとんど毎日、母親と一緒に時間を過ごそうとしていた。会社の仕事も六時には切り上げて、飛んで帰ってきた。

「いいじゃないか。紅葉も見たいしね」

「じゃあ、お昼は公園の近くの食堂で食べましょうか」と弓が提案した。

さち子は、こんなささやかな日常が幸せだった。認知症の診断を受けてから、むしろ一日一日が、より一層大切に感じられるようになったのだ。

公園を歩きながら、さち子は健太と弓の変わった姿を見守っていた。健太は、今や本当に大人になった。母親の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、階段では腕を差し出して支えてくれた。弓も、全く別人だった。以前は自分の実家の話ばかりしていたのに、今ではさち子の話をもっとたくさんするようになった。

「おばあちゃん、私の友達が、おばあちゃんの話を聞くたびに、羨ましがるんですよ」

「何のことだい?」

「こんなに賢い姑さんを持って、羨ましいって」

弓の言葉に、さち子は笑った。

「賢いんじゃなくて、ただ年を取っただけだよ」

「いえ、違います。本当に、すごい方ですよ」

ベンチに座って休んでいると、遠くで子供たちが走り回っているのが見えた。さち子は、その姿を眺めながら言った。

「お前たちも、そろそろ子供を授からないとね」

健太と弓が、顔を見合わせた。

「おばあちゃんが元気なうちに、孫の顔を見せないとね」と健太が言った。

「ああ、そうなったら、嬉しいね」とさち子の顔に、微笑みが広がった。

夜には、長男の健一と次男の健二も合流した。今では、月に二回は、家族全員が集まる時間を持つようになっていた。

「お母さん、最近、どうですか?」と健一が尋ねた。

「いいよ。毎日、健太が来て面倒を見てくれるし、弓さんもよくしてくれる」

「それは、良かったです。健太も、随分大人になったんですね」

「ああ、今になって、やっと本当の息子みたいだよ」と健太が照れくさそうに笑った。

本当に、幸せな一日だった。一年前に、家を売ると決心した時には、こんな日が来るとは想像もできなかった。その時は、ただ怒りと孤独しかなかったのに。今では、本当の家族の温かさを感じていた。

認知症という余命宣告を受けたようなものだったが、むしろ、より意味のある時間を過ごしていた。一日一日が大切で、家族とのささやかな瞬間の全てが、贈り物のようだった。

心が、穏やかになった。窓の外を見ると、他の家の明かりが、一つ、また一つと消えていった。みんな、家族と共に、一日を終えようとしているのだろう。さち子も、ベッドに入りながら、独り言を言った。

「本当に、よくやったよ」

さち子は、自分を褒めてあげたかった。一年前、あの勇気ある決断をした自分を。家を売り、家族を驚かせ、全てをひっくり返したあの決断が、結局、本当の家族を作り出したのだから。今では、後悔は全くありませんでした。残された時間がどれくらいあるかは分からないが、もう十分に幸せだった。

本当の家族とは何かを見つめ直すことができ、特に、健太は本当に立派な息子になった。さち子は目を閉じながら、感謝の気持ちで眠りについた。明日も、愛する家族と一緒に過ごせる一日が待っていた。静かだけれど、深い幸せが、家の中を満たしていた。

本当に、家族になったのだ。

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