「森川さん、頼む。戻ってきてくれ。月給100万円でもいい。品質保障部長の席も渡す。株も5%譲る」
半年前まで私に月給22万円しか払わなかった会社の社長が、今、私の目の前で頭を下げていた。私が何度求めてものらりくらりとかわされ、「若いんだから経験を積めるだけありがたいと思え」と言われ続けた会社だ。同じ部署の社員たちは月給70万円から80万円。大型案件の特別賞与も、他の社員が50万円以上もらう中で、ほぼすべての品質保障を担当した私だけが5万円だった。それでも私は黙って仕事をした。そして2年間の契約が切れる前日、私は人事担当者の前に契約満了退職届を置いた。
その瞬間から会社の態度は一変した。25万円、40万円、80万円、100万円。提示される金額はどんどん増えていった。それでも私は戻らなかった。その数日後、会社の主力サービスで重大障害が発生した。原因は、私の退職後に部長が命じた、品質確認を省略したままの緊急リリースだった。そしてそこから会社は信じられない速さで崩れ始めたのだ。
私の名前は森川美咲、29歳。横浜に本社を置くクラウドサービス会社、東デジタルで品質保障の仕事をしていた。私が担当していたのは、開発された機能が要求通りに動くかを確認するだけの単純作業ではない。要件定義の段階から仕様の矛盾を洗い出し、開発中には障害が起きそうな組み合わせを想定してテスト項目を作り、公開前には決済、会員情報、外部サービスとの接続まで確認する。さらに、重大な変更を本番環境へ出して良いか判断するリリース判定資料も作っていた。
入社したのは2年前のことだ。専門学校でソフトウェアテストとデータベースを学び、卒業後、初めて面接を受けた会社が東デジタルだった。面接を担当したのは、品質管理を統括する技術部長の小野だった。小野部長は当時、にこやかな顔で言ったものだ。
「森川さんは基礎がしっかりしているね。うちは若い人を育てる会社だよ。最初の半年は月給22万円だけど、成果を見て必ず見直す。他の技術社員と同じ水準まで上げることも十分可能だ」
社会人経験のなかった私は、その言葉を疑わなかった。2年間の有期契約に署名し、ここで頑張ろうと決めた。ところが入社してみると、実態は想像とは違っていた。技術部には私を含めて8人いたが、私以外の7人は全員月給70万円以上。各種手当てを含めれば80万円を超える人もいた。最初は経験年数の違いだと思っていた。しかし働いていくうちに、それだけではないことに気づいた。7人のうち3人は小野部長が以前勤めていた会社から連れてきた知人。2人は役員の親族。残りの2人も勤続年数が長い中途社員だった。もちろん実力のある人もいたけれど、難しい仕事を公平に分担しているわけではなかった。むしろ面倒な確認や障害調査、休日のリリース立ち合いは、若くて断らない私に集中した。
入社半年が過ぎた頃、私は約束を信じて小野部長に相談した。
「部長、入社時にお話しいただいた給与の見直しについてですが」
すると部長は私の肩を軽く叩いた。
「もちろん覚えているよ。ただ今は会社の資金繰りが厳しい。あと半年待ってくれないか。次は私から社長に掛け合う」
私は信じた。さらに半年後、再び尋ねると「まだ経験が足りない」と言われた。その3か月後には「今期は利益率が低い」、さらにその後には「若いうちは給料より経験だ」。最後にはこう言われた。
「専門学校を出たばかりで22万円なら悪くないだろう。欲を出しすぎると成長しないぞ」
その言葉を聞いた時、ようやく理解した。最初から私の給料を他の社員と同じ水準にするつもりなどなかったのだ。私は安く使える便利な人材だっただけだ。それでも私は仕事を投げなかった。自分の仕事にだけは誇りを持ちたかったからだ。
そんなある朝、小野部長が私の席まで来た。
「森川、法人向け予約決済クラウドの最終試験、今日中に全部終わらせてくれ。来週公開だからな」
その案件は、会社がその年最も力を入れていた新サービスだった。宿泊施設やイベント運営会社が、予約受付から決済、返金、売上集計まで一括で処理できるクラウドサービスだ。開発費だけで数億円。複数の大手企業との導入契約も決まっていた。ところが品質保障を担当していたのは、実質的に私ひとりだった。私は仕様書を読み込み、約2800項目のテストケースを作成した。通常予約、キャンセル、一部返金、メール送信、通信切断、決済会社からの応答遅延、同時アクセス、文字コード、日付変更。考えられる限りの条件をひとつずつ確認していった。
途中で重大な問題も見つけた。決済が成功した直後に通信が切れると、利用者側では支払い済みなのに、会社側の注文記録が作成されない可能性があったのだ。私はすぐ開発担当者へ報告し、修正後には再テストを行い、関連する機能にも影響がないことを確認した。そしてリリース判定表には、ある注意事項を太字で残した。「決済処理または注文記録処理を変更した場合は必ず回帰試験を実施すること。試験未実施での本番反映は禁止」。これは将来担当者が変わっても事故を防げるように残したものだ。
公開前の1週間、私は毎日夜9時近くまで残業した。同僚たちは午後6時になると帰っていく。ある日の昼、小野部長が知り合いの社員2人と寿司を食べに出かける時、私の席の横で言った。
「森川も行くか」
私は画面から目を離さずに答えた。
「決済部分の再検証が残っていますので、終わってから食べます」
「そうか」
それだけ言って部長たちは出ていった。廊下から笑い声が聞こえてきた。
「部長、今日もごちそうになります」
「いいよ。大型案件の成功祝いだ」
まだ成功させるために私がひとりで確認している最中なのに。そう思ったけれど、何も言わなかった。午後、人事部の吉田さんと廊下ですれ違った。
「森川さん、明後日で契約満了だね。明日の午前10時、更新について面談したいんだけど大丈夫かな?」
「はい」
吉田さんは笑った。
「今回は給与改定の枠もあるみたいだよ。いい話になるといいね」
私は微笑んだだけだった。もう期待していなかった。実はその時点で、契約を更新しないと決めていたからだ。それでも最後の案件だけは完璧に終わらせようと思った。会社のためでも、部長のためでもない。自分が品質保障という仕事を選んだ以上、最後まで責任を持ちたかったのだ。
公開当日。大きな問題はひとつも起こらなかった。翌朝、小野部長は上機嫌で私を呼んだ。
「森川、昨日の公開は成功だ。社長も喜んでいたぞ。技術部には特別賞与が出る。もちろん君の分も申請しておいた」
「ありがとうございます」
私はそれだけ答えた。過去にも同じことがあった。大きな案件を成功させた時、特別に評価すると言われ、渡されたのは1万円の商品券だった。だから期待はしていなかった。2日後、特別賞与が振り込まれた。私は給与明細を開いた。5万円。一瞬、見間違いかと思った。その直後、部署のチャットが賑やかになった。
「今回すごいですね。52万円入ってました」
「私は48万円です。部長、ありがとうございます」
「今夜みんなで飲みに行きませんか?」
私は画面を見つめた。今回の案件でテスト計画を作ったのは私。約2800項目を確認したのも私。重大障害を事前に見つけたのも私。公開判定資料を作ったのも私。休日に確認したのも私。なのに5万円。私は明細を印刷し、小野部長の部屋へ向かった。
「部長、少しよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今回の特別賞与について確認したいことがあります」
私は明細を机に置いた。
「私だけ5万円でした。他の方は40万円から50万円以上支給されています。評価基準を教えていただけますか?」
小野部長は明細を見ると、面倒そうに椅子へもたれた。
「ああ、それか。賞与は貢献度で決まる」
「貢献ですか?」
「君がやったのは確認作業だろう。決められた項目をチェックするだけじゃないか。開発した社員の方が難しい仕事をしている。当然だろ」
私は耳を疑った。
「テスト項目そのものを設計したのも私です。決済障害を発見して、修正後の影響範囲も確認しました。公開判定資料も私が作っています」
部長は眉をひそめた。
「森川、何が言いたいんだ?」
「私の仕事を、本当に基礎的な確認作業だと評価しているのでしょうか?」
「そうだよ。誰にでもできる仕事だ」
胸の奥で、何かが切れた。
「では、この2年間私が担当した案件で、公開後に重大障害が発生したことはありましたか?」
「それは……」
社長が会議で品質の高さを評価した時も、部長は技術部全体の成果だと報告していた。でも実際にテストを担当していたのはほとんど私だ。小野部長の顔が険しくなった。
「口の聞き方に気をつけろ。会社が5万円も出してやったんだぞ。それに君は月給22万円なんだから、賞与まで他の社員と同じになるわけがない」
「給与が低いから賞与も低いということですか?」
「そういうことだ。それに君の能力は平均的だ。5万円もらえただけありがたいと思え」
私はそれ以上何も言わなかった。明細を手に取り、「わかりました」とだけ言って部屋を出た。不思議なほど腹は立っていなかった。むしろ気持ちは静かだった。これで迷う理由が完全になくなったからだ。
その日の夜、私は自宅で履歴書と職務経歴書を更新した。担当案件、テスト設計、障害検出実績、リリース判定、外部決済との連携試験、問い合わせ削減率、公開後の重大障害ゼロ。会社名や機密情報に触れない範囲で、自分が何をしてきたかを具体的に書いた。そして大手IT企業を中心に3社応募した。希望給与は月給60万円以上。応募ボタンを押してしばらくすると、人事の吉田さんから電話が来た。
「森川さん、明日の10時、契約更新の面談だから忘れないでね」
「承知しました」
電話を切った私は、机の引き出しから1枚の書類を取り出した。契約満了退職届。すでに署名も済ませていた。
翌朝10時、私は人事面談室へ入った。吉田さんは笑顔だった。
「森川さん、会社としては是非契約を更新してほしい。技術部からも高い評価が上がっているよ」
私は吉田さんの目を見た。
「ありがとうございます。ただ、契約は更新いたしません」
笑顔が止まった。
「え、本当に?」
「はい。契約満了で退職します」
「何か不満があるのかな? 給与なら今回上げられるよ。月給28万円でどうだろう?」
22万円から28万円。6万円の昇給ですけれど、隣の席で補助作業をしている社員は月給75万円だった。私は首を横に振った。
「申し訳ありませんが、更新しません」
「森川さん、少し感情的になっていないかな?」
その言葉を聞いた瞬間、私は鞄から退職届を取り出した。
「感情で決めたことではありません。この数か月、十分考えました。こちらが契約満了退職届です」
吉田さんの表情が変わった。
「ちょっと待って。こんな急に……」
「契約満了日は以前から決まっています。引き継ぎ資料も作っています」
吉田さんは書類を何度も見た。
「とりあえず預かるよ。今日1日、考え直してくれないか?」
「結論は変わりません」
私は頭を下げて部屋を出た。席に戻ると、隣の橋本さんが小声で訪ねてきた。
「美咲ちゃん、更新の面談だったんでしょう」
「はい」
「給料、上がった?」
「28万円と言われました。でも、断りました」
橋本さんは目を丸くした。
「やめるの?」
「契約満了で退職します」
彼女はしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「そうよね。あなた、この2年ずっとおかしかったもの。私が言うのも変だけど、同じ部署であれだけ給料が違うのに、一番大変な仕事をさせられていたんだもの」
橋本さんは高い給料をもらっていたけれど、悪い人ではなかった。部長に逆らえば自分も標的になる。家のローンもあり、大学生の子供もいる。だから見て見ぬふりをするしかなかったのだろう。
その日の午後、知らない番号から電話が来た。
「森川美咲様でしょうか? NEXUSソリューションズ人事部の高橋と申します」
私は思わず姿勢を正した。NEXUSソリューションズ。業界でも有名な大手IT企業だった。
「職務経歴書を拝見しました。品質保障のご経験について、是非詳しく伺いたく、明日面接にお越しいただけませんか?」
「はい、是非お願いいたします」
翌日、私は午前半休を取り、東京にあるNEXUSソリューションズ本社へ向かった。面接官は品質保障本部長の石田さんとシニアQAエンジニアの方だった。質問は具体的だった。
「仕様書に書かれていないリスクを、どう見つけますか?」
「変更箇所がひとつでも、どこまで回帰試験しますか?」
「納期を優先したい開発側と、品質を優先するQA側が対立した場合はどうしますか?」
私は自分の経験を交えながら答えた。特に法人向け予約決済クラウドで見つけた通信切断時の不整合について、機密情報を伏せながら説明すると、石田部長は何度もうなずいた。
「森川さんは単にテストを実行する人ではないですね。事故が起きる前に、構造から危険を考えられる」
その言葉が胸に刺さった。前の会社では「誰にでもできる確認作業」と言われた仕事だ。面接が終わった日の夕方、人事から採用の連絡があった。提示された月給は62万円。年2回の賞与、資格取得支援、在宅勤務制度。そして入社後の役割は上級QAエンジニア。私はその場で承諾した。電話を切った後、しばらく動けなかった。22万円だった自分の仕事を、別の会社は62万円の価値があると判断してくれた。私の能力が突然3倍になったわけではない。見る人が変わっただけだった。
会社へ戻ると、小野部長からすぐ呼び出された。
「森川、本当にやめるらしいな」
「はい」
「人事が28万円まで出すと言ったんだろ。それでも不満か」
「もう決めました」
部長は鼻で笑った。
「どうせ転職活動でも始めたんだろう。悪いことは言わない。君程度の経験で、今よりいい会社なんていないぞ」
「ご心配ありがとうございます」
「後になって戻りたいと言っても知らないからな」
私は穏やかに答えた。
「その心配はありません」
それから私は引き継ぎに集中した。橋本さんが後任に指定された。私はテストケース、障害履歴、外部接続仕様、緊急時の切り分け方法、リリース判定手順を整理した。特に重要な部分には赤い見出しをつけた。「決済機能変更時は全回帰試験必須」「注文記録処理変更時は同期試験必須」「本番反映は承認を残すこと」。さらに過去の障害と再発防止策をまとめた資料も作った。橋本さんは驚いていた。
「こんなところまで毎回確認していたの?」
「はい。一見関係なさそうな機能でも、データベースを共有していることがありますから」
「これ、短期間で全部覚えるのは無理だわ」
「覚えなくても大丈夫です。迷ったらこの手順通り確認してください」
私は自分がいなくなった後でも業務が回るようにした。これが私の最後の責任だと思ったからだ。その日の午後、人事の吉田さんがまた来た。
「森川さん、少し話せるかな?」
廊下へ出ると、吉田さんは声を落とした。
「社長にも相談した。月給45万円。それから今回の案件の追加報奨金として45万円を出す。この条件で考え直してもらえないか?」
最初は22万円だったのに、やめると言った途端に45万円。私は不思議に思った。本当に私の仕事に45万円の価値があると思うなら、なぜ昨日まで22万円だったのだろう。
「ありがとうございます。でも辞退します」
「45万円だよ。入社2年でこの金額はかなりいい条件だ」
「すでに転職先が決まっています」
吉田さんの目が大きくなった。
「どこ? 条件はいくら?」
「申し訳ありませんが、お伝えする必要はないと思います」
その時、後ろから声がした。
「転職先だと?」
小野部長だった。どうやら会話を聞いていたようだ。
「森川、自分を買いかぶるのもいい加減にしろ。45万円でも不満なのか」
「不満だからやめるのではありません」
「じゃあ、なんだ?」
私は部長を見た。
「必要な時だけ評価される環境で働き続けたくないだけです」
小野部長の顔が引きつった。
翌朝、契約最終日。出社するとすぐ人事面談室へ呼ばれた。中には吉田さん、小野部長、そして見知らぬ男性が座っていた。吉田さんが立ち上がった。
「森川さん、こちらは東デジタルの大倉社長です」
社長自ら来たのだ。大倉社長は穏やかな表情で私に席を進めた。
「森川さん、君の働きについて改めて報告を受けた。今回の予約決済クラウドだけでなく、過去の案件でも品質面で大きく貢献してくれていたそうだね」
「ありがとうございます」
「会社として是非残ってほしい。希望条件があれば聞こう」
私は首を横に振った。
「申し訳ありません。すでに新しい会社と入社の約束をしております」
横から小野部長が口を挟んだ。
「社長がここまで来てくださっているんだぞ」
社長が手で制した。
「小野君は黙っていてくれ」
部屋が静かになった。大倉社長は私を見た。
「森川さん、月給80万円ではどうだろう。それに管理職候補として育成する」
私は驚いた。22万円が80万円。たった数日で4倍近く。それでも答えは変わりなかった。
「ありがとうございます。しかし辞退いたします」
社長の眉が動いた。
「80万円でもか」
「はい」
「理由を聞いてもいいかな?」
私は少し考えてから答えた。
「2年間、私は何度も評価について相談しました。その度に経験不足だと言われました。今回の案件ではほぼすべての品質保障を担当しましたが、賞与は5万円でした。そして部長から、私の仕事は誰にでもできると言われました」
大倉社長がゆっくりと小野部長を見た。部長は視線をそらした。私は続けた。
「もし私に80万円の価値があるのであれば、なぜやめると伝えるまで、その価値は存在しなかったのでしょうか?」
誰も答えなかった。私は契約満了退職届を机に置いた。
「引き継ぎは完了しています。資料も共有フォルダーに格納し、後任の橋本さんにも説明しました。本日で契約満了となりますので、受理をお願いいたします」
大倉社長は長く沈黙した。そして言った。
「月給95万円。それに私が保有する株式の0. 5%を譲渡する。それでもだめか」
正直、少しだけ揺れた。95万円。株式。以前なら想像もできない条件だ。しかし私は思い出した。深夜の誰もいない事務所。ひとりで食べたコンビニのおにぎり。昇給をお願いした時のおざなりな返事。そして「誰にでもできる仕事」という言葉。私は首を横に振った。
「申し訳ありません。受けられません」
大倉社長は椅子にもたれた。
「決意は変わらないんだね」
「はい」
「わかった。退職を認める」
「ありがとうございます」
面談室を出ると、橋本さんが待っていた。
「どうだった?」
「辞意が受理されました」
「本当にやめるのね」
「はい」
橋本さんは寂しそうに笑った。
「でもその方がいいわ。あなたはここにいるべき人じゃない」
最終日の午後、私はすべてのファイルを確認した。引き継ぎ資料の最終更新、テストケース承認、障害履歴、自分の作業履歴。会社の規定に従い、業務用端末に私物データが残っていないことも確認した。最後に橋本さんへ言った。
「もし今後問題が起きても、まず変更履歴を見てください。私が最後に確認した版の番号はR4. 18です。そこまでは全項目試験済みです。それ以降の変更は必ず新しい試験をしてください」
橋本さんはメモした。
「R4. 18ね」
「はい。それと本番反映する時は、承認チケットを残してください。誰が何を変更したか分からなくなると、事故の原因調査ができません」
「分かった」
これで私ができることはすべて終わった。午後6時、私は社員証を返却し、2年間通った会社を出た。外の空気を吸った瞬間、胸が軽くなった。未練はなかった。
翌日、私はNEXUSソリューションズへ初出社した。人事の高橋さんが受付で待っていてくれた。
「森川さん、お待ちしていました」
品質保障本部へ行くと、石田部長と同僚たちが迎えてくれた。机の上には小さなカードが置かれていた。「ウェルカム美咲さん」。たったそれだけなのに、胸が熱くなった。石田部長は言った。
「最初から無理に結果を出そうとせず、まず仕組みを知ってください。分からないことは何でも聞いてください」
前の会社では初日から仕事を押し付けられた。ここでは「まず知ってください」と言われた。それだけで環境の違いを感じた。初日は社内ルールやシステム構成を学んだ。2日目、小規模の案件のテスト計画作成を任された。私は仕様を読み、リスクの高い部分を整理し、優先順位をつけた試験計画を作った。石田部長は資料を見ると驚いた顔をした。
「森川さん、これ2時間で作ったんですか?」
「はい」
「まだ難しいけれど、十分すぎる。開発側が見ても何を優先すべきかすぐ分かる」
私は久しぶりに、努力そのものを評価された気がした。その日の夕方、スマートフォンが鳴った。橋本さんだった。
「美咲ちゃん、大変なの」
声が震えていた。
「どうしたんですか?」
「予約決済クラウドで障害が起きたの。利用者がお金を払っているのに注文履歴が作られないケースが大量に出てる」
私は驚いた。
「私が退職した時点では、その問題は修正されていました。リリース版はR4.

18ですよね」
橋本さんが黙った。
「それがね、あなたが辞めた翌日、小野部長が開発の中村さんに決済画面を修正させたの。テストはしてない」
「承認チケットは?」
「ないの。部長が急いでるから、直接本番へ出せって」
私は目を閉じた。あれほど資料に書いたのに。
「現在の版を確認してください。R4. 19ですね。変更履歴と差分を見れば、原因はほぼ絞れます。私が確認した版ではありません。退職後に変更された版です」
橋本さんは言った。
「みんなで調べているけど、どこから見ればいいか分からないの。小野部長が美咲ちゃんに連絡しろって」
私は静かに答えた。
「私はもう社員ではありません。復旧作業をすることはできません」
「分かってる。ごめんね」
橋本さんの声を聞き、私は少し考えた。彼女にはお世話になった。
「ひとつだけヒントを言います。決済通知と注文記録の同期処理を確認してください。R4. 18とR4.
19の差分を見れば、変更箇所が分かるはずです」
「ありがとう。本当にありがとう」
電話を切って10分後、今度は小野部長から着信があった。出なかった。再び着信。また出なかった。3度目、私は着信拒否にした。そのままメッセージが届いた。「森川、緊急だ。すぐ会社へ来てくれ」。私は返信しなかった。
翌日、橋本さんから連絡が来た。
「原因見つかったわ。美咲ちゃんが言った通りだった。決済画面の修正で、同期処理の呼び出し条件まで変わってたの」
「影響は大丈夫でしたか?」
「復旧はしたけど、数千件を手作業で修正することになった。返金対応も出てる。社長が激怒してるわ」
私は短く返信した。「変更前に試験していれば防げた事故です」。それだけだった。私は新しい仕事に集中した。ところが3日後、また橋本さんから連絡があった。
「今度はもっと大変」
「何があったんですか?」
「去年公開した会員ポイントアプリ。小野部長が利用率を上げるために新機能を追加させたの」
私は嫌な予感がした。
「まさか、また試験なしですか?」
「最低限しかやってない。部長が『前回はたまたまだ』って言って……」
私は言葉を失った。会員ポイントアプリは予約決済クラウドより複雑だった。ポイント、クーポン、会員ランク、外部店舗利用履歴、複数の処理が絡んでいる。橋本さんが続けた。
「一部の利用者で、ポイントが何度も付与される不具合が出てる。共同運営先が怒って、明日までに原因と再発防止策を出せと言ってる」
「変更履歴はありますか?」
「今回はある。でもテスト項目が足りない」
「私の過去のテスト仕様書は残ってるはずです。ならそれを使ってください」
「でも項目が3500以上あるのよ」
「だから必要なんです」
電話の向こうで橋本さんが黙った。そして小さく言った。
「あなたがいた時、私たちはこういう作業を簡単だと思ってた」
私は何も答えなかった。
「ごめんね、美咲ちゃん。今になって分かった。あなた、毎回これ全部やってたのね」
その夜、部長から再び電話があった。今度は留守番電話が残された。「森川、会社も悪かった。月給80万円出す。戻ってきてくれ。今回の問題だけでも助けてくれ」。私は削除した。もう戻る理由はなかった。
NEXUSソリューションズに入社して1週間後、石田部長に呼ばれた。
「森川さん、先日の試験計画、取引先から非常に評判がいいです」
「ありがとうございます」
「特に、障害が起きた場合の切り戻し条件まで最初から整理していた点を評価された。そこで、試用期間の評価を前倒しします。正式メンバーとして大型案件に入ってもらいたい」
私は驚いた。
「私でよろしいんですか?」
「実力を見て判断しています」
その一言だけで十分だった。その日の帰り道、橋本さんからメッセージが届いた。「ポイントアプリの共同運営先から正式に契約解除通知が来た」。私は画面を見つめた。さらに続きがあった。「違約金と利用者補償を合わせて約1億8000万円。別の取引先も品質監査を要求してる。新規契約も2件保留になった」。前の会社にとっては大きな金額だ。ただし、事故そのものが会社を壊したわけではない。問題はその後だった。保証手順を無視していたこと。承認なしで本番変更していたこと。それが取引先の監査で明らかになり、会社全体への信用が落ちたのだ。
翌朝、知らない番号から電話があった。
「森川さんか。大倉だ」
前の会社の社長だった。
「お久しぶりです」
声には以前の余裕がなかった。
「森川さん、以前の対応については謝る。君がこれほど重要な仕事をしていたとは、私は正確に把握していなかった」
私は黙って聞いた。
「今、会社が非常に厳しい。ポイントアプリの契約解除だけでなく、予約決済クラウドの顧客からも再発防止を求められている。品質保障体制を立て直したい」
「それは現在の社員の皆さんで行うべきことだと思います」
「戻ってくれないか? 月給100万円、品質保障責任者。株式2%も考える」
「お断りします」
「森川さん、これは会社全体の問題なんだ。多くの社員の生活もかかっている」
その言葉に、私は少しだけ胸が痛んだ。橋本さんや、普通に働いている社員まで困ることは望んでいない。しかし、私が戻ることで、小野部長たちが何も学ばないまま元に戻るなら、意味がない。
「社長、私は退職前に必要な資料をすべて残しました。変更時の試験手順も、障害時の確認方法も書いてあります。それを無視して本番変更したのは、私ではありません」
社長は何も言わなかった。
「私がいたから事故が起きなかったのではありません。必要な手順を守っていたから事故が起きなかったんです。それを会社自身が軽視した結果です」
長い沈黙の後、社長が言った。
「せめて今回だけ、外部支援として……」
「申し訳ありません。現在の会社の仕事があります」
私は電話を切った。数日後、橋本さんから連絡が入った。
「小野部長、懲戒解雇されたわ」
「そうですか」
「社内調査で全部出たの。あなたが退職した後の変更指示も、試験を省略しろって書いた社内チャットも残ってた。承認チケットを作らず直接本番反映させたことも。これで誰の責任かは明確になったわ」
私が作った引き継ぎ資料にも、「変更後は必ず回帰試験」と残してある。事故は私の退職が原因ではない。手順を無視した判断が原因だった。橋本さんは続けた。
「吉田さんも処分された。給与格差について社長が人事記録を調べたら、小野部長から何度も昇給申請を止められていたことが分かったの」
私は初めて知った。私が半年後に昇給を求めた時、1年後に求めた時、小野部長は人事に「まだ独力で業務を担当できない」と報告していたらしい。実際には、その時すでに複数案件をひとりで担当していた。
「社長ものすごく怒ってた。自分も管理してなかった責任があるって」
私は複雑な気持ちだった。でも、もう過去だ。
NEXUSソリューションズでは、私の仕事はさらに広がっていった。入社3週間目、大手物流会社向けクラウドシステムの品質保障を任された。私は開発チームと最初から話し合った。
「公開直前にテストするのでは遅いです。仕様を決める段階でリスクを潰しましょう」
開発リーダーは笑った。
「QAからそこまで入ってくれるなら助かります」
前の会社では「最後に確認しておいて」と言われるだけだった。ここでは品質保障が開発の一部として扱われている。入社1か月後、石田部長から会議室へ呼ばれた。
「森川さん、今回の案件で顧客から直接評価をいただきました」
「本当ですか?」
「障害が起きる可能性を事前に3件見つけたそうですね」
「開発の皆さんが早く対応してくださったおかげです」
石田部長は笑った。
「その考え方も含めて評価されています。会社として、あなたをQAチームのサブリーダーに任命したい。3人のメンバーを担当してください」
私は驚いた。
「入社してまだ1か月です。私で務まるでしょうか?」
「務まると判断したからお願いしています」
給与も月給78万円へ上がった。前の会社で2年間22万円のまま働いていた私が、1か月で78万円。けれど一番嬉しかったのは金額ではなかった。「実力を見て判断した」というその言葉だった。
その日、会社のビルを出ると、ひとりの男性が立っていた。大倉社長だった。以前より痩せ、スーツにも疲れが滲んでいた。
「森川さん」
私は足を止めた。
「どうされたんですか?」
社長は頭を下げた。
「最後にもう一度だけ頼みたい」
「以前お答えした通りです」
「分かっている。それでも聞いてほしい」
社長は顔を上げた。
「ポイントアプリの違約金だけでは済まなかった。2社が契約更新を停止した。銀行も追加融資に慎重になっている。このままでは資金繰りが持たない」
私は黙っていた。
「月給100万円を出す。小野はもういない。品質保証部を新設して君を部長にする。私の保有株から5%譲る」
半年前なら夢のような条件だった。しかし、今の私には必要ない。
「社長、私が欲しかったのは、会社が倒れそうになった後の100万円ではありません」
大倉社長の顔がこわばった。
「毎晩残業していた時、普通に仕事を見てほしかったんです。問題を防いだ時、それが仕事だと認めてほしかった。昇給を相談した時、約束を守ってほしかった。それだけです」
社長は目を伏せた。
「すまなかった」
「私がやめると決めてから、会社は私に何度も高い金額を提示しました。でもそれは評価ではありません。失うのが怖くなっただけです」
「その通りだ」
「今の会社は、私がやめるという前から評価してくれています。だから戻りません」
大倉社長は何も言えなかった。私は小さく頭を下げた。
「会社を立て直すなら、私ひとりを戻すのではなく、今いる社員が正当に評価される仕組みを作ってください。品質保障をひとりの能力に依存する会社に戻したら、同じことが起きます」
社長はしばらく立ったままだった。やがて「君の言う通りだ」とだけ言った。私は駅へ向かった。
それから半年。東デジタルは最終的に主要事業の一部を別会社へ譲渡し、大幅な事業縮小を行った。倒産こそ避けたものの、社員の半数近くが会社を去ったそうだ。小野部長は懲戒解雇。承認手順を無視した記録が取引先の監査資料にも残り、以前と同じ管理職待遇での再就職は難しかったと聞いた。人事の吉田さんも管理職を外れた。一方、橋本さんは私に相談してきた。
「私も転職しようと思う」
私は職務経歴書を一緒に整理した。彼女自身が何をしてきたのか、どんな経験があるのか。誰かの肩書きではなく、本人の価値が伝わるように書き直した。2か月後、橋本さんは別のIT企業に転職した。
「今度の会社、ちゃんと仕事を分担してくれるの。それに同年代の人も3人いるのよ」
嬉しそうな声を聞き、私も安心した。私自身はNEXUSソリューションズで、さらに大きな案件を任されるようになった。入社半年後の社内表彰で、私たちのチームは品質改善賞を受賞した。表彰式で名前を呼ばれた時、私はひとりで壇上へ行かなかった。一緒に案件を担当した3人のメンバーにも前へ出てもらった。
「この成果は私ひとりのものではありません。仕様段階から品質について話し合ってくれた開発チーム、問題を見つけた時すぐ修正してくれた担当者、そして何度も試験を繰り返してくれたメンバー全員の成果です」
会場から拍手が起こった。席へ戻ると、石田部長が言った。
「森川さんがリーダーになってから、チーム全体が強くなったよ」
その言葉を聞いた時、私はようやく過去から完全に離れられた気がした。以前の私は、自分が頑張れば会社はいつか分かってくれると思っていた。もっと残業すれば、もっと結果を出せば、もっと我慢すれば、いつか評価してもらえる。でも違った。評価する気のない人に、努力だけで自分の価値を理解させることはできない。逆に、価値を正しく見てくれる場所へ移れば、同じ能力でも未来は大きく変わる。あの日、月給22万円の私が契約満了退職届を机に置いた瞬間、私は会社を捨てたのではない。自分を安く扱う環境を手放しただけだった。
夜、会社の窓から東京の街を見下ろしながら、私は半年前の自分を思い出していた。誰もいない事務所で、ひとりで画面を見つめていた私。あの時の私に声をかけられるなら、こう伝えたい。「あなたの価値は、その会社が決めるものではないよ」。そして今の私はもう知っている。我慢することだけが責任感ではない。自分を正当に扱ってくれる場所を選ぶことも、自分の人生に対する大切な責任なのだ。誰かの努力を当たり前だと思い、失いそうになってから慌てて価値を認めても、信頼までお金で買い戻すことはできない。反対に、今いる場所で正当に評価されないからといって、自分自身まで価値がないと思う必要もない。


