雨がぱらつき始めた夕方、現場の定時が近づいていた。俺は作業をしていた皆に声をかける。「降ってきたな。みんな、今日はもう上がろう」すると朝子さんが手を挙げた。「すみません。ここだけやらせてもらってもいいですか?」「ああ、いいけど……大丈夫か?」「はい」俺は彼女が最後の作業を終えるのを待っていた。ところが雨はすぐに本降りになってしまった。白いTシャツが肌に張り付くほど濡れていく。彼女は汗を拭いな…

雨がぱらつき始めた夕方、現場の定時が近づいていた。俺は作業をしていた皆に声をかける。「降ってきたな。みんな、今日はもう上がろう」すると朝子さんが手を挙げた。「すみません。ここだけやらせてもらってもいいですか?」「ああ、いいけど……大丈夫か?」「はい」俺は彼女が最後の作業を終えるのを待っていた。ところが雨はすぐに本降りになってしまった。白いTシャツが肌に張り付くほど濡れていく。彼女は汗を拭いな...

雨がぱらつき始めた夕方、現場の定時が近づいていた。俺は作業をしていた皆に声をかける。

「降ってきたな。みんな、今日はもう上がろう」

すると朝子さんが手を挙げた。

「すみません。ここだけやらせてもらってもいいですか?」

「ああ、いいけど……大丈夫か?」

「はい」

俺は彼女が最後の作業を終えるのを待っていた。ところが雨はすぐに本降りになってしまった。白いTシャツが肌に張り付くほど濡れていく。彼女は汗を拭いながら、それでも最後まで手を動かし続けた。

「高志さん、待っててくれたんですね。ありがとうございます。終わりました」

「いや、最後までやり遂げようとするその心がすごいと思う。俺も見習わないとな」

俺がそう言うと、朝子さんは目を丸くして固まってしまった。

「え? どうしたんだ?」

「いや……高志さんに初めて褒められたなって思って」

「え? 俺、そんなに怖い人か?」

「怖くはないですけど、とにかく厳しいから。だからちょっとびっくりしちゃって」

彼女は嬉しそうに笑った。俺は日頃の自分の態度を反省する。たまには彼女の良いところを認めてやらないと、せっかくの新人に辞められては困る。

「朝子さんはいつも誰よりも頑張ってるよ。俺はちゃんと見てるから分かってる」

「嬉しいです。これからも頑張りますね」

彼女がそう言って作業の片付けを始めた時、俺は彼女の体に目が留まった。白いTシャツが雨で濡れて、中に着ている下着がはっきりと透けて見えている。俺は慌てて目を伏せた。

「あの……朝子さん。Tシャツ、透けてますよ」

「ああ、そうですね。濡れちゃったから」

彼女はまったく気にしていない様子だ。しかし俺の心臓はドクドクとうるさく鳴り始めていた。

「いや、そうじゃなくて……その、下着が見えちゃってますから」

「え? やだ。本当だ」

朝子さんは自分の体を両腕で抱きしめるようにして隠した。周りの目も気になる。俺は自分の着ていた上着を脱いで、彼女の肩にかけてやった。

「これ、着てください」

「ありがとうございます。高志さんって優しいんですね」

「変な奴に見られたら困るだろ」

俺は視線を外したまま言った。すると彼女がからかうような声を出した。

「もしかして高志さん、ドキドキしました?」

「っ……」

言葉に詰まる。ドキドキしているのを隠せるはずがない。

「高志さんって、ピュアなんですね」

くすくすと笑いながら彼女が言う。俺は完全に遊ばれている。

「年下だからって馬鹿にしてるだろ」

「そんなことないですよ。ただ、可愛いなって思って」

「だからそれが馬鹿にしてるって言ってるんだ」

俺たちは顔を見合わせて笑った。

「もしかして高志さん、女性とお付き合いしたことないですか?」

「この反応見たら分かるだろ」

「そっか。でもいいと思いますよ。女の人と遊びまくってるより、ずっと」

「男子校卒業してから、この仕事一筋なんで」

「うん。素敵だと思います」

彼女の言葉に、俺はふと父のことを思い出した。仕事一筋で生きてきた父は、母に捨てられた。そのことを思い出すと、胸の奥が少し寂しくなった。

「どうしたんですか?」

「いや……俺の両親、離婚してるんだ。母さんが父さんを捨てたのは、この汗臭い仕事が嫌いだったからだって。つくづく、女性とは縁がない親子だなって思って」

俺がそう言うと、朝子さんは俺がかけてやった上着を、今度は俺の肩にかけ直してくれた。

「そんなことないですよ。職人さんって本当に素敵だと思います。汗水流して働く人って、最高にかっこいいと思いますけど」

雨に濡れてびしょびしょのまま、俺たちは次第に寒さを感じ始める。

「高志さん、お腹空きませんか? うちで何か作りますよ。このままじゃ風邪引いちゃいますし」

俺は驚いた。つまり、彼女の家に誘われている。俺の鼓動はまた速くなった。

「い、いいんですか?」

「濡れちゃったし、ここからうちは近いから。シャワーも浴びていってください」

俺は彼女を車に乗せて、近所にあるという家まで走った。

「どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

「お風呂はそっちですよ」

言われるがまま、俺は濡れた服を脱いでシャワーを借りた。浴室で、この後起こるかもしれない出来事を想像してしまう。いや、そんなことを考えてはいけない。そもそも朝子さんはなぜ俺を家に誘ったんだ? いや、雨に濡れたし、単に近いからだ。そう考えるしかなかった。

しばらくすると、朝子さんが心配そうに声をかけてきた。

「高志さん、大丈夫ですか?」

「え? あ、はい、大丈夫です。今出ます」

慌てて浴室から出ると、朝子さんが弟のものだというTシャツと短パンを渡してくれた。濡れた服は洗濯してくれているらしい。朝子さんもシャワーを浴びた後、冷蔵庫の残り物で作ったという野菜炒めとチャーハンを一緒に食べた。

「うまい。朝子さんって、料理も上手なんですね」

「料理『も』って何ですか?」

朝子さんはずるそうに笑う。

「いや、ほら。仕事も手先の器用さが出てるし、それにこうやって男性をうまく手のひらで転がすのも上手いんだなって」

「ふふふ。じゃあ、そんなに恋愛の方が苦手な高志さんに、私が教えてあげようかな?」

「え? 俺は思わず箸を止めた」

「冗談ですよ。いつも仕事を丁寧に教えてもらってるから、私も何か恩返ししたくて」

「じゃ、じゃあ……」

俺は朝子さんの顔に手を添えた。

「俺の知らない恋愛ってやつを、ちゃんと教えてください」

そのまま俺たちは寝室に入っていった。

翌朝、目が覚めると隣に朝子さんが眠っている。俺は時計を見て飛び起きた。

「やばい。あのまま寝ちゃったのか」

「ん……おはようございます。高志さん、今何時?」

「7時半だ。仕事行かないと」

俺たちは一緒に支度をして、車で現場に向かった。運転している朝子さんに、助手席に乗った俺は言った。

「朝子さん、その……昨夜はすみませんでした。俺、調子に乗ってあんなこと。責任を取って、朝子さんと結婚させてください」

「え? 結婚?」

驚いた朝子さんがハンドルを操作し損ねる。

「ちょっと待って。まだ私たち、交際もしてないのに」

「はい。でも、一夜を共にしてしまったので」

朝子さんは急に爆笑し始めた。

「高志さんって本当に真面目なのね。結婚はまだしなくていいわ」

「しかし」

「でも、責任を取るつもりなら、私とお付き合いしてくれない?」

どこまでも彼女のリードで、俺は言われるがままだった。

「普通、そういう流れになるものなんですかね?」

「まあそうね。恋愛に普通はないけど、流れからするとそうなるのが自然かと」

いつの間にか、俺たちはおかしな話し方になって笑い合っていた。こうして俺たちは交際を始めた。

仕事でもプライベートでも一緒にいることになった俺たちは、オンとオフをきっちり分けることにした。職場では俺は変わらず厳しい教育係だ。一方、生活の中では朝子さんが俺に恋愛を教える。そんな関係だ。

朝子さんはデートもしたことがない俺に、優しく丁寧に男性としてのマナーを教えてくれた。

「道を歩く時は、車道側を男性が歩いてくれると嬉しいわね」

「レストランに行く時は、何が食べたいか選択肢を出してくれると答えやすいかも」

彼女の教え方はあまりに素晴らしくて、俺はメモを取りたいくらいだった。女性と初めて付き合う俺は、知らないことだらけだった。ネットで勉強したりもしたが、状況に応じて臨機応変にしなければいけないということも、結局朝子さんが教えてくれた。

朝子さんとの幸せな日々を過ごしていたある日、父に晩酌に誘われた。一緒に酒を飲むなんて久しぶりだ。何か怒られるのだろうかと、ちょっとビクビクしていた。

「お前、朝子さんと付き合ってるらしいな」

「え? なんでそれを?」

「会社のみんながそんな話で持ち切りだぞ。一緒にスーパーで買い物してるのを見たって奴もいた」

俺は隠すこともないと思い、父に話すことにした。

「ああ、付き合ってる。黙っててすまない。でも、仕事は仕事だ。これからも厳しく指導するつもりだ」

「そうか。別に責めてないぞ。むしろ父さんは嬉しい。朝子さんをうちに入れたのは父さんだからな。つまり、お前と朝子さんをくっつけたのは俺ってわけだ」

偉そうに、でも嬉しそうに言う父を見て、俺は思わず笑ってしまった。

「そんなに嬉しいのか?」

「お前のそういう話を聞くのを楽しみにしてたんだよ」

俺たちは酒を酌み交わしながら、今までしなかった恋愛の話をした。父は朝子さんも呼ぼうと言い出した。

「朝子さんも呼べよ。酒も飲めるんだろ?」

「いいけど。教育係と社長と一緒に飲むんじゃ、気を使うんじゃないか?」

「そこはお前がうまく話しておけよ」

そう言って、今度朝子さんをうちに招くことを約束した。翌日、朝子さんに父と話した内容をそのまま伝えた。会社のみんなにはもうバレていたこと、父は俺たちの関係を喜んでいること、今度うちに酒を飲みに来てほしいと言っていること。

「仲良し親子なんですね」

「うん。是非遊びに行かせてください」

「父さんには社長としてじゃなくて、彼氏の父として会ってほしいんだ」

「はい。緊張するけど、なるべく頑張ります」

そんなある日、俺のスマホに見知らぬ番号からの着信があった。

「え? 父さんが事故?」

俺は急いで病院に向かった。父は作業中に、他の業者が使っていた部品が上から落ちてきて、それを避けようとして足を骨折したらしい。ぐるぐる巻きにされた父の足を見て、俺は何も言えなかった。

「足だけで済んで良かったよ」

「悪いな、驚かせて」

「でも、当分現場には行けなくなった」

俺は父の気持ちを思うといたたまれなくなった。今まで少々の風邪でも仕事を休まなかった父だから、さぞ悔しいだろう。

「そこでだ。お前にしばらく、社長を代理でやってほしいんだ」

「え? 俺が?」

急に告げられた社長代理という言葉に、俺は責任の重さを感じた。

「お前はもう十分職人としてやっていけてる。あとは下の人をうまく使えるようになるだけだ」

「俺なんかで、みんなは受け入れてくれるかな?」

「みんなにはもう話してあるよ。こうなるから、その前の練習をさせてくれって」

俺は事務所に戻って、急遽みんなを集めた。

「というわけで、頼りない社長代理ですが、しばらくの間よろしくお願いします」

「みんなで支えますから、どんと構えてくださいね」

みんなは優しく俺の立場を受け入れ、協力してくれた。とはいえ、初めての社長業は仕事量が多く、毎日てんてこ舞いだった。俺がテンパっていると、朝子さんが声をかけてきた。

「私、実は前職で秘書をしてたんです。社長のお仕事、お手伝いさせてください」

朝子さんは山積みになっていた俺の仕事を、片っ端から綺麗に整理してくれた。

「この仕事もやってしまいますね。そしたら、この後デートできるでしょ」

そう言ってにっこり笑う朝子さんには、敵わなかった。

そうやって大変な日々を過ごして三ヶ月。やっと父が退院して現場に復帰できることになった。

「みんな、迷惑をかけてすまなかった」

「社長、お帰りなさい!」

「父さん、お帰りなさい。やっと俺の肩の荷が下りるよ」

「その……なんだがな、高志」

父は俺の肩に手を置いて言った。

「このまま、お前に社長の座を譲ろうと思うんだ」

「え? 俺はやっと父が帰ってきた安心感も吹き飛ぶほど、緊張が走った」

「お前の仕事ぶりは、みんなから毎日のように報告を受けてたんだよ。もちろん朝子さんからもな」

俺が朝子さんを振り返ると、彼女は肩をすくめてとぼけていた。

「慣れない仕事で最初は大変だったようだが、次第に慣れてきて、今では信頼できる社長代理だとみんなが評価してくれてたぞ」

俺は従業員一人ひとりの顔を見渡した。みんな笑顔で俺の数ヶ月の仕事を認めてくれている。

「お前は経営者としての役割もちゃんと務めてくれた。俺は安心して引退できるぞ」

父はそう言うと、俺の手を取ってもう一度言った。

「社長を、継いでくれないか」

「はい、父さん。これから頑張っていきます。みんなも、またよろしくお願いします」

俺がそう言ってお辞儀をすると、みんなから温かい拍手が送られた。

「高志さん、おめでとうございます」

朝子さんは目に涙を浮かべて祝福してくれた。こうして俺は父の会社を継ぎ、社長に就任した。

その週の休日、俺は朝子さんをデートに誘った。ちゃんとレストランを予約して、スーツを着て彼女を迎えに行った。いつもより高級なレストランだったので、朝子さんもドレスを着ておしゃれをしてきてくれた。

「なんだかいつもと違う感じね」

「そうかな」

俺の初めてのサプライズだったから、挙動不審になっていたかもしれない。席に通されて、俺たちは上品で美味しい食事を楽しんだ。デザートを食べ終わって、俺は改まって彼女に向き合った。

「あの、それで朝子さん。今日はお願いがあって誘ったんだ」

「お願い?」

「俺が社長になったら、その朝子さんにこれからも俺をサポートしてほしい。うん、もちろんよ。秘書業だってお任せください、社長」

朝子さんは半分ふざけて言った。

「そうじゃなくてさ。いや、それももちろんお願いしたいんだけど。今回は、その……俺の私生活の方の話だ。つまり、結婚してほしい」

「え? 朝子さんはワインを持つ手を止めて驚いた」

「まさか今日、プロポーズされるとは」

「ありがとう、高志さん。プロポーズ、受けます」

「本当に?」

俺は我を忘れて万歳をしそうになった。

「し、静かに!」

朝子さんは慌てて俺の手を下げさせた。

「朝子さん。じゃあ、この後指輪を買いに行こう」

「え? 今から?」

「うん。だめかな?」

「まあ、普通プロポーズって、最初から用意しておくものじゃないかしら。一緒に買いに行くなら、ゆっくり選べる日に行きたいわね」

「そっか。そういうもんなのか」

「高志さん、まだまだ私が教えることがたくさんありそうね」

「はい。よろしくお願いします」

俺たちは顔を合わせて、そう言って笑った。

父が退職して時間ができて、やっと朝子さんをうちに呼べる日が来た。

「朝子さん。こいつはまだ経験も浅いし、男としても未熟なところはあるが、優しくて真面目なところは自慢の息子だ。どうか、よろしく頼むよ」

「こちらこそ、よろしくお願いします。お父さん」

「いやあ、朝子さんみたいな人がうちに嫁に来てくれるなんて、夢のようだな」

父は目尻を下げっぱなしで、朝子さんに酒を注いだ。その日は三人で朝方まで飲んだ。父が酔っ払って言った言葉を、俺は覚えている。

「俺の老後の楽しみは、孫の顔を見ることなんだ」

「父さん、まだ気が早いよ」

「早くないぞ。楽しみにしておいて損はないだろ」

ベロベロに酔っ払って、あの日の記憶はあまり残っていない。でも、父が本当に嬉しそうだったことだけは、一生忘れないと思う。

俺たちは無事に入籍した。俺は社長として仕事に精を出す。父は人手が足りない時には現場を手伝ってくれることもある。

「だって仕方ないだろう。朝子さんには元気な子を産んでもらわないとな」

そう、朝子さんは入籍してすぐに、俺の子供を妊娠した。俺は母がいなくなって寂しい思いをしたこともあったが、朝子さんという素晴らしい人を妻にすることができた。生まれてくる子供には、寂しい思いはさせないつもりだ。両親と、デレデレのおじいちゃんから愛情をいっぱい受けて育っていってほしい。そう思いながら、俺は妻のお腹を優しく撫でた。

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