「少し確認したいのですが、神矢副院長は今は執刀されておりませんよね。指導される立場として、今の下界医療の現場感覚はまだお持ちなのでしょうか?」
若手医師の言葉に、会場がしんと静まり返った。言いたいことは分かった。メスを握れない人間に、下界の何が分かるのか。そういうことだ。
その時だった。
「少々よろしいでしょうか」
凛とした声が響き、一人の女医が席から立ち上がった。一条沙紀。彼女は穏やかだが、そこに迷いのない口調で言い切った。
「神矢先生は世界屈指の下界です。ミラー型冠動脈奇形における日本唯一の手術成功例を始め、その実績は国際的にも高く評価されています。現場感覚などという言葉で軽々しく語るべき方ではありません」
会場にいた全員が息を飲んだ。若手医師は何も言い返せなかった。沙紀はそのまま、静かに着席した。
かつて俺は「神の手」と呼ばれていた。大げさな話ではない。外科医になって十年も経たないうちに、俺の名は外科の世界で知られるようになっていた。特にミラー型冠動脈奇形という極めて稀な疾患については、日本で唯一手術に成功した医師だった。俺の名前は神矢。今年で五十歳になる。
三年前のある夜、手術を終えて更衣室で手を見ると、右手の人差し指がかすかに震えていた。最初は疲労だと思った。だが翌日も、その翌日も震えは消えなかった。
ある日、手術中のことだった。メスを持つ右手がわずかにぶれた。隣に立っていた看護師が、小さく息を飲むのが分かった。
「先生、大丈夫ですか?」
俺は何事もなかったかのように手術を続けた。だが、その夜、更衣室で自分の右手をじっと見つめ、静かに決めた。もうメスは握れない。誰にも言わずに、自らメスを置いた。そうして今は総合病院の副院長として、後進の指導や病院運営に携わっている。
だが、手術室の前を通るたびに、胸の奥が軋んだ。扉の向こうから漏れてくるあの独特の明かり。消毒液の匂い。モニターの電子音。それらが目や耳に届くたびに、体の奥底から何かが競り上がってくる感覚があった。懐かしさなのか、後悔なのか、自分でもよく分からなかった。ただ、その感覚をずっと見ないふりをしてきた。
春の終わりを告げる風が吹いたある朝、病院に一人の女医が着任した。一条沙紀。海外の著名な医療機関で心臓外科を専門に学んできたという触れ込みは、着任前から院内に広まっていた。だが、実際に目の前に現れた彼女は、俺の予想とは随分違った。
白衣をまとった姿は背筋がすっと伸びていて、無駄な動きがない。切れ長の目には迷いがなく、初日から物怖じする様子が微塵もない。廊下を歩くだけで、周囲の空気が変わるような存在感があった。若手の男性医師たちが早速そわそわし始めたのは言うまでもない。
着任三日目、院内カンファレンスが開かれた。俺が議長を務めるその席で、沙紀は鮮やかな存在感を見せた。
「この症例ですが、現行の治療方針では術後リスクが高いです。投薬の段階から見直すべきかと思います」
ベテラン医師たちが顔を見合わせた。だが、誰も反論できなかった。彼女の言葉には根拠があった。
カンファレンスが終盤に差しかかった時、彼女は不意に俺の方を見た。
「少し伺ってもよろしいでしょうか」
会議室にいる全員の視線が俺に集まった。
「神矢先生は、今は執刀されていないとお聞きしました。なぜ、執刀されないのですか?」
静かな声だった。ただ、純粋に疑問に思っていることを口にしたような、そういう真っすぐさがあった。だからこそ、答えに詰まった。
「今は後進の育成に注力している。それだけだ」
そう返すのが精一杯だった。彼女はわずかに目を細めて、それ以上は何も言わなかった。しかし、その視線が俺の胸の奥に小さな棘のように刺さるのを感じた。
カンファレンスが終わり、参加者が会議室を出ていく中、俺は資料をまとめながら少し遅れて席を立った。廊下に出ると、沙紀が壁際に立って待っていた。
「先ほどは立ち入ったことをお聞きしました。申し訳ありません」
彼女はそう言って、軽く頭を下げた。俺は手を振った。
「気にしなくていい。あれくらいのことなら」
「ありがとうございます」
彼女はしばらく黙って、廊下の先を見つめていた。それから、静かに口を開いた。
「あなたが逃げているとは思っていません」
唐突な言葉だった。俺は思わず彼女の顔を見た。
「ただ、もったいないと感じるだけです」
責める口調ではなかった。
「先生の手術を、私は昔から知っています。文献でも記録でも何度も読みました。あの繊細さと、あの判断の速さは本物でした」
「もう過去の話だ」
「そうでしょうか」
彼女は俺をまっすぐに見た。その目に宿っているものが何なのか、俺にはうまく読み取れなかった。ただ、胸の奥を見透かされているような居心地の悪さを覚えた。俺は短く「失礼する」と言って、その場を後にした。
だが、歩きながら、さっきの彼女の言葉が頭の中でぐるぐると回り続けた。もったいないか。そんな言葉をかけてきた人間は、これまでいなかった。周りは皆、俺がメスを置いた理由を知らないまま、副院長として新しい道を歩んでいると納得しているようだった。だが、彼女は違った。何かを感じ取っている。
それから一週間ほどが経った。沙紀は病院にすっかり馴染んでいた。いや、馴染んだというより、彼女のペースに周囲が引き寄せられていったという方が正確かもしれない。若手医師たちは彼女の後ろをついて回り、ベテラン医師も彼女の意見には耳を傾けるようになっていた。中でも、研修上がりの若手医師・中村は、沙紀の一挙一動を目で追っていた。
「先生、今日のカンファレンスって一条先生も出席しますか?」
「そういうことは自分で確認しろ」
「はい、すみません」
廊下ですれ違うたびに、そんなやり取りが続いた。二十八歳という若さで向上心はあるが、まだどこか頼りない。中村の存在が沙紀にとって良い刺激になっているのだろうと、俺は思っていた。
そして、その日の公開カンファレンスがやってきた。院内以外からも医師が集まる、月に一度の症例検討会だ。俺は進行役として壇上に立ち、各担当医の発表を聞いていた。
一人の若手医師が難症例への対応について発表を終えた時、会場の後方から声が上がった。
「少し確認したいのですが、神矢副院長は現在は執刀されていませんよね。指導される立場として、今の下界医療の現場感覚はまだお持ちなのでしょうか?」
会場がしんと静まり返った。遠回しな言い方だったが、言いたいことは明白だった。メスを握れない人間に、下界の何が分かるのか。そういうことだ。
俺は静かに息を吸った。何か言い返すべきか、やり過ごすべきか。その一瞬の間に、別の声が会場に響いた。
「少々よろしいでしょうか」
凛とした声だった。沙紀が席から立ち上がっていた。
「神矢先生は世界屈指の下界です。ミラー型冠動脈奇形における日本唯一の手術成功例を始め、その実績は国際的にも高く評価されています。現場感覚などという言葉で軽々しく語るべき方ではありません」
会場にいる全員が息を飲んだ。
「経験者としての見識と、医師としての見識は別物です。その区別がつかないようでは、下界として大切なものを失います」
若手医師は何も言い返せなかった。沙紀はそのまま静かに着席した。乱れた様子は微塵もなかった。俺は壇上から彼女を見ていた。彼女が俺を守ってくれたんだと気づいた時、胸の奥にじわりと熱いものが広がった。
数日後、沙紀の執刀による心臓手術が予定されていた。高難度の手術で、手術前から院内の関心を集めていた。俺はオブザーバーとして、手術室の隅に立っていた。
沙紀の手術は序盤は順調だった。的確な判断と、無駄のない動き。隣に立つ中村も、懸命に助手を務めていた。だが、中盤に差しかかった時、思いがけない事態が起きた。モニターが警告音を発した。吻合部の近くで、微細な出血が始まっていた。
「血圧が下がってきています」
「分かってます」
その瞬間、沙紀の手がほんの一瞬だけ震えた。俺には分かった。あの感覚だ。俺は静かに、しかしはっきりと声をかけた。
「一条先生、吻合の角度を五度手前にするんだ」
「はい、分かりました」
彼女はすぐに立て直した。指示通りに角度を修正し、出血を的確に処理していく。モニターの数値がゆっくりと安定していった。
「止まりました」
手術室に、ほっとしたため息が漏れた。その後、手術は無事に終わった。
一時間後、俺が廊下を歩いていると、屋上へ続く階段のそばで沙紀が壁に寄りかかって立っていた。術衣のまま、空を見上げていた。
「お疲れ様、先生」
「さっきは、うまく切り抜けたな」
「それでいい」
「手が震えました」
彼女は隠すでもなく、そう言った。
「ああいう場面で震えることがあるんです。昔から」
「そうか」
「怖いから震えるんじゃないと、私は思っています。命の重さを体が感じているから震えるんだと」
俺は何も言えなかった。
「先生の手の震えも、きっと同じだったんじゃないかと、私は思っています」
彼女は俺の震えのことを知っていた。怖かったわけじゃない。逃げたかったわけでもない。ただ、命の重さに体が正直に反応しただけだったのかもしれない。三年間、ずっと自分を責め続けてきた。弱くなった、情けないと、そう思い続けてきた。だが、彼女の言葉は、俺の中の凝り固まったものを静かに解きほぐしていった。
「ありがとう」
気づいたら、そう口にしていた。沙紀は小さく微笑んで、屋上への扉を開けた。夕暮れの風が、廊下に流れ込んできた。
その夜遅く、救急搬送の連絡が入った。患者は中年男性。重篤な心疾患で、意識はもうろうとしていた。検査の結果が出た瞬間、俺は息を飲んだ。
ミラー型複合冠動脈奇形。この疾患の手術成功例を持つのは、日本で俺ただ一人だ。
病室の外で、男性の娘が待っていた。若い女性だった。目を真っ赤にして、こちらを見た。
「先生、父を助けてください。お願いします」
そう言って、深く頭を下げた。俺はその姿をじっと見つめた。胸の奥で、何かが動いた。三年間ずっと抑え込んできた何かが、ゆっくりと頭をもたげてくる感覚があった。かつて俺がメスを握っていた理由。目の前の命を救いたいという、ただそれだけの気持ち。それは震えと共に消えたわけじゃなかった。ずっと、そこにあり続けていた。
だが、俺は答えを出せずにいた。手術成功例を持つのは俺だけだ。それは分かっている。だが、三年間メスを握っていない右手で、あの手術に挑めるのか。病室の廊下に、静かな夜の空気が漂っていた。
その時、足音が近づいてきた。
「神矢先生」
振り返ると、沙紀が立っていた。検査結果のファイルを手に持ち、真剣な表情をしていた。
「高橋さんの件、聞きました。執刀できる医師は、先生しかいません」
「分かってる」
「迷ってるんですか?」
俺は答えなかった。しばらく沈黙が続いた後、沙紀は静かに言った。
「あなたにお見せしたいものがあります」
彼女はそう言って、白衣のポケットから折りたたまれた一枚の写真を取り出した。古い写真だった。色が少し褪せている。受け取って広げた瞬間、俺は息を飲んだ。そこには、若い頃の俺が映っていた。術衣のまま病院の廊下に立っている。隣には、小さな女の子がいた。幼稚園くらいの年齢だろうか。点滴のチューブをつけたまま、俺の白衣の裾をきゅっと握っていた。
「これは……私です」
俺は顔を上げて、彼女を見た。
「二十八年前、私は先生に命を救っていただきました。先天性の心臓病で、当時手術できる医師はほとんどいなかったと、母から聞いています」
記憶の奥底に、何かが引っかかった。二十八年前。俺がまだ研修を終えて間もない頃、ある夜、小児病棟に呼ばれた。病室に入ると、小さな女の子がベッドに横たわっていた。病気で、このままでは長くないと言われていた子だった。母親がベッドの脇で、必死に手を握っていた。
「先生、この子をお願いします」
「私に任せてください」
そう言い切ったものの、正直なところ不安がなかったわけではない。難易度の高い手術だった。だが、あの子の顔を見た時、やるしかないと思った。手術は深夜まで続いた。そして、無事に終わった。
翌日、病室に顔を出すと、女の子はベッドの上で起き上がって、点滴のチューブをつけたまま大きな目でこちらを見た。
「先生、ありがとう」
「もう痛くないか?」
「うん。ねえ、先生」
「なんだ?」
「私、大きくなったらお医者さんになる」
俺は思わず笑った。
「そうか。じゃあ、待ってるよ」
「うん。絶対になる」
あの笑顔を、今でも覚えている。
記憶がゆっくりと現在へ戻ってきた。目の前に立つ沙紀を、改めて見つめた。あの女の子が、今、白衣をまとって俺の前に立っている。
「先生の背中を追いかけて、私は医師になりました。本当のことです」
「君だったのか」
沙紀は静かに頷いた。
「先生が救ってくれた命が、今ここにいます。先生が救える命を、救ってください」
胸の奥で、何かが音を立てた。迷いが溶けていくような感覚があった。そうだ。俺がメスを握っていた理由は、ただ一つだった。目の前の命を救いたい。それだけだ。
「分かった。やろう」
沙紀は静かに頷いた。
翌朝、俺は手術室に入った。三年ぶりだった。消毒液の匂い、モニターの電子音、冷えた空気。全てが懐かしかった。手術着に袖を通し、メッシュ手袋をはめると、指先に力が戻ってくるような感覚があった。沙紀が第一助手として隣に立った。中村が第二助手として、その隣に控えている。
「よろしくお願いします」
声がわずかに震えていた。緊張しているのだろう。俺も同じだ。だが、メスを手に取った瞬間、不思議と心が落ち着いた。
「始めよう」
手術は予想通り難行した。ミラー型は冠動脈が左右対称に変異し、血流のルートが複雑に絡み合っている。少しでも判断を誤れば、取り返しのつかないことになる。序盤、慎重にメスを進めながら変異した血管の走行を確認していく。
「沙紀先生、右側の剥離をもう少し丁寧に」
「はい、分かりました」
息が合っていた。言葉が少なくても、互いの動きが自然に補い合っていた。中盤、最も難易度の高い奇異血管の再建に差しかかった。モニターの数値が揺れた。
「血圧、低下しています」
「このまま続ける」
右手に、わずかな震えを感じた。だが、今日は違った。怖くなかった。俺はゆっくりと、しかし確実に吻合を進めた。沙紀が完璧なタイミングで補助に入る。まるで、長年一緒に手術をしてきたような自然な連携だった。
そして、最後の縫合を終えた瞬間、モニターの数値が安定した。手術室に静寂が訪れた。誰も、すぐには声を出せなかった。
「血圧、安定しています。心拍、正常です」
この言葉を聞いた瞬間、手術室の空気が溶けるように緩んだ。沙紀がマスクの上から目で笑った。俺は静かに息を吐いた。手術室の明かりが、いつになく眩しく見えた。
手術を終えて、着替えを済ませた。病院の庭に出ると、夕暮れの空が広がっていた。俺はベンチに腰を下ろし、ただ空を見上げた。三年間ずっと遠ざけてきたものを、今日ようやく取り戻した気がした。
手術室を出る前、患者の娘が泣きながら頭を下げていた。
「先生、本当にありがとうございました」
声をつまらせながら、何度も何度も頭を下げた。
「お父さんは強い人だ。あとはゆっくり休ませてあげてください」
「はい……はい」
あの涙が、胸に焼きついていた。これだと思った。この瞬間のために、俺はずっとメスを握ってきたんだ。
その時、足音が近づいてきた。振り返ると、沙紀が歩いてくるところだった。夕焼けの光の中で、白衣の裾が揺れていた。
「先生、お疲れ様でした」
「君がなければ、成功しなかった」
「そんなことありません。先生の手があの手術を成立させたんです」
「二人でやった手術だろ」
沙紀は少し照れたように視線をそらした。それから、ゆっくりと俺の隣に並んだ。しばらく、二人で夕焼けを眺めた。風が吹いて、木々の葉がさらさらと揺れた。
「先生」
「なんだ」
「手術中、先生の右手、震えていましたね」
「気づいてたか」
「はい。でも、最後まで続けましたね」
俺は自分の右手を見た。沙紀が、そっとその手に触れた。
「震えていますね」
「ああ」
「怖かったですか?」
「いや、もう怖くない。君がいるからな」
沙紀は静かに微笑んだ。しばらくの間、彼女は俺の手に触れたまま、何も言わなかった。夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
やがて、沙紀がゆっくりと口を開いた。
「これからも、隣にいさせてください」
二十歳という年齢の差が、今この瞬間はどこか遠いことのように感じられた。ただ、同じ手術室に立ち、同じ命と向き合ってきた。そういう感覚だけがあった。
俺は少し照れ臭くなって、空を見上げた。
「副院長として命令しよう。今夜、食事に付き合ってくれないか?」
沙紀は柔らかく笑った。
「それは本当に命令ですか? それともお誘いですか?」
「もちろん、お誘いだ」
「じゃあ、喜んで行きます」
彼女はそっと俺の手を離した。夕焼けの中、二人で肩を並べて歩き出した。



