部署の歓迎会で、部長が私を指差してこう言った。「田舎の下っぱは末席だ。マナーも知らんのか」私は九州の工場から本社に転勤してきたばかりだった。八年ぶりの東京は、田んぼに囲まれた穏やかな毎日とはまるで違っていた。それでも、父の会社で一から学び直すつもりでいた。しかし部長は私だけでなく、同僚の佐奈さんにも高圧的な態度を取った。私は怒りを飲み込み、笑顔で「じゃあ、末席へどうぞ」と返した。部長は顔を真…

部署の歓迎会で、部長が私を指差してこう言った。「田舎の下っぱは末席だ。マナーも知らんのか」私は九州の工場から本社に転勤してきたばかりだった。八年ぶりの東京は、田んぼに囲まれた穏やかな毎日とはまるで違っていた。それでも、父の会社で一から学び直すつもりでいた。しかし部長は私だけでなく、同僚の佐奈さんにも高圧的な態度を取った。私は怒りを飲み込み、笑顔で「じゃあ、末席へどうぞ」と返した。部長は顔を真...

社長に呼び出されたと聞いたとき、杉村部長は何の心当たりもない顔をしていた。しかし社長室の重い扉を開けた瞬間、その表情がわずかに強張ったのを私は見逃さなかった。

私は新しい机に積まれた書類の山を見ながら、深くため息をついた。九州の工場で過ごした八年間が、もう遠い過去のように感じられる。あの田んぼに囲まれた穏やかな毎日が、たった一度の転勤命令であっさりと幕を閉じたのだ。

転勤の知らせを受けた日のことを思い出す。電話の向こうから聞こえた本社の人事担当者の声は事務的で、その中に「昇進」という言葉が含まれていることに私は耳を疑った。昇進とはいえ、初めての本社勤務。それも新社長が決まるという慌ただしい時期だ。だからこそ、この歓迎会は私にとって緊張の場だった。

その緊張を、杉村部長は見事に打ち砕いてくれた。

「田舎の下っぱは抹席だ。マナーも知らんのか」

歓迎会の会場に着いた途端、私と佐奈さんを出迎えたのはこの一言だった。杉村部長はニヤニヤと笑いながら、指で最も格下の席を指し示す。私は佐奈さんをチラリと見た。彼女はいつも通りの冷静な表情を保っていたが、その目がわずかに細くなっていた。

私は怒りをぐっと飲み込んだ。そして笑顔を作って言った。

「じゃあ、抹席へどうぞ」

「え?」

部長は一瞬、言葉を失った。だがすぐに顔を真っ赤にして怒鳴る。

「ふざけるな。なぜ俺が抹席に座らなければならない?」

「え? 部長がおっしゃったんですよね。『田舎の下っぱは抹席だ』と」

「だからなぜ俺が抹席なんだ。田舎者は上司に対する礼儀を知らんのか!」

部長が声を限りに叫んだその瞬間、店のドアが開いた。入ってきたのは、常務、専務、副社長、そして社長。父だった。

「どうかしたのか。大声が外まで聞こえていたぞ」

父は当たり前のように一番神座に腰を下ろし、私と佐奈さんを手招きした。その隣の席を指さしながら。

「ちょ、ちょっとお待ちください。社長。どうして彼らがそんな神座に?」

杉村部長は顔色を変えてそう叫んだが、父は涼しい顔で言い放った。

「ああ、杉村君はそこの抹席に座りなさい」

「は……はい」

さすがに社長の直々の言葉には逆らえないのか、杉村部長はしぶしぶと抹席へと歩いていった。その顔はまだ「何が起こっているのか分からない」という顔をしていた。

私は立ち上がり、重役たちに頭を下げた。

「ここにいる社長、山本次郎の息子にあたる山本周一です。これから新社長になりますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

静寂が流れた。一瞬の空白の後、ガタッと大きな音が響いた。見れば、杉村部長が椅子を倒して立ち上がっている。その目は見開かれ、顔は青ざめていた。

「えっと……聞き間違いですよね? 息子とか、新社長とか」

「聞き間違いなどではないが、とりあえず座りなさい、杉村君」

父の鋭い声に、杉村部長は小さくなりながら椅子を起こして座り直した。だが、その手は震えていた。

私は自分の生い立ちを思い返していた。祖父から継いだ小さな工場を一代でここまでの会社に育て上げた父を、私は幼い頃から尊敬していた。だからこそ、国内最高峰の大学に進学し、父の会社で働くことを選んだ。ただ、入社の時には社長の息子であることを伏せた。それは父の提案でもあった。

「社員と同じスタートラインに立て。お前が何者であるかよりも、どんな仕事ができるのかを見せろ」

父のその言葉に従って、私は一般社員として採用試験を受けた。三年間営業部で働いた後、九州の工場に転勤になった。それは異動の形を取った。

「ここで現場を学べ。そして、結果を出してこい」

父はそう言った。九州の工場には、父の親友である工場長がいた。私は彼の直属の部下として、八年間働いた。最初は環境の違いに戸惑った。都会で生まれ育った私にとって、田んぼに囲まれた土地での生活は驚きの連続だった。しかし、工場の社員たちが温かく迎え入れてくれた。車の選び方から、美味しいカフェや絶景スポットまで、何から何まで教えてくれた。

そして私も、工場の問題点を見つけて改善していった。本社ではシステム任せにしている作業を、アナログで行っていた無駄をなくすシステムを導入し、社員たちが使えるようにサポートした。そのおかげで、私が来てから八年間で九州工場の生産性は右肩上がり。全社でもトップクラスの成績を叩き出すようになっていた。

その成果が認められての本社復帰。しかし、新社長になることまで父の計画だったとは、私も知らされていなかった。いや、正確に言えば、父は常務には話を通していたらしい。だが部長以下には知らされていなかったのだ。

「まさか、九州から転勤してきた若造が新社長だなんて、思いもせずに……」

杉村部長は声の震えを必死に押し殺しながら言った。しかし、その言い訳は逆効果だった。その場にいた全員から、冷たい視線が彼に注がれたのだ。

「ちょっといいでしょうか?」

隣に座っていた佐奈さんが静かに手を上げる。父が頷いた。

「おお、新しく社長秘書になる佐奈か。どうぞ発言してくれ」

「杉村部長には今日、駅まで迎えに来ていただきました。ですが、その時から部長は新社長に対して暴言を働いておりました。『田舎っぺだ』『話を聞く価値もない』とおっしゃっていました。ここに来てからも『田舎の下っぱは抹席だ。マナーも知らんのか』と、新社長のことを嘲っておられました」

その場にいた全員から、杉村部長に冷たい視線が注がれる。部長は必死に取り繕おうとした。

「ち、違うんです。そんなつもりでは……」

「杉村! 新社長に謝罪しなさい!」

常務の鋭い声が飛んだ。杉村部長は立ち上がり、私に深々と頭を下げた。

「すみませんでした。新社長」

その薄くなった頭頂部を見ながら、私はため息をついた。

「杉村部長。私が新社長だと知らなかったとしても、転勤してきたばかりの社員にあんな高圧的な態度を取るのは問題だと思いますよ」

「は……はい。返す言葉もございません」

「私のことよりも、最初に佐奈さんを食事に誘ったり、セクハラじみた発言をしたことについて謝罪してもらえませんか?」

その言葉に、重役たちは顔をしかめ、ひそひそと何かを囁き合い始めた。佐奈さんが続けて言った。

「杉村部長。本当に申し訳ございませんでした。女性社員への接し方についても、以後、気をつけてください」

部長は震えながら、深く頭を下げた。私はそのまま席に着くよう指示した。

「周(わたる)、これだけでいいのか?」

父が低い声で尋ねる。私は頷いた。

「ああ、父さん。ただし、これからは杉村部長の働きぶりを注視させていただきます。いいですね、杉村部長」

「は……はい」

その日から、私は父の元で新社長就任のための準備を始めた。取締役として、一年間かけて社内のあらゆる部署を視察した。もちろん、秘書は佐奈さんだ。彼女は新しい環境でもテキパキと働き、私はその姿に安心感を覚えていた。杉村部長は廊下などで会うたびに、片身の狭そうな顔で頭を下げるようになった。私も大人の対応として、軽く会釈を返すだけにしていた。

そんな日々が半年続いた頃、私はついに杉村部長の証拠を掴むことができた。

「杉村部長の従業員に対する態度について、確認したいことがあります」

私は社長室で、父と佐奈さんと共に杉村部長を呼び出した。乱暴に笑いかける部長に、私は告げた。

「営業部の従業員から、あなたがいつも高圧的な態度を取っているという声が上がっています。時には部下の手柄を横取りし、外回りと称してサボっていることもあるそうです」

「あの……何のことだか。私はそんなことはしておりません」

続けて佐奈さんが口を開いた。

「女性従業員からも声が上がっています。若い女性従業員に個人的な食事の誘いをしたり、セクハラじみた発言をしたり、体を触られたりしたと」

「だからそんなことはしていない、でっち上げだ!」

杉村部長は声を荒げたが、私はポケットからボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。

「これぐらいの仕事もできないなら、やめてしまえ」

「どうだ? 今夜、食事に行かないか?」

録音から次々と流れ出るのは、杉村部長の悪行の証拠だった。部下を罵倒する声。女性社員を口説く声。サボっていることを自慢げに話す声。部長の顔色がどんどん青ざめていく。

「な……これは何だ」

「私は営業部に同期がいると申し上げましたよね。彼に連絡を取り、杉村部長の行動のうち度を越したものがあれば、報告するように命じていたんです」

「これまで営業部では、部長が絶対的な権力を持っていましたから、誰も声を上げられなかった。しかし私が話を聞き出すことで、これらの悪行がようやく明らかになったんです」

そこまで言うと、父が低い声で口を開いた。

「まさかここまでコンプライアンス違反をしているとはな。営業部の離職率の高さにも、これで納得がいった」

「杉村君には責任を取ってもらう」

「あ……明日からではない。君は首だ。すぐに荷物をまとめて、我が社を去りなさい」

杉村部長はがっくりと肩を落とし、父の側近に連れて行かれた。その後、彼は本当に会社を解雇された。そして後日、その後の消息が耳に入ってきた。

なんと彼はプライベートでキャバクラに入り浸っており、給料はほとんどキャバクラにつぎ込んでいたという。貯金もほぼなかった。奥さんは彼が解雇されたことをきっかけに堪忍袋の緒が切れ、子供を連れて家を出ていったらしい。杉村部長は必死に就職活動をしているようだが、年齢や「解雇」という経歴のせいでどこにも雇ってもらえず、現在はコンビニでアルバイトをしているのだという。

それを聞いても、私は一切同情しなかった。彼は自ら選んでそうなったのだ。誰かに強制されたわけではない。

一方の私は、無事に正式な新社長に就任し、毎日仕事に励んでいる。これからも従業員の話をよく聞き、働きやすい職場を作っていくつもりだ。

「社長、午後からの面談の資料です」

佐奈さんが新しい書類の束を机の上に置く。私は彼女を見て、微笑んだ。

「ありがとう、佐奈さん」

実は、私は彼女と結婚を前提にプライベートでも付き合い始めている。九州の工場で出会ってから、ずっと彼女のことを信頼してきた。仕事ができて、しっかりしていて、それでいて時々見せる笑顔がとても愛らしい。父も「佐奈ちゃんはいい娘だ」と気に入っている。

「今日も充実してるな」

私は書類の山を前に、軽く背伸びをした。田舎の工場での八年間も、本社での日々も、すべてが今の私を作っている。これからもただ誠実に、前向きに頑張っていこうと思う。

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