朝一番の会議室で、部長が一枚の書類を私の前に滑らせた。「担当者から君への苦情が相次いでいる。対応が遅い、信頼できないと」。先週、大口取引先の社長から直接お礼を言われたばかりだった。日付も内容も見覚えがない。全部、部長が作り上げた嘘だとすぐに分かった。横には先月入社した新人が薄く笑いながら立っていた。「青山さん、もうお帰りなんですね。大口三社は私が引き継ぎますので」。入社六年、二十九歳。私一人…

朝一番の会議室で、部長が一枚の書類を私の前に滑らせた。「担当者から君への苦情が相次いでいる。対応が遅い、信頼できないと」。先週、大口取引先の社長から直接お礼を言われたばかりだった。日付も内容も見覚えがない。全部、部長が作り上げた嘘だとすぐに分かった。横には先月入社した新人が薄く笑いながら立っていた。「青山さん、もうお帰りなんですね。大口三社は私が引き継ぎますので」。入社六年、二十九歳。私一人...

解雇を告げられたのは、朝一番の会議室だった。広告代理店のフロアでは、同じ時間に青山ひかがいつも通り席に座り、大口取引先の企画書を広げていた。入社六年、二十九歳。彼女一人で会社の売上の六割を支える三つの大口案件を守ってきた。その日も午後には、福持ち本舗の岡田社長との定例会議が控えていた。

青山、ちょっと会議室まで来てくれ。成田部長が硬い表情で彼女を呼んだ。少し離れた席では、先月入社した藤崎が薄く笑いながらこちらを見ていた。胸に嫌な予感が走る。

会議室に入ると、成田は一枚の書類を机の上に滑らせた。担当者から君への苦情が相次いでいる。対応が遅い、信頼できないと。青山は耳を疑った。先週も岡田社長から直接お礼の言葉をいただいたばかりだ。どのお客様の、いつの話か確認させてください。

日付も内容も、ここに全部書いてある。書類には、見覚えのないクレームの日付が並んでいた。全て成田が作り上げた嘘だと、青山はすぐに見抜いた。事実と違います。お客様に確認を取らせてください。

確認は済んでいる。人事も副社長も承知済みだ。会社はもう君を必要としていない。

ドアが開き、藤崎がお茶を持って入ってきた。成田部長、お疲れ様です。青山さん、もうお帰りなんですね。大口三社は、私がきちんと引き継ぎますので。二人の視線が交わり、短い笑いが漏れた。最初から青山を追い出すための段取りだったのだ。

お前が大口を握り続けているのが、部署の癌なんだよ。ゴルフも付き合いも断って、俺の顔を潰したつもりか。部長、昨日の文面で十分ですよね。日付もずらしてあります。ああ、副社長の名前を出せば人事も黙る。青山さんが泣き出すところを見てみたいですね。泣かせる暇もない。今日で終わりだ。

成田は解雇通知書を突き出した。反論しようとした時、彼の視線が青山の手元に止まった。彼女が握っていた、父の形見の万年筆だ。

なんだ、その見すぼらしい安物は。成田はそれを奪い取り、机の隅へ放り投げた。そんなガラクタを大事に持ち歩いているから、お前は甘いんだよ。

青山の胸に、知士とその教えを侮辱された怒りが込み上げた。それでも彼女は表情を一つ変えず、床に落ちた万年筆を拾い上げ、ただ静かに一礼をした。成田は一瞬たじろいだが、すぐに勝ち誇った笑みを浮かべた。なんだ、その顔は。負け惜しみか。解雇通知にさっさとサインしろ。

青山の指が止まった。ここで暴れて泣き叫んでも、嘘が消えるわけではない。むしろ二人の思う壺だ。それに、三社が誰を信じているか、青山だけが知っていた。静かに息を吐き、彼女は書類にサインをした。

あっさり決まりましたね、部長。ああ、大人しくサインするくらいしか能がないんだろう。

会議室を出る時、成田が後ろから声をかけた。そういや、君は今、何のプロジェクトを担当していたんだっけ。青山は振り返り、静かに微笑んだ。明日になれば分かりますよ。

負け惜しみか。笑わせるな。

デスクに戻ると、同僚たちは誰も声をかけなかった。藤崎はすでに青山の椅子に座っている。青山は黙って段ボールに私物を詰め始めた。パソコンの中の企画書も連絡先も、全て消去して残した。

荷物をまとめていると、後輩の野口が近づいてきた。青山さん、あのクレーム、全部出来過ちですよ。昨日、成田さんと藤崎さんが書類を作り直しているのを聞きました。連れてきた藤崎さんを、青山さんの席に座らせるって言ってました。

やはりそういうことかと、青山は腑に落ちた。成田は先月から着任し、部下にご機嫌取りを要求していた。毎朝のコーヒー、休日のゴルフ、息子の塾の口利き。青山だけがそれを断り続けた。お前だけ特別扱いするつもりはない、空気を読め。それが成田のプライドを傷つけ、藤崎と組んで追い出す計画へと発展したのだ。

青山さん、このまま黙ってやめるんですか。大丈夫、心配しなくていいよ。

青山は段ボールを抱え、静かに立ち上がった。いなくなった会社で、彼らがどこまでやっていけるのか見届けるつもりだった。

帰宅後、青山は父の万年筆を机の上に置いた。父も広告の世界で生きた人間だった。信頼は会社ではなく、人に宿るんだ。大事な契約には必ず、この万年筆でサインしなさい。父はそう言い残し、青山が入社した年に亡くなった。以来、三社との最初の契約は、全てこの万年筆で結んできた。

福持ち本舗との出会いは四年前。当時、若者の離れで倒産寸前だった。青山は三ヶ月間、毎週工場に通い、職人の話に耳を傾けた。そうして生まれた新商品が若い世代に爆発的に売れた。岡田社長は青山の手を握り、こう言った。青山さんは、うちの恩人だ。化粧品会社ルミエールの森田代表とは三年前、成分表示のミスが発覚した時、青山は三日間泊まり込みで回収と告知の計画を練り直した。発表の直前、森田代表は涙でこう言った。あなたがいなければ、うちは終わっていた。スポーツ飲料会社ゼファーの岸田社長は資金に苦しみ、青山は自ら動いて投資家を紹介した。どれも会社に指示された仕事ではない。青山が心から彼らを守りたいと願った結果だった。

だからこそ、三社は青山個人を信じている。契約書に並ぶのは会社の名でも、彼らが見ているのは青山その人だ。その意味を、成田は明日、嫌というほど思い知ることになる。

青山はスマートフォンを手に取った。本日付けで会社を離れることになりました。これまで本当にありがとうございました。取引停止も助けも頼まない。多くを語らずとも、彼らなら分かってくれる。送信して数分も経たないうちに、画面が震えた。

どういうことだ? すぐに詳しく聞かせてくれ。私はあなたを信頼していたわ。会社ではなく、あなたを。何か嫌がらせでも受けたのか? 力になるぞ。

三人の言葉を見て、青山の胸の奥が熱くなった。この六年間、注いだ真心は無駄ではなかった。岡田社長にだけ、電話で経緯を短く伝えた。捏造クレームで解雇されたこと。父の万年筆を侮辱されたこと。

翌朝、青山は通知音で目を覚ました。野口から立て続けにメッセージが届いている。青山さん、今すぐ会社の様子を見てください。藤崎さんが朝一で福持ち本舗に挨拶に行ったんです。でも秘書さんに門前払いされたそうです。岡田社長は青山さんしか信頼していないと。その場で取引停止の通知書まで渡されたそうで、藤崎さん、真っ青な顔で帰ってきました。

短い動画も送られてきた。オフィスで成田が喚き散らしている映像だった。挨拶一つまともにできないのか。岡田社長は一体どういうつもりなんだ? 私にも分かりません。青山さん以外は認めないと門前払いで。あいつのせいにするな。お前が無能なんだろう。だって、部長が私が継げば大丈夫って。あいつはもう辞めたんだぞ。なぜ客がまだあいつを信じるんだ。

成田が追い出したつもりの女に、最初の一手で崩れている。青山が残した明日になれば分かるの意味を、成田は思い知り始めていた。

その日の午前中、野口の実況は止まらなかった。九時半、藤崎はルミエールへ向かった。結果は福持ち本舗と同じだった。森田代表の秘書に冷たく告げられた。契約の話は青山さん本人としかしません。来月の更新は、もうありません。戻ってきた藤崎の目は、泣き腫らして真っ赤だった。午前十一時、最後にゼファーの岸田社長を尋ねた。岸田社長は直接ロビーまで降りてきて、たった一言だけ言い放った。私が契約したのは、青山さんの顔を立ててのことだ。彼女がいないなら、取引はここまでだ。

これで大口三社全てが取引停止を通告してきた。売上の六割が消えた。数字はすぐに経営会議へ上がり、損失は数十億円規模と見込まれた。誰もが青ざめた。成田は自ら三社に電話をかけまくったが、誰一人出ようとしない。運よく繋がっても、名乗った瞬間に切られる。部門の全員に手分けさせても結果は同じだった。

オフィスは蜂の巣を突いたような騒ぎになった。部長、どうしましょう? 私、怖いです。お前がうまくやれと言っただろう。青山を消せば楽になるはずだったのに。だって、部長が計画したんです。私は従っただけで。今更、責任転嫁か。使えない女め。部長が明日には俺たちの天下って言ったじゃないですか。うるさい。客が戻らなきゃ、俺たちの首も飛ぶんだ。

成田は机を蹴り、資料を床に散らした。電話しろ。土下座しろ。何でもいいから客を戻せ。私、怖いです。もう電話に出てもらえません。出るまでかけろ。お前の席なんか、いつでも消せるぞ。

昼過ぎ、野口から新しいメッセージが届いた。人事の石井さんが成田さんに詰め寄ってました。石井は先月配属されたばかりの若い人事担当で、青山の解雇手続きを事情も知らずに進めた張本人でもある。その石井が、青山さんの担当先がなぜ一斉に離れるんですか、と食い下がったという。成田は一喝して追い払った。余計なことに首を突っ込むな。

その後、石井本人から青山へ謝罪のメッセージが届いた。青山さん、本当にごめんなさい。何も知らずに手続きを進めてしまって。青山は静かにその謝罪を受け止めた。彼女もまた、成田の嘘に踊らされた一人なのだ。

その日の午後、藤崎の番号から電話がかかってきた。少し迷ったが、青山は通話ボタンを押した。電話の主は成田だった。昨日の態度とは打って変わって、低い猫撫で声だ。青山さん、私だ。成田だけど。成田部長、ご用件は? 私は今、忙しいので。

成田は一瞬言葉をつまらせた。その、君のリストラの件だが、少し誤解があってね。気を悪くしないで欲しいんだ。誤解? 青山は乾いた笑いを漏らした。クレームが来ていると書類を捏造した時も、その一言で済むんですか? 成田は返す言葉を失った。会社もプレッシャーが大きくて、仕方がなかったんだ。藤崎も若くて。戻ってくれるなら、条件はいくらでも出す。給料は五割上げる。マネージャーの席も用意しよう。三社を戻してくれたら、特別ボーナスも出す。最低でも五百万円は出せるはずだ。

結構な条件ですね。でも、何の魅力も感じません。私はもう、次の道を決めていますので。次の道だと? 頼む。戻ってきてくれ。うちほど安定した会社はないぞ。もう、私のことに口を出さないでください。頼むよ。本当に頼む。俺が副社長に首を切られるんだ。お前がいなくなったら、この部署は終わるんだ。五百万円ですか? それでも、戻るつもりはありません。

青山は静かに電話を切った。念のため、この通話は録音してあった。

電話を切ってすぐ、野口からメッセージが届いた。成田が壁にマグカップを叩きつけてました。藤崎さんに八つ当たりして、ロビー中に聞こえてましたよ。お前のせいだ。客を落とすなと言っただろう。だって部長が計画したんです。その直後、成田は副社長室へ呼び出された。どうにか顧客を引き止めろ。無理なら、お前を切る。成田の顔は土色だったという。

夕方、今度は同僚たちから次々と連絡が来た。青山さん、お願いだから戻ってきてくれないかな。君が戻らないと、この部署は本当に潰れるんだ。青山は静かに返事をした。成田さんのやり方が、あまりに卑劣だからです。戻っても、彼はまた私を落とし入れるに決まっています。野口からもメッセージが届いた。青山さん、絶対に戻らないでください。私たちは証拠を集めます。

その夜、青山は森田代表と食事を共にした。実は、今、次の職場を探していまして。青山がそう切り出すと、森田代表は身を乗り出した。青山さん、探す必要なんてないわ。うちに来なさい。あなたのための席を用意する。ルミエールにブランド戦略室を新しく作るの。その室長をあなたに任せたい。待遇は前の会社の役員クラスを保証するわ。代表、私に、そこまでの価値があるのでしょうか。あるに決まっているでしょう。三年前、あなたはたった三日でうちを救ってくれた。あの判断力と誠実さを、私は今も忘れていない。

青山はテーブルの上で、そっと父の万年筆を握りしめた。父さん、あなたの教えは間違っていなかった。森田代表、是非お世話になりたいです。必ずご期待に答えてみせます。よかった。これからは、同じ船に乗る仲間ね。

成田は青山のキャリアを終わらせようとした。だが結果的に、彼は青山を高く飛ばす舞台を作ったのだ。

翌朝、ルミエールへ向かう準備をしていると、石井から電話が来た。青山さん、大変なことに気づいてしまって。石井は人事の権限で見られる資料を目にしたという。下請けへの発注額が相場より異常に高いんです。しかも、同じ業者にばかり集中していて。青山の頭に一つの疑いが浮かんだ。キックバックだ。成田は水増し発注で懐を肥やしていたのではないか。

石井さん、その業者との契約書は確認できますか? もう調べています。野口さんも手伝ってくれていて。水増しの総額は五千万円を超えるという。そのほとんどが、成田の個人口座へ流れている。昼過ぎ、野口からも続報が届いた。これはもっと根が深いですよ。成田が競合代理店とやり取りし、顧客データを外に流している痕跡があります。青山さんを切った直後から、値引き交渉のメールが増えていました。横領と情報漏洩、明確な犯罪です。証拠は絶対に消されないよう、保管してください。はい。コピーを複数の場所に残してあります。もう消させません。

その日の午後、青山は森田代表に呼ばれた。社長室には福持ち本舗の岡田社長もいた。これから君の元いた会社に乗り込もうと思うんだ。君を切ったことが、どれほどの過ちだったか、骨の髄まで思い知らせてやる。あの卑劣な男に、あなたの輝く場所を見せつけてやりましょう。少し遅れて、ゼファーの岸田社長も駆けつけてくれた。大口三社の社長が揃って、青山のために動いてくれる。その温かい思いに、青山の胸がいっぱいになった。

青山は野口と石井に証拠の準備を頼んだ。例の証拠、今日必要になります。準備をお願いします。もう整えてあります。藤崎さんも、その場に呼べます。準備できています。父さん、見ていてください。私はこれで、父の教えを証明してきます。エレベーターの中で、岡田社長が青山の肩に手を置いた。怖がらなくていい。今日は私たちがついている。

午後二時過ぎ、青山たちはかつての職場へ足を踏み入れた。ロビーに入ると、受付の女性が気まずそうに視線を泳がせた。フロアの奥では、同僚たちが息を潜めて様子を伺っている。本当に来たのか? それにあの社長たちは。ざわめきが廊下まで広がっていく。副社長に用がある。取引停止の最終通告に来た。

数分後、副社長が表情を変えて降りてきた。必死に愛想笑いを浮かべ、三人の社長にすり寄る。まさかお三方で。本日はどのようなご要件で。話は上でする。一行は副社長室へ通された。部屋の隅には、青ざめた顔の成田が立っていた。その隣には、藤崎も小さく縮こまっている。青山が社長たちと並ぶ姿を見た瞬間、成田の顔から血の気が引いた。

なんでお前がここに? それに、その人たちは。成田の声が上ずり、膝が震えた。つい先日まで見下していた女が、大口三社の社長を連れて立っている。その事実が、成田の頭を真っ白にした。

ま、待ってくれ。これは何かの間違いで。お前はもう首だ。ここに来る資格はない。副社長、こいつを外へ出してください。不審者です。資格があるのは、むしろ青山さんの方だ。あなたたちが切った人を、私たちは拾ったの。驚いた顔だな。自分のしたことの重さが分かったか。嘘でしょ? なんで青山さんが? 藤崎は壁に背をつけ、唇を青くしていた。部長、聞いてませんでした。青山さんが社長たちと来るなんて。黙れ。お前は口を開くな。

成田は机にしがみつき、立ち上がろうとしてはまた膝をついた。嘘だ。お前なんかに三社がついてくるわけがない。金で雇ったんだろう。芝居だろ。芝居だと? その口、今すぐ封じるぞ。私たちは自ら歩いてきたの。まだ現実が見えないのか。

少し遅れて、野口と石井も証拠の封筒を抱えて入ってきた。岡田社長が口を開いた。我々が信頼していたのは、青山さん一人だ。その恩人を不当に切り、恥をかかせた。そんな無責任な会社に、大切な仕事は任せられん。森田代表も続けた。担当が変わった途端、会話すら成り立たない。これがその答えです。岸田社長も言い放った。投資の話も、青山さんの顔があったから乗った。彼女がいなければ、ゼロだ。

副社長は顔を真っ赤にして成田を睨みつけた。成田、これは一体どういうことだ? 引き継ぎに問題はないと報告していたよな。わ、私はただ会社のために人員を最適化しようと。成田は額に汗を浮かべ、どもりながら言い訳を続けた。クレームを捏造して追い出したそうだな。捏造などしていません。顧客からの苦情は本物です。あいつが無能だったから、客も離れたんです。離れたのは、あなたたちが青山さんを切ったからです。まだ言い訳か。見苦しいぞ。違う。俺は正しく判断しただけだ。証拠はあるのか?

野口に促され、顔面蒼白の藤崎が前に出た。ち、違います。クレームの文面は、全部成田部長に書かされました。ふざけるな。お前が勝手に。録音もあります。日付をずらして書けって。はっきり部長が、青山さんさえ消せば大口は私のものだって。成田の形相が一瞬で歪んだ。お前もグルだろう。今更裏切るな。お前も得しただろう。私が脅されたんです。部長に逆らえなくて。

では、こちらも聞かせましょう。再生された音声に、成田の焦った声が響き渡った。仕方がなかったんだ。戻ってくれるなら条件はいくらでも出す。復帰を懇願する声が、成田の言い訳を崩していった。それはその時の都合で切り取ったんだ。全部の会話を聞け。俺は会社のためにやったんだ。成田、貴様、ここまでふざけた真似を。副社長はデスクを強く叩いた。

だが、終わりではない。青山は封筒を差し出した。中には野口と石井が集めた証拠のコピーがあった。成田部長は下請けへの水増し発注を繰り返していました。その総額は五千万円以上。差額は全て、彼自身の懐に入っています。同じ案件で相場の二倍です。送金先は成田さんの個人口座です。副社長の顔が、見る見る青白くなっていった。それは業者の見積もりがそうだっただけで、証拠を捏造したんだろう。お前らも青山の手先か。記録は複数保管してあります。改ざんはできません。銀行の入出金明細とも一致します。さらにこちらを。彼は本社の顧客データを競合に売っていました。相手とのメールも送金記録も、全て揃っています。

ち、違う。それは副社長の指示で。ふざけるな。私がそんな指示をするわけがない。副社長、助けてください。後ろ盾はあなたでしょう。昔のよしみで。ここで見捨てたら、あなたも。黙れ。お前の犯罪に、私は付き合えん。成田は机にしがみつき、なおも暴れた。待ってくれ。金は返す。全部返すから。首だけは勘弁してくれ。業界にいられなくなる。金の問題ではない。信頼を売った人間に、二度と仕事は任せられないわ。警察に出すのが筋だ。

成田は床に崩れ、泣きながら叫んだ。そんなのおかしい。俺は部長だぞ。お前ごときが。

その言葉に、場が一瞬凍りついた。青山は父の万年筆を取り出した。あなたはこの万年筆をガラクタと笑いましたね。でも、私が守ってきたのは会社の名刺ではなく、人の信頼でした。よく耐えたな。青山は万年筆を胸に戻し、一礼をした。

ま、待ってください。土下座でも何でもします。許してください。成田は床に体を擦りつけたが、誰も動かなかった。家族がいるんです。息子の将来が。お前が壊した人の人生はどうなる? 遅すぎるわ。もう終わりだ。俺は悪くない。あいつのせいで全部こうなった。藤崎がやったんだ。俺は被害者だ。全部、部長の命令です。まだ、他人のせいにするか。思い知れ。

副社長は震える声で言い渡した。懲戒解雇だ。横領と情報漏洩で刑事告発する。損害賠償は全額請求する。本社にも即報告する。業界団体にも通報する。二度と広告の仕事にはつけん。被害者への謝罪文を出し、関連業者の売却先も特定して告発する。社内調査委員会を即設置し、関係部署を総点検する。藤崎、お前も懲戒解雇だ。共犯として記録に残す。そ、そんな。私は言われただけで。言われただけで、他人の人生を壊した。それは立派な共犯です。

その場で本社が介入し、成田のパソコンは押収された。警察への告発を受け、成田の口座についても捜査が進められることになった。スマホも取り上げられ、パスワードの開示を命じられた。そ、それは私的なものが含まれる。見せられない。業務上の通信が含まれます。拒否はできません。

成田は泣きながら、引きずられるように歩いた。ま、待ってくれ。俺を見捨てるな。副社長、警察だけは勘弁してくれ。頼む。息子の塾の先生に、部長だと言ってたんだ。顔向けできなくなる。私も連れて行かれるんですか? 部長、助けて。お前なんか知らん。俺は被害者だ。

廊下には同僚たちが集まり、成田が連れて行かれる姿を見守っていた。かつての威勢は、どこにも残っていなかった。

その夜、野口から最後の報告が届いた。成田は警察に連行されました。業務上横領と不正競争の容疑です。藤崎も任意同行です。業界団体への通報も済ませました。本社から調査チームが入り、部署は事実上の解体です。副社長も管理責任で処分されました。損害賠償の請求書も、明日には送られるそうです。

つい先日までふんぞり返っていた男の、あまりに惨めな最期だった。他人を落とし入れて得た地位など、どれだけ脆いものか。全ては、彼ら自身が蒔いた種が生んだ結果だった。

それから二週間が過ぎた。青山はルミエールのブランド戦略室の室長として歩き始めた。初めて任された大型案件は大成功し、五億円の契約を獲得した。森田代表は全社員の前で青山を表彰し、岡田社長も岸田社長も変わらず支えてくれる。信頼は人に宿る。青山さんがそれを体現してくれた。

ある夜、青山は父の万年筆のキャップ内側に刻印を見つけた。そこには、まっすぐ生きろ、と刻まれていた。父さん、私はまっすぐ生きられたでしょうか。後日、石井から連絡があった。いつかまた、あなたの元で働きたいです。過ちを認め、前を向く人には、きっといい未来が待っています。

一方、成田の末路に救いなどなかった。青山を切った会社は顧客離れが止まらず、売上は半分以下に落ち込み、再建の見通しも立たない。成田は懲戒解雇の上、起訴され、損害賠償の請求が家計を食い潰した。弁護士費用さえ払えず、分割払いの督促状が毎日のように届くという。業界のブラックリストに載り、面接に進んでも横領と漏洩の噂が必ず追いかける。妻は席を抜き、親戚にも門を閉ざされた。息子の塾の口利きを自慢していた男が、今度は自分の居場所を失った。日雇いのテレアポすら契約が取れず、深夜のネットカフェで朝を迎える日々だという。かつてゴルフに付き合わされていた部下たちも、今では彼の名前を聞くだけで顔をしかめる。謝罪の電話はどこにも通じず、通じてもすぐに切られる。

藤崎も同様に業界を追放され、手書きの履歴書の返事は一通も来ない。かつてグルで笑い合った二人は、今は互いを憎み合うだけだという。

人を落とし入れてのし上がろうとした者に、楽な再出発も許される物語も、どこにも用意されていなかった。

青山は窓の外の夜景を眺め、静かに万年筆を握りしめた。信頼は人に宿る。父が残したその言葉を胸に、青山は次の一歩を踏み出した。

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