いつもと変わらない月末の夕方、事務所の棚の奥から黄ばんだ一枚の契約書を見つけた。昭和三十五年、祖父が交わした土地の賃貸借契約書。相手は、うちが三十年あまり下請けとして部品を納めてきた元請けの大手機械メーカーだった。その本社ビルが立つ土地の地主は、他でもないこの俺だった。だが、その事実を私は今日まで知らなかった。それから数日後、元請けの調達部長・田口が会議室で俺に告げた。「下請けは、納期半分か…

いつもと変わらない月末の夕方、事務所の棚の奥から黄ばんだ一枚の契約書を見つけた。昭和三十五年、祖父が交わした土地の賃貸借契約書。相手は、うちが三十年あまり下請けとして部品を納めてきた元請けの大手機械メーカーだった。その本社ビルが立つ土地の地主は、他でもないこの俺だった。だが、その事実を私は今日まで知らなかった。それから数日後、元請けの調達部長・田口が会議室で俺に告げた。「下請けは、納期半分か...

下請けは納期を半分にするか、単価を半額にするか。好きな方を選べ。無理なら契約終了だ。

町工場を営む俺に、元請けの部長は一方的に理不尽な二択を迫ってきた。だが相手がその気なら、こちらも黙って引き下がるつもりはない。俺もまた、逃げ場のない二択をこの部長に突きつける。一方的に人を見下し、自らの立場を過信した愚かさを、この部長は痛いほど思い知ることになるだろう。

俺は徳田、五十二歳。精密部品を加工する町工場を経営している。創業したのは祖父で、俺は三代目にあたる。従業員は俺を含めて十一人。大手の機械メーカーや医療機器を手掛ける企業の下請けとして、加工した部品を納品してきた。工場の建物は古い。床に染み込んだ油の匂いが、ここで積み重ねてきた年月を教えてくれる。しかし加工機械だけは、常に最新の設備に更新してきた。この仕事で要求される加工精度は、時に〇・〇〇一ミリ以下になる。そこまでの水準を当たり前に出せる工場は多くない。俺の工場に部品調達を依頼してくる者のほとんどが、よそでは断られたと口にする。その言葉が、この工場が持つ技術の高さを何より証明している。

ある日の夕方、月末の帳簿仕事がひと段落して、棚の奥に積んでいた古い書類の束を引っ張り出した。税理士から、土地や建物など固定資産の台帳規模や契約書式を確認してほしいと言われていたのだ。作業場では、定時を過ぎても残っているベテランの職人が仕事を続けている。しばらくして、その職人が事務所の入り口に立った。手に計測機を持っている。

「交差の半分以内に収まってますよ」

依頼主から指定された数値の倍の精度を出したということだ。

「上だな」

俺がそう言うと、職人は少し口元を緩めた。長年この工場にいる男で、仕事に対する妥協を知らない。

「こういう仕事、よそじゃ受けねえでしょうね」

「そうだな。うちが潰れたら困る客が何人も出る」

俺がそう返すと、職人は少し誇らしげに頷いて工場へ戻っていった。その背中を見送りながら、俺は思う。この工場の値打ちは、古い建物にあるのではない。〇・〇〇一ミリを削り出す手と、それを積み重ねてきた年月にある。祖父が機械を据え、父が技術を磨き、俺がそれを今に受け継いでいる。その重みを、誰よりも俺自身がよく分かっていた。だからこそ、どんな無理難題が来ても、この工場の技術だけは譲れないと、俺は常々思っていた。

俺は書類の整理に戻る。すると経費の領収書や仕入れ伝票の奥に、古い契約書の束を見つけた。その中の一つ、年季の入った封筒の中に、一枚の契約書があった。紙は黄ばみ、折り目が白く浮いていた。それは土地の賃貸借契約書で、祖父の名前と相手の社名が並んで記されている。昭和三十五年。俺が生まれる前のものだ。相手は、この工場が三十年あまり取引を続けてきた元請けの大手機械メーカーだ。中身を確かめるとすぐに分かった。今、その元請けの本社ビルが立っている土地の地主は、この俺だ。祖父がこの元請けに貸し出したその土地を父が受け継ぎ、父が亡くなった時、相続の手続きを経て俺が引き継いだものだ。だが、祖父が実印を押したこの一枚をこうして目にするのは、今日が初めてだった。祖父が若かった頃、相手の会社もまだ小さな会社だったと聞いている。互いに頼り合い、助け合いながら仕事を続けてきたという。紙に残るインクの色が、その年月の長さを物語っていた。これは単なる古い書類ではない。二代にわたって守られてきた信頼そのものだ。俺は契約書を封筒に戻し、再び棚の奥にしまった。

それから数日後、元請けの村井から電話があった。村井はうちとの取引を担当している者で、十年以上の付き合いがある。出張の折はいつも工場の現場まで顔を出し、職人たちとも気軽に言葉を交わす。

「契約の更新が近いので、田口部長が直接話したいそうです」

田口という名前だけは、村井の口から聞いていた。調達部長に就任して半年も経っていない男だ。これまで契約の更新時は、ずっと村井が仕切っている。部長がじきじきに顔を出すのは初めてのことだ。

指定された日に、俺は元請け本社へ向かった。会議室に通されると、村井が出迎え、小さく頭を下げた。窓際に座る五十代中盤の男が、おそらく田口だろう。俺が入室しても、椅子に腰を深く掛け、書類から目を上げようとしない。俺が腰を下ろすと、ようやく顔を上げた。

「お宅とうちの取引、随分長いな」

挨拶もなしに、田口は尊大に言う。

「おかげさまで、三十年余りになります」

俺は穏やかに返す。田口は俺を見下すように顎を上げていった。

「就任してから仕入れ先を洗い直したんだが、お宅の単価が特に目立つんだよね。代わりの業者にも何社か当たってる」

その顔には薄笑いが浮かんでいる。田口が言葉に込めた意味は明確だった。お前のところは替えが利く。そういうことだ。田口は資料を俺の前に押し出した。

「下請けは、納期半分か単価半額か、選んでいいぞ。無理なら契約終了だ」

あまりに突然の要求に、俺は言葉を失う。資料には、納期短縮と単価半額の二つの条件が並んで書かれていた。隣の村井が驚いた顔で田口を見ている。この場でこんな要求が出るとは思っていなかったのだろう。俺は冷静になり、落ち着いた声で話し始めた。

「納期や単価の前に、私どもの加工工程についてきちんと説明させていただきたいのですが」

「いらんよ」

田口は遮るように切り捨て、資料の端を指で叩きながら言った。

「説明なんか聞く必要はない。納期か単価か。どっちを選ぶかだけ答えろ」

「ですが、加工の精度と工程の実情を踏まえると」

「おい、下請けが何度も同じことを言わせるな」

田口は、下請けは元請けの要求を断れないと、最初から踏んでいるのだろう。

「言っておくが、これは相談じゃない。こちらからの通告だ。返事が先延ばしになるなら、断るのと同じだ。長期契約の更新も白紙になる。それでいいんだな」

見下した顔で迫る田口を見ながら、俺の頭に浮かんだのはあの古い契約書のことだった。この会社への地代について、祖父も父も一度も値上げを求めていない。市場よりかなり低い設定だと弁護士に言われても、二人は手を付けなかった。それがこの元請けとの縁を守る、祖父と父なりの義理だったのだろう。だが、義理を守るべき相手が自ら義理を捨てるなら、俺がそれに付き合う理由はない。おそらく田口は、地代の契約について何も知らないのだろう。父が亡くなった時、俺は地主の名義変更を書面で取引先に通知した。手続きの窓口となったのは村井だったからだ。だとしても、田口も村井の上司として、また取引先の重要情報として、当然知っておくべきだったのだ。

「もういい加減、答えてくれないかな」

そう言って田口はせかしてくる。俺は立ち上がった。

「残念です。では、お宅の本社ビルの土地の即時返還か、地代二十倍か、どちらか選べ」

会議室が静まり返り、田口は虚をつかれた顔をした。

「土地だと? 何の話をしている?」

本気で意味が分からないという顔だった。隣で村井が、はっとしたように息を飲む。俺は静かに告げた。

「この本社ビルの立つ土地は、祖父の代からこちらが御社にお貸ししている、私の所有地です」

田口の顔から、すっと余裕が消えていく。

「本当か、それは」

田口が村井に視線を向けると、村井は小さく頷いた。田口の顔がこわばった。俺は決して冗談を言っているわけではないと、表情を変えずに田口を見据える。田口もようやくそれを理解したのか、目を細めていった。

「それは脅しのつもりか?」

「脅しではありません。こちらの正当な権利の行使です」

「法的手段に出ることになるぞ」

「それはこちらも同様です」

田口は立ち上がり、書類を掴んで会議室を出ていった。村井はしばらく黙り込んだ後、落ち込んだ声で言った。

「徳田さん、申し訳ありません。まさかこんなことになるとは」

「村井さん、あなたが謝ることじゃない」

俺はそう言って会議室を後にした。

翌日、俺は例の契約書を取り出し、顧問弁護士に連絡を入れた。元請けの理不尽な要求に対し、土地の即時返還と地代の値上げを突きつけたことを話すと、弁護士はしばらく考えてから言った。

「分かりました。すぐに正式な手続きの準備に入りましょう」

落ち着いたその声に迷いはなかった。俺は黙って受話器を置いた。会議室で口にした言葉が、そのまま法律の力で実現するわけではない。だが、元請けの本社ビルの立つ土地の地主が、元請け自身と揉めている。その事実が社内に広まるだけで、十分な圧力になるはずだ。信用の上に成り立つ会社にとって、足元の権利が争われているという一点は重く響く。田口がどう構えようと、会社がこの事実を軽く扱えるはずがない。

その日の午後、工場の電話が鳴った。出ると、聞き覚えのない男の声だった。

「法務部の吉村と申します。先日の商談の件で、改めてお話しする場をいただけないでしょうか」

丁寧だが、心なしか早口に聞こえる。

「田口部長から、先日の商談についてどこまで話を聞いていますか」

俺が尋ねると、わずかに間が開いた。

「経緯については、社内で確認している最中です」

吉村が慎重に言葉を選んでいるのが分かる。俺は答えた。

「地代の増額について、弁護士に正式な手続きを頼みました。近いうちに書面でお送りします」

それだけ伝えて、電話を切った。それから数日、元請けからは何の音沙汰もなかった。連絡が来たのは、田口との商談から五日目の昼過ぎだ。村井からだった。晴れない声で切り出す。

「徳田さん、本来申し上げる立場ではないんですが」

一度言葉を切ってから、村井は続けた。

「田口部長の指示で、私もいくつか代わりの工場を当たらされました。ですが正直、どこも要求精度の半分にも届きませんでした。生産の方にも支障が出始めています。なんとか取引継続をお願いできないでしょうか」

村井の連絡で、未だに代わりの業者は見つかっていないことが分かる。驚きはなかった。金属は削った後、摩擦の熱でわずかに伸び、冷えて縮む。その伸び縮みを見越して、あらかじめ刃を入れる位置を読む。同じ図面でも、素材のロットが変われば癖が変わる。その癖を手の感触と削る音で覚えていく。作業場の湿度まで管理して、ようやく交差の半分が安定して出せる。そうした工程の積み重ねが、祖父から父へ、父から俺へと受け継がれてきたものだ。図面を渡されただけの工場が、簡単にうちの工場の技術を再現できるものではない。代わりが見つからないということは、あの会社がこれからも俺たちに頼るしかないということだ。

「現在の条件でよければ、いつでも供給できます」

俺は村井にそう言った。村井は少し声を詰まらせてから、「正直ほっとしました。私もずっとこの取引を続けたかったんです」と言って電話を切った。それから数日かけて、顧問弁護士が手続きを進めた。地代の額と近隣の相場を比べた資料を添え、増額を求める書面を内容証明郵便で送った。その数日後、先方に届いたようです、と弁護士から連絡が来る。書面が相手の手に渡ったという、ただそれだけの一報だった。ここからが本当の勝負だ。その日のうちに、また村井から電話が入った。今度は声がさらに沈んでいた。

「社内が、かなり大変なことになっています」

声を落として村井は続けた。

「総務や法務まで巻き込んで、対応を検討しているようです。現藤社長も、今回の件で直接動いているようです。田口さんがどこまで話しているのかは私にも分かりませんが」

最後は言葉を濁した。社長が自ら動いたということは、もう田口一人の判断では収まらないということだ。田口が法的手段に出ると言い切ったあの言葉は、ただの虚勢だったのだろう。代わりの工場は見つからず、地代の問題は会社全体に広がっている。一つの取引先とのやり取りをここまで大きくしたのは、田口自身だ。追い詰められているのはこちらではなく、元請けの方なのだ。

週が明けて間もなく、工場の電話が鳴った。出ると、落ち着いた低い声が届いた。

「社長の現藤と申します。この度の件について、私が直接お話を伺いたいと考えています。ご都合の良い日を教えていただけますか」

社長自ら電話をかけてきたのは初めてのことだった。その丁寧な物言いに、俺は誠意を感じる。俺は都合の良い日を伝え、その日に再び本社へ向かう。通されたのは、前と違う窓の広い役員用の室だった。社長自らが動いたという事実が、この対応の重さを物語っている。俺は静かに息を整え、ドアを開けた。奥の席から現藤社長が立ち上がり、俺を出迎える。

「現藤です。本日はご足労をおかけしました」

白髪の目立つ、俺より一回りほど年嵩の男だった。その物腰には、田口にはなかった落ち着きがある。その隣に田口がいる。腕を組み、机の一点を見据えたまま、こちらを見ようとしない。社長の斜め後ろに、見覚えのない男が一人。手帳を膝に控えていた。

「法務担当の吉村です」

男は立ち上がり、軽く頭を下げた。現藤社長は、俺が席に着くと口を開いた。

「今回の経緯について、率直にお聞かせください」

取り繕った響きは、その声になかった。俺は商談の日、納期半分か単価半額かどちらかを選べと迫られ、選ばなければ契約を終わらせると告げられたこと。加工精度の実情を説明しようとすると、下請けは答えだけ言えばいいと遮られたことを順に話す。社長は頷きながら聞いていた。

「田口君からの報告とは、随分違うようだ」

社長はそう言って、隣の吉村に目をやった。吉村が静かに口を開く。

「私どもでも、村井から経緯を確認しております。今、徳田様がお話しされた内容と、ほぼ一致しております」

話の途中で、田口が口を開く。

「コストの見直しは会社の方針に沿ったものです。単価の適正化は、調達部長である私の役目です」

言葉は丁寧だが、口調には商談の日に見せた尊大さが残っている。社長は静かに、しかし強い声で言った。

「コストの見直しと、納期を半分にするか単価を半額にするか、無理なら契約を切ると迫ることは、全く別の話だ。そんな条件を三十年の取引先に突きつけたのか」

田口は何か言いかけ、口を閉じた。吉村が静かに続けた。

「弊社が動いたのは、徳長様からの内容証明を受け取ったことがきっかけです。本社所有地の借地契約を巡るご指摘があり、社内で確認したところ、調達部からは事前に何の報告も上がっておりませんでした」

社長は田口を見据えた。

「相手の事情も自社の足元も確かめずに、一方的な要求だけを突きつける。それで取引が守れると、本気で思っていたのか」

田口は弁解を続ける。

「ですが、社長。向こうは本社の土地を即刻返せ、借地を二十倍にしろと脅してきたんです」

俺は田口の顔をまっすぐに見た。

「先に要求を迫ったのはあなたです。土地のことは、あの場であなたにもお伝えした通りです」

田口は気まずそうに目をそらした。

「ですが、あなたがまだご存じないことが、もう一つあります」

俺は静かに続けた。

「祖父はこの土地を御社にお貸ししてから、一度も地代の値上げを求めませんでした。父も同じです。市場よりかなり低い額のまま、半世紀以上据えてきた。それが御社との縁を守る、二人なりのやり方だったんです」

現藤社長が、わずかに息を飲むのが分かった。

「そんな話は、聞いていない」

社長は田口を見たが、田口は答えられない。俺は田口を見据えて言った。

「田口さん、あなたは我が社の技術も、この土地に積み重なってきた義理も、何ひとつ考慮せずに一方的な要求を突きつけてきました。今回の地代についても、相場とかけ離れた額を求めるつもりはありません。近隣の相場に見合った正当な額。求めているのはそれだけです。長年の取引契約と、公正な地代。これは決して理不尽な要求ではありません」

俺は田口の方を見なかった。もう見る必要がなかった。手帳をめくる吉村の手も、いつの間にか止まっている。現藤社長は机に両手をつき、深く頭を下げた。

「全て弊社の不始末です。長年支えていただいた恩義に、裏切りを書いてしまいました。うちがまだ小さな会社だった頃、御恩師には随分助けられたとも聞いています。その信頼を、私の代で壊すところでした。現行の取引条件のまま、続けさせていただきたい」

会社の頂点に立つ男が、俺の前で頭を垂れている。祖父がこの縁を結んだ。そして父がそれを引き継いだ。二人とも、もうこの世にはいない。この謝罪を受け取れるのは、今は俺だけだ。俺は腰を上げ、その謝罪を受け止めた。現藤社長は田口に向き直り、言った。

「田口君、君の処遇については、取締役会で検討させてもらう」

田口は肩を落とし、一言も発しない。ただ行き場を失った両手だけが、膝の上で力なく重ねられていた。

その後、いくつかのことが順に決まっていった。取引は元の条件のまま続くことになり、近く切れるはずだった長期契約も、新しい形で結び直される。地代の件は、弁護士を間に立てた話し合いで落ち着いた。裁判に持ち込むことはなく、俺が会議室で求めた通りの無理のない地代だ。村井からは、田口が管理職を外れたと聞いた。

「徳長さんのおかげで、取引を守れましたよ」

電話越しの村井の声には、安堵が滲んでいた。その声を聞きながら、俺は静かに肩の力を抜く。ある朝、事務所の戸を開けると、壁には祖父と父の写真が並んでいる。二人とも、油で汚れた作業着のままだ。俺はその写真をしばらく見上げた。そして、祖父と父から受け継いだ技術があったからこそ、この工場を守ることができたと実感するのだった。

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