汗だくのまま面接会場に現れる者があるか。常識を知らない無能だな。
ある理由からデザイナーとしての未来が閉ざされかけていた俺。藁にもすがる思いで、とある会社の採用面接を受けに行った。だが、待ち受けていた面接官は最初から俺を採用する気などない様子だった。
「すみません、少し事情がありまして」
「知らねえよ。ほら、さっさと自己アピールでもしてくれ。まあお前みたいなボロ雑巾から何が出るかは知れてるがな」
その態度に困惑しながら自己アピールに挑んだ俺だったが、ここで重大なトラブルに気づいた。先ほど妊婦を助けた時に右手首をひねったらしい。少しでも腕を動かすと激しい痛みが襲う。
「すみません、できません」
「はあ? なんだと?」
副社長が鼻で笑う。
「こんな簡単なこともできないのか。お前、本当にデザイナー名乗ってるのか? こんな無能は必要ない。帰れ。てめえみたいなゴミが来るから業界のレベルが下がるんだよ」
こうして不採用を食らい、すごすごと帰路につくしかなかった俺。
ところが。
「待ってください」
会社の美人社長令嬢は、なぜか俺を引き止めてきた。
「面接の結果、あなたは採用です」
――パソコンの画面を眺めながら、俺は深いため息をついた。
良くないよな、このままじゃ。
俺の名前は不幸翔。三十二歳。職業はグラフィックデザイナー。いや、もはや「していた」と言った方がいいのか。つい先日まで、俺はこの町にある大手デザイン事務所に勤めていた。企業ロゴや広告、商品パッケージのデザインなど、この仕事についてから十年間、幅広い仕事をこなしてきた。仕事は面白かったし、この年齢にしては収入もいい方だった。
しかし、とある理由から俺は独立を決意。フリーランスになってあっという間に三ヶ月が経とうとしているが、現実は厳しい。
現在までのところ、デザインの依頼はほとんど入っていない。クラウドソーシングサイトで単発の仕事を受けたり、宣伝を兼ねて趣味のイラストをSNSに投稿したり、細々と活動は続けているものの、こんな低空飛行でデザイナーを名乗り続けてもいいのだろうか。
目が回るほど忙しかった日々から解放され、好きな時間に寝て起きる気楽な毎日。まだまだ貯金もたっぷり残っていて、しばらく生活に困ることはないだろう。それでも俺は焦りを感じながら生活していた。
そんなある日、見慣れない名前のアカウントからSNSにダイレクトメッセージが届いた。
「初めまして。株式会社クリエイトFのセラと申します。不幸様のイラストを拝見し、ご連絡させていただきました」
俺は少し、いや、かなり嬉しくなった。SNSでの反応はぼちぼちあったものの、こんな形で声をかけてもらったのは初めてだったからだ。会社名で検索してみると、株式会社クリエイトFはそこそこ大きな子供用品メーカーらしい。どうやら会社名を語った詐欺の類いではないようだ。
「弊社にて是非広告デザインを担当していただけませんか?」
どうしようか。俺は悩んだ。部屋の中を行ったり来たりしながら、頭の中では様々な思いが交錯する。このスカウトを受けること。それはフリーランスをやめて、再び会社員に戻るということだからだ。俺にはフリーランスになった理由があるけれど、現実は厳しかった。仕事がない。収入がない。そして何よりも――。
やってみるか。
デザイン作業で煮詰まった時はいつも会社の外を歩き回って新しい刺激を取り入れていたように、このチャンスを掴むことが現状を変えるきっかけになるかもしれない。俺は震える指で返信の文章を打った。
「詳しいお話を伺わせてください」
それから何度かセラさんとやり取りを行って、俺がクリエイトFで働くことはほとんど決定事項になった。
「あくまで形式だけですが、中途採用面接を受けてくださいませんか?」
そんな連絡が来た時、すでに俺の心は決まっていた。何かが変わるかもしれない。そんな希望を抱きながら。
それから半月後、面接当日の朝。俺は普段よりも早めに起き、念入りに身だしなみを整えた。随分久しぶりにスーツを着て、バッグにはポートフォリオが入っていることを改めて確認する。形式的な面接とはいえ、これがないと始まらない。バッグの中には、ちゃんと分厚いファイルが入っていた。ポートフォリオとは、デザイナーが自身の手がけた仕事や実績などをまとめた、いわば作品集のことだ。デザイナーの技術力やセンス、そして仕事に対する姿勢まで全てを表現する大切なツールと言える。
よし、行くぞ。俺は自信を持って自宅を出た。
時間にも余裕を持って出たはずだったのに――。
面接会場のクリエイトF本社ビルまでは電車で三駅ほど。出勤ラッシュを過ぎたガラガラの車内には、乗っているのは俺だけだった。そこへ二つ目の駅で新しい乗客が加わった。
大変そうだな。俺は思わず心の中で呟いた。その乗客とは、大きなお腹を抱えた女性だったからだ。もう臨月に差しかかっているのだろうか。その女性は歩くのもやっとの様子で、手すりに捕まりながら慎重な足取りで移動している。その様子が気になって、つい俺は目で追いかけた。手を貸した方がいいかな。でも、もし嫌がられたら。ためらっているうちに彼女はドア近くの座席に到着していた。まずは手に持っていたバッグを座席に置く。それから自分も座ろうとゆっくり体の向きを変えた、その瞬間だった。
突然、ガタンと電車が揺れた。
「きゃあ」
こちらに背中を向けていた女性がバランスを取れずに大きくよろめく。お腹をかばいながら床に向かって倒れていく。その光景がスローモーションのように見えて。
「危ない!」
無意識に座席を立ち上がり、女性に向かって駆け出していた。気づけば、俺は女性の下敷きになっていた。体全体を使って倒れてくる彼女を受け止めたのだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません。ありがとうございます」
幸い怪我はなかったようで、女性はすぐに体を起こした。よかった。俺も安堵しながら立ち上がろうとした、その時。
うっ。右手首に違和感を感じて、思わず眉をひそめる。けれど、そんなことにかまっている場合ではなかった。
「いたっ……お腹が痛い」
「え? だ、大丈夫ですか?」
女性が突然お腹を押さえて苦しそうなうめき声をあげ始めたのだ。冷や汗が背中を伝う。俺は面接のことなどすっかり忘れて、女性に呼びかけた。
「立てますか? 次の駅で降りましょう。もう少し頑張って」
「は、はい」
弱々しく頷く女性を支えてどうにか立ち上がらせると、ちょうどホームに到着した電車を降り、俺は近くにいた駅員に叫んだ。
「救急車を呼んでください!」
やがて到着した救急車に、俺も女性と一緒に乗り込んだ。かかりつけの産科があるという総合病院に向かう間、痛みに苦しむ彼女の手を握ってひたすら励まし続けた。
「あ、赤ちゃん……助けて。お願い」
「きっと大丈夫です。大丈夫ですから」
そう言い続けることしか、俺にはできなかった。
十分後、救急車は総合病院に到着。ここでようやく俺は、自分が面接に向かっていたことを思い出した。慌てて腕時計を見ると、面接の時間まであと十分足らずに迫っている。
「大変だ。行かないと」
救急車を飛び降りて病院の前にある道路に向かって駆け出す。
「あの……あなた」
ストレッチャーで運ばれる女性が俺を呼び止める声が聞こえた。そういえば名前も名乗っていなかったけれど、そんな場合じゃない。
「すみません、急いでください!」
俺はタクシーを捕まえると、クリエイトFの住所を伝えた。到着までにかかる時間は五分。間に合うかどうかギリギリだった。
頼む、間に合ってくれ。
そんな願いが通じたのだろうか。タクシーは一度も信号に捕まることなく、目的地までの道のりを走り続けた。
「着いた。間に合った」
面接の時間まで残り二分。俺は無事、クリエイトF本社ビル前に到着したのだった。
「失礼します」
面接の時間ぴったりに、俺は面接会場である会議室のドアを勢いよく開けた。息が上がり、汗でびっしょり濡れたシャツは背中に張り付いている。エレベーターがなかなか来ず、仕方なく三階まで階段を駆け上がってきたせいだ。
「ふ……すみません。本日はよろしくお願いします」
面接官の席に座っていたのは男女二人。俺が頭を下げると、片方の面接官――いい年の中年の男性が口を開いた。
「随分急いできたようだが、朝寝坊でもしたとか」
「いえ……」
不機嫌そうな口調。そして俺を上から下までじろじろと眺める視線に、俺は思わず身をすくめた。すると、もう片方の面接官――俺より少し年下くらいの若い女性が、やんわりと止めるように声をあげた。
「副社長、不意さんに失礼ですよ」
その声に、俺は思わず目を奪われた。紺色のスーツがよく似合う、凛とした知的な容姿。引き締まった表情はいかにも真面目そうなのに、その輪郭は柔らかくて穏やかな雰囲気も感じさせる。そんな不思議な印象を持った絶世の美女だったからだ。
「ふん」
副社長と呼ばれた男性はその声も無視するかのように退屈そうに頬をつくと、俺に向かって顎をしゃくった。
「えーっと、ウェブデザイナー? だったか。まあいい。とりあえず自己アピールでもしてくれ」
「は、はい」
その言葉に俺は困惑した。まともに職種も把握していないなんて。この面接は形式だけのはずだったのに、何かがおかしい。
「すみません、私はグラフィックデザイナーでして」
「どうでもいいから、受賞歴とかそういうものはないのか?」
「副社長!」
先ほどよりも強く、美人面接官が副社長を窘める。
「申し訳ございません。不意さん、遅れましたが私は――」
「ああ、いいからいいから。時間がないんだよ」
手をひらひらと振ってその言葉を遮ると、副社長は苛立つようにコツコツと机を拳で叩き始めた。
「はい。ではこちらを」
その態度にますます困惑しつつ、俺はバッグに向かって手を伸ばした。これまで獲得したデザイン賞の情報なども全てポートフォリオにまとめてある。それを見てもらえればと思ったのだが。
あれ?
俺の手は空を切った。自宅から持ってきたはずのポートフォリオを入れたバッグがない。それに気づいた瞬間、頭が真っ白になった。そうだ。妊婦の女性を助けて一緒に救急車へ乗り込んだ時、あの時までは確かに脇にあったのに。
「どうかしましたか? 不意さん」
俺の様子に気づいて、美人面接官が気遣うように声をかけてくれる。こうなったらどうしようもない。俺は意を決して、震える声で正直に打ち明けた。
「すみません……ポートフォリオをなくしてしまいました」
はあ。呆れたように副社長の表情が歪んだ。鼻で笑うと、もう面接は終わりだとばかりに椅子を立ち上がる。
「話にならないな。ポートフォリオだかなんだか知らないが、自分の管理もできないような人間を雇えるか。実力があるという話も怪しいものだ」
「待ってください、副社長」
美人面接官は自分も立ち上がって副社長を静止すると、「そうだわ」と呟いて俺に向き直った。
「それなら、この場で描いてもらいましょう」
「え?」
「そうですね。テーマは『未来への希望』にしましょう。我が社は子供用品メーカーです。未来を担う子供たちと、その保護者の皆様に向けた広告デザインを考えてください」
柔らかく微笑みながら、俺にペンとクリップボードに挟んだ紙を差し出す。その声色は優しかったが、その提案は無謀そのものだった。非常に抽象的なテーマ。しかも通常は数週間から数ヶ月かかるものを即興で考えろと言うのだ。
「できますよね、不意さんなら」
初対面なのに、どうしてそこまで言い切れるんだろう。俺は困惑しながらそのにっこりと笑った顔を見ていたら、不思議と勇気が湧いてくる気がした。なんか、できるような気がする。いや、やらなきゃいけないんだ。
「分かりました」
俺はペンとクリップボードを受け取り、真っ白な紙と向き合った。ところが、その瞬間。
カシャンと音を立てて、ペンは床に転がった。突然、右手に鋭い痛みが走ったのだ。もしや――。痛みと嫌な予感で、どっと冷や汗が浮かんでくる。そうだ。電車で倒れてくる女性を受け止めた時、その体重のほとんどを俺の右腕が受け止めたんだ。あの時に痛めたんだ。骨は折れていないようだけど、ペンを拾えないほど痛い。
「どうかしたんですか、不意さん?」
「そ、それが……」
「もういい!」
異常を説明しようとする俺の声と、勢いよく立ち上がった副社長の声が重なった。
「時間稼ぎのくだらん演技までして、これ以上我々の時間を無駄にする前にとっとと出ていくがいい」
「副社長!」
「不採用だ。不採用!」
唾を飛ばして怒鳴りながら、副社長は足音を立てて会議室を出ていった。俺は力なく頭を下げるしかなかった。
「本日はありがとうございました」
会議室のドアを閉めると、俺は深いため息をついた。背中を丸めて廊下をとぼとぼと歩く。最終面接は大失敗。おまけに手首を痛めたせいで、しばらく日常生活にも支障が出そうだ。
こんなことなら、あの女性を電車で助けない方が良かったんだろうか。ふっと心に暗い考えがよぎった、その時だった。
「不意さん、待ってください!」
俺を呼び止める声。それからヒールで廊下を走る音がだんだんこちらに近づいてきて、その人物は俺のすぐ後ろで足を止めた。
「だ、大丈夫ですか? 何度も呼んだのに全然聞こえていないみたいで」
思わず振り向いて声をかけると、その人物は息も絶え絶えに答えた。それは先ほどの美人面接官だった。どうやら俺をずっと追いかけていたようで、額には汗を浮かべている。
「申し訳ございませんでした。失礼なことばかり」
ようやく息が整うと、彼女は俺の顔をじっと見つめた。
「あの、どうしてですか?」
「え?」
「どうして書かなかったんですか? 不意さんほどの実力があれば、あの程度の課題は乗り越えられたはずなのに。あなたは途中までは書こうとしていましたよね。けれど手を止めて。まさかとは思いますが、面接を受ける気がなくなったんですか?」
その真剣な眼差しには、少し怒りも混ざっているような気がした。先ほどと言い、どうして彼女はそこまで俺にこだわるんだ。困惑しながら、俺は正直に事情を打ち明けることにした。
「実は、電車でお腹の大きな女性を助けたこと。その際に右手を痛めたこと。そして、おそらく救急車の中にポートフォリオが入ったバッグを置き忘れたこと」
俺が話し終えると、面接官は目を丸くしていた。
「どうしてそれを言ってくれなかったんですか?」
そう言うと、彼女は突然俺の左手を掴んだ。
「え?」
「行きますよ」
「行くって、どこに?」
「決まっているでしょう」
そう言い放って、彼女が振り向くことはなかった。俺を引っ張ってエレベーターに乗ると、エントランスを突っ切って会社の外へ。そして、走ってきたタクシーを捕まえた。
「総合病院まで」
俺を後部座席に押し込め、運転手に行き先を告げると、続けてどこかへ電話をかけ始めた。
「すみません、お聞きしたいことがあって。そちらに先ほど……ええ、救急車です。確認をお願いします」
その勢いに押されて、俺はただ圧倒されているばかりで、病院に到着するまで結局彼女の名前も聞けずじまいだった。
病院から出ると、面接官は俺に向かって微笑んだ。
「良かったですね。ちゃんと戻ってきて」
「おかげ様で。本当にありがとうございました」
俺の手元には、無事にバッグが戻ってきた。彼女が電話で確認してくれた通り、救急隊員が受付に預けてくれていたのだ。あの女性も少しショックを受けただけで、お腹の赤ちゃんも無事だったそうだ。本当に良かった。受付で教えてもらった時、俺は心からほっとした。やっぱり助けてよかった。たとえ面接に大失敗しても、その方がずっといい。ちなみに俺の右手も、ついでに整形外科で診察してもらったところ、軽い捻挫ということだった。しばらく安静にしていればすぐ元のように動かせるらしい。
「そうだ。すみません、タクシー代を払ってもらって。今お返しします」
そう言いながらバッグから財布を出そうとすると、面接官は俺の目の前に手を広げた。
「いえ、結構です。でも、代わりに別の方法で返してもらえますか?」
「え?」
「あなたには、やっぱり私の会社で働いてもらいます。不意さん」
その言葉と共ににっこりと微笑まれた瞬間、俺はまるで時が止まったかのように固まった。今、「私の会社」って。
「申し遅れました。私はセラです。不意さん」
「え、もしかして――」
「はい。ずっと直接お会いするのを楽しみにしていました」
なんと美人面接官の正体は、俺をクリエイトFにスカウトしてずっとダイレクトメッセージのやり取りをしていたセラさんだった。そして、なんと彼女はクリエイトFの代表取締役社長だった。
「とは言っても、つい半年前に父の跡を継いだばかりの、まだまだひよっこの社長ですが」
そう言いながら、セラすみれさんはほんの少し表情を曇らせた。それは彼女が半年前に、突然の病でお父さんを亡くしていたからだ。だから二十六歳の若さにして、急遽お父さんが作った会社を継ぐことになったのだった。
「あまりに急なことだったので、あくまで私は次の社長が決まるまでのつなぎでしかないと、会社の誰もが思っているでしょうね。実質的に会社を動かしているのは、あの副社長、田中一郎さん。先代社長の右腕だった過去を振りかざして、面接で俺にとった態度のように、社内では我が物顔で振る舞っているという」
「これで会社の経営がうまくいっているならまだ良かったんですが、うまくいっていないんですか?」
「ええ。父から受け継いだ負債に、このところの売上低迷も重なって、会社全体が一つになって倒産のピンチを乗り越えないといけない時なのに。なのに副社長は、セラさんから立場を奪い、社長の座を乗っ取ることばかり考えている。他の従業員や社員たちも大半が彼の側についていて、クリエイトFは社長派と副社長派に別れ、お互いの足を引っ張り合っている。相談をしている間にも、業績は着実に悪化し続けている状況だという」
「こんな状況を変えられるのは、あなただと思ったんです。不意さん」
突然のことだった。セラさんは俺の左手をぎゅっと、両手で包み込んだ。そのせいで俺は、どきっと心臓が跳ね上がった。
「我が社の問題に巻き込むようで申し訳ありませんが、どうか力を貸してください。あなたのデザインした広告を打ち出せば、確実に多くの人の目を引きます。そして一度でも手に取ってもらえたら、確実に良さが伝わるはず。私たちはそんな商品を作っているんです」
「でも、副社長は不採用だと」
「今回だけは、何と言われようが譲る気はありません。不意さんには必ず我が社で働いてもらいます」
「どうして。どうしてそこまで俺にこだわるんですか?」
困惑しながら尋ねる俺に、セラさんはその理由を明かした。なぜか恥ずかしがるように、ほんのり赤くなった顔を俯かせながら。
「初恋の人に似ていたから」
「え?」
「見た目じゃなくて。不意さんの描くイラストの雰囲気が、気象さんと似ている気がして。きっと不意さんもご存知ですよね。すごく有名なデザイナーの方なので」
「はい。知っています。もちろん」
気象といえば、その道で知らない者はいない人物だ。国内トップの美術大学を卒業後、デザイン界に彗星のごとく現れ、数多くの有名広告を手掛け、著名なデザイン賞を総なめにした。唯一無二のセンスでその名を国内外に轟かせた、伝説のグラフィックデザイナー。現在の評判はそんなところだ。ある時を境に彼は表舞台から忽然と姿を消している。
「大学時代から将来を期待されて、すでに企業とコラボしていたんですよね。そんな気象さんに憧れて、私も――さすがに同じ大学は無理でしたが、美術大学に入学して。卒業後は小さなデザイン事務所でアシスタント。それは憧れの気象さんと同じグラフィックデザイナーになるため。そして当時から傾いていた経営をデザインの力で救いため、生真面目ばかりの父を助けるためだった」
セラさんはその顔に、寂しそうに微笑みを浮かべた。
「急に父が亡くなって会社を継ぐことになって。大好きだった気象さんまでぱったりと活動をやめてしまって。幸いの父も、長年の目標も、心の支えも失って。会社なんて、欲しいなら副社長に譲ってしまおうか。そんなことまで考え始めた時でした。不意さん、あなたのアカウントを見つけたのは」
「え?」
「はい。不意さんが投稿したイラストを見た瞬間、これだと直感しました。どこか気象さんにも通じるところがあるけれど、彼が得意としていたビビッドで大胆な色遣いとは正反対の、泣きたくなるほど優しい雰囲気。まさに今、クリエイトFに必要なものだと思ったんです。この世界にいる全ての親子に、優しさと思いやりを届けたい。それはクリエイトFを立ち上げる際、父が抱いた願いだと」
セラさんは改めて、俺の左手を強く握りしめた。
「不意さんのイラストが、そのことを思い出させてくれました。そうしたら、決して副社長に負けるわけにはいかないと思いました。彼は自身が社長になるため、私を追い落とすことしか考えていません。目立つ儲けを上げたくて、粗悪な素材でコストを抑えた商品を作らせようとしたり、社員たちに残業を強いたり。私はそんな彼の暴走を止めたい。その上でクリエイトFを立て直したいんです」
俺が入社することで、それが叶うのか。迷うことなく、はっきりとセラさんは頷いた。その声の力強さ、真剣で熱い眼差し。それは俺の心を大きく揺さぶった。もしも副社長の反対を押し切ってセラさんが俺を入社させたとして、俺は彼女の期待に答えることができるだろうか。もし答えられなかったら。
「少し考えさせてもらえませんか?」
「もちろんです。その間に、私は副社長を説得しますから」
俺が折れたのを悟って、セラさんは微笑みながら頷いてくれた。すると、その時だった。
「あら、あなたは……」
病院から出てきた女性が、俺の姿を見つけて立ち止まった。三十代後半くらいの、大きなお腹をした女性。それは俺が電車で助けた妊婦だった。
「やっぱり。良かった、また会えて。さっきは名前も聞けなかったから」
品のいい柔らかな笑顔を浮かべて、彼女は「月子さん」と名乗った。そして月子さんはお腹を優しい手つきで撫でながら、俺に頭を下げた。
「本当にありがとう。あなたは私とこの子の命の恩人です」
「そんな、気にしないでください。たまたま通りかかっただけなので」
でも、頭を上げた月子さんの目が、包帯を巻かれた俺の右手に止まった。
「気になっていたの。救急車に乗っていた時、なんだか痛そうにしていたから。もしかして、その手は私を助けてくれた時に……」
「あ、大したことはなかったので」
「それに、すごく急いでいたみたいだけど。間に合った?」
「そ、それは……」
何かあったのね。月子さんの目には妙な迫力があって、俺は言葉に詰まった。するとセラさんが一歩前に進み出た。
「それについては、私から説明させてください」
セラさんは、右手首を痛め、ポートフォリオもなくしたことで俺が不採用になった顛末を、月子さんに明かし始めた。
「ですが、私は不意さんを諦めていません。必ず副社長を頷かせて、彼には我が社の救世主になってもらいます」
「まあ……ことの顛末を知った月子さんは、はっきりと表情を曇らせてしまった」
「これなら、本当に私のせいで面接に落ちてしまったのね。ごめんなさい」
「いえ、そんな」
けれど、ぐっと奥歯を噛みしめるように顔をまっすぐ上げると、月子さんは力強い瞳で俺を見つめてこう言った。
「お詫びに私も二人に協力させて。私にできることがあれば、何でも言ってね」
――それからおよそ一週間後。だいぶ捻挫も良くなって、少しずつ仕事やイラストの投稿も再開していた頃だった。
「副社長の説得に成功しました」
その連絡を受けて、俺は再びクリエイトF本社へ足を運ぶことになった。俺が到着すると、すでに会議室の空気は張り詰めていた。応接用のテーブルを挟んで、俺とセラさんは田中副社長と向かい合って座った。副社長は相変わらず不機嫌そうで、むすっと腕を組んでふんぞり返っている。
「では、改めて提案します」
セラさんが静かにはっきりとした声で切り出した。
「不意さんの採用について、私と勝負をしましょう。よろしいですね、副社長」
「はあ。大げさなため息をつきながら、副社長が面倒くさそうに首を振る」
「勝手にするといい。あまりにしつこいので、仕方なく受けたまでだ。どうせ結果は決まっている」
「そうでしょうか」
「何?」
気難しい顔になった副社長に、セラさんはきっぱりと言い切った。その顔には、余裕の微笑みまで浮かんでいる。
「私たちは必ずあなたを納得させる広告デザインを考えます。田中副社長」
「ほう。随分強気だな。あれほど面接で無様な姿を晒したその無能を連れてきた程度で」
俺たちに冷ややかな視線を向け、にやりと不気味に笑う副社長。それにひるむことなく、セラさんは言い返した。
「彼が無能かどうかも、彼のデザインを見れば分かります。その上で今の発言を撤回してください。そして不意さんに謝罪すると約束してください」
「いいだろう。だが、今から一ヶ月後、私が納得しなかった場合には、責任を取って社長をやめることだな」
副社長が言い放った瞬間、俺は思わず椅子を立ち上がっていた。
「そんな!」
「もちろんです」
目を見開いた俺に、セラさんは微笑んだ。
「大丈夫です、不意さん」
「でも!」
「無能な小娘と無能なデザイナー、二人揃ったところで何ができるというのか。見物だな」
高笑いをしながら、副社長が会議室を出ていく。バタンと背後でドアが閉まると、セラさんは突然俺に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます」
「え?」
「今日ここに不意さんが来てくださらなければ、その時点で私は社長をやめることになっていました。副社長と約束したんです」
「そんな……なんて危険な賭けを」
俺は言葉を失った。なぜなら、今日自宅を出る直前、俺は迷っていたからだ。一緒に副社長と勝負して欲しいというセラさんの誘いを受けるかどうか。
「でも、こうして来てくださいました。それがどれだけ嬉しかったか。感謝してもしきれないくらいです」
にっこりと屈託なく微笑まれて、俺は返す言葉が見つからなかった。ここに来たのは本当はデザイン勝負をする気になったからではなく、一人で大きな敵と戦うセラさんを見捨てたらきっと後悔すると思ったから。どこまでも俺は自分のことしか考えていなかったのに、セラさんはとことん俺を信じてくれる。
「はい。私は不意さんを信じています」
迷いなく、はっきりとセラさんは頷いた。その瞬間、俺の心は決まった。大手事務所をやめてからずっと抱いていた、自分のデザインは世間に必要とされないのではないかという不安。それを振り切って、一歩を踏み出す。もう一度真剣に、多くの人の心を動かすデザインを考えてみよう。セラさんと一緒に。
「今回のテーマは、俺はどんなデザインをすればいいんでしょうか?」
「はい。不意さんにお願いしたいのは――」
ぱっと顔を輝かせたセラさんが俺に告げたテーマ。それは、面接の時と同じ『未来への希望』だった。
それから俺たちは連日、クリエイトFのミーティングルームで集合することに。まず初日、大きなホワイトボードを前にセラさんが切り出した。
「最初に、この会社について説明させてください」
手にマーカーを持つと、彼女はさらさらと文字を書き出していった。
「我が社では主に、ゼロ歳から五歳までの子供向け用品を扱っています。哺乳瓶、ベビーカー、おもちゃ、子供服。これ以外も含めて、ラインナップは数百種類にも及びます」
メモを取りながら、俺には少し不安が浮かんだ。これほど数や種類が豊富な商品たちを、最終的には一つのデザインで表現しなければいけない。しかも『未来への希望』という非常に抽象的なテーマで。うーん。どうしようか。早速頭を抱える俺に、セラさんはアイデアのヒントになる情報をくれた。
「私たちが目指すのは、優しさと思いやり、それから成長をキーワードにした商品ラインナップです」
「成長?」
「はい。そうです。例えば幼児向けのおもちゃなら、子供の好奇心を刺激して想像力を育むこと。自分の足で歩き始めた子用の服は、体全体を思いきり動かせるデザインにすることで、たくさん遊んで大きくなってくれるように。そんな願いを、全ての商品に込めてあるんです」
なるほど。俺はセラさんの言葉を何度も反芻し、ぐるぐると頭の中に巡らせた。
「それなら広告デザインも、成長というワードを視覚的に表現する必要がありますね。この会社が先代社長の頃から大切にしている、優しさと思いやりをベースに」
「そうなんです!」
身を乗り出してセラさんが目を輝かせる。
「さすが不意さんですね。でも、それだけでは足りないんです」
「え?」
「私たちの商品を買うのは、子供ではなく。その子供を育て、いつも成長を見守っている皆さんです。そんな皆さんに私たちのメッセージが響くデザインを考えなければいけません。しかも、あの副社長を納得させながら」
考えれば考えるほど、出口の見えない難題だった。無茶な仕事なら過去に何度も受けた経験があるものの、それらに比べても今回は格段に難しい仕事かもしれない。
「まだ時間はたっぷりあります。焦らずに考えていきましょう」
そう言ってくれたセラさんだったが、その日は結局デザインの具体的なアイデアは出ないまま終わった。翌日も、またその翌日も。セラさんは社長としての知識や経験を生かして、商品の特徴や保護者たちのニーズについて説明してくれる。しかし、それらをデザインとしてまとめ上げるのは、想像以上に困難な作業だった。
スタートから半月が経っても、俺はデザインの下書きすら描き上げられずにいた。社長業も忙しい中、セラさんは疲れた顔を一つ見せず、たくさんのヒントをくれるのに。そんな彼女の期待に、果たして俺は答えられるんだろうか。
とぼとぼと町を歩いていると、ある店のショーウィンドウに自分の姿が映った。情けない顔だな。思わず呟いて足が止まった、その時。
「不意さん?」
え。いきなり背後から声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのはあの月子さんだった。
「まあ、やっぱり不意さんだわ。お久しぶりね」
「月子さん」
「大丈夫? 少し痩せたように見えるわ」
心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでくる月子さん。そういう彼女の方は、前よりさらにお腹が大きくなった気がする。俺の視線に気づくと、彼女は朗らかな笑顔を浮かべた。
「今月末に生まれる予定なの。もう歩くのも大変よ」
「ですよね。やっぱりもうベビー用品を揃えていたりするんですか?」
「そうなの。今は種類が本当に多いものだから、それもまた大変で」
俺が急に黙り込んだせいで、月子さんはとんと首をかしげた。一方の俺は、かつて彼女が言ってくれた言葉を思い出していた。私にできることがあれば、何でも言ってね。
そうだ。分からないなら、直接聞いてみればよかったんだ。
「月子さん、お願いがあります」
「まあ、どうしたの?」
急に目をぱちくりさせる月子さんに、俺が頼んだこと。それは――。
週明け月曜日の午後、俺たちはクリエイトF近くにある喫茶店に集合した。
「本日はどうぞよろしくお願いいたします」
俺の隣に座るセラさんが、まず丁寧に頭を下げる。すると正面に座った月子さんは、困ったような顔で笑った。
「こんなにかしこまられたら、こっちまで緊張しちゃうわ。私はただ思っていることを話せばいいんでしょ、不意さん」
「はい。月子さんには今日、素直な意見を聞かせて欲しいんです。これからお母さんになる方の目線で、広告デザインのアイデアを出すためにインタビューさせてもらえませんか?」
町で偶然再会した月子さんに頼むと、彼女は快く引き受けてくれた。俺はすぐにセラさんにも連絡して、スケジュールを調整してもらったのだった。
「では早速教えてください。月子さんはどんなポイントを重視してお腹の赤ちゃんのためにベビー用品を買いましたか?」
「そうね」
俺の質問に月子さんはしばらく考え込んで、突然ふわっと微笑みを浮かべた。
「やっぱり、この子が安全に使えることね。子供が無事に大きくなってくれるなら、他には何もいらない。そう思うことが、親になるということなんだわ」
その手は大きなお腹を優しく撫でていた。
「だから『赤ちゃんの体に優しい素材を使っています』なんて広告に書かれていたら、つい目を惹かれてしまったわね。おかげであれもいい、これもいいって、結局どれを選んだらいいか迷っちゃって、すごく大変な思いをしたわ」
「なるほど」
「この子のおじいちゃんなんて、初孫のためにベビーベッドを手作りしてくれたのよ」
「手作りですか?」
「そう。『広告など信用ならん』って言って自分で材料を選び抜いて、絶対に壊れないようにやりすぎなくらいがっちり補強して。そのせいで家の中に運べないくらい重いのなんのって」
月子さんが大きなため息をつくと、セラさんは目を丸くした。最初は少し緊張した様子だったものの、随分リラックスしたようだ。
それから何度かインタビューをお願いするうちに、二人はどんどん仲良くなっていった。最終日には、俺がトイレから戻ってくるとセラさんは月子さんのお腹に手を当てていて、二人で声をあげて笑い合っていた。
「あら、今私の手を蹴りましたよ、月子さん」
「きっとすみれちゃんの声が好きなのよ。早く会いたいって言ってるのね」
「私もです。この子に会える日がとっても楽しみ」
間もなく生まれる子供を挟んで、優しく微笑み合う二人。その光景を見た瞬間だった。ずっと頭の中を覆っていた霧がみるみる晴れ渡っていくように、俺の頭にはその絵がくっきりと浮かび上がってきた。
「不意さん?」
セラさんが驚くのも構わず、俺は猛烈な勢いでメモ帳にペンを走らせた。唐突に思い付いたアイデアが消えてしまわないうちに、大急ぎで書き留める。そうだ。これで良かったんだ。
この日の夜、俺は一晩かけて何百枚もの試作を重ねた。そして最終的に、納得のいく一枚を描き上げたのだった。翌日、俺は寝不足の体を鞭打ちながらクリエイトFのミーティングルームに向かった。
「おはようございます。完成したんですね」
すでに到着していたセラさんは、期待に満ちた表情で俺を迎えてくれた。
「はい。これがデザインの下書きです」
俺は少し緊張しつつ、テーブルにスケッチブックを広げた。スケッチブックに描かれたものを目にしたその途端、セラさんは息を飲んで食い入るように見つめた。俺は息を整え、デザインの説明を始める。
「絵の中心にいるのは、クリエイトFのメインターゲットであるゼロ歳から五歳の子供たち。並ばせることで成長を。そして浮かべている笑顔は、この子たちがクリエイトFの商品で安全に育っていることを表現しています」
「可愛い」
ぽつりと呟いて、セラさんが顔をほころばせる。その柔らかな表情は、俺の緊張までもほぐしてくれた。
「不意さん、この子たちの左右にあるのは?」
「左右に立つ警備の体育は、子供たちを見守る大人がモチーフです。お腹の赤ちゃんを囲む、月子さんとセラさんの姿がヒントになりました」
「え? 私たち?」
「あの子が生まれて来る日を、母親の月子さんだけでなくセラさんも待ち望んでいるように。この二本の体育も、互いの枝を重ね合って子供たちを日差しや雨風から守っているんです」
口元を覆うセラさんの目は、みるみるうちに潤んでいった。涙を浮かべる彼女に、俺は笑顔で頷いた。
「そうです。この木はセラさんたち、クリエイトFの皆さんでもあります。子供たちの安全を願い、いつも成長を見守っているのは、商品を買う保護者だけじゃない。セラさんたちも同じですよね。子供たちは多くの大人が協力し合って一緒に成長を見守っていくからこそ、安全な環境で育っていくんだと気づいたんです」
体育の枝には、まるで果実のようにクリエイトFの誇る安心安全な商品の数々を配置する予定だ。それに向かって笑顔で手を伸ばす子供たちは、未来への希望ですね。
「はい」
俺たちは顔を見合わせて、笑顔で頷き合った。
「すごいです。私たちが伝えたいことを、どれ一つ欠けることなく表現してくれていて。これ以上ない素晴らしいデザインだと思います。本当にありがとうございます、不意さん」
感激しきった様子で深々と頭を下げられて、俺は慌てて首を横に振った。
「そんな大したものじゃありませんよ。セラさんもデザイン業界にいたなら分かると思います。木や子供をモチーフにするなんて、誰でも思いつく平凡なアイデアです。独創性なんてどこにもなくて、つまらない」
「不意さん」
俺の言葉を遮るセラさん。その目は真剣そのものだった。
「そんなことはありません。これは人の心を動かす素晴らしいデザインです。不意さんは、素晴らしいデザイナーです。現に私は感動して、涙が浮かんだんです。どうしてそんなに自信がないんですか?」
図星を突かれた、その直後。セラさんはさらに心臓が飛び跳ねるようなことを問いかけてきた。
「不意さん、本当は何者なんですか?」
「え?」
「これほどの才能を持つ方が、世間に知られていないはずはありません。実はとても有名なデザイナーなのに、その正体を隠して活動しているとか」
問い詰めるようにどんどん顔を近づけてくるセラさん。俺はどもりながら、こうなっては仕方ないと真実を告白することにした。
「実は……少し前まで大手デザイン事務所で働いていまして」
「やっぱり!」
「でも、飛び出してしまったんです。自分が何のためにデザインをしているのか分からなくなってしまって」
目を丸くするセラさんに、俺はその後の日々についても明かした。勢いで独立したはいいものの、すっかり自分のデザインというものが分からなくなってしまっていた。模索するように新しい作風を試したりもしたが、どれもしっくり来なかった。こんな迷いがデザインに現れたのか、単発で受けた仕事の評価も微妙で、イラストへの反応も芳しくなくて。
「このまま誰からも相手にされなくなったら、俺はデザイナーではなくなってしまう。そう思いました。それは、俺が俺ではなくなるということです」
「どうして?」
「俺にはデザインしかないと気づいたから。以前の俺は、自分が事務所を動かしているとさえ考えていた。実際には、周囲の人々が俺にデザインだけをしていればいい環境を作ってくれていたのに。仕事を取ってくるのも、面倒なクライアントとやり取りをするのも、みんな他の誰かがやってくれていた。そのことに、独立してから初めて気づいて。俺はデザインしかできない自分、そして傲慢だった自分と、正面から向き合うことになったのだった」
だけど、今はそれで良かった。昔の俺なら、利き手を怪我してでも他人を助けようとは思わなかった。誰かの心を動かすデザインがしたいとも、きっと考えなかったはずだから。
「今はかけてしまっている自信も、いつかは取り戻せるような気がしている。セラさんが俺を見つけてくれたから。こうしてチャンスをくれて、今の俺をデザイナーとして認めてくれたから」
俯いていた顔を上げると、セラさんは飛き切り優しく微笑んでくれていた。
「色々なことがあった不意さんだから、このデザインができたんですね」
まるで宝物のように俺が描いた絵を、そっと優しく撫でながら。彼女は「実は私も」と語り始めた。
「ずっと、自分が一番大変だと思っていました。父の遺言で急に会社を押し付けられて、社内中の反発にあって。でも、大変なのは私だけじゃなかった。みんなだって、急に社長が変わって混乱する中で、この会社のために働いてくれていた。そのことに、最近やっと気づいたんです。ダメな社長ですよね」
「そんなことないですよ。それはまだ社長になったばかりだから」
「そうです!」
突然の明るい声。それから至近距離で顔を覗き込まれて、俺は心臓が大きな音を立てて飛び跳ねた。
「まだまだこれからです。私も、不意さんもですよね」
「あ、はい」
どんどん顔が熱くなっていく。セラさんが「よかった」とにっこり笑えば、鼓動はさらに早くなった。一体、俺はどうしてしまったんだろう。
「決めました。私、不意さんのファン一号になります」
「え?」
「気象さんの次にでも、同じくらい好きな不意さんを、これから応援させてください。そして、私が社長として成長できるかどうか、近くで見ていて欲しいです」
「す……好き?」
その瞬間、俺の心臓は一段と大きな音を立てて。同時に、セラさんは「あっ」という表情になったかと思うと、みるみる顔を真っ赤に染めて、ものすごいスピードで俺から離れていった。
「そ、その……そう、デザイナーとして! 頑張りましょうね。副社長に納得してもらえるように」
「ああ、はい。頑張りましょう」
にわかに気まずくなった空気の中、俺たちは二人ともぎこちない笑顔で頷き合った。副社長との勝負の日まで、あと残り一週間。そんな時期のことだった。
それから一週間後、クリエイトFの大会議室は大勢の社員たちで溢れ返っていた。普段は滅多に使われないというこの部屋が選ばれたのは、副社長が話を大きくして、勝手にクリエイトFの全社員を集合させたからだ。
「我が社の今後を左右する重要な発表だからな。それとも何か問題でもあるのか?」
「いえ、私は問題ありません。でも」
腕を組んで不機嫌そうにしている副社長から目をそらすと、セラさんは申し訳なさそうな顔で俺の方を向いた。
「こんなことになってごめんなさい」
「こうなったら、やるしかないですよ。それに、どんな手を使われようと俺たちは平気です」
俺の言葉に、セラさんは深呼吸をして表情を引き締めた。
「その通りです。お願いします、不意さん」
「はい」
はっきり頷くと、俺はセラさんと二人で正面のステージに上がった。社長の隣にいる見慣れない男。社員たちが「あれは誰だ」とざわめく。それをマイクを持ったセラさんの声が沈めた。
「皆さん、こちらはグラフィックデザイナーの不意さんです。この度、我が社の新たな広告デザインを担当していただきました」
こちらに向かって頷く。それに合わせて、俺はプロジェクターを操作。中央の大きなスクリーンに、この一ヶ月の結晶を映し出した。
天に向かって手を伸ばす、満面の笑顔を浮かべた五人の子供たち。子供たちを優しく包み込むように枝を絡ませ合う二本の体育。その枝には、まるで果実がたわわに実っているかのように、この会社が誇る商品の数々を配置してある。その全てが調和して、優しく温かな雰囲気を醸し出すように。この一週間、セラさんと二人で修正を重ね、クリエイトFの理念をより深く反映させたデザインだ。
「一見、ありきたりに見えるかもしれません。ですが、この会社が伝えたいメッセージを表現するには、斬新なデザインである必要はないと考えました。何よりも、このクリエイトFが大切にする優しさと思いやりを、子供を大切に思う全ての人に伝えるために」
デザインの説明をしながら、俺は社員たちに向けて語りかけた。そこに込められた俺とセラさんの想い、全てが伝わるように。大会議室は一瞬、静まり返って――。それから、徐々に声が広がっていった。
「確かに、見ているとなんだか優しい気持ちになるわ」
「優しさと思いやり。先代社長の口癖だったよな」
「これぞクリエイトFの広告という感じだな」
「これほどまっすぐに商品の安心と安全が伝わる広告は、見たことがない」
「どこで社長は見つけてきたんだ、こんなすごいデザイナーを」
若手からベテランまで、みんな目を輝かせてスクリーンに見入っては、お互いに顔を見合わせる。興奮が広がっていく様子に、俺とセラさんも顔を見合わせた。
「不意さん、伝わりましたよ」
「セラさん。これなら」
「はい。きっと」
輝くような笑顔を浮かべて大きく頷くと、最前列の中央に座る副社長に向かって、セラさんは呼びかけた。
「副社長。不意さんの採用に、これでもまだ反対ですか?」
それに答える代わりに、副社長は立ち上がって。そして、まっすぐ俺たちのいるステージに上がってきた。
「ふん」
俺からマイクをひったくると、副社長はセラさんと向かい合った。
「いやあ、素晴らしい。これは認めざるを得ない。私の負けだと言ったんだ。是非、彼を採用するといい。そして、彼のような才能ある人材を連れてきたあなたのことも認めましょう。セラ社長」
突然のことに、セラさんはぽかんとした顔で固まった。なぜなら彼女は、副社長に認められたことはおろか、社長と呼ばれたことさえ一度もなかったからだ。セラさんから反応がないにも関わらず、副社長は一人で言葉を続けた。
「確かに素晴らしいデザインだ。しかし、これで終わりではないでしょう」
そう言って、口の端に笑みを浮かべる副社長。その表情に、俺は猛烈に嫌な予感を覚えた。まるで、何かを企んでいるような。
「どういう意味ですか?」
「もう一つ、とても重要な発表があるのでは?」
セラさんが困惑の表情になると、彼はさらに笑みを深めた。にやにやと不気味に笑いながら、ステージ上のやり取りを見守る社員たちに向き直る。そして。
「あなたが、あの伝説的な天才デザイナー気象だといつまで隠しているつもりですか?」
声を張り上げた。その瞬間、大会議室は水を打ったように、死因と静まり返った。
「え?」
静寂の中で、セラさんが息を飲む。その目は驚きと混乱で揺れていた。
「おや。まさか知らなかったのか? 連れてきた張本人でありながら」
副社長は高笑いしながら、俺を指差した。
「この男について、私は徹底的に調べ上げたぞ。忽然と消えた天才が――なぜ我が社の採用面接を受けに来たのかは知らんが、こんなチャンスを逃す手はない。気象の名を出せば、我が社は一夜にして知名度が跳ね上がる。政権は大騒ぎになるだろうからな」
その声はこだまして、会場中に響き渡った。それが収まると、次は社員たちの間で騒然とした声が上がり始めた。
「え? あの気象ですか?」
「まさか。写真を見たことがあるわ。もっと明るい髪色で、髪型も違ってたわ」
「それくらいどうとでも変えられる。問題は、どうしてうちの会社に?」
「今まで一体どこにいたんだ?」
たちまち大会議室は収拾のつかない大騒ぎになった。重役たちが静止に動くも、一度ついた勢いは止まらない。立ち上がり、こちらにスマホのカメラを向ける社員たちまで現れ始めた。そんな中で。
「本当ですか? 不意さん。あなたが、気象さんだと」
セラさんはじっとまっすぐに俺を見つめた。その目には様々な感情が浮かんで、その顔はいつの間にか青ざめていた。俺は深く息を吐いて、ゆっくりと頷いた。
「すみません。黙っていて。その通りです。俺が気象です」
短く、けれどはっきりと答える。俯いた俺に、セラさんは震える声で問いかけた。
「私を、騙していたんですか?」
「違います」
知られた時には、これだけは伝えようと心に決めていた。俺は決してセラさんを騙したかったわけじゃない。
「俺が素性を隠していたのは、理由があるんです」
「理由?」
セラさんの目は、一瞬だけ戸惑いの色が濃くなった。けれど。
「分かりました」
一つ頷くと、彼女は深呼吸をして視線を正した。そして、毅然とした表情で副社長の方を向き、マイクを持ち直した。
「私は、不意さんがグラフィックデザイナーの気象さんであると、公表しません」
副社長に向けて放った言葉は、大会議室の時を止めた。大騒ぎはぴたりと静まり、その場にいた誰もが身動きできず、顔だけをステージに向けた。
「今、なんと?」
目を見開いた副社長に、セラさんは毅然とした口調で続けた。
「不意さんは、今後我が社の社員になります。その彼が隠したいと言っているんです。ですから、私も彼の秘密を守ります」
「なんだと?」
みるみる副社長の顔が歪んでいく。それは怒りの表情だった。
「バカな。だからお前は社長にふさわしくないと言っているんだ」
「私は、社員全員を守り尊重できる社長になりたいと思っています。だから、彼の意志も尊重して」
「そんなもの、お前がやめれば済む話だ」
唾を飛ばして吐き捨てると、副社長は社員たちに向かって叫んだ。
「聞いたか? これほど判断力のない人間に、このまま会社を任せていいのか? 気象という名を使えば我が社の抱える問題は一気に解消するというのに、そのチャンスをみすみす棒に振るなど、経営者失格だ。社長はたった一人を尊重して、我々を路頭に迷わせる気だぞ」
「違います!」
セラさんの反論を遮るように、社員たちの間には徐々に不安げな声が広がっていった。
「確かに気象の名前は大きいよな」
「俺は副社長に賛成だ」
「どんどん業績は悪化しているし、このままじゃ会社がどうなるか」
「判断力のない社長と、ワンマンの副社長か。どっちにつく?」
会場の空気は、みるみる副社長へと傾いていった。そんな中でもセラさんは俯くことなく、凛と前を向き続けていて。その肩がかすかに震えていることには、きっと俺だけが気づいていた。
「セラさん、もういいです。あなたが辛い思いをするくらいなら、俺のことなんて」
そう伝えようとした、その時だった。
「もうやめて、お父さん!」
会場のどこからか、女性の叫び声が響き渡った。その場にいた全員が一斉に、声のした方へ注目する。舞台袖から現れたのは、大きなお腹を抱えた一人の女性。なんと、それは月子さんだった。
「全部、そこで聞いていたわ。お父さん、どうしてすみれちゃんを追い詰めるの? どうして不意さんが嫌がっているのに、無理やり秘密を暴こうとするの?」
声を震わせる月子さん。その目には、強い怒りと悲しみが浮かんでいた。俺とセラさんは、思わず顔を見合わせた。お父さん? どうしてここに? 月子さんが。
突然現れた謎の妊婦に、大会議室は騒然。驚きと困惑が交錯する中、副社長の顔からは先ほどまでの勢いは消えていた。
「月子……なぜ?」
俺たちに向けた横柄な態度とは打って変わって、弱々しい声をあげる副社長。月子さんはゆっくりと、一歩前に進み出た。
「お父さんに話した、私たちの命の恩人は、ここにいる不意さんのことよ。彼が電車で私を助けてくれたの。デザイナーにとって掛け替えのない利き手を、怪我してまで」
「何?」
「すみれちゃん……セラ社長も、今では大切なお友達よ。彼女はとっても優しくて親切で、心からこの会社のことを思っているわ。そんな素晴らしい人たちを、もう困らせたりしないで、お父さん」
最後は涙を溢れさせながら、月子さんは副社長に叫んだ。そして、呆然とする俺とセラさんに向かって頭を下げたのだった。
「ずっと黙っていてごめんなさい。私の名字は田中。この会社の副社長、田中一郎の娘です」
震える声で月子さんが告白したのは。以前からクリエイトFでの副社長の言動が噂で耳に入っていたこと。まさか父が、と信じられなかったが、病院で俺たちの話を聞いて噂は真実だと確信したこと。そして、俺にインタビューを頼まれた時、そこで俺たちの味方をしようと決意したことだった。
「父のせいで大変だと聞いたら、とても自分の正体は明かせなかったの。せめて二人に協力することで、父の代わりにお詫びしたくて。本当に、ごめんなさい」
何度も頭を下げる月子さんに、セラさんが寄る。
「お腹の赤ちゃんに触りますよ」
そっと背中に手を当てて、頭を上げさせる。月子さんは頷いて、涙に濡れた顔を上げた。
「お父さん。あなたが社長の座を奪おうとしているのは、こんなに思いやりのある女性なのよ。知っていたの?」
強い瞳で睨みつけられ、副社長は「しな」と言葉を失う。
「お前は知らないだろう。会社を守るというのは――」
「思いやりだけでは会社は守れない。そう言いたいんでしょ? でも、お父さんがしていることは、ひどすぎるわ。この子が大きくなって知ったら、喜ぶと思う?」
副社長の前で、月子さんは自分のお腹を撫でた。そして、ふっと悲しげな表情を浮かべながら固まっている父親の元に近づいていった。
「お父さん、ありがとう。お父さんは、私を一人で育ててくれたわよね。私を産んですぐ、お母さんは天国に行ってしまったから。『母子家庭だから』って理由で私が嫌な思いをしないように、いつも二人分以上の愛情をくれた。私が結婚した時も、この子がお腹に宿った時も、大泣きしながら喜んでくれた。とっても優しくて、自慢のお父さんだった」
静かに語りかけながら、再び声が震えていく。そして月子さんは、副社長を驚愕させる言葉を放った。
「知っているのよ。半年前、お父さんが大きな借金を背負ってしまったことは」
「あ……」
「ずっと二人で暮らしてきた実の娘だもの。バレバレなのよ。大方、生まれてくる孫のために貯金を増やそうとでもしたんでしょう?」
「違う……!」
ああ。まるで観念したように、副社長はがっくりと肩を落とした。そして、自らの口で真相を告白した。一人娘に宿った孫に舞い上がり、うっかり投資に手を出したこと。それに大失敗して、貯金を増やすどころか、将来の資金まで失ってしまったこと。これから子育てで大変な娘には、とても迷惑をかけられない。生まれてくる孫には、自分のせいで辛い思いをさせられない。だから知られてしまう前に、早く借金を返そうと。
「より役員報酬の高い社長の座を狙ったと、いうことですか?」
あきれたようにセラさんが尋ねると、副社長はうなだれたまま「ああ」と小さく呟いた。
「会社が立ち直れば、より報酬も上がる。私にはそれができると。それしか、方法はないと思って」
「お父さんの、バカ!」
ぴしゃりと、月子さんは副社長の言葉を遮った。そして、その肩に両手を置いた。
「あるでしょう、方法なら。お金がないなら、私たちと一緒に暮らせばいいじゃない。そして浮いたお金を返済に回せばいいの。みんなで一緒に、借金を返すのよ」
「だめだ。お前たちに迷惑は」
「お父さんは、いてくれたらいいの」
ぎゅっと、月子さんは副社長を抱きしめた。
「お父さんはただ、いてくれたら。他には何もいらないから。お金がなくても、どれだけ迷惑をかけてもいいから。お父さんのままでいてくれたら、よかったの。それだけで、この子には自慢のおじいちゃんなんだから」
「月子……」
「ベビーベッド、ありがとう。大切に使わせてもらうから。ガレージから家の中に運ぶの、手伝ってね」
何度も何度も頷きながら、副社長は声を上げて泣き崩れた。月子さんも涙を浮かべて、その背中をぽんぽんと優しく叩き続けていた。
「よかったですね、副社長」
二人の元に近づいたセラさんが、静かに声をかけると、副社長ははっとしたように顔を上げて。
「はい。社長」
立ち上がると、副社長はセラさんに深々と頭を下げたのだった。
さらに驚く出来事が、その日のうちに起こった。
「申し訳ございませんでした。社長」
社長室を訪れた副社長は、なんと自らセラさんに謝罪したのだ。
「どうか、私を処分してください。どのような内容でも、受け入れます」
「そうですか」
しばらくの間、セラさんは静かに彼を見つめていた。そして、おもむろに口を開いた。
「分かりました。追って臨時株主総会を開きます。そこで正式な処分を決定しましょう」
「はい」
「その後は、きちんと働いてもらいますから」
「え?」
副社長は弾かれたように顔を上げた。
「私は、この会社を追われるのでは?」
その言葉に、セラさんは首を振った。
「私は社長として、まだまだ未熟です。あなたの厳しさや判断力も、使い方さえ間違えなければ、この会社には必要だと思うから」
優しく微笑みながら、彼女は副社長に告げたのだった。
「どうか、私に力を貸してください。生まれてくるお孫さんのためにも、まだまだこれからですよ、社長」
声をつまらせ、副社長は目に涙を浮かべた。それから何度も、彼はセラさんへの感謝と謝罪を、また俺への謝罪も繰り返していたとのことだった。セラさんに許された副社長は、後に取締役を解任され、半年分の役員報酬を返上。そして、セラさんの補佐としてクリエイトFに復帰することになる。彼に振り回された社員たちからは厳しい目を向けられる日々が始まるものの、元々先代社長に認められていた有能ぶりを発揮して、セラさんの経験不足を補うことで、彼自身の努力で周囲の目を変えていく。同時に、甘くなりがちなセラさんの判断を厳しく指摘して、彼女を一人前の社長として見事に鍛え上げていく。以前の彼を知る誰もが驚くほど、別人のように心を入れ替え、クリエイトFの立て直しに大きく貢献していくのだった。
そして俺にも、セラさんに謝らなければいけないことがあった。俺が気象だと黙っていてすみませんでした。理由があると言っていましたよね。はい。俺は自分の過去について、まだ明かしていなかった部分。大手デザイン事務所で働いていた頃の話を、彼女に明かした。気象という名前が知れ渡ると、多忙さからデザインを満足いくまで仕上げることが難しくなった。俺にとっては手抜きで、世間に出すのが恥ずかしいデザイン。それなのに世間は「さすが気象の作品」と口を揃えて褒めやし、天井知らずに評価を上げていく。すると次第に、俺はデザインというものが何なのか、自分が何のためにデザイナーをしているのか、分からなくなってしまって。全てを捨てて逃げ出したのは、これ以上「気象」と呼ばれるのが怖くなったから。独立すると言って無理やり職場を辞めて、引きこもって。デザイナーもやめるつもりでした。自分にはデザインしかないんだと。
「まだ、気象さんと呼ばれるのは怖いですか?」
「はい」
セラさんの言葉に、俺は素直に頷いた。
「それでも、いつかは。今回のように心から満足のいくデザインを、『気象』として生み出した作品の数以上に重ねられたら、その名前で再び呼ばれることも怖くなくなる気がするから。今はまだ、不意としてこの会社にいてもいいでしょうか?」
セラさんからの返事はなかった。彼女は顔を俯かせて、よく見ると肩を小刻みに震わせていた。
「あ、すみません。ずっと黙っていた上に、図々しいことを」
「違います」
小さな声で呟いて、セラさんが顔を上げる。その顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「どうしたんですか?」
「は、恥ずかしくて……」
「え?」
「初恋だなんて言ったくせに、全然気づかなくて。しかも思い出したら、偉そうなことばかり言って。穴があったら、今すぐ入りたいです」
「ああ、ファン一号とか」
「きゃあ! もう忘れてください。お願い」
真っ赤な顔を覆って、消え入りそうな声で頼んでくるセラさん。そんな姿を見て、俺の中に浮かんだ思いは愛おしさだった。
「セラさん、見ないでください」
「じゃあ、俺を見てください。すみれさん」
「え?」
弾かれたように顔を上げた。その隙を狙って、俺は彼女の両手を握った。
「ふ、不意さん……」
「嬉しかったです。すみれさんがくれた言葉は、みんな。どんなに偉い評論家の絶賛よりも、ずっと。俺の意志を尊重して、気象だと公表しないと言ってくれたことも。すごく嬉しくて。あの時です。どんな形になっても、あなたのそばにいたいと思ったのは。やっと自分の想いに気づいたのは」
それって、あなたが好きです。
「すみれさんだから。あなたがくれた言葉は、どれ一つ忘れたりしません」
俺が宣言すると、みるみる目に涙が浮かんで溢れていた。すみれさんの表情は、ゆっくりと柔らかくほぐれていった。
「いてください。私のそばに、これからも。不意さん」
「いいんですか?」
「はい。今、私が恋をしているのは、不意さんですから」
そう言ってにっこりと微笑みながら、頬に涙を伝わらせる。その瞬間、俺はすみれさんを強く抱きしめていた。
「ありがとう。今の俺を見つけて、認めて、好きになってくれて」
溢れてくる想いは、込み上げる涙のせいで声にならなかったけれど。すみれさんには、しっかりと届いたはずだ。返事の代わりに、彼女は俺以上に強く、ぎゅっと抱きしめ返してくれたから。
それから俺とすみれさんが作り上げた広告デザインは、様々な形で世間に発表された。すると、それが予想以上の反響を呼んだ。クリエイトFが商品に込める願いは、子供を大切に思う多くの人に届き、売上は好調に。その年の業績は、なんと前年度の二倍以上もの数字を記録した。そして現在も、全社員一丸となった努力のおかげで、順調に右肩上がりを続けている。
「見て、不意さん。田中さんが持ってきてくれたの」
「わあ、また大きくなったな」
「不意さんそっくりで可愛い」
すみれさんが差し出した写真を眺めながら、俺たちは揃って頬を緩ませた。あれから、月子さんが無事に出産した女の子は、元気にすくすくと成長している。両親と、それから一緒に暮らすおじいさんの愛情をたくさん受けて、とても優しい子に育っているそうだ。
「そろそろクリスマスシーズンに合わせて販売する新作おもちゃの試作品が完成する頃ね」
「報告の方は任せて。順調にアイデアが出ているところだよ」
すみれさんに笑いかけながら、俺は思い浮かべる。俺がデザインした広告の前で足を止めた人が、大切な子供の笑顔を想像するところ。そして、自分も笑顔になるところ。そんな光景のために、これからも俺はデザイナーを続けていく。大切な人のそばで。今の俺にできる限り、ありったけの想いを込めながら。人生には思わぬ出会いや挫折があるけれど、それらは全て自分を成長させてくれる。大切なのは、一歩を踏み出そうとする勇気だ。俺は目の前に訪れたチャンスに手を伸ばして、勇気を出して家を出た。その一歩は、掛け替えのない存在と、そして新しい自分との出会いにつながっていた。一度くじけたからって、そこで全てが終わるわけじゃない。まだまだこれから。自分を信じられる限り、人生は何度だってやり直せるんだから。



