商店街の片隅で、小さな女の子が泣いていた。七歳くらいだろうか。古びた団子屋の台の前にしゃがみ込み、両手でぎゅっと何かを守るようにしていた。台の上には団子が山のように並んでいた。数え切れないほどだった。夕日を受けて、甘いタレがてらてらと光っている。作り立てのはずなのに、足を止める人は誰もいなかった。隣には白髪を引っ詰めにしたおばあさんが立っていて、色あせた前かけをして、孫の背中をただ黙ってさすっていた。
俺は何の用もなくその商店街を歩いていた。立ち止まるつもりもなかった。それなのに、その女の子の声がなぜか足を止めさせた。
「ばーばのおだんご、捨てたくないの。」
おばあさんが誰にともなく小さく呟いた。
「三百本も、どうしたらいいかねえ。」
三百本。その数字が胸のどこかに引っかかった。この時の俺はまだ知らなかった。この団子の山と、この親子の涙が、凍りついた俺の心をもう一度動かすことになるなんて。
俺の名前は高梨港。三十五歳。山あいの温泉町で、創業百二十年の旅館「かじ家庭」の四代目若旦那をしている。客室は四十、従業員は六十人。週末は半年先まで予約が埋まり、雑誌にもよく載る。多くの人が立派な旅館だと言ってくれる場所だった。若旦那といえば聞こえはいいが、要するにただの宿の経営者だ。数字を見て、人を回して、利益を出す。それが俺の仕事だと思ってやってきた。ただ一つだけ言っておくと、俺はあまり笑わない男らしい。従業員にも、たぶん客にも、そう思われていた。
かじ家庭は、俺の曽祖父が小さな湯宿として始めた。それを祖父が広げ、父が今の規模にした。三年前、父が体を壊したのをきっかけに、俺が四代目を継いだ。継いでからの俺がやったことはシンプルだった。古い設備を入れ替え、料金体系を見直し、無駄だと思える人を削った。予約はネットに一本化して、口コミの点数を毎日確認した。数字は素直だった。やればやるだけ利益は伸びた。父の代よりずっと効率よく回るようになった。
俺はそれでいいと思っていた。旅館は商売だ。きれいな建物とうまい料理と行き届いたサービスを出せば、客は満足してまた来る。単純な話だと思っていた。だが、いつ頃からか、宿の口コミに同じような言葉が並ぶようになった。
設備は立派、料理も上等、でもなんだか温かみがない。対応は完璧だけど、もう一度来たいとは思わなかった。
最初は全く気にしなかった。温かみで飯が食えるかと本気で思っていたし、数字が伸びていればそれでいいと信じていた。だが、本当のところ、俺自身が一番よく分かっていたのかもしれない。かじ家庭から、何かが抜け落ちてしまっていることを。それが何なのか、俺は考えないようにしていただけだ。
そんな俺にも、一つだけどうしても触れられない場所があった。母のことだ。母の名前は高梨静と言った。俺が八歳の時に病気で亡くなった。もう二十七年も前のことになる。母の顔は正直、もうあまりはっきりとは思い出せない。声も、思い出そうとするとするっと逃げていく。それでも一つだけ、今でも俺の体に残っているものがある。母のみたらし団子の味だ。
母の作るみたらし団子は、宿一番の名物だった。湯上がりの客に、母はいつも自分で団子を焼いて出していた。串に刺した団子を炭火で香ばしく焼いて、自分で作った独特のタレをたっぷりと絡める。甘くて、少しだけしょっぱくて、後を引く。あの味を求めて何度も泊まりに来る客が、年に何人もいたほどだった。俺も子供の頃、毎日のように母の団子を食べた。学校から帰ると、厨房の隅で焼きたてを一本もらう。それが何よりの楽しみだった。母は団子を焼く時だけは、いつもより少し優しい顔になった。
母には口癖があった。団子を焼きながら、よく俺にこう言った。
「港、困っている人を見たらね、何も言わずにお団子を一本出してあげなさい。わけは、それからでいいの。」
子供の俺には意味がよくわからなかった。お腹が空いているならご飯を出せばいいじゃないか。団子なんて一本食べてもお腹は膨れない。そう思っていた。だが母はいつも同じことを言った。何度も何度も。だからその言葉だけは、母の声と一緒に今でも俺の中に残っている。
母が亡くなってから、かじ家庭のメニューからみたらし団子は消えた。母のタレの味を誰も再現できなかったからだ。料理長が何度も挑戦した。父も見よう見まねで作ってみた。だが、母の味にはならなかった。やがて誰も口にしなくなり、いつしか客も、かじ家庭に団子があったことすら忘れていった。
一度だけ、こんなことがあった。俺が継いだばかりの頃、白髪の老夫婦が泊まりに来て、フロントで遠慮がちに尋ねてきた。
「昔、こちらにそれは美しいみたらし団子がありましたよね。湯上がりにあれをいただくのが楽しみで、今日も、いただけますか?」
俺は事務的に答えた。「もうお出ししていません」と。老夫婦は少し寂しそうな顔をして、それきり何も言わなかった。あの団子が、その老夫婦にとってどれだけ大切な思い出だったのか。その時の俺は、考えようともしなかった。
母が残したものはほとんどない。古いレシピ帳が一冊あるだけだ。母が普段使いに書きつけていた料理の覚え書き。俺はそれを机の引き出しにずっとしまっていた。開くことはめったになかった。開けば母を思い出す。それがなんとなく怖かったのだと思う。
あの日も、いつもと同じ朝だった。いや、少しだけ違った。朝から経営コンサルタントの打ち合わせが入っていた。それは叔父が連れてきた男で、叔父は父の弟で、かじ家庭の役員に名前を連ねている。数字にうるさい人だ。コンサルタントは分厚い資料を広げて、淀みなく俺に提案した。
「高梨さん、湯上がりの座敷。あれは廃止すべきです。お茶とお菓子を無料で出している。あの空間は坪の売上がゼロです。客室に作り替えれば、年間でこれだけの増収になります。」
男が資料の数字を指でとんとんと叩いた。叔父も横で深く頷いていた。
「港、こいつの言う通りだ。古い物をいつまでも大事に抱えていても、一銭にもならん。情に流されるな。それが経営者ってもんだ。」
俺は何も言い返せなかった。確かにその通りだったからだ。
それは母が大切にしていた場所だった。湯上がりの客にゆっくりお茶を飲んでもらう。母はそこでよく団子を出していた。母が亡くなってからは団子もなくなり、ただの無料の休憩所になっていた。坪の売上がゼロだというのは嘘ではなかった。それでも、その場所を潰すと言われて、すぐには頷けなかった。
「少し、考えさせてください。」
俺は打ち合わせを途中で切り上げて宿を出た。頭を冷やしたかった。なぜすぐに頷けなかったのか、自分でも分からなかった。気がつくと、普段は通らない古い商店街の方へ歩いていた。シャッターの降りた店がいくつも続く、寂れた通りだった。そしてその通りの一番奥の団子屋の前で、女の子の鳴き声を聞いたのだ。
近づいてみると、女の子はやはり泣いていた。台の前にしゃがみ込んで、並んだ団子を小さな手でそっと守るようにしている。
「捨てちゃやだ。ばーばがいっぱい頑張って作ったのに。」
おばあさんはその背中をさすりながら、困ったように言った。
「ひなちゃん、仕方ないんだよ。お団子はね、明日になったらもう売れないんだから。」
俺は思わず声をかけていた。
「あの、すみません。どうかしたんですか?」
おばあさんは顔を上げて、少し恥ずかしそうにした。
「ああ、お見苦しいところ、すみませんね。いえね、注文が流れてしまったんですよ。三百本の注文が。」
聞けば、こういうことだった。明日、近くの大きなお屋敷でお茶会が開かれる予定だった。それを主催する華道教室を開いている女性から、みたらし団子を三百本用意してほしいと注文が入っていた。半月も前のことだ。この小さな店にとっては、滅多にない大きな注文だった。おばあさんは張り切った。いつもよりいい餅米を多めに仕入れ、足りない分は商店街の米屋に付けで頼んだ。そして孫と二人で、前の晩から徹夜で団子をこねた。三百本、一本一本手で丸めて串に刺して焼いて、タレを絡めた。
ところが今日の昼過ぎになって、その女性から電話が一本かかってきた。
「悪いんだけど、お団子はやっぱりいらなくなったの。知り合いに教わった東京の有名なお菓子屋さんにお願いすることにしたから。見栄えがね、やっぱり違うのよ。お代については、注文書も交わしていないでしょう。お互い様ということで。」
それで終わりだった。三百本のみたらし団子は行き場をなくした。今日のうちに売り切らなければ、明日には捨てるしかない。だが、この寂れた商店街で、夕方から三百本もの団子が売れるはずもなかった。材料費はおばあさんが小さな店の蓄えから出していた。米屋への借金も残っている。それも戻ってこない。
話している間にも、買い物帰りの主婦が一人、店の前を通り過ぎた。おばあさんが「お団子、安くしときますよ」と声をかけたが、その人は団子の山をちらりと見ただけで足を止めなかった。三百本という数が、人をためらわせるのかもしれない。こんなにあっても食べきれない、と。
おばあさんはそれでも誰を責めるでもなく、ただ頭を下げていた。その背中がひどく小さく見えた。女の子は泣きながらも、団子の山を両腕で囲うようにしていた。誰にも捨てさせまいとするように。
「ばーばのおだんごは、捨てるところなんてない。みんなおいちいのに。ひな、いっぱいお手伝いしたのに。」
その言葉を聞いた時、俺の中で何かが動いた。理屈ではなかった。胸の奥の方でずっと固まっていた何かが、ぐらりと揺れた。気がつくと、俺は口を開いていた。
「全部、買います。」
おばあさんがきょとんとした顔で俺を見た。
「え?」
「その団子、全部俺が買います。三百本全部。」
自分でもなぜそう言ったのか、よくわからなかった。ただ、その時、頭の奥でずっと忘れていたはずの母の声が聞こえた気がした。
困っている人を見たら、何も言わずにお団子を一本出してあげなさい。わけは、それからでいいの。
女の子が涙でぐしゃぐしゃの顔のまま俺を見上げた。
「全部?」
「ああ。全部だ。一本も捨てさせない。」
女の子はしばらくぽかんと俺を見ていた。それから、団子を守るように広げていた両腕をそろそろと下ろした。涙が止まり、代わりに小さな声でつぶやいた。
「本当に?」
「本当だ。」
そう答えると、女の子はこくりと頷いて、自分のばーばの前かけの裾をぎゅっと握った。やっと安心したのだろう。その小さな手を見て、俺はなぜか、自分の方が救われたような気がした。
おばあさんはしばらく言葉が出ないようだった。それから何度も何度も頭を下げた。
「え、そんな、そんな悪いですよ。三百本だなんて。お客さん、お団子なんてそんなにどうなさるんです?」
「使い道は何とでもなります。俺は旅館のものなので。」
俺は財布から団子の代金を取り出し、受け取るのを何度もためらうおばあさんの手に、確かに握らせた。しかし、お金を払ってから少しだけ我に返った。三百本の団子を、一体どうするつもりなんだと。だが、不思議と後悔はなかった。女の子のほっとした顔を見たら、その値打ちは十分にあると思った。
俺は宿に電話をかけ、車を一台商店街まで寄越すように頼んだ。三百本の団子はいくつもの箱に詰められて、かじ家庭の厨房へ運ばれた。車を待つ間、女の子が団子を箱に詰めるのを手伝ってくれた。小さな手で団子を一本ずつ丁寧に並べていく。
「お兄ちゃん、これ全部お家で食べるの?」
「あ、いや、一人じゃ食べれないよ。うちは旅館だからね。たくさんのお客さんに食べてもらうんだ。」
「はあ。ばーばのおだんご、美味しいって言ってくれるかな?」
「言ってくれるさ。きっと。」
宿に戻ってから、俺は団子の使い道を必死に考えた。まず、その晩の湯上がりの客に、車座で団子を振る舞うことにした。廃止しろと言われたあの座敷でだ。次に従業員にも配った。それでも残った分は、近くの児童養護施設に夜のうちに届けてもらうことにした。段取りをつけてから、俺は厨房の隅で団子を一本手に取った。正直なところ、味には期待していなかった。寂れた商店街の小さな団子屋の団子だ。一口食べた。
その瞬間、俺は動けなくなった。
舌の上で溶けた。甘くて、少しだけしょっぱくて、後を引く。香ばしく焼けた団子の香り。この味を、俺は知っていた。母の味だった。二十七年間、どこを探しても見つからなかった母のみたらし団子の味が、そこにあった。俺は団子を持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。喉の奥が詰まって、声が出なかった。
そこへ、仲居頭のかよさんが通りかかった。かよさんは母がいた頃からこの宿で働いている古株だ。もう六十を過ぎている。かよさんは俺の手の団子を見て、それから一本自分でも口にした。そして目を丸くした。
「わからんなあ。これは、静枝さんの味です。間違いない。私、忘れたことなんてありません。静枝さんのみたらしの味だ。」
かよさんの目に、みるみる涙が溜まった。
「私がこの宿に入ったばかりの頃、何もわからなくて毎日叱られてばかりで、やめようかと思っていた夜にね、静枝さんが黙って団子を一本出してくださったんですよ。『かよっちゃん、食べな』って。それだけで、私、それで踏みとまれたんです。」
俺は何も言えなかった。ただ、目の奥が熱くなった。
なぜ、あの小さな団子屋の団子が母の味と同じなのか。その時の俺には全く見当もつかなかった。ただ、もう一度あの店に行かなければ、という思いだけが強く残った。
その晩、座敷に団子を並べた。湯上がりの客に、「よかったら」と一本ずつ出した。客の一人に、仕事で疲れた様子の中年の男性がいた。一人旅らしかった。その人は団子を一口食べて、少しの間黙って天井を見ていた。それからぽつりと言った。
「うちのお袋が、こういうのよく作ってくれたんですよ。もう亡くなって、長いんですけどね。」
そう言って、その人は団子の残りをゆっくりと噛みしめるように食べていた。俺はその横顔を見て、母の言葉の意味が初めて、少し分かった気がした。お腹を満たすのと、心を満たすのは別のことなのだ。団子一本で、人の心がこんなにも解ける。
翌日、俺は菓子折りを持って店を訪ねた。改めて礼を言うつもりだった。店は本当に小さかった。畳二畳ほどの土間に、団子焼き台と古いショーケースがあるだけだ。おばあさんは玉井梅さんと言った。店の名前は「みたらし田や」。梅さんは一人でこの店を切り盛りしていた。そしてあの女の子、名前はひなちゃんと言った。梅さんの孫だ。
「この子の両親はね、二年前に事故で、それからは私とこの子の二人暮らしでね。」
梅さんはさらりとそう言った。さらりと言うことで、多分自分を保っているのだと、俺にはなんとなく分かった。
ひなちゃんは最初、俺の後ろに隠れるようにしていた。人見知りなのだろう。だが、俺が持っていった菓子折りより、自分のばーばの団子の方が美味しいと言い張った辺りから、急に口数が増えた。
「お兄ちゃん、昨日全部買ってくれた人?」
「ああ、そうだよ。」
「ばーばのおだんご、美味しかった?」
俺は迷わず頷いた。
「ああ、今まで食べた団子の中で一番美味しかった。」
ひなちゃんはぱっと顔を輝かせた。その笑顔を見て、俺は鼻の奥がつんとした。
「この子はね、私が団子を作るのをいつも横で見ていてね、もう団子を丸めるのが私より上手なくらいなんですよ。」
「お団子屋さんになるの? ばーばと一緒に。」
梅さんがひなちゃんの頭をそっと撫でた。その手は、しわだらけで骨が浮いていた。長い間団子を作り続けてきた手だった。
それから俺は、店の前を通るたびに「田や」に寄るようになった。最初は団子を買うだけだった。やがて梅さんと世間話をするようになった。ひなちゃんと団子の数を一緒に数えるようになった。ひなちゃんは数を数えるのが好きだった。
「いち、に、さん、し…」
たどたどしい数え方で団子を指さしていく。途中で必ず間違えて、最初からやり直す。
「ひなちゃん。それ、さっきからずっと『し』で止まってるぞ。」
「だって、『し』の次、わかんなくなるもん。」
そう言ってけらけらと笑う。それを見ているのが、いつの間にか俺の一日の一番楽しい時間になっていた。
ある日、ひなちゃんが団子の丸め方を俺に教えてくれた。
「お兄ちゃん、こうやって、くるくるってするんだよ。やってみて。」
俺は言われた通り、餅米の生地を手のひらで丸めてみた。だが、いびつな三角形みたいな形にしかならなかった。
「下手だね。全然まんまるじゃない。」
そう言ってけらけらと笑う。梅さんも後ろで肩を揺らして笑っていた。俺がいびつな団子をいくつも作るたびに、ひなちゃんはお腹を抱えて笑った。子供の笑い声が、こんなにも店を明るくするものなのか。
店の奥の小さな棚に、写真が一枚飾ってあった。若い夫婦が赤ん坊を抱いて笑っている写真だった。ひなちゃんの両親だった。ひなちゃんはその写真の前を通るたびに、「行ってきます」と小さな声で言った。誰に言うでもなく。俺はその姿を見るたびに、奥歯をぐっと噛んだ。
ある日、ひなちゃんが店の奥で昼寝をしている間に、梅さんがぽつりと教えてくれた。
「あの子はね、両親が亡くなった後、半年くらい一言も喋らなくなってしまったんですよ。保育園でもずっと隅っこで俯いて。私はどうしてやったらいいか分からなくてね。」
俺は黙って聞いていた。
「それがね、ある日、私が団子を丸めているのをじっと見ていてね。『ひなも、やる』って、初めて自分から言ったんですよ。それから毎日団子を丸めるようになって。手を動かしているうちに、少しずつまた笑うようになってね。あの子にとっては、団子がお薬みたいなものだったのかもしれません。」
だから、ひなちゃんにとって、ばーばの団子はただの団子ではなかった。亡くなった両親と、たった一人の家族であるばーばと自分とをつなぐ、命綱のようなものだったのだ。あの三百本を捨てると言われて、あれほど泣いた理由が、俺には痛いほど分かった気がした。
ある時は、俺が宿で余った煮物をこっそり持っていった。梅さんは最初固辞したが、ひなちゃんが美味しそうに食べるのを見て、受け取ってくれるようになった。またある時は、梅さんが俺のためにわざわざ一番大きな団子を焼いてくれた。
「若旦那は痩せすぎだよ。もっと食べないと。男がそんなにやせていたら、いけないよ。」
そう言って笑う梅さんの顔は、どこか母を思わせた。会ったこともないはずなのに。
田やの先には、すっかり色あせてほつれが出た古いのれんがかかっていた。「みたらし田や」と染め抜かれたそののれんを、ある日俺はこっそり新しく作り直して持っていった。同じ字を、藍色で染めてもらった。梅さんは新しいのれんを見て、最初ぽかんとしていた。それから何度もそれを撫でて、こう言った。
「あんた、こんなことしなくてもいいのに。でも、ありがとうね。これで店も喜んでいるよ。」
店先に、ひなちゃんと二人でのれんをかけた。風にふわりと揺れる新しい色。それを見上げるひなちゃんの誇らしげな顔を、俺は今でも覚えている。冷えていたはずの俺の心に、少しずつぬくもりが戻ってくるのが分かった。母が亡くなってからずっと忘れていた感覚だった。
だが、現実は笑顔ばかりではなかった。通ううちに、田やの台所事情が少しずつ見えてきた。正直に言って、店はいつ潰れてもおかしくない状態だった。商店街そのものが年々寂れていたし、シャッターを下ろした店が両隣にも向かいにも増えていた。団子を買いに来る客は、一日に数えるほどだった。さらに、梅さんはもう七十五歳だった。腰を悪くしていて、長く立っているのが辛そうだった。それでも毎朝暗いうちに起きて餅米をつき、団子を丸めていた。ひなちゃんを育てるために、他に道はなかったのだ。
あの三百本のドタキャンは、ただの不運な出来事ではなかった。店の蓄えのほとんど全部を、梅さんはあの注文に注ぎ込んでいた。あれが入ればしばらく息がつける、冬を越せる。そう思っての勝負だったのだ。それが流れた。田やの暮らしは、いよいよ追い詰められていた。
ある朝、俺がいつものように店によると、梅さんが団子を焼く台のそばで、片手を腰に当てて動けなくなっていた。
「梅さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。ちょっと腰がね、すぐに治るから。」
だが、その顔は脂汗で青ざめていた。俺はすぐに梅さんを病院へ連れて行った。幸い大事には至らなかったが、医者には「無理を続ければ立てなくなります」と言われた。
帰り道、梅さんはぽつりと言った。
「私が倒れたら、ひなはどうなるんだろうね。あの子には、もう私しかいないのに。」
俺はその言葉に、何も返せなかった。ただ、胸が締めつけられた。
俺は自分にできることを考えた。かじ家庭で、田やの団子を名物として出せないか。母の味と同じあの団子を宿で出せば、田やにも利益が回る。客にも喜ばれる。梅さんが無理をして一人で焼かなくても済む。一石二鳥どころか、三鳥も四鳥のはずだった。
俺はその案を宿の幹部会議にかけた。ところが、真っ先に反対したのはあの叔父だった。
「港、お前、また商店街の団子屋なんかに肩入れしているそうだな。やめておけ。あんな寂れた店の団子を、うちのような格式の高い旅館で出せるか。」
第一、衛生面がどうとか。コンサルタントの男も横で冷たく言った。
「失礼ですが、その団子屋さん、もう長くないでしょう。下手に関わると後が面倒です。経営者なら、感情を切り離すべきです。情状酌量の余地はありません。」
「情状酌量」という言葉が、俺の頭に引っかかった。会議の空気は、完全に反対へ傾いた。母の名物だったみたらし団子を、田やの味で復活させる。俺はそう言いたかった。だが、言葉が出てこなかった。確かに数字だけ見れば、彼らの言う通りだったからだ。
会議の後、俺は一人で誰もいない座敷に足を運んだ。夕方の座敷は、さすがに客の姿はなかった。古い座卓と座布団が行儀よく並んでいるだけだ。俺は一番奥の席に腰を下ろした。ここは、子供の頃母が団子を焼いていた場所だった。記憶の一番古いところで、母はいつもこの座敷にいた。焼き上がった団子を客に運び、子供やお年寄りにはしゃがんで目線を合わせて手渡していた。客が団子を口にしてほっと息をつく。その顔を見るのが、母は何より好きだったのだと思う。その母の場所を、俺は坪の売上がゼロだからと潰そうとしている。窓の外はもう暗くなり始めていた。俺は長い間、薄暗い座敷で一人座っていた。
母なら、今の俺を見て何と言うだろう。そう考えると、いても立ってもいられなくなった。
その夜、俺は珍しく、隠居している父を尋ねた。父は温泉町の外れの小さな家で一人で暮らしている。俺はこれまでのことをぽつぽつと話した。三百本の団子のこと、田やのこと。その団子が母の味と全く同じだったこと。会議で反対されたこと。
父は最後まで黙って聞いていた。それからゆっくりと口を開いた。
「港、お前、最近少し顔つきが変わったな。」
「顔つき?」
「ああ。前はいつも何かに追われているような顔をしていた。今は、少し人間らしい顔になった。」
父は湯呑みを手のひらで包みながら続けた。
「静枝がなあ、よく言っていた。『旅館っちゅうのは、布団と飯を売る商売じゃない。人がほっとする場所を売る商売だ』って。あいつの団子は、その『ほっと』そのものだった。湯から上がってあの団子を一本食べると、お客さんが決まってふっと、いい顔になるんだ。数字には出ない、心中ってものがあるんだよ。お前の母さんは、それを知っていた。」
俺は何も言えなかった。
「お前が継いでから、宿は立派になった。それは間違いない。だが、お前の母さんがいた頃の、あの何とも言えない温かさは、なくなった。俺はそれを、ずっと寂しく思っていたんだ。」
父の言葉が胸に刺さった。
「やってみろ、港。最初は後からついてくる。お前がやりたいと思ったんだろう。久しぶりに、自分で何かをやりたいと思ったんだろう。それはお前にとって、宝みたいなもんだ。手放すな。」
父の言葉で、迷いがするっと晴れた気がした。
だが、壁はそれだけではなかった。ある夕方、俺が田やの裏口に回った時、梅さんが電話で誰かと話している声が聞こえた。遠い親戚と話しているようだった。
「ええ…。もう私の腰も、いつまで持つかわからないし。店も畳もうかと思っているんですよ。ひなを、そちらで引き取ってもらえないかと。あの子のこれからを考えると…ねえ。」
俺はその場で足が止まった。梅さんは本気で店を畳み、ひなちゃんを遠くの親戚に預けることを考えていた。自分が倒れる前に、あの子の行き場を作っておこうとしていたのだ。ひなちゃんから、たった一つ残ったばーばと団子とこの店を取り上げる。それが一番いい道だと、梅さんは思い込もうとしていた。俺はしばらく立ち尽くしていた。これは、放っておけない。胸の底から、そう突き上げてくるものがあった。
数日後、田やに行くと、ひなちゃんにいつもの元気がなかった。聞けば、学校で「団子屋の子だ。ドタキャンされた可哀そうな店の子だ」とからかわれたのだという。あの三百本の一件は、狭い町ではもう知れ渡っていた。
「ねえ、お兄ちゃん。ばーばのおだんごは、本当はダメなおだんごなの?」
ひなちゃんは、今にも泣き出しそうになっていた。梅さんがひなちゃんをぎゅっと抱きしめた。その手が、少し震えていた。
俺はひなちゃんの前にしゃがんだ。そして、できるだけまっすぐにその目を見て言った。
「いいか、ひなちゃん。ばーばの団子は、お兄ちゃんが今まで食べた中で一番美味しい団子だ。それは、本当だ。ダメな団子なんかじゃない。だから、捨てられそうになったんじゃない。捨てようとした人が、間違っていたんだ。それだけだ。」
ひなちゃんは俺の目をじっと見ていた。それから、こくりと小さく頷いた。だが、その目にはまだ不安の色が残っていた。子供に言葉だけで分からせるのは難しい。ならば、見せるしかないと俺は思った。俺はその時、はっきりと決めた。この店の団子を、この町で一番誇らしいものにする。ひなちゃんが胸を張って「ばーばのおだんごだよ」と言えるようにする。そう決めた。理屈ではなかった。ただ、このばーばと孫を放っておくことが、どうしてもできなかった。
俺は本気で動き始めた。まず、母のレシピ帳のことを思い出した。母が残した、たった一冊の覚え書きだ。あの中に、みたらし団子のタレの作り方が書いてあったはずだった。それと、田やの味を比べてみたかった。俺は、ずっと開けずにいた引き出しから、母のレシピ帳を取り出した。表紙はすっかり色があせていた。手に取ると、少しかびた紙の匂いがした。表紙の隅に、母の字で書かれた小さな落書きがあった。団子の絵だ。串に刺さった三つの団子を、子供がいたずら書きしたような絵。母はこんな絵をよくメモの隅に描いていた。俺はページをめくっていった。母の字が並んでいた。煮物の味付け、出汁の取り方、漬け物の塩加減。母の声が聞こえてくるようだった。
そして、あった。みたらし団子のタレの作り方が。醤油と砂糖の割合、水飴を少し、火を止めるギリギリの一瞬。そして一番下に、こう書いてあった。
「隠し味に塩、ほんの一つまみ。」
そのページの隅に、母は小さくこう描き添えていた。
「このタレは、私の命を救ってくれた御人に教わった味。」
俺はその一文を何度も読み返した。母の御人。母を救ってくれた人がいた。母は孤児だったと聞いている。その人が一体誰なのか、俺は何も知らなかった。母はそのことを一度も俺には話してくれなかった。
俺はそれを書き写した。次の日、田やの梅さんに見てもらった。俺は梅さんが団子を作るのを何度も横で見ていたが、タレの配合までは知らなかったからだ。梅さんは俺の書き写したメモを手に取って、しばらく黙っていた。それから、不思議そうに言った。
「おや、これ、これはうちのタレと、寸分違わない同じ作り方だよ。この最後に塩を一つまみ、ってところまで。普通の人はね、みたらしのタレに塩なんて入れない。甘くするものだと思っているからね。これは、私がずっと昔に自分で工夫した割合なんだ。どうして若旦那がこれを知ってるんだい?」
俺の心臓が、こくりと音を立てた。普通の人は塩を入れない。それを、母も同じように入れていた。偶然で片付けられる話ではなかった。
「これは、亡くなった俺の母が書き残したものなんです。母はかじ家庭で、このタレでみたらし団子を作っていました。宿の名物でした。」
梅さんはメモから目を離さなかった。
「お母さんは、どこでこの作り方を覚えたんだい?」
「分かりません。俺が八歳の時に亡くなったので、聞く前にいなくなってしまいました。ただ、母の団子は、田やさんの団子と全く同じ味なんです。昨日、田やさんの団子を食べた時、俺は母の味だと思いました。うちの年取った仲居も、同じことを言いました。」
俺は、レシピのあの一文のことも話した。母が書き添えていた言葉。「このタレは、私の命を救ってくれた御人に教わった味」という、あの一文を。
「母は孤児だったと父から聞いています。施設で育ったと。きっと若い頃に、誰かに団子の作り方を教わったんだと思うんです。その人のことを、母は『御人』と呼んでいました。でも、それが誰なのかは、俺は何も知りません。」
梅さんはその話を聞くと、急に口数が少なくなった。何かを確かめるように、もう一度メモに目を落とした。そして、ぽつりと聞いた。
「若旦那のお母さんはね、どこの生まれだか聞いているかい? この町の生まれかい?」
「いえ、父も詳しくは知らないようでした。ただ、かじ家庭に嫁いでくる前は、この町にいたらしいと。それくらいしか。」
梅さんの手が、メモを持ったまま小さく震え始めた。
「同じ味…。」
梅さんはしばらく何かを考えていた。それから、ぽつりと言った。
「私はね、若旦那。昔、まだ十八やそこらの頃に、一人忘れられない女の子がいるんだよ。」
俺は息を飲んで、続きを待った。
「うちは私の母の代からこの場所で団子屋をやっていてね。私が娘の頃、店の前にいつも痩せた女の子が立っていたんだ。着ている物も汚い、寂しそうな子でね。親がいなかったらしい。施設の子だったのか、それともはぐれてしまったのか、それは聞かなかった。ただ、お腹を空かせているのだけは、見れば分かった。」
梅さんの目が遠くを見ていた。店の煤けた天井の辺りを。
「私はね、その子に、毎日黙って団子を一本出していたんだよ。お代は要らない。わけも聞かない。ただ、一本。それを、何年も続けた。母には内緒でね。その子は団子をもらうといつもぺこりとお辞儀をして、大事そうに食べていた。そのうち、団子の作り方まで覚えてしまってね。私のタレの割合を、横でずっと見ていたんだ。」
梅さんはふと目を細めて笑った。何か思い出したようだった。
「一度ね、その子に団子を二本渡したことがあったんだよ。『たまには、たくさんお食べ』って。そうしたらね、その子は一本だけ食べて、もう一本はどこかへ持っていってしまった。後で聞いたら、店の裏で、もっと小さな子に分けてやったんだと。自分だって飢えているだろうに。あの子は、そういう子だった。もらった優しさを、自分より困っている子に渡してやれる子だった。」
俺はその話を聞きながら、母のあの口癖を思い出していた。困っている人に黙って一本、というあの教え。あれは、母が子供の頃からもう身に染み込ませていたものだったのだ。
「その子はね、お腹がいっぱいになると、店の前の地面に、よく絵を描いていたんだ。木の枝で。決まって、団子の絵。串に刺さった三つの団子。下手っぴな絵でね。でも、その子はそれを描く時、いつも笑っていた。」
俺は全身が粟立つ思いがした。串に刺さった三つの団子。それは、母のレシピ帳の表紙にあった、あの絵と同じだった。
「あの子と出会ったのは、もう五十七年も前のことになる。何年も通ってくれてね。それがある日、ばったりと来なくなった。どこか遠くへお嫁に行ったらしいと、人づてに聞いてね。それきり、会っていない。私はずっと、あの子は元気にしているかね、ばあさんになった顔をいつか見られるかね、と思っていたんだよ。」
俺は口の中がカラカラに乾いていた。聞かなければならない。けれど、その答えが怖かった。俺は震える声で梅さんに尋ねた。
「梅さん。その女の子の名前は、覚えていますか?」
梅さんは目を閉じて、ゆっくりと言った。
「忘れるものかね。しずえちゃんっていう名前だったよ。静かな『し』に、入り江の『え』と書いて、静。」
時間が止まった気がした。俺は母のレシピ帳を両手で握りしめた。表紙の色あせた団子の落書き。母の字。
「静は…俺の母の名前です。」
店の中が静かになった。外を走る車の音が、やけに遠くに聞こえた。梅さんがゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
「なんだって…。」
「高梨静。それが、俺の母の名前です。母は孤児でした。施設で育ったと、父から聞いたことがあります。母は若い頃、この町にいたんです。そして、かじ家庭の息子だった父と出会って、嫁ぎました。」
梅さんの口元が震えた。手からメモが、ひらりと床に落ちた。
「しずえちゃんが…。あの痩せっぽちのしずえちゃんが。お嫁に…あの立派な旅館に…。」
俺は頷くことしかできなかった。梅さんはふらりと立ち上がり、俺のすぐ前まで来た。そして、しわだらけの手を伸ばして、俺の頬にそっと触れた。涙の浮かんだ目で、俺の顔を舐めるように見た。
「ああ、言われてみれば。この目…しずえちゃんにそっくりだ。あの子も、こういう寂しそうな目をしていた。間違いない。あんたは、あの子の息子さんだ。」
俺は、その手の温かさに込み上げてくるものがあった。会ったこともない母の恩を、この人は五十七年経った今でも覚えている。それほど、母のことを思い続けてくれていたのだ。
そうだったのだ。全てが繋がった。五十七年前、飢えていた孤児の少女に、まだ若かった梅さんは黙って団子を一本出し続けた。少女はその団子で命をつないだ。そして、梅さんのタレの作り方を横で覚えた。その少女が、俺の母、静だった。母は後にかじ家庭に嫁いで、そのタレでみたらし団子を作った。宿の名物にした。そして、息子の俺に団子を焼きながら、こう教えた。困っている人を見たら、何も言わずにお団子を一本出してあげなさい、と。
あれは、母が自分で考えた言葉ではなかった。五十七年前、梅さんから団子と一緒に受け取った教えを、母はそっくりそのまま俺に渡してくれていたのだ。だから、あの日、俺は迷わず「全部買う」と言えた。元をたどれば、梅さんのたった一本の団子が、俺の口を動かしていた。そして、ふと思い当たった。あの日買い取った三百本。その一部は、あの夜のうちに近くの児童養護施設へ届けられていた。親のいない子供たちのお腹を満たしていたのだ。母も、かつてはそういう子供だった。梅さんの優しさは、五十七年かけて巡ってきただけではない。あの日、その日のうちに、もう別の誰かを救っていた。
俺はそのことを、梅さんに一つずつ話した。母がかじ家庭の名物を作っていたこと。あの口癖を俺に何度も聞かせてくれたこと。そして、母がもうこの世にはいないこと。母が二十七年前に病気で亡くなったことを伝えると、梅さんはしばらく声を出さなかった。それから、しわだらけの手で顔を覆って、肩を震わせた。
「そうかい。しずえちゃんは。もう、いないのかい。私は…ずっと。生きていれば、いつかひょっこり、団子を買いに戻ってきてくれるんじゃないかと。母さんになったあの子に、もう一度団子を食べさせてやれるんじゃないかと思って。」
俺は、掛ける言葉が見つからなかった。ただ、梅さんの小さな背中をそっと撫でた。あの日、梅さんがひなちゃんの背中をさすっていたように。
梅さんはしばらくして立ち上がった。腰をかがめながら、店の奥へ消えた。戻ってきた梅さんの手には、古い小さな紙が一枚あった。何度も折りたたまれた跡のある、すっかり黄ばんだ紙だった。
「これを、ずっとしまってあったんだよ。私の宝物でね。」
それをゆっくりと広いて、俺に見せた。クレヨンで書かれた幼い絵だった。串に刺さった三つの団子。その横に、にっこり笑ったふっくらした女の人。下に、たどたどしい字でこう書いてあった。
「梅おばちゃん、大好き。静。」
俺はその絵を見た瞬間、息ができなくなった。串に刺さった三つの団子。その書き方が、母のレシピ帳の表紙にあったあの落書きと、そっくりだった。同じ手が、同じ筆使いで団子を描いた絵だった。五十七年の時を超えて。
「あの子がある日、お礼に行ってくれたんだよ。『おばちゃん、いつもありがとう』って。たった一枚の宝物さ。私はね、しずえちゃんがいなくなってからも、これを見るたびに、あの子はどこかでちゃんと笑っているかね、と思っていたんだ。」
俺は、母のレシピ帳の表紙を梅さんに見せた。色あせた団子の落書き。二つの絵が並んだ。子供の静が書いた絵と、大人になった静が書いた絵。同じ団子が、二つ並んだ。梅さんの目から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「会いたかったよ。しずえちゃん。立派になったね。あんなに痩せていたのに。こんな立派な息子さんまで。」
梅さんは絵を胸に抱きしめた。五十七年間、たった一人でこの絵を見ながら、あの子は元気だろうかと思い続けてきた。その人が、今、目の前で泣いている。俺も、こらえきれなかった。母の顔はもうはっきりとは思い出せない。それなのに、梅さんの話の中の、痩せていてどこか寂しそうな、けれど優しい女の子の姿が、なぜか鮮やかに浮かんできた。それが、俺の母だった。俺の知らない、子供の頃の母だった。
二人で、小さな店の中で、いつまでも泣いた。ひとしきり泣いてから、梅さんはぽつりと言った。
「わかんな。私がね、あの子に団子をあげていたのには、わけがあるんだよ。私も、本当の親を知らないんだ。小さな頃、空腹で、この店の前にしゃがみ込んでいてね。そうしたら、当時の店の女将さん、私が『母ちゃん』と呼ぶようになった人が、黙って団子を一本、握らせてくれたんだ。わけも聞かずに。私は、その一本で生きてこられた。だから、店の前で痩せた子を見ると、どうにも放っておけなくてね。」
俺は言葉を失った。善意の出所だと思っていた梅さんさえ、誰かから受け取った側だった。この一本の団子は、梅さんよりももっと昔から、誰かの手から誰かの手へ渡され続けてきたのだ。始まりも、終わりもないまま。
そこへ、学校から帰ってきたひなちゃんが、戸を開けた。泣いている俺とばーばを見て、ひなちゃんはびっくりした顔で立ち止まった。
「ばーば、お兄ちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
梅さんは涙を拭いて、ひなちゃんを手招きした。そして、あの黄ばんだ絵を、ひなちゃんにも見せた。
「いいな。これはね、ばーばの一番古いお友達が書いてくれた絵なんだよ。とっても優しい子でね。そのお友達のことを思い出して、ばーば、ちょっと泣いちゃったんだ。」
ひなちゃんは絵をじっと見て、それからにっこり笑った。
「おだんごの絵だ。ひなも、同じの書けるよ。」
その一言で、俺と梅さんは泣きながら笑ってしまった。
それから、俺の動きは早かった。もう迷わなかった。叔父にもコンサルタントにも、はっきりと言った。
「田やのみたらし団子を、かじ家庭の名物として復活させます。これは采算の話ではない。かじ家庭が、何を一番大切にする旅館なのかという話だ。」
俺は、母と梅さんの話も、二人に隠さず話した。叔父はまだ渋い顔をしていた。だが、最後にはふんと鼻を鳴らして、こう言った。
「勝手にしろ。だが、赤字を出したら、承知せんぞ。」
それは、叔父なりの不器用な許しだったのだと、俺は思っている。そして、俺にはもう一つ、どうしてもやらなければならないことがあった。あのお茶会のやり直しだ。
俺は、かじ家庭の大広間でお茶会を開くことにした。流れてしまった三百本の団子のお茶会を、本物のお茶会としてやり直すのだ。捨てられるはずだった団子を、一番晴れがましい場所で味わってもらう。宿泊客にも、近所の人にも、商店街のシャッターを下ろした店の主人たちにも、声をかけた。主役は田やのみたらし団子。そして、主役は梅さんとひなちゃんだった。
お茶会までの数日間、厨房は活気づいた。梅さんが毎日宿に来て、若い料理人たちに団子の丸め方とタレの作り方を、手取り足取り教えた。最後の塩の一つまみ。火を止めるギリギリの一瞬。料理人たちは真剣な顔で、梅さんの手元を見つめていた。何度も失敗した。だが、ある日、料理長が焼いた団子を梅さんが一つ味見して、こう言った。
「うん。これでいい。しずえちゃんの味だ。」
厨房に、小さな拍手が起きた。母の味が、母の知らない若い料理人たちの手に、確かに受け継がれた瞬間だった。ひなちゃんはその様子を一番前で見ていた。自分のばーばが、立派な旅館の料理人たちに先生として頼られている。その姿が、よほど誇らしかったのだろう。ひなちゃんはずっと胸を張っていた。もう、「ダメなおだんご」とは言わなかった。俺は商店街のシャッターを下ろした店の主人たちにも、一件ずつ頭を下げて声をかけて回った。「是非来てください」と。みんな最初は驚いた顔をしたが、やがて一人、また一人と、当日に来ることを約束してくれた。
当日、かじ家庭の大広間は、人でいっぱいになった。湯気の立つお茶。炭火で香ばしく焼かれた田やの団子。その匂いが広間中に満ちていた。梅さんは一番いい席に座って、ひなちゃんと並んでいた。ひなちゃんはよそ行きの服を着て、少し緊張した顔をしていた。商店街の人たちも、たくさん来てくれた。長い間シャッターを下ろしていた店の主人たちが、久しぶりによそ行きの格好をして顔を揃えていた。豆腐屋の主人が団子を頬張りながら、隣の干物屋の主人にしみじみと言うのが聞こえた。
「梅さんの団子を、こうしてみんなで食べるのは、何年ぶりだろうなあ。昔は、この商店街も賑やかだったよなあ。」
かつてこの商店街が人で溢れていた頃、その真ん中にはいつも田やの団子があったのだろう。梅さんが何十年もたった一人で守り続けてきた灯が、今日、こうしてまた人を集めていた。
俺はみんなの前でマイクを握った。手のひらが汗で湿っていた。そして、話した。
五十七年前、一人の孤児の少女が、この町の小さな団子屋の前に毎日立っていたこと。その店の若い娘さんが、その子に毎日黙って一本の団子を出し続けたこと。少女はその団子で命をつないだこと。そして、その少女がやがてこのかじ家庭に嫁ぎ、その団子を宿の名物にしたこと。その少女が、俺の母だったこと。さらに、その団子屋が他でもない田やであり、団子をくれた娘さんが、ここにいる梅さんだったこと。
広間が静まり返った。すすり泣く声が、あちこちから聞こえた。
「皆さんが今日召し上がっているこの団子は、ただの団子ではありません。五十七年前の、たった一本の優しさから、巡り巡ってここまで届いた団子です。その優しさが、一人の女の子の命を救い、その子の息子である、こんなひねくれた俺の冷えた心まで、溶かしてくれました。そして今日、こうして皆さんの口に届いています。」
俺は梅さんの方を向いた。声が震えそうになるのをこらえて続けた。
「梅さん。母に団子をくれて、ありがとうございました。あなたが五十七年前、何も言わずに差し出してくれた、あの一本がなければ、母は生きていなかった。母がいなければ、俺もいなかった。このかじ家庭の団子もなかった。今日ここにいる皆さんの笑顔も、なかったんです。全部、あなたの一本から始まりました。本当に、ありがとうございました。」
俺は深々と頭を下げた。広間にいた人たちも、いつの間にか梅さんに向かって、一人、また一人と頭を下げていた。梅さんはずっと俯いて泣いていた。隣の席で隠居した父が、何度も目元を拭っていた。仲居頭のかよさんも、ハンカチを握りしめていた。
その時だった。広間の入り口に、見覚えのある女性が立っているのに、俺は気づいた。桐生さん。あの三百本をドタキャンした、華道教室の主催だった。噂を聞いて来てしまったのだという。彼女は青ざめた顔で、人々の後ろに立っていた。やがて、ゆっくりと人をかき分けて、梅さんの前まで歩いてきた。そして、深々と頭を下げた。
「玉井さん。あの時は、本当に申し訳ありませんでした。私は、生徒に恥をかかせられたくない一心で、見栄えのいいものばかりを追いかけて。あなたのお団子にどれほどの思いがこもっているか、何も分かっていませんでした。お茶を教える身でありながら、一番大切なものを、私は見失っていたんです。」
梅さんは顔を上げて、ゆっくりと首を振った。
「いいんですよ。あなたがこうして来てくださった。私は、嬉しい。さあ、せっかくですから、一本食べていってください。うちの団子を。」
桐生さんは震える手で団子を受け取り、一口食べた。そして、その場で声を上げて泣き出した。
「美味しい。こんなに美味しいお団子、私は…。」
その時、ひなちゃんがぴょこんと立ち上がった。そして、日の間もなく響くような元気な声で言った。
「ばーばのおだんご、捨てなくて、よかった!」
広間が、どっと温かい笑いと拍手に包まれた。俺はこらえきれずに、目元を拭った。その時、人々の中に、見覚えのある白髪の老夫婦がいるのに、俺は気づいた。何年も前、フロントで「みたらし団子はもう出していないのか」と寂しそうに尋ねてきた、あの夫婦だった。俺が「もうお出ししていません」とだけ答えて、追い返してしまった、あの二人だ。俺はまっすぐにその夫婦のところへ行き、団子を一本ずつ手渡した。そして、頭を下げた。
「あの時は、申し訳ありませんでした。やっと、お出しできます。」
おじいさんは団子を一口食べて、目をうるませた。
「ああ、この味だ。この味をもう一度食べたかったんですよ。家内とね、ずっと話していたんです。あの宿の団子は、どうなったんだろうって。」
俺は、自分がいかに多くの「ほっと」を素気なく断ってきたかを、思い知った。胸の奥が痛んだ。けれど、その痛みは、不思議と温かかった。
二十七年ぶりに、かじ家庭に母のみたらし団子が帰ってきた。母が梅さんからもらった、あの一本の団子が、巡り巡ってこんなにもたくさんの人の笑顔になって、帰ってきた。
お茶会の日から、かじ家庭と田やは正式に手を組むことになった。かじ家庭の座敷は、廃止されなかった。それどころか、田やのみたらし団子を出す、宿一番の名物コーナーに生まれ変わった。湯上がりの客が必ず立ち寄る場所になった。あの「坪の売上がゼロだ」と言われた場所は、今では宿で一番人の集まる場所になった。梅さんには、無理のない範囲で宿の厨房に来てもらうことにした。若い料理人たちに、タレの作り方を教えてもらうためだ。腰の悪い梅さんが、ずっと一人で店で団子を焼き続けるのは、もう限界だったからだ。これで、田やの味は絶えることなく受け継がれていく。梅さんの暮らしも、ひなちゃんの暮らしも、もう心配はいらなくなった。梅さんは、遠くの親戚へのあの電話を断ったのだと、後で教えてくれた。
「ひなを手放さずに済みそうだよ。若旦那のおかげでね。あの子から、私と団子まで取り上げたら、あの子にはもう何も残らないところだった。私は、危ないところで間違えるところだったよ。」
俺はその言葉を聞いて、あの夕方、裏口で立ち尽くしたことを思い出した。間に合って、本当に良かった。
あの桐生さんも、口先だけでは終わらなかった。あれから自分の着付けの教室では、必ず田やに注文するようになった。それだけではない。「田やのお団子は、この町で一番の味です」と、生徒や知り合いに言って回ってくれた。いつの間にか、あの三百本の噂は、すっかりいい話に塗り変わっていた。それに伴い、ひなが学校でからかわれることも、なくなった。あの叔父も、お茶会の日から少しだけ変わった。ある日、こっそり座敷で団子を食べているのを、俺は見かけた。叔父は罰が悪そうに、こう言った。
「まあ、悪くないな。これは。もう、客が増えているのも事実だ。お前の好きにしろ。」
そう言って、もう一本、団子を口に放り込んだ。それが、叔父の降参の印だった。
かじ家庭の口コミに、少しずつ新しい言葉が並び始めた。
「湯上がりに食べた団子が、忘れられません。」「なんだか、涙が出ました。」「あの団子に、こんな物語があったなんて。」「また絶対に来ようと思いました。」
俺があれほど追いかけても手に入らなかった「温かみ」が、たった一本の団子から、宿に戻ってきていた。数字を追うのをやめたわけではない。だが、数字のその先にあるものを、俺はようやく思い出していた。
ある日、田やの店先で、ひなちゃんが俺の袖をちょこんと引っ張った。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「どうした?」
「お兄ちゃんのママのおだんごと、ばーばのおだんご、同じ味なんでしょう?」
「ああ、そうだよ。同じ味だ。」
ひなちゃんは少し考えてから、にっこり笑って言った。
「じゃあ、お兄ちゃんも、ひなの家族だね。」
俺はしゃがんで、ひなちゃんと目線を合わせた。胸がいっぱいで、すぐには声が出なかった。
「ああ、そうだな。家族だ。」
ひなちゃんはぱあっと顔を輝かせて、俺に抱きついてきた。小さくて、温かい体だった。その頭の上から、梅さんが目を細めて、俺たちを見ていた。
「しずえちゃんが見ていたら、どんなに喜ぶかね。」
俺は空を見上げた。母はもういない。顔も声も思い出せない。それでも、母が残してくれたものは、こうして確かにここにある。ずっと心のどこかが冷えたままだった俺に、温かいものがいっぱいに満ちていくのを感じた。母が残してくれたものは、団子の味だけではなかった。母は、こうして巡り巡って、俺に新しい家族を残してくれたのだ。
それから三年が過ぎた。かじ家庭の座敷では、今日も田やのみたらし団子が焼かれている。その香ばしい匂いが、いつも湯上がりの廊下に漂っている。あの、甘くて少ししょっぱくて後を引く味。母の味であり、梅さんの味であり、今ではかじ家庭の味になった。湯から上がった客が団子を一本口にして、ふっと、いい顔になる。父が言っていた、あの「ほっと」が、宿に帰ってきた。
梅さんは七十八歳になった。今も時々、宿の厨房に顔を出す。さすがにもう自分では焼かない。だが、若い料理人が焼いた団子を一つ味見して、「うん。これでいい」と頷くのが、梅さんの一番大切な仕事になった。あの腰の痛みも、ひなちゃんの暮らしの心配がなくなってからは、随分楽になったようだ。
ひなちゃんは十歳になった。学校が休みの日には、宿の厨房に来て、団子を丸めるのを手伝っている。もう、団子の数を間違えずに最後まで数えられる。丸める手付きも、一人前のものだ。この前は、新しく入った若い料理人に、「こうやって、くるくるってするんだよ」と得意げに教えていた。それは、ひなちゃんが俺に教えてくれたのと同じ言葉だった。かつて静が、梅さんの団子の味を横で見て受け継いだように。優しさも、団子の丸め方も、こうして誰かから誰かへ渡っていく。あのたどたどしい数え方はもう聞けなくなったけれど、その分、しっかりした優しい子に育った。
この前、ひなちゃんは学校の作文に、こう書いたそうだ。
「私の宝物は、ばーばのおだんごと、それを捨てないでくれたお兄ちゃんです。」
それを梅さんから聞いた時、俺は厨房の隅で、一人こっそり目元を拭った。厨房の一番見やすい棚には、母のあの古いレシピ帳が置いてある。表紙の団子の落書きは、相変わらず下手で、温かい。料理人たちは、タレの味に迷った時に、必ずそれを開く。母の優しさは、今もこの厨房で生きている。
俺はといえば、毎晩、湯上がりの時間になると、自分で座敷に立つようになった。客に、焼きたての団子を一本ずつ手渡す。「よかったら、どうぞ」と。あの、あまり笑わなかった俺が、だ。団子を受け取った客が、ふっと肩の力を抜いて笑う。その顔を見るのが、今の俺の一番の楽しみになった。数字を追っていた頃には、決して味わえなかった。満たされた時間だ。
最近、梅さんがよくこんなことを言う。
「あんた、しずえちゃんに顔つきが似てきたよ。」
会ったことのない、子供の頃の母に似てきたと言われる度に、俺はくすぐったいような、温かいような気持ちになる。あの日、商店街で泣いていた女の子に手を差し伸べたつもりだった。だが、本当に救われたのは、多分、俺の方だった。
先日、店の前を通りかかると、ひなが台のそばにしゃがんでいた。見ると、すり切れた服の小さな男の子が、団子の並んだ台をじっと見上げている。ひなは、何も言わずに、団子を一本、その子の手にそっと握らせた。わけも聞かずに。俺は声をかけずに、その場を静かに離れた。
たった一本の団子は、今日も誰かの手から誰かの手へ、渡っていく。多分、これからもずっと。



