駅のホームで、知らない老人に服の裾を掴まれた。「あんたは騙されている。何もかも嘘だ」——その言葉が頭から離れないまま、私は気づいてしまった。実家に呼び戻されたのは、妹の相談ではなく、私の留守中に家を売るためだったのだと。夫と義母と義妹が仕組んだ罠。気づいた瞬間、全身の血が冷たくなるのを感じた。急いで家に戻らなければ。スマホを握りしめ、私は走り出した。けれど、本当の恐怖はここから始まる。私が仕…

駅のホームで、知らない老人に服の裾を掴まれた。「あんたは騙されている。何もかも嘘だ」——その言葉が頭から離れないまま、私は気づいてしまった。実家に呼び戻されたのは、妹の相談ではなく、私の留守中に家を売るためだったのだと。夫と義母と義妹が仕組んだ罠。気づいた瞬間、全身の血が冷たくなるのを感じた。急いで家に戻らなければ。スマホを握りしめ、私は走り出した。けれど、本当の恐怖はここから始まる。私が仕...

「何かご用ですか?私、急いでいるんですけど。」

スーツ姿の老人が私の服の裾を掴んでいた。真剣な目で私を見つめている。

「私は高木という者だ。言ってくれ。信じてくれ。」

なぜか、その言葉を信じたくなった。

「どういうことですか?」

「あんたは騙されている。何もかも嘘だ。こうなった理由を思い出してくれ。そうすれば自然と答えが出るはずだ。」

服を引っ張っていた手を離し、老人は続けた。

「もう時間がない。私は行くが、すぐに行動するんだ。いいね。」

よくわからなかったが、私は頷いていた。こうなった、とは私が実家に戻ることだろうか。それなら妹のリナから連絡があったからだ。

いや、違う。彼は私が騙されていると言った。私がここに来る経緯の中で、騙すことができたのは一人だけ。

深く考えて、ようやく気づいた。今の状況が全て仕組まれたものだとすれば、私の留守中に何かが起きるはずだ。すぐに家に帰らないと。

私は駆け出していった。

私は内藤さおり、三十歳。夫の高典が経営するソフトウェア開発会社で働いている。仕事に不満はないけれど、彼には言いたいことがあった。

まずは生活態度だ。高典は取引先との付き合いがあると言って、毎晩飲み歩いている。体に悪いと注意しても聞いてくれない。

次に自分勝手なところ。家を建てた時もそうだったが、彼は何でも一人で決めていった。

「会社の経営方針くらいは、みんなと相談しない?」

「俺のやり方に文句があるなら、会社をやめればいいだけだ。」

その姿勢が彼の足を救うかもしれない。私は不安でいっぱいだった。ただ、何でも一人で決められるのは決断力があるとも言い換えられる。彼の決断力には私も何度も助けられた。

高典が今の会社を起業したのは四年前のこと。それまで私たちは同じIT関連会社で働いていた。IT業界では珍しく融通の利く会社だ。給料も良かったし、納期も厳しくない。しかし仕事をする以上、大変な時は必ず訪れる。岐路があり、選択を迫られたことが何度もあった。

そういう時に生きたのが高典の決断力だ。同僚たちはみんな彼を頼りにしていたけれど、私の中では仕事以外のことが思い出深い。

高典が私のために決断してくれたのは、結婚だった。

今でも胸が苦しくなってしまう。それくらい、私の中では大きな出来事だ。

結婚をしたのは交際二年目の終わり頃。仕事が落ち着いたら結婚しようと話していた。そんな時、不意に妹のリナから電話がかかってくる。

「お姉ちゃん、大変。お父さんが…」

「リナ、どうしたの?」

「お父ちゃんが病気で…」

彼女は少し混乱しているようだった。仕方がないので落ち着くのを待つ。何度も話しかけ、ようやく冷静になったリナは私にこう言った。

「お父さん、ずっと隠してたみたい。ガンだって。」

「本当に?」

「うん。」

父は職場で倒れたそうだ。実家を離れている私に連絡しても、すぐに駆けつけるのは難しい。それで実家で暮らしていたリナに連絡が行った。彼女が医師から聞いた話では、父はあまり長くないとのこと。

「どうしよう…」

「『どうしよう』って言われても、答えに困ってしまうわ。とにかく落ち着くのよ、リナ。私も休みを取ってそっちに帰るから、その時に相談しましょう。」

電話はそれで終わり。今後の対応で困った私は、高典に相談した。

「そういうわけで、父が病気みたいなの。もしかしたら仕事をやめて実家に戻ることになるかも。」

「そっか。でもそれなら仕方ないよな。」

素っ気ない感じの受け答えをする高典。将来の大事な話をしているのに、自覚がないのだろうか。

「あのね、私は真剣に話してるのよ。大事な話をしているって分かってるのかしら?」

父の件で動揺していたのか、そっけない言い方をしてしまう。しかし高典は全く気にせずに答えた。

「分かってるよ。だから俺も考えたんだ。」

「何を?」

「結婚しないか?」

唐突な申し出に言葉を失う。

「あ、え、なんで急に?」

間抜けな顔で聞き返した。笑われると思ったが、高典は真剣な顔で話を続ける。

「お父さんの病状が厳しいんだろ。だったら今のうちに結婚式をして、お父さんにウェディングドレス姿を見せた方がいいと思うんだ。」

「いいの?冗談かと思った。」

「当然だろ。ずっと結婚するつもりだったんだから。それが少し早くなっても、何も問題ないよ。」

「ありがとう、高典。」

「いいって。じゃあ、早速次の休みにさおりの実家へ挨拶に行こう。いや、病院の方がいいのかな?」

高典がつぶやきながらスマホに視線を落とす。私のみならず、父のことまで考えてくれたのが本当に嬉しかった。

その後、父が元気なうちに私たちは結婚式を挙げる。急な話だったため、互いの家族だけの小さな式にしたけれど、互いの家族全員に祝福され、私は大満足だった。笑顔の父を見られたのも本当に良かった。

父が亡くなったのは結婚式の半年後だ。後悔がないと言えば嘘になる。だが、できる限りのことはやれたと思った。

「さおり、ありがとう。色々と。」

「何を言ってるんだよ。俺にとっても父親なんだから。」

本当に頼もしい。彼と結婚してよかったと心の底からそう思った。

ただ、父の葬儀の後、小さな違和感を覚える出来事が起きる。家の中で片付けをしていた時だった。ふと、リナが私にこう聞いてくる。

「ねえ、お姉ちゃんに相談なんだけど、家、どうする?」

「リナが住めばいいじゃない。」

「母は私が幼い時に亡くなっているでしょ。だから家と土地は父の名義だったの。私がもらって一人で住むのは気が引けるのよ。不平等というか、私だけが得をしたみたいになるし。」

「分かるけど、売ってしまうのはもったいないわ。それに引っ越したら家賃を払わないといけないのよ。リナが実家に住み続けるのなら、名義変更と固定資産税の支払いだけでいいけれど、売却すれば面倒な手続きや税金の支払いが必要になる。引っ越し先も探さないといけないし、生活費に家賃まで加わってしまう。いくら一人暮らしでも、生活費と家賃を賄うのは大変よ。」

「うーん。」

難しい顔をするリナ。そこで後片付けを手伝ってくれていた高典が割り込んだ。

「じゃあ、名義を二人にすればいいんじゃないか。」

「どういうこと?」

「家の名義をさおりとリナちゃんの二人にすれば、固定資産税の支払いは二人に責任が生じるだろ。共有名義の不動産の固定資産税は連帯納付義務がある。例えば共有者の誰かが支払わなかった場合、他の人に滞納した税金が請求されるという仕組みだ。さおりが固定資産税を全額払う代わりに、リナちゃんは家を管理する。こうやって分担すれば、悪くないだろ。」

実際、私とリナを共有名義にすれば、一方だけが得をすることにはならない。こちらが固定資産税を払えば、家の管理を任せきりにするという心理的な負担も減るだろう。

「いいアイデアね。リナ、そうしましょう。」

「結局、私は住むだけよね。税金だって別に安くないでしょ。」

リナの表情は暗い。

「でも、不動産を慌てて売却すると損をしやすいよ。時期を見て売るためにも、今は名義変更で共有にしておいた方が…」

なぜか懸命にリナを説得する高典。私はその姿に違和感を覚えた。父の遺産の法定相続人は私とリナだけだ。互いに合意すればどのような配分も可能になる。家も土地も単独名義にしてリナに渡すこともできたけれど、今の高典はそれを妨害しているように見えてならない。

何の得があってそんなことをするのか。答えは一つだ。私に入る遺産を少しでも増やしたいのだろう。ただ、遺産は共有財産ではない。仮に離婚することになっても、全て私の手元に残る。高典に渡るお金は一円もない。だからこそ、私は彼の行動に違和感を覚えたのだ。

「やっぱり、私にはよくわからないわ。」

「それなら、ここは俺の言う通りにしておいた方がいいと思うよ。別にすぐに家を売る必要はないわけだし。」

「それもそうね。」

リナが納得する。高典は笑顔だった。

「じゃあ、ここで休憩。頭を使ったから、コーヒーでも入れてくるわ。」

席を立つリナ。

「お姉ちゃん、手伝ってくれる?」

「ごめん、ちょっと高典に聞きたいことがあって。」

そっと隣の高典を見る。リナは不思議そうに聞いてきた。

「何?家のこと?」

「ええ、名義変更の手続きとか色々と大変でしょ。高典が詳しいみたいだから、聞いておきたくて。」

「わかった。じゃあ、そっちはお願いね。」

リナが部屋を出ていく。彼女を見送った後、私は高典に尋ねた。

「どうして名義を共有にしようと提案したの?リナの単独名義でも何も問題はないでしょ。」

「いや、でもさ、固定資産税の支払いがあるし。」

「支援という形で渡してもいいと思うけど、税金の支払いは基本的には本人が行う。ただしお金の出所がどこかは問われない。リナにお金を渡し、それが固定資産税の支払いに使われてもいいはずだ。」

「それはそうだけど、理由もなしにお金を渡すと…」

「贈与税になるとでも言いたいの?こんな古い家の固定資産税って、そんなに高くないと思うわよ。実家を建てたのは祖父で、築三十五年ほど。私が生まれる前に建てられているだけあって、資産価値はかなり低い。詳しい金額は知らないけれど、父からは固定資産税は五万円弱と聞いている。そのくらいの額なら贈与税がかかることもない。」

「本当は何が気になったの?」

「まあ、その…本当は、余計な詮索をされるのが嫌だっただけだよ。なんで義理の妹に金を渡すのかって。」

曖昧な言い方をされては、はっきりと聞いてみた。

「周りに浮気を疑われるってこと?」

「あ、まあ…」

本当にそれだけだったかどうかは分からない。ただ、その後はうやむやにされてしまった。何を聞いてものらりくらりと適当なことばかり言われる。仕方がないので、私も諦めたのだった。

何にしても、父のために結婚を早めてくれたことには感謝している。それに高典はまだ私を裏切っていない。遺産の件も、単にリナに渡してしまうのが惜しいと思っただけだろう。

「お父さんのことがあったからって、嫌な言い方をしちゃったなあ。」

後日、一人で家事をしながら後悔した。高典はまだ仕事中だ。家事をするために、私は早めに帰宅していた。

高典が帰ってきたら謝ろう。つぶやいた私は、洗濯物を畳みつつ夕食の用意を始めた。

誰かが尋ねてきたのは、ちょうど食事ができた頃のことだ。インターホンに出ると、義母がこちらを見ていた。

「急に訪ねてきたけど、大丈夫よね。」

にやりと笑う義母。思わず苦笑してしまった。

「どうされたんですか?お母さん。」

「友達とデパートに行ったのよ。デパ地下でお総菜を買ったから、お分けしようと思って。」

義母はわざとデパートの紙袋が見えるように持ち上げる。こうなると、うちに入れないわけにはいかない。

「今、オートロックを解除しますから。」

「助かるわ。」

インターホンを切った後、深いため息をついた。前日が日曜日だったため、一日かけて掃除をしたから室内は綺麗だ。お総菜を持っているので、夕食に文句を言われることもないだろう。

ああ、でも心理的な負担が大きいわ。もう一度ため息をつく。そこで玄関のチャイムが鳴った。

「はい、どうぞ。」

できる限りの笑顔で出迎える。扉を開くと同時に、義母が得意げにデパートの紙袋を見せてきた。

「これ、高かったのよ。感謝して食べなさい。」

「すみません。お気遣いいただいて。」

頭を下げながら紙袋を受け取る。

「ほんのついでだから。でもね、家事の手抜きは許さないわよ。外で仕事をする夫を支えるのが妻の役目ですからね。」

少し古臭い気もするが、言いたいことは理解できた。実際、私も高典を支えたいという気持ちは強い。

「とりあえず、中へどうぞ。」

「あら、ありがとう。じゃあ、お邪魔するわね。」

ズカズカと上がり込む義母。靴を脱ぎっぱなしにされ、ため息がこぼれる。しぶしぶ、私は靴を揃えておいた。移動するうちに、キッチンの方から義母の声がする。

「何よ、これ?微妙な味ねえ。」

「お母さん!」

慌ててキッチンへ向かった。しかし時すでに遅し。義母は私が用意した夕食をつまんでいた。

「もうちょっと味見してるわよ。」

「お母さん、勝手に食べないでください。」

「少しくらいは構わないでしょ。何のためにお総菜を買ってきたと思ってるの?」

渡されたデパートの紙袋を指差される。そっと中を覗くと、肉が見えた。中身はローストビーフだ。

「この安っぽい鶏肉とは比べ物にならない高級品だから。」

私が作った夕食の唐揚げをつまむ義母。鼻を鳴らしてから、ひょいと口に放り込んだ。

「やっぱりだめね。しっかりとした修行がまだ足りないわよ。」

「す、すみません。未熟で…」

悔しいけれど、言い返さない。ここで私が反論すれば、喧嘩になるだけだからだ。良好な嫁姑関係を築くためには、まずは義母に逆らわないようにしたい。

「まあいいわ。結婚して一年も経っていないし、こんなものよね。せいぜい、これからも料理の腕を磨きなさい。」

「はい。わかりました。」

「じゃあ、リビングで待ってるから、お酒を用意して。そのローストビーフも忘れないように。いいわね。」

どうやら今日もここで飲んでいくつもりのようだ。義母がうちに押しかけてくるのは、もう何度目だろうか。その度に彼女はうちで飲んでいく。大声で騒ぎ、翌日近隣の人に文句を言われるところまでがお決まりのパターンだ。

「何よ、息子の家に遊びに来たら悪いの?」

「いえ、そうではなく…できれば静かにしてもらいたいと遠回しに言ってみるけれど、義母は不愉快そうに顔をしかめた。」

「私がうるさいってこと?嫁のくせに生意気ね、あなた。」

「あ、いえ、近所迷惑になるといけないので…」

「分かったわよ。それじゃ、さっさとお酒を用意して。」

鼻を鳴らした義母は、ドカッとソファーに腰を掛ける。勝手にテレビをつけ、独り言を言い始めた。

「何よ、それ。バカじゃないの?」

声を出して大笑い。いつも通りの義母だ。この後は私が出したお酒を飲み、大声で騒ぐだろう。

ああ、今日もか。キッチンで唸った。私は冷蔵庫からビールを出す。義母が買ってきたローストビーフを皿に移していると、高典が帰宅した。

「ただいま。」

「ああ、高典。お帰り。」

私よりも先に、義母が声をかける。

「え、母さん来てたの?」

「ええ、デパ地下でローストビーフを買ったから、あんたと一緒に飲もうと思って。」

「マジで?やった。」

子供のような喜び方をする高典。こうなると、私が何を言っても無駄だ。二人で大騒ぎする未来しか見えない。

「頼むから声のトーンを落としてよ、高典。」

ビールとローストビーフをテーブルに並べながら、高典に釘を刺す。

「分かってるよ。」

「この間もそんなことを言っていたけど…」

「うるさいな。大丈夫だって言っただろ。」

高典はこちらの言葉を遮った。仕方がないと、私は口をつむぐ。

「うまそうだな。お前もこっちで飲まないか?」

「あ、うん。向こうを片付けてからね。」

そう言ってリビングを離れた。キッチンに戻ると、大声で話す高典と義母の声が聞こえてくる。

明日またご近所さんに謝らないと。気が重い。何かいい方法はないかと、私は片付けを始めた。用意していた夕食は全て冷蔵庫に入れる。明日以降の私の昼食にすればいい。

そんなことを考えていると、ふと高典が私を呼ぶ声がした。

「おい、さおり、ちょっと来いよ。」

「え、何?」

恐る恐るリビングに入る。すると高典が自分の隣を指差した。

「ちょっと座れよ。話がある。」

「何の話?大事なこと?」

酔っ払いの話だ。大したことではないだろう。そう高をくくっていたが、実際はかなり大事なことだった。

私が隣に座った途端、高典はスマホを取り出す。簡単に操作して、画面に二世帯住宅の写真を表示した。

「どう?」

「二世帯住宅よね。これが何?」

何気なく首をかしげる。彼は口元を緩めていった。

「これ、俺たちの新しい家だよ。写真は合成だ。」

「ふーん。新しい家…」

高典の方を向くと、彼は得意げに笑っていた。

「どういうことよ?新しい家って、答えて。」

とっさに問い詰める。彼は平然と答えた。

「聞いたままだよ。二世帯住宅を建てようと思ってるんだ。いいと思わないか?」

「いいも悪いも、なんで相談してくれないのよ。」

「別に相談する必要はないだろう。俺が建てるんだから。」

「そういうことではない。家を建てるのが高典だとしても、私たちは夫婦だから相談くらいはするべきだ。費用も工数が必要になるから、家計にも大きな影響が出るだろう。家計を預かる身としては、相談もなしに行動されると困ってしまう。」

「何だ?何か問題があるのか?」

「問題だらけよ。決断力があるのはいいことだけれど、ここまで勝手に行動されるのは困る。」

「あなたは嫁なんだから、夫の言う通りにしていればいいのよ。」

義母に一括され、二の句が告げなくなる。

「それより、本当にいいの?高典。」

「当然だろ。実家のマンションも古いし、いい機会だと思ってるよ。」

あはは、と二人で笑っていった。何が面白いのか、私には全くわからない。

「高典、ちょっといい?」

「何だよ。」

「向こうで二人だけで話したいんだけど。」

キッチンの方を指差す。何かを察したのか、高典は拒否した。

「ここで話せよ。」

「母さんに聞かれたら、まずいのか?」

まずいに決まっている。勝手に家を建てようとしていることを問い詰めるつもりだからだ。場合によっては声も大きくなるだろう。下手をすれば罵声を浴びせてしまうかもしれない。

「どうした?答えられないのか?」

「もういい。諦めた。」

何を言っても無駄だと思ったからだ。

「あ、そう。じゃ、ビールの追加を頼むよ。早くしなさいよ。」

義母にも煽られる。むっとしたが、ここは我慢した。キッチンへ行き、冷蔵庫から缶ビールを出す。リビングへ戻ると、こちらを見ながら高典と義母が楽しそうに話していた。

「じゃあ、リビング以外は別々なのね。」

「ああ、いくら家族でもプライバシーは必要だろ。互いが気持ちよく生活できる家じゃないと。」

もっともらしいことを言っている。せめて相談されていれば、素直に喜べたのにと思った。

私はそっとリビングを離れる。一人でキッチンにこもり、寂しく食事をした。それからどれくらい経っただろうか。不意に高典がキッチンへ来た。

「さおり、いるんだろ?」

「何?」

「母さんが寝ちまったんだよ。どうしたらいい?」

本当に腹立しい。それくらい自分で考えてもらいたいものだ。私はため息をつきながら立ち上がった。

「お父さんに連絡して、迎えに来てもらいましょう。」

「父さんに連絡?それは迷惑だろ。」

「うちに泊めるのは許さないわ。」

私は視線をそらす。顔を背けたままスマホを取り出した。

「あ、おい、さおり。」

「あなたが連絡しないなら、私が電話をするわ。」

言うが早いか、私は義父に電話をかける。数コールで義父は電話に出た。

「お父さんですか?さおりです。」

「ああ、さおりさんか。どうした?」

「今、うちにお母さんが来ておりまして…」

澄ました顔で続ける。義母がうちに押しかけてきたと話した。さらに、酔って寝込んでいることを教える。

「ああ、そうか。すまないな。迷惑をかけて。」

「いえ、大丈夫ですよ。」

「姿が見えないと思っていたが、すぐに迎えに行くよ。」

義父が電話を切った。私もスマホを置いた途端、高典が口を尖らせる。

「なんで勝手に電話をするんだよ。」

「それはこっちのセリフよ。どうして勝手に家を建てるって決めたの?」

「母が寝ている。今がチャンスだと思った。」

「先に答えてくれる?」

「結婚したら家を建てようって、前に話したことがあっただろ。」

確かに交際中に話をしたことがあるけれど、それは随分と前の話だ。結婚してからは一度も話題にしていない。

「先に相談してくれたら、私は反対しなかったわよ。それが二世帯住宅だったとしても。」

「あ、うん。ごめん。とにかく、今度から大事なことを決める時は相談して。」

念を押すと、高典は不承不承頷いていた。

それから一時間ほどが経ち、義父が義母を迎えに来る。高典が義父の車まで義母を連れていく間、私は義父に聞いてみた。

「お父さん、家を建てる話、聞きました?」

「いえ、この間、高典が言っていたような…」

どうやら義父にもきちんと話をしていないらしい。つまり、高典と義母が勝手に進めていたということか。

「私も先ほど聞いたばかりですが、二世帯だそうですよ。」

「二世帯住宅。さおりさんはいいのかい?うちは娘もいるし、友達を連れてきて騒ぐかもしれないぞ。」

義父の言う娘とは、高典の妹の美希のことだ。リナと同じくらいの年齢だが、随分と彼女の方が幼く感じる。わがままで、思ったことをストレートに言う子だという印象だった。

「でも、もう決まったことのようですから。」

遠回しに、相談もなしに決められたと告げる。義父はすぐに気づいてくれた。

「ああ、そういうことか。私の方で、高典に注意しておくよ。」

「お願いします。」

義母と違って、かなり常識的な人だ。ほっとする。

「じゃあ、迷惑をかけたね。」

「いえ、今度はお父さんも一緒に来てください。」

「そうするよ。」

ゆっくりと頭を下げてから、義父は帰っていった。

結局、義父が高典を叱ってくれたかどうかは分からないまま。しばらくして、彼から今後はきちんと相談すると正式に謝られた。義父が釘を刺してくれたと信じておこう。

それはさておき、二世帯住宅の件は変更なし。高典がすでにハウスメーカーと話を進めていたことも大きかった。仕方がないので、しぶしぶ家を建てることを認める。ただ、一つだけ条件を出した。

「私もお金を出すから、私の名義も入れてくれる?」

「なんで?別に俺と父さんの名義でも…」

「だめ。私の名義が入っていないと、私が不利益を被る可能性があるわ。」

高典は首をかしげた。だが、私の言い分が分かる人も多いだろう。二世帯住宅であれば、私たち夫婦以外に義両親も同じ家に住む。義両親と高典、それに美希の四人が結束すると、私がどうなるのか。考えるまでもない話だった。

簡単に言えば、私一人が責められる可能性がある。義母が「住ませてやっている」と主張するかもしれない。そうなると、私には反論する術がなくなってしまう。しかし、私の名義も入っていれば、話は随分と変わる。住む権利があり、正当性を主張できるわけだ。

「ただの一軒家なら、あなたの名義でも良かったわ。でも、二世帯住宅なら話は別。私の名義も入れて、共有にして。」

「ち、分かったよ。持ち分は三分の一でいいよな。」

「当然よ。」

こうして私は新築の二世帯住宅の持ち分を確保した。少なくとも、不当に追い出されることはない。私はほっとしていた。

しばらくして、家の建築が始まる。仕事と並行して、私は引っ越しの準備も始めた。そして約一年後、二世帯住宅が完成したのだった。

先に引っ越したのは義父たちだ。住んでいたマンションが古かったこともあるが、とにかくすぐに引っ越したいと義母が強く主張していた。

私たちが引っ越したのは、義父たちの約一週間後だ。わざわざ仕事を休み、一日がかりで引っ越し作業をした。部屋で荷ほどきをしていると、義父が様子を見に来る。

「何か手伝おうか?」

「あ、お父さん、大丈夫です。すぐに終わりますから。」

「そうか。じゃあ、私は夕食の用意をしておくよ。」

そう言い残した義父は部屋を出ていった。私は首をかしげながら高典に聞く。

「ねえ、お父さんって料理ができるの?」

「ああ、うまいぞ。離婚した後に苦労したみたいだから。」

「そうなんだ。」

納得しかけて、私はハッとした。慌てて詳細を尋ねる。

「離婚ってどういうこと?」

「父さんと母さんは再婚同士なんだよ。離婚したのは俺が大学生の時。って話してなかったっけ?」

「初耳よ。」

顔をしかめていった。話を整理すると、義父と義母は互いに再婚だそうだ。あと、高典と美希も連れ子同士。美希は義父の子で、高典は義母の子だという。

「じゃあ、お父さんは料理ができるのね。」

「まあ、母さんよりもうまいんじゃないか。」

あはは、と高典が笑う。笑い事ではないと思うが、面倒なので聞き流した。

やがて片付けを終えた後、リビングへ行く。中に入るといい匂いが立ち込めていた。

「おお、二人とも座って。ちょうど今完成したところだ。」

テーブルの上には見事な和食が並んでいる。どれも美味しそうで、料理屋に入ったかのようだ。

「すごいですね。」

「大したことはないよ。さ、食べようじゃないか。」

食事は本当に美味しかった。けれど、この先義父に料理をさせるわけにはいかない。内藤家の嫁として、私が食卓を預かるべきだからだ。

夕食の後、そのことを義父に話す。

「お父さん、明日からは私が食事の用意をしますので。」

「さおりさんは働いてるじゃないか。うちの妻は専業主婦だから、あいつに任せればいい。」

義父はソファーで寝転がっている義母の方を向く。視線に気づいた義母は、こちらを睨みつけた。

「何よ?家事は嫁の仕事でしょ?」

「何を言ってるんだ?さおりさんは外で働いているんだぞ。お前は何もしていないじゃないか。」

厳しい口調で義父が言う。顔をしかめた義母は、不愉快そうに反論した。

「外で働いてるのは彼女の勝手じゃない。嫁の仕事とは関係ないわ。」

「だがな…」

「うるさいわね。とにかく、嫁の仕事はきちんとしてもらいますからね。」

義父に口を出させない勢いで、義母が言い放つ。呆れた彼は、ため息をつくしかなかった。

「はあ。すまないね、さおりさん。」

「いえ、大丈夫ですよ。仕事の方は、高典に調整してもらいますから。」

こういう時の夫が会社の社長というのが心強い。職業柄、リモートワークも可能だ。話せば彼も分かってくれるだろう。

その夜、早速高典に相談した。

「高典、仕事のことなんだけど、リモートワークにしてくれない?」

「は?なんで?」

「家事をしたいからよ。お母さんも一人だと大変でしょ。今までよりも人数が増えるんだから。」

私の言葉に、高典はすぐに納得する。

「そういうことか。分かった。今後はリモートワークでいいぞ。」

「迷惑をかけるわね。」

「いいって。うちは自由な社風だからな。」

こうして私は仕事をリモートワークに変更した。翌日、今まで一緒に出勤していた高典を玄関先で見送る。

「お弁当作ったから、お昼に食べてね。」

「なんか変な気分だな。」

「ほら、早く行かないと遅れるわよ。」

追い出すような勢いで送り出した。その後は家事に専念する。朝食の後片付けをして、掃除、洗濯と順番に終わらせた。

「さて、九時になるし、そろそろ仕事を始めようかしら。」

部屋に戻って仕事を始める。リモートワーク初日だったけれど、特に問題もなく終了した。

初めはうまくいっていたが、徐々に歯車が狂い始める。仕事の時間中にも関わらず、義母は平気で用事を言いつけてきた。リモート会議を邪魔されたこともある。とにかく義母はリモートワークに理解がなかった。

「家にいるだけでしょ。何が違うのよ。」

「ですから、何度も説明しますけど…」

同じことの繰り返し。ついには、こちらが諦めるしかなくなっていった。それでも私が仕事を続けられたのは、高典の存在が大きい。彼が「仕方ない」と色々なことを多めに見てくれたからだ。私は本当に彼に感謝していた。

そして一年ほどが経った時のことだ。とある休日に、私は買い物へ行こうとした。生活費が入った口座の通帳とカードを手にする。

「お母さん、お買い物へ行きますね。」

「はいはい。すぐに帰ってきて、掃除するのよ。」

「はい、わかりました。」

余計な一言が腹立たしい。だが笑顔で答えて、家を出た。

まずはコンビニへ行き、お金を下ろす。そのつもりだったが、なぜか引き出せなかった。

「え、残高が…」

思った以上に口座のお金が減っている。このカードからお金を引き出すのは、私と義母だけ。すぐに家に引き返した。

家に戻り、義母を問い詰める。

「お母さん、ちょっといいですか?」

「あら、早かったわね。」

「そうじゃなくて、口座のお金が少ないんですけど。」

銀行のカードを見せると、義母はすぐに白状した。美容品に使ったらしい。ただ、悪びれる様子もない。

「おい、無駄遣いをするなと何度も言っただろ。」

そばで話を聞いていた義父が注意してくれる。

「別に無駄遣いじゃないわ。」

「遊びに使ったんだろ。今後は生活費じゃなく、私が渡しているお前の小遣いを使いなさい。」

「分かったわよ。」

不服そうな義母。義父がしきりに頭を下げるので、私は許すことにした。

こんなことが続くようだと、二世帯住宅で暮らしていくのは難しい。私はそう思い始めていた。

そんなある日のことだ。リナが私に相談があると電話をかけてきたけれど、詳細は会って話したいという。不思議に思いながらも、高典に話してみた。

「リナが会いたいって言ってるんだけど、どうしよう。」

「会いに行けばいいじゃないか。」

「あ、そうだ。いい機会だから、社員全員で長期休暇を取ろう。」

「え?」

「確かに今は半期じゃない。今後のためにも、まとまった休暇を取るのは今がチャンスだ。これならお前も罪悪感がなく休めるだろ。」

「そうね。ありがとう。」

高典なりの気遣いだったのだろう。ありがたく休みをもらい、私は実家へ戻ることにした。

数日後、一足先に休暇に入った私は駅へ向かう。他の社員の休みは明日からだ。迷惑をかけるなと思いながら、電車を待った。

実家の最寄り駅までは、電車を乗り継いで数時間かかる。どうやって時間を潰そうかと考えてしまう。やがてホームに電車が入ってきた。乗り込もうとした時、ふと誰かに服を引っ張られる。

「え、誰?」

とっさに振り返ると、スーツ姿の老人が目に入った。私の服の裾をしっかりと持っている。

「何かご用ですか?私、急いでるんですけど。」

「私は高木という者だ。言ってくれ。信じてくれ。」

真剣な表情で語る高木という老人。なぜか、彼の言葉を信じたくなった。

「どういうことですか?」

「あんたは騙されている。何もかも嘘だ。こうなった理由を思い出してくれ。そうすれば自然と答えが出るはずだ。」

服を引っ張っていた手を離した老人が続ける。

「もう時間がない。私は行くが、すぐに行動するんだ。いいね。」

よくわからなかったが、私は頷いていた。こうなった、とは私が実家に戻ることだろうか。それなら妹のリナから連絡があったからだ。

いや、違う。彼は私が騙されていると言った。私がここにいる経緯の中で、騙すことができたのは一人だけ。

深く考えて、ようやく気づいた。今の状況が全て仕組まれたものだとすれば、私の留守中に何かが起きるはずだ。すぐに家に帰らないと。

私は駆け出していった。背後で電車の扉が閉まる音がする。私は気にも止めずスマホを取り出した。駅を出たところで、まずはリナに電話をする。

「リナ、ちょっといい?」

「あ、お姉ちゃん。こっちに着くのは何時頃?」

「違うの。そうじゃないわ。相談があるって私に言ったわよね。」

早口で問いただす。リナは答えることをためらっているのか、返事がない。

「大丈夫よ、リナ。もしかしたら、あなたも騙されているだけかもしれないから。」

高木の言葉が真実なら、彼女も騙されている可能性がある。私は直感的にそう思った。

「私が騙されているって、誰に?」

「あなたが私に相談したいことを話してくれれば、分かるわ。」

確信をつく。そもそも、私が実家に戻ることになったのは、リナが相談したいと連絡してきたからだった。よく考えると、これは不自然だ。電話でも問題ない。それなのに、彼女は会いたいと言った。

では、どうして会いたかったのか。答えは一つしかない。会わないといけない理由があったからだ。

「直接私と会わないといけないと思ったのは、なぜ?それくらいは話してくれるわよね。」

「それは…同意してもらう必要があったからよ。」

「同意?」

聞き返してみたものの、この時点で私は察しがついていた。やがてリナが堰を切ったように話し始める。

「だから、家を売るためにはお姉ちゃんの同意が必要だったの。書類もいるし、来てくれないと何もできないじゃない。」

「やっぱりそうなのね。」

話が繋がった。私に相談したかったのは、家の売却だ。

「だって、仕方ないでしょ。私が聞いた話だと…」

リナがある人から聞いた、私の金銭事情を明かす。もちろん、出鱈目だった。そういう意味では、私と同じように彼女も騙されていたのだろう。

話を聞き終えたところで、私は静かに言った。

「リナ、それ全部嘘よ。」

「嘘?」

「あなたも騙されたのね。どうやら姉妹で騙されていたようだ。」

「な、なんだよ。嘘なのか。もう話を聞いた時はびっくりして…」

リナのため息が聞こえる。同時に、私は怒りが込み上げてきた。

「安心しているところ悪いけど、協力してくれる?」

「え?何に?」

「あなたを騙した犯人を追い詰めたいのよ。」

力強く言った。しばし無言になるリナ。やがて帰ってきたのは、私の期待通りの答えだった。

「もちろんよ。お姉ちゃんのためなら、何でもするわ。」

「ありがとう。じゃあ、まずは…」

リナにやってもらいたいことを指示する。全て言い終えたところで、私は時計を見た。時刻は午前十時を少し過ぎたところだ。

「じゃあ、リナ。頼んだわよ。」

「オッケー。任せて。」

リナの返事を確認して、電話を切った。続けて、私は友人の村井に連絡する。彼女は高典の会社で働いている同僚だ。

「由香、ちょっとお願いがあるんだけど。」

「うん。さおり、実家に戻って…」

「そうだけど、今は時間がないの。お願い、聞いてくれる?」

由香の言葉を遮った。私の反応で、彼女も事態が切迫していると気づいたようだ。

「いいわよ。何でも言って。」

「明日から一週間、全社員が休みでしょ。だから…」

由香にあることを頼んだ。最初は理由が分からなかったようだったので、丁寧に理由を説明する。すると、彼女はすぐに理解してくれた。

「なるほど。そういうことね。」

「いいかしら。」

「いいわよ。一週間後が楽しみだわ。」

ふふっと不敵な笑みをこぼす由香。まるで悪だくみをしている気分だった。

その後は家に戻らず、駅前のビジネスホテルへ向かう。会社が休みの間、私は実家で過ごすことになっていた。だから、このまま家に帰るわけにはいかない。不本意だが、一週間はビジネスホテルに宿泊することにした。

そして六日が経った時のことだ。ホテルのバイキングで朝食を食べていると、電話がかかってきた。

「あら、お母さんだわ。」

相手を確認したが、電話には出ない。そのまま放置する。しばらくすると、再び着信があった。

「今度は高典か。そろそろ向こうも気づいたようね。これは明日が楽しみだわ。」

笑いながら、スマホをテーブルの上に置く。当然、電話に出るつもりはなかった。その後も着信が続き、夕方までに三十件を超えてしまう。翌日、家に戻る頃には百件近い数に膨れ上がっていた。まさに必死という言葉がぴったりだ。ただ、私は一度も電話に出ないままだった。

家に着いた途端、高典が飛び出してくる。

「さおり、無事だったか?」

「どうしたの?顔色が悪いわよ。」

平然と聞いてみた。高典はむっとした様子で強い口調で答える。

「当たり前だろ。自分の妻と連絡がつかなかったんだぞ。何かあったんじゃないかって不安になるじゃないか。」

「確かにそうね。でも、家族で必死に連絡するようなことでもあったの?」

わざとらしい言い方をしてみた。どんな反応をするのか、少し興味があったからだ。

「あ、いや…お前が心配だったから。」

「家族全員で心配してくれたの?」

「もちろん。」

彼は断言した。しかし、そうなると少し問題が生じる。

「でも、お父さんは電話をしてこなかったけど、どうして?」

「え?」

みんなが心配していたはずなのに、どうしてお父さんからは電話がなかったのかしら。答えは聞くまでもない。義父は単に、私が実家に戻っているだけだと思っていたからだ。もちろん、そこで私が何をするのかも知らない。義父以外の三人は、私が何のために帰省したのか分かっていたから、電話をかけてきていたのだ。

「父さんは、仕事があったからだよ。」

「そっか。私の勘違いみたいね。お父さん以外の三人が、お金が振り込まれないことに焦っていただけかと思ったわ。」

確信をついた。次の瞬間、高典の顔色が変わる。

「どうしたの?何か違った?」

「な、何のことだよ。お金とか何とか…」

妙に視線が泳いでいる。やはり図星のようだ。そこへ美希がやってきた。

「心配していたんですよ、お姉さん。」

事情を知っている。今、媚びるような声に虫が走る。我慢できずに、つい言い返してしまった。

「心配だったのは、私?それとも振り込まれないお金?どっち?」

「え?」

美希は言葉を失う。私はにこりとして、彼女の横を通り過ぎた。

「ここで話していても時間の無駄みたいね。リビングで話しましょうか。」

今日は休日だ。仕事が休みなら、義父はリビングにいるはず。

「おお、さおり、待てよ。」

「どうして?お父さんもいるでしょ。帰ってきたら、まずは挨拶をしないといけないと思うわ。」

言いながらスタスタとリビングへ向かう。高典が追いかけてきて、私の肩に手をかけようとした。しかし、うまくかわして、その手を振り払う。彼を睨みつけた後、先制攻撃するように告げた。

「リビングで話すって言ったでしょ。余計なことしないで。」

私の声の大きさに驚いたのか、義父がリビングから顔を覗かせる。

「何を騒いでいるんだ?何かあったのか?」

「いえ、何も。お父さん、今戻りました。」

ゆっくりと頭を下げた。

「ああ、お帰り。妹さんの相談事は解決したかね?」

「はい。すみませんが。」

そう言ってから、背後の高典と美希を見る。二人に向かって不敵に微笑んでから、私はリビングへ入った。

中にいたのは義父と義母。義父は平然としていたが、義母は顔色が悪い。わざと義母の方を向いた私は、静かに言った。

「すみません、お母さん。私がいなくて、大変でしたよね。」

「あ、いえ、そうでもないわよ。」

「そうですか。では、そのまま座ってください。お話したいことがありますから。」

義母の額に汗が滲む。おそらく、彼女は話の内容を察したのだろう。

「さおり、俺の話を聞けよ。」

ちょうど高典がリビングへ入ってきた。私は彼を振り返る。

「いいわよ。私も話があるし。ここに座って。ほら、美希も。」

高典の背後にいた美希を指差す。彼女は小刻みに震えながら、義父の向かい側に座った。私が座るとすぐに、高典が口を開こうとする。

「あのな、さおり。まずは俺の話を聞いてくれよ。」

「いやよ。私が先に話をするわ。」

重苦しい空気になってしまう。それに気づいた義父が、私たちの仲裁に入った。

「どうしたんだ?二人とも、何かあったのか?」

「いや、別に何でも…」

高典はごまかそうとするけれど、私は真っ向から否定した。

「ありました。とんでもないことが。」

バンと思いきりテーブルを叩く。高典がひるんだところで、私は鞄の中から書類を取り出した。リナが私に送信してくれたメールを印刷したものだ。

「これ、見てもらえますか?」

「何だこれは?」

「高典が妹のリナへ送ったメールのコピーです。ここのところを、よく見てください。」

お父さん。文章の真ん中辺りを指先で示す。そこにはこう書かれていた。

「ここには、さおりが会社の金を使い込んでいると書かれています。お父さん、確認できますか?」

「ああ、確かに。これは事実なのか。」

義父の視線が高典を捉える。彼はそっぽを向いた。

「答えなさい、高典。」

「父さんには関係ないことだよ。」

「関係ない?そんなわけないだろう。」

義父が声を荒げる。続け様に、私も強く言った。

「とぼけないで。いつ私が会社のお金を使い込んだのよ。今はリモートワークをしている私が。」

「全くだ。会社に行かず、どうやって会社の金を使い込めるんだ?」

「ありえないと思うけど、聞かせてもらいたいわ。どうやったって言うのかしら?」

高典を問い詰める。彼は答えに困っていた。しきりに視線を泳がせ、震える唇に触れている。

「なんとか言いなさいよ、高典。」

「あ、いや、リモートワークと言っても、会社に顔を出すこともあるじゃないか。」

「そうね。月に一度くらいだけど、それもほんの一時間ほど。実際、私が出社しているのは月一回。給料日だけ会社に行くと決めている。別に強制されているわけではない。大抵のことはリモート会議で足りるからだ。だが、円滑に仕事を進めるためにはコミュニケーションが欠かせない。そのために会社に顔を出していた。ほんの一時間だけ出社し、同僚と話をする。ちょっとしたことだが、これでかなり変わる。私はリモートワークを初めてから学んだ。」

「たった一時間で会社のお金を使い込めるなら、すごく手際がいいわ。ある意味では、とても仕事ができる人だと思うけど。」

「じ、違う。そのメールは別の人に送るはずで…」

「じゃあ、誰に送るつもりだったの?答えて。ついでに、嘘をついた理由も教えてくれると助かるわ。」

テーブルの上のコピーを、高典の前へ滑らせる。彼は何も言えずに俯いた。

「答えられないのは、嘘だからよね。」

「ごめん。違うんだ。ネットでバズろうと思って、アイデアを書いたものを間違って送ったんだよ。信じてくれ。」

「バイト先のノリで人気を取ろうとして、SNSに投稿する子供みたいなこと、言ってるんじゃないわよ。」

ピシャリと言ってやる。高典は再び沈黙した。

「冗談では許されないことはあるわ。そう思いませんか?お母さん。」

わざと無関係を装っている義母に話を振る。彼女はびくっとした後、こちらを向いて苦笑した。

「そ、そうね。これは良くないと思うわよ、高典。」

「全くだ。ちゃんと謝りなさい、高典。」

二人に責められて、たじたじとする高典。そんな彼に、私は追い打ちをかけた。

「とにかく、ちゃんと謝って。嘘をついてリナに家を売らせた後、その売却益をお母さんと美希の三人で分けようとしていたって。」

「え?」

高典がぎょっとする。

「あら、違った?お母さん。」

「な、何のことかしら。」

とぼけた義母は視線をそらした。仕方がないので、美希の方を向く。

「美希は真実を話してくれるかしら?」

「え、私…分かんない。」

まるで子供だ。呆れた私は、呆然とする義父に告げた。

「お父さん、このメールのコピーをもう一度見てください。」

「どこだ?」

「ここです。」

私はコピーの中ほどを指差す。

「ここに、『家を売ってお金を返せば、さおりの横領の件はごまかせる』と書いてあります。あと、ここにも書いています。『家を売ったお金はすぐに振り込んでくれ。俺の口座だとバレるから、母の口座に』と。」

その部分を指先でなぞる。最後の方には、義母と美希の口座番号が書かれていた。

「会社のお金の使い込みは横領よね。そのお金を弁償させるというのは、横領の解決策ではよくあるわ。だから、これは…」

「だから、これは冗談で…」

「じゃあ、どうしてお母さんと美希まで、あなたの冗談に巻き込むようなことを書いているの?」

全てを察したのが、この一連の流れだ。仮に私が本当に会社のお金を使い込んでいれば、私に弁償させるという方法にも納得できた。リナも信じてしまったのも頷ける。

ただ、解決を図るところまではいいが、その先に疑問が生じる。普通なら、会社の口座に振り込ませるはずだ。会社の口座に振り込ませてバレることを恐れるなら、社長の口座を指定すると思われる。それなのに、どうして社長の家族の口座が指定されるのか。

義父たちの前でそこまで話した私は、高典に尋ねた。

「あなたとお母さんと美希の三人がグルだったからよね。リナに嘘の話をして、お金を巻き上げようとした。」

「そ、それは…」

額から汗が流れ出ている。もう答えは出ているようなものだった。

「お母さんは、何か言いたいことがありますか?」

「わ、私は関係ないわよ。何も知らないわ。」

確かに、義母は関係ないと言えば責任逃れができる。

「美希は?」

「美希、分かんない。何のこと?」

首をかしげる仕草をする美希。この子なら、と私は思った。

「後で事実だって分かったら、あなたも罪に問われるわよ。」

「そうね。今回の場合だと、詐欺ってところかしら。」

「詐欺…」

わずかに美希の顔色が変わる。ごまかしていたが、やはり察しているようだ。

「だから、素直に答えた方がいいわよ。私はちゃんと証拠があって追求しているんだから。」

「あ、美希は関係ないわ。お兄ちゃんにお金が欲しいって言っただけ。これを考えたのはお兄ちゃんだもん。」

見事に自白してくれた。鼻で笑いながら、高典の方を向く。

「美希が自白よ。あなたはどうする?」

「余計なこと言いやがって。」

美希を睨みつけた彼は、冷や汗をかいている。

「ほら、どうなの?嘘だったと認めなさいよ。三人がグルだったとも。」

「う、それは…」

本当にしぶとい。仕方がないので、私は切り札を使った。

「詐欺で訴えてもいいのよ。リナからお金を騙し取ろうとしたんだから。」

「悪かった。」

小さい声が聞こえる。

「何?聞こえないわ。」

「悪かったよ。全部俺が仕組んだことだ。母さんと美希のために。」

「自白したわね。録音させてもらったから。」

胸ポケットに入れていたボールペンを取り出す。ペン型のボイスレコーダーだ。

「お前、何を勝手なことをしてやがるんだ。」

「それはこっちのセリフよ。私の妹を騙そうとしておいて、偉そうに言わないでくれる?」

真っ向から反論した。悔しそうに唇を噛む高典。

「言っておくが、やめなさい、高典。」

義父が、反撃を試みた彼を止める。

「もういいだろう。どう聞いても、お前が悪いじゃないか。」

「でも…」

「でも、じゃない。少し黙っていなさい。」

怒鳴り声をあげた義父が、私の方を向いた。ゆっくりと頭を下げる。

「迷惑をかけたね、さおりさん。」

「いえ。」

「君の言い分を聞きたい。どうやって決着をつけるつもりだね。」

義父が先を促してくれた。呼吸を整えてから、考えていたことを打ち明ける。

「一つ目は、離婚です。こんなことをされて、これ以上彼と暮らすことはできません。」

「分かった。」

「あとは…高典には慰謝料、お母さんと美希には損害賠償を請求します。断るなら裁判になりますが、どうですか?」

義母と美希に視線を移した。二人は俯いたまま、こちらを見ようともしない。

「分かった。私が責任を持って対応させる。」

「分かりました。では、お願いします。」

高典たちの同意は取れなかったが、義父が言うのだから信じよう。私は鞄の中に手を入れた。

「じゃあ、これ、サインしてね。」

にこやかになって、緑色の紙を高典に渡す。言うまでもないが、私のサイン済みの離婚届けだった。

目の前に置かれた離婚届けに、言葉を失う高典。彼はそれと私を交互に見た後、唇を震わせながら言った。

「り、離婚って…冗談だよな。」

「は?冗談なわけがないでしょ。もし私とリナが訴えれば、今回の一件は詐欺なのよ。当然じゃない。」

高典は私とリナの家を騙し取ろうとした犯人だ。絶対に許せない。ただ、詐欺として訴えるつもりはなかった。仮に彼を告発したところで、大した刑罰を与えられないと思ったからだ。詐欺には罰金がない。そういう意味では、懲役となる可能性はある。だが、初犯であることや未遂だった件を鑑みれば、裁判所は執行猶予の判決を下すと私は推測した。執行猶予という結果は、無罪も同然。ほとんどダメージがないと言える。

そこで、私は別のやり方を考えていた。もっと彼にダメージを与える方法がある。そのためには、ここは離婚で終わらせるのが一番だった。

「でも…」

「サインしないの?じゃあ、詐欺で訴えるけど。」

脅すような言い方をする。すぐに高典は青くなった。よほど訴えられるのが怖いように見える。少し考えれば、ダメージは少ないと分かるはずなのに。

「詐欺で捕まりたくないわよ。世間に顔も名前もさらされるんだから。」

「い、嫌だ。それは絶対に。」

その点は私も同意できる。つまらない罪で逮捕されるのは、かなり恥ずかしい。

「じゃあ、すぐにサインして。」

「わかった。」

唸る高典。彼は素直に離婚届けにサインした。

「はい、ありがとう。」

サインが終わると同時に、離婚届けを奪い取る。丁寧に折って、すぐに鞄の中に入れた。

「今回の損害賠償の分を含めて、あなたには慰謝料を請求するから、覚悟しておいてね。」

「え、するのか?」

「当然でしょ。嫌なら…」

言いかけた途端、彼は激しく両手を振り始めた。

「いい、分かった。もう何も言うな。言う通りに払うから。」

「そう。慰謝料は百万円くらいが相場かしら。損害賠償は分からないけど、全部で三百万円で手を打ちましょう。」

「三百万…」

高典が目を見開いた。開いた口が塞がらないといった様子だ。

「嫌なの?」

嫌味な言い方をする。

「あ、分かった。それでいい。」

話が早くて助かる。続けざまに、義母の方を向いた。

「お母さんと美希には、精神的苦痛の分を請求しますね。」

「え、私も払うの?」

「さっき、そう言いましたよね。お父さんも認めてくれましたよ。」

義母と同時に、義父を見る。彼は力強く頷いていた。

「金額は十万円くらいが相場かな。」

「は、さっき相場は分からないと言ったじゃないか。」

急に高典が割り込んでくる。面倒なので、強い口調で脅しておいた。

「何?文句があるなら、裁判で争う?私は構わないわよ。」

「悪い。」

諦めが早い。これなら、余計なことを言わなければいいのに。本当に情けない人だ。

「どうします?お母さん。それ、拒否したらどうなるの?」

「そうですね。詐欺の共犯で訴えます。高典も一緒に。」

ぎょっとしたのは、高典の方だった。お金で解決できると安堵したところに、再び逮捕の危機が訪れたのだから。彼は大慌てで義母の説得を始める。

「母さん、ここはお金を払っておけよ。」

「はあ。どうして、私は悪くないでしょう。」

「そんなことはない。詳細は不明だが、少なくとも何らかの協力をしていたはずだ。無関係だと言い逃れは難しいだろう。」

「無理だって。もし裁判になったら、終わりだぞ。」

「そんなわけないでしょ。何を怯えているのよ。」

「いいから、言う通りに払うって言えよ。じゃないと、縁を切るからな。」

高典がピシャリと言った。

「縁を切る?」

「ああ、そうだよ。俺は詐欺で逮捕とか、ごめんだからな。」

自分でやっておいて、捕まりたくないとは。とはいえ、こちらの主張を素直に受け入れてくれるのは助かる。

「どうします?十万円でいいですか?」

「いい。それで。」

なぜか高典が返事をした。ちらりと義父を見て、彼の意向を確認する。

「分かった。私が責任を持って、二人に払わせる。」

「え、私も払うの?」

美希が唇を尖らせた。不愉快そうに眉間にしわを寄せている。

「当たり前だろ。お前も高典に合わせたんじゃないのか。」

「でも…」

「でも、じゃない。嫌なら、今から警察署へ行くか。」

義父は厳しい顔つきになった。警察という言葉に反応した美希は、頬を膨らませる。顔を背けたまま、しぶしぶ頷いていた。

「分かった。」

子供っぽいけれど、一応働いている立派な大人だ。それくらいのお金は持っているだろう。

「では、後日弁護士の方から連絡してもらいますね。」

「え、これで終わり?」

「ええ、私はこのまま出ていきます。荷物は後で引っ越し業者に取りに来てもらうので。」

すっと立ち上がる。途端に、高典がすがってきた。

「ま、待ってくれよ。こんなにあっさり終わりにするのが…」

「あのね、私はあなたと一秒でも一緒にいたくないの。それくらい分かるでしょ。」

そっけなく言ってやる。彼はたじたじとして、動けなくなってしまった。

「では、お父さん。荷物を預かっててください。」

「分かった。私が責任を持って預かるよ。」

「それでは、失礼します。」

ゆっくりと頭を下げる。何か言おうとする高典を無視して、私は玄関へ向かった。

玄関で靴を履いていると、高典が走ってくる。彼は私の前で土下座した。

「俺が悪かった。許してくれ、さおり。」

「はあ。あなたが慰謝料を払ってくれれば、それで私たちの関係は終わりにするって言ったでしょ。」

彼が求めている許しとは、少し違うかもしれない。だが、私の中では終わる。今はそれで十分だった。

「でも、本当にしつこいわね。何を言っても、関係修復は無理よ。」

突き放す。彼はがっくりと項垂れていった。

「じゃあね。自分がやったことがどれだけ愚かなことだったか。これからも、せいぜい後悔してちょうだい。」

最後にそう言ってから、家を出る。もちろん、これは私の優しさだ。関係が終わっても、復讐はまだ続く。そう警告してあげたつもりだった。

ただ、私のそんな優しさは、彼には全く通じなかったようだ。家を出た後も、頻繁に復縁を迫るメールを彼は送ってきた。さすがに少し苛立ってしまう。仕事も必要だし、新居も探さなければならない。目が回るくらい忙しいのに、くだらないメールで邪魔をされるのだから。

もういいわ。仕方がないから、次の作戦を実行するわ。私は怒りに任せて、ある人にメールを送った。あらかじめ相談していた件を実行してほしい。それだけを連絡した。返事はすぐに帰ってくる。

「了解。」

この先どうなるか、楽しみね。私は一人で、ほくそ笑んだ。

それから二ヶ月と経たず、離婚の話し合いが終わる。家を出る前に慰謝料の金額を告げていたことも大きい。さらに、損害賠償の件もすんなりと片付いた。離婚の件を依頼した弁護士が、まとめて対応してくれたからだ。

「お世話になりました。高木さん。」

弁護士の高木に頭を下げた。あの日、駅で私を引き止めてくれた老人だ。

「本当に良かったよ。間に合って。」

「あの日、高木さんが助言してくれたからですよ。」

「いや、私は大したことはしていない。偶然耳にした悪だくみを、止めたかっただけだ。」

高木が笑う。実は彼は、高典の会社の顧問弁護士だった。会社にも何度か訪れていたそうだ。しかし、私は面識がなかった。理由は簡単。彼が顧問弁護士になったのは、例の事件の直前だったからだ。

おそらく、高典は慎重だったのだろう。私を横領犯に仕立てた時、こちらが反論すると面倒なことになる。顧問弁護士がいれば、言い訳が難しくなるはずだ。彼はそんなことを考えていたようだった。

「でも、彼の決断力のおかげで助かりました。」

「ある意味では、そうかもしれないね。」

高典は顧問契約後に、外で義母や美希と今回の件の打ち合わせをしている。そこに偶然にも高木が居合わせた。直後に高典と会う約束をしていたからだ。つまり、彼は高木と会う場所で悪だくみをしていたということ。

「バレるリスクを考えなかったんですかね。」

「まあ、それはないだろうね。普通、誰かが人の話を聞いているとは思わないから。」

現場はファミレスだったらしい。高典が義母と美希の二人と話している席の背後に、高木はいた。三人の話が終わった後、高木は高典に気づいたふりをしたそうだ。当然、高典は慌てたけれど、高木がノートパソコンを開き、仕事をしていたふりをしてくれたおかげでバレなかったと教えられた。

その後の説明は不要だろう。状況を理解した高木は、高典の妻である私のことを調べる。顔などを確認した上で、駅にいる私に話しかけたということだった。

「本当にお世話になりました。でも、これで顧問契約は終わりになりますよね。」

「構わないよ。悪い人間の味方をするつもりはないからね。」

高齢の高木が言うと、どこか重みがある。最後に、私は鞄の中から書類を取り出した。

「最後に、これ、いいですか?」

「これは?」

高木が書類に目を落とす。会社の帳簿だ。

「彼は改竄した帳簿を持ち込むと思います。今度はそれで、私の責任を追求しようとするはずですから。」

「おお、そういうことか。」

「はい。これは改竄されていないものです。」

高木に会ったあの日、私は会社にいる由香に連絡した。彼女は主に事務をしている。私と同じでシステムエンジニアとしての腕もあるが、本人の希望で事務員として採用されていた。

そんな彼女に頼んだのが、普段彼女が管理している会社の帳簿の確保だ。あの日は、全社員が一週間の休みを取る前日だった。いつもはしっかりと管理されていたとしても、一週間も社員が出社しなければ、改竄する隙は十分にあっただろう。

リナに電話をして、彼女が家を売ろうとした理由を知ったからこそ、自分が横領犯に仕立て上げられることも分かっていた。一週間の休みの間に改竄をするという予測もできたわけだ。そこで、私は先回りして会社の帳簿を抑えたのだった。

「高木さんが『時間がない。すぐに行動しろ』と言ってくれたから、私はこれを手にすることができました。もし高木が声をかけてくれなかったら、高典の思惑通りに帳簿が改竄されていたはずです。元のデータもなく、私は改竄されたものだと証明できなかったかもしれません。」

彼が会社を休みにすると言い出したのも、全ては私を落とし入れるため。そう思うと、本当にギリギリだった。

「本当にありがとうございました。高木さん。」

「ああ、これで無事に解決だな。お疲れ様。」

高木がにこりとする。私も微笑んだ。

「でも、まだ終わりじゃないですけどね。」

「ということだ。この帳簿のデータがあれば、彼が何を言ってきても突っぱねられるぞ。」

「ええ、そうですね。ただ、それは復讐とは別の話なので。」

目の前の高木が青くなる。おそらく、私がかなり悪い顔をしていたからだろう。実際、悪いことを考えていた。

リナと私を騙そうとした高典を、簡単に許せるわけがない。お金で解決するのも生ぬるい。地獄を味わせてやろうと、私はある仕掛けをしていたのだった。

仕掛けが発動したのは、私たちの離婚が成立した半年後のことだ。この間、高典は何度も復縁を迫るメールを送ってきている。当然、目的は私の家とお金だ。離婚の慰謝料を支払った彼は、今は金銭的に困窮している。さらに、義母や美希も私に損害賠償金を支払ったため、彼女らからもお金をせびられているに違いない。だからこそ、お金を持っている私と復縁したかったのだ。

そろそろ諦めればいいのに。裏事情も分かっている私は、高典からのメールは読まずに削除する。面倒だから、着信拒否にすることも考えていた。

そんなある日曜日のことだ。珍しく、義父から電話がかかってきた。彼なら大丈夫だろう。そう考えた私は、すぐに電話に出た。

「もしもし。お久しぶりですね。」

「ああ、さおりさんか。急に申し訳ない。今、大丈夫かな?」

高典と離婚した後、私は彼の会社もやめている。次の就職先はまだ探している最中だ。今はフリーランスとして自宅で仕事をしている。ただ、それだけで生活できるほどの収入は得られていなかった。

「時間だけならありますので。」

皮肉ではなく、正直に答える。義父は切羽詰まった声で言った。

「頼む。助けてくれないか?」

「はい。何のことですか?」

彼が私に助けを求めてきた理由は分かっているけれど、わざとぼけてみた。

「本当は分かっているんだろう。うちの庭とかに、知らない人が入ってくるんだよ。」

「それ、女性ですよね。」

「そうだ。しかも、彼女は妙なことを言うんだよ。『現状を確認しているだけだ』って。」

話を聞いた途端、吹き出しそうになってしまう。これこそが、私の仕掛けだった。

「警察には連絡しましたか?」

「私も通報しようとしたけど、女性が言うんだ。『住居侵入には該当しない』って。私はわけが分からなくて…」

かなり混乱している様子だ。かわいそうなので、種明かしをしようと考えた。

「仕方ないですね。詳細をお教えしますから、そちらへ伺っても構いませんか?」

「ああ、すぐに来てくれ。頼む。」

そこで通話を終えた。私は必要な書類を持ち、由香に電話をかける。

「もしもし、由香。一緒に来てくれる?」

「あら、もう種明かしをするの?」

「ええ。お父さんがギブアップみたいだから、すぐに来てちょうだい。じゃあね。」

要件を伝えると、すぐに電話を切った。そのまま家を出て、タクシーに乗り込む。まっすぐに、義父が待つ二世帯住宅へ向かった。

家の前でタクシーを降りると、ちょうど庭の方から声が聞こえてくる。

「あんた、誰よ?勝手に入らないで。」

義母か。私は笑みをこぼしつつ、庭に入った。

「外まで声が聞こえていますよ。」

「あんた、何しに来たのよ。」

声を荒げる義母。その義母と向かい合うように、女性が立っている。彼女を一瞥してから、私は冷静に応じた。

「仕方ないじゃないですか。お父さんに呼ばれましたので。」

「はあ。ちょっと、あなた。」

義母が家の中に向かって叫ぶ。すると、すぐに義父が飛び出してきた。

「ああ、待っていたよ。さおりさん。」

「ご無沙汰しております。」

「高典と美希の二人は、外出中だ。」

義父がため息をつく。そこで彼は私の隣にいる女性に気づいた。

「彼女だ。彼女が家に勝手に入ってきて…」

「大丈夫ですよ。彼女は村井由香。私の友人です。」

隣にいた女性が由香だと、義父に紹介する。

「友人?」

「え、どういう…」

義父はまだ分からないらしい。私はニヤニヤしながら話を続けた。

「実は、私の家の持ち分を彼女に売ったんです。」

「あ、売った?」

あっけにとられる義母。そんなことはお構いなしに言ってやる。

「はい。売りました。だから、この二世帯住宅の三分の一は、彼女のものですよね。由香。」

「何度も言いましたよね。不法侵入ではないと。」

リナが高典に騙されたと気づいた直後、私は彼に復讐する方法を考えた。最初に検討したのは、詐欺での告発だ。だが、これはすぐに断念した。前にも話したように、執行猶予がつく可能性が高いからだ。

そこで、私は他の案を考えた。何かいい方法はないだろうか。彼と義母、美希の三人にダメージを与えられる、とっておきの方法を。

色々と考えた結果、あることを思い出した。それが、二世帯住宅の名義だ。勝手に家を建てると決められた私は、住む権利を正当に主張できるように共有名義にしてもらった。これを活用しようと考えたわけだ。

一般的に、単独名義の不動産は簡単に売却できる。名義人が売却を決め、不動産会社などと交渉して手続きをすればいいからだ。しかし、共有名義の場合は少し面倒になる。まず、名義人が全て賛成しなければ売却はできない。誰か一人でも反対した時点で、法的に売却が認められないのだ。

ただし、自分の持ち分だけを売却することは可能になっている。私はこの抜け穴を使うことにした。

そこまで話してから、義父に告げる。

「そういうわけで、私はこの家の持ち分を彼女に売りました。」

「私は正式な手続きを経て購入しました。だから、現状を確認する権利があります。」

由香も私に続く。義父はすぐに理解できたのか、何も言わなかった。

「何よ、それ。勝手に売ったとか、認められないわ。」

義母には難しかったようだ。声を荒らげて反論を始める。

「ここは私たちの家よ。他人が入ってこないでくれる?」

「先ほども説明した通り、この家の持ち分を私が買ったんです。」

「はあ。知らないわよ。とにかく、出ていって。」

追い払うような仕草をする義母。その時、ちょうど高典と美希が帰宅した。騒いでいる私たちに気づき、こちらへと回り込んでくる。

「何だ、騒がしいな。」

「あ、社長、どうも。」

「あ、村井…」

高典が眉を潜める。すぐに私に気づき、彼は文句を言い始めた。

「何だ、さおり。不法侵入か。通報するぞ。」

「そんなわけないでしょ。」

「でも、勝手に庭に入り込んでるじゃないか。俺は立ち入りを許可した覚えはないぞ。」

私のことを怒鳴りつける高典。勝ち誇った顔をしている。どうやら自分が有利な立場だと誤解しているようだ。仕方がないので、現実を突きつけてあげた。

「私は彼女の許可を得て、ここにいるの。」

「彼女って…村井か。」

「ええ。彼女の持ち分は、この家の三分の一。ここまで言えば、もう分かるわよね。」

遠回しな言い方をしてみる。彼は少し考えて、ハッとした。

「まさか、お前の名義の…」

「はい、正解。私の持ち分を彼女に売ったの。証拠の書類もあるわよ。」

「お前、何てことをしてくれたんだ。」

高典が大声をあげる。私は鼻を鳴らして、そっぽを向いた。

「別に私の勝手でしょ。自分の持ち分を売っただけだから。」

「でも、そんなことをしたら…」

彼の動きが止まる。私が思っていたよりも、賢いようだ。

「何だ、もう気づいたのね。じゃあ、由香、言ってあげて。」

「え、では、今月から家賃を払ってくださいね。」

由香が前に手を出す。高典と義父は、この展開が分かっていたのか、唖然としていた。

「家賃?」

「あんた、バカなの?ここは私たちの家よ。」

「知っていますよ。でも、私の持ち分もありますから。」

「人の家に来て家賃を請求するとか。警察を呼ぶわよ。いいの?」

強気な義母。そんな彼女を制したのは、義父だった。

「やめなさい。警察を呼んでも、無駄だ。」

「はあ?どうして?これはただの恐喝じゃない?」

義母は自信満々に告げる。しかし、義父は静かに首を横に振った。

「民法に明記されていることだが、共有者は自分の持ち分に応じて共有物を使用する権利が認められている。要するに、目の前にある二世帯住宅の三分の一を使用する権利が、由香さんにはあるということだ。」

「権利はあるとしても、実際に使っているのは義父たちだけ。家主は共有物を勝手に使われている立場だから、使用料を取ることができるというわけだ。」

「同様のケースは、稀にありますよね、お父さん。」

「ああ。共有物を無償で使わせるつもりがないと言われれば、こちらは応じるしかない。」

義父が断言する。事実、その通りだ。法的には由香の主張が正しいのだから。

「相場から考えると、一軒家で十万円くらい。なので、その三割。月に三万円でどうですか?」

「待ってくれ。それは…」

「断りますか?じゃあ、仕方ないですね。共有物分割請求の訴訟を行うことにします。」

由香はきっぱりと言い放った。共有物分割請求は、共有状態を解消するための方法を決める裁判といえば分かりやすいだろう。解決方法はいくつかあるが、金銭で支払いをするか、現物を分けるかのいずれかになるケースが多い。にしても、結果次第では家を手放さなければならなくなる。

「わかった。持ち分を買い取らせてくれ。それでいいだろう。」

「どうする?さおり。」

決定権を持っているのは由香だ。それなのに、私に意見を求めるということは、彼女が私に相談してきているのだろう。

「そうね。あなたが私から買い取った金額の倍なら、売っても十分に損はないと思うわよ。」

「何だよ、それ。おかしいだろ。」

高典が声高に叫んだ。

「そうよ。どうして倍になるのよ。」

美希まで絡んでくる。仕方がないので、私が二人の口を封じてあげることにした。

「嫌なら、裁判をすればいいだけよ。家はなくなるかもしれないけど、払う金額は少なくなるでしょうね。」

「う…」

「何よ…」

あっさりと口をつむぐ高典と美希。もう、彼らに勝ち目はなさそうだ。

「どうするの?好きな方を選んでいいわよ。」

「うるさい。」

「あんたは、今、被害者でしょ。」

珍しく、美希が的を得たことを言う。

「ええ、そうですね。では、由香、あとはお願い。」

「オッケー。どうしますか?」

由香が私の前へ出る。話す相手が変わったところで、状況は何も変わらなかった。

「分かった。そちらの言い値でいい。」

「あなたは、お前にも責任があることだろう。」

義父が一括する。事実、私と高典が婚姻関係を続けていれば、こうなっていなかった。原因を作ったのは高典だが、義母にも責任はある。

「残念だったわね、高典。また借金が増えることになって。」

「は?俺だけが払うわけじゃないだろ。」

「お母さんや美希が払えるのかしら?二人のことだから、もう貯金はないだろう。実際、十万円の損害賠償金を払うのも苦労していたようだから。」

「あなたとお父さんの二人で払うことになりそうね。」

「うるさい。覚えてろ。村井、お前もな。」

高典が由香を指差す。彼女は平気な顔で答えた。

「いいですよ。次に会うことがあれば。」

「は、明日、職場で会うだろうが。」

「いえ、会いませんよ。私、あなたの会社をやめますから。」

原因が高典にあるとはいえ、トラブルの中心にいたのは由香だ。この先も彼と同じ職場で働くのは難しいだろう。私はそう考えていたから、最初は別の人に頼もうとしていた。けれど、この計画を話した時、彼女は私にこう言ってくれたのだ。

「友人を落とし入れるような人の会社に、いつまでもいるつもりはないわ。いい機会だから、その計画に乗ってあげる。」

「いいの?」

「彼に大ダメージを与えてから、会社をやめてやるわよ。」

彼女の言葉が心強かったのは、言うまでもない。由香は目の前の高典を見ながら、笑顔で告げる。

「退職願いは後日します。それで構いませんよね。」

「は、そんなわけ…」

「だめですか?じゃあ、高木さんに頼みますね。」

高木の名前が出た途端、高典が仰け反る。どうやら私との離婚の時に痛い目を見たことで、彼の名前にはトラウマがあるようだった。

「では、あとは弁護士を通してお話しましょう。」

「分かった。」

しぶしぶ、義父が頷く。

「では、お父さん。お世話になりました。」

「ああ。」

「それじゃあね、高典。頑張って、借金を返してね。」

最後に高典に言ってやる。彼は無言のまま、悔しそうに俯いていた。

その後、由香は高木と知り合いの不動産会社に仲介してもらい、二世帯住宅の持ち分を売却したそうだ。金額は、私が彼女に売った時の倍。義父はこちらの言い値で持ち分を買い取った。私は家を建てる際に出したお金の大半が戻ってきたし、由香に至っては倍になっている。互いに儲かったということで、こっそりと乾杯した。

これで話は終わったと思っていたが、そうでもなかった。持ち分を買い取ったのが気に入らなかった義母は、義父と大喧嘩。互いの主張がぶつかり合い、ついには離婚することになったそうだ。私は義母に原因があると思ったが、彼女は「義父が悪い」の一点張り。最後まで譲らず、今は離婚裁判の真っ最中だ。結果がどうなるかは分からないけれど、義母が得をすることはないだろう。

さて、義父と義母が離婚すれば、問題になるのが財産分与だ。二世帯住宅をどうするかで、かなり揉めているらしい。義父は「住み続ける」と主張しているけれど、高典たちが認めるかどうかは不透明だ。勝手な想像だが、彼も所有権を主張して、売却することになると思う。

私がそう考えている理由は一つ。彼の会社が、倒産の危機に瀕しているからだ。例の一件の後、由香が会社を辞めてしまった。さらに、私や美希とのトラブルを知った数人の同僚が退職する。ある程度の退職者が出ると、あとはドミノの連鎖だった。人数が減ったことで一人当たりの負担が増える。限界を感じた人がやめてしまい、さらに仕事量が増す。あとは退職する人が出るばかり。あっという間に、会社は人手不足に陥った。

そこに追い打ちをかけたのが、私と由香の呼びかけだ。私たちは高典の会社を辞めた人に声をかけ、新しい会社を起業した。業種は今までと同じIT関係。言い方は悪いかもしれないが、人員不足になり、彼の会社が受け終えなくなった仕事を根こそぎ奪い取った。私たちの会社はすぐに大きくなり、高典の会社は干上がるように縮小した。彼は人員を確保するために懸命に駆けずり回っているそうだが、社員はほとんど残っておらず、倒産は時間の問題だと思われる。

このまま倒産すれば、社長名義の資産は全て高典の借金になる。私への離婚の慰謝料などでお金を使い果たしている今、彼に借金を返す余裕はないはずだ。どうなるのか、本当に楽しみで仕方がない。

ついでに私の現状も話しておくと、随分と忙しくなった。先に話したように、由香と起業したからだ。便宜上、私たちは共同経営者ということになっている。しかし、社長業をしているのは、ほとんど私だ。

「ねえ、由香。お願いだから、社長の仕事もしてくれない?」

「無理よ。私ができるのは事務かエンジニアだけ。人と話すのは得意じゃないもの。」

「それは私も同じよ。全く。」

ため息をつく。口では文句を言っているが、本音では彼女に感謝していた。もしも由香が誘ってくれなかったら、私は今もフリーランスで仕事をしていただろう。別に悪くはないが、生活できているかどうか怪しいところだ。収入も不安定だし、将来的な不安もある。

「誘ってくれて、ありがとう。由香。」

「ん?どうしたの?急に。」

「なんとなく、お礼を言いたくなっただけ。」

笑顔でごまかした。その時、私のスマホが鳴る。電話をかけてきたのは、リナだ。

「お姉ちゃん、家のことなんだけど…」

「どうしたの?」

「あのね、彼と住んでもいい?結婚しようって言われたの。」

こんなに嬉しい報告はない。でも、リナは離婚した私に遠慮しているような口ぶりだった。

「おめでとう、リナ。彼と仲良くするのよ。」

今の私が言えることは、これだけ。ようやく前を向けたばかりなのだから。

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