取引先の担当者が唐突に「うち、参拝の処理に困ってるんですよね」と言い出した。「参拝ですか? それは困りますね」と、世間話のつもりで軽く相槌を打つ。だが担当者は大きなため息をついた。「ああ、これだから中卒って話にならないんですよね」
その言葉が胸に刺さった瞬間、俺の奥底で何かが静かに熱くなった。もうこいつに頭を下げる価値はないと判断した。
俺の名前は野﨑神。53歳で、航空機・ロケット向けのチタン精密部品の切削加工を手掛けている。精密な表面仕上げが専門だ。俺は中学を出てこの世界に入った。高校に行かなかったのは、今は亡き両親のためだ。体の弱い父の代わりにパートを掛け持ちしていた母。中学を卒業する頃、母の手はもうひび割れだらけだった。あの手を見た日から、俺の進路は決まっていた。働いて、少しでも楽にさせてやりたい。後悔したことは一度もない。愛情をこれでもかというほど注いでくれた両親のために選んだ道を、俺は今も誇りに思っている。
近くの工場で働き始めたのは、たまたま中卒で雇ってくれたからだ。最初は何でもいいと思っていた仕事が、今となっては天職だと思っている。俺はこの工場で働くうちにもっと学びたくなり、高卒認定を取り、夜間の工学部を卒業。5年という年月をかけ、地元の大学と協力して新しい技術を開発した。これがこの工場の救世主になった。傾きかけていた経営が、この技術をきっかけに持ち直した。そして3年前にこの工場を受け継いだ。中卒で働き始め、現場一筋で38年の俺が工場長になったのだ。
学歴が全てではないと、しみじみ思う。ただ、取引先の中には俺を中卒だと見下してくる奴もいる。働きながら大学を卒業しているが、俺はそれを特に公表していない。学歴があろうがなかろうが、俺の仕事を認めてくれる人はいるからだ。
ただ、最近担当者が変わった大手商社は最悪だ。井手という30代の担当者がいるのだが、いわゆる有名大学卒のエリート。それを鼻にかけて、うちの工場を馬鹿にしている。この商社は、発注元と加工工場の間に立つ中間業者。メーカーから受けたチタン部品の仕事をうちの工場に回している。もう30年ほどの付き合いになるだろうか。今まで色々な担当者がいたが、井手は最もひどい。「社長ってどこの大学出てるんです」とニヤニヤしながら聞いてきたので、「中卒でここに就職して」と俺が話し出すと、井手はそれを遮り切った。「中卒ですか? ああ、現場叩き上げってやつですね」。井手は思いっきりバカにした顔で笑う。
生成するのも面倒だし、ここに入った頃は本当に中卒だったし、わざわざ自分の学歴をひけらかす必要もない。実はこの井手の出身大学より、俺の卒業した大学の方が偏差値は高いのだが、それは俺の胸のうちに留めておく。そもそもこの井手の上司が横田という、俺と同じくらいの年齢の部長で、横田も学歴マウントを取るやつだった。横田は昔うちの担当だったことがあり、やはり大卒エリート。俺が中卒だと分かった途端に馬鹿にしてくるのは、今の井手と全く同じだった。当時、打ち合わせの度に「野﨑さん、難しい話は分かりますか?」などと人前で平然と言ってのける男で、俺は何度奥歯を噛みしめたかしれない。横田はうちの担当を外れてから出世し、今では部長なのだという。井手と横田は同じ大学出身らしいので、派閥関係のようなものが出来上がっているのだろう。
今日も井手が来て「うち、参拝の処理に困ってるんですよね」と言ってきた。世間話かと軽く相槌を打つと、井手は大きなため息をつき、「これだから中卒って話にならないんですよね」と言ってくる。検査値が違うと会話にならないということが言いたいのだろう。全くもってその通りだと俺は思った。俺だって、俺の人生も知らずに中卒といった言葉だけで馬鹿にしてくるような奴とは会話にならない。一応30年来の取引先ということもあり、担当者が年下だろうが何を言ってこようが頭を下げていたのだが、こいつにはその価値もない。
だが井手は、自分はエリートで価値がある人間だと思い込んでいる。「うちが処理に困ってる参拝があるって言ってるんだよ」と口を尖らせて言ってきた。相手にしても無駄なので、俺は「そうなんですか」と適当に返事をした。すると井手は俺の態度に腹を立てたようで、「あんた中卒のくせになんだよその態度。俺はあんたみたいな中卒でも知ってる有名大学を卒業してるし、大手商社に務めるエリートだぞ。人間的に俺の方が上なんだから、言うことくらい聞けよ」と言ってくる。
その言葉が胸に刺さった瞬間、俺の奥底で何かが静かに熱くなった。怒鳴り返したい気持ちが喉の奥でじりじりと燃えている。だが、こいつに怒鳴り返しても何も伝わらない。それが分かっているから、余計に虚しかった。俺は思わず「ああ、本当にこういう学歴マウント取る人っているのか。若いのにかわいそうだな」と呟いた。すると井手が笑い始める。「あ、あんた俺の機嫌損ねていいと思ってんの? 1から10まで言わないと中卒のあんたは理解できないみたいだから、俺がはっきり言ってやるよ。うちの参拝全部お前んとこで引き取れよ。中卒工場長にお似合いの汚れ仕事だろ」
俺はこの失礼な態度を相手にするのが馬鹿らしくなり、「参拝ってチタンスラッジのことか」とこっちもタメ口で聞いた。チタンスラッジとは、チタンを切削加工した時に出る副産物のことで、素人が見れば見た目はただの汚い廃液の泥だから、井手が「参拝」というのも無理はない。うちの工場でも毎日このチタンスラッジが出る。「まあそうだ。あんな泥みたいなの汚くて俺は触れないが、あんたたちは元々汚いんだから問題ないだろ。あの参拝処理にも金がかかるからってため込んでるんだよ。邪魔で邪魔で仕方ない」と井手は言った。
俺は「その参拝って全て御社の工場で出たものですか」と聞く。すると井手は「いや、下請けから引き取ったものだ。引き取る金額が高いからうちの利益は上がるけど、いい加減保管する場所の確保するのが大変で」と答えた。俺はその話を聞いて心の中で笑う。この商社は産業廃棄物業者ではない。他者のゴミを勝手に引き取って、他人に横流しすることは法律で禁じられているのだ。そんなことも知らずに俺にペラペラ喋ってしまうとは、危機感がなさすぎる。いずれ勝手に墓穴を掘るだろう。今は黙ってその時を待てばいい。俺にわざわざ教えてやる義理はない。
そして俺は笑みをこらえながら内心で呟いた。こいつは今、自分が何を差し出そうとしているか、二人も分かっていない。この泥の中にどれほどの価値が眠っているか。ならば遠慮なくいただくとしよう。俺は顔を上げ、にやりと笑った。「ありがたく全部いただきます」。すると、思ってもいない返事が来たことで井手は一瞬動きを止める。「は? 引き取るのか」。自分で言っておきながら、何とも抜けた返事だ。俺は「引き取ればいいんですよね。その代わり、うちに運んできてください。それであればいくらでも引き取りますよ」と言うと、井手はスマホを取り出し、電話を始めた。「横田部長、神社長がうちの参拝全部引き取るって。明日運び込んでいいですか?」。すると電話越しに「あの参拝を押し付けたか。よくやった」という横田の声が聞こえてくる。横田は声が大きいので、いつも電話の会話は筒抜けなのだ。俺は「では明日お待ちしています」と言うと、井手はどことなく腑に落ちない顔をして帰っていった。自分が汚いゴミだと思っているものを喜んで引き取るなんて言われたら、そんな顔になるのも無理はない。
翌日、俺が工場に出勤すると、工場からトラックが出ていった。そしてまた入ってくる。なんとチタンスラッジを勝手に工場内に置いて行っていたのだ。トラックの運転手に話を聞くと、横田からの指示だという。このトラックの運転手は雇われで罪はない。俺はひとまずチタンスラッジを運び込んでもらった。引き取るとは言ったが、工場が開いていない時間に勝手に置いていくなど、ただの不法投棄じゃないか。呆れてため息が出る。うちの従業員も「何ですかこれ」と出社と同時に大きな声をあげる。「チタンスラッジを引き取るとは言っていましたが、こんなに」。従業員は積み上がったチタンスラッジを見てから、にやりと笑う。「社長、宝の山ですね」。そう言われ、俺もにやりと笑って頷いた。
そこへ井手から電話がかかってくる。「おはようございます。約束通りうちの参拝運びましたんで、後頼みますね」。俺は「ものすごい量ですが、これで全部ですか」と尋ねる。井手は「そうですね。今のところそれで全部です。また溜まったら持っていきますね。ああ、それと今後オタクの工場はこの参拝の引き取りだけ。からの納品はもう結構ですので」と笑った。なんだそれ? うちはゴミを押し付けるだけの工場にして、もう仕事は頼まないということか。まあいい。それを引き換えにしても、このチタンスラッジには価値がある。俺は笑いをこらえて「わかりました」と言って電話を切った。仕事は打ち切り、代わりにゴミだけを押し付けるのか。どこまで傲慢なんだ、あいつらは。
呆れ果てているところへ、昨日のうちに声をかけておいた北村教授が来てくれた。ここで少し、北村教授との出会いについて話しておかなければならない。俺が地元の大学の夜間工学部に通い始めたのは、この工場で働き始めてから何年も経ってからのことだ。工場の仕事が面白くなればなるほど、もっと深く知りたいという気持ちが止まらなかった。お金を貯めてまず高卒認定を取り、夜間部の門を叩いた。そこで出会ったのが、俺の一つ年上の北村教授だ。当時すでに研究者として活躍していた北村教授とは、不思議と馬が合い、仲良くなった。大学を卒業しても、その縁は続く。
そんなある時、俺は悩みを抱えて再び大学へ向かった。うちの工場で毎日大量に出るチタンスラッジをなんとか活用できないか。廃棄物として処理費用を払い続けるのではなく、価値に変えられないか。北村教授に相談すると、「それは面白そうですね。是非協力したい」と即断してくれた。そこから5年かけて完成したのが、この独自技術だ。上のチタンスラッジに含まれる油、水、切削粉などの不純物を、温度管理と遠心力の組み合わせによって段階的に除去し、高品質なチタン粉末として再生する。再生されたチタン粉末は、3Dプリンターによる航空機部品製造の原料になる。しかも不純物ゼロのリサイクル素材として、環境面でも高い評価を受けていた。需要は高いのに市場での供給量は慢性的に不足している。つまり井手や横田にとっての邪魔な泥は、うちにとっては加工すれば高値で売れる宝の山なのだ。実は北村教授の伝手である航空機メーカーから依頼を受け、俺たちはさらに純度の高いチタン粉末を取り出す研究を進めていた。だが実験には大量のサンプルが必要で、うちの工場から出るスラッジだけでは量が足りなかった。
北村教授は積み上がったチタンスラッジを見渡し、「これはまた凄まじい量ですね」と目を丸くした。俺は「でも、これだけあれば試験もしたい放題です。それにちょうど、別の販路を開拓しなきゃいけない理由もできましたから」と言うと、北村教授は深く頷き、早速作業に取りかかった。そして1ヶ月後、俺たちはついに純度99. 9%のチタン粉末を取り出すことに成功した。横田が押し付けてきた大量のチタンスラッジのおかげで、温度や遠心力のパターンを何十通りも試すことができ、完璧な黄金比を見つけ出したのだ。「やりましたね。野﨑さん」「北村教授のおかげです」。俺たちはがっちりと握手をかわした。その瞬間、ふと両親の顔が浮かんだ。ひび割れた母の手と、病床で「お前なら大丈夫だ」と言った父の声。中卒でこの会社に飛び込んで38年が経った。あの泥の中に確かに金があった。現場で生きてきた俺だから見えたものがあったのだ。そう思ったら、目の奥が少し熱くなった。
北村教授と航空機メーカーの役員へ直接会いに行き、直接談判した結果、不純物ゼロ、環境に配慮したリサイクル材として破格の条件で長期独占契約を結んだのだ。翌日、北村教授と工場で打ち合わせをしていると、横田が井手を連れて乗り込んできた。「野﨑君、君あの航空機メーカーと取引してるって。向こうの社長から、この工場と直接取引することが決まったからうちはもういらないって言われたんだよ。うちを通さずにメーカーと直接取引するなんて、業界のタブーだよ。30年の付き合いを忘れたのか」と早口でまくし立てる。俺が口を挟む間もなく、井手が「そのチタン粉末、元々はうちが持ち込んだ参拝から作ったんですよね。なら所有権はうちにあります。全部うちに引き渡してください。契約書はこれです」と即席で作ったような契約書を見せてくる。だが俺は「お断りします。メーカー様とはすでに直接長期の独占供給契約を締結しました。あなた方に売る分はありません」ときっぱり断った。
横田は「ふざけるな」と声をあげる。俺はそれを静かに遮り切り、一歩前に出た。「横田部長、井手さん。あなた方が工場の空いていない時間にまで大量のチタンスラッジを不法投棄してくださったおかげで、実験用のサンプルにはこと欠きませんでした。『中卒工場にお似合いの汚れ仕事』とおっしゃいましたね。おかげで純度99. 9%の黄金比を発見できたんです。原材料費も運送費も全てタダ。最高のプレゼントを、本当にありがとうございました」。にやりとそう告げると、横田が言葉を失った。その隙に北村教授が静かに一歩前に出る。「あなたたちのことは、来た際に野﨑さんから伺っています。学歴でしか人を見られないとは、本当にかわいそうだ。ご存知ないと思いますが、野﨑さんはうちの大学を卒業されていますよ」と言って、北村教授が名刺を差し出した。井手は「嘘だろ? 中卒のはずじゃ」と動揺した顔で俺を見る。俺は「ここで働き始めてからどんどん仕事が面白くなり、もっと勉強したくなったんです。お金を貯めて高卒認定を取り、夜間に通いました」と話す。横田は「こんな偏差値の大学に入れるはずがない」と怒鳴った。俺はため息をついた。「俺は先日井手さんに『偏差値が違うと話にならない』というようなことを言われましたが、全くもってその通りですね。学歴マウントを取るしか能のないあなたたちとは、話になりませんよ」。
横田が俺に掴みかかろうとした、その時だった。横田のスマホが鳴った。「なんだ」と怒鳴りながら電話に出ると、「え? 廃棄物処理法違反? どういうことだ」と、どんどん声が小さくなっていく。さっきまで俺を見下していた井手も、電話をしている横田を不安そうに見つめていた。横田は電話を終えると、「井手、すぐに戻るぞ」と言った。俺は「産業廃棄物業者でもないのに他者のゴミを引き取り横流しする行為は、廃棄物処理法違反ですからね。自分が関わる法律も知らずに井手さんが得意げに喋っていましたが、ついに発覚したんでしょうか」と言うと、横田は青ざめた。井手は「え? 法律違反? 俺が?」と言って、横田に助けを求めるように視線を送る。だが横田は「俺は知らない。お前が勝手にやったことだ」と言って、あっさり井手に責任を押し付けた。北村教授が「ひどい上司ですね」と呟く。俺は「教育もできない上司を持つと大変ですが、現在の自分の仕事についてきちんと理解せず、責任も持たず、学歴で人を見下すのもどうかと思いますよ。あなたたち、どっちもどっちですね」と言うと、北村教授が横で静かに頷いた。井手と横田は険悪な雰囲気のまま車に乗り込み、去っていったのだ。
その後、同業者の工場長から噂を聞いた。井手と横田はとかげの尻尾切りで、懲戒解雇になったらしい。商社自体にも数週間の営業停止処分と巨額の罰金が下ったという。1ヶ月ほど経って工場の電話が鳴り、「下請けのくせに生意気なんだよ。お前のせいだからな」という横田の怒鳴り声が響いたが、「自業自得でしょう」という俺の言葉に、電話越しにショックを受けたようで、それから二度と電話が来ることはなかった。数ヶ月後、井手が「先がなかったのか、うちに就職させてくれ」と来たが、「現場を馬鹿にする人間が現場で働けるわけがないだろう」と追い返した。うちの工場は航空機メーカーとの取引が順調で、うちの技術で作られた素材が空を飛ぶのも近い将来だろう。これからも夢を持ってこの仕事を続けていきたい。天国の両親も見守ってくれていることだろう。
