会議が終わった廊下で、私は彼女の背中を追いかけながら、昨日まであれほど厳しく当たられていたのが嘘のように感じていた。「はお君、あなたは首よ」——信頼していた上司・海野未来さんのその一言で、すべてが始まった。廊下で書類を拾おうとした彼女を支えようとして、たまたま手が胸に当たってしまっただけ。なのに彼女は「私の胸を触ったでしょう。だから社長に報告させてもらったわ」と、右手で左腕をぎゅっと握りなが…

会議が終わった廊下で、私は彼女の背中を追いかけながら、昨日まであれほど厳しく当たられていたのが嘘のように感じていた。「はお君、あなたは首よ」——信頼していた上司・海野未来さんのその一言で、すべてが始まった。廊下で書類を拾おうとした彼女を支えようとして、たまたま手が胸に当たってしまっただけ。なのに彼女は「私の胸を触ったでしょう。だから社長に報告させてもらったわ」と、右手で左腕をぎゅっと握りなが...

廊下の端で足を止めたのは、ちょうど会議が終わったばかりの時間だった。目の前を歩く海野さんの背中を見つめながら、俺はまだ信じられない気持ちでいた。昨日まで、あれほど厳しく当たられていたのに。今日から俺は、海野さんの直属の部下として働くことになったのだ。

「はお君、あなたは首よ」

その一言で全てが始まった。信頼していた直属の上司だった海野未来さん。彼女にそう言われた時、頭の中が真っ白になった。まさか、あの時のことがここまで尾を引くとは思わなかった。

「私の胸を触ったでしょう。あの時のこと、ずっと我慢していたんだけど、やっぱり耐えられなかった。だから社長に報告させてもらったわ」

海野さんは右手で自分の左腕をぎゅっと握った。まるで悔しさに耐えるかのように。あれはわざとじゃなかった。廊下で書類を拾おうとした時、バランスを崩した彼女を支えようとして、たまたま手が当たってしまっただけだ。しかし、そんな言い訳が通じるはずもなく、俺はその場で解雇を言い渡された。

あの時は本当に終わったと思った。しかし、その直後に訪れた一本の電話が、全てをひっくり返すことになる。

「助けて…お願い…あなたが必要なの」

すすり泣きながらそう訴えてきたのは、俺を首にした張本人の海野さんだった。彼女からその言葉を受け取った時、俺たちの逆転劇が始まったのだ。

そもそもの始まりは、俺の営業成績の悪さにあった。俺が務める海線山線は、音響機器や楽器、照明機器を海外から取り寄せ、映像制作会社やスタジオ、ライブハウスに売り込む会社だ。しかし、何度足を運んでも契約が取れない。どれだけ丁寧に説明しても、向こうの求めるものとズレがあるのか、いつも門前払いだった。

「羽を帰ってきたのか。その車の匂いを見る限りだと、今回もダメだったようだな」

会社に戻ると、副社長の望月さんが待ち構えていた。彼はいつものように見下した笑みを浮かべている。

「ま、君に耐えられるものではないよ。お前の説明は」

そう、彼の言う通り、俺は説明が下手なのだ。どれだけ言葉を尽くしても、誰も聞いてくれない。それでも必死で食らいついてきたが、成績は上がらず、営業部内でも足を引っ張る存在になり下がっていた。

「お前のような奴が、どうしてこの会社の面接を通過できたのか疑問だ。卒業した大学だって地方のFランだし、社長に人を見る目がないとしか言えないな」

「そんなことは…」

「ないと言えるのか?この営業成績でも」

副社長が指で示したのは、今月の営業成績が書かれたホワイトボードだった。最下位の欄に、大きく俺の名前が書かれている。それを見て、俺は何も言い返せなくなってしまった。

「無能なら無能で、さっさと自分で会社をやめるなりなんなりすればいいだろう」

副社長の避難がまだ続くのかと、俺はうんざりしながら俯いていると、後ろから鋭い声が聞こえてきた。

「そこどいてもらえますか?通りたいのですが」

振り返ると、主任の海野さんが腕を組み、俺と副社長をじろりと睨んでいた。彼女に押されて、俺と副社長は慌てて道を譲った。確かに、営業部の入り口で立ち話をしていた俺たちが悪かった。

「相変わらず怖いな。海野さんはせっかく美人なのに台無しだ」

ぽつりと零すと、副社長が眉をひそめる。

「美人は関係ないと思います」

「関係あるでしょう。それに、社長の娘があんなんじゃ、社長の評判も落ちるってもんだ」

「それも関係ありません。一体どんなエビデンスがあって、社長の娘が美人だけどクールだと社長の評判が落ちるって言うのですか?」

副社長は言葉に詰まり、悔しそうな顔で自分のデスクへと戻っていった。俺は思わずため息をつく。海野さんは、見た目だけでなく性格も完璧な人だ。しかし、それだけに近寄りがたい雰囲気もある。

昼休み、車内の食堂で食事を終え、部署へ戻る途中の廊下で海野さんの後ろ姿を見つけた。副社長の言う通り、彼女は本当に綺麗な人だ。歩く姿さえも優雅で、見とれてしまうほどだった。周りに誰もいないのをいいことに、しばらくその後ろ姿を眺めていると、ふわりと髪の毛が一枚、俺の足元に落ちてきた。

「海野さん、髪が落ちましたよ」

拾い上げて声をかけると、彼女が振り返った。

「ありがとう、君」

名前を覚えていてくれている。その事実に、驚くと同時に嬉しくなった。せっかくだから、もう少し話をしたい。そう思って、咄嗟に口を開いていた。

「それ、新しいプロジェクトですか?」

海野さんが手に持っていた書類に視線を落とす。そこには「音楽教室」という文字と共に、いくつかの企画書が綴じられていた。

「そうだけど…無料の音楽教室を作る案、すごくいいと思います。うちで取り扱っている楽器や音響機材を触ってもらえるきっかけにもなりますし」

「でも、それだけじゃ生徒がすぐにやめてしまうかもしれません」

「え?」

「何かしらのコンクールに出るとか、発表の場を設けた方が、生徒のモチベーションもアップすると思います。いかがですか?」

思いつきを口にすると、海野さんは目を丸くして俺を見た。しまった、また余計なことを言ってしまったか。そう思って顔を曇らせたが、彼女の反応は違っていた。

「はお君、あなた、この書類をさっき初めて見たのよね?どこかで見たことがある?」

「はい、初めて見ました」

「そう…それで、生徒に発表の機会を与えた方が練習のやる気も持続するんじゃないかと、そういうことね」

「はい。もしデータが必要でしたら、集計しますが」

「いや、いいわ」

海野さんは短くそう言うと、足早にその場を去ってしまった。ああ、また余計なことを言ってしまった。せっかく話ができたのに、これで嫌われてしまったかもしれない。俺はがっくりと肩を落とし、自分のデスクへと向かった。

しかし、その翌日。出勤してすぐ、海野さんが俺のところへやってきた。

「はお君、今日からあなたは私の直属の部下として働いてもらうから」

「え?」

出勤していきなり飛び込んできた言葉に、俺は間の抜けた声を上げてしまった。周囲も同じだったようで、部署がどよめきに包まれる。

「なんで羽尾が?」

「あの説明ベタで無能なあいつを部下にするとは」

「さすが社長の血を引く娘だな。彼女も人を見る目がないんだろう」

「ダメだったら任命責任が問われますね、これは」

そんな好き勝手な声が飛び交う中、海野さんはじろりと周囲を睨みつけた。その迫力に、部屋は一瞬で静まり返る。いきなりのことに驚いたけれど、正直嬉しかった。少しでも彼女の役に立てるように頑張ろう。そう心の中で決意した。

それからの日々は、刺激に満ちていた。海野さんは新しいプロジェクトの考案を進めており、その企画書は他の部署の社員も参加して競われることになっていた。選ばれた案が正式に採用されるらしい。

最初のうちは、データの集計や資料の読み込みなど、補助的な仕事を任されるだけだった。しかし、日が経つにつれて、海野さんは俺の意見を求めてくるようになった。

「教室に置く楽器の種類とか、予算の案とか、教師をどうやって集めるかとか、あなたはどう思う?」

「あの…海野さん、俺の意見なんか、役に立ちますか?」

ふと疑問に思ってそう聞くと、彼女はパソコンのキーボードを叩きながら眉をひそめた。やっぱり役に立っていないんじゃないか。部下にした手前、意見を言わせているだけなのでは。そう不安が募る。

「なんて、そんなこと言わないでほしいわね。役に立たないなら、わざわざ聞いていないわ。あなたの意見はとても参考になる」

「え?」

「この間、廊下でプロジェクト案を拾ってもらった時、あなたはあの一瞬で私の案を読み、さらに改善点まで導き出した。あなたは恐ろしく頭の回転が速くて、勘が鋭い人なんだと分かったわ」

「そんな…昔から、人に説明するのが下手で…」

「それは聞く側の問題よ。私は聞く耳を持っている。あなたの言葉を」

海野さんは真剣な眼差しで俺を見つめる。その目に、嘘はなかった。

「私の周りって、私が社長の令嬢だからかしら、私の意見に口出しをする人がいないの。イエスマンだらけだから、あなたの意見はとても貴重なの。これからも、気づいたことがあれば私に教えてほしい」

今まで、自分の意見をきちんと聞いてもらえたことなんてなかった。孤独だった。この場所でも、自分は必要とされていない。そう思い込んでいた。しかし、彼女は違う。俺の言葉を、きちんと受け止めてくれる。

「はい、もちろんです」

そう答えた時、海野さんは初めて、嬉しそうな笑顔を見せた。それは、周囲が誰も知らない、彼女の素顔だった。

プロジェクトが本格的に動き出すと、海野さんの仕事量は増えていった。彼女は優秀な社員だが、一人で抱え込む癖がある。デスクでコーヒーも飲まずに、朝から深夜まで働き詰めだ。

「海野さん、少し休んだ方がいいんじゃないですか?」

コーヒーを差し出すと、彼女は少しだけ疲れた笑みを見せる。

「ありがとう…そうしたいのはやまやまなんだけど、今日中に終わらせたい仕事があって」

「それ、俺が手伝いましょうか?」

「いいの?助かるわ」

それからというもの、二人で残業する日が続いた。黙々と仕事をする日もあれば、ふとしたはずみに笑い合う日もある。気づけば、彼女の些細な仕草まで目で追うようになっていた。

会議室でプロジェクトの最終確認をしていた時、海野さんが突然立ち上がり、窓際へ歩いていった。外はすっかり暗くなっていた。

「はお君」

「はい」

「本当に…ありがとうね。副社長にボロクソ言われているのに、私のプロジェクト手伝ってくれたの…私のこと、嫌いになった?」

「何言ってるんですか。嫌いになんかなりませんよ。だって…」

「だって?」

「海野さんは…俺の意見を初めてちゃんと聞いてくれた人だから」

海野さんが振り返る。その瞳は、少し潤んでいるように見えた。

「私ね…こう見えて、周りの目を気にしているの。社長の娘だからって、みんなある一定の距離を置く。本音でぶつかってくれる人は、誰もいなかった」

「いますよ。ここに」

「…そうね」彼女は少しだけ口元を緩め、自分のデスクへ戻った。「作業を再開しましょう。このプロジェクト、成功させたいの。あなたのためにも」

その言葉に、胸の奥が熱くなった。この日のために、ここまで繋がってきたんだと思うと、感慨深いものがあった。一人で何もかも抱え込もうとしている海野さんの、その横顔に、俺はもっと尽力しようと心に誓った。

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