三日前、工場を追い出された私が、今日、同じ工場の重いドアをくぐった。ヒーターの吐息と機械油の匂いが、かつて毎日いた場所だと教えてくる。巨大なラインは完全に停止し、警報ランプだけが赤く光っていた。専門家十数人が頭を抱える中、製造管理課長の沢が私を見て鼻で笑った。「おいおい、本気でこの女に頼むのか?三日前に首を切った無能に二千万だぞ」周囲の視線が一斉に突き刺さる。疑い、嘲笑、軽蔑。かつての同僚た…

三日前、工場を追い出された私が、今日、同じ工場の重いドアをくぐった。ヒーターの吐息と機械油の匂いが、かつて毎日いた場所だと教えてくる。巨大なラインは完全に停止し、警報ランプだけが赤く光っていた。専門家十数人が頭を抱える中、製造管理課長の沢が私を見て鼻で笑った。「おいおい、本気でこの女に頼むのか?三日前に首を切った無能に二千万だぞ」周囲の視線が一斉に突き刺さる。疑い、嘲笑、軽蔑。かつての同僚た...

私は工具を手に、工場の重いドアをくぐった。ヒーターの吐息と機械油の匂いが、かつて毎日過ごした場所だと教えてくれる。三日前、私はここを荷物一つで追い出された。今は違う。今度は私が条件を突きつける番だ。

工場の中央、巨大なG3ラインの前には専門家と名乗る十数人の男たちが群がり、頭を抱えていた。彼らの顔には疲労の色が濃い。設備は完全に停止し、警報ランプだけが規則的に赤い光を振りまいている。そしてその輪の真ん中に、製造管理課長の沢竜太が立っていた。

私を見つけた瞬間、あの男は鼻で笑った。

「おいおい、本気でこの女に頼むのか?三日前に首を切った無能に二千万だぞ。どうせ直せずに金だけ持ち逃げするに決まってる」

周囲の視線が一斉に私へ突き刺さる。疑い、嘲笑、軽蔑。かつての同僚たちは皆、私が有罪であると信じている。いや、信じたいのだ。あの告発が自分たちの都合に合うものだから。

私は何も言わずに柏木社長を見た。三日前、全社員の前で私に頭を下げさせた男。今は三人とも嘘のように憔悴しきっていた。彼の目は窪み、ネクタイは緩んだままだ。

「桐さん、よく来てくれた」

社長の声は震えていた。「本当に、すまなかった。あの時は…私も仕方なく」

「作業の前に、まず二千万の入金を確認させてください。それが確認できるまでは、私の工具には一切触れません」

私の声は工場内に思ったより大きく響いた。周囲がざわつく。

「二千万だと?」沢が声を上げた。「足元見やがって。この非常時に、どれだけふっかけるんだ」

「専門家を何人呼んでも直せなかった設備の修正料金としては、むしろ安い方だと思いますがね。大王製薬との契約が打ち切りになれば、その損失は二千万が何倍にも膨れ上がるでしょう」

苛立った様子の沢が一歩前に出る。

「陥れた上司に文句を言う資格があると思ってるのか?お前は────」

「私が何か言う前に、あなたは口を閉じていただけますか。あなたの話が必要なら、そう言いますので」

数瞬の沈黙。彼の顔が赤く染まるのが分かった。かつての部下に、しかも自分が嵌め落とした相手に、大勢の前で言い返された。堪えきれなかったのだろう、沢の手が私の腕を掴もうとした。

その瞬間、私は手にした帽子を外して雪のような髪が柔らかく揺れ、整えられたセットが崩れて静かに胸へ落ちた。それを合図にしたように工場の空気が一瞬で変わった。三日前の記憶が鮮やかに蘇る。私は思わず、当時身に着けていただらしないジャージと、誰の目から見ても無能な女という印象を与える身だしなみに自分を縛りつけていたことに、自分でも驚いていた。それを外した今、私は何の信仰も捧げない。顔を上げた私の目に、沢の方が先にひるんだ。

「上等だよ、その時間をやる」

言うと、私は工具バッグを床に下ろし、ラインの最深部へと歩き出した。

後ろから社長が早足で追いかけてくる。

「桐さん、待ってくれ。本当に、本当に直るんだろうな。大王に納期遅延の通告を出されたら、うちはもう」

「ラインの状態を確認させてください。それまでは何も断言できません」

私は設備の前へ立ち、慌てずに計測器を手に取った。触り慣れたその機械は、何度も夜を越えて共に過ごした道具だ。私は装置の隅のカバーを外し、隙間から光を当てて内部を覗き込む。歪んでいる。明らかに、あの男の見識を疑いたくなるような場所が。

「ここに異物が混入している。内部センサーの配線が逆に繋がれているせいで、既定の監視プロセスが成立していない。設定値を記録しているメイン基盤の操作履歴さえ書き換わっている」

「どういうことだ?」

「どういうことでもありません。ただ、この工場に『不可能』があるなら、それは機械の限界ではなく、人の手によって作られた暗礁です」

私は振り返り、沢を見た。

「三日前、あなたは私が最終調整を誤ったと言った。でも、ここにある記録は私の手とは全く別のルートで書き換えられている。もし私が犯人だというのなら、私がこんな小学生でも分かるような配線ミスをするはずがない。それに、この内部の擦り傷は、頻繁にカバーを開けていた人間がいることを示している」

沢の顔色が一瞬で固まった。

「な、何を勝手なことを言ってるんだ! メンテナンス記録を見れば、お前が担当するって────」

「メンテナンス記録? それですか?」

私はゆっくりと、自分の鞄から一冊のノートを取り出した。父から受け継いだ、二十年分の設備の癖がびっしりと刻まれた記録だ。

「このノートを見てください。私はこの会社で一度も、この設備にメンテナンスをしたことがありません。私が担当していたのはデータ分析と調整だけです。もし私が犯人なら、どうして違う工程の記録が残っているんでしょう?」

「うるさい! そんなフェイクのノート────」

「これ、父のノートですから」

私が静かに言うと、工場が水を打ったように静かになった。

「父はこのラインの設計者であり、三十年間この設備を見続けた最初の調整技師でした。息子や私を含む誰もが、この設備のことを父ほど知らない。このノートには、設備の癖だけでなく、何かあった時の対処法も記録されている。一つだけ言えるのは、私の記録が実害を意図したものではなく、『正しい数値』を残すためのものだったということ」

「ならば、なぜお前は……」

「なぜ私が疑われたのか? それは単純です。私が疑われる状態を作ったのが、あなただから」

「ふざけ────」

「あなたが入社して最初の大きな案件が、このG3ラインの立ち上げでした。あなたはこのライトの収益に目が眩み、そして素人ながらに手を加えた。でなければ、ここにあるインピーダンスの設定値は変わりません。これは工場出荷時からの値です。私が触ることのない部分です」

沈黙が流れた。

沢は言葉を失い、社長と、周りの技師たちを見渡した。誰も口を開かない。それどころか、皆が少しずつ彼から目をそらしていく。

「そ、そんなの……単なる推測だ。証拠もないのに……」

「証拠なら、後で添えますよ。基盤に残っていた操作履歴の改竄痕跡を、時系列と共に。警察にも、行政にも送付できる形で、ね」

沢の顔から血の気が引く。

「な、何でそんなことを……お前、嵌めたな?」

「嵌めたのはどっちでしょうか。あの日、無実の罪で私を告発したのは、この私ではなかったと思いますが」

私は工具を両手に取り、作業を再開した。

「さあ、悪いけど、この会話はここまでです。ラインが停止しているのは、私がいなくても彼がこの状況を作り出したからでもある。私はこれから、彼が壊したものを元通りにします。その報酬を、私は先に頂いているので」

それから私は意識をただ一つのことだけに集中させた。

時折セットの状態を確認しながら、計器を示し、操作盤の電源を切り、基板を外し、接続を一つひとつ確認していく。何度も繰り返してきた作業だが、今回は違う。自分を追い出した連中の目の前で、この作業をやっている。

時間の中で声が飛び交う。

「そんなに簡単に直るわけ……」

機械音が鳴り、ランプが一つ点灯した。それを合図に、私はさらに注意深く、今度は微調整領域に入る。電磁波のトルクを締め直し、振動の吸収を調整する。時折、父のノートと首輪を開き、書き込まれた数値の意味を確認する。

三十分が経過した。その間、社長は一歩も動かず、じっと私の手元を見つめていた。専門家たちも、やがて口を閉じ、興味深そうに私の作業を眺め始める。

私は背筋を伸ばし、一つの基盤を所定の位置に差し込んだ。カチリという手応えが、指先に残る。

最後のスイッチを入れる。

大きな警告音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、巨大な機械がゆっくりと息を吹き返した。ラインが動く。コンベアが滑らかに動き出す。表示パネルには、正常値を示す数字が次々と並んだ。

誰かが息を飲んだ。

工場の電話が鳴る。社長が震える手で受話器を取る。相手は取引先、大王製薬のようだ。少し話すと、社長の顔に、涙にも似た表情が広がった。

「はい、はい……確認しました。予定通り納品できます。ありがとうございます。ありがとうございます」

受話器を置いた社長は、私を見下ろした。その目は真っ直ぐに、かすかに震えていた。

「桐さん……見事だ。本当に直してしまうとは。すごい。本当にすごい」

「二千万は頂きましたからね」

私は工具を袋に戻し、淡々と言った。

「あの件ですが……私の落ち度でした。改めて謝罪する。本当にすまなかった。あの時、お前を解雇したのを、どのみち後悔しているとは言わない。今だって日々の文句を並べ立てたい気持ちもある。だが、少なくとも、私の判断でお前だけを一方的に有罪にしたのは間違いだった」

社長は深く頭を下げ、そして沢を呼び寄せた。彼は下を向いて、顔を歪めている。

「……沢。お前、一体、理由は何だ?」

「……何の話です」

「嘘をつけ。操作記録を改竄したのはお前だろう。先ほどの桐さんの説明で、この設備に詳しい者がやったことだと分かったぞ。私は技術面には疎いが、指輪のメンテナンス記録だの、訪問記録だの、そういうものがオリジナルから偽造されていたことを調べるくらいの権限は知っている」

沢が顔を上げ、皆に見えていた挑戦的な笑みを浮かべた。

「ええ、そうですが。だから何です? 社長のおぼっちゃんの俺が、出世の足掛かりに一度くらい派手な手柄が欲しかったんですよ。それはまずいですか?」

「……何を言ってやがる」

「ラインが止めない限り、あんたら専門家は問題を見つけられなかった。ですが、この工場の設備を科せられるだけで、社内の 評価はガラリと変わる。俺が直したら、一気にお前の地位を……」

「社員を不正行為で失わせて、決めるか。本当に頭に血が上っていなければ、人を無実の罪で失わせる真似をしてるとは思わないのか?」

「それ、本当に辞めた方がいいですよ。俺はそこまでして生かなくても、でかい顔をしている人間に会うと、なんとなく腹が立ってしまって」

その口調に、さすがの私も呆れ果てた。開いた口を閉じようとする余裕すらない。

「その上で申し上げますが、あなたのおかげで、私、辞職する必要がなくなりました。せっかく今日、直して差し上げたのだから、こちらの面目を立てて、このまま戻ります。無論、給与も退職金も、全額ぶん取るつもりです。それでいいですか?」

社長が、こくこくと何度もうなずいた。

「もちろんだ。ありがとう。本当にありがとう」

「では、これにて」

私はバッグを肩に担ぎ、来た時と少しだけ軽い足取りで、工場の外へ出た。

振り返ると、見送ることもなく、立ち尽くす社長と、それから自分を差し置いて生き残った光景に打ちひしがれた沢がいた。無理もない。彼はもう、ここから這い上がることはできない。

夜のピンとした空気が、疲れた体には気持ち良かった。三日前の夜、この道を私は何も言えずに選んだ。今はもう、沈む理由すら失くしてしまった。

助手席に置いたノートは、表紙まで摩耗していても、私の宝物だ。

「ちゃんと守ったよ、父さん」

私は一度だけノートを撫で、車のエンジンをかけた。朝日がもうすぐ昇る。真実は、どんな場所にも記録されてしまう。

誰が何をしても、数字は透き通っている。

私はハンドルを大きく切った。家に帰ったら、今日はゆっくりとコーヒーを淹れよう。道具を磨き、父のノートを見直して、明日からは、もう二度と縛られることのない時間を探すのだ。

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