小野さんの葬儀の日、俺は泣き腫らした目で式場から出たばかりだった。父は突然逝った。まだ六十代半ばで、定年後の人生を夫婦で楽しむはずだった。母は親族に支えられながら、弔問客にぺここ頭を下げている。その姿を見ただけで、また涙がこみ上げてきた。
その時だ。ポケットのスマートフォンが震えた。画面には会社のチャットツールの通知が映っている。山田さんからだった。俺は震える指でメッセージを開いた。
「葬儀ごときで会社を休むな。首にするぞ。」
ごとき。葬儀ごとき。俺はその文字を二度、三度と読み返した。そうしたら、今度は通話ボタンが光った。出るまでもない。出たところで、こいつは何を言うか分かっている。
「もしもし」
「おい、小野。どうなってるんだ。お前の担当案件の進捗が全然上がってこないぞ。こっちはお前のせいで、どれだけ遅れが出ると思ってるんだ。いいか、今日中に提出しろ。無理なら明日から来なくていいぞ」
父親を失った日の夜に、だ。しかも葬式の真っ最中に。周りの弔問客が何か話しかけてきても、耳に入ってこない。俺の拳は震えている。怒りで、悲しみで、無力さで、何かが張り裂けそうだった。
「わかりました。そのように、社長にお伝えしますね」
先方の声が止まった。隙を与えてはいけない。苦しい言い訳を並べても、この男には聞く耳を持たない。ならば、とにかく一回切るしかない。俺は静かに通話を終了させた。
翌朝、俺はいつもより一時間早く出社した。葬儀の翌日だ。休むという選択肢はなかった。山田さんに何か言われるのが嫌だったし、これ以上仕事を遅らせるわけにもいかない。デスクに着いて、まず松原さんに葬儀の後の連絡ができていなかったことを詫びた。すると松原さんは、ひどく驚いた顔をした。
「え、小野さん、お父さんの葬儀だったんですか? そんな、今日来なくても‥‥」
「いえ、大丈夫です。何か手を抜くわけにはいきませんから」
松原さんは何か言いかけて、それでも何も言わなかった。彼はいい人だが、ここでの決定権は一切持っていない。俺はパソコンを立ち上げ、溜まっていたメールの処理を始めた。昨夜、葬儀の合間合間に確認したメールで、山田さんが俺の連絡先を無視して、すべての依頼をチャットツールだけで送ってきているのは分かっていた。それを思い出し、更に腹が立った。
昼休み、松原さんがこっそり話しかけてきた。
「小野さん。あの、聞きましたよ。昨日の山田さんの件、俺、怒りで震えましたよ。流石にあれはないですよ。いくらなんでも」
「‥‥松原さん。ありがとうございます。でも、こっちのことは気にしないでください。山田さんが言う通り、弱みを握られているのは事実ですから」
「はあ? 何言ってるんですか。小野さんは悪くないじゃないですか。それより今日、山田さん、朝から機嫌がめちゃくちゃ悪くて、中堅の人が全員、会議室に集められてるんですよ。多分、昨日の小野さんの対応が気に入らないんだと思います。『あの若造が』って、ずっとブツブツ言ってました」
俺は何も言わなかった。どうせ言っても無駄だ。松原さんは同情してくれているが、同情で仕事が進むわけでもない。
午後三時過ぎ、チャットツールに山田さんからメッセージが入った。
「小野。今すぐ俺のデスクに来い。話がある」
短い言葉には、怒気が滲んでいた。俺は深く息を吐いて、席を立った。山田さんは執務室の奥、窓際の自分のデスクにいた。周りには、他のチームのメンバーが数人、書類を手にしている。
「呼ばれましたので、来ましたが」
「何だ、その目は。足を引きずって来たのか。女みたいな歩き方しやがって。お前、昨日の葬儀、どうだったんだ? ちゃんと父ちゃんの霊前に手を合わせてきたのか?

」
言いながら、山田さんはにやりと口元を歪めた。他のメンバーは気まずそうに視線を逸らしている。俺は拳に力を込めた。でも、ここで怒ってしまっては負けだ。
「はい、お陰様で。それで、何の用でしょうか」
「ほう、偉そうだな。お前、昨夜の話し方、おかしかっただろうが。『社長にお伝えしますね』だと? 何だその言い草。お前には社長に直接言う資格も、俺と対等になる資格もないんだよ。ベンチャーの小さな箱庭から出てきたばっかりの、半人前が」
「‥‥ああ、だから今、それで伝えたんですか? 社長に。『葬儀ごときで』って言葉を、そのまま」
山田さんの顔が一瞬、歪んだ。図星だ。ここで引けば、ますます増長されるだけだ。俺は腹を括った。
「山田さん。俺はあなたに『葬儀ごとき』って言われたんです。自分の親の葬式に来るなとは言われました。だから、どうしてあの時間にいなきゃいけなかったのか、ちゃんと説明したかった。でも、あなたは話を聞いてくれる様子がなかったから、社長に伝えるのが筋だと思ったんです」
山田さんの頬が引き攣る。周りの空気が凍り付いた。すると、遠くから慌てた足音が聞こえてきた。振り返ると、人事部の松原さんが、汗だくで走ってきて、そのまま山田さんのデスクに書類を置いた。
「山田さん! ちょっと!
」
「な、何だ、松原。いきなり」
「これ、取引先からのクレーム票です。今日の午前中に届きました。『山田様の発言について、誠意ある対応を求める』って。先方の部長さんが、『ウチの社員に向かって『お前らはドロ沼だ』って言ったそうですよ。何ですか、これ! 」
山田さんの顔色が、一瞬で真っ青から土色に変わった。佐藤さん、つまり先週まで俺たちの部署にいて、今は取引先に常駐している先輩が、電話で報告を受けたのだ。その内容は、山田さんが取引先の打ち合わせの場で、取引先の試作開発を「お前らがやってもどうせ失敗する」と切り捨てた、というものだった。それが取引先の知るところとなり、先方の部長が激怒、クレームとして本社に来ているのだ。
「これは、待ってくれ。それは状況があってだな‥‥」
「いいえ、もう聞いてません! 今回は私、人事としても会社としても看過できません。山田さん、今日付けで、すべての担当から外してもらいます。これから会議があるので、こちらに」
松原さんの声は、今までに見たことがないくらい真剣だった。山田さんは、周りを見渡したが、誰一人として目を合わせる者はいない。目の前の現実が信じられない、という様子で、よろよろとその場に立ち尽くした。
俺はデスクに戻り、静かに座った。数時間後、山田さんは係長に降格、というより、実質的には更迭扱いとなった。人事部の管轄で、開発部門から総務部門への異動が決まった。聞くところによると、彼の数々のパワハラ行為の記録も、他の社員から人事部に提出されており、今回のクレームが決定打になったらしい。
午後六時過ぎ、荷物をまとめた山田さんが、執務室を去っていくのが見えた。松原さんが、そっと俺に近づいてきた。
「小野さん。あの、よかったんですか? 」
「何がですか」
「いや、言っておこうかと思って。山田さんが今日、俺に言ったんです。『お前ら、あの小野に助けられたな。でも、あれからあいつは要注意人物だぞ。今に見てろ』って。‥‥小野さん、気をつけた方がいいですよ。あの手のタイプは、女々しいですから」
俺は、松原さんの言葉に、ほんの少しだけ首を傾げて答えた。
「‥‥今度からは、俺も『葬儀ごときで休むな』なんて言われないように、ちゃんと休暇申請書を出しますよ。ちゃんと、有給で」
松原さんが、一瞬驚いた顔をして、それから困ったように笑った。
「‥‥はは。そうですね。それでいいんだ。あの、小野さん。ご愁傷様でした。お父さんに、ちゃんと弔電を送らせてもらってもいいですか?
」
「‥‥ええ。松原さんがそうしてくれるなら、父も喜ぶと思います」
そして、俺は窓の外を見た。山田さんはエントランスを出て、一度も振り返らずに夕暮れの街へ消えていった。俺の胸の内には、思いのほか、何の感慨もなかった。ただ、一つだけ確かなことがあるとすれば、前へ進むということは、こういうことなんだろう。みんなが言うように、物事は変わる。自分が正しかったかどうかではなく、ある日突然、何かをきっかけに、歯車は回り始める。俺はパソコンの電源を切り、立ち上がった。今日はもう帰ろう。父の顔を見に、一度帰っても、叱る者はいないはずだ。