雨の音が強くなった午後、店のガラス戸が静かに開いた。傘を畳んだ女性が、高級スーツの袖から滴る雫も気にせず、一輪のガーベラを見つめてつぶやいた。「この花、元気ですね」。私は花を整える手を止め、無理して咲いていないからですよ、と心の中で答えた。差し出されたカードに『浜田工業』の文字を見た瞬間、手が震えた。かつて私が産業医として働いていた場所。そして彼女は、あの日私が取り上げた赤ん坊だった夏。一週…

雨の音が強くなった午後、店のガラス戸が静かに開いた。傘を畳んだ女性が、高級スーツの袖から滴る雫も気にせず、一輪のガーベラを見つめてつぶやいた。「この花、元気ですね」。私は花を整える手を止め、無理して咲いていないからですよ、と心の中で答えた。差し出されたカードに『浜田工業』の文字を見た瞬間、手が震えた。かつて私が産業医として働いていた場所。そして彼女は、あの日私が取り上げた赤ん坊だった夏。一週...

夜の雨音が続くなか、ぼんやりと浮かび上がるのは、車の影と濡れたアスファルトの匂い。その中で、俺は……いや、この物語の語り手は、少し疲れた中年の男、高木徹歳だ。下町の商店街の片隅で、朝から晩まで花を売って暮らしている。朝六時、まだシャッターが下りたままの商店街に、ガラガラという音が響く。花屋の前で立ち止まり、深く息を吸い込むと、夜の間に染み込んだ土の匂いと、鼻をさす花の香りが混ざった空気が肺に広がる。

昼間の喧騒が嘘のように静かな店内に、並んだ花たちはまだ眠っているようだ。バケツの水をひっくり返し、すっと茎を切り戻し、一輪一輪に声をかけるようにして整えていく。無理して咲いてないから、ここにあるんだよ。そんな言葉が、無意識のうちに口をついて出る。花は正直だ。水が足りなければすぐに項垂れるし、強い日差しが続けば焼けてしまう。だから、俺は花に無理をさせない。かつて、もう一人の誰かに向けてきた言葉のように。

店の奥に戻り、エプロンを締め直した時、いつの間にか棚の上に置いてある古びたバッグが視界の端に入った。黒ずんだ医療用のバッグ。何年も使っていないのに、処分する気にはなれない。古い包帯、聴診器、使い慣れたペンライトが、錆びたケースの中で息を潜めている。もう出番はない。そう思っているのに、手放せなかった。花屋になる前、俺は医者だった。浜田工業で産業医をしていた。結果を出すことが正義だと信じて疑わなかったあの頃。誰かを救うために、自分ができることをやっていた。それが、なぜかここで花を売っている理由になっている。

その日、雨は朝から降り続い、昼を過ぎる頃には土砂降りになっていた。商店街の通りに人影はまばらで、アスファルトを打つ雨音だけが絶え間なく響く。店先に出しておいた花を軒下へと移し、濡れたエプロンの裾を絞っていると、ガラス越しに人影が止まった。高級ブランドのスーツに身を包んだ、この商店街には似つかわしくない女性だった。

いつの間にか傘を畳み、戸を開けた女性は、雨を弾かせた髪の毛先を触りながら、ゆっくりと店内を見回した。やがて、彼女の視線が一輪の花で止まる。ガーベラ、淡いオレンジ色の。指先で花びらに触れながら、彼女は静かにつぶやいた。

「この花、元気ですね。」

無理して咲いてないからですよ。俺は、心の中で付け加えた言葉を飲み込みながら、花を整える振りをした。女性の目は、なぜか疲れているように見えた。整った顔立ちの奥に、何か張り詰めたものを抱えているように。

「花も、人もね。無理を続けると、持たなくなりますから。」

彼女は目を丸くし、何かを確かめるように一瞬だけ俺を見つめてから、静かに会計を済ませた。差し出されたカードを見た瞬間、俺の手が止まった。『浜田工業』の文字が、そこに刻まれている。

「…このお花、大事にします。」

彼女はそう言って、雨の中へと消えていった。濡れた歩道に落ちた後ろ姿に、何か心残りのようなものを感じながら、俺は何気なくカードを裏返した。夏の名が書かれた、安っぽい紙のカードが、やけに胸に響いた。

それから、一週間が過ぎた頃だった。いつものように夕方、店の奥で売り上げをまとめていると、バタンという乾いた音が雨音を割って響いた。反射的に顔を上げると、すぐ向かいの路上で、若い男が倒れているのが見えた。薄暗い街灯の光と雨煙の向こう、倒れた男の顔が見えた瞬間、俺は息を飲んだ。昔、俺が診た患者……いや、違う。あの頃、救えなかった患者だ。

倒れているのは、かつて俺が医療ミスで死なせてしまった男、篠田譲二の息子だった。ハードルの高い大学に通う秀才だった、と聞いていた。どうやら、両親の離婚の慰謝料問題でもつれて、精神的に追い詰められていたらしい。若者の心は、もっと複雑に、慎重に扱わなければならなかった。あの日、俺の処置が適切だったなら、決してこんな結果にはならなかったかもしれない。

俺はスマホを取り出すこともできずに、ただ濡れながら立ち尽くしていた。彼の意識を確認するために近づくと、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえた。翌日、新聞の小さな記事で、その青年の死を知った。過労による心不全だったらしい。いや、原因は正確には分からない。しかし、俺の心のどこかで、あの日救えなかった者への罪悪感が、再燃していた。

それから、雨の日は特に苦手になった。あの日、店のカウンター越しに、夏という女性と話をした。彼女は、あの赤ん坊だった女の子の大人になった姿――そう確信した。

あの日、病院で生まれた子。私が取り上げた、生まれたばかりの子。「この子の名は、夏と言います」――あの時の母親の言葉が蘇る。

彼女は、俺が誰かを知っているようだった。目があった瞬間、何かを確信したらしい。カウンター越しに、震える声で問いかけてきた。

「あなた…何者なんですか? ただの花屋じゃないですよね?」

静かな部屋に、時計の秒針が刻む音だけが響く。昔、医者をやっていました。浜田工業で、産業医をしていました。そう言うと、夏の顔から色が消え、力が入った握りこぶしが白くなった。彼女は、ゆっくりと事の次第を話し始めた。

あの日、倒れたのは夏の弟、海斗だった。幼い頃、原因不明の心臓の病にかかり、市民病院をたらい回しにされたが、ようやく見つけた専門医の元で手術を受けることになった。その執刀は――俺だった。成功した手術だった。しかし、術後の管理、その指示を誤ったのは、俺のミスだった。結果、海斗は再び倒れ、失われてしまった。

「あの時、先生が適切な指示をくれていれば…」

声を詰まらせながら、夏は言う。「母はこの日以来、心を壊してしまったんです」

知っていた。知っていたのに、俺は何もできなかった。そして、夏だ。夏は病院の廊下で、何も知らずに待っていた。あの日……交通事故で両親を失った幼い夏は、俺の腕の中でずっと泣いていた。あの時、俺は確かに聞いた。「おじいちゃん、お父さんとお母さんは、本当は悪い人なんかじゃないんだよね? おじいちゃんが…助けてくれたんだよね?」

おじいちゃん――その言葉に、昔の傷口がズキズキと痛んだ。俺は医者として、まだ成長途中だった夏の心を守るためには、真実を隠す方が正しいと思った。しかしそれはとんだ勘違いだった。真実を隠すほど、傷は深くなる。大人の身勝手な判断で、夏は最も大切な人を失った真実を知る権利を奪われてしまった。

「あなたにだって、選択肢はありました」

声が裏返りそうになりながら、夏は続ける。そして、カバンから一冊のノートを取り出した。そこには、帝国大学医学部の表紙と、誰かの名前が書かれている。扉の向こうで、家具が倒れるような大きな音。彼女は声を潜めて、それは私の弟、海斗の日記。もし……もしも、あの日あなたがいなければ、海斗はこの道に進んでいた。他の誰でもない、あなたと同じ仕事に。

「あなたは、海斗の人生を変えただけじゃない。私の人生も変えた…」

夏は一歩下がり、花の匂いがほんのり漂う店内を見渡した。「こんな辺鄙な場所で、ちんちくりんの店を開いて、お前は何をやってるんだろうって…会ってみたかったから」

言いたいことだけ言ってみせようとしたのか、夏の目には涙が溜まっている。

「もう一度言うよ。あなたのことが…許せないと思っているわ」

俺は何も言えなかった。何を言っても言い訳にしかならない。沈黙が続く中、カウンターの向こうから、こちらをじっと見つめる視線。俺は静かに立ち上がり、店の奥からあの頃の医療バッグを取り出した。古びた革のバッグ。蓋を開けると、中には当時のままの包帯や注射器が詰まっている。

「あんたのものだろ。この世から消え去った…真実」

夏は冷たい目で睨む。「捨てればいいのに。そんなもの、見たくもない」

「捨てるかどうかは…俺が決める。世の中には、いくつもの選択肢があるんだ。お前がその選択を間違わないように、俺が正しい選択を選んでいるんだ。」

その瞬間、夏の手が光った。理解する前に、何かの錆びた刃物のようなものが、俺の鳩尾に突き刺さっていた。驚いて見下ろすと、夏は笑っていた。泣きそうな笑顔のまま、ぐっと力が入る。

「あんたに…あんたに海斗の何が分かるっていうの?」

その声は、もう聞き慣れた彼女の声ではなかった。何かが込み上げてくる。熱い息が混じる。血がだらりと落ち、行き場をなくした怒りが循環していく。視界が歪み、いつの間にか俺は床に膝をついていた。震える手で、彼女の手に触れる。糸の切れたように、力を込める。

「…本当のこと…言ってやれずに…悪かった…」

死に際に役者ぶったって、何にもならない。夏の叫び声で、意識が遠のく。

「あんたが…あんたが全部、悪いんや!」

何かが強く引き剥がされる感覚。ばたばたと雨音だけが遠くから聞こえる。息が…苦しい。痺れる。冷たい床の上で、自分が血の海を広げているのを感じる。文句も言えやしない。俺は確かに、あの日からずっと……この瞬間をどこかで望んでいた。

「……おまえに…会えて…本当に、よかった……」

夏は体を折り曲げ、何度も頷きながら、声を殺して泣いている。やがて、静かな足音が近づき、夏のものと思われる足がゆっくりと視界のかすむ中に消えていく。雨音の代わりに、何かが床を叩く音。数秒後、突然テーブルがひっくり返る大きな音が響き、俺の体がビクッと震えた。何の音でもない、何者かがフィルムを止めたかのような静寂。そこに夏の姿はもうなかった。

雨は、小降りになっていた。店の時計は深夜を回っている。外を見渡すと、商店街の信号が無情に点滅している。足元を眺めると、輝く血溜まりが広がっているが、痛みは感じなかった。代わりに、ほっとしたような、それは本当に軽やかな感覚だった。

(……これで、やっと終われる)

どんな祈りも、どんな贖いも、もう届かない。

ゆっくりと、瞼の重さに抗えず、光のない場所へと意識が沈んでいく。最後に見た光景は、あの小雨の中で立ち尽くす夏の後ろ姿。本当のことを言えば、あの日待ち合わせた、銀行強盗のことも話せなかった。犯人は真っ黒な服に、サングラスの男。ペンライトで目をくらませた、あの男――。

いや。もう思い出すのはやめよう。

――徹歳。

優しい声が聞こえた気がした。母の声。あの日、川辺で拾った花。母は言っていた。「仏さんには、決して枯れない花を送るんだよ」と。それだけを伝えて、俺は動かなくなった。雨が。

外では、濡れたアスファルトの匂いが漂っていた。

全てが止まる。彼の、脈だけを残して。

――そして、時計の針が二時を回った時、ビニールを被り、雨に濡れた男の1人が、無造作に店の前に立っていた。サングラスの奥で何かが光る。壊れた店のドアに目をやり、ひとりごちた。

「……手間をかけさせやがって、じいさん」

男は携帯電話を取り出し、素早く番号を押すと、一言だけ呟いた。

「終わった。代金は、いつもの場所にな」

誰もいない店内に、雨の音だけが静かに響いていた。家の誰でもない、血縁でもない誰かが、夏の帰りを待っていた。浜田夏は、一生懸命に走っていた。涙が止まらない。何から逃げているのかも分からないまま、びしょ濡れのスーツで夜道を走る。海斗を、自分のせいで死なせた。海斗が望んだのは、医者になることではなかった。海斗はずっと分かっていたんだ。自分は長く生きられないんだって。そのくせ人よりも何十倍も繊細で、少し笑っていることしかできない。だからあの日、「海斗がもうすぐ死ぬ」と知った時、夏は安堵してしまった。いなくなるよ。これで解放される。面倒な弟を持つ責任から。

顔を上げると、商店街のアーケードの下に立ち、雨に濡れた少年がいた。海斗。いや、違う。海斗は、あの日死んでいる。

「…行かないでください」

その少年は、夏の袖を引いた。

「あなたは…誰?」

少年は、夏に何かを見せた。それは、昭和の頃に撮影された、白黒の粗い写真。パンクでド派手な若者のセピア調の写真。写真の隅に書かれた日付は、今から七十年以上も前のもの。写っているのは、亡き祖母。そしてその横に……

「お前、海斗を殺したんだろう」

男の声に夏は足を止めた。振り返ると、雨に濡れた男が傘もささずに立っている。男は携帯の画面を夏に見せつけた。そこには、血まみれの花屋の床で倒れる、徹歳の写真が映っていた。

「警察沙汰にされたくなければ、静かにな」

男はそう言って、にやりと口元を歪めた。

夏はただ、その場で立てずに崩れ落ちた。口の許を押さえる。自然と涙が溢れて止まらない。ああ、終わった。これで本当に、何もかも。

雨に打たれ、泣き続ける夏の後ろ姿を、アーケードの影から、少年は静かに見つめていた。そして、遠い昔の残酷なまでの優しさを思い出す。幼い夏と、まだ浜田工業の現役社長だった祖父。晴れて社長の座を継いだ徹歳。一方、俺は……

「……夏。お前は、間違っちゃいない」

少年はつぶやいた。どこか老成した、青年の声で。雨は、いつまでもやまない。広がっていく黒い雲の切れ目から、曙光が差す気配はない。夜明けが来るまで、そう遠くはないのに。店の外には、夜の闇が静かに落ちている。朝はもうすぐ、雨と共にやってくる。新しい朝が。すべてを洗い流す、冷たい雨と共に。この男の名は……二度と、呼ばれることはない。高木徹歳。花屋。最後まで、ただの花屋のまま、男は生きたのだった。

――完――

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