夕食の支度をしていたら、突然「お前はもうATMとして用済みだ。出ていけ」と妻が離婚届を突きつけてきた。その瞬間、頭が真っ白になった。私は建設現場で何十年も働き、中卒というだけで馬鹿にされながらも、家族のために汗水流してきた。なのに妻は「私をもっと贅沢させろ」と言い、娘は「ゴキブリみたいだから一緒にいたくない」と笑った。ペットの犬だけが、毎日私に尻尾を振ってくれた。弁護士に相談しても、この程度…

夕食の支度をしていたら、突然「お前はもうATMとして用済みだ。出ていけ」と妻が離婚届を突きつけてきた。その瞬間、頭が真っ白になった。私は建設現場で何十年も働き、中卒というだけで馬鹿にされながらも、家族のために汗水流してきた。なのに妻は「私をもっと贅沢させろ」と言い、娘は「ゴキブリみたいだから一緒にいたくない」と笑った。ペットの犬だけが、毎日私に尻尾を振ってくれた。弁護士に相談しても、この程度...

ただいま。そう言って玄関の電気をつけようとしたが、暗いままだった。夫の声は、誰の耳にも届かず、ただ虚しく響くだけだった。

仕事で疲れて帰ってきても、妻の香織も娘のすみれも、お帰りの一言すら言ってくれない。それどころか、二人はテレビに釘付けで、振り向きもしない。最低限の挨拶すら返してもらえない。透明人間のような扱いに、私はいつもがっかりしていた。

ペットの犬だけが、私に尻尾を振って寄ってきた。娘が絶対に自分が世話をするからと言って飼い始めた犬だったが、トイレの世話も散歩も、結局全部私の担当になっていた。

私は平日は建設会社の作業員として働き、休日は実家を継いだ兄の手伝いで農作業をしている。もうすぐ定年を迎える、ごく普通の中年男性だ。ただ一つ、昔実家が貧乏で進学できず、最終学歴が中学校、つまり中卒であることだけが引っかかっていた。

「夕飯は残っているのか?」

妻にそう声をかけると、妻はじろりと私を睨んだ。

「今いいところなの。冷蔵庫に何かあるでしょ? 勝手にチンして食べてちょうだい」

それだけ言うと、また韓流ドラマに熱中する。私はため息をついた。まだ今日は返事をしてくれただけましかもしれない。残業で遅くなった日なんかは、家中の電気を消して寝ているし、朝は遅くまで起きてこないから、私が朝ご飯を準備する。

いつからこうなってしまったんだろう。家族のためにずっとガムシャラに働いてきたのに、その家族から見向きもされないなんて。虚しさが込み上げてくる。

昔はこんなではなかった。結婚当初、風邪を引いて熱を出せば、「大丈夫?」と心配し、優しく看病してくれた。今では「私たちに移さないでね」と言うだけだ。妻は自分と娘が第一で、次にペットの犬。私のことは二の次どころか三の次だ。犬の方が、私より高級な餌を食べているだろう。ただし、トイレの世話は汚くて臭いからと私にやらせる。散歩だって、日に焼けるのは嫌だと言って、妻も娘も行かないから、私が代わりに行っている。

私は冷蔵庫に入っていた残り物をそのまま食べた。レンジで温めても、味気なさは変わらない。

妻の香織とは、私の勤めている建設会社の忘年会で知り合った。妻は派遣コンパニオンの一人で、私は一目惚れした。その場の勢いで告白し、結婚することになった。だが、香織にはバツイチで、まだ幼い娘のすみれがいた。相手の男が浮気をして、香織とすみれを残して出ていってしまったらしい。私は香織に同情したし、連れ子のすみれのことも大切にしようと決めた。

最初の何年かは、うまくいっていたと思う。すみれもよく懐いてくれて、私たちは本当の親子のようだったし、幸せだった。

ところが、結婚して三年目くらいだろうか。香織は徐々に隠していた本性を現してきた。私の給料では足りないと言い出したのだ。中卒とはいえ肉体労働だから、収入はそれなりにある。フォークリフトの運転資格も取ったし、真面目に働いているから、部下も何人もいる。

それなのに、香織は言った。

「これっぽっちじゃ全然足りないわ。あんたみたいな中卒のおじさんの妻になってやったのよ。私をもっと贅沢させてくれなきゃダメ。あんただって、いつまでも若くて綺麗な妻の方がいいでしょう? 女は金がかかるんだから、しっかり稼いできなさいよ」

妻は自分が高卒だからと、中卒で年上の私を馬鹿にしている。確かに私は五つも上だ。だが、学生時代なら大きな年の差かもしれないが、いい大人になれば五つくらい誤差みたいなものだと思う。

「でも、土日は仕事を休んで、すみれと遊んでやりたいんだ」

そう反論すると、香織は私を見下して笑った。

「あのね、あんたみたいなおじさんと可愛いすみれが一緒にいたら、すぐ不審者として通報されるわよ」

「そんなわけないだろう。親子なんだから」

私は悔しさでいっぱいだった。言い返すと、今度は娘のすみれが妻そっくりの顔で言い放った。

「おじさん、本当の父親じゃないし。日焼けして真っ黒で、ゴキブリみたいだから一緒にいたくないの」

私はその言葉に、雷に打たれたようなショックを受けた。家族としてうまくいっていると思っていたのは、私だけだったのかもしれない。頭が真っ白になった。

後で分かったことだが、香織は私のことを「土焼けして真っ黒で貧乏臭い」とすみれに悪口を吹き込んでいたらしい。他にも「実の親じゃない」とか、色々言っていたようだった。

確かに香織もすみれも色白の美人だ。私は外仕事で炎天下にいる。じりじりとした暑さに耐え、滝のような汗を流しながら、家族のために働いているのだ。真っ黒になるのは仕方がないのに。

「私たちのためにお金を稼いできてよ。それがあんたの仕事でしょ。『絶対に苦労はさせない。一生二人を養います』って言ったじゃない」

トドメのように、妻は私のプロポーズの言葉を持ち出してきた。私は唇を噛んだ。確かに私は言った。そうやって約束して結婚したのは本当だ。でも、ちょっと話が違うだろう。

私はこの時、ようやく分かった。香織は、出会った当時、夫から逃げられて、コンパニオンとして働いていた。私が一目惚れして告白したけれど、正直、香織のような美人が、私のような中卒の現場作業員と結婚してくれるはずがない。心のどこかで思っていた。でも、せっかく手に入れた生活が幸せすぎたから、気づかないふりをしていた。

香織は一度も、私に「愛している」と言ってくれたことはない。

香織が必要としていたのは、金銭づるとなる都合のいい再婚相手。私を愛しているから結婚したわけではない。あまりにもショックで、この時私は離婚を考えた。何せ、まだ香織との間に子供がいない。本当はすみれに妹か弟を作ってあげたかったが、今まで子宝に恵まれなかった。それもそのはず。香織からはあの手この手で夜の営みを断られ、気づけば夜の生活は全くなくなっていた。私を見下す相手に、頭を下げてまで関係を持ちたいとは思えなかった。

ある意味、これはチャンスだ。結婚する時に、すみれとも養子縁組をしたが、実子ではない。自分が惚れて結婚した相手に一生責任を持つと誓ったものの、さすがに金銭づる扱いをされては辛い。ところが、弁護士に相談したら、現状では難しいと言われた。妻に浮気や不倫などの不行跡があったわけじゃないし、この程度では重大な理由には当てはまらないという。

妻からのATM扱いは、重大な理由じゃないのか。

私は弁護士事務所からの帰り道、珍しく居酒屋に寄り道し、しこたま酒を飲んで帰った。あまり記憶がないが、どうもこの時、妻に聞かれるまま、弁護士との話を喋ってしまったらしい。

「ふうん。そうなんだ」

という妻の声と、ニヤニヤとした嫌な笑顔だけが、記憶にこびりついた。多分それが決定的な出来事だったのかもしれない。私は離婚を諦め、ただ仕事に逃げた。仕事中は仲間から人間扱いをしてもらえるし、ガムシャラに働けばそれなりに成果が出る。土日も家にいると妻と娘から文句を言われるので、実家の兄の農業を手伝うようになった。農家は人手と体力が勝負だから、私は大歓迎され、とても嬉しかった。

月日が経ち、すみれもすっかり大きくなって、ますます妻そっくりになっていく。見た目は色白で美人だけど、冷たい人間で、他人は自分に尽くして当然だと思っている。私立の高校を卒業後、すみれはニートになった。妻と一緒に毎日が日曜日のような生活を送っていて、私とはほとんど口を聞かず、目が合えば睨みつけてくる。誰のおかげで生活できると思っているのかと言ってやりたいけど、そんなことを言えば喧嘩になるから我慢だ。どうも婚活をしているようだが、理想が高すぎて、誰も捕まえられないらしい。

定年退職が来月となったある日、妻が聞いてきた。

「ねえ、あんた、定年後ももちろん再雇用してもらうのよね?」

「いや、もう肉体労働は大変だからな。そろそろのんびり過ごしたいと思っているよ」

長年、何もしない妻と娘を横目に、馬車馬のように休みもなく何十年も仕事だけをしてきたのだ。少しは休みたい。

すると妻は、はあ? と声を荒げた。

「生活費はどうやって稼ぐつもり? あんた、まさかずっと家にいるつもりなの?」

実は定年後にある計画を立てていたのだが、私はとぼけて答えた。

「年金暮らしだっていいじゃないか。それなりに貯金はあるだろう。贅沢しなければ大丈夫さ」

「いやよ。ふざけないで。『一生贅沢させてくれる』って言ったじゃない。あんたなんて、金を稼ぐことしか取り柄のない中卒男のくせに」

妻はヒステリーを起こして怒り出した。私は落ち着いてなだめる。

「なあ、香織。私ももう定年なんだ。仕事をやめてもいい年齢だぞ。そろそろ私にも休みをくれないか」

「冗談じゃないわ。あんたに休みなんて必要ないわよ。そんなことを言うんだったら、私にも考えがあるからね」

妻は私を睨みつけると、足音荒く出ていった。

それから数週間が過ぎ、先週無事に定年退職した。リビングでくつろぐ私を、妻と娘が苦々しげに見ているのは知っていたが、自分の家だし、無視していた。すると妻が、ご機嫌な様子で言ってきた。

「すみれがね、婚活サイトで知り合った男の人と結婚できるかもしれないの。一流大学出身のイケメン社長よ」

私は特に何とも思わず、「それは良かったじゃないか。おめでとう」と返事をした。ずっとニートでスネかじりだった娘が、ようやく幸せを掴んだのだ。まあ、めでたいことだろう。

すると妻は、私の反応に呆れた顔をして言い放った。

「あんたも察しが悪いわね。だから中卒はダメなのよ」

驚いた私に向かって、妻はニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた。

「だからさ、あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は、出ていけ」

娘も一緒になって笑っている。

「あはは。ママも言うわね。ずっとおじさんが目障りだったのよ。すっきりした」

ATM扱いは分かっていたが、ショックだった。そうか。香織もすみれも、私のことをずっと金づるだと思っていたのか。少しも家族として愛していないのか。

「もちろん、初めからね」

私が聞くと、妻はあっさりと答え、離婚届を突きつけてきた。娘は「ほら、荷物まとめておいてやったから。中卒の不細工おじさんは出ていけ」と、私の使い古したバッグを投げつけてくる。

私はさすがに頭に来たが、冷静に答えた。

「お前たちの本性は分かった。離婚してやる」

これで疑似親子と縁が切れるのだ。良かったじゃないかと、自分に言い聞かせる。

「ああ、これまであんたを支えてきたんだから、退職金は全部私たちがもらうわね」

妻が図々しく言ってきたが、私は落ち着いて返事をした。

「いいだろう。弁護士を入れて、しっかり書面に残そう」

「もう二度と私たちの前に現れないでね。これからは赤の他人だから」

「本当、本当。これからセレブになるのに、あんたみたいな底辺とは関係を断たなきゃ」

「じゃあ、弁護士に任せるからな」

こうして私は妻と離婚。退職金を全額渡す代わりに、財産分与はなしという条件にした。離婚した以上、すみれとも養子縁組を解消。一緒に長年暮らして、小さい頃から我が子のように育ててきた。多少の情はあったが、本人から「赤の他人」と言われれば、もう無理だ。きっぱりと縁を切ろうと決めた。

それから数ヶ月後のことだ。香織から何件も電話がかかってきていた。嫌な予感がするが、折り返し電話をすると、香織が叫んでいた。

「あなた、私が悪かったわ。やり直しましょう」

聞いたこともない猫なで声に、私はびっくりした。

「あなたも本当に水臭いんだから。会社を起業したの、なんで教えてくれなかったのよ」

香織は偶然町で義姉に会ったらしい。私は定年後のある計画のためしばらく忙しく、兄のところへ手伝いに行けなかった。電話でわざわざ報告するのも嫌で、今度行った時にでも話をしようと思い、兄夫婦にはまだ離婚したことを伝えていなかったのだ。町で義姉から声をかけられた香織は、私と離婚したと話したらしい。すると義姉が慌てて、「あ、あなた知らないの?」と、私の近況を香織にばらしてしまったというわけだ。

「ねえ、なんで教えてくれなかったのよ。雑誌で取材されるくらい順調なんでしょ。会社の宣伝には、綺麗な社長夫人が必要でしょ」

実は、退職後に部下たちと会社を立ち上げたのだ。今、建設業界では農業参入に乗り出している。長引く不況と人口減少で大規模な公共事業もなくなり、建設業界は急激に規模を縮小中。そんな中、後継者不足に苦しむ農林水産業へ活路を見い出す業者が増えた。二〇〇九年に農地法が改正され、農地を所有できる法人の要件が大幅に緩和されたこともある。私の務める建設会社もその一つだった。兄が専業農家なこともあって、私は会社の農業参入の手助けをしていた。

会社の税理士や社長と相談して、定年後に少し休みをもらってリフレッシュしたら、農業法人として別会社を立ち上げ、その代表取締役として就任することが決まっていたのだ。

「すみれの婚約者はどうしたんだ? 新しいATMが見つかったから、離婚したはずだと思って」

それとなく聞いてみると、妻は怒りながら詳細を教えてくれた。

「あの男はとんだ詐欺師よ。結婚詐欺だったのよ」

なんと一流大学卒業という経歴は、全くの嘘。急遽事業資金が必要だとか、絶対に儲かる話があるだとか、色々言われて、結局私の退職金を全て騙し取られたそうだ。そして、すでに連絡がつかないらしい。自業自得すぎて、私は笑ってしまいそうだ。

「悪いが、再婚する気はない」

私が宣言すると、香織は言った。

「じゃあ、追加でお金をちょうだいよ。生活費が必要なのよ」

それ見たことか。私は呆れながらも、穏やかに言った。

「ちゃんと書面を交わしたじゃないか。もう私たちは他人なんだ。なぜ赤の他人にお金を恵まなきゃならない」

香織は黙り込んだ。私は続けた。

「香織。お前もすみれも、健康で十分働けるじゃないか。自分の人生、しっかり稼いで責任を取りなさい」

すると香織は逆切れした。

「ふざけんな。定年まで一緒にいてあげたんだから、もっとお金をよこしなさいよ。この中卒男」

「そうか。その中卒男に今まで養ってもらったのにな。感謝の心すらないんだな。じゃあ、私の家から出て行ってもらおう。それから慰謝料請求するからな」

「はあ? 家って私がもらったわよね? 慰謝料って何よ」

妻が動揺して叫ぶが、実は弁護士さんから言われていたのだ。妻と娘の長年の言動は、間違いなくモラハラ。あの時はまだ三年目で、初めて言われたから難しかったが、今ならもう立派な離婚の理由になるし、慰謝料も請求できると。だから私は、もしまた妻が何か言ってきたら、今度こそ完全に妻に復讐してやろうと考えていたのだ。

「いいや。あの家は財産分与には入っていないし、私の名義だ。住む場所がないと困ると思っていたが、余計なお世話だったな」

「え、ちょっと待ってよ。こ、困るわ」

妻は急に弱気になったが、結局一言も謝罪の言葉がない。香織はその程度の人間なのだ。

「もう遅い。元々ボロかったし、どうせいらない家なんだ。私は別のアパートで暮らしているからな。売りに出すから、近日中に出て行ってくれ」

私は電話を切った。その後、離婚の時に依頼した弁護士に頼んで、香織には慰謝料も請求した。弁護士さんが熱心な人で、「慰謝料の逃げ得は許しませんから」と受け負ってくれたので、安心している。

家も無事に売れた。二人はしぶしぶ出ていき、ペットの犬はいらないと私に押し付けてきた。私がいないため、長い間散歩にも行っていなかったようで、私を見ると大喜びですり寄ってくる。

「お前だけだよ。これからは私が一生、ちゃんと世話をしてやるからな」

この犬のように、普通に家族として楽しく暮らせたら良かったのにと思うと少し残念だが、二人の自業自得だ。香織はずっと専業主婦で、働いた経験もほぼない。すみれも高校卒業後は、家事手伝いという名前のニートだ。これからの生活は大変だろうが、もう他人だし、私の知ったことではない。

今は社長として責任のある身だ。私を慕ってついてきてくれた若い部下には、妻や子がいる者も多い。部下たちのためにも、第二の人生頑張っていこう。

「娘が入社するから、やめてくれ。今日で最後だ」

社長から突然、首を宣告されたのは二十日の朝だった。

「え、あの、でも……」

私はびっくりして言葉に詰まった。二十日は取引先への支払い日。銀行振り込みのところもあるが、古くからの取引先には挨拶も兼ねて直接支払いに行く。

「ちょうどすぐにでも帰れそうな格好をしているじゃないか。特別に今日は休みにしてやるから、さっさと出ていけ」

グイグイと背中を押されて事務室から追い出され、鼻先で扉をピシャッと閉められたが、どこから突っ込んでいいのか、まるで分からない。私はナツキ。高卒でこの会社に入って、今年で十年目の事務だ。

いや、さっきまで事務員だったと言うべきか。私が務めていたのは家族経営の運送会社で、社員が二十名ほど。創業者で現在の会長が社長だった頃は、職場の雰囲気も良くて、とても働きやすい会社だったのに。

今でこそ現場を知り添えた会長も、以前は若手に混じって率先して働いていたし、奥様のモモコさんも、会長が入院するまでは毎日会社に来て、雑用を一手にこなしていた。娘のアイさんは現場も事務もこなす万能な人で、アイさんの夫も現場長として現場に出る社員たちから信頼されていた。創業者一族だからと言って、誰もえこひいきしたり、社員を見下したりしない。

このままトラブルとは無縁の楽しい会社生活が続けば良かったのに、残念ながら現実は甘くなかった。

去年の暮れ、会社の集団検診で会長に癌が見つかった。会長は社長を勇退することにして、現場長だったアイさんの夫を次期社長にすると決めた。私も他の社員も満場一致で賛成。会長には治療に専念してもらい、快気してほしいと、みんなの意見がまとまった。

ところが、どこで聞きつけたのか、会長の長男のケンイチさんが家族を引き連れ、突然現れた。実は会長にはアイさんだけでなく、子供がもう一人いたらしい。ケンイチさんは三十年ほど前に勘当され、私は全く知らなかった。古参の社員から聞くと、ケンイチさんは若い頃、札付きのワルだったようで、警察のお世話になることもしょっちゅう。問題を起こしては、会長とモモコさんが謝りに行っていたようだ。高校中退後はマルチ商法や詐欺紛いのことをし出し、ついに会長が勘当したらしい。

それきり長らく音信不通だったのに、ケンイチさんはある日突然やってきて、「親父、今まで悪かった。俺を許してくれ」と叫び、会長に向かって土下座させた。私は何事かとびっくりした。小さな会社で、社長室兼事務室が一室だけだから、私も一部始終を目撃したし、よく覚えている。

ケンイチさんは今までのことを水に流し、自分も会社で一緒に働きたいという。水に流してって、勘当された側から言う言葉ではないと思うんだけど。

「みんなには申し訳ないが、頼む。ケンイチにもう一度だけチャンスを与えてほしい」

アイさんや古参の社員たちは、ケンイチさんの過去を知っているから、手放しでは喜べないようだったけど、会長から土下座されてまで頭を下げられると、拒否できる社員は誰もいなかった。

こうしてケンイチさん一家は会長の離れで暮らすことになり、ケンイチさんは社員として、奥さんは専業主婦として、会長の家の切り盛りをすることになった。娘さんは大学生らしく、会社に来た時に一度しか見ていない。

会長は「世間に揉まれて苦労して、ケンイチもまともになったはずだ」と言ってたし、モモコさんも、ケンイチさんが家族を連れて帰ってきてくれたことを泣いて喜んでいた。これからは一緒に会社を盛り立てて行こうと話していたのに、問題が起こってしまったのだ。

ケンイチさんは「長男だから次期社長は俺だ」と譲らず、アイさんや現場長と確執になってしまった。会長の前だけは真面目に働くふりをし、実際は何もしない。

「肉体労働なんて現場がすること。お前たちは働きアリだ。黙って働け」

と、パワハラ的な発言を繰り返す。あっという間に、みんなから嫌われた。やってられないと会長に直訴した若手社員も何人かいたらしい。でも会長もモモコさんも「ケンイチを見守っておくから、もう少し長い目で見てやってほしい」と頭を下げるだけだ。

もたもたしているうちに時間が経ったのか、会長の癌が一気に悪化。入院したのが三ヶ月前だ。するとケンイチさんは「俺が社長だ」と言い出した。社員たちは当初の予定通り、現場長を社長にするよう会長やモモコさんに進言したが、結局二人は娘の夫よりも、血のつながったケンイチさんを選んでしまったのだ。

「我が子可愛さに目が曇ったか。盲愛したものだな」

なんて陰口を叩く人も出てきた。あんなに賑やかで楽しかった会社の雰囲気はガラリと変わり、すっかりギスギスしたものになった。

このままではダメだと誰もが思い、ついにアイさんは現場長と、影で動き始めたのだ。すると必然的に、会社の事務は私一人がすることになってしまった。今まではモモコさん、アイさんと私の三人だったから定時に帰れたけど、今は毎日残業だ。日付が変わることもざらにある。

それなのに、ケンイチさんは「給料はとにかく安い」「暇だ」と思っている。社長こそ昼間からキャバクラに行ったり、競馬やパチンコに出かけたりと遊び歩いているのに。

社長との関係が決定的に悪化したのは、ある経費の問題からだった。会社のクレジットカードを使って、自分の飲食代や遊興費などプライベートの支払いをするのを、ある程度は仕方がないと目をつぶっていた。でも、いくら何でも認められないレベルだったのだ。

私は怒られるのを覚悟で、社長にレシートを突き返した。

「こんな経費は認められません」

「はあ? なんでだよ」

「これ、奥様の下着ですよね。業務には関係ありませんから、経費にはなりませんよ」

予想通り、社長は真っ赤になって怒り出す。

「ふざけんな。社長の妻だぞ。黙認するのが当然だ。経費だ」

「いえ、でも、下着ですけど。奥様は社員でもないですし……」

私は口ごもりながら言い返す。社長の妻の下着、四十万円なんて、どうして経費で落ちると思えるのか。私には理解できないが、社長の次の言葉はさらに理解不能だった。

「じゃあ、これから下着の販売をうちの新事業にしよう。そうすれば仕入れだから、経費だろう」

名案だとばかりに、社長はドヤ顔をしてきたが、私は目が点になった。

「あの、うちは運送会社ですけど」

「だからどうした? 取引先にうちとの取引を盾に売り付ければいいんだ。買わなければ契約を打ち切るといえば、みんな買うだろう。必ず儲かるぞ。一枚売れば二万、セットで売れば四十万。ボロい商売だ」

社長は高笑いをしているけど、私はゾッとした。

「そんなの絶対にダメですよ。信用問題になりますからね」

つい怒りに任せてきつい口調で言ってしまい、社長から嫌われる対象になってしまったのだ。その日から、私は徹底的に社長からいびられるようになった。辛くて何度もやめようと考える。でも、今までお世話になった会長たちのために頑張りたいという思いや、私がいなくなったらみんなが困るという思いから、耐えて働き続けた。現実問題、私も急に仕事がなくなっては困る。とにかく耐えて、準備が整うまで待とう。そう思っていたけど、なんと首を宣告されたのだ。

今いきなりやめたら、取引先に迷惑がかかる。私は深呼吸して、扉を開けた。

「無理です。こんな急にはやめられません。引き継ぎも何もありませんし、娘さんだって仕事はできませんよ。それに今日は支払い日ですからね」

絶対に社長は怒り出すだろうなと思いながら、私は一息でまくし立てた。案の上、社長は見る見る顔を真っ赤にし、激怒した。

「うるさいぞ! 娘が入社するからやめてくれと言っているだろう。お前は今日で最後だ。支払いなんて、向こうから取りに来るまで待たせとけばいいんだ。わざわざこっちから支払う必要はない」

「え? 物を買ったらお金を払うのが当たり前ですよね」

私が呆れて、つい子供に諭すように説明すると、社長も社長で、まともな大人とは思えない不合理なことを言い出した。

「ふん。だったら、別の取引先に帰ると脅せばいいだろう。今回は支払いに行かないから、全部タダにしろと言え」

「はあ。そんなことできるわけがないじゃないですか」

私は呆気に取られて、言葉が出ない。

「全く使えないやつめ。娘は大卒なんだ。事務なんて簡単な仕事、すぐできる。娘なら身内だし、何を買ってもうるさく言わないからな。お前みたいに口ばっかりで仕事ができない奴なんて、うちの会社にいらん。さっさと出ていけ」

つまり社長は、経理の管理を娘にさせれば、使込分も経費で楽に落とせると考えているのだろう。

「ああ、そうですか。後悔しても知りませんよ」

もうダメだ。言葉が通じない。私の堪忍袋の緒が完全に切れてしまった。私物をまとめ、さっさと会社を後にする。ただ、やはり取引先には申し訳ない。私はアイさんに電話をかけた。モモコさんは会長の看病があるし、アイさんも忙しいのは分かっていたけど、非常事態だ。私は事情を話し、後のことはアイさんに託した。

会社を出ると、急に私は暇になってしまった。解雇予告もなしの解雇は、明らかな労働法違反。労働基準法に照らせばアウトだ。うちは中退共という制度に加入していたから、私は退職金と一ヶ月分の給与を請求できる。中退共とは、中小企業のための国の退職金制度で、自力で退職金を用意できない会社の強い味方だ。でもこれは退職した日から五年以内に申請すればいいし、請求権は二年間だから、そこまで手続きを急ぐ必要はない。

事務の職業病で、退職時に必要な手続きとスケジュールを逆算して、少なくとも一週間はのんびりしてもいいと結論を出す。最近ずっと残業に休日出勤続きで、家のことは何もできていないし、落ち着いたら行きたいと思っていた場所もたくさんある。だから私は、日帰り温泉に行くことにした。

温泉でリフレッシュして、ロッカーに入れたスマホを見ると、何件もの不在着信やメール、留守電が来ていた。とりあえずメールを見ると、アイさんからで、「支払いは無事に終わった。準備はOK」とのこと。私はホッとひと安心だ。社長から急にやめさせられたとはいえ、怒りに任せて仕事を放り出してしまったのは申し訳なく思っていたからだ。

次に、会社からの留守電を聞いてみた。すると、慌てた社長の声で。

「おい、どういうことだ? 俺が本当の社長じゃないだと? お前、知っていたのか? ちゃんと説明しろ」

と入っていた。

やっと気づいたのか。本当にバカな社長だ。私はクスッと笑ってしまう。それから私は順番にメールや留守電を確認し、会長からの留守電を聞き、急遽病院へ行くことにした。

夕方になって、私が会長の病室に着くと、モモコさんだけでなく、社長も来ていた。会長は私を見るなり、ベッドの上でガバッと頭を下げる。

「ナツキ君、うちのバカ息子が本当に申し訳なかった」

「おい、どういうことだよ。正式な社長じゃないって、説明しろ」

事態が飲み込めず、ケンイチさんが偉そうに怒鳴ってくるけど、会長がすぐに一喝した。

「お前は黙っとれ」

実は、私がアイさんに電話をした後、アイさんはすぐに会長とモモコさんに連絡をしたらしい。それを聞いた会長が慌てて社長に電話をし、「お、お前、本当に何も知らないのか」と社長に話をしたそうだ。

「だから、どういうことなんだよ!」

私はわけも分からずに怒鳴ってくる社長に向かって、あっさり種明かしをしてやった。

「つまり、ケンイチさんは法的に何の影響力もない『社長』だったんですよ」

知識がないと分かりにくい話かもしれないが、「社長」は会社内の役割を示す呼び名であって、法律で定められた役割ではない。会社を代表し、対外的な責任を持つのは代表取締役で、単なる「社長」とは似ているようで全然違う。「社長」という肩書きだけなら会社内で自由に変更できるが、代表取締役を変更するためには、複雑な手続きが必要で、かなり大変なのだ。

三ヶ月前、ケンイチさんが社長になることが決まった時、アイさんや現場長、古参の社員たちから強烈な反発があったから、私が会長を代表取締役のままにして、ケンイチさんを社長にする方法を提案したのだ。事務として、手続きの大変さや会社関係の法律について知っていたから思いついた方法だった。ケンイチさんが心を入れ替えて真面目に働き、社員全員から認められたら、その時に初めて法的な手続きを開始することになっていた。逆に、もしケンイチさんが社長として不適だとなった場合は、解任するか、そのまま会社を廃業する予定で、アイさんと現場長が新会社を開業する準備を進めていたのだ。

アイさんは、ケンイチさんの性格が変わるとは思っていなかった。会長とモモコさんは最後までケンイチさんのことを信じていたけど、ケンイチさんが私を不当解雇したことで、目が覚めたらしい。会長は「経営者になるなら、しっかり勉強して社員を大切にしろと、何度も言っただろうが」と社長を叱りつける。

でも社長はまだピンと来ていないようで、「別に今からでも手続きをすればいい話じゃないか」と言う。

「いや、もう無理だ。うちの会社はな、希望する社員には自社株を与えていて、大体みんな持っている。ナツキさんは十パーセントを持っているから、うちの主要株主だ。ナツキさんの意見は無視できないし、自社株を持っている他の社員たちだって、お前の味方をするはずないだろう」

少しずつ事態が飲み込めてきたのか、社長の顔色が悪くなる。

「な、なんだって。でも、俺だって株はあるんだろ」

「ゼロだよ。お前が本当の意味で社長になったら、私の株を渡そうと思っていた。お前には、本当にがっかりしたよ。どうせ私の遺産が目当てだったんだろう」

会長はがっくりとうなだれ、モモコさんも悲しそうな顔をして黙り込んでいる。社長は開き直って言い放った。

「当たり前じゃないか。俺は長男なんだ。もらえるものをもらって、何が悪いんだ。会社は俺のものだ」

私はもう許せなかった。

「いえ、違います。会社の全責任を持つ代表取締役は会長です。それから、私は株主です。株主総会の招集を請求して、社長の解任を求めることもできるんですよ」

解任という言葉は理解できたのか。社長は見る見る真っ青になる。

「俺が首にされるかもしれないってことか。くそ。ただの事務じゃなかったのかよ」

「ち、ナツキさんの言う通りだ。こうなっては、誰もお前の味方をしてくれる人はいないぞ。ナツキさんだけが、お前にもチャンスを与えるように言ってくれたんだ」

モモコさんがそこで口を開いた。

「ナツキさん、あなたには本当に申し訳ないことをしたわ。息子可愛さに、あなたに迷惑をかけてごめんなさい。あなたがどうしたいか、教えてちょうだい」

私は社長を見る。

「社長、私はあなたの元ではもう働きたくありませんから、このままやめさせていただきます。ただし、退職金はしっかりもらえますし、一ヶ月分の給与も、残業や休日出勤の未払い分もしっかり払ってもらいますからね。労働基準監督署にも報告させてもらいますし、株主の一人として、会社に害のある人物を排除するため、徹底的に戦いますよ」

私がニッコリと笑って言うと、社長は真っ青を通り越して真っ白になった。

私はついでに、アイさんが取引先を回りながら、しっかりと新会社の営業をしてきた話をしてやる。ほとんどの取引先が今の会社を見限り、新会社に鞍替えしてくれることになったのだ。社員も、ほぼ全員移動してくれる予定になっている。

「そ、そんな……訴えてやるぞ」

社長が半泣きで脅してきたが、会長が一蹴する。

「代表取締役は私だ。お前にはそんな権利はない」

すると社長は、ついに立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。私は何とも言えない気分だ。

「社長、戻ってきた時に心を入れ替えて働けば、こんなことにはならなかったのに。残念ですね。何度もやり直したり、調べたり、勉強すれば、分かる機会はあった。チャンスを棒に振ったのは、他でもない、社長自身です。完全な自業自得ですよ」

その後、結局会長は会社を廃業し、ケンイチさんは無職になった。社長の奥さんと下着の販売を始めたが、全く売れず。悪質な訪問販売で通報され、ついにはマルチ商法で逮捕されたそうだ。アイさんが用事で実家へ戻った時、下着の入ったダンボールがいくつも残っていたらしい。娘さんはどこか別の会社に就職したようで、詳しいことは分からない。

私は、アイさんと現場長の新しい会社に勤め始め、毎日楽しく働くことができている。これからも人との縁を大切に、私は真面目に生きていきたいと思う。

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