「ねえ、あの人、ずっとこっち見てるね。ママ、知ってる人?」
シ太の小さな声に、私は息を呑んだ。七五三のお参りに来た神社の境内。紅葉が鮮やかな晴れた日に、まさか彼女と出会うなんて。
目の前に立っていたのは、五年前に私の夫だった高一を奪っていった、実の姉のゆり香だった。
「あら、まゆみじゃない。久しぶりねえ。元気そうじゃない」
何事もなかったかのように話しかけてくる姉に、私は反射的にシ太を背中に隠した。絶縁しているはずの相手が、どうしてこんなに平気な顔をしていられるのか。
「ねえ、その着物、いいものじゃない。旦那の金で楽しいわねえ」
彼女の言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
「……旦那? 私、独身よ」
「はあ? あんた、高一から養育費もらって暮らしてるんでしょ。知ってるんだから。無職のくせに贅沢して」
頭の中で、彼女の言葉がゆっくりと噛み砕かれていく。養育費。無職。旦那。すべてが、私の現実と噛み合わない。
「私、働いてるわ。大学病院の職員よ」
そう伝えると、ゆり香の顔色がみるみる変わっていく。
「……は? そんなわけないでしょ。病院からすぐ辞めたって聞いてるわよ」
勘違いの原因は、おそらく高一だ。彼が、私たち親子の現状を全く伝えていないのだろう。かつての自分なら、黙って耐えて、無言で立ち去っていた。でも今は違う。愛する我が子がいる限り、もう引くわけにはいかない。
「逆に、私は借金生活を楽しんでるわよ」
ゆり香の顔から笑みが消えた。初めて見せた彼女の弱さに、私は静かに言葉を続けた。
「養育費は、確かに一時的にもらったわ。十一ヶ月間、月に二万円だけね。でも今は一切受け取ってない。あの人、借金だらけだから」
「嘘ばっかり! 毎月もらってるんでしょ!」
「本当よ。養育費を払うのをやめる代わりに、二度と子供に会わせないって条件で終わらせてあげたの。親子の名乗りも許さないってね」
ゆり香の目が泳いでいる。彼女が信じたくない現実を突きつけられているのが分かった。
「なんで勝手にそんなこと……」
「だって、あの人、あなたにも借金の話、してないんでしょう? 私とは違って、知らされてないみたいね」
私はバッグから名刺を取り出し、彼女に差し出した。
「私、普通に働いてるの。大学病院の正職員よ」
差し出された名刺を見つめたゆり香の顔から血の気が引いていく。
「ありえない……。医者より稼いでるなんて」
「その医者って、一般論? それとも高一のこと?」
「高一に決まってるじゃん! お金持ちの高一!」
「高一はね、もう前ほど稼げてないわよ。クリニックを解雇されて、非常勤医師になってるの。要はアルバイトよ」
「なんで……」
「浮気で離婚して、その上浮気相手と再婚したからよ。しかも相手が実の姉。流石に医院長の逆鱗に触れたの」
ゆり香の瞳が大きく揺れた。
「高校の時、医院長から聞いたの。クリニックに、高一を信用できないっていう投書が来てね。患者様からも、担当医を変えてほしいって訴えが続出したのよ。浮気が原因で別れたって、職場ですぐ噂になったから」
「そんな……」
「外聞が悪すぎるって、結局あの人は辞めさせられたの。しばらくは完全に無職だったわよ。今は知り合いの先生に拾われて、週に二回だけ働いてるはず。収入は一時の三分の一にも満たないって聞いてるわ」
力が抜けたように、ゆり香は立ち尽くした。
「重ねて言うけど、もしどこかに支払いがあるとしたら、それは私への養育費じゃないから。銀行とか消費者金融とかへの返済。本人にちゃんと聞いてみたら?」
「嘘……そんなわけない……」
力を失った姉の姿を見て、私はかつての自分を思い出していた。幼い頃からずっと怖がっていた相手。でも今は、彼女を恐れる理由はもう何もない。
「本当に何も知らないのね。大変ね」
そう言い残して、私はシ太の手を引いてその場を離れようとした。
「信じないから!」
後ろから叫ぶような声が聞こえた。振り返ると、ゆり香は涙に濡れた顔で、ふらつく足取りで後ずさっていた。そして、信号が青に変わるのを待っていたように、逃げるように道路の向こうへと走り去っていった。
「あの人、誰? 泣いてたね」
足元から小さな声が聞こえた。シ太が心配そうに見上げている。
「大丈夫よ。あの人は、ママのお姉ちゃん」
「……そうなんだ」
「ごめんね。嫌な話を聞かせちゃったね。もう少し大きくなったら、ちゃんと話すから。今はごめんね」
「うん、わかった!」
私の言葉に、シ太はパッと表情を明るくして、勢いよく抱きついてきた。
「ママ、大好き! 僕が守るからね!」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。あの小さな体で、ちゃんと私を守ろうとしてくれている。
「嬉しいな。ママもシ太のこと、大好きよ。お家に帰ろう」
数日後の夜のことだった。
仕事を終え、シ太を迎えに行き、帰宅して夕飯の支度を済ませた後。リビングで一息ついていると、スマートフォンが振動した。表示されたのは、見慣れた実家の電話番号。
「もしもし」
「ふざけんな! 騙したな!」
耳をつんざくような怒声が飛び出してきた。電話の主は、予想通りゆり香だった。
「姉さんだったのね。何の用?」
「なんで高一の仕事がなくなったこととか、お金がないって黙ってたのよ! 問い詰めたけど嘘ばっかりで! 私のせいで借金してるって言われた!」
どうやらやっと高一から真実を聞き出せたようだ。
「ああ、高校から話を聞けたんだ。本当に取り返しがつかなくなる前に真実が聞けて、よかったわね」
「良くないわよ! バレたらお前も働け! 一緒に借金返そうって言うのよ! あんた、ゴミ押し付けたでしょ!」
「私にどうしてほしいの? それ、全部姉さんのせいでしょ? あんなに得意げに略奪しておいて、よくそんなこと言えるわね」
電話の向こうで、ゆり香が息を飲む気配がした。
「借金の理由はね、息子の不貞行為に激怒した義両親が高一を見切ったからよ。義父は高一に勘当を宣告して、借りていたお金の一括返済を求めたの。マンションの購入費とか車とかで、数千万円を超える金額だったわ。お義父さんは最初、返さなくてもいいって言ってくれてたんだけどね。浮気のせいで、全部ぶち壊しになったのよ」
「そんな……」
「返済に困った高一は銀行から借金して、足りない分を消費者金融に頼ったの。それでも足りなくて、借金が借金を産んでる状態よ。正直に言って、全部、姉さんのせいなんだから」
絶望の色がにじむ沈黙が、電話の向こうに広がった。
「……じゃあ、退職金は? 退職金出てるでしょ? いくら? 一千万くらい?」
「個人のクリニックにそんなに退職金が出ると思ってるの? 出たのは数十万円よ。しかもそれは、医院長が私へのお詫びとして、全部私に渡させたわ。浮気で私を傷つけた責任を取らされたのよ」
「うそ……」
「本当よ。あとはね、ネットにも載せられて、悪い意味で有名になってるみたいよ。フルネームは出てないけど、知り合いには確実に分かる書き方だったから」
しばらくの沈黙の後、すすり泣きが聞こえてきた。
「待って……。子供は? 私、子供は産んでないの。あの人の子供が欲しかったのに……」
「何言ってるの? 姉さんに子供がいないのは、姉さん自身の問題でしょ。私は関係ないわ」
「だって……あんた、全部知ってたんでしょ?」
「知ってたも何も、失業も借金も離婚後の話よ。私は何も関係ないわ」
電話の向こうから、ため息にも似た大きな音が聞こえ、私は通話を切った。すぐに再び着信があったが、無視を決め込んだ。
あれから数週間後、季節は本格的な冬へと差しかかっていた。
仕事を終え、保育園へ向かう途中で職場から連絡が入った。書類の確認が必要だと言う。
「ごめんね、シ太。ちょっとだけ病院に寄らせてくれる?」
「うん!」
病院に戻ると、待ち合い室の椅子にシ太を座らせ、書類の確認を始めた。数分ほどたった時だった。
自動ドアが押し開かれ、強く尖った足音が近づいてきた。
「……まゆみ」
顔を上げると、そこには以前よりも痩せて、目の下に濃い影を作った高一が立っていた。
「会いたかった」
「何をしに来たの?」
「話があるんだ。やり直せないかと思って」
「無理よ」
「頼む。俺、全部間違ってた。もう一度一緒に……」
「やめて。復縁なんか、絶対にしないから」
周囲の同僚たちの視線が一斉に集まる。高一の視線が、ふと横にそれた。シ太の方を向いている。
「俺の子だろ。大きくなって」
そう言って、高一がシ太に手を伸ばした。
「触らないで!」
私は間に入って、高一の腕を強く払いのけた。
「何するんだよ!」
「こっちのセリフよ!」
騒ぎを聞きつけた職員と警備員が駆け寄ってくる。私と高一の間に立ちはだかるために。高一が一歩下がった、その時だった。
「誰だ、お前」
背後から、凛とした声が響いた。振り返ると、シ太が小さな拳を握りしめて立ち上がっている。
「このおじさん、嫌い。あっち行け!」
予想だにしない拒絶に、高一の顔から血の気が引いていく。シ太は私の前に立つと、まるで壁のように両手を広げた。
「ママに触らないで! 僕のママだぞ! 出てけ!」
「え……そんな、俺だって親だろ……」
「シ太、ありがとう。ママ、すっごく強くなれる」
シ太を抱き寄せ、私は高一を見上げた。
「約束したでしょ。二度と子供に会わないって。それが養育費をやめてあげる条件だったのに」
言葉を失った高一は、警備員に腕を取られても抵抗せず、そのまま引きずられるようにして病院を出ていった。
しかし、その直後だった。
「高一! どこ!」
夜間入口の方から、かん高い声が響いてきた。
「姉さん……」
乱れ髪のまま息を切らしたゆり香が、周囲を見回してすぐに私たちを見つけた。立ちまち彼女の顔が怒りに歪む。
「まゆみ! 人の旦那を奪う気!」
静まり返ったロビーに響き渡る。すると、シ太がまた前に出た。
「ママを守る!」
「危ない!」
私は反射的にシ太を抱き寄せ、体で覆うようにして守った。近づいてくるゆり香の足音。しかし、その手が届くより早く、警備員がゆり香の前に立ちはだかった。
「落ち着いてください!」
「こちらへ!」
近くにいた職員たちが私とシ太をカウンターの奥に誘導してくれる。さらに、患者の見舞いに来ていた年配の女性までが助け舟を出した。
「お姉さん、子供もいるじゃないですか。やめなさい」
気づけば、周囲を思いやりのある人々の輪が囲んでいた。ゆり香は言葉を失い、徐々に青ざめていく。自分がどれほど間違った存在なのか、ようやく理解したのかもしれない。彼女は数歩後ずさると、泣き出してしまった。そして、警備員に注意を受けると、逃げるように病院を去っていった。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
私は深く頭を下げた。周囲の皆は、穏やかに笑顔を返してくれた。
帰り道、冷たい空気の中、シ太は私の手を握りながら、誇らしげに言った。
「ねえ、バーバとジジに電話する? 今度いつ行くの?」
「そうね。今日のことを、電話で報告だけはしておこうかな」
「僕も戦ったって言ってね!」
胸を張る姿に、思わず笑みがこぼれた。あの小さな背中が、確かに私を守ろうとしてくれた。何よりも大切な宝物が、ちゃんと成長している。
後日、母から電話がかかってきた。ゆり香と高一が、離婚したらしい。
「まゆみ、ごめんね。今まで本当にごめんなさい」
電話の向こうで、母の声が震えていた。
「小さい頃から、あなたを守れていなかったこと。本当はずっと分かってたの」
「お母さん……」
「ゆり香はね、家から出て行ったの。パートを掛け持ちして、なんとか生活してるみたい。私たちはね、もう会わないことにしたの。一度、はっきりと言ったのよ。許されるまで、何年でもまゆみに謝りなさいって。それが報いなんだからって」
そう言って、母はようやく私に謝ってくれた。
「……ありがとう、お母さん。もういいよ」
長い冬のようだった姉妹の確執は、ようやく終わった。ゆり香も高一も、もう私の人生には存在しない人間だ。怒りや未練ではなく、ただ完全に「過去」として手放すことができた。
朝の光が柔らかく部屋に差し込む。目覚めた私の隣では、シ太が穏やかな寝息を立てていた。柔らかな頬を眺めながら、私は静かに微笑む。
「今日も、お仕事頑張ろうね」
数ヶ月後。私は助産師として、また新しい命を抱き上げる。
「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」
涙を浮かべる新しいママの表情に、自然と微笑みがこぼれた。命が生まれる場所で、私の人生は続いていく。私とシ太の、新しい物語が。
