病院からの帰り道、五歳の娘ノアが私の手を強く引っ張りながら、震える声で言った。
「ママ、今すぐ逃げよう。パパがそう言ってたの。早く逃げよう。手遅れになっちゃうよ」
「危険ってどういうこと?あなた何を知っているの?」
まだ幼いノアが必死に私に逃げようと訴えてくる。この様子はただごとではない。私はノアの言う通り、夫・裕介の顔を見ることなく病院を出て、家に帰ることにした。
「ねえ、ノア、一体どうしたの?パパに何か言われたの?」
車の中でも私はノアに尋ねた。するとノアは周りをキョロキョロと見回すと、強く握りしめていた小さな手を開いた。ノアの手のひらの中には、くしゃくしゃになった一枚のメモ用紙があった。
「パパがこれを、誰もいないところでママに見せてって。これ見て」
そのメモ書きの内容を見た瞬間、私は絶句した。そこには裕介の筆跡で、とんでもない事実が記されていたのだ。
私は五十嵐朋子、三十代の専業主婦だ。ただの一般人だが、父はある企業の取締役で、夫の裕介は父の下で働いていた。仕事ができ、部下からの人望も厚い裕介を、私は専業主婦として支えてきた。
裕介とは父に進められる形でお見合いの後に結婚した。正直言って、非の打ちどころがない夫だ。平凡な私にはもったいないくらいの夫だと、家族からからかわれることもある。
結婚から数年経つと、父は現役を退き、裕介を次期社長に任命した。もともと持病があった父は、以前から体力の限界を自覚していたらしい。今までは責任がある立場だからと、気力で抑えていたのだろう。
裕介の社長就任を見届けた後、父の病状は突然悪化した。治療をしても回復することはないだろうと医師に告げられ、私は絶望した。だが父は自分の命がもう長くはないことを悟っているのか、「数年前に亡くなった母のところに行ける」と穏やかに微笑んだ。そしてその時は突然やってきた。
「裕介君、朋子をくれぐれも頼んだぞ」
裕介の手を握りながら父はそう言って息を引き取った。
父から社長を引き継いだ裕介は、今まで以上に仕事漬けの生活になった。そんな中で、幸いにも一人娘のノアを授かることができ、大変だが幸福な日々を家族で過ごしていた。
だがある日、とんでもない事件が起きてしまう。
父の三回忌を終えた頃、三歳になったノアと手をつないで横断歩道を歩いていると、信号無視の車が走ってきて、危うく引かれそうになった。
「きゃあ!」
とっさにノアをかばうように覆いかぶさり、ぎゅっと目を閉じた。どうやら車と衝突する事態は免れたようだ。だが、あともう数センチ横にずれていれば、私たちは車と接触していただろう。震える手でノアを抱きしめながら、信じられない危険運転をした車をきっと睨みつけた。
窓にスモークが張ってあるため、車中は全く見えない。運転席の人影を見ても、それが男性なのか女性なのかも分からなかった。
そしてなんと、その不審な車はもう一度Uターンをしてきて、再び私たちのところに向かってこようとしていた。
さっき突っ込んできたのは事故などではなく、明らかに私たちに危害を加えようとしている。私は恐怖でガクガクと震える体を奮い立たせ、ノアを抱き上げると急いで最寄りの建物に駆け込んだ。
私たちが逃げ込んだ建物に、さすがに突っ込むわけにはいかないのか、車はどこかへ走り去っていく。私は建物の窓から目を凝らしてナンバープレートを記憶すると、そのまま一目散に警察へと向かった。
「急にこっちに向かって突っ込んできたんです。事故ではなくて、故意だと思います」
私は必死で先ほどの出来事を警察に訴えた。私たちが歩いていた道路には監視カメラが設置されており、犯行の一部始終が映っていたことで、警察も私の言葉を信じてくれた。
だが警察の捜査の結果、逃げた車は盗難車で、結局犯人は判明しなかった。誰かから恨みを買っていた覚えはないかと聞かれるが、心当たりは全くない。通り魔的な犯行かもしれないと言われたが、なんだか納得はできなかった。
捜査は続けると警察は約束してくれたものの、それからしばらく経っても犯人が捕まったという話は聞かなかった。あれからすっかり外出が怖くなってしまった私は、どんなに近所でも、なるべく歩かずに車やタクシーで移動することにした。盗難車を用意してまで人に危害を加えようとする人間がいる。そう考えると、怖くて仕方がなかった。
そして今度は私ではなく、夫の裕介の身に災難が振りかかる。
ある日、裕介が取引先との会合で出張へ行くことになった。
「じゃあ行ってくるよ。今回の出張は少し遠いから、帰りは三日後かな」
「パパ、行ってらっしゃい。ノアはママといい子で留守番してるからね」
玄関を出ようとする裕介に、パジャマ姿で起きてきたノアが手を振った。社長という立場上、裕介の出張は多い。あの日も私とノアはいつものように裕介を笑顔で送り出した。出張は二泊三日の予定らしい。いつものことながら夫の不在は寂しいが、その分帰宅を楽しみに待とうと思った。
しかし翌日、ある人物から裕介について緊急の連絡があった。
「もしもし、朋子?社長の裕介さんが……」
電話をかけてきたのは私の姉・弓だった。姉は父の代から社長秘書を務めており、父が裕介に役職を譲った後も、そのまま同じポジションにいる。
弓によると、宿泊先のホテルで階段を踏み外した裕介が意識不明で病院に運ばれたらしい。私は弓から病院の名前を聞くと、急いで裕介の元に駆けつけた。
「奥様ですか?ご主人の容体は今のところ安定しています。ですが……」
医師の説明によると、裕介は命に別状はないようだ。だが裕介は頭を強く打っていて、意識はまだ戻っていない。
「主人は目を覚ましますでしょうか?」
渋い顔で言葉を濁した医師に、私は裕介の今後について尋ねた。すると医師は、意識が戻ったとしても何かしらの後遺症は残る可能性があると告げる。
後遺症と聞いて、私は顔面蒼白になった。障害と言っても重いものから軽いものまで様々で、医師にもどんなものになるかは意識が戻ってみないことには分からないらしい。だが最悪の場合は寝たきりになるだろうと言われた。
「あなた、どうしてこんなことに……」
ベッドに静かに横たわり、機械から伸びるコードにつながれた痛々しい夫の姿を見て、私は一人つぶやいた。結婚当初から仕事で多忙な裕介とはすれ違いがちな生活が続いていて、社長に就任してからはさらに夫婦として過ごす時間は少なくなっていた。こんなことになるなら、無理やりにでも家族の時間を作っておけばよかったと後悔する。
「裕介、どうか目を覚まして」
私にできることは祈ることだけだった。
それから数日後、願いが通じたのか、なんと裕介の意識が戻った。
「裕介、私よ。朋子よ」
「朋子……俺は一体……うっ、体が痛い」
私の名前を呼んだ夫にほっとするが、階段から転落して打撲したところが痛むのか、体を少し動かしただけでも裕介は顔を歪めた。
私はすぐに医師を呼び、裕介が目を覚ましたことを伝えた。その後、医師の診察と詳しい検査によって分かったことだが、やはり裕介にはある後遺症が残った。
「旦那さんの記憶に、一部障害が出ていることが分かりました」
医師が裕介に事故にあった経緯を覚えているかと質問すると、裕介は何も分からないと答えたという。どうやら事故の前後の記憶がぽっかりと抜け落ちているらしい。
「何があったのか、何も思い出せないんだ」
「それでも命に別状はなくてよかったわ。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思っていたのよ」
落ち込んだ様子の裕介を、私は励ました。裕介は記憶障害に困惑している様子だったが、それでも意識が戻ったことに私はほっとしていた。なぜ階段から転落したのかは気になるが、医師からは「何かのきっかけで思い出すかもしれないから、焦らずに見守るように」と言われた。
翌日、私は娘のノアを裕介の病室に連れてきた。まだ五歳のノアに事故の詳細は伝えていなかったが、ノアは久しぶりに父親と会えたことが嬉しいらしく、かなりはしゃいでいた。
「パパ、なかなか帰ってこないから、ノア寂しかったよ。お家に帰ったら、いっぱい遊ぼうね」
「寂しい思いをさせてごめんな。家に帰ったら、いっぱい遊んでやるからな」
無邪気なお願いをするノアの姿に、裕介はほっとしたように笑顔を見せ、幼い娘の頭をポンポンと撫でた。不安な日々を過ごしていたが、ようやく光が見えてきたのだった。
「裕介さん、目が覚めたのね。社長、よかった。心配しましたよ」
裕介の意識が戻った数日後、病室に姉ともう一人、中年の男性が入ってきた。彼は専務の岡田さんで、会社では裕介の右腕として信頼が厚い人物だ。あの出張の当日も裕介と岡田さんは一緒にいたという。だが運悪く、事故当時二人は裕介とは別の場所にいたらしく、落ちて倒れていた裕介に気がついたのはホテルの従業員だったらしい。そのため弓も岡田さんも、自分が社長の近くにいればと後悔の言葉を繰り返していた。
私は裕介の意識が戻ったことを二人に連絡すると、どちらもすぐに飛んできてくれた。二人は心から裕介の回復を喜んでいるようで、どちらも目に涙を浮かべている。
だが、その時異変が起こった。
病室を訪ねてきた二人の顔を見るなり、裕介の顔が突然真っ青になったのだ。
「ま、まさか、裕介、どうしたの?」
明らかにおかしい様子の裕介に、私は怖る恐る尋ねた。だが私がいくら問いかけても、裕介は言葉を一言も発しない。まさか容体が急変したのかと、私は慌ててナースコールのボタンを押した。
「どうしました?」
「あの、夫の様子がおかしいんです」
駆けつけてきた看護師は、詳しく診察するから病室を出て行ってくれと慌てた口調で言った。
何もなければ良いのだが、不安な気持ちで部屋を出る。
「パパ、大丈夫かな?」
ノアも心配そうにつぶやく。
「大丈夫よ。パパは強い人だから」
私はノアを励まし、今日はひとまず自宅に帰ることにした。まだ意識が戻ったばかりだというのに、大勢で押しかけてはない。これからはもっと慎重に接しなければと肝に銘じた。弓と岡田さんも、突然押しかけて無理をさせてしまったのかと落ち込んでいた。
「姉さんも岡田さんも、せっかく来てくれたのにごめんなさい。まだ体調が万全ではないみたいで」
「そんな、しょうがないですよ。社長も色々混乱しておられるようですし」
「そうなんです。実は事故の前後の記憶がないみたいで」
私がそう言うと、二人は顔を見合わせた。
「記憶がないって、本当なの?」
私の言葉に二人は戸惑った。
「体の機能そのものに障害はないんだけど、頭を打った衝撃で記憶障害があるみたいで」
「それは大変だ。一体あの日、何があったのか……」
「二人は知りませんか?」
私が聞くと、弓の表情が曇った。どうやら何か私に隠している事実があるようだ。弓は戸惑いながらも、やがて観念したように話し出した。
「実は、裕介さんは浮気をしているの。あの日もあなたには出張だって言っていたんだろうけど、本当は愛人と密会していたのよ」
あまりに衝撃的な話に、理解が追いつかなかった。二人の説明によると、裕介が転落によって怪我をした日は、夫は愛人の元を訪れていたという。
「あの人に限って、信じられない。嘘よ。裕介の性格は、妻である私が一番分かっている。真面目で実直な夫が、私に隠れて愛人と密会など、そんな裏切り行為をしているとは到底思えなかった」
だが岡田さんも弓も、裕介の浮気は残念だが間違いないと断言するのだ。
「ずっと黙っていましたが、社長の愛人の話は社内では誰もが知っていることなんです」
立ちの悪い冗談だと笑い飛ばすことができたなら、どれだけ良かっただろう。だが二人の真剣な表情で、これが嘘ではないことが分かった。
「そんな……じゃあ私はずっと、あの人に裏切られていたということなの」
「辛い気持ちはよくわかるわ。かわいそうに……もしかしたら、あの事故は奥様といつまでも離婚しない社長にしびれを切らして、愛人の女が階段から突き落としたんじゃないかと、私は睨んでいるんです」
「きっとそうだわ。よほどの言い争いで喧嘩をしたのよ」
「ごめんなさい。少しそっとしておいて」
裕介の事故の原因を断定したように話す二人に、私は「一人で考えたいから放っておいてくれ」と言ってその場から離れた。
愛人の話は本当なのだろうか。確かに裕介は社長に就任してから多忙で、家で過ごす時間は少なかった。出張だと言って出かけた先で愛人と密会していたとしても、私は気づくことはできなかっただろう。だがどうしても、裕介が浮気をするなんて信じられなかった。
結婚したきっかけは恋愛ではなくお見合いだが、私たちは互いに信頼し合っていた夫婦だったはずだ。それとも私がそう勘違いしていただけで、裕介の気持ちはとうに他の女性に移っていたのだろうか。
呆然とした気持ちでとぼとぼと病院の廊下を歩く。一体これから、どんな顔をして裕介に会えばいいのだろうか。
ひとまず頭を冷やそうと、私は何か飲み物を買うために病院の一階にある自販機を目指して階段を降りた。だがそこで、まさかの事件は起こった。
「きゃあ!」
突然背後から誰かに背中を押され、私は階段から転落してしまった。
踊り場にうつ伏せに転がり落ちた私は、腰や腕を強く打ち、思わずその場にうずくまった。そのため私を突き落とした犯人の顔を見ることはできなかったが、立ち去り際に犯人の足音を確かに聞いたのだった。
「誰か、助けて」
「どうしたんですか?」
幸い、私の悲鳴に気づいた通行人がすぐに看護師を呼んでくれた。結局私の怪我はかすり傷程度で済んだのだが、犯人は見つからない。以前車が突っ込んできた事故のことを思い出し、恐怖で震えた。
おそらく私は命を狙われている。今回突き落とされたことで、それは疑いのない事実に思えた。だが一体誰が、何のために?今や裕介のことも信用できない私は、怪我のことを打ち明けることもできず、一人疑心暗鬼になるのだった。
そして私が階段から突き落とされてから二日後、事態は急速に動き出す。
今日も身の回りの世話のために病院をノアと共に訪れると、同じく見舞いのために来たのだろう、弓と岡田さんと廊下で出会った。社長秘書と専務という間柄だ。二人は基本的に一緒に行動しているようだ。
私たちが裕介の病室に入ろうとすると、看護師さんにそれを止められた。
「お待ちください。患者さんから、今日は娘さんだけ病室に入れてくれと言われているんです」
予想外の言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。裕介の容体はあれから安定しているようだが、ノアにだけ会うとはどういう意図があるのだろうか。
戸惑いながらも、とりあえず言われた通りノアだけが病室に入ることになった。だがそれから五分ほど経つと、すぐにノアは病室から出てきた。
「ノア、パパはなんて?」
裕介の様子を聞くが、ノアは答えない。
「ねえ、ママ、お家に帰ってゲームしたい」
そしてなぜか私の手を強く引っ張り、早く帰りたいというのだ。
「どうしたの?急に。いつもはそんなわがまま言わないじゃない」
「毎日病院に来てもう飽きちゃった。早く帰ろうよ」
普段からかなり聞き分けが良く、滅多にわがままを言わない娘なのに、今日はどうしたのだろうか。わがままを言うなと諭しても、一向に言うことを聞かないノアの様子に、私は何かあるのではとピンと来た。
この子は何かを隠している。
そしてノアは誰にも聞かれないように、私の耳元である言葉をささやいた。
「ママ、今すぐ逃げよう。ここにいたら危険なの」
「危険ってどういうこと?あなた何を知っているの?」
「パパがそう言ってたの。早く逃げよう。手遅れになっちゃうよ」
まだ五歳のノアが、必死に私に逃げようと訴えてくる。この様子はただごとではない。
「分かったわ。家に帰りましょう。ごめんなさい、ノアが駄々をこねているの。今日は裕介の顔を見ずに帰るわ」
弓と岡田さんにそう言って、私たちは病院を後にした。
「ねえ、一体どうしたの?パパに何か言われたの?」
周りに人がいないことを確認して、私はノアに聞いた。するとノアも辺りをキョロキョロと見回すと、強く握りしめていた手を開く。ノアの小さな手のひらの中には、くしゃくしゃになった一枚のメモ用紙があった。
「パパがこれを、誰もいないところでママに見せてって。これ見て」
そのメモ書きの内容を見た瞬間、私は絶句した。そのメモには裕介の筆跡で、姉の弓が専務の岡田と結託して私と裕介を陥れようと企んでいることが記されていた。
「それと、これもパパから」
そう言ってノアは、裕介から預かったであろうスマホを手渡してきた。メモには、スマホのあるアプリを確認するようにと指示が書かれていた。
記載通りにスマホを操作すると、そこにはなんと弓と岡田の会話が録音されていた。
「あいつらさえいなくなれば借金が返せるのに、なかなかしぶとくて嫌になるわ」
「ああ、そう焦るなよ。まだ俺たちが犯人とはバレていない。あの夫婦さえいなくなれば、会社は俺のものだ」
その会話はあまりにも冷酷だった。
「なんてことなの……」
裕介は事故で頭を打ったことにより一時的な記憶障害になっていたが、病院を訪ねてきた弓と岡田の顔を見て、全てを思い出したらしい。弓と岡田のこの会話は、何らかのタイミングで裕介が録音したもののようだ。
心から心配する素振りをしていた二人が犯人だなんて、にわかには信じられなかったが、この録音を聞けば二人の本心は明らかだ。裕介に愛人がいるという話も、二人の嘘だろう。
記憶を取り戻した裕介は、二人に気がつかれないようにノアにこのメモを託したのだ。メモに書かれている指示に従い、私は急いでノアを連れて一旦自宅に帰ると、荷物をまとめ、しばらくホテルに潜伏することにした。
裕介は記憶を取り戻してから、二人の犯行を明るみに出すための計画を考えていたようだ。メモの最後には、そのための手順が書かれていた。
「どうか計画がうまくいきますように」
決行の日は明後日だ。私は裕介の無事を祈り、言われた通りの準備を整えるのだった。
その日、裕介の病室にいつものように二人揃って、岡田と弓が訪ねてきた。裕介は何も知らない態度を取りながら、二人とほがらかに談笑している。
「体調はすっかり良くなったようだね。岡田君には世話をかけたね」
「そんな、とんでもないです。社長が回復されて、私も弓さんも喜んでいるんですよ」
「そろそろ退院できそうだ」
と言った裕介の言葉に、弓もほっとした表情を見せる。だがそれが全て演技だということは、裕介には分かっている。あえて何も知らないふりをして、彼らに次の行動を起こさせようとしているのだ。
そして案の定、二人は動いた。
深夜、寝ている裕介に忍び寄る影があった。その手には、キラリと光る小型のナイフを持っている。明らかに危害を加えるつもりだ。
二人は息を潜めながらナイフを振りかぶると、ベッドに眠る裕介に突き立てようとした。
だが次の瞬間、病室にパッと明かりがついた。
「な、なんだよ。なんで明かりが……」
「そこまでよ。あなたたちの企みは全てお見通しよ」
病室の物影に潜んでいた私は、二人の岡田と弓に向かってそう叫んだ。そして同じく隠れていた警察官が数人、二人に向かって飛びかかり、すぐさま確保した。
「話してよ。私は何もしていないわ」
警察に拘束された弓は、ジタバタと抵抗している。一方の岡田は、何が何だか分からない様子で呆然としていた。
「じゃあ、その手に持っているナイフは何だ?」
二人は強盗に見せかけて、裕介にナイフで襲いかかろうとしていた。
「観念するんだな。誰がどう見ても現行犯だ」
ベッドで寝たふりをして起きていた裕介が、観念しろと言い放つ。
「違うんです、社長。これはただのドッキリで、信じてください。今まで社長の下で真面目に働いてきた俺が、社長に危害を加えるはずがないじゃないですか」
「そうよ。私だって妹の夫を、そんな、そんなひどいことするわけないわ」
裕介の言う通り、言い逃れなどできない状況のはずだが、それでも弓と岡田は必死で苦しい言い訳を繰り返した。
「言い訳はもういい。事故のせいで記憶を失っていたが、全部思い出したんだ」
裕介は事故当日のことを話し始めた。
会談が終わった裕介はホテルに戻り、私とノアにお土産を買って帰ろうと、ホテルの売店に向かったらしい。しかし財布を忘れたことに気づいて部屋に戻ろうとすると、弓が廊下で岡田と密かに会っている現場に遭遇した。そして裕介は会話の内容から、二人が組んで会社と家の財産を乗っ取ろうとしていることに気づいてしまったのだ。
裕介は気づかれないようにスマホを取り出すと、二人の会話を証拠として録音した。そして会話が終わるとすぐにその場を立ち去り、私に危険を知らせようとしたのだが、運悪く二人に気づかれてしまう。
そして二人は計画を早めて、裕介をその場で階段から突き飛ばすことにしたのだ。
階段から転がり落ちた裕介は全く動かず、遠くから見るとまるで亡くなっているように見えた。脈を確認しようとした二人だが、裕介が落ちた物音のせいで人が集まる気配に気づき、慌ててその場を立ち去るしかなかった。
そして裕介は奇跡的に一命を取り止めた。しかしその代わりに、裕介は自分を階段から突き落とした相手のことを忘れてしまったのだ。
「岡田君、どうしてこんなことを?」
裕介はいくら考えても動機が分からないと、岡田を問い詰めた。岡田は裕介の右腕として真面目に働いていたはずだ。私も録音を聞くまでは、まさかこんな犯行に及ぶなんて到底信じられなかった。
だが岡田の犯行動機は、呆気に取られるものだった。
「長年、社長に尽くしてきて、いつかは自分が会社を継ぐつもりでいたのに、そこへ娘婿のお前が現れて、許せなかったんだ」
仕事ができる上に人望も厚い裕介に社長の座を奪われたのが許せなかったと、岡田は語った。
「お前さえ現れなければ」
と裕介を敵視するようになった岡田は、次第に一方的な恨みを募らせていった。そして元々弓と交際していた岡田は、私たち夫婦さえいなければ会社も家の財産も全て二人のものだと、弓をその気にさせた。
そしてブランド好きでかなりの浪費家の弓は、借金があったこともあり、その話にすぐさま飛びついた。車で私を襲ったり、階段から突き落としたのも、岡田だった。
「残念だけど、うまくいったとしても岡田さんが社長になれる可能性はゼロでしたよ」
「どういうことだ?」
実は弓は最初から岡田と一緒になるつもりはなかった。私と裕介を陥れた後は、岡田に全ての罪を被せて警察に突き出し、自分は本命の男と海外へ高飛びしようとしていたのだ。それは裕介の指示で探偵を雇い、弓の周囲を調査したことで分かったことだった。
「俺を騙したのか」
「騙すも何も、あんたが勝手にやったことでしょ。私は専務に脅されていただけ。私も被害者なのよ」
岡田と弓は仲間割れを始めた。お互いを口汚くののしり合う姿は、とても見苦しいものだった。
「二人で仲良く償うのね。そして、二度と私たち家族の目の前に現れないでちょうだい」
「何よ、偉そうに。あんたのことが昔から気に入らなかったのよ。お父さんも私よりあんたを可愛がるし、一生許さないから」
姉は私を、憎しみたっぷりの目で睨みつけた。父は生前、私と同じくらいに姉である弓のことを可愛がっていた。だがそれに甘えてわがままに育ち、浪費をやめられない弓を、父が叱ることが何度もあった。それが疎ましかったのだろう。弓は自業自得にも関わらず、自分は妹に比べて父に愛されていなかったと主張する。
「自分の行いを省みずに、よくそんなことを言えたわね。呆れたわ」
「またそうやって私のことを見下して。だからあんたのことが嫌いなのよ」
弓はヒステリックに吐き捨てた。どうやら私がこれ以上何を言っても、彼女が改心することはないだろう。
「もういいです。連行してください」
私は事態を収拾していた警察官に目配せをした。すると警察官は拘束していた二人を立たせ、病院の表に止まっているパトカーの元へと連行していったのだった。
これから警察署で厳しい取り調べを受けることになるのだろう。最後まで反省することなく、二人は私たち夫婦に恨み言を叫んでいた。
その後、弓と岡田は逮捕され、初犯にも関わらず上場棄却の余地も認められず、有罪が決まった。計画的な犯行が非常に悪質だと判断されたためだ。
二人は懲役刑が決まり、何年も服役することになる。もう二度と、私たち夫婦の前に姿を現すことはないだろう。
そして全てが終わり、私たち家族には平和な日常が帰ってきた。
センセーショナルな事件はマスコミにとって格好の報道材料なのだろう。テレビでは岡田と弓の犯行動機や一部始終が連日流れていた。
「裕介が記憶を取り戻すことができて、本当に良かったわ」
テレビを見ながら、思わずつぶやく。あのまま記憶が戻らなければ、二人の計画に気がつくことはできなかっただろう。命を狙われたことはもちろんショックだったが、それでも家族全員が無事でいられたことに安堵する。
今回のことは妬みと嫉妬による後味の悪い事件だったが、私には大切な娘と、そして頼りになる夫がいることが再確認できた。
仕事に復帰した裕介は、これまで以上に忙しく働くようになったが、それでも長期休暇には必ず私とノアを連れて旅行に連れて行くなど、家族サービスも増やすようになった。ノアは父と過ごす時間が増えて嬉しそうだ。
これからも私は、裕介とノアのことを支えていきたいと思う。
