「おかえりなさい。今日はどうだった?」
「うん、まあまあ。疲れたよ」
ケ太はスマホを見ながら適当に答える。テレビの音が流れる居間の隅で、私は夕食の支度を再開した。義母はソファで娘のレイナにテレビのチャンネルを変えさせて遊んでいる。
「ねえ、お義母さんがさっき、今日は近所の福田さんとこでお茶会だったんだって。レイナも連れて行かれたよ」
「ああ、そう。大変だったな」
「大変じゃなかったよ。ママ、僕、プリン食べた」
レイナが私のスカートを引っ張る。義母はそれを横目で見て、
「あら、ゆきさんは夕飯の支度で忙しいのね。でも、私が作ったプリンは市販のじゃなくてちゃんと手作りよ。嫁の作る甘ったるいやつとは違ってさっりしててね」
「……そうですか。ありがとうございます」
私は皿を洗いながら小さく答えた。どうせ感謝なんてされてない。手伝いもしてくれないのに、趣味の料理だけは自慢する。そんな日常が、もう何年も続いている。
私はゆき。40歳の主婦だ。夫のケ太は43歳、会社員。娘のレイナは5歳で幼稚園児。3人暮らしのはずが、ケ太の実家に義父母が同居しているので実質5人。しかも、義父母は年で足が悪いわけでもないのに、家事も畑仕事もほとんど手伝わない。義母は「私は舅の時代から全部やってきた」と常に主張するが、実際に動いているのは私だ。
田んぼと畑仕事。義父は足が悪いと本人は言うが、どこが悪いのか見たことがない。ケ太にしても、外で働いているという理由で、田んぼの重労働は免除されている。季節の農繁期だけ手伝う程度。私が畑に出れば、義母は「嫁が長男の嫁として恥ずかしくないか」とひとしきり嫌みを言い放つ。私は朝から晩まで働いても、誰も感謝しない。褒められることもない。あるのは文句と嫌みだけ。
「ゆきさん、茶碗洗ったらお茶入れてくれる?喉乾いたのよ」
「はい、今やります」
「ほら、レイナちゃんはパパと遊んでらっしゃい。おばあちゃんがお茶入れてあげるからね」
義母は私の返事を待たずに、私が洗い物を終えるのを待っている。5人分の食事を作り、片付け、洗濯、掃除。娘の世話。畑仕事。それでも誰かが「お茶」と言えば、私は手を止めてお茶を入れる。それで文句を言われなければいい方だ。
「ゆきさん、味噌汁がしょっぱいわよ。昨日も言ったけど、薄味が体にいいって、何度言ったらわかるの?」
「すみません」
「謝っても無駄よ。ほんと、食べ盛りの娘を持つお母さんがこれじゃねえ」
義母はわざとらしくため息をつく。レイナは何も言わず、黙って味噌汁を飲んでいる。私はそれを見て、胸が締め付けられる思いがした。この子は、もう感づいているのだ。おばあちゃんがママを嫌っていることを。
覚えているのは、レイナが2歳になった頃。義母が私に嫌みを言い始めたのは、娘を授かる少し前からだった。最初はただの世間話の様な嫌み。
「うちは跡取りがねえもんで。私も早く孫の顔が見たいわ」
「まあ、ゆきさんも高齢出産だからね。無理もないけど、年取ってから産むと、育てる体力がねぇんじゃないの?」
33歳で結婚し、35歳で出産したことを、何度も何度も持ち出される。私の年齢が何だ。産んだ人間がいたら、文句あるか。
しかし、義母は勢いを増すばかりだ。
「うちには跡継ぎがおらんからね。後継を生まない嫁は役立たず。男の子を産んだ近所の嫁が、真っ先にお祝いに来てくれたわ。ああいうのを賢いって言うのよ」
レイナは先生から「うちには女の子しかいないけど、おばあちゃんは男の子のお母さんが羨ましいんだね」と言われたことがある。5歳の娘がそこまで考える。悔しくて、悲しくて、やり場のない気持ちがこみ上げてきた。
それでも私は、表向きは「はい」「すみません」と謝り続けてきた。逆らえばさらに怒らせるのはわかっているから。しかし、ある日、事件が起きた。
私は家の玄関先で植木の手入れをしていた。すると、向かいの家に住む近所のオタクの女性が、にこにこしながら話しかけてきた。
「こんにちは。いやあ、ゆきさん、いつもお世話になってます」
「こちらこそ、いつも父たちがお世話になってます」
「いえいえ。ところでこの前、うちのお母さんが果物もらったんだけど、余っちゃって。よかったら食べてください」
「まあ、そんな、ありがとうございます」
私は果物を受け取り、礼を言った。すると彼女は困ったように続けた。
「あのね、ゆきさん。ちょっとお耳に入れたいことがあるんだけどね……。お義母さんが、町内会でね……その……」
「何ですか?」
「いや、もう聞き流してやってほしいんだけどね。お義母さんが、『うちの嫁は何もしない』って、それを福田さんの家で話してて。しかも『夫にお弁当も持たせないし、畑もろくに手伝わない。育児もまともにできない』って。ちょっとね、あれは言い過ぎだと思うよ。ゆきさんが毎日せっせと畑道具や家事をやってるの、みんな知ってるよ」
私は立ち尽くした。あの義母は、よそでも私の悪口を言っているのか。しかも、真っ赤な嘘ばかり。私は確かに家にいる時はいつも働いている。朝は一番に起きて、夜は最後まで片付け物をしている。夫に弁当を持たせていないのは、会社に食堂があるからだ。それを知らないわけでもないのに、わざわざ悪く言うとは。
「あ、いえ、私はそれほど……。気にしないでください」
「でも、お子さんもいるからね。レイナちゃんがね、お家でお義母さんに何か言われてないか心配でさ」
その言葉で、一気に現実がわかった。近所の人は、義母の悪口をそのまま信じている。私や娘がそんな家で暮らしていることを知ってか知らずか、空気を読んでか、誰も正式に抗議してはこない。けれど、このまま放っておけば、いつかレイナが保育園や学校で何か言われるかもしれない。「お前のおばあちゃん、うちの母ちゃんのこと悪く言ってたよ」って。
私はお礼を言って家に戻った。足が震えていた。腹が立つよりも、悲しかった。
その夜、ケ太が風呂から上がった後、私は意を決して口を開いた。
「ねえ、あなた。お母さんが、よそでも私の悪口を言ってるの。しかも、夫をほったらかして何もしない嫁だって。あれは嘘なのに」
「ああ、またかよ。母さんも大概だけど、お前も被害妄想が強いんじゃないの?」
「え? 近所の人が直接聞いたんだよ。『おい、ちゃんとお義母さん止めなよ』って言われた」
「言い過ぎだろ。母さんはお前のことが嫌いなわけじゃないよ。ただ、ちょっと口うるさいだけだ」
「ちょっとだけ? 毎日顔を合わせるたびに嫌みを言われて、よその家で作り話までされて、それでも我慢しろって言うの?」
「だから、うまく流せって言ってるんだよ。お前は気にしすぎなんだよ。ほら、俺も働いて疲れてるんだ。もう寝かせてくれ」
ケ太はタオルを投げ出して、寝室のドアを閉めた。もう何度も繰り返した会話だ。何を言っても、夫は私の味方をしてくれない。
次の日、私は区の班長をしている近所の鈴原さんと道で会った。鈴原さんは50代の男性で、集落のことを一番よく知っている人物だ。
「やあ、ゆきさん。いつもすまないね、班長の仕事まで引き受けてもらって」
「いえ、皆さんが割と簡単にやってくれるので、助かってます」
「ところで、最近お義母さん、調子はどうだい? うちの婆さんに聞いたら、結構元気そうだって言うから」
「あ、はい。おかげさまで、その、元気にしてます」
「そうか。なあ、ゆきさん。おれからも頼みたいことがあるんだが、聞いてくれるか?」
「はい、何でしょう」
「近所に変なうわさ話を流すのは、ちょっとやめてほしいんだ。君のお義母さん、町内の茶の間で、『うちの嫁はぐうたらで、孫の教育もろくにしやしない』って、そこら中で言いふらしてるんだ。おかげで、妙な誤解をしてる住民が何人かいるんだよ。お前さんがちゃんと働いてるのはわかってるが、周りには知らない人もいるからね。えらく不愉快な思いをしてる若い嫁もいるんだ」
私は言葉を失った。義母は、私の噂話を集落全体に撒き散らしているのだ。私は荷物を抱え、その場で立ちすくんだ。
その日、家に帰ってから、私は決意した。このまま黙っていたら、私は一生この家で奴隷のまま、義母の言いなりで生き続けるのだ。そして、レイナを幸せにすることもできない。
「あなた。今日ね、区の鈴原さんと会ったの」
「ああ、何か用か?」
「鈴原さんが言ってた。お義母さんが、集落中に私の悪口を流してるって。恥ずかしいよ。これじゃあ、まるで私がこの家で大層うくふるまってるみたいじゃないか」
「だから、それは気にしすぎだって言ってるんだろ。俺が聞いた限り、大した問題だとは思わないけどね」
「ケ太、あんた、冗談でしょ? 私が毎日どんな思いで義母さんに耐えてるか、少しは考えたことあるの? 自分は何にもせず、畑も家事も全部私一人に押し付けて、あんたはそれを黙って見てるだけ。それでも、自分の妻を守る気はないっていうの?」
「はあ? お前が勝手に被害者面してるだけだろ。母さんを怒らせるから悪いんだろ。俺だって会社で疲れてるんだ。家でもくつろげないのかよ」
私はテーブルを叩きたくなった。しかし、ケ太には何を言っても無駄だ。義母がよそで言いふらしていることも、私がどれだけ辛い思いをしているかも、全く理解していない。話し合いにならない。
数日後、私は昼間、家の二階を掃除していた。すると、一階から義母の声が聞こえてきた。義母は電話をしているようだ。
「ええ、もうあの嫁ったら、本当に何にもできないのよ。洗濯物もきちんに畳めないし、掃除機も部屋の隅っこはかけてくれないの。それでいて、自分はしっかりしてるって顔してるんだから、笑っちゃうわよね」
「……お義母さん、誰と話してるんですか」
私は二階から降りながら声をかけた。義母は慌てて電話を隠した。
「あ、ちょっと、まだ切れてないから。ゆきさん、勝手に人の話を聞くなんて、失礼じゃないかしら」
「お義母さん、今の話、誰にしているんですか」
「うるさいわね、会社の友達よ。少しばかり愚痴を言ったって、構わないでしょう?」
「あなた、この家の中で、私が誰に愚痴を言えばいいんですか? あなたは毎日毎日、私の悪口しか言ってない。娘にまで『うちには後継ぎがいない』って言ってる。ああいう言葉を聞いて、レイナが何を感じるか、考えたことあるんですか?」
「考えたこともないわね! 私は正直に言ってるだけよ。実際、うちにはあなたという後継ぎがいないじゃない。レイナは女の子で、うちの家を継ぐつもりはないんだから、何を言っても同じでしょ。そんなこともわからないの? これだから、結婚が遅かった女は困るのよ」
「口を閉じていただけますか」
私はできるだけ低い声で言った。
「私がいくつで、いつ結婚しようが、出産しようが、あなたにとやかく言われる筋合いはありません。それに、レイナにそんなことを言ったら、あなたを許さないから。いいですね」
義母は一歩下がり、驚いた顔をした。しかしすぐに、侮るような笑みを浮かべた。
「いいえ、お義母さん。もうこれ以上、私や娘に手を出したら、それ相応のことをすると約束してください。この家で、私がどれだけ働いているか、近所の人もみんな知ってます。あなたが集落じゅうにばらまいた嘘を、一つ一つひっくり返して回ってもいいんですよ。どうしますか」
義母は何も言えなくなった。私はそう言い放つと、冷たい視線のまま、その場を離れた。
その後も義母の態度は、前のように激しくなかった。どこか驚いたように、私を様子見している。しかし、根本は変わらない。今度は、私が「後継ぎ」を産まないことに対する嫌みではなく、家事全般についての文句を、こそこそと呟くようになった。
そんなある日、レイナが私のところに来て言った。
「ママ、ねえ、ママ」
「何?」
「私ね、幼稚園が終わったら、いつもママが畑で働いてるけど、えらいなあって思うの」
私は手を止めた。
「そうよ、ママはがんばってるわ」
「私、大きくなったら、ずっとママのそばにいるからね。おばあちゃんみたいに、ひどいことは言わないもん」
私は何も言えず、レイナをぎゅっと抱きしめた。何も言えなかった。仕事の疲れと、家族の溝からくる悲しさが一気にあふれてきて、私は顔を覆った。レイナは何も言わず、私の背中をとんとんと叩いた。
「ママ、泣いていいよ。私、ママの味方だから」
「あのね、レイナ。ママは、レイナがいてくれて、本当に幸せよ」
「うん。私もママとずっと一緒にいる。二人でいたいの」
レイナは5歳なのに、その大人びた優しさで、私を救った。
その夜、私はケ太と話した。
「ねえ、あのさ。私、思ったんだけど、この家を出ない?」
「は? 何言ってるんだ。親を置いて、俺たちが出て行くわけないだろ。無理に決まってるだろ。俺は長男なんだぞ」
「でも、このままだと、私たち、壊れちゃうよ。私も、レイナも、もう限界なんだよ」
「限界? 何がだよ。お前が少し我慢すれば、全部丸く収まるんだろうが。わがまま言うなよ」
「わがまま……。ああ、そう。わがままか。そっか、私はわがままなんだ」
「そうだよ。大体、お前は、家の中のことを外に漏らしすぎるんだよ。近所に知られたら、俺が会社で肩身の狭い思いをするんだろうが」
私はそれ以上何も言えなかった。ああ、この人は、最後まで自分が大事なんだ。妻のことも、娘のことも、全く考えていない。
そして、私はある行動に出ることを決意した。
翌日、私は区の公民館で開かれた子育てサロンに行った。そこには、同じ年頃の子を持つ女性たちが集まっている。私は今まで、家のことを話したことはなかった。しかし、もう我慢の限界だった。
「実はね、うちの義母がね……」
「え? ゆきさん、ひどいこと言われてるの?」
「うちのお姑さんもそうなのよ。でも、ゆきさんみたいに綺麗にこなしてるから、大丈夫だと思ってた」
「私、ね、もうあの家には誰にも何も言われたくないの。でも、どうやったらいいのかわからなくて……」
「ああ、ゆきさん、可哀想に。でも、言うならこっちから言ってやろうよ! こっちは嫁に行った身だからって、何でも我慢する必要はないと思うよ」
「うん、そうだよ。ねえ、ゆきさん、次に義母さんが何か言ってきたら、私がちゃんと助けに行くからね。いい?」
「いいえ、いいの。それは、自分でやる」
私はその場で、ふと心の中で思った。やっそり、私はこのまま黙ってやられるわけにはいかない。レイナのためにも、私は自分の望む生活を手に入れなければ。
その夜、私は夫に言った。
「聞いて、ケ太。来月、私、働きに出るわ」
「は? 今更何言ってるんだ。家事をほったらかして、どこに行く気だ」
「ほったらかしてなんてないわ。今まで全部、私一人でやってきたじゃない。あなたたちは何もしてくれなかった。だったら、私は私の好きなことをする。子供のためにお金を残せるようにする」
「ふざけるな! お前、本気で言ってるのか!」
「本気よ。もう決めたこと。あなたがどうしても反対するなら、私はレイナを連れて出て行く。それでもいいならそうして」
ケ太は何か言いかけたが、言葉を失った。今までに聞いたことのない、私の口調に怯えたのだろう。それから、私は委託の仕事を見つけた。家でできる内職のような作業だ。畑仕事の合間に、家事の合間に、私は少しずつお金を稼ぐようになった。
義母は、
「嫁が働くなんて、みっともない」
と悪態をついたが、私は無視した。
「あれ、お茶がまだないんだけど。ねえ、ゆきさん、ちょっとお茶出してくれない?」
「お義母さん、自分で入れたらどうですか? 私は今、仕事してるんですから」
「あ、あなた、私を雇い主と間違ってない? 私はあなたの主人の母で、あなたの夫の母なのよ」
「だから、何ですか? お茶を出すのがそんなに大事なら、旦那さんにでも淹れてもらえばいいでしょ。私に言わないでください」
義母は、口を開けて私を見ていた。私が何か言い返すなんて、思っていなかったのだろう。しかし、もう怖いと思うことはなかった。
レイナが小学校に上がる頃には、私は自分の貯金を少しずつ増やしていた。もちろん、義父母は何も言わないが、私は気にしない。
「ねえ、レイナ。今度の日曜日、ママと町に行って、本を買ってあげようか?」
「本当? ママだいすき!」
私はレイナの笑顔を見るたびに、自分の選択は間違っていなかったと思った。
そして、ある春の日。私は区の公民館に呼ばれた。
「はい、何でしょう」
「実はね、ゆきさん。区の役員の打ち合わせで、来年度の班長さんを決める集まりがあるんだけど、どうですか? うちの前の班長さんが辞めるっていうから、次は…とね」
私は一瞬、迷った。けれど、ずっと逃げてきたわけにはいかない。
「はい、引き受けます」
「お、やっぱりそう? いやあ、助かったよ」
その時、隣にいた奥さんが声をかけてきた。
「ゆきさん、最近なんだか生き生きしてるね。何かいいことあったの?」
「そうですか? 私、少しずつ仕事も続けてますし、ね」
「ああ、よかったね。ほんと、昔からゆきさんはしっかりしてると思ってたよ。あの義母さんがいるのに、よくやってるよ」
「ありがとうございます。ところで、お義母さんは…」
「ああ、今日は裏にでも行ったんじゃない? ちょっとほっといてやんなよ。何言われるかわかったもんじゃないからさ」
私は笑った。そう、私の人生を悪く言う要因は、もう何もない。
あれから、私は一度だけ、義父と話す機会があった。
「ゆきさん、すまんかったのう」
「は? 何がですか?」
「いや、あのうわぬのやら。あんなことばかり言って、すまんかったのう。わしもずっと黙っておって。嫁の立場で、苦しかったじゃろうに」
「お父さん……」
「今のうちだけじゃ。どうか、嫌な顔をせんと、おってくれないか。あんたは、うちの大事な嫁じゃ」
義父は、自分が義母を止められなかったことを、ずっとわびていた。口下手で、義母に頭が上がらない、優しくて弱い人。でも、わかってくれている人もいるのだ。私はそれを聞いて、嬉しかった。
「お父さん、ありがとうございます。私、大丈夫ですから。あなたの娘さんを、大事に思っててくださいね」
「うん、そうするよ」
義母は、今でも時々嫌みを言う。しかし、私がもう前のように怯えていないことも、レイナに嫌な思いをさせることも、その後彼女自身がしなくなった。たぶん、私は自分を守ることを覚えた。誰かに従属する生き方をやめたのだ。
「ママ、今日学校でね、こんなことしたんだ」
「へえ、そうなの。見せて見せて」
「うんっ!」
私は娘の手を握り、帰り道を歩いた。空は青く、畑の緑が眩しい。この家に来た頃は、何も見えなかった。毎日が辛くて、逃げ出したいと思っていた。しかし、もう違う。私には仕事があり、娘がいる。そして、たとえ夫が立派でなくても、私は自分の足で立って生きていく。
「ねえ、ママ、今日のご飯、何ー?」
「ハンバーグよ。いいでしょ」
「わあい、ママ大好き!」
娘が駆け出した。私も続いて歩き出した。
あの日々がなければ、私はこんなに強くなれなかったかもしれない。残酷だけど、あの義母の言葉が、私を独り立ちさせるきっかけになったのも事実だ。
「おうち着いた。ただいま」
「おかえり。今、お茶を入れるところよ」
義母はキッチンに立って、私の顔を見た。嫌みの一つでも言うかと思ったが、この日は何も言わなかった。
「ああ、ゆきさん。おかえり。今日はね、お友達が遊びに来てくれて、みんなでアップルパイを焼いたのよ。よかったら食べる?」
「あら、まあ。私がいただいていいんですか?」
「もちろんよ。あなたのために、甘さ控えめで作ったんだから」
義母が私に自分から料理を提供してくれるなんて、何年ぶりだろう。隣で夫が驚いたように目を見開いていた。
「いや、お袋さん、今日は何か良いことでもあったのか?」
「何言ってるの。私はいつだって、息子の嫁を大事にしたいと思ってるわよ」
その言葉に、私は何も言わず、ただお茶を口に含んだ。あの味が、少しほろ苦かった。だけど、嫌な気分ではなかった。
私はケ太と、あの日からずっとぎくしゃくしている。たぶん、この関係を戻すことは難しいだろう。それでも、私の人生は悪くない。私はやっと、自分の人生を歩き始めたのだ。
「ごちそうさまでした。お義母さん、とても美味しかったです」
「あら、おかわりあるわよ。たくさん召し上がって」
「ええ、いただくわ」
その後も、義母の嫌みは続いたが、私はもう昔の私ではない。彼女が何を言おうと、私は動じない。私は40歳を過ぎて、やっと一人前の主婦というより、一人の人間としての居場所を見つけたような気がする。
「ママ、ねえ、ママ」
「何?」
「私、ね、大きくなったらママみたいな人になりたい」
「まあ、嬉しいわ。ありがとう」
「ううん。だって、ママは働き者だし、優しいし、すごく強いもん」
私はレイナの頭を撫でた。娘の言葉が、どんな医者やご褒美よりもうれしかった。
「さあ、そろそろお風呂に入ろう。今日はあんまり遅くなっちゃうわよ」
「はーい。ママ、今夜は一緒にお風呂入ろうね」
「いいわよ。ほら、来なさい」
私は娘と手をつなぎ、風呂場へ向かう。
あの頃の私は、周りをよく見せようと、一人で抱え込みすぎていたのかもしれない。しかし、もう誰の目も気にしない。私は私の人生を、私の娘と、自分の力で生きていく。
「おやすみ、レイナ。いい夢を見てね」
「おやすみ、ママ。大好きだよ」
「私も愛してるよ、レイナ」
私は電気を消し、部屋の外に出た。
リビングを見ると、義父はテレビを観ながら居眠りをし、義母は洗い物をしている。夫はスマホを見ながらソファに座っている。
「ねえ、あなた。お義母さん、洗い物してくれてるわよ」
「ああ、そう。親父と二人でやるよ。悪いけど、お前も風呂入ってきなよ」
「私はいいわ。少し仕事が残ってるから。先に入るね」
「そうか。おやすみ」
私は自室に戻り、机の前に座った。パソコンを開き、仕事を進める。もう、誰に何を言われるか怖くない。私は、ここで生きていく。
それが、この家で見つけた、私なりの答えだから。
「おやすみ、私」
私はふとパソコンを閉じ、カーテンの隙間から外の月を見た。あの義母に悩まされていた頃よりも、私は少し、強くなれたかもしれない。
娘のために。自分のために。私は今日も、静かに一日を終える。
