雨の夜、警備室に飛び込んできたずぶ濡れの女が、息を切らしてこう言った。「助けて…!追われているんです…!」十年前に医療事故で全てを失い、警備員として身を隠してきた俺の前で、彼女を取り巻く男たちが金属バットを振りかざした。彼女を守るため、俺は反射的に飛び込んでしまった。だが、追ってきた者の目的はただの強盗じゃなかった。彼女は日本の巨大グループの令嬢で、背後には十年前に俺を陥れた男が糸を引いてい…

雨の夜、警備室に飛び込んできたずぶ濡れの女が、息を切らしてこう言った。「助けて…!追われているんです…!」十年前に医療事故で全てを失い、警備員として身を隠してきた俺の前で、彼女を取り巻く男たちが金属バットを振りかざした。彼女を守るため、俺は反射的に飛び込んでしまった。だが、追ってきた者の目的はただの強盗じゃなかった。彼女は日本の巨大グループの令嬢で、背後には十年前に俺を陥れた男が糸を引いてい...

雨が窓を打つ音で、俺は我に返った。手に持った古びた湯のみの中の茶は、もうすっかり冷めていた。ここは埼玉の外れにある精密機械工場。俺、斎藤誠は、この工場で警備員として働き始めて、もうすぐ十年になる。

かつてこの手が握っていたものは、こんな安物のペンではなかった。けれど、それは遠い昔の話だ。非常口の鍵を確認し、時計を見て記録簿に時刻を書き込む。単調で、退屈で、しかし安全な仕事。俺が今の自分に選んだ生活だった。

遠くでサイレンが鳴った。無意識に足を止め、耳を澄ます。あの音に、記憶の奥底にある何かが反応する。いや、もう関係ない。俺は首を振って、巡回を続けた。警備室に戻ると、工場長の山代匠が扉を開けて顔を出した。

「斎藤さん、まだ雨は降ってないか?」
「今のところは。ただ、風が湿っぽくなってきています。夜には来るでしょう」
「あんたの天気予報は良く当たるからな。信じるよ」

山代はそう言って笑った。38歳。俺より七つ年下だが、この男の判断力と面倒見の良さにはいつも助けられている。

「斎藤さん、うちに来て何年になる?」
「もうすぐ十年になります」
「早いもんだな。あんた、うちの警備員じゃもったいないって、みんな言ってるぞ」
「そんなことないですよ。俺にはこの仕事が合っています」

山代は何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。この男は俺の過去を聞かない。聞かないでいてくれる。それがどれほどありがたいことか、彼は知らないだろう。

山代が事務所に戻っていった後、俺は椅子に腰を下ろし、机の引き出しをそっと開けた。奥には、古い写真が一枚眠っている。写真の中の男は、今の俺よりずっと若く、目に力があった。

斎藤誠人。かつて「神の手」と呼ばれた男の名残りだ。

大学病院で数々の難手術を成功させ、同世代では別格と言われていた。だが、ある一件の医療事故で、俺は全てを失った。濡れ衣だと分かっていても、証拠は握られ、味方は消えた。医療界を追放され、逃げるようにしてこの町へ流れ着いた。

十年間、この工場の片隅で、俺は自分を殺して生きてきた。手を動かす仕事に就くこともなく、ただ静かに、目立たずに。そう決めたはずだった。

引き出しを閉め、窓の外を見る。街灯の光の中に、細い雨の筋が見え始めていた。

雨足はあっという間に強くなった。警備室のガラスに、絶え間なく雨が打ちつける。夜の十時を回った頃だった。門の外で、息を切らした足音が聞こえた。それに続く、複数の足音。女の悲鳴のような息遣いだった。

俺は反射的に立ち上がり、扉を開けた。ずぶ濡れの若い女が、扉に取りすがるようにして駆け込んできた。黒いスーツの上着が肩からずり落ち、髪は顔に張り付いている。その顔は、恐怖で引きつっていた。

「助けて…!追われているんです…!」

背後の暗闇から、フードを被った男が二人、駆け寄ってくるのが見えた。

「中へ。早く」

女を警備室に押し込み、俺は門の前に立った。男たちが立ち止まる。一人が、金属バットのようなものを手にしている。

「ここは工場の敷地内だ。警察を呼ぶぞ」

低く、静かに言った。男たちは一瞬ためらったが、そのうちの一人が女を目がけて突進してきた。俺は体を割り込ませ、腕でその一撃を受け止めた。鈍い衝撃が走る。

だが、もう一人の男が警備室の窓を回り込み、内側にいた女を突き飛ばした。女の頭が、鉄のロッカーの角に鈍い音を立ててぶつかった。その一瞬で、男たちは踵を返し、雨の中に消えていった。車のエンジン音が遠ざかっていく。

俺は女に駆け寄った。

女は青白く倒れ、額から血を流していた。意識はない。呼吸が浅く、早い。

「山さん!救急車を急いで!頭部外傷、頸椎の可能性もある!」

俺は振り返らずに言った。脇で、山代が蒼白な顔をして立ち尽くしていた。

「わ、分かった!」

救急への電話越しに、到着まで二十分近くかかると告げられた。豪雨で道路が冠水しているという。二十分。この状態で二十分は長すぎる。

俺は工場の備品棚を開けた。ダンボール、ガムテープ、タオル、清潔な雑巾、ビニール袋、木製の定規。医療器具など、何もない。だが、ないものはないのだ。

ダンボールを裂き、女の頭の両脇に当てる。タオルを丸めて頸椎の下に差し込み、位置を微調整する。定規を添え木代わりにガムテープで固定し、頭部が動かないようにした。それから、下顎を軽く持ち上げ、気道を開かせる。呼吸の音が、少しだけ通りやすくなった。

「斎藤さん、あんた…」

背後で山代が呆然と立っていた。俺は振り返らずに指示を出す。

「山代さん、その懐中電灯で瞳孔を照らしてくれますか?二分おきに」
「あ、ああ。分かった」

山代は無言で従った。雨音の中、俺は女の呼吸に耳を澄まし続けた。指先で脈を確認する。弱いが、ある。まだ助かる。

サイレンの音が近づいてきたのは、それから十八分後のことだった。救急隊員が飛び込んできて、俺の固定を見て一瞬動きを止めた。

「これは…誰がやったんですか?」
「うちの警備員の斎藤さんだ」

救急隊員は返事に迷いながら、しかし手早く処置を始める。その隊員の後ろから、白髪の男性が入ってきた。黒いコートの襟から雨の滴をしたたらせ、鋭い目で状況を見渡している。

大田洋像。大学病院の名誉教授であり、俺の恩師だ。夜間の緊急連絡で、たまたま病院に合わせて同乗してきたのだろう。大田は女の頭部の固定を一目見て、動きを止めた。それから、俺の顔をゆっくりと見上げた。

「この判断速度、この固定の角度。備品でここまでやれる人間は、日本にそう何人もおらん」

俺は黙って女から手を離した。

「斎藤先生、あんただな」

名を呼ばれ、俺は目を伏せた。十年ぶりに呼ばれたその名前に、胸の奥がきしむように痛んだ。

救急隊員たちが女をストレッチャーに移し、慎重に運び出していく。大田はその横について行きながら、俺に振り返った。

「この方が誰か知っておるのか?」
「いえ、知りません」
「九条グループ会長、九条洋一郎氏のご息女だ」

俺は息を飲んだ。九条グループ。日本有数の巨大企業。その令嬢が、なぜこんな夜にこの町で、なぜ何者かに追われていたのか。

「斎藤先生、今度、もう一度話をさせてくれ。近いうちに」

大田は短くそう言い残し、救急車に乗り込んだ。赤い光が雨の中を遠ざかっていく。

俺は門の前に立ち尽くしていた。背後で、山代が濡れた作業着のまま、じっと俺を見ていた。

「斎藤さん、あんた…医者だったのか?」
「昔の話です」

そう答えるのが精一杯だった。雨はまだ、やみそうになかった。

事件から二週間が経った。九条美月さんの意識は無事に戻り、大きな後遺症もなく退院したと、山代から聞いた。俺はいつも通りの朝の点検をしていた。

その日の午後、黒塗りの車が一台、工場の前に止まった。細身の女性がゆっくりと降りてきた。薄いベージュのコート、感素なパンプス。手には小さな紙袋を持っている。

一目で分かった。あの夜、俺が警備室で必死に固定を続けた、九条美月だった。

彼女は俺の姿を認めると、深く頭を下げた。

「斎藤さん。あの夜は、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私はここに立っていません」

「頭を上げてください。無事で何よりです」

「今日は、お礼とこの工場の視察に伺わせていただきました。父からも、きちんとご挨拶するようにと」

「工場のことでしたら、山代工場長におつなぎします」

俺は事務所へ内線を入れた。飛んできた山代は令嬢を見て一瞬固まっていたが、すぐに笑顔を作って案内に立った。

俺は門の前に戻り、いつも通りの持ち場に立った。だが、彼女はその日から、週に二度、工場へ通ってくるようになった。グループ企業の視察という名目だったが、彼女は現場を歩き回り、旋盤の前で汗を流す職人の話を、腰を掛けて聞いていた。

昼食は社員食堂で同じ定食を食べ、休憩時間には掃除のおばさんとも、笑顔で言葉を交わしていた。俺はその姿を、影から静かに眺めていた。

ある日の夕方、視察を終えた美月が、帰り際に警備室の窓を叩いた。

「斎藤さん、お茶飲みませんか?」

小さな水筒を差し出してきた。

「お気遣いなく」
「一杯だけ。あの夜のお礼が、まだ全然足りていませんから」

断りきれず、俺は湯のみを受け取った。温かい番茶だった。

「斎藤さん、社員の皆さんが口を揃えて言うんです。この工場は、斎藤さんがいるから夜も安心して眠れるって」
「大げさですよ。仕事をしているだけですから」
「肩書きじゃなくて、その人がどう生きているか。私、それが一番だと思っているんです」

この女性は、俺を警備員としてしか知らない。だからこそ、その言葉はまっすぐに胸に届いた。警備員の俺と、九条グループの令嬢。釣り合うはずがない。

俺は自分にそう言い聞かせ、湯のみを返した。

「ごちそうさまでした。お気をつけて」

美月は少し寂しそうに微笑み、車に乗り込んでいった。

その夜、俺の携帯電話が鳴った。大田だった。あの夜以来、恩師は俺に度々電話を寄越してくる。

「斎藤先生、一度会って話したい。今夜、工場の近くまで行く」
「先生、わざわざ来ていただかなくても」
「いや、電話では話せん」

深夜、工場近くの喫茶店で、俺は大田と向き合った。店内には、俺たちの他に客はいなかった。大田は鞄から一枚の写真を出して、机の上に置いた。

映った男の顔を見て、俺は息を止めた。鈴木征吾。かつての大学病院の委員長。俺に医療事故の濡れ衣を着せた張本人だった。

「今、九条グループを裏で狙っておる勢力がある。その中心に、こいつがいる」

「なぜ…」
「病院を追われた後、こいつは資金屋と手を組んだ。企業を買収して仕掛け、荒稼ぎしておる。次の標的が、九条グループだ」

「まさか、美月さんが襲われたのも…」
「間違いない。会長の一人娘を人質に取り、株を吐き出させる算段だったのだろう」

十年前、俺から医師の名誉を奪った男が、今度は命を狙っている。それが偶然ではなく、同じ一本の糸で繋がっていたのだ。

「もう一つ、話しておかねばならん」

大田は鞄から、もう一通の書類を出した。古い手書きの診療記録の写しだった。

「十年前のあの医療事故。カルテが書き換えられておった証拠が出てきた」
「あ…本当ですか?」
「わしは、ずっと調べておった。君を追放したあの日から、ずっとだ。動かぬ証拠が、ようやく揃いつつある」

俺は書類の上に置かれた、自分の名前をじっと見た。斎藤誠人。そこに書かれていた事故の経緯は、俺の記憶とは違っていた。確かに、書き換えられていた。それを大田は、十年かけて掘り起こしてきたのだ。

「先生…俺のためになぜ、そこまで?」
「君の手を殺すのは、日本の医療界にとっての損失だ。それだけの話だ」

大田は淡々と言い、コーヒーに口をつけた。

「斎藤先生。鈴木は、必ずまた動く。心積もりだけはしておいてくれ」

その夜から三日後の午後だった。警備室の電話が鳴った。大田だった。声が張り詰めていた。

「斎藤先生、美月さんがまた襲われた。今、大学病院に運び込まれている。頭部に受傷だ」

「容態はどうなんですか?」
「開頭術が必要だが、執刀できる人間が今夜この病院にはおらん」

俺はじきを握りしめた。

「頼む。君の手を貸してくれ。君しか救えない命がある」

俺は言葉を返さず、電話を切った。山代が事務所から走ってきていた。話は聞こえていたらしい。

「斎藤さん、車を出す。乗ってくれ」
「山代さん、いいんですか?」
「馬鹿言うな。あんたが必要なんだろう」

夜の国道を、山代の車は飛ばした。大学病院の裏口で、大田が待っていた。俺は手術着に袖を通した。十年ぶりの、白い布の感触。指がわずかに震えたが、洗面台に立った瞬間、その震えは消えた。

手術室の無影灯の下、視界が開ける。血圧、脈拍、瞳孔の状態。情報が次々と俺の頭に整理されていく。恐怖はなかった。ただ、目の前の一人の命を救うことだけがあった。

「執刀します。吸引」
「はい、分かりました」

若い女医が第一助手としてついてくれていた。

「先生、いつでもいいですよ」
「行きます」

メスが皮膚を走る。迷いのない一本の線。血腫が視界に広がる。俺は淡々と、しかし正確にそれを取り除いていった。

数時間後、俺は手術室を出た。廊下の壁に手をつき、天井を見上げた。女医が横に立ち、静かに肩を叩いた。

「戻ってきたな、斎藤先生。あんたが助けたんだ。さすがだな」

その夜、鈴木征吾が警察に連行されたというニュースが流れた。大田が集めた証拠と、今回の襲撃の実行犯が繋がったのだ。十年前の医療事故の真相も、明るみに出始めていた。

俺は手術室の窓から、夜明けの空を見ていた。封印してきたはずの「神の手」が、一人の女性の命と、俺自身の名誉を、同時に取り戻していた。

美月の術後の経過は良好だった。一週間もすると、彼女はベッドの上で微笑めるようになり、二週間後には廊下を歩けるまでに回復した。

俺は毎日、仕事終わりに病室を訪れた。警備員の制服のまま、廊下の隅で少しだけ話をして帰る。それが俺にできる精一杯だった。

美月が退院してから一ヶ月後、九条グループ主催の祝賀会が、都心のホテルで開かれた。表向きは、鈴木征吾の不正を暴いた関係者への感謝の会。その裏では、俺の医師としての名誉回復を、九条家が世間に向けて宣言する場でもあった。

俺は仮物のスーツに袖を通し、慣れない革靴で会場に入った。シャンデリアの下、紳士淑女たちが歓談を交わしている。俺の顔を知る者は少ない。だが、大田に案内されて壇上近くまで進むと、あちこちから視線が集まってきた。

「あれが斎藤先生か。神の手と呼ばれた」
「本当にいたんだな」

そんな囁きが耳の端をかすめる。会場の一角で、山代が緊張した顔で立っていた。工場からは、山代の他、古参の職人二人が招かれていた。

「斎藤さん、なんつうか…場違いだな、俺たち」
「俺だって同じですよ。山代さんがいてくれて助かります」

山代は照れ臭そうに頭をかいた。

やがて、壇上に九条洋一郎が上がった。灰色の髪をきっちり撫でつけた、貫禄のある男だった。

「本日は、娘の命を救ってくださった斎藤誠さんに心よりお礼を申し上げるため、皆様にお集まりいただきました」

会場が静まった。

「斎藤先生は、十年もの間、無実の罪を背負いながら、警備員として目の前の人々を守り続けてこられた。私はその生き様に、深く敬意を表します」

そして、洋一郎の隣に、白いドレスをまとった美月が立った。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。皆様は今夜、斎藤先生を『神の手』と呼ばれた天才医師として迎えてくださっていると思います。ですが、私が申し上げたいのは、少し違うことです」

会場のざわめきが止んだ。壇の下で、俺は思わず視線を上げた。美月の目が、まっすぐに俺を捉えていた。

「私が愛したのは、天才医師ではありません。警備員として、名もない一人の男として、人を守り続けてきた、この斎藤誠さんです」

美月の声は、涙で震えていた。

「あのお嬢ちゃん、本気だな」

隣の老紳士が呟いた。九条洋一郎が、マイクに手を伸ばした。

「娘の言葉に、親として付け加えることはほとんどありません。斎藤先生、娘のこと、そして九条家のこと、どうか末永くよろしくお願い申し上げます」

そう言って頭を下げた。日本有数のグループを率いる男が、警備員だった俺に、深く頭を下げていた。

会場から、割れるような拍手が起こった。大田が、俺の肩を叩いた。

「もう逃げ場はないぞ、斎藤先生」
「はい…そうですね」

それしか言葉にできなかった。

祝賀会が終わった深夜、俺と美月は二人だけで、少し歩いた。街路樹の葉が、街灯の光を受けて金色に揺れていた。しばらく、俺たちは無言で歩いた。美月が、白いストールを肩に引き寄せる。

「斎藤さん、今夜、私…勝手なことを言ってしまいました」
「いえ、大丈夫です」
「怒っていますか?」

俺は立ち止まった。街路樹の下で、彼女の顔が街灯に照らされている。俺は一人の男として、言葉を選んだ。

「あなたに釣り合う男ではないと思っていました。今も、そう思っています。それでも、もし許されるなら…これから先の人生を、あなたと一緒に歩ませてください」

美月の目から、涙が一筋、頬を伝った。

「その言葉、待っていました。私の気持ちは、あの警備室で一杯のお茶をお渡しした日から、何も変わっていません」

夜風が、二人の間を静かに抜けていった。

数ヶ月後、春が来た。小さな教会で、俺と美月は結婚式を挙げた。洋一郎の意向で、大規模な式ではなく、ごく親しい人だけの静かな式になった。山代は、真新しいスーツに身を包み、ネクタイが緩みっぱなしだった。

「斎藤さん、あんた、うちの警備員じゃもったいないって、俺、ずっと言ってきたよな」
「山代さん、これからも時々、あの警備室に顔を出させてください」
「馬鹿野郎。あんたの席は、いつでも開けとくよ」

そう言って、思いきり俺の背中を叩いた。大田は最前列で、静かに目を細めていた。式の後、俺の肩に手を置いて、一言だけ言った。

「君を追放した医療界が、今度は君に頭を下げる番だ。存分にやりなさい」
「先生、俺は大学病院に戻ります。ですが、それだけでは終わらせません」
「うむ。どうするつもりだ?」
「地方の医者が足りない土地。そこにも、俺の手が必要な場所があります。両方やらせてください」

大田はゆっくりと頷いた。大学病院への復帰は、正式に決まっていた。俺の無実は書面で認められ、名誉は回復された。

式の後、俺と美月は工場に立ち寄った。夕暮れの光の中、あの警備室が静かに佇んでいた。俺は窓越しに、かつての自分の席を見た。

「斎藤さん、ここがあなたの出発点なんですね」
「はい。ここで俺は、もう一度人を守ることを学び直したんだと思います」

美月が、俺の腕にそっと自分の腕を絡めた。夕日が、二人の影を長く工場の敷地に伸ばしていた。

Thumbnail