俺は塩崎、四十二歳。精密機械製造会社で設計と保守を担当している。今日も取引先である大手精密部品メーカーの工場に来ていた。この工場では自動車メーカーへ納めるエンジン用の精密部品を製造している。俺の会社はその製造ラインの中核を担う加工機械を納め、年に二回、整備のために足を運ぶ立場だ。
この加工機械には俺が開発した特許技術が組み込まれている。だからこそ、この機械が不具合を起こした時、対応できるのは俺たちの会社だけだ。この機械を見るたびに、必ず思い出す男がいる。藤谷という元同僚だ。俺と同年で、入社してから十年以上机を並べた。休日も返上して新しい加工機械を作るために設計図面を引き、試作を重ね、失敗の度に激しく意見を戦わせたものだ。
藤谷はよくこう口にしていた。「この技術が完成したら、どこも真似できない。必ず特許が取れる技術だ。」しかし、成功まであと一歩というところで、藤谷は病に倒れた。そのまま回復することはなく、息を引き取った。三十四歳だった。
「塩崎、あとは頼む。」
それが藤谷の最後の言葉だった。頬はこけ、体は痩せこけていたが、俺に訴えるその目には、共に開発している時と何ら変わらない技術に対する情熱の光が燃えていた。
悲しみに暮れている暇などなかった。藤谷の葬儀が終わった翌日から、俺は開発を再開した。孤独ではなかった。常に藤谷がそこで見守っているような気がした。そして一年後、開発に成功した。特許を取得した日、俺は一人で藤谷の墓前へ報告に行った。
あれから七年が経つ。大手部品メーカーと特許使用契約および修理契約を結んで以来、俺の仕事はこの工場への修理と保守が中心になっていた。
「今日もよろしくお願いします、塩崎さん。明日、大口の出荷が控えているもので、その前にお越しいただけて助かります。」
俺の意識を引き戻したのは、工場長を務める栗原の声だった。栗原は修理の度に必ず立ち合う。この加工機械が特注品であり、製造ラインの中核を担っていること、そして他者には代替ができないことを、栗原は誰よりも正確に把握している男だ。
作業に一区切りがついた頃、栗原が俺のそばに歩み寄ってきた。
「塩崎さん、少しよろしいですか? 」
「何でしょう。」
「先月、私の上司にあたる調達部長が交代しまして。本日、塩崎さんに話があるとのことです。挨拶を兼ねて、こちらに向かっておられます。」
俺は短く頷いた。「話がある」という言葉が、わずかに引っかかった。新しい担当者との最初の面談というのは、経験上、油断できない場合がある。こういう時は、自衛のために録音を残しておく。それが長年の習慣だった。工具を拭くふりをしながら、俺はポケットに手を入れ、スマホの録音アプリを静かに起動した。
ほどなくして、工場の扉が開いた。スーツ姿の男が入ってくる。栗原が「石本部長です」と紹介した。石本は俺には目もくれず、加工機械へと視線を移した。何かの値踏みをするような目つきだった。
「この機械のどこに、そんな価値があるのかね。」
石本は誰に言うでもなく、独り言のように呟いた。俺は嫌な予感がした。虫の知らせとでも言うのだろうか。藤谷がなぜかそこにいて、俺に何かを警告しているような気がした。
「修理の件で少し話がある。」
機械から目を離した石本が、挨拶も満足にしないまま、俺に向かってそう切り出した。その時、初めて石本と目が合った。石本はこの場に訪れてから一度も名乗りもしなければ、俺の名前を聞こうともしない。初対面の取引相手に対し、明らかに軽蔑している態度だった。
「私は、この加工機械の修理を……」
俺がそう言い差すように話し始めた途端、石本はそれを遮った。
「君の名前なんて、どうだっていいんだよ。」
栗原の顔に動揺が走る。俺は一度しゃがみ込み、加工機械から外した部品を脇へ寄せた。立ち上がった俺に構うことなく、石本は口を開いた。
「単刀直入に言うが、修理代が高すぎる。今回から修理代は下げてもらう。特許料も払っているんだ。現状の半額が妥当だろう。」
石本は口元に薄笑いを浮かべた。
「嫌なら、他の業者に頼むからな。」
嫌な予感が的中した。同業者からの圧力はあるが、それが顔に出ないほどに俺は冷静だった。そして石本を正面から見据えて言い放つ。
「この機械の修理は、他者が手を出せば特許権の侵害になります。修理ができるのは、弊社だけです。」
栗原が慌てて補足した。
「石本部長。この機械の修理契約については、前任の部長からもご説明があったかと思いますが……」
石本は栗原を一瞥した。
「引き継ぎは受けた。だが、それは絶対のものではない。修理費用の見直しは、会社として当然の判断だ。どこの業者も、自分にしか対応できないと言って吹っかけてくる。そういう言い分は、聞き飽きているんだよ。探せば代わりの業者はいる。前任者の判断を私が踏襲する義務はない。」
俺は一呼吸置いてから、冷静に言った。
「これは特許法の問題でもあります。交渉でどうにかなる話ではありません。」
「法律の話なら、うちの顧問弁護士に確認する。今日のところは費用の話だけで十分だ。」
「では、是非確認してください。ただ、確認しても答えは変わりません。弊社の特許は正式に登録されているものです。」
「ごちゃごちゃうるさいな。そんな態度なら、こっちにも考えがある。」
石本は話を打ち切るように片手を振り、スーツのポケットに手を入れた。取り出したのは一枚の五円玉だ。石本はそれを指でつまんで持ち上げ、俺の足元へ向けて、わざと落とした。五円玉が床に落ち、乾いた音を立てて転がり、静止した。
「おい、今回の修理代、五円な。継続契約したけりゃ、拾え。」
工場の空気が固まった。栗原が息を飲むのが分かった。俺はすぐに気づいた。石本はこの五円玉で俺だけを侮辱しようとしたのではない。命を削りながら技術に向き合い、「後は頼む」と俺に託した藤谷の思い、そして技術そのものを、石本は踏みにじったのだ。抑えきれない怒りが湧き起こる。しかし、ここで感情的になることが技術を守ることにはならない。俺は必死で怒りを飲み込んだ。石本は腕を組み、余裕の表情で俺を見ている。
俺は工具をゆっくりとケースに収めた。修理はまだ終わっていない。機械から外したままの部品を一瞥し、床に転がる五円玉に目を落とした。蹴り飛ばしたかった。しかし、これは藤谷が命を削って生み出した技術への値段だ。このままにしておくわけにはいかない。俺は五円玉を拾い上げてから、石本に言った。
「ご縁は、今日までですね。」
石本の表情が一瞬だけ固まった。次の瞬間、鼻で笑うような声が漏れた。
「何言ってんだよ。」
俺は答えなかった。五円玉をポケットへ収め、工具ケースを持ち、修理途中の機械に背を向ける。背後から栗原が声をかけてきたが、俺は振り返ることなく出口へ向かった。後ろで石本が何か笑いながら言っている。扉を押して外へ出た。閉まる扉の向こうに、笑い声が消えていく。
取引先の工場を出てから会社に戻るまでの道中、石本の笑い声がまだ耳の奥に残っていた。しかし、頭の中は静かだった。やるべきことは明確に見えている。
会社に着くなり、俺は上司である黒川技術部長に報告した。一通り経緯を伝え終えると、黒川は腕を組んだまま言った。
「両方の契約に適用できるか。」
「できます。修理契約と特許使用契約。どちらにも、取引先から不当な条件の提示があった場合に即時解除できる条項が設けられています。今回の石本部長の行為は、両方に抵触しました。」
「証拠はあるか。」
「録音があります。」
俺はスマートフォンを取り出した。
「石本部長が入室された直後からのやり取りは、全てここにあります。修理の値下げを迫る場面はもちろん、五円玉の件も含めて。」
黒川は録音の内容を確かめてから言った。
「あの条項を入れておいて、正解だったな。」
俺は頷いた。
「他の業者が修理できないと、確実に言い切れるか。」
「はい。それは断言できます。取引先の製造ラインは、弊社の権利を持つ技術が設計の根幹を占めていて、他者が手を加えれば権利の侵害になります。それを承知で引き受ける業者はいません。」
「機械の使用についても同様か。」
「特許使用契約を解除した以上、先方はこの機械を正当に稼働させる根拠を失います。ラインを動かし続ければ、それ自体が特許の無断使用になります。」
黒川は立ち上がり、法務部に連絡を入れた。その日の夕方、法務部が作成した修理契約および特許使用契約の解除通知二通が、即達で取引先の法務当てに送付された。
翌朝、俺は出社した。昨晩法務から発送した契約解除通知は、今頃先方に届いているはずだ。機械は止まったまま。修理の途中で外し、工場の床に残してきた部品は、今もあの現場にあるだろう。あの部品が戻らなければ、加工機械は動かない。そして今や、先方にはこの機械を稼働させる根拠もない。特許技術を中核に組み込んだ機械を、他者が修理することはできない。技術的な知識がなければ手の付けようがないし、知識がある者ならば、特許の存在に気づき、権利侵害を恐れて引き下がる。石本がどれだけ業者を探し回っても、結果は変わらない。
午前中、黒川が俺のデスクのそばに立った。
「向こうから連絡はまだか。」
「まだありません。」
「焦る必要はない。こちらの根拠は揺がないのだからな。」
黒川はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。俺は契約書を引き出しから取り出し、改めて該当の条文に目を通した。『不当な条件の提示があった場合、即時に契約を解除できる』。何度も読んでいる文章だが、今日は違う重みで目に入ってきた。
午後になり、栗原から電話が入った。
「塩崎さん、突然のご連絡で申し訳ありません。」
栗原の声は、いつもとは違い、掠れている。
「昨日から、ラインが完全に止まっています。今週中に出荷しなければならない製品があるんです。石本部長が複数の修理業者を手配しましたが、どこも対応できないと言って、帰ってしまいました。」
「そうですか。」
「社長も事態を把握していて、石本部長に説明を求めていますが、解決の見通しが立たない状況です。塩崎さんには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。」
栗原の言葉の底に、苦しさがあった。ラインが止まったまま手をこまねいていることが、工場長として耐えられないのだろう。
「栗原さん。昨日の夕方、弊社から修理契約と特許使用契約、二通の解除通知をお送りしています。ご確認いただけていますか。」
「はい。法務部から内容は聞いています……」
「でしたら、現在弊社と貴社の間に、いかなる契約関係もありません。修理への対応はもちろん、機械の稼働を認める根拠も、弊社にはございません。」
電話の向こうに、短い沈黙があった。
「……わかりました。」
そこで電話は切れた。栗原は冷静沈着な男だ。しかし、これは俺と栗原の問題ではない。技術を守ろうとする者と、技術を蔑ろにした者の戦いなのだ。払うべき代価を払ってもらわなければならない。
俺は立ち上がり、黒川の部屋へ向かった。栗原からの連絡を端的に伝えると、黒川は言った。
「次は、向こうの上層部が出てくるはずだ。」
その日の夕方、法務に取引先の社長から直接連絡が入った。黒川の言葉通りだった。翌朝十時に、先方の社長が弊社を訪ねてくるという。
黒川に伝えると、「私も同席する」とだけ言った。その夜、俺はデスクに向かい、翌日の準備をした。二冊の契約書、録音を保存したスマートフォン、そして石本が俺の足元に転がした五円玉。俺は無意識のうちに、ポケットへ収めていた。取り出してみると、軽い。石本の技術に対する思いの重さが、この五円玉ほどしかないということか。
翌朝、俺は約束の数分前に応接室へ入った。黒川はすでに席についていた。十時ちょうど、扉が開く。先に入ってきたのは、六十代とおぼしき男だった。スーツの着こなしに乱れがなく、室内を一度見渡してから俺たちの方へ向かってきた。
「社長の村瀬です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
村瀬は俺に向かって深く頭を下げ、後から入室してきた石本がそれに続いた。二日前とは別人のように、唇を一文字に引き結んでいる。四人がテーブルを挟んで向かい合うと、村瀬がまず口を開いた。
「今回の件について、直接事情を確認させてください。なぜ弊社との契約を解除されたのか、ご説明いただけますか。」
俺は二冊の契約書をテーブルに並べ、それぞれの該当箇所に指を当てた。
「弊社との修理契約及び特許使用契約には、取引先から不当な条件の提示があった場合、即時に解除できる条項が設けられています。今回、石本部長は一方的に修理代を半額にするよう求められました。この機械の修理には弊社の特許技術の知識が不可欠であり、他者では対応が不可能であることをお伝えしましたが、不当な値下げ要求は撤回されませんでした。この行為は、両契約の解除条項に抵触します。さらに、これをお聞きください。」
俺はスマートフォンをテーブルの中央に置き、再生した。
「おい、今回の修理代、五円な。継続契約したけりゃ、拾え。」
石本の声が応接室に流れる。修理代の値下げを迫る場面、特許の説明を遮る場面、「何言ってんだよ」という声まで、やり取りが続く。俺は再生を止めた。しばらく、誰も言葉を発しなかった。
「これが録音の全体です。先ほどの条文に照らし、今回のやり取りが不当条件の提示に当たると判断しました。加えて、証拠として保管していたものがもう一点あります。」
俺は五円玉をポケットから取り出し、テーブルに置いた。五円玉がわずかに転がり、止まった。村瀬の顔色が、みるみる険しくなっていった。
「少し待ってください。」
石本が割り込んだ。
「あれは修理代交渉の流れの中での一言であって、冗談のつもりだった。あそこまで深刻に受け取られるとは思っていなかった。」
「録音の中で、修理代の引き下げ要求は明確に残っています。特許技術の存在をお伝えしても、他者への変更を検討すると明言されました。ご縁玉の件が冗談であれば、その前の要求も冗談だったということですか。」
石本は答えなかった。目を伏せ、口を結んだままでいる。テーブルの上の五円玉が、小さく光を返していた。
「石本。」
村瀬が言った。低く短い声だったが、その底に怒りが凝縮されていた。
「前任の部長から、加工機械については引き継ぎを受けているはずだ。特注品であること、特許技術が中核にあること、他者への変更が現実的でないことも、全て聞かされていたはずだ。それを把握した上で、こういう対応を取ったのか。」
「社長。費用の見直しという観点からは……」
「見直しの問題ではない。」
村瀬は石本の言葉を断ち切った。
「相手への敬意の問題だ。この機械が何年、うちのラインを支えてきたか。それがどれだけの技術と時間の積み重ねで成り立っているか。長くこの仕事に関わっていれば、自ずと分かることだ。」
村瀬は石本から俺へ向き直った。
「何年もかけて築いてくださった技術と信頼に、うちの社員がこのような仕打ちをしたことを、経営者として恥ずかしく思います。」
村瀬が深く頭を下げた。
「弊社の社員が重大な非礼を働きました。心よりお詫び申し上げます。」
室内が静まりを取り戻す。黒川はそこで初めて口を開いた。
「修理を再開し、契約を新たに結ぶとすれば、四点が条件になります。従来の修理料金でのご請求、緊急対応費の加算、修理契約及び特許使用契約、今回より条件を改めた両契約の新規締結です。」
黙って聞いていた村瀬は、すぐに答えた。
「全てお受けします。どうか、一刻も早くお願いします。」
村瀬が再度石本に目を向けた。
「今、この場で塩崎さんに謝罪しなさい。」
石本は一瞬動かなかった。やがて椅子を引き、立ち上がると、俺に向かって頭を下げた。
「この度は……多大なご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。」
声に熱はなく、体から精気が抜けていくのが分かる。二日前に俺を笑い飛ばした男が、今は力なく項垂れている。俺はそれを見ながら、ようやく藤谷に顔向けができると思った。怒りでも、勝利の快感でもない。長い時間をかけてずっと抱えていた重たい荷物が、そっと降りていくような感覚だった。
あの病室の朝を思い出していた。頬のこけた顔で、それでも俺をまっすぐ見た藤谷の目。『塩崎、あとは頼む。』あの言葉が求めていたのは、技術を完成させることだけではなかったはずだ。技術に向き合う者への敬意を守れ。突き詰めれば、そういうことだったのかもしれない。そして、その条文も、この準備も、全て藤谷が俺に教えてくれたものだった。
二人でまだ開発を続けていた頃、夜遅くまで試作を重ねた後、藤谷は設計図面を眺めながら言ったことがあった。
「塩崎、もしこれで特許を取ったら、後が大変だぞ。技術の価値が分からない連中は、価格で締めつけてくる。それでもこれを守るなら、逃げ道を最初から作っておかなければ。」
技術は、守らなければ伝わる。藤谷は常々そう口にしていた。俺は特許を取得した後、取引先と初めての契約を交わす前に弁護士に依頼して、その条文を両契約に盛り込んだ。藤谷の言葉を形にするためだ。
村瀬と石本が去った応接室のテーブルに、五円玉が残されていた。俺はそれを手に取り、ポケットへ収めた。
「藤谷、守ったよ。」
俺は誰に言うともなく、静かに呟いた。
翌日、俺は取引先の工場へ向かった。外したままだった部品を所定の位置に戻し、修理を施し、動作確認を終えた。静かに、ラインが動き始める。栗原が俺に向かって、黙って頭を下げた。
それから数日が経たないうちに、修理契約と特許使用契約が新たに締結された。修理費用と年間保守料は、以前の条件を大きく上回るものになった。石本の件は、後日栗原から伝わってきた。今回の件を受け、広告の上、別の部署への移動になったという。
ほどなく、次の定期修理の日が来た。工場へ向かう前、俺は机の引き出しを開けた。開発の途中、二人で撮った写真を取り出す。藤谷はカメラへ向かって、お得意の自信ありげな顔をしている。写真を引き出しへ戻し、俺は工場へ向かうのだった。



