有給明けの朝、出勤すると、部長が俺を勝手に退職扱いにしていた。シュレッダーにかけられた俺の社員証がデスクの上に置かれ、部長名義の退職メールが全社に送信されていた。
「無能がやめて助かる。選別は1円な」
部長は薄汚れた1円玉を俺に押し付けて、ニヤリと笑った。
俺の名前は菊池。3年前に転職し、食品や飲料の卸売り会社の情報システム部で働いている。車内の基幹システムの運用やメンテナンスを担当する、あまり目立たない仕事だ。部署の社員は俺を含めてわずか4名。うち2名は派遣社員だった。
我が社は売上重視のため、営業部や企画部など成果を数字でアピールしやすい部署が花形扱いされていた。もう1人の正社員である横井部長は、名目上は部署のトップだが、あまり仕事ができるタイプではない。毎日簡単な仕事ばかりして、難しい業務は俺や派遣社員に任せきりだ。正社員なのに給料は少なく、社内システムに何か問題があれば、横井部長は俺のせいにする。毎日、責任とストレスがのしかかる職場だった。
「おい菊池。この書類、明日までに作っておいてくれ」
今日も横井部長が俺に仕事を押し付ける。
「すみません。今ちょっと手が離せなくて」
部長から押し付けられた仕事は他にもたくさんある。余裕がないため断ろうとしたが、部長はギロリと俺を睨みつけた。
「部長の命令だぞ。聞けないのか?」
「わかりました」
「最初から素直に受け取っておけ」
チッと大きな舌打ちをする部長。2名の派遣社員は、部署内に流れる嫌な空気に気づいてないふりをしている。
最初から横井部長とは良い関係とは言えなかったが、1年前からさらにひどくなった。その原因は、上層部から依頼された車内向けの基幹システム開発で、部長の功績を俺が横取りする形になったからだ。
1年半前、横井部長が大きな仕事を依頼されたと言ってきた。
「車内システムが今バラバラに運用されている。上層部はこれを1本化した基幹システムを望んでいる。俺が中心となって進めるから、お前らはサポートだ」
システムの一本化は俺たちにとっても嬉しい話だった。車内システムの運用は情報システム部が担当している。4人で全システムを問題なく稼働させるために、毎日目が回りそうなほど忙しいのだ。一本化されれば運用の負担も少なく済むだろう。
ところが、横井部長は最初「俺がメインでやる」と意気込んでいたが、いざ着手すると技術力の低さが露見した。部長はあまりシステム開発の経験がない。元は営業部の人だが、昔からパソコンいじりが好きでシステム開発を独学で勉強していたそうだ。
6年前、情報システム部で人手が足りなくなり、さらに部長を務めていた人が転職して会社を去った。そこで横井部長は自ら立候補して情報システム部に移動した。当時は営業部の課長で、他に責任者もいなかったため、情報システム部の部長に就任した。部長という立場上、あまり仕事ができなくても、周りが気を利かせてサポートしていたそうだ。しかしそれも長くは続かない。情報システム部は元々社員数が少ない上に激務で、どんどん社員が辞めていった。俺が採用されるまで、派遣社員と横井部長だけで回していたらしい。
そういった経緯もあり、横井部長が複雑な基幹システムを開発するのは元から無理な話だったのだ。
気づけば俺がメインとなり、システム開発を進めていく。上層部との話し合いにも俺が出るようになり、横井部長の存在は霞んでいった。
毎晩終電で帰る日々が続いた。バラバラに動いていた車内の仕組みを1本に束ねるのは、想像以上に複雑な作業だ。データの整合性を保つために、何度もゼロから設計をやり直した。部長は定時で帰っていく。悔しいとか悲しいとか、そういう感情も次第に薄れ、ただ完成させることだけを考えていた。
そして半年の時間をかけて、基幹システムが完成した。かなり使いやすいと好評で、普段は日陰の情報システム部に少しだけ注目が集まったのを覚えている。
しかし称賛はシステム開発をした俺にだけ向けられ、横井部長は何も評価されなかった。部長は俺に手柄を横取りされたと思い込んでいるらしい。
「あんまり調子に乗るんじゃねえぞ」
横井部長が暗い目で俺を睨みつけてきた日のことをよく覚えている。この出来事以降、部長は俺を目の敵にし始めたのだ。
押し付けられた大量の仕事を前にして、俺は思わず頭を抱えそうになる。
「やるしかないな」
小さくつぶやき、書類を軽く叩いた。
部長からのいびりは悪いことばかりではない。たくさん仕事をこなしたことで経験値は上がっているし、仕事の処理スピードも以前に比べてかなり速くなった。しかしこんな毎日が続くようでは、いずれ限界が来るだろう。その前に何とかしなければと考えるが、仕事が忙しすぎて転職活動する暇もない。このまま横井部長にいいように使われて終わってしまうのか。気づくと俺の口からまたため息が漏れていた。
いつものように仕事をしていたところ、突然実家の母から電話がかかってきた。
「え、ばあちゃんが」
休憩室に入り電話に出たところ、俺を可愛がってくれた祖母が危篤だと告げられ、俺は慌てて横井部長の元へ向かう。
「部長、すみません。祖母が大変な状態でして、今日の午後から有給をいただけませんか?」
横井部長は暇そうに雑誌を見ている。俺の方にチラリと視線を向けると、信じられないことを口にした。
「お前さ、社会人何年目だよ。仕事の方が大切に決まってるだろ」
俺は目を丸くして、まじまじと部長を見る。
「それはつまり、有給は認められないということですか?」
「はあ? 俺はそんなこと言ってないけど。ただお前の仕事は誰も代わりにやってくれないぞ。責任は全部お前が追うことになるからな」
視線は雑誌に向けたまま、めんどくさそうに言い放つ。はっきりと明言しないあたり、卑怯な言い方だと思う。いつもなら素直に引くところだが、今回は折れるわけにはいかない。一刻も早く祖母の元へ行かなければ。
俺は頭の中にある知識をフル活用して、横井部長に理論した。
「私の仕事ですが、納期に余裕があります。誰かに変わっていただかなくても問題ありません。それと、有給を認めないのは労働基準法に抵触しますよ」
「あのさ、俺の話聞いてた? 認めないとは言ってないぞ」
「では認めていただけるということですね。すぐ有給申請の書類を提出します」
手早く書類に必要事項を記入し、部長のデスクへ向かった。
「書類はそこに置いておけ。後でやるから」
「このまま帰るついでに、私が人事部に提出しておきます。部長の手を煩わせるわけにはいきませんから」
笑みを浮かべ、部長に書類を突きつける。「書類なんてもらってない」「有給を取得するなんて聞いてないぞ」という言いがかりをされないための予防策だ。部長の嫌がらせに付き合っている暇はない。
「お時間はありますよね」
チラリと部長が持っている雑誌に視線を向けると、大きく舌打ちをしながら申請書類をひったくり、雑なサインと押印をして俺に突き返してきた。
「勝手にしろ」
部長の怒声には反応せず、荷物をまとめて部署の扉へ向かう。
「お前、絶対に後悔させてやるからな」
恨みのこもった部長の声には引っかかるものを感じたが、今は急いで実家に帰らなければならない。実家はここから新幹線で2時間ほどの場所にある。スマホで新幹線のチケットを購入すると、俺はまっすぐ駅へと向かった。
それから5日後。祖母は結局亡くなってしまい、俺は3日間の有給を取得した。横井部長にはメールで連絡したが返信はない。まあ、有給を認めないってことはないだろうけど。部長がごねるようなら人事に直接話をしよう。そんなことを考えながら出勤すると、派遣社員の2人が部署に帰ってきた俺を見ながら気まずそうな顔になった。
なんだろうと首をかしげていると、先に出勤していた横井部長が俺に近づいてくる。
「いやあ、無能がやめて助かる。はい」
何のことだと疑問の声をあげると、部長がニヤついた笑顔でパソコンを指差す。
「メール確認してみろよ」
言われた通りパソコンを起動してメールを開くと、受信ボックスに信じられないメールが届いていた。部長名義の退職メール。
「そうだ。お前の退職を知らせるメールだよ」
続けて部長が俺のデスクにゴミを置く。よく見るとそれはゴミではなく、シュレッダーにかけられた俺の社員証だった。
「言っただろう。後悔させてやるって」
続けて部長は「退職願」と書かれた封筒を取り出す。
「これ、お前が作った退職願いな。人事に報告しに行くわ」
「ちょっと待ってください。私は退職願いなんて作ってませんが」
「あのさあ、全部言わないと理解できないわけ?」
部長が俺に近づいて肩を乱暴に掴む。部署の隅の方まで連れて行かれ、小声でこんなことを言ってきた。
「お前がうちで働き続けるなら、俺はお前が退職するまで徹底的にいびるからな。周りに訴えても無駄だぞ。部長の権限を振りかざして揉み消してやる」
目を丸くして部長を見ると、歪んだ笑みを向けられた。
「俺さ、お前のこと大嫌いなんだよ。この前の有給の件で我慢の限界を迎えたってわけ。さっさと辞めた方がお前のためでもあるぞ」
そして部長は薄汚れた1円玉を取り出し、俺に押し付けた。
「選別は1円な。自動販売機の横に落ちてたのを拾ったんだ」
会社に居続ける限り、こうした嫌がらせが続くのだろう。手のひらに置かれた1円玉を見ながら、俺は静かに笑った。
「私も助かりました。退職の手続きが省けましたので」
ニコリと笑みを浮かべ、部長に向き合う。
「その退職願、人事部に提出しておいてください。今ある仕事を片付けて引き継ぎを終え次第、残りの有給を取得して会社を辞めますから」
「お前、頭おかしくなったのか?」
横井部長の失礼な物言いをスルーして自分のデスクへ戻る。
「おい、聞いてるのか?」
「聞いてますが、これ以上何か話すことはありますか?」
即座に言い返すと、部長は言葉に詰まる。その様子を見て、俺はスーッと頭が冷えてきた。部長はただ俺をいびりたかっただけで、実際に俺が辞めるとは思っていなかったのかもしれない。だから慌てているのだろうが、ここまでコケにされて残る理由なんてなかった。
「なさそうですね。では仕事に戻ります」
一礼してパソコン画面に向き直る。部長はブツブツと何か文句を言っていたが、全部無視して目の前の仕事に取り組んだ。
部長の強引な退職要請は数秒で受け入れたが、実際に退職するとなると手続きと時間が必要だ。引き継ぎが終わったのは、有休明けから半月後。退勤時間になり、俺は部長のデスクへ向かった。
「では、明日から有休を取得します」
横井部長はいつものようにチッと大きな舌打ちをすると、罵倒の言葉を向けてきた。
「お前みたいな無能が会社を辞めたところで、どこも拾ってくれないぞ。っていうかお前、転職する暇なんかなかっただろ。これからニート生活でもするのか? その年齢で無職とか救いようがねえな」
横井部長はどうしても俺を屈服させたいようだ。俺を馬鹿にする言葉は、部長の品格を貶めるものだ。実際、話を聞いている派遣社員たちは嫌そうな顔をしている。部長としての信頼を失う発言だと、本人は自覚しているのだろうか。
「ご心配どうも。では失礼します」
丁寧に頭を下げ、部署の扉へ向かう。
「くたばりやがれ!」
部長が手に持っていた雑誌を俺に向かって投げる。軽く避けると、何事もなかったかのように部署の扉を閉めた。
そして翌日。俺はいつもより遅く目を覚ました。部長に仕事を押し付けられていたせいで、今までは朝早く出勤して仕事をこなしていたが、今日からそんなことをする必要はない。
「うーん、いい天気だ」
今日は午後から用事がある。のんびり身支度を整えていると、スマホがチカチカと光っているのに気づいた。
「うわ、なんだこれ」
画面を確認すると、着信数が数十件と表示されている。全て横井部長からの電話だった。画面を見ていると再び部長から電話がかかってきたため、しぶしぶ通話開始ボタンを押す。
「もしもし」
「おい、一体何が起こってるんだ!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、今まで聞いたことのない横井部長の焦った声だ。
「あの、ちゃんと話していただかないと分からないのですが」
一方の俺は冷静に対応する。スマホから思わず耳を離すくらい、横井部長は大声でこう叫んだ。
「基幹システムが突然止まったんだ!」
「ああ、今日ですからね」
アッサリと答えると、部長は言葉を失ってしまった。
俺が開発した基幹システムは、半年に1回更新が必要なのだ。更新は正しい順序で行わなければならない。もちろん引き継ぎ資料に手順は書いてある。今日が更新日で作業が必要だと、部長には前に伝えてあった。システム開発が終わった直後、部長や派遣社員たちにはシステムの重要事項を全て伝達していた。
「お、俺はそんなの聞いてない」
まあ、そうだろうなと心の中でつぶやく。伝達のため会議室にみんなを集めた際、部長はずっと俯いていた。話を聞くふりをして、居眠りをしていたのだ。しかし口頭で伝えるだけでなく、書類も作成して渡してある。部署のトップとして「知らない」では済まされないだろう。
「とにかく今すぐ会社に来い! システムが止まって大変なことになってるんだ!」
基幹システムには受注や発注、請求書の管理、在庫データや顧客情報など、業務に必要な情報が全て入っている。システムが停止すると、これらの情報が閲覧できなくなるのだ。
「引き継ぎ資料に手順は書かれています。私がいなくても対応できるはずでは?」
「そ、それが、見てもよくわからなくて」
横井部長の技術力では、確かに対応は難しいだろう。しかし派遣社員たちなら対応できるはずだ。
「他の2人は体調不良で休みだ。なんで今日に限って」
横井部長は困惑している様子だが、実は今日あの2人が休むことを俺は知っていた。今まで部長が怖くて何もできなかったが、昨日の俺に対する言動を見て、何か思うところがあったらしい。辞めた後、俺に2人からメールが送られてきたのだ。
「明日、2人揃って会社を休む。部長は自分たちがいなくなって痛い目を見ればいい」
さらにメールにはこんなことも書かれていた。
「部長の元で働くのはもう無理なので、派遣元に頼んで引き上げてもらう」
2人とも俺と同じように会社を去る決意をしたのだ。しかし、横井部長には何も教えてやらない。派遣社員の2人が言うように、自分勝手すぎる部長は少し痛い目を見る必要があると思ったからだ。
「すみません、俺もそちらへは行けません。有給を取得していますし、もう退職も決まってますからね」
「じゃあ退職は撤回だ! 俺が上層部に行ってやるから!」
「いいえ、結構です」
アッサリ断った俺に、部長は叫び混じりの声をあげる。
「なんでだよ! 無職になってお前も困ってるだろ!」
「いえ、すでに転職先は決まってますけど」
驚きの声をあげる部長に、ある事実を明かす。
「有給を取る前に、転職先から内定をもらってたんです」
「う、嘘だろ? 転職活動する暇なんてなかったはずだ」
「ええ、ですが前に勤めていた会社の元同僚に紹介してもらいまして」
以前勤めていた会社は社員同士の仲が良く、今も連絡を取り合っている。その元同僚にメッセージを送ったところ、取引先を紹介してもらえることになった。トントン拍子に話が進み、有給に入る前に内定が出ていたのだ。
「有休明けに退職願を出そうとしてたんですけど、部長が先に色々やってくれたおかげで手間が省けました。だからあの時、私も助かりましたと部長に言ったんですよ」
横井部長は「してやったり」と思っただろう。しかし元から退職は決定事項だった。何も知らなかったのは部長だけだ。
「そ、そんな」
「部長の方で対応できないなら、派遣社員たちが出勤してくるまで待つしかありませんね」
「待ってくれ! 俺の話を聞いてくれ!」
部長が追い詰められた様子で事情を明かす。
「上層部に一刻も早く対応しろと言われているんだ。もしシステムが止まったままだと、俺の責任になるかもしれん」
「はあ。それが何か」
俺は冷めた声で返す。
「あなたがどうなろうと、知ったことではありませんね」
「え、ど、どうして」
「それを私に聞くんですか? あのですね、私が転職を決意したのはあなたのせいですよ。私を無能だと馬鹿にした上、仕事を押し付けてきて。そんな上司、嫌いに決まってるじゃないですか」
横井部長が言葉を失う。その隙に、今までの鬱憤を全てぶちまけた。
「嫌いな上司のために私が何かしてあげることはありません。そこまでお人好しじゃないので。あなたが責任を追求されて何かしらの罰を受けても構いません。むしろ、そのくらいしないとあなたは反省しないでしょう」
横井部長は好き勝手にやりすぎた。ここら辺でそろそろ、きつい灸を据える必要があるだろう。
「お、俺が悪かった。反省してる! だから助けてくれ!」
「お断りです。では、さよなら」
部長が何か叫んでいたが、容赦なく電話を切る。着信拒否設定にすると、俺は中断していた身支度を再開した。今日は転職先に挨拶に行くのだ。横井部長なんかにかまっている暇はなかった。
その後のことは、元部署の同僚から聞いた話になる。横井部長は責任を追求され、上層部から厳しい叱責を受けたらしい。さらに派遣社員たちは、横井部長の普段の言動が原因で業務の継続を拒否すると派遣元に報告。それが元から上層部に話が伝わり、横井部長は再び呼び出され、再度注意を受けたそうだ。部長は周りから冷たい目で見られ、居場所を失った。
ほどなくして派遣社員がいなくなり、会社は急いで補充人員を募集した。しかし給料が低く、なかなか応募が来ない。情報システム部は壊滅状態だそうだ。横井部長はそのまま部長の椅子に座っているが、適任者が来ればお払い箱となるだろう。移動や処分になると社内では噂されていて、横井部長はその日が訪れるのをビクビクしながら待っているらしい。
一方、俺は転職先で充実した毎日を送っている。仕事量は多いが、給料もその分もらえるので、やる気十分で仕事に取り組めていた。社員同士も仲がいいし、理不尽な要求をする上司もいない。できればずっと働きたいと思えるいい職場だ。そのために俺は今日も全力で仕事に取り組んでいる。



