夜の帳が下りた繁華街、俺は高級寿司店「未動寿司」の暖簾をくぐった。なつめさんがいつものようにカウンター席で俺の握る寿司を待っている。
「よう、みちゃん。今夜もいい腕を頼むぞ」
彼は今年で75歳になる常連客だが、いつもハキハキとして年齢よりずっと若く見える。10年前に店を開いて以来、週に一度のペースで通ってくれている。来るたびに「みちゃんの握った寿司以外は食べたくないね」と言ってくれる、本当にありがたいお客さんだ。
「なつめさん、今日はどうしますか? 良いはまちが入ってますよ」
「おう、それをもらおうか」
俺が握ったはまちを大きな口で頬張り、「うまい!」と笑顔で言ってくれる。その姿を見ると、寿司職人冥利に尽きるというものだ。
今晩はなつめさんから嬉しい報告があった。娘さんに初めての孫が生まれたらしい。彼は照れ臭そうに頭を掻きながら、スマホに保存した写真を見せてくれた。俺は心を込めて「おめでとうございます」と伝えた。
そんな和やかな雰囲気の最中、店の扉が開いた。見るからに柄の悪い男が3人組で入ってきたのだ。20代後半ほどのガッチリした体格で、目つきがどうにも鋭い。俺は僅かに身構えたが、予約客である以上追い返すわけにはいかない。なつめさんから少し離れた席に案内した。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
3人組はなつめさんを横目で見ながら、ひそひそと内緒話をしている。嫌な予感がしたが、深く考えるのはやめて注文を聞いた。すると男たちは休む暇を与えず、次々と酒と寿司を注文してくる。俺は忙しなく働き続けた。
やがてなつめさんが食事を終え、会計を頼んできた。財布を手に取ったその時、事件は起きた。
「おい、じいさん。俺たちの分も払っておいてくれよ」
3人組のリーダー格だった男——笹岡と名乗った——が、なつめさんにそう言い放ったのだ。俺は自分の耳を疑った。笹岡は続けて、自分たちが「深海組」というヤクザの組員であることを明かした。
「ヤクザを舐めたらどんな目に遭うか分かってるよな? 俺たちの会計もしないと組長呼ぶぞ」
なつめさんは首を横に振って拒否したが、笹岡は何度も「俺たちの分も払え」と迫る。3人組はなつめさんを取り囲み、まるで獲物を見つけた肉食動物のようだった。
俺は「すみません、他のお客様にご迷惑ですので」と間に入ろうとしたが、笹岡は俺など存在しないかのように無視する。自分が無力であることに腹が立った。
警察に通報しようと、固定電話に手を伸ばした。しかし、それが笹岡に見つかってしまう。
「なんだ、お前。助けを呼ぼうってのか? そんなことしたら、このじいさんがどうなるか分かってるんだろうな」
その言葉で、俺は通報すればなつめさんに危害が及ぶ可能性が高いことを悟った。仕方なく、電話から手を引いた。
どうすればいい? この窮地をどう乗り越える? 他の客が来てくれれば状況が変わるかもしれないが、巻き込む危険もある。俺は頭をフル回転させるが、打開策が見つからない。
振り返ってなつめさんを見ると、彼は驚くほどポーカーフェイスだった。75年の人生で培われた経験が彼を落ち着かせているのだろう。その姿に感心すると同時に、無力な自分を恥ずかしく思った。
笹岡はなつめさんの腕時計にベタベタと触りながら、こう言った。
「へえ、じいさん。あんた、なかなかいいもん付けてんじゃねえか。これ、高かったんだろう?」
あの時計は、なつめさんの娘さんが彼の誕生日にプレゼントした大切なものだ。温厚な彼でも、これには耐えられないだろう。案の定、なつめさんは笹岡の手をさっと払いのけた。
「俺の手を払うとはどういう了見だ」
笹岡は怒り出し、カウンターを拳で叩きつけた。鈍い音とともに、長年使い込んだ木のカウンターに傷が入ってしまった。俺の心にも、その傷と同じくらいの痛みが走った。
「ふざけんな! そんなに大事なもんなら、俺にその時計をよこせ。そしたら俺たちの会計を払わなくても許してやってもいいぜ」
なつめさんは俺の代わりに抗議してくれた。
「店の大事なカウンターを傷つけるなんて、とんでもない連中だな」
なんていい人なんだ。こんな人を危険に晒すわけにはいかない。俺はなつめさんに小声で提案した。
「このまま店の中にいては何が起こるか分かりません。奴らの目を盗んで、外へ出ましょう」
しかし、なつめさんは首を横に振った。
「こんな連中に屈して逃げるなんて、とんでもない。大丈夫だよ、みちゃん。ま、俺に任せておけ」
その言葉の意味が分からず、俺は首をかしげるばかりだった。すると、なつめさんは笹岡たちに向き直って言った。
「よし、お前さんたちの分の会計も、俺が払ってやろう。ただ、今は持ち合わせがないんだ。金を用意するから、家族に電話させてほしい」
「現金がないんなら、カードで支払えばいいじゃねえか」
「私は現金主義者でな。クレジットカードなんてものは持ってないんだよ」
なつめさんはそう言って、店の固定電話でどこかへ電話をかけた。はたからは、ただの老夫婦への電話にしか見えない。だが、通話はすぐに終わった。
間もなく、店の前に数台の黒塗りの高級車が止まった。まさか、なつめさんが呼んだのか? そんなはずは…。俺が混乱しているうちに、店の扉が開き、黒服姿の男たちがずらりと入ってきた。笹岡たちも十分に強面だが、この男たちは桁が違う迫力だ。
俺が呆気に取られていると、なつめさんはニッコリと笑って、こう言った。
「おい、待ちくびれたぞ。遅かったじゃねえか、三田村」
なつめさんが「三田村」と呼んだ黒服の男を見て、笹岡たちは開いた口が塞がらない様子だ。
「ど…どうして、こんなところに悪鬼会の会長が…」
悪鬼会 — この地域で最も勢いのある組織の名前だ。即座に三田村さんはなつめさんの前にひざまずき、頭を下げた。
「申し訳ございません、夏目さん」
笹岡たちは事態を飲み込めていない。それは俺も同じだった。三田村さんたちは笹岡たちの襟元を掴んで、鋭い目で睨んだ。
「おい、お前ら。深海のもんらしいな。この御仁に、一体どういうつもりでこんなことを?」
笹岡は震えながら質問を返した。
「ど、どうして悪鬼会の会長さんが、こんな爺のためにここへ…」
すると三田村さんは呆れたように言った。
「おいおい、お前ら。この方が誰だか知らねえのか? いいか、この方はな、うちの悪鬼会の最高顧問でいらっしゃる夏目さんだよ。その最高顧問を『じじい』呼ばわりするとは、全くどうしようもねえな」
笹岡たちは完全に動きを止めた。ポカンと口を開けたまま、呆然としている。俺も驚きを隠せなかった。なつめさんにそんな一面があったなんて、長年店に通ってくれていたのに、一度も気づかなかったからだ。
「みちゃん、ごめんな。隠すつもりはなかったんだけどさ」
俺は慌てて首を振った。
「謝らなくていいですよ。そんなこと、なつめさんが謝る必要はありません」
カウンターの傷に気づいた三田村さんは、笹岡を睨みつけた。
「おい。夏目さんが気に入ってるこの店に、こんな傷をつけるなんて、ただで済むと思うなよ」
笹岡たちからは、さっきまでの威勢が完全に消えていた。まるで捕まった小動物のように、ブルブルと震えている。
なつめさんは穏やかな口調で訊ねた。
「深海の親組織は、どこだったかな」
笹岡は声も出せないようだ。代わりに三田村さんが答えた。
「深海組は、中橋組の傘下です」
なつめさんは少し間を置いて、こう結論づけた。
「今回のことは、中橋組に報告した方がいいな」
それを聞いた笹岡たちは、大慌てで許しを乞い始めた。
「そ、それだけは勘弁してください!」
すぐに三田村さんたちに抑え込まれた。三田村さんは凄んだ。
「おい。この御仁に指一本でも触れようものなら、お前たちには消えてもらうことになるからな。そのことをよく覚えておけ」
笹岡は突然「うわあ!」と叫び声を上げて逃げ出そうとしたが、当然のように取り押さえられた。考えなしの行動だった。
なつめさんは制圧された笹岡たちを見下ろしながら言った。
「この店を傷つけた以上、天手であるみちゃんに謝罪するべきだ。違うか?」
助かるためなら何でもするつもりらしく、3人組はすぐに俺の前に土下座した。
「申し訳ありませんでした!」
しかし、そんな形だけの謝罪では俺の心には響かない。なつめさんも同じように感じたらしく、苦言を呈した。
「おいおい、『ごめんなさい』って言えばいいってもんじゃねえんだよ。お前ら、ヤクザやってるのに、そんなことも分からねえのか」
「だったら、一体どうすればいいんですか!」
笹岡が反論すると、三田村さんがドスの効いた声で叱りつけた。
「おい、最高顧問に向かって、なんだその口の聞き方は」
笹岡は一気におとなしくなった。ついさっきまで店に乗り込んできた時とは、比べ物にならないくらい小さくなっている。
なつめさんは俺に向き直り、頭を下げた。
「すまない、みちゃん。こいつらはお前への謝り方すら知らないほど教育がなってないらしい。この御仁には俺が迷惑をかけてしまった。俺が必ず始末をつけるから」
俺は慌てて言った。
「とんでもない! なつめさんはあくまでも巻き込まれただけなんですから」
「み藤ちゃんの方が、こいつらよりよっぽどヤクザに向いてるみたいだな」
なつめさんが笑う。笹岡たちは罰の悪そうな表情で、ただ縮こまっている。
三田村さんはなつめさんとアイコンタクトを交わすと、スマホを取り出してどこかへ電話をかけ始めた。
「あの…傘下の門がうちの最高顧問にちょっかいかけてきたんですけど、どう始末しますか」
電話の相手は、深海組の上部組織である中橋組の幹部だろう。笹岡たちも察したらしく、「お願いですから勘弁してください」と繰り返している。しかし三田村さんは電話を続け、話し終えるとスマホをしまった。
笹岡たちに向かって、淡々と告げた。
「今、中橋組の組長と話をした。お前らのことは『煮るなり焼くなり好きにしてくれ』と言われたよ」
笹岡の顔は真っ青になり、完全に意識が飛びかけている。
なつめさんは三田村さんたちに命じた。
「このまま店の中にいたら、みちゃんや他の客の迷惑になるだろう。ひとまず、うちの事務所にこいつらを連れて行け」
三田村さんたちは言葉を受けるが早いか、すっかり抵抗する気力を失った笹岡たちを連れて、店を出て行った。黒塗りの高級車に乗せられ、悪鬼会の事務所へと連行されていく。
俺はようやくほっとし、深く息を吐いた。手はまだ震えている。
「みちゃん、改めて俺の分の会計を頼む」
なつめさんはまるで何事もなかったかのように言った。あんな騒動の後でもこの落ち着きようはさすがとしか言いようがない。組織の最高顧問を務めるような人物は、こうでなくてはならないのだろう。俺は震える手でお釣りを渡した。
「来週も、また予約を頼む。その時は、孫の写真をちゃんと持ってこよう」
そう言ってなつめさんは店を出て行った。その後ろ姿は、何よりも頼もしく見えた。
後日、笹岡たちは悪鬼会の事務所で厳しい処分を受けたらしい。なつめさんに迷惑をかけたことを重く見た中橋組は、笹岡たちが所属していた深海組の解散を命じた。組長は反抗したが、監督不行届きということで処分は覆らなかった。笹岡たちは組長の怒りを恐れ、遠く離れた町へ引っ越したようだ。しかし、ヤクザ稼業で身につけた者たちがまともな仕事に就けるはずもなく、結局はお年寄りを狙った特殊詐欺に手を染めた。そして、間抜けにもすぐに警察のお世話になったらしい。
一方、俺は相変わらず寿司を握る毎日だ。あの騒動の後、なつめさんはカウンターの修理費を全額出してくれた。最初は固辞したが、「それじゃあ俺の気が済まないよ」という言葉に甘えることにした。
なつめさんは今も、変わらず週に一度、未動寿司に通ってくれている。生まれたばかりの孫の話をしながら、俺の握った寿司を食べることが人生で一番の幸せなんだと笑う。
その言葉を聞くたびに、俺は心を新たにする。これからも、お客さんを大事にしながら、美味しい寿司を握り続けていきたい。なつめさんや、この店を支えてくれるすべての人のために。



