俺は森川、38歳。急成長中のAIベンチャー企業で研究開発をしている。今日は、5年前に俺を退職に追い込んだ大手IT企業に商談のために来ている。俺が開発した、AIのデータ処理を最適化する特許技術のライセンス契約を結ぶためだ。
相手先の担当者、吉岡が出迎えてくれた。彼は技術への理解が深く、俺を正しく評価してくれている。今日の商談には、事業部長の金子、取締役の佐、そして技術部長の桐が参加する予定だ。そう、かつて俺を追い出した桐リ本人だ。
俺が開発した技術は、データ処理を従来の5倍に高速化し、消費電力を半分以下に抑える。この大手IT企業が進めるAIデータセンター事業に最適で、契約額は270億円という巨額だ。俺を追い出した会社に、今度は頭を下げて契約を求める立場になってもらいたい。それが俺の選択だった。
商談室で待っていると、桐リと金子が入ってきた。桐リは会議室に入るなり、不機嫌そうに呟いた。
「中小の雑魚企業のくせに270億とは、身のほど知らずだな。」
そう言って俺の顔を見た瞬間、桐リの顔が固まった。
「森川……なのか。」
声が震えている。金子が不思議そうに桐リを見た。
「桐部長、森川さんをご存知なんですか?」
桐リはすぐに態度を一変させた。
「ああ、以前少しだけな。」
俺は桐リに構わず立ち上がり、一礼した。商談を始めようとしたその時、桐リが不適な笑みを浮かべて口を開いた。
「森川、お前の会社は従業員50人程度だろう。そんな底辺企業の技術に270億の価値があるとでも?」
金子が困惑して口を挟むが、桐リは続けた。
「お前のような無能が確信的な技術を開発できるはずがない。」
吉岡が慌てて止めようとするが、桐リは一括して俺に向き直る。
「金にもならない無駄な研究をしていた男が、たまたま特許を取れただけだろう。」
俺は桐リの目を見据えて言った。
「桐部長、あなたは過去に私の研究を無駄だと判断しました。しかし、御社は今その技術を必要としてここにいる。どちらが正しかったかは、明白ではないですか?」
すると逆上した桐リは顔を真っ赤にして俺に近づき、胸を突き飛ばした。
「底辺企業は消えろ。間違いだ。」
俺はよろめき、服を整えながら息を整えた。金子が激しい口調で桐リを止める。
「桐部長、何をしているか分かっているんですか?」
俺は落ち着いた声で言った。
「どうやらお考えの価値観が合わないようですね。」
俺は資料を鞄にしまい始める。吉岡が叫んだ。
「森川さん、待ってください!」
「吉岡さん、残念ながらこの商談は無理そうですね。」
俺は桐リに背を向けて宣言した。
「270億の特許契約は破談で。失礼させていただく。」
ドアに向かって歩き出したその瞬間、ドアが開き、取締役の佐が入ってきた。
「遅れてしまい申し訳ございません。」
室内の異様な空気に気づき、佐が困惑した表情で尋ねる。
「何があったんですか?」
金子が緊迫して答えた。
「佐取締役、桐部長が商談相手の森川さんに暴力を振るい、森川さんは契約を破談にすると…」
佐の顔色が変わり、桐リに厳しい声を向ける。
「桐部長、大切な商談相手に、なぜ暴力を振ったんですか?」
桐リは何も答えない。佐は俺に向き直り、深く頭を下げた。
「森川さん、誠に申し訳ございません。どうか席に戻ってください。」
金子も深く頭を下げて食い下がる。
「森川さん、桐部長の行為は我が社にとって恥ずべきことです。どうか契約を続けさせてください。」
俺は静かに言った。
「ええ、私もこの技術の必要性は理解しています。しかし、肝心の技術部長が開発者である私に暴力を振った。これでは契約後の協力体制に不安が残ります。」
佐が必死に訴える。
「森川さん、この技術がなければ我が社の事業が立ち行かないんです。」
「御社が500億円を投資して建設中の新データセンター。その運用コストを大幅に削減できなければ、事業として採算が取れない。だから私の特許技術が必要なんですよね。」
佐が言葉を失う。
「同意してくれているのは分かります。しかし、それは御社の事情です。この技術を必要としている企業は他にいくらでもあります。御社でなくても、私は構いません。」
金子が桐に向かって叫んだ。
「桐部長、今すぐ森川さんに謝罪してください。」
しかし桐リは何も答えず、俺を睨み続けるだけだ。桐リは全てを理解している。技術の価値も、会社にとっての重要性も、そして自分の行為が取り返しのつかない結果を招くことも。それでも、自分が間違っていたと認めることができないのだ。
俺は再びドアに手をかけた。佐が叫ぶ。
「森川さん、どうすればこの商談を続けていただけるんですか?」
俺は振り返らずに答えた。
「今の状況では、難しいですね。」
ドアを開けようとしたその時、佐と金子がすがるような声で引き止めた。
「森川さん、お願いです。どうか席に戻ってください。桐部長の行為に弁解の余地はありません。それでも、どうか我々に挽回の機会をください。」
俺は少し考えて、ゆっくりと振り返った。
「実は、もう1つ理由があるんです。」
佐が尋ねる。
「理由ですか?」
俺は桐を見据えて言った。
「実は私は5年前まで、御社の研究部門で働いていました。」
佐が戸惑いの声を上げる。
「5年前? 私は当時、一般社員でしたから記憶にありません。」
「当時の上司が、そこにいる桐部長です。」
罰が悪そうに桐リは目をそらす。俺は続けた。
「当時私はこの特許技術の基礎研究をしていました。しかし桐部長は、金にもならないし実用化の見込みもないと研究予算を削減し、私を冷遇し続けたんです。退職届には『一身上の都合により』と書きましたが、実態は研究予算を削られ、居場所を失い、追い込まれたんです。」
佐が深刻な表情で尋ねる。
「ということは、この技術は元々我が社で研究されていたものですか?」
「そうです。5年前、この会社で研究していた技術です。途中で見放されたので、私は転職先で完成させ、特許を取得しました。」
金子が驚きの声を上げる。
「ではなぜ技術部門から何の報告もなかったんだ?」
吉岡が小さな声で言った。
「桐部長は、事業開発部からの技術確認依頼に対しても『中小企業の企画書など見る価値もない』と取り合ってくださらず、それで私が独自に技術評価を進めることになりました。」
佐の表情が険しくなる。
「つまり、技術部長が職務を放棄したから、事業開発部が主導せざるを得なかったと。」
金子が桐を追及する。
「桐部長、あなたはなぜ5年前に森川さんの研究を中止させたのですか?」
桐は言い訳を始めた。
「当時は予算も限られていたし、どの研究に投資すべきか判断したまでだ。」
俺は当時を振り返るように言った。
「5年前、私の開発に割り当てられた予算は年間5000万円程度だったはずです。」
金子は目を見開いた。
「ということは、それを止めた結果、今我々は270億円を支払おうとしているわけか。」
俺は静かに言った。
「桐部長、正直に言ってください。あなたは当時、別のプロジェクトを推進していましたね。桐部長自身が責任者として進めていた音声認識技術の開発です。」
金子が何かを思い出したように頷く。
「ああ、確かに。あのプロジェクトは桐部長の肝入りだったはずだ。」
「桐部長は限られた予算の中で、自分のプロジェクトに予算を集中させるため、私の研究を切り捨てた。当時の技術開発部の会議では、桐部長の音声認識プロジェクトは実用化の見込みが低いという意見が大半でした。むしろ私の開発の方が実用化の可能性が高いと評価されていたんです。」
桐の顔がみるみる赤くなっていく。
「つまり桐部長は私の開発を切り捨て、自分のプロジェクトに賭けて失敗した。そして今日、私を見た時、過去の判断ミスを突きつけられることになった。あなたは『底辺企業は消えろ』と言いましたが、それはご自身の判断ミスをごまかすため、技術の価値ではなく企業規模に問題をすり替えようとしたんです。」
桐リは何も言い返せない。佐が覚め切った声で桐リに告げた。
「桐部長、もうこの場から退席してください。商談に参加する資格があなたにはない。今回の所業も含め、役員会で厳正に検討させていただく。」
桐リは何も言えず、静かに立ち上がった。
「それでは私も失礼させていただきます。」
俺が資料を鞄にしまい一礼すると、佐が口を開いた。
「森川さん、本日のことは心よりお詫び申し上げます。」
佐が深く頭を下げ、金子と吉岡も頭を下げた。俺は丁寧に挨拶を返し、商談室を後にする。過去の因縁に決着がついたことに、俺はすっきりとした気持ちを覚えるのだった。
それから数週間後、吉岡から連絡を受けた。桐リが会社を辞めることになったという。暴力行為を受けて会社が内部調査を実施した結果、桐による他の社員へのパワハラ行為や研究費の水増し請求など、数々の問題が明らかになったらしい。会社は桐を懲戒解雇にし、研究費の不正使用については損害賠償を請求する方針だという。桐の処遇は業界内で瞬く間に広まり、どの企業も桐を雇おうとはしないらしい。
一方で吉岡は、先の特許技術のライセンス契約について俺を再度説得し続けた。佐も金子も謝罪と誠意を示してきた。俺は吉岡の熱意と佐たちの誠実な姿勢に、少しずつ心を動かされていく。そして最終的に、契約は当初の額を上回る300億円で成立することになった。
データセンター事業は予定通り進み、俺の特許技術によって運用コストは大幅に削減される。巨額の契約成立を同僚たちと共に祝いながら、俺は思うのだ。
技術の価値を見る目がなければ、結局は自分に返ってくる。俺はこれからも技術の本質を見極め、誰もが認める確信的な開発を続けていく。



