「化け物は消えなさいよ。なんだかその顔を見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」
井口部長が、営業事務の江野本さんに向かって、低い声で吐き捨てるように言ったのは、夕方のオフィスだった。彼女の左の頬にある大きな黒子を、皆の前で「見にくい」と言い放ったのだ。
江野本さんは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。髪の隙間から、何か光るものが見えた気がした。涙だった。
俺は気づいたら立ち上がっていた。
「待ってください。それはおかしいですよ。江野本さんの仕事はいつも完璧で、誰も手伝ってなんかいません。大体、人の容姿をとやかく言うなんて、どうかしていますよ」
俺の猛然たる抗議に、井口部長はギロリと睨みつけてきた。
「高田さん、これはあなたには関係のないことよ。口を挟まないで」
「関係ありますよ。江野本さんは同じ営業部の仲間ですから。目の前でひどい目に会っているのに黙ってはいられません」
「ひどい言い方をするのね。それじゃあ、まるで私が江野本さんをいじめているみたいじゃない?」
「その通りですよ。これがいじめや嫌がらせ以外の何だって言うんですか?」
俺が大声を出すと、井口部長は馬鹿にしたように笑った。
「いつもあなたはそうやって江野本さんをちやほやして、随分気に入っているよね。だったら、あなたが江野本さんの代わりにこの責任を取って、首になってあげたらどうかしら」
どうせ口先だけで何もできないと思っている。そんな見下しを感じて、俺もかっとなっていた。
「わかりました。じゃあそうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ」
振り言葉に買い言葉だった。井口部長とのくだらないやり取りに、もうほとほと嫌気が差していたのだ。
「待ってください。そんなことをされたら私が困ります。私がやめますから、高田さんはやめる必要はありません」
江野本さんが悲痛な声で引き止めてくれた。他の営業部員たちも口々に俺を止めようとする。
「大丈夫ですから、心配いりませんよ」
俺は笑顔でそれだけ言うと、椅子に座り仕事に戻った。
「いい厄介払いができてちょうど良かったわ。みんなもこれに懲りたら、余計な口は出さない方が身のためだと分かったわね」
井口部長は満足そうに高笑いを響かせた。
その日の夕方、俺は仕事終わりに社長宛てに退職届を出すと、ある人に連絡を入れた。
「もしもし、久しぶり。ちょっと頼みたいことがあって」
相手も忙しいこともあり、俺は要件だけ話すと、もう一度連絡をもらうことにしてすぐに通話を終わらせ、帰宅した。
その数日後のことだ。その日、俺が担当していた取引先との大口の商談が予定されていたが、退職した俺が出席することはない。同僚から聞いた話では、その仕事の担当になったのは、案の定、井口部長のお気に入りの新人だそうだ。
さて、どうなるかな。そう考えていた矢先、携帯が鳴った。見てみると、井口部長からの着信だった。
「高田さん、今どこにいるの? すぐ会社に来てちょうだい。急なのよ」
「まさか、おかしなことをおっしゃるんですね。私を首にすると言ったのは井口部長、あなたですよ。今更何のようですか?」
「お願い。とにかくすぐに会社に」
いつになく必死な井口部長が、電話の向こうで泣き出さんばかりに懇願している。思わず吹き出しそうになるのをぐっとこらえ、代わりに大きなため息をついた。
「ああ、今すぐですか? わかりました。では今から出ますよ。仕方ないですね」
俺はわざとしぶしぶといった感じで返事をすると、目の前のドアを開けた。
「た、高田さん!」
悲鳴と悲鳴の間のような声を出し、井口部長は応接室のソファーから転げ落ちた。そこは商談が行われている応接室で、突然現れた俺の姿に、よほど驚いたのだろう。井口部長の隣に座る新人も目を丸くしている。
さらに俺の後ろから、社長と江野本さんも部屋に入ってきた。井口部長は床に座り込んだまま、呆然と大きく口を開けている。
「ああ、ひろみ。会うのは久しぶりだな」
そこで、取引先の社長が俺に親しげに声をかけてきた。俺もにっこり笑ってみせる。
「父さん、久しぶり。元気そうでよかった」
そう、実は今日の商談の相手は俺の父の会社だった。そして俺が以前、勤めていた会社でもある。
俺は社長の息子として、子供の頃から周囲にちやほやされ、気を使われるのが当たり前の環境で育ってきた。だからと言って、俺は周りの人間とトラブルを起こすようなタイプではなかったが、両親が心配していたのは、社会に出た俺が「社長の息子」という肩書きありきでしか周囲と接したことがないということだった。
そこで父は、俺に社長の息子であることを隠して働くよう命じた。父の取引先であり、友人が経営するこの機械メーカーに転職することになったのである。
だが、首になったあの日、俺は父に連絡を入れ、井口部長の傲慢な振る舞いを何とかするべく協力を頼んだ。今回だけは、取引先の社長の息子という肩書きを使ってでも、井口部長を何とかしなければならないと考えたのだ。今日は事前に社長と江野本さんにも事情を話し、協力してもらっている。
井口部長も相当驚いているようで、やっと立ち上がったものの、顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。しかし父はそんな井口部長に、何ともわざとらしく質問をした。
「ところで、さっきはなぜ高田の姿が見えなかったのですか。高田は確か、うちの受注の担当のはずですが」
「いえ、社長。それはそれは、私が説明させていただきます。高田さんは、首になったんです」
父に質問され、しどろもどろの井口部長の代わりに口を開いたのは、江野本さんだった。俺が自分の代わりに首になったことを説明し、父に謝罪した。
「あの、そうじゃないんです。元を言えば、高田さんが会社をやめることになったのは私の責任です」
新人もついには話し始め、俺が首になったことに対し、みんなそれぞれ自分の責任だと言わんばかりだ。もちろん、本当の原因は井口部長にある。
「みなさん、ありがとうございます。もういいんですよ。私が勝手にやめると言い出したんですから」
俺がそう言うと、社長が小さく咳払いをして口を開いた。
「井口君の日頃の社内での問題行動については、彼が首になってようやく私の耳に入ってきました。大切なご子息をお預かりしておきながら、申し訳ない」
父に対してそう謝罪すると、今度は井口部長へ視線を向けた。
「高田君は営業成績が良く、社内でも評価の高い社員だ。井口君、そんな社員を首にした君の責任は大きいぞ。さあ、高田君に今すぐ謝罪しなさい。それと、江野本君にもだ」
自分の悪事が社長にも知られていると分かり、がっくりと肩を落としている井口部長に、社長は厳しい口調で言い放った。
「ああ……はい。申し訳ありません」
井口部長は社長に促されて、江野本さんと俺に、ぐったりとした放心状態のまま謝罪する。その姿は、今までのあの傲慢な井口部長とは別人だった。
「井口君、ここはもういいから出ていきなさい。君の処分については追って連絡するから、それまで自宅待機とする。いいな」
社長が静かに告げると、井口部長は力ない足取りでよろよろと応接室を出ていってしまった。
「高田さん、会社に戻ってきてくれますよね。もう井口部長もいないことですし。高田さんが社長の息子さんだということは、黙っていますから」
「俺からもお願いします。俺も甘えを捨てて頑張りますから」
「2人とも、私からも頼む。それに、君の退職届はまだ受理していないよ」
社長までそう言ってくれた。
「わかりました。これからもよろしくお願いします」
そう言って俺は深く頭を下げた。
「父さん、今日はありがとう」
「何? 別に何もしていないさ。お前もこの会社でまたしっかりと働きなさい」
その日、俺は担当に戻って商談を進め、話が終わると父は帰っていった。その後、井口部長は平社員に降格の上、地方支社へ左遷となったが、ほどなくして退職したようだ。資産家でお嬢様なのだから、どうせ生活には困らないだろうと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。いい年して問題を起こした彼女は、年取った両親の怒りを買い、勘当されたという風の噂を聞いた。
一方、井口部長のいなくなった職場は実に快適だ。みんな顔色を伺う必要もなく、晴れ晴れとした表情で働いているし、新人社員も適正な仕事を任されて働きやすくなったようだ。そして、伸び伸びと働けるようになった江野本さんも、必要以上に顔を隠すことをやめたようで、徐々に自信をつけていっているように見受けられる。最近は忙しい時には髪を一つに束ねているくらいだ。
俺も一社員として会社に戻り、一度は首になったことなどまるでなかったかのように再出発し、さらに充実した日々を送っている。



