「おっさん、コーヒー買ってこい」——そう命令してきた男の前で、妻は勝ち誇ったように笑っていた。「相手がヤクザだったら、何も言えないわよね?」と。愛する妻の妊娠に喜んでいた俺は、ある日、家に帰るとリビングで妻と男の現場を目撃してしまった。しかも、妻は悪びれることなく「あんたとするのはつまんないからね」と言い放つ。腹の子は俺の子ではないと告げられ、殴られ、家を追い出された俺は、ある決意を胸に秘め…

「おっさん、コーヒー買ってこい」——そう命令してきた男の前で、妻は勝ち誇ったように笑っていた。「相手がヤクザだったら、何も言えないわよね?」と。愛する妻の妊娠に喜んでいた俺は、ある日、家に帰るとリビングで妻と男の現場を目撃してしまった。しかも、妻は悪びれることなく「あんたとするのはつまんないからね」と言い放つ。腹の子は俺の子ではないと告げられ、殴られ、家を追い出された俺は、ある決意を胸に秘め...

リビングのソファの上で、妻と見知らぬ男が重なっていた。

俺はその場に立ち尽くし、一瞬何が起きているのか理解できなかった。手に持っていたケーキの箱が、床に落ちる。

「何してんだ……!」

俺の声に、二人は驚いてこちらを向いた。妻のかな子の顔が、みるみる青ざめていく。

「な、なんでここにいるの? いつもはもっと遅いのに……」

「それはこっちのセリフだ。この男は誰なんだ」

俺が問い詰めると、男は余裕の笑みを浮かべながら名乗った。

「俺は張根ネズミ組の正司だ」

組——つまり、ヤクザ。俺は思わず後ずさりした。すると、かな子までもが勝ち誇ったように笑い出す。

「そうよ。相手がヤクザだったら、何も言えないわよね?」

「なんで……お前も同意の上なのか?」

「あんたとするのはつまんないからね」

「だからって、なんで浮気なんてするんだよ!」

「彼の方がすごくかっこいいんだもん」

かな子は悪びれることなく、ニヤニヤと笑いながら言った。そして、俺への不満を次々に吐き出し始めた。貯金ばかりで小遣いが少ない、仕事帰りの靴が臭い——そんな言葉を浴びせられながら、俺は絶望していた。

すると、正司が命令してきた。

「おっさん、コーヒー買ってこい」

「なんで俺が……」

「殴られてえのか?」

正司が指をポキポキと鳴らしながら近づいてくる。かな子は嬉しそうに言った。

「鬱陶しいから、ボコボコにしちゃって」

俺は精一杯「ちょっと待ってくれ」と叫んだが、聞いてもらえるはずもなく、胸ぐらを掴まれて一発殴られた。鍛えていない俺は避けることもできず、頬にまともに受けてよろめく。

「もう一発だ」

正司の拳が腹に突き刺さる。内臓が破裂したのではないかと思うほどの衝撃に、その場にうずくまって動けなくなった。

二人はゲラゲラと笑いながら、さらに追い打ちをかける。

「さっさとコーヒー買ってこいよ。あとタバコと飯も追加な」

「私、パスタ食べたい。お酒も欲しいな」

お酒——。俺はそこでハッとした。かな子のお腹には、俺たちの子供がいるはずだ。2ヶ月前に妊娠が分かったばかりで、一緒に誕生を心待ちにしていた。

「お前、お腹に子供がいるのに……何をしてるんだ?」

「ああ、この子ね。実は正司の子なんだ」

俺は思いもよらない言葉に目を見開いた。かな子は全く嘘をついていないという表情をしている。

「後でバレたくないから、流産してもいいんじゃないかって思って、隠れてお酒飲んでたのよ」

信じられない——。俺が絶望に染まった顔をしていると、正司が大笑いする。

「ずっと騙されてて、受けるわ!」

二人の話によると、関係は3ヶ月前から続いていて、お腹の子供は時期から考えて俺の子供ではないらしい。病院で中絶するのもバレるから、そのまま俺の子供だと思わせるつもりだった。だが、生まれてから似ていないことが発覚し、離婚されることを恐れたかな子は、自然に流産させるために不健康な生活をしていたのだという。

俺はだんだんと悲しみよりも怒りが込み上げてきた。

しかし、そんなことにも気づかず、説明を終えた二人は「さっさと出ていけよ、おっさん」と俺を玄関まで追い出した。

「毎日ホテル代わりにここを使ってやるよ。なるべく帰ってこないでね。連絡も絶対しないで。あんたは私のこと大好きだし、仕方がないから籍は入れておいてあげるわ。世間体も悪いしね」

そう言って、俺の荷物を全部玄関に放り投げた。

あのニヤニヤと勝ち誇った顔を、絶望で塗り替えてやる——。俺はそう心に決めて、家を出た。

それから1週間後、かな子から電話がかかってきた。放置していたが、何度もかかってくるので、仕方なく出ることにした。

「早くなんとかしなさいよ!」

電話の向こうから、怒りに満ちた声が聞こえる。

「そんなの知らねえんだよ。お前とは話したくない。要件がないのなら切るぞ」

「ちょっと待って! 悪かったって謝ってるでしょ! 正司の事務所に内容証明を送ったでしょう? 今、大変なことになってるんだから!」

「それがどうしたんだよ。何かおかしなことでもあるのか」

「浮気の証拠がばっちり映ってたり、正司があんたを殴った動画もあるのよ! しかもヤクザの組に送るなんて、おかしいと思わないの?」

あの時、俺はずっとスマホで動画を撮っていた。二人には気づかれていなかったので、その映像をリスクに移し替えて送ったのだ。

「正司ってやつの実家が分からなかったから、職場に送ったのは仕方がないと思わないか? 浮気の慰謝料を請求するし、ちゃんとお前たちのことを知ってもらった方がいいだろう」

「私たちは払う気なんてないわよ!」

「知ったこっちゃないね。請求する権利はあるし、不貞行為をしたんだから支払う義務もある」

「それこそ私は知らないっての! あんたのせいで正司が大変なことになってるんだから!」

かな子はそう言って怒鳴り出した。どうやら正司は、俺に暴行を加えたことで組の幹部たちに叱られているらしい。ヤクザたるもの、片付の人間に手を下すのは絶対に許されないことなのだという。

だが、それ以上に激怒していることがあるらしい。正司自身も既婚者で、しかも相手はヤクザの幹部の妹なのだとか。本来なら頭が上がらない人の家族と結婚した正司が、その上浮気をしてしまったのだ。

「かな子もとんでもない相手に手を出したもんだな。きっと大変な目に合ってるんじゃないのか?」

俺がそう聞くと、かな子は焦って言った。

「そうなの! 超大変で家に立てこもってるんだけど、ご近所とかそんなの関係なくヤクザが家の前でたむろしてて……助けて!」

電話の向こうから、外で男たちがかな子を家から引きずり出そうとしている声が聞こえる。

「大変だな。まあ、自分がやったことだし、頑張れよ」

「笑ってんじゃないわよ! あんたのせいでこうなったんだから、なんとかして!」

焦っている彼女の声を聞いて、電話を切ろうとしたが、次に彼女が言った言葉に頭に来た。俺のせいだ——だと。そもそも誰がこの事態を引き起こしたのか、分かっていないのだろうか。

確かに俺が内容証明を送ったから、ヤクザの組員にバレた。しかし、一番の原因はかな子と正司が不貞行為をしたことであって、俺は慰謝料をもらうために話し合いをしたいから郵送しただけだ。どちらが悪いなんて、誰がどう見ても一目瞭然だ。

ただ、かな子と正司が慰謝料を払う前に消えてしまったら最悪だ。だから俺は「今すぐそっちに向かう」と伝えて電話を切った。

数十分後、本当に家の前に数人のヤクザがたむろしていて、閑静な住宅街には不釣り合いだった。俺は彼らに話しかけ、一度組の事務所に戻ってもらうことにした。

かな子は、どうしてヤクザたちが帰って行ったのかと不思議そうに質問してきたけれど、無視して張根ネズミの事務所に連れて行った。

事務所の前に来て、かな子を中に押し入れる。

「何すんのよ!」

文句を言ってきたが、周りで黒服を着たいかつい顔をした男たちがこちらを見ていたため、一言言って黙った。

そして、張根ネズミ組の組長らしき男が「よく来てくださいました」と言って頭を下げると、周りの男たちも同じように頭を下げた。

その様子に目を白黒させて、かな子は俺に質問する。

「な、何が起こっているの?」

俺はさっきから俺の後ろにいた男性を指さして言った。

「この人、誰か分かるか?」

かな子は全く分からないようで、困惑している表情を見せる。

「俺の父親だ」

父の柳光一は、張根ネズミ組の元組長。俺はその一人息子だが、母の体調が優れず入院を繰り返していたため、空気の美味しいところに母子ともに引っ越すことになった。敵対組織に俺たちが狙われるのではないかと考えて、両親は離婚を選んだものの、数年に一度は会っていた。

ただ、俺が20歳の時にこちら一帯の制圧を完了し、もうこの地方では敵がいなくなったことから、俺と母と一緒に過ごしても大丈夫ではないかと思った両親は、再婚することにした。おろち組は20年ほどで大きな組織に成長していて、その間に張根ネズミ組も傘下に収めた。

それからは以前よりも定期的に会っていて、結婚式にも来てくれた。それをかな子は忘れていたみたいだった。

そう伝えると、妻は震え出して、顔を青くしてガタガタ震えながら言った。

「今からとんでもないことが起こるんじゃ……」

それを無視して、かな子の首根っこを掴み、俺と父は組長室に入っていった。

中に入ると、正司がひどく顔を腫らして床に正座しており、真ん中のソファーには男女が座っている。おそらく正司の奥さんとその兄の幹部だろう。先にボコボコにされたようだ。

そして、張根ネズミ組の組長・葛西さんが父に向かいのソファーに座る。もちろんかな子は正司と同じく床に正座させた。

全員がこの場に来たことで、葛西さんが頭を下げた。

「光一さん、裕二さん、正司が本当にすみませんでした。今すぐ処分をするので安心してください」

それを聞き、父は低い声で言った。

「お前が謝ることじゃねえ。そうだろ」

そう言って正司を睨みつける。そのせいで顔色を悪くして、正司は土下座をした。

「申し訳ありませんでした……まさか柳組長の息子さんの妻だとは一切知らず……」

「知らなくても当たり前だ。大っぴらに話してないんだからな。でも、だからって人の女に手を出していいってことじゃないだろう」

「はい……」

「お前も既婚者だったんだろ。それなのに浮気とは、いい度胸をしてんじゃねえか。俺は曲がったことが大嫌いなんだよ」

正司は父に詰め寄られて、顔を下に向けて「はい」としか返事ができない様子。それを見て葛西さんは「ちゃんと光一さんの話を聞かんか。この恥知らずが!」と怒る。

「人の女に手を出しておいて、さらに殴ったりもしたんだってな。裕二は俺の息子だが片付だ。ヤクザが一般人に暴行を加えていいわけないよな」

父は本当にイライラしているようで、目の前のテーブルを足で蹴り、怒りを露わにした。父はさっき言った通り、曲がったことが嫌いで、組員には一般人に手を出すことを禁じている。もちろん、不貞行為など人の気持ちを踏みにじることも大嫌いなので、だからここまで怒っているのだ。

普通だったら人の喧嘩には立ち入らないことを鉄としているようだが、自分の組の人間が犯してしまった罪は絶対に許せないのだという。そのため、父は相当重い罰を与えるから覚悟しておけ、今まで通りこの組にいれると思うなよと伝えた。

それを聞き、正司は赤く腫れた頬をしているのに、血の気が引いていくのが分かった。

そして父は、正司からかな子に目を向けた。

「あんたははっきりした性格をしていると聞いていたし、裕二とは仲良くしてくれると思っていたんだがな。本当に残念だと思ってる」

「す、すみませんでした……ちょっとした出来心だったんです」

「それは俺に言うことじゃないだろう」

父の言葉に、かな子は俺の方を向き、「ごめんなさい」と勢いよく土下座した。

今更謝られたって、俺の気持ちは全く晴れない。そもそも最愛だと思っていた人に裏切られたんだから、きっとこの悲しみは消えることはないだろう。

俺の気持ちを汲み取ってくれたのか、父は言った。

「お前はしっかりと裕二と正司の嫁さんに謝罪するために、慰謝料を払え」

「私、専業主婦なんです。そんなの無理……」

「金なんて稼ごうと思えば、いくらでも手段があるだろう。なんなら、うちが経営するところを紹介するぞ」

「え……」

「あんたはヤクザじゃないから、そこまで正司みたいに罰は与えねえよ。でも、しっかりと慰謝料は払えよな。それは片付の世界で普通のことだろう」

かな子は父に睨まれて、顔を真っ青にして下を向いた。恐怖で何も言えなくなったらしい。

すぐに慰謝料を払うという契約書を作成されたけれど、拒否することなくサインをしていた。その後、かな子は多額の慰謝料を払うべく、父の組が経営している夜の店で働くことになった。

かな子は美人だから稼げるかと思いきや、もう28歳で若い女の子たちよりは人気が出ないらしい。それにお腹の子供はすくすく成長していて膨らんでいるから、ずっと働いてはいられないようだ。そのため、他の体に負担がかからない仕事を任されたりと、転々としているらしい。

慣れない仕事ばかりでストレスが溜まっているのか、肌がボロボロで、今では30代後半に見られているらしい。

ちなみに子供は出産後に、かな子のご両親が育てることが決まっている。ご両親は俺に何度も謝ってくれ、一生俺の目に彼女を入れないことを約束してくれた。

一方、正司は俺や奥さんへの慰謝料と、俺を殴ったことによる治療費を稼ぐために、危ない橋を渡っているらしい。組の拡大のために、少し離れた敵対組織に一人で乗り込まされたとかないとか。さすがにそんなことはしていないだろうけど、命の危険にさらされているらしい。

ともあれ、俺の口座に毎月支払われているのだから文句はない。

俺はと言うと、今も仕事に明け暮れているけれど、休みを取って旅行に行こうと考えている。少しゆっくりしたら、前向きな気持ちになれるといいな。

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