五年間、父の名前を口にしたことはなかった。病院を継がず山あいの診療所へ行くと告げた日、父は「お前は医師を名乗る資格もない」と言い放ち、それ以来、一度も連絡を寄越さなかった。先日、偶然見た父の写真で、俺は初めて父の笑顔を目にした。雪道の背景に、農家の男と肩を並べて笑う若い医師。それが、俺の知らない父だった。そして、まもなく俺の手元に届いた一通の封筒が、五人を憎んで出ていった息子の、全てを覆した…

五年間、父の名前を口にしたことはなかった。病院を継がず山あいの診療所へ行くと告げた日、父は「お前は医師を名乗る資格もない」と言い放ち、それ以来、一度も連絡を寄越さなかった。先日、偶然見た父の写真で、俺は初めて父の笑顔を目にした。雪道の背景に、農家の男と肩を並べて笑う若い医師。それが、俺の知らない父だった。そして、まもなく俺の手元に届いた一通の封筒が、五人を憎んで出ていった息子の、全てを覆した...

窓を開けると、杉の香りと川の音が一緒に部屋へ流れ込んでくる。白い診察衣の袖を通しながら新聞を手に取ると、社会面の下の方に見覚えのある名前が並んでいた。

田所総合病院、創立五十周年記念式典。中央の写真には、見覚えのある隙のない立ち姿の男が立っている。田所総一郎。俺の父だ。

記事の後半に、記者のこんな一文があった。

「息子について問われた田所委員長は、『話すことはありません』と静かに答えた」

父と最後に言葉を交わしてから、もう五年が経つ。病院を継がずにこの山あいの小さな診療所へ行くと告げた俺に、父は言った。「病院を継がない者に、医師を名乗る資格はない」と。それ以来、電話も手紙もない。俺は父の人生から、きれいに消されたのだと思った。

受付の奥から、看護師の吉岡かよが湯呑みを二つ持って現れた。かよは俺よりずっと年上だが、この診療所を守り続けてきた人だ。彼女がいなければ、俺はこの町で一ヶ月も持たなかっただろう。

「先生、お茶が入りましたよ。今日は遠見さんの三人と、佐々木さんの検診です」

「ありがとう。佐々木さんは、少し薬を調整したほうがいいかもしれないな」

「先生がそう言うと思って、前回の記録を出しておきました」

かよはそれ以上、新聞のことを何も聞かなかった。その沈黙がありがたかった。

その日の診察が終わりに近づいた頃、玄関の引き戸が乱暴に開いた。女の悲鳴に近い声が飛び込んでくる。

「先生、お願いします。娘が、娘が」

抱きかかえられた少女の顔は青白いというより、薄く紫がかっていた。唇の色が変わり始めている。

「処置室へ。酸素と吸入の準備を頼む。ネブライザーもすぐに」

母親は相沢裕子と名乗った。娘はまみ、十歳。以前から気管支喘息を患っており、今日は薬を使っても発作が収まらないという。

「まみちゃん、聞こえるか? 息を吸って。ゆっくりでいいから」

まみは目を潤ませながら、それでも小さく頷いた。かよが素早く酸素マスクを装着し、吸入薬をセットする。

「先生、この子、大丈夫でしょうか? 大丈夫ですよね?」

「今、できる限りのことをしています。お母さんは、まみちゃんの手を握ってあげてください」

都会の病院なら、集中治療室も専門のスタッフもすぐそこにある。ここにはない。あるのは、この二人の手と目の前の子供だけだ。十分、二十分と時間が過ぎる。吸入を繰り返し、点滴の速度を調整し、酸素の流量を上げる。やがてまみの胸の動きが少しずつ穏やかになり、喉の音がようやく静かになっていった。

サイレンが遠くから聞こえてきたのは、その直後だった。救急隊員に状態を引き継ぎ、これまでの処置を伝える。裕子は隊員の脇で何度も何度も頭を下げた。

「先生、本当に、本当にありがとうございました。娘の命を、ありがとうございました」

「まだ完全に治ったわけじゃありません。向こうの病院でしっかり見てもらってください」

救急車が山道を下りていく赤い光を、俺は玄関先で見送った。かよが隣で長い息を吐いた。

「間に合いましたね、先生」

「間に合ったというより、間をつないだだけだよ。専門的な治療はこれからだ」

「それでも、あの子はここに運ばれてきてよかったと思います」

俺は何も答えなかった。夕闇に沈んでいく山を見ながら、静かに診察衣の袖をまくり直した。

二週間ほど経った日曜日、俺とかよは相沢家の食卓に招かれた。まみはすっかり元気を取り戻し、俺の隣に座って学校の話を次々と聞かせてくれた。

「先生に助けていただいてから、この子、お医者さんになりたいって言い出したんですよ」

「それは責任が重いな。もっと楽しい仕事もたくさんあるぞ」

「先生みたいなお医者さんになりたいの」

素直な言葉に、俺はどう返していいかわからず湯呑みに手を伸ばした。

食後、まみが奥の部屋から一冊のアルバムを持ってきた。

「これね、おじいちゃんの宝物だったの。見て、先生」

開かれたページに、色あせた一枚の写真があった。雪道を背景に、二人の男が肩を並べて笑っている。一人は農作業着の中年男。もう一人は、白衣に聴診器を下げた若い医師だった。

その若い医師の顔を見た瞬間、俺は息を止めた。写真の中で笑っているのは、間違いなく父、総一郎だった。今よりずっと若く、頬に日焼けの跡がある。何より、その表情が信じられなかった。村人の肩に手を置き、白い歯を見せて笑っている。俺の知っている父は、こんな顔で笑う男ではなかった。

「父から何度も聞かされました。若い先生が、吹雪の日にも家まで診察に来てくださって、それで命を救われたんだって」

「あなたのお父さんを、救った?」

「はい。父にとって、一生の恩人だと言っていました」

経営と規則を何よりも重んじ、息子に医師を名乗る資格はないと言い放った父。その同じ人物が、雪の降る山道を歩いて村人の家を訪ね、こんな顔で笑っていた。どうしても同じ人間には思えなかった。

帰り道、かよが助手席で静かに口を開いた。

「先生、実は、うちの母がここの診療所で看護師をしていたんです。若い先生と一緒に働いていた時期があるって、何度も聞かされました」

「かよさん、それを、どうして今まで」

「先生が『田所』という名前を捨てるみたいにして来られたので、言えなかったんです」

俺はハンドルを握ったまま、しばらく何も言えなかった。父の五年間の沈黙と、あの写真の中の笑顔。その二つの間に、俺の知らない父の人生が眠っている。確かめたいと思った。確かめなければ、俺はこの先も父を憎むことも、許すこともできない。

翌週から、俺は仕事の合間を縫って古い資料を読み進めた。かよが実家の押し入れから、母親が残していた診療日誌と手帳の束を持ってきてくれたのだ。茶色い表紙の手帳は、日焼けと湿気で反り返っていた。

「母は几帳面な人で、当時の患者さんのことも細かく書き残していたみたいなんです」

「かよさん、これを俺に見せてくれていいのか?」

「母は、多分それを望んでいると思います」

診察が終わった夜、俺は診療所の机で手帳を開いた。インクの色が滲んだページに、若き日の父の名前が何度も出てくる。「田所先生、本日も奥山地へ巡回診療に出る」「田所先生、宮三にて泊まり込み」「治療費の判断により免除」。一枚めくるたびに、俺の中の父の輪郭が崩れていく。

父は新人医師だった頃、この山あいの診療所に赴任し、三年ほどをここで過ごしていた。その間、診療所に来られない年寄りや病人のために、雨の日も雪の日も山道を歩いていた。治療費を払えない家からは、何も受け取らずに帰ったこともあったらしい。

数日後、裕子から預かった父親の日記帳を開いた。まみの祖父が残したものだ。そこには、若い田所先生への感謝が繰り返し綴られていた。「田所先生がいなければ、私はまみの顔を見ることもなかっただろう」。そんな一文で、そのページは締めくくられていた。

俺は日記を閉じ、しばらく机に肘をついていた。

父が村で働き始めて三年ほど経った頃、先代の院長、俺の祖父が急死した。田所総合病院には数百人の職員と大勢の患者がいた。父はその全員を路頭に迷わせるわけにはいかず、巡回診療への道を諦めて病院を継いだ。それ以降、父が笑っているところを、俺はほとんど見たことがない。

「先生、まだ起きてらしたんですか?」

かよがお茶を持って立っている。

「悪いな。遅くまで、ちょっと頭の整理がつかなくてね」

「先生、無理はしないでください」

父が厳しかったのは、多分意地悪だったからじゃないんだな。そのことが、ようやく少し分かってきた気がする。窓の外で、風が木立を鳴らしていた。

数日後、俺は思い切って田所総合病院を訪ねた。五年ぶりに見る本館は、変わらず堂々と構えている。案内された応接室で待っていたのは、父ではなく副院長の岸本だった。

「先生、お久しぶりです」

「岸本さん、突然お邪魔してすみません。父に話したいことがあって」

「院長は、今、外来中です。それに、あなたに合わせるつもりはありません」

穏やかな声だったが、言葉に角があった。

「田所先生、あなたが病院を出てから、院長がどれほど無理を重ねてきたか、ご存知ですか? 後継者が決まらないまま六十を過ぎ、七十が近づいて、それでも職を解けない。心臓に持病を抱えて、薬を飲みながら理事会に出ておられます」

俺は膝の上で拳を握った。父から「病院を継がない者に、医師を名乗る資格はない」と言われた日のことが頭をよぎる。

「岸本さんが父を長く支えてくださっていることは承知しています。ただ、私にも私の事情がありました」

「事情ですか?」

「今は、うまく言えません。ただ、父を憎んで出ていったわけじゃない。それだけは、信じてほしい」

岸本は何も答えなかった。応接室の掛け時計が、こつり、こつりと病を刻んでいる。

「院長は、あなたのことを誰の前でも話しません。それが答えだと、私は受け取ってきました」

その言葉を背中に受けて、俺は病院を出た。駐車場でしばらく空を見上げていた。病院の白い壁が、午後の光を受けて眩しく光っている。

その日から三日後、診療所に一通の封筒が届いた。差出人の欄に、岸本の名前があった。中には便箋が一枚と、古びた手紙のコピーが数枚入っていた。コピーは父の筆跡だった。宛先は書かれかけのまま、出されなかった手紙のようだ。

「お前に、病院の重圧に縛られず、自分が救いたいと思った患者のそばで生きてほしい。私はそれを言ってやることができなかった。あの子は逃げたのではない。私が歩けなかった道を、代わりに歩いてくれているのかもしれない」

読み終えて、俺は便箋を膝に置いた。岸本の短い添え書きには、こう書かれていた。「これは院長の机の引き出しから見つけたものです。私が渡すべきか、長く迷いました」

父は、別れの日の言葉を悔いていた。理事会や職員の前で後継者不在を認めるわけにはいかず、心にもない言葉で息子を送り出したまま、五年間、謝る機会を失っていた。俺は封筒を握ったまま、しばらく動けなかった。

その知らせが届いたのは、翌週のことだった。受付の電話を取ったかよの顔色が、みるみる変わっていく。

「先生、院長先生が、外来の途中で倒れられたそうです」

俺は手を止めた。心臓の持病が悪化して、心不全を起こしている。そう伝えるかよの声は震えていた。

「かよさん、後を頼む。今日の残りの患者は、明日に振り替えられる分は振り替えてくれ」

「はい、こちらは大丈夫です。行ってきてください」

車で峠を下る。父の顔が浮かんでは消える。最後に見た険しい表情と、写真の中の若い笑顔と、書きかけの手紙の文字が頭の中で重なっていく。

田所総合病院に着いたのは、日が暮れかかる頃だった。救急外来の廊下に、岸本が立っていた。

「岸本さん、父の状態はどうですか?」

「不整脈からの心不全です。今、集中治療室で処置中です。担当は循環器の柴崎先生ですが、治療方針で意見が分かれていまして」

俺は迷わず集中治療室へ向かう。柴崎という中年の医師が、モニターの前で険しい顔をしている。

「田所です。父のために、お伝えしておきたいことがあります」

「田所先生の、息子さんですか? 循環器内科です。カルテを見せていただけますか? 父の既往歴について確認させてください」

岸本が背後から口を挟んだ。

「田所先生、あなたはご家族です。今は動揺されているはずだ。治療の場から離れてください」

「岸本さん、私は主治医になろうとしているんじゃありません。一人の医師として、情報を提供しているだけです」

その時、酸素マスクの下で父のまぶたが動いた。薄く目を開けた父は、俺の姿を認めると、震える声で医師たちに向かって告げた。

「柴崎先生、この者の意見も聞いてやってください。あれは、循環器の医者です」

短い言葉だったが、集中治療室の空気が変わった。柴崎は頷き、俺に既往歴の説明を求めた。俺はカルテを手渡され、現在服用している薬の種類と量を確認し、五年間で把握していた発作の傾向と、その時に効いた処置と効かなかった処置を順序立てて伝える。柴崎がそれを聞きながら、治療方針を組み立て直していく。岸本はドアの脇に立ち、そのやり取りを黙ってみていた。その顔から、いつもの硬さが少しずつ抜けていくのが横目に分かった。

治療は深夜まで続き、父の容体は明け方近くにようやく落ち着いた。俺は廊下のベンチに座り、長い息を吐く。隣に、岸本が黙って腰を下ろした。

「田所先生、あの手紙、届きましたか?」

「届きました。ありがとうございます」

「私は、あなたのことを何も分かっていなかったのかもしれません」

窓の外で、夜明け前の空がゆっくり色を変え始めていた。

父の容体が安定したのは、倒れてから三日目の朝だった。俺は診療所の仕事をかよに任せ、二日おきに山を下りては父の顔を見に通うようになっていた。その日の午後、看護師が点滴の交換を終えて出ていくと、病室は俺と父の二人きりになった。父はベッドを少しだけ起こし、窓の外へ目をやっていた。

「お前」

「はい」

「あの日のことを、話しておかなくてはいけないと、ずっと思っていた」

父は視線を窓の外に置いたまま、ゆっくりと話し始めた。若い頃、山の診療所で過ごした三年間のこと。患者の家を一件ずつ訪ね、雪の日の前で脈を見た夜のこと。祖父が急逝し、病院を継ぐと決めた時、自分の中で何かがぶつりと切れた感覚があったこと。

「病院を守ることと、患者一人ひとりの生活に寄り添うことは、両立できるはずだと思っていた。だが、私は不器用だった。守ろうとすればするほど、若い頃の自分から離れていった」

俺は黙って聞いていた。

「お前が診療所へ行くと言った日、私は本当は、よくぞ言ってくれたと思ったんだ。私が捨てた道を、お前が歩いてくれるのなら、と」

「では、どうして、あんな言葉を」

「怖かったんだよ。息子まで手放したら、私にはもう、病院しか残らない。そう思ったら、口が勝手に動いていた」

父はそこで初めて、俺の方へ顔を向けた。

「すまなかった。五年、長くかかった。本当に、済まなかった」

俺は膝の上で拳を握った。

「俺も、父さんの本当の気持ちを確かめようとしなかった。理解されなかったと決めつけて、逃げるように出ていってしまった。あの日のこと、俺もずっと後悔していました」

父は小さく頷いた。五年という時間を一言で埋めることはできない。それでも、閉ざされていた扉が、少しだけ押し開けられた気がした。

退院を三日後に控えた午後、裕子とまみが見舞いに来てくれた。俺は父に二人を紹介した。

「あなたが、この子を助けたという親子ですか?」

「相沢裕子と申します。この子の命を、先生に救っていただきました」

まみは父のベッドの脇まで来ると、大事そうにアルバムを差し出した。

「おじいちゃんの宝物なの。おじさんも映ってるの」

父の指が写真に触れた瞬間、その指先がわずかに震えた。色あせた一枚を、父は長い間見つめていた。雪道を背景に、農作業着の中年男と、白衣に聴診器の若い医師が肩を並べて笑っている。

「相沢さん、あなたは、相沢平蔵さんのお嬢さんですか?」

「はい。父を覚えていてくださったんですね」

「忘れられるものですか。あの人の家で、私は何度、朝を迎えたか」

父はぽつりぽつりと語り始めた。まみの祖父が家族思いで、村の寄り合いではいつも一番後ろに座る人だったこと。心臓の発作で運ばれてきた晩、意識が戻った瞬間、まず孫の名前を呼んだこと。

「父は亡くなる前まで、こう言っていました。『あの田所先生のように、患者を見捨てない医師が、またこの村へ来てくれたら安心だ』と」

裕子の声が、少しだけ詰まった。

「先生が診療に来てくださって、父の願いが叶ったんです。私、それをずっと言いたかったんです」

父はしばらく何も言わなかった。やがて、写真を持つ手が小刻みに震え始めた。まみは父の顔を見上げ、心配そうに小さな声を出した。

「おじさん、痛いの?」

「いや、痛くはないんだよ。ありがとう、まみちゃん。おじさんは、大事なことを思い出させてもらった」

病室のドアの外で、俺は岸本と並んで立っていた。写真を見つめる父の横顔と、その頬を伝う涙を、岸本は見つめていた。

「田所先生」

「はい」

「私は、院長が本当に守りたかったものを、見誤っていたようです。病院という建物と、経営という数字を守ることばかり考えて、院長の医師としての心を置き去りにしてきた」

岸本の声からは、いつもの硬さがすっかり抜けていた。

「あなたを一方的に責めてきたこと、あなたが病院を捨てたと決めつけてきたこと。この場で、お詫びさせてください」

「岸本さん、頭をあげてください。父を長く支えてくださったのは、あなたです。父が今日まで生きて、こうして写真を見られるのは、あなたのおかげでもあります」

岸本は静かに頭を下げた。その背中を、廊下の窓から差し込む午後の光が柔らかく包んでいた。

退院の日は、よく晴れていた。病院の玄関前に、迎えの車が横付けされている。父はスーツに着替え、玄関ホールの長椅子に腰かけてそばに、岸本と看護師長が控えている。俺は診療所を朝一番で出て、山道を下りてきた。

「父さん、来てくれたか」

父は立ち上がり、コートの内ポケットから小さな包みを取り出した。古い半紙にくるまれたそれを、俺の手のひらの上にそっと乗せる。包みを開くと、中から現れたのは革のケースに入った聴診器だった。一目で、長い年月を経てきたものだと分かった。

「若い頃、村を回る時に、これを首にかけていた。じいさんから譲られたものだ。もう、病院では使わないから、お前が持っていなさい」

「父さん、これは」

「お前は、逃げたんじゃない。私が歩めなかった、本当の医者の道を歩いていたんだな」

父の口元に、静かな笑みがあった。アルバムの中で村人と肩を並べて笑っていた、あの青年の顔に、少しだけ似ている気がした。

俺は聴診器を両手で受け取り、深く頭を下げた。

「父さん、俺が受け継ぐのは、田所総合病院じゃない。この聴診器と、父さんが村で歩いた道の続きです。それで、いいですか?」

「ああ、それでいいんだ」

車が走り出す。父は後部座席から窓越しに、小さく手をあげた。俺は玄関の前で、その車が坂道の向こうへ消えるまで見送った。

診療所に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。かよが玄関で待っていた。

「先生、お帰りなさい」

「かよさん、ただいま」

「これから、奥山地区の宮田さんのところに顔を出してくる」

「お一人で、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。今日は、どうしても一人で誰かの胸の音を聞きたくてね」

かよは何も言わず、ただ静かに頭を下げた。俺は診察鞄に古い聴診器を入れ、山道を歩き出す。杉の香りと川の音が、風に乗って流れてくる。

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