領収書を見た瞬間、手が震えた。あの日、婚約者の実家に結婚の挨拶に行ったら、父親にいきなりお茶をかけられ「お前には娘はやらん」と言われた。さらに彼は続けた。「お前の父は清掃員か?…

領収書を見た瞬間、手が震えた。あの日、婚約者の実家に結婚の挨拶に行ったら、父親にいきなりお茶をかけられ「お前には娘はやらん」と言われた。さらに彼は続けた。「お前の父は清掃員か?...

「お前にはナはやらん」

それが結婚の挨拶に訪れた瞬間、彼女の父親から放たれた最初の言葉だった。そして次の瞬間には、湯のみのお茶が俺の顔面に浴びせられた。避ける間もなく、頭からずぶ濡れになる。

「何してるのよ、お父さん!」

春奈が怒って俺の顔をタオルで拭いてくれる。しかし、その場にいた彼女の母も兄も、ただ黙って見ているだけだった。

俺は清水カト、29歳。自動車販売会社で働く営業マンだ。給料は良いが、帰宅が遅くなるのが難点だと思っている。

小学生の頃に母を病気で亡くし、それから男手一つで俺を育ててくれた父に恩返しがしたい。だからこそ、給料の良い仕事に就けたことは本当に嬉しかった。温泉旅行でもプレゼントしようかと考えているところだ。

そんな父に、婚約者を紹介するのもサプライズのつもりだった。相手の春奈は心優しい女性で、代々医者一族の出身だという。彼女自身も看護師をしており、俺が父に紹介すると、父は「いい人だ」と喜んでくれていた。

だが、彼女の家族の反応は正反対だった。

「君は我が家にはふさわしくない男だ。今すぐ出ていけ」

まだ話もしていないのに、なぜそんなことを言われるのか。

「君のことは調べさせてもらった。母親を早くに亡くしたそうだね。お前のような片親の男が、うちの家系に名を連ねるなんて許せないんだよ」

そう言って、彼の父はテーブルを叩いた。兄もそれに同意するように「こんな男が俺の弟になるなんて絶対に嫌だ」と言い放つ。

「どうしてそんなことを言うの! カトさんのことを何も知らないのに、家庭環境だけで決めつけないで!」

春奈が怒るが、彼女の父はさらに続ける。

「お前は何も分かっていないのか? 家庭環境が悪いってことは、つまり中卒なんだぞ」

「は? 何言ってるんですか? 僕は大学を卒業しています」

驚きつつもそう言い返すと、彼は聞く耳を持たない。

「言い訳をするな。俺たちには何でもお見通しなんだよ。お前の父の職業は清掃員か? うちの家庭とは全く住む世界が違うな」

彼は兄と一緒に笑い始める。春奈の母は、何を考えているのか分からない無表情で黙っていた。

「お父さん、聞いてください。僕は確かに父しか家族はいません。しかし…」

「お前に“お父さん”なんて呼ばれたくない」

そう言って、彼は俺の顔を殴った。真っ赤な顔で睨みつけてくる。兄も追い打ちをかけるように言う。

「身の程を知れ。お前のような下賤な奴がこの家に入れてもらえただけありがたく思えよ」

「俺も春奈も、この近くの大きな病院で医者をしているんだ。母さんも春奈も看護師だし、医療に携われる頭のいい人間だ。お前とは住む世界も出来も違うんだよ」

「何も違いなんてないわ! むしろ、医者のくせに人に暴力を振るうなんてありえないでしょう!」

「春奈、目を覚ませ。こんな男と結婚したら最悪な人生になるぞ。もしかしたら、こいつの母親と同じように早くに死ぬかもしれない」

「カトさんのお母さんは病気だったのよ。運が悪かっただけで、カトさんやお父さんのせいじゃないわ」

「金がなくて治療できなかったんだろ」

彼は悪びれる様子もなく、さらに続ける。

「おい、これ以上春奈を騙すようなことをしたら、世間的に潰してやるからな」

「今のは脅しているんですか?」

苛立ちながら聞くと、彼は言い放った。

「春奈に近づかないようにさせるためなら、何だってするさ。お前のような底辺とは、絶対に結婚させん」

何も知らないくせに、父のことまで見下し、気に食わないからと殴ってくる。こんな人たちと家族になりたいとは思わない。だが、春奈と別れる気はさらさらない。

だから、俺は言ってやった。

「あなたたち親子は、確かニコニコ病院で働いているんですよね。では、明日、院長室に来てください」

俺の言葉に、彼らは目を丸くする。

「何を言っているんだ、お前は。院長室ってどういうことだ?」

「分からないんですか? いつもその部屋にいらっしゃるでしょう。俺の父に伝えておきます。あなたたちを紹介したいですし、今日のことも話したいので」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。君は何を言っているんだ? どういうことなんだよ?」

父は混乱して同じ言葉を繰り返す。兄も慌てて聞いてくる。

「おい、まさかお前の父親が院長だって言うのかよ?」

「そうですよ」

俺の父は医者で、5年ほど前に院長に就任した。祖父の病院を父が継いだのだ。母が病気だった頃、治療法が見つからず、家族みんなが手も足も出なかった。父と祖父は自分たちが医者でありながら救えなかったことを悔やみ、父は一時、医者をやめようかと考えたという。だが、祖父に「お前の腕は他の人たちに必要だ」と説得され、今も医師として働き続けている。

父は今もそのことを後悔しており、誰も悲しませたくないと日々仕事に励んでいるのを、ずっとそばで見てきた。忙しくてかまってくれる時間は限られていたけれど、不自由はしなかった。近くに住む祖母が面倒を見てくれたし、何より父の働く姿は自慢できるものだった。

本当は俺も医者になりたかったが、父に「自分のやりたいことをしなさい」と言われた。医療より車が好きだと分かってくれていたようで、自動車の会社に入社した。

そんな父を、何も知らないこの男たちが馬鹿にしている。それが、腹立たしくて仕方なかった。

俺が父のことを話し終えると、彼らは真っ青な顔でガタガタ震えながら、勢いよく頭を下げた。

「す、すみませんでした! まさか鈴木院長の息子さんだったなんて思わなかったんです。許してください!」

「さっきまでの態度はどうしたんですか? 偉そうにしていてくださいよ」

「そんなことできません! 鈴木院長のような立派な医師のご家族に、そんな…」

「さっきまでお茶をかけたり殴ったりと、ひどいことをしていたのにですか? あ、脅しもしていましたよね」

俺がされたことを話すと、彼らは冷や汗をかきながらまた謝る。

それを見て、春奈は呆れたように言った。

「本当にダサいわね。人の話を聞かずに自分の言いたいことばかり話すから、こうなるのよ」

「春奈、知っていたのか?」

「もちろんよ。私は先にカトさんのお父さんに挨拶してたもの」

「なぜ言わなかったんだ?」

「私から断ってたんですよ。お父さんたちがあなた方の上司だなんて知ったら、気を使ってしまうと思ったんで。腹を割って話せなくなっちゃうじゃないですか」

「だからって…」

「お父さんたちの本性がはっきり分かったし、私はこのことを鈴木院長に伝えるから」

「待ってくれ! それだけはやめてくれ!」

父は全力で春奈を止めようと騒ぎ出す。兄も「そんなことしたら俺たちがどうなるか分かってるだろう!」と怒る。だが、春奈は一歩も引かない。

「あんたたちがしでかしたことでしょう! カトさんがこんなになったんだから、お父さんにも知る権利があるわ!」

説得は無理だと感じたのか、彼らは俺に向き直り、土下座した。

「お願いします! 院長にだけは言わないでください! 殴った治療費やスーツのクリーニング代は払います。お金ならいくらでも差し上げますから!」

「あなたたちのような部下を持って、父は本当にかわいそうだと思います。普段から、病院で働く医師について少し悩んでいたようなんですよね。これは、もしかして心当たりがあるんですか?」

俺がそう尋ねると、二人は目を泳がせる。父が何か問題を抱えているのは知っていた。優しい人だから、医者不足もあって多めに見ていたのかもしれない。だが、これはいい機会だろう。

「これは僕が愛用しているスマートウォッチです。録音機能がついていて、とても便利なんですよね」

そう言って、左手をテーブルの上に乗せて見せると、二人の顔色はさらに悪くなる。

「ま、待ってくれ。もしかして…」

「そうです。さっきまでの会話、録音していました。あなたが僕にお茶をかけた後ぐらいからです」

「それじゃあ、ほとんど全部じゃないか…」

「これは父に聞いてもらいます。おそらく、明日僕が呼ばなくても、父から話があると言われるでしょうね」

「なんて姑息な真似を…!」

「あなたたちがやったことよりはマシな行動だと思います。それに、僕はされたことの証拠を取っていただけですし、何も問題はないですよね」

「まあ、こんなにカトさんが濡れてるし、お父さんが彼を殴った痕も残ってるんだから、言い逃れはできないでしょうけどね」

俺と春奈の言葉に、彼の父は力なくその場に崩れ落ちた。

それを見て、兄が慌てて言う。

「俺は関係ないぞ! 何も手は出していないし、院長に何か言われるのは父さんだけだよな?」

「この男も同罪です。同じように俺と父を馬鹿にした証拠は、ばっちり残っています。お兄さんも一緒に呼んでもらうように言っておきますね」

そう伝えると、兄も絶望した顔で、魂が抜けたように固まった。

俺はため息をついて席を立つ。

「帰ります。後は父に任せるとします」

「気分悪いから、今日はカトさんの家に泊まるわ。あと、この家も出ていくから」

春奈はそう言って、荷物をまとめて一緒に家を出た。彼女の両親と仲良くできないことは悲しいけれど、あんな人たちと家族にならなくて正解だと考えながら、二人で歩き始める。

すると、春奈の母親が追いかけてきた。

「夫と息子が、本当に申し訳ありませんでした」

深々と頭を下げる彼女は、頭の硬くてプライドだけが高い二人を止められなかったことを悔やんでいると話した。今までずっと夫の言動に頭を悩ませていたが、暴力的で声の大きな相手に逆らえなかったのだという。

ずっと無表情で黙っていた母だが、彼女は二人とは違った考えを持っていたのだ。

「そんなの言い訳でしょ。お母さんも同罪よ!」

春奈が怒ると、彼女の母は自覚しているようだった。

「分かっているわ…だから、あの二人と一緒に償うつもりよ」

そう言って、もう一度頭を下げ、家の中に入っていった。

翌日、父に呼ばれた彼の父と兄は、変わらず真っ青な表情をしていた。休みだった俺は、参考人という形でその場に呼ばれている。殴られた頬は腫れ上がっており、ガーゼを貼っていた。

「君たちが呼ばれた理由は分かっているな」

父は厳しく低い声で話し始めた。

「私の息子だから怒っているわけではない。医者という、多くの命を救う立場の人間が、どうして人を傷つけるようなことをするんだ。これは身体的なことだけでなく、精神的なことも言っているんだぞ」

「申し訳ございません…自分の娘が、どこの馬の骨とも分からない人間と結婚するなんて嫌だと思ったんです」

「本心はそこじゃないだろう。家庭がとても気に食わなかったらしいな」

「そ、それは…」

「録音もしっかりと聞いているんだ。適当な嘘はつかないでくれ」

「申し訳ありません…」

父はイライラと貧乏ゆすりをしながら相手を睨みつける。二人は何度も謝って許しを請うが、父は首を縦に振らない。それどころか、追い打ちをかけるように言った。

「君たち二人が、普段から言動を問題視されているのは分かっているか?」

聞けば、二人は看護師や新人の医者に横柄な態度を取っていたらしい。しかも、若い可愛い看護師にはストーカー紛いのことをしたり、過剰に世話を焼いたりしていたという情報もあると父は言う。二人は否定したけれど、監視カメラの映像や看護師たちからの報告により、もう見逃せるレベルではないと判断された。

「不便なことはないが、腕が確かなことから厳重注意に留めていた。だが、もう我慢の限界だ」

こうして、二人は解雇を言い渡されたのだ。

二人は昨日よりも絶望的な顔をして泣きながら土下座したが、父が許すことは一切なかった。解雇通知を渡され、そのまま院長室を追い出された。しばらくは部屋の前で泣いたりうずくまったりしていたようだが、何も変わらないと悟ったのか、とぼとぼと帰っていった。

聞いた話では、真っ白な抜け殻のようになって病院を出ていったらしい。

その後、俺は治療費やクリーニング代を請求するだけでなく、彼の父に対して傷害罪で被害届を出した。障害が残り、罰金となり、彼は50万円近くを支払うことになった。さらに、二人が迷惑をかけた看護師たちからも慰謝料を請求されたらしく、100万円以上が飛んでいったのだそうだ。

彼の父は、母に愛想を尽かされ、離婚を突きつけられたらしい。今は別居中で、離婚調停に入っていると聞いた。

罰金や慰謝料、離婚と散々な目に合った二人は、医者として働きたくても他の病院に雇ってもらえず、普通に就職活動をしているそうだ。彼は年齢のこともあって難しく、兄は就職できても、相変わらずの横柄な態度で周りに嫌われているらしい。

これから、辛い人生を送るのだろうな。

一方、俺は春奈と半年後に結婚式を挙げる予定だ。父には祝福されているし、彼女の母も「行く」と言ってくれている。お互いの家族が全員参加できるわけではないけれど、それでも幸せな結婚式にしたいと思っている。

Thumbnail