空港ラウンジのVIPエリアで、俺は仕事のメールを確認しながら待ち合わせまでの時間を潰していた。すると、ハイヒールの音が近づいてきて、不意に声をかけられた。
「ねえ、なんで貧乏人のあんたがこんなとこにいるの?ここVIPエリアよ。やだ、あんた、一般のラウンジと間違えたんじゃないの?」
振り向くと、そこには中学時代の元彼女、若葉が立っていた。卒業以来の再会だった。27歳になった彼女は、派手な化粧と過剰な服装で、すっかり大人びて見えた。だが、その佇まいからは嫌味な雰囲気しか感じられなかった。
若葉は俺を頭の先から爪先までじろじろと見回すと、突然吹き出した。
「うわあ、貧乏人みたい。あんたみたいな人がこんな高そうなスーツ着ても全然様にならないのよね。何それ?道化師か。なら優しくしてあげないとね。僕ちゃん、よくここに来たね」
小ばかにしたような笑いとともに、彼女は暴言を吐いてきた。そして隣に立っていた男性の腕に絡みつき、俺を紹介し始めた。
「ねえ、道さん。この人、私の中学時代のクラスメイトで、富長司君。彼、中学時代から働き者でね、ご実家が貧乏らしくって、中卒で就職されたのよ」
言葉こそ取りつくろっているが、どこをどう聞いても嫌味だった。その男性も、悪意たっぷりに紹介された俺の経歴に驚いたように目を丸くした後、同じようにじろじろと俺を見てきた。
「初めまして。北村正道です。こちらの若葉さんとは婚約していて、近々結婚式もあげる予定なんですが」
「そうですか。彼女のクラスメイトでいらっしゃるんですね。彼女、その頃から可愛かったんでしょうね」
婚約者の褒め言葉に、若葉はわざとらしく恥ずかしがりながらも、まんざらでもなさそうな顔をしている。俺は精一杯の愛想笑いでそれに応じた。
「ねえ、なんで貧乏人のあんたがこんなとこにいるの?私たちは今からハワイに行くのよ。私が贅沢しなくてもいいって言ったんだけど、彼が張り切っちゃって」
若葉は困り顔を浮かべながらも、明らかな自慢を口にする。北村さんはデレデレと鼻の下を伸ばしていた。
「こちらの道さんね、有名大卒で今は大手ゼネコンに務めてらっしゃるエリートなの。それも彼、会社からも将来を期待されていて、今度同期の中で一番早く課長になるのよ」
自分の手柄でもないのに、若葉は得意げにそう告げてくる。北村さんも、どうだと言わんばかりに俺を一瞥してきた。そんな彼を見て、俺はわずかに眉を動かした。北村さんの勤務先の名前に、どこか聞き覚えがあるような気がしたのだ。
「そういや、あんた不動産屋に就職したんでしょ。ってことは正道さんの会社の下請けみたいなもんじゃない。ほら、せっかくの機会なんだし、お情けを頂きなさいよ」
「へえ。富長さんは不動産でしたか。中卒ならさぞご苦労されてることでしょうね。ああ、これも何かの縁だ。もし割のいい案件があれば優先的にそちらへ回しますよ」
俺は「いえ、そこまでしていただく義理もありませんので」と首を振りながら、この場を早く終わらせたい一心だった。だが、そのタイミングで再び若葉が喋り始める。
「ねえねえ、聞いて。正道さんね、こないだ2人の新居としてタワーマンションの最上階を買ってくれたのよ。ほら、あの駅前の人気のマンション。ちょっと、仮にも不動産屋なんだから、話題のマンション知っときなさいよ」
その言葉を聞いて、俺はようやくすっきりしていた。なぜ北村さんの名前に聞き覚えがあったのか、その疑問が溶けたからである。
ああ、なるほど。そういうことか。
俺が口を開きかけたその時、背後から本来の待ち合わせ相手である男の声が俺たちの間に割って入ってきた。
「ごめん、司、待たせたな。なかなか仕事が終わらなくってさ。と、そちらのお二人、お邪魔しちゃってすみませんね。ただね、ちょっと聞き覚えのあるマンションの話題が聞こえてきちゃって」
誰だと言いたげな顔で眉を寄せる若葉に、男性は穏やかな様子で自己紹介した。向井は、5年ほど前に知り合った親しい友人の一人だ。今日は彼と一緒に、とある物件を見に行く約束をしていたのだ。
向井は、彼らに言って聞かせるような口調で、わざとらしく俺へと問いかけてきた。
「なあ、こちらのお兄さんが買ったらしい。そのタワーマンションって司の会社が建てたものだよな」
すると、その言葉にいち早く反応したのは若葉の方だった。
「え?どういうこと?司の会社って?」
一方、横ではなぜか北村さんが向井の顔をまじまじと見つめ、それから何かに気づいたように言葉をなくし、顔色を悪くしているのが見えた。
しかし、婚約者の異変には気づかないのか、若葉はふんと鼻で笑い、こちらを一瞥する。
「ちょっと、いくら冗談でもあまりにお粗末よ。こんな中卒の貧乏人の勤務先が建てたマンションですって。どこの誰だか知らないけど、そんな冗談言って私たちをバカにするつもり?」
不愉快そうに苛立った声をあげる若葉だが、そんな婚約者の腕を、もはや顔面蒼白となった北村さんが力任せに引っ張る。
「若葉、今すぐ謝れ」
「は?何?どういうこと?」
「いいから謝れ」
つい先ほどまで自分と一緒になってのろけていた婚約者の変貌に、若葉は何が何だかわからないといった顔をしている。北村さんは、そんな彼女に向かって震える声で事実を告げた。
「こちらの富長さんは、私たちが買ったあのマンションを建てた会社にお勤めだ。いや、それだけじゃない。俺が買ったあの部屋も、元々は彼の持ち物だったものだ。彼はその会社の社長の息子で、副社長をされている」
「え、何それ?」
瞬間、硬直したように若葉が固まった。
そうなのだ。実は俺の父は経営者一族の長男で、俺の勤めるデベロッパー会社の社長でもある。俺が祖父母の家に預けられていた理由は、父が海外勤務となったからだった。母を早くに亡くしていた俺は、母との思い出が残る日本を離れることを嫌がった。だから父は仕方なく、母方の祖父母に俺のことを頼んだのである。
父は俺の教育費や生活費を振り込むつもりだったらしいが、質素な生活を送っていた祖父母はそれを断った。そして俺は質素な暮らしをする祖父母の下で、過度な贅沢をするでもなく育ち、中学ではアルバイトにも精を出した。その後、父や祖父母は高校進学を勧めてくれたが、それを押し切って中卒で就職したのは、早く社会へ出て仕事を覚えたかったからだ。将来的に親の会社を継ぐというのは決まっていたけれど、俺はそのレールに甘えたくなかった。
また父は仕事に厳しい人だったから、いくら実の息子と言えど、適正がなければ容赦なく俺を後継者候補から外していただろう。それが分かっていたため、俺はとにかく今まで一生懸命仕事へと打ち込んできたのである。
だが、俺の家の事情は若葉には伝えていなかった。彼女は少しおしゃべりなところもあったから、俺が大手企業の社長の息子だと分かれば、構わず吹聴するかもしれないと危惧していたからである。そんな話が広まれば、父や祖父母、また俺自身も様々な厄介ごとに巻き込まれかねない。それに俺は、俺自身のことを見て、きちんと向き合ってくれる人を求めていた。
その思いは、物の見事に裏切られることになるわけだが、それは人を見る目のなかった俺にも責任はある。
現在、北村さんの言う通り、俺は親の会社で副社長の座につき、また個人的にも不動産投資を行っている。そして向井とはその投資を通して知り合い、親しくなった。あのタワーマンションも、予約開始当初から何室か所有していたのであるが、この度向井に勧められてハワイに別荘を買うこととなり、そのうちの一室を俺は売りに出したのである。今日も別荘の件で2人で現地に赴く予定だったのだが、まさか空港のラウンジで元彼女やその婚約者と顔を合わせることになるとは、俺も予想していなかった。それも、北村さんが売りに出したそのマンションの購入者だったとは。
世の中、思いもよらない偶然もあるものだと、俺は内心しみじみしてしまった。
婚約者から俺の現在を告げられた若葉は、「嘘でしょ」と呟いたまま、未だに信じられない様子で呆然としている。自身の出自をはっきり告げなかった俺も悪いとは思うが、彼女は彼女で俺のスペックしか見ていなかったのだから、それはお互い様ということにしてもらいたい。
そんな中、しばらく大人しく口を閉じていた向井が、北村さんに向かって淡々と口を開いた。
「さて、北村係長町。ああ、もうすぐ課長か。大手企業の課長になろうという方が、こんなところで彼女と一緒になって、ああいう失礼な態度を取るというのは、いかがなものだろうか」
向井の指摘に、真っ青になっていた北村さんがさらにびっくりと肩を揺らす。
「向井、お前、北村さんと知り合いなのか?」
北村さんの態度を見ていても、彼らが初対面とはとても思えない。俺が首をかしげてそう問えば、向井がゆっくりと答えた。
「そう。北村さんがお勤めの会社と取引先をさせてもらっている会社に務めているのが、この僕。ちなみにこの度専務へ昇進しました。1年ほど前かな。北村さんとも顔合わせしてるよね」
最後に振られた北村さんは、脂汗を浮かばせながら無言で頷いた。
「ああ、1年前に少しだけ挨拶した程度だから、すぐに思い出せなかったみたいだけどね」
向井がそう言って笑う。言動こそ軽いものの、その実向井は長年やり手の管理部長として活躍していたことは、俺も知っている。そしてこういう時の彼は、やはりその抜け目のなさが存分に発揮されていた。
「はあ、ちょっと待ってください。今の録画、見てくださいよ」
向井は自身のスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。すると流れ出したのは、先ほど北村さんが若葉と共に俺へと絡んでいた一場面。見間違いようのない、綺麗に撮れているそれを目にして、北村さんが小刻みに震え出す。
「はい、この通りです。この録画を、僕の報告と一緒に北村さんの会社の役員にはあげておくから」
その言葉に、とうとう立っていられなくなったのか。北村さんがその場でがっくりと膝をついた。その時、ちょうど俺たちが乗る予定の便のアナウンスが入る。
「ねえ、ちょっと、今の何?どういうことよ?」
物言わず黙り込む婚約者と、その横で取り乱している若葉を一瞥し、俺は向井に促されるまま出口へと向かったのだった。
これは後から聞いた話であるが、あの2人は早々に喧嘩別れとなったようだった。また北村さんは係長に降格されたらしい。せっかく買ったマンションのローンも払えなくなり、結局1日も住まないまま売却することとなったそうだ。
北村さんと別れた若葉のその後までは分からない。自慢の彼氏とタワマンを失ったのは残念であろうが、まあ身から出た錆なので同情の余地はない。
それにしても、今回の件で俺は、なんとなく引っかかったままになっていた中学時代のことが、すっきり抜けたような気にもなった。そう、過去は過去だ。それを変えることはできないが、その代わり、俺はこれからの未来を自分で作っていくことができる。肩書きや立場でなく、俺自身を見て向き合ってくれる人を大切にしていこうと、俺は改めて決意を新たにしたのだった。



