居酒屋で親友の翔太が、酔った勢いで放った言葉に耳を疑った。「マジ使えねえ。貧乏なお前には何の価値もねえわ」そう言い放つと、グラスの酒を俺の頭から浴びせてきた。大学からの付き合いだと思っていた男の本音は、社長の息子である自分を利用しようとしていただけだった。仕事を頑張る自分を認めてほしくて、必死に働いてきたのに。頭から滴る酒と、体中に広がる屈辱感。その時、背後でバーの扉が開く音がした。駆けつけ…

居酒屋で親友の翔太が、酔った勢いで放った言葉に耳を疑った。「マジ使えねえ。貧乏なお前には何の価値もねえわ」そう言い放つと、グラスの酒を俺の頭から浴びせてきた。大学からの付き合いだと思っていた男の本音は、社長の息子である自分を利用しようとしていただけだった。仕事を頑張る自分を認めてほしくて、必死に働いてきたのに。頭から滴る酒と、体中に広がる屈辱感。その時、背後でバーの扉が開く音がした。駆けつけ...

酒を浴びせられた頭のてっぺんに、冷たい感触が広がった。顔を伝う液体の匂いが鼻をつく。「マジ使えねえ。貧乏なお前には何の価値もねえわ」という親友の言葉が、耳の奥で何度も反響する。

俺の名前は石川学。父は有名な大企業の社長だ。幼い頃から、父に媚びを売る大人たち、気に入られようと必死な大人たち、敵対心を燃やす大人たちを間近で見てきた。だからだろうか、昔から人の裏の姿を推測する癖がついてしまった。

学校では「お前んち金持ちだから何でも買ってもらえるんだろ」と、ネタにされることが多かった。父は忙しさを理由に家庭を顧みず、好きなものを買ってもらえたことなど一度もなかった。しかし、大企業の社長の息子という看板のせいで、何を言ってもイメージは覆らなかった。

数年前のクリスマス、父が珍しく話しかけてきた。「学ぶ。いつも放っておいてしまって申し訳ない。クリスマスプレゼント、何がいいかな」

ちょうどクラスメイトにゲーム機を買ってもらうよう指示されたタイミングだった。「プレゼントすればどうにかなると思ってんの?俺は絶対父さんみたいにはならないからな」そう言い放って、家を飛び出した。一瞬、父が寂しそうな顔をしたように見えたが、気のせいだと思い込んだ。

それ以来、俺は父を避け、あんな大人にはなりたくないと反抗心を燃やし続けた。しかし、歳を重ねるうちに、父と同じ業界に興味を持ち始めた。業界研究をすればするほど、父がこの業界で一から大企業に成長させたことがどれほど偉大かが分かった。そして、自分もこの業界で成功したいと思うようになった。だが同時に、父の背中は超えられない大きな壁だと突きつけられた気分だった。

父の会社で働くことは反抗心が許さなかったが、この業界で働くなら最先端を行く父の会社が一番魅力的だった。そこで俺は、父には内緒で子会社に就職した。知られたら親会社に入るよう言われると思ったからだ。給料は低く、学生時代から住み続けているボロアパートで節約生活を送っていた。通勤は自転車で、外食はほとんどせず、週末に作り置きをしてやりくりしていた。絵に書いたような貧乏生活だが、働きたいと思った業界で責任ある仕事を任され、やりがいは十分にあった。

そんなある日、大学時代からの友人である翔太と久しぶりに飲むことになった。翔太は俺の父の会社、本社の人事部でエリートとして働いている。俺が社長の息子であることは知らない。だからこそ、会うことで自然と本社の様子を聞くことができていた。

「学ぶ、お前も仕事できる人間なんだからさ。いつまでも子会社にこだわるんじゃなくて、本社に来いよ」

酔うといつもそう言う翔太に「俺は今のままでいいんだよ」と首を振る。最近の翔太は口を開けばお金の話ばかりで、少し苦しかったが、友人との時間を楽しんだ。

その翌日、いつも通りの一日を終え、事務所に戻ると同僚の順が駆け寄ってきた。「マナブー、やばい。顧客から要望を受けたんだけど、ついにかも」

順は一年前に本社からこの子会社に移動してきた社員だ。問題行動により左遷されたという噂を聞いたが、ここでの様子を見る限り、仕事は熱心で考え方も似ていた。ここのところ飲みながらずっと話題にしていた課題、顧客の要望に対するレスポンスの遅さ。原因は明確で、子会社だけで決められることが少なすぎるのだ。ほとんどを本社に提出して決済を受けなければならず、顧客に提案するまでに時間がかかっていた。

「本社に掛け合ってみるしかないよな」
「でもなあ」
「この状況変えられるのは俺たちだけだ。俺も手伝うし、やってみないか」

順の後押しが心強く、俺たちは本社に改善を求める要望書を提出することにした。二人で協力して、通常業務の合間に過去データをまとめ、聞き込みをして資料を作成した。徹夜が続き体はフラフラだったが、一か月ほどで要望書は完成した。そして最後は、本社での会議に参加する店長に託す。

「店長、子会社の社員が一からまとめ上げたこの要望書、本社に届けてください」
「しっかりと渡してくるから安心してくれ」

結果が出たのは数日後のことだった。本社からの一斉通達で、俺たちが要望した内容の大半が叶えられた新しいシステムが発表された。達成感に包まれ、その日の勤務後、俺の部屋で順と祝杯を上げていた。

「マナブー、本当にお前はすげえよ。よくやってくれた」
「それは順も一緒だよ。順が手伝うって言ってくれなかったら俺は動けなかった」
順は大半の作業を手伝ってくれたのに、俺を褒めるばかりで自分の手柄とは決して言わない。これまでにない達成感に、思わず涙が溢れそうになった。

その時、突然ピンポンと玄関のベルが鳴った。「こんな時間に来客?」と思うと、順が慌て出した。「リム人、学ぶ。アパートの前にリム人待ってるぞ」

順の言葉に首を傾げ、ドアを開ける。そこに立っていたのは、俺の父親だった。「夜分遅くに申し訳ない。どうしても学ぶと話がしたくて押しかけてしまった」

固まる俺の横で、順が慌てた様子で帰り支度を済ませる。「すみません。僕、今日のところは失礼します」と父にぺこぺことお辞儀をして、順は帰って行った。後には俺と父だけが残される。ボロアパートで数年ぶりに再会した父という構図は、とても気まずかった。

「お前が提出した要望書は読ませてもらった。視点まで目が行き届いていなかったようだ。よくやってくれた」
父がおそるおそる口を開く。
「学ぶが子会社に入社したのは知っていたんだが、なんせ嫌われていると思ってな。会いに行く勇気がなかったんだ。今回の要望書は、いいきっかけになると思った」

「そんな父さんに認めて欲しくて要望書を書いたわけじゃないし」
「分かっている。私にとってのただの口実だ。口実がなきゃ息子に会いに行けない臆病な父なんだよ」

これまでの父のイメージとは違う姿に、戸惑う。「それで、何の用なんだよ」
「学ぶ。今日はお願いがあってきた。学ぶの仕事ぶりはよく知っている。だから将来は私の後をついで欲しいと思っている。どうか本社に来て、副社長を担ってくれないだろうか」

本社。副社長。後継。想像もしていなかった言葉が続々と登場して、とても困惑した。だが同時に、この業界の最前線を走る父に認めてもらえて嬉しい気持ちにもなった。「そんな大きい話、即決できない。しばらく考えさせてほしい」
「わかった」そう言うと、父は帰って行った。

翌日出社すると、順がいた。「順、昨日は本当に済まなかった」手を合わせて謝罪すると、順はいつもと変わらぬ様子で笑った。「気にすんな。親父さんのこと、久しぶりだったんだろう」
「昨日は父として会いに来たのか?それとも社長として?」
「え?」
俺は固まって順を見つめる。「え、今、社長としてって言った?」
「言ったよ。学ぶの親父さん、本社の社長だろう」

俺は誰にもこのことを話していないのに、順が知っていたことに驚いた。「なんで知ってるの?」絞り出すように言うと、突然順が吹き出した。それに驚いていると、周りからも笑い声が聞こえてきた。他の同僚たちも俺を見てくすくす笑っている。「知ってるも何も、苗字同じだし、顔もそっくりだし、仕事はできるし、気づくっしょ」と順。隠しているつもりだったのは、どうやら自分だけだったようだ。

「そうだったのか」俺はへなへなと順の隣の席に腰を落とす。なんだか気が抜けた。それと同時に、これまで父のことに一切触れずしてくれた同僚の優しさに嬉しくなった。
「それで、昨日は何だって?」
そう思うと、後腐れなく笑い合えたので、昨日父から言われたことに関してみんなに相談することにした。
「すごいじゃん。学ぶ。本社に行くべきだよ」
「この業界を新しくよりよくしていってくれ」
同僚たちも背中を押してくれる。「そうか。分かったよ」

不安はある。だが、みんなの期待に答えるため、俺は副社長になろうと決意した。それからすぐ本社に出向いて父にその旨を伝えると、父はとてもほがらかな笑顔を見せてくれた。

これから頑張っていくぞ。気合を入れつつ、本社の廊下を早足で急ぐ。向かう先は人事部。父からの発表がある前に、自分の口から翔太に伝えたかった。報告したら喜んでくれるかな?そんなことを考えながら人事部を訪ねたが、翔太は不在だった。
「お帰りは遅いのかな?」対応してくれた若い社員に尋ねると、彼は首を横に振った。なんと、まだ就業時間前だというのに、飲みに行くからと帰ったというのだ。
「本当に友達だったんだ…」
「え、何?」
「あ、いいえ。何でもありません」
つぶやきが気になったが、今は翔太の方が問題だ。翔太が飲みに行く場所は大体決まっている。社員にお礼を言い、俺は行きつけのバーに向かった。バーに着くまでの間、翔太が就業時間前に退社していたことを消化しようとしていたが、どう頑張っても消化できない。仕事を頑張っていると思っていただけに、そんな非常識なことをするなんて信じたくなかった。

バーに到着し、重たい扉を開ける。入口近くのカウンター席に、同僚と並んで座る翔太の姿があった。すでに酔っ払っていて、薄暗い店内でも分かるくらい顔が赤く、目がうつろだった。

「あいつには本当にがっかりだよ。社長の息子だから仲良くしてたってのに」
来店早々に聞こえてきた翔太の愚痴に、体が固まる。俺の理解が追いつくよりも先に、翔太は続けた。
「親友ポジゲットしてたら出世とかできそうじゃん。なのに全然そんな気がねえんだもん。ガチャミスったわ」

思わぬタイミングで知らされた親友の本音。信じたくなくて、俺は必死に言い訳を考えた。きっと俺が考えているようなことではなく、別の意味があるのだと。だけど、いくら考えても、利用しようと親友のふりをしていただけという答えは変わらなかった。ショックのあまり、体が動かない。

立ち尽くす俺に店員さんが声をかけたことで、翔太は俺に気づいた。一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにニヤニヤと笑う。「お噂をすれば、子会社勤務の学ぶ君じゃないの?」
「さっきの話、どういうことだよ」
「そのまんまの意味だって。仲良くしとけばいいことあるかなって思ってたのによ。本社勤務せずに子会社にこだわって、マジ使えねえ。貧乏なお前には何の価値もねえわ」

面と向かってこのように言われるとは思っておらず、どうしたらいいのか思考が停止してしまう。
「おや、黙っちゃって。ま、無能だからそうなるわな」言いながら、翔太が酒の入ったグラスを片手に立ち上がる。何か言い返してやりたいのに、何も言葉が出てこない。
「ほら、なんか言えよ。いつまで固まってんの?」言いながら、俺の頭の上でグラスを逆さにする。誰かが「あっ」と言葉を漏らしたのが聞こえた。

頭のてっぺんに感じる冷たさと、顔や首に流れる酒の匂い。服の中にまで入ってきて気持ち悪い。だが信じられないことの連続で、怒る気力もなかった。

その時、背後でバーのドアが再び開く音がした。
「おい、大丈夫か?」
やってきたのは順だった。
「おいおい、勘弁してくれよ。学ぶ君の次は左遷の順君まで。揃いも揃って、ここはね、あんたら貧乏人が来るようなバーじゃないんだよ」

順は少々驚いた様子だったが、すぐに冷静さを取り戻し、俺の方をじっと見つめた。
「どうしてここに?」
「本社の人事部で残業していた社員から聞いたんだよ。それより」と、順は大きく深呼吸を一つすると、俺の腕を掴んで続けた。
「副社長、私の方ご相談があります。少しお時間よろしいですか?」
そう言って、俺をバーから連れ出す。「まあ、そんな話ないんだけど」と、外に出たところで順が囁く。どこまでも気遣いのできる、尊敬できる人間だなと思っていると、勢いよく扉が開いて翔太が出てきた。

「おい、副社長ってどういうことだよ」
目の前には、父が使っている高級リムジンが止まっている。
「とりあえず乗ってください。副社長」
「うん」
顔面蒼白でこちらを見つめる翔太を見ながら、俺はリムジンに乗り込んだ。
「ま、待ってくれよ。俺、親友だろ。頼むよ。勘弁してくれって。頼むよ、副社長」

どこまでも金に目がないやつだな。
「なんか一言言ってやったら、ちょっとすっきりするかもよ」と順が言う。
「いや、いいや。そんな元気はなかった」
「そっか。じゃあ運転手さん、出発させてください」

高級リムジンがゆっくりと動き出す。
「おい、無視しないでくれよ。頼むよなあ」翔太は声の様子からしてすがりついてきているようだったが、俺は後ろを振り返らなかった。

翔太の叫びが聞こえなくなり、気持ちが落ち着くのを待ってから順へ目をやる。すると順は苦笑いを浮かべた。
「俺が左遷になったのは、あいつに文句言ったのが原因だからな」
「どういうことだ?」
「あいつ、社長の息子の親友だって偉そうにしてたんだよ。それで一言文句言ってやったんだ」
「そうか。それは悪いことしたな」
「お前の責任じゃねえよ」順は肩を揺らして笑ってくれた。

だが、俺が翔太の本性に気づかず、親友を名乗らせてしまった責任がある。この責任をどうやって取ったらいいのか考えていると、順が答えをくれた。
「それでも責任感じるってなら、この会社をもっと働きやすくしてくれよ。頼むぜ」
肩をこつんと叩かれる。それに俺は少しだけ笑みを浮かべて頷いた。
「明日から、俺頑張るわ」
「おお、応援してる」
「たまには俺のボロアパートにも来てくれよ」
「当たり前だろう。いつもの中杯、大量に買って持っていってやるよ」

リムジンが夜の街を駆け抜ける。副社長としての覚悟を胸に、流れる夜景を見つめた。

あっという間に一年が経過した。俺は今も自転車で通勤している。副社長なのに、と思われるかもしれないが、仕事が変わった分、他はそのままが良かったのだ。まあ、リムジンに乗れなかったというのもあるが。副社長に就任して以来、勉強の日々だがやりがいはある。そう、俺はやりがいのある仕事が大好きなのだ。

今日はどんな一日になるかな?ワクワクしながら、俺は自転車のペダルを思いっきりこぎ出した。

Thumbnail