「娘が入社するからやめてくれ。今日で最後だ。」
社長から突然、首を宣告されたのは20日の朝だった。え…? 私は驚きのあまり言葉を失った。
20日は取引先への支払い日。銀行振り込みのところもあるけれど、古くからの取引先には挨拶を兼ねて直接、支払いに行く日だ。
「ちょうどすぐにでも帰れそうな格好をしているじゃないか。特別に今日は休みにしてやるから、さっさと出ていけ」
背中をグイグイ押されて事務室から追い出され、鼻先で扉をピシャッと閉められた。どこから突っ込んでいいのか、まるで分からない。
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私はナツキ。高卒でこの会社に入って、今年で10年目の事務員だ。いや、さっきまで事務員だったというべきか。
私が務めていたのは家族経営の舗装会社で、社員は20名ほど。創業者で現在の会長が社長だった頃は、職場の雰囲気も良くて、とても働きやすい会社だったのに。
今でこそ現場を離れた会長も、以前は若手に混じって率先して働いていたし、奥様のももこさんも会長が入院するまでは毎日会社に来て、雑用を一手に引き受けていた。
娘の愛さんは現場も事務もこなす万能な人で、愛さんの夫も現場長として現場に出る社員たちから信頼されていた。創業者一族だからと言って、誰も偉ぶったり、社員を見下したりしない。
このままトラブルとは無縁の楽しい会社生活が続けば良かったのに、残念ながら現実は甘くなかった。
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去年の暮れ、会社の集団検診で会長に癌が見つかった。会長は社長を辞任することにして、現場長だった愛さんの夫を次期社長にすると決めた。
私も他の社員も満場一致で賛成。会長には治療に専念してもらい、長生きしてほしいとみんなの意見がまとまった。
ところが、どこで聞きつけたのか、会長の長男のケンジさんが家族を連れて突然現れた。
実は会長には、愛さんだけでなく子供がもう1人いたらしい。ケンジさんは30年ほど前に勘当されていて、私は全く知らなかった。
古参の社員から聞くと、ケンジさんは若い頃、札付きのワルだったようで、警察のお世話になることもしょっちゅう。問題を起こしては、会長とももこさんが謝りに行っていたようだ。
高校中退後はマルチ商法や詐欺まがいのことをし出し、ついに会長が勘当したらしい。
それきり長らく音信不通だったのに、ケンジさんはある日突然やってきて「親父!今まで悪かった。俺を許してくれ!」と叫び、会長に向かって土下座した。
私は何事かと驚いた。小さな会社で社長室兼事務室が一室だけだから、私も一部始終を目撃したのをよく覚えている。
ケンジさんは今までのことを水に流し、自分も会社で一緒に働きたいという。水に流してって、勘当された側から言う言葉ではないと思うんだけど。
「みんなには申し訳ないが、頼む。もう1度だけチャンスを与えてほしい」
愛さんや古参の社員たちはケンジさんの過去を知っているから、手放しでは喜べないようだった。でも、会長から深々と頭を下げられ、それでも拒否できる社員は誰もいなかった。
こうしてケンジさん一家は会長の離れで暮らすことになり、ケンジさんは社員として、奥さんは専業主婦として、会長の家の切り盛りをすることになった。
娘さんは大学生らしく、会社に来た時に1度しか見ていない。
会長は「世間に揉まれて苦労して、ケンジもまともになったはずだ」と言っていたし、ももこさんもケンジさんが家族を連れて帰ってきてくれたことを泣いて喜んでいた。
これからは一緒に会社を盛り立てていこうと話していたのに、問題が起こってしまったのだ。
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ケンジさんは「長男だから次期社長は俺だ」と譲らず、愛さんや現場長と喧嘩になってしまった。会長の前だけは真面目に働くふりをし、実際は何もしない。
「肉体労働なんて現場がすることだろ。お前たちは働きアリだ。黙って働け」と、パワハラ的な発言を繰り返す。
あっという間にみんなから嫌われた。「やってられない」と会長に直訴した若手社員も何人かいたらしい。でも会長もももこさんも「ケンジを支えておくから、もう少し長い目で見てやってほしい」と頭を下げるだけだ。
揉めているうちに、当時見つかった癌が一気に悪化。入院したのが3ヶ月前だ。
するとケンジさんが「俺が社長だ」と言い出した。社員たちは当初の予定通り、現場長を社長にするよう会長やももこさんに進言したが、結局2人は娘の夫よりも、血のつながったケンジさんを選んでしまったのだ。
「我が子可愛さに目が曇ったか」「盲目的だな」なんて陰口を叩く人も出てきたし、あんなに和気あいあいとして楽しかった会社の雰囲気はガラリと変わって、すっかりギスギスしたものになった。
このままではダメだと誰もが思い、ついに愛さんは現場長と影で動き始めたのだ。
すると必然的に、会社の仕事は私1人がすることになってしまった。今までももこさん、愛さんと私の3人だったから定時に帰れたけど、今は毎日残業。日付が変わることもざらにある。
それなのにケンジさんは仕事はとにかく暇だと思っている。社長なのに昼間からキャバクラに行ったり、競馬やパチンコに出かけたりと遊び歩いているのに。
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社長との関係が決定的に悪化したのは、ある経費の問題からだった。
会社のクレジットカードを使って、自分の飲食代や遊興費などプライベートの支払いをするのを、ある程度はしょうがないと目をつぶっていた。でも、いくら何でも認められないレベルだったのだ。
私は怒られるのを覚悟で、社長にレシートを突き出した。
「こんな経費は認められません」
「はあ?なんでだよ」
「これは奥様の強制下着ですよね?業務には関係ありませんから、経費にはなりませんよ」
予想通り、社長は真っ赤になって怒り出す。
「ふざけんな!社長の妻だぞ!給料から引かせるのが当然だ!経費だ!」
「いえ、でも下着ですけど。奥様は社員でもないですし」
私は震えながら言い返す。社長の妻の強制下着40万円なんて、どうして経費で落ちると思えるのか。私には理解できないが、社長の次の言葉はさらに理解不能だった。
「じゃあこれから強制下着の販売をうちの新事業にしよう。そうすれば仕入れだから経費だろう!」
満面の笑みで社長はドヤ顔をしてきたが、私は目が点になった。
「あの…うちは会社ですけど」
「だからどうした?取引先に、うちとの取引を盾に売り付ければいいんだ。買わなければ契約を打ち切るといえば、みんな買うだろう。必ず儲かるぞ。1つ売れば20万、セットで売れば40万。ボロい商売だ」
社長は高笑いをしているけど、私はゾッとした。
「そんなの絶対にダメですよ!信用問題になりますからね!」
つい怒りに任せてきつい口調で言ってしまい、社長から嫌われる対象になってしまったのだ。
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その日から私は徹底的に社長からいびられるようになった。辛くて何度もやめようと考える。でも、今までお世話になった会長たちのために頑張りたいという思いや、私がいなくなったらみんなが困るという思いから、耐えて働き続けた。
現実問題、私も急に仕事がなくなっては困る。とにかく耐えて、準備が整うまで待とう。そう思っていたけど、なんと首を宣告されたのだ。
今、いきなりやめたら取引先に迷惑がかかる。私は深呼吸して、扉を開けた。
「無理です。こんな急にはやめられません。引き継ぎも何もありませんし、娘さんだって仕事はできませんよ。それに今日は支払い日ですからね」
絶対に社長は怒り出すだろうなと思いながら、私は一息でまくし立てた。
案の上、社長は見る見る顔を赤くし、激怒。
「うるさい!娘が入社するからやめてくれと言っているだろう!お前は今日で最後だ!支払いなんて、向こうから取りに来るまで待たせておけばいいんだ!わざわざこっちから支払う必要はない!」
「え?物を買ったらお金を払うのが当たり前ですよね」
私が呆れて、つい子供に言い聞かせるように説明すると、社長も社長で、まともな大人だとは思えない理不尽なことを言い出した。
「ふん!だったら『別の取引先に変える』と脅せばいいだろう!今回は支払いに行かないから、全部タダにしろと言え!」
「はあ?そんなことできるわけがないじゃないですか」
私は呆れ果てて言葉が出ない。
「全く使えない奴だな!娘は大卒なんだ!仕事なんて簡単な仕事、すぐできる!娘なら身内だし、何を買ってもうるさく言わないからな!お前みたいに口ばっかりで仕事ができないやつなんて、うちの会社にいらん!さっさと出ていけ!」
つまり社長は、経理の管理を娘にさせれば、使い込みも経費で楽に落とせると考えているのだろう。
「ああ、そうですか。後悔しても知りませんよ」
もうダメだ。言葉が通じない。私の堪忍袋の緒が完全に切れてしまった。
私物をまとめ、さっさと会社を後にする。ただ、やはり取引先には申し訳ない。私は愛さんに電話をかけた。ももこさんは会長の看病があるし、愛さんも忙しいのは分かっていたけど、非常事態だ。私は事情を話し、後のことは愛さんに託した。
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会社を出ると、急に私は暇になってしまった。解雇予告なしの解雇は明らかな労働法違反。訴えられればアウトだ。
うちは中退共という制度に加入していたから、私は退職金と1ヶ月分の給与を請求できる。中退共とは、中小企業のための国の退職金制度で、自力で退職金を用意できない会社の強い味方だ。
でもこれは退職した日から5年以内に申請すればいいし、労働局も2年間は時効だから、そこまで手続きを急ぐ必要はない。
仕事の経験から、退職時に必要な手続きとスケジュールを逆算して、少なくとも1週間はのんびりしてもいいと結論を出す。
最近ずっと残業や休日出勤が続きで、家のことは何もできていないし、落ち着いたら行きたいと思っていた場所もたくさんある。だから私は日帰り温泉に行くことにした。
温泉でリフレッシュして、ロッカーに入れたスマホを見ると、何件もの不在着信やメール、留守電が来ていた。
とりあえずメールを見ると、愛さんからで「支払いは無事に終わった。準備はOK」とのこと。私はほっと一安心だ。社長から急にやめさせられたとはいえ、怒りに任せて仕事を放り出してしまったのは申し訳なく思っていたからだ。
次に会社からの留守電を聞いてみた。すると、慌てた社長の声で「おい!どういうことだ?俺が本当の社長じゃないだと?お前、知っていたのか?ちゃんと説明しろ!」と入っていた。
やっと気づいたのか。本当にバカな社長だなと、私はくすっと笑ってしまう。
それから私は順番にメールや留守電を確認し、会長からの留守電を聞き、急遽病院へ行くことにした。
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夕方になって私が会長の病室に着くと、ももこさんだけでなく社長も来ていた。会長は私を見るなり、ベッドの上でガバッと頭を下げる。
「君、うちのバカ息子が本当に申し訳なかった」
「おい!どういうことだよ!正式な社長じゃないって説明しろ!」
事態が飲み込めず、ケンジさんが偉そうにどなるけど、会長がすぐに一喝した。
「お前は黙ってろ!」
実は私が愛さんに電話をした後、愛さんはすぐに会長とももこさんに連絡をしたらしい。それを聞いた会長が慌てて社長に電話し、「お前、本当に何も知らないのか」と社長に話をしたそうだ。
「だからどういうことなんだよ!」
私はわけも分からずに怒鳴ってくる社長に向かって、つまりケンジさんは法的に何の影響力もない名ばかりの社長だったんですよ、とあっさり種明かしをしてやった。
知識がないとややこしくてよくわからない話かもしれないが、社長は社内の役割を示す俗称であって、法律で定められた役割ではない。会社を代表し対外的な責任を持つのは代表取締役で、単なる社長とは似ているようで全然違う。
社長という肩書きだけなら社内で自由に変更できるが、代表取締役を変更するためには複雑な手続きが必要で、かなり大変なのだ。
3ヶ月前、ケンジさんが社長になることが決まった時、愛さんや現場長、古参の社員たちから強烈な反発があったから、私が会長を代表取締役のままにして、ケンジさんを名ばかりの社長にする方法を提案したのだ。
事務として手続きの大変さや会社関係の法律について知っていたから、思いついた方法だった。
ケンジさんが心を入れ替えて真面目に働き、社員全員から認められたら、その時に初めて法的な手続きを開始することになっていた。
逆に、もしケンジさんが社長として不適だとなった場合は解散するか、そのまま会社を廃業する予定で、愛さんと現場長が新会社を開業する準備を進めていたのだ。
愛さんはケンジさんの性格が変わるとは思っていなかった。会長とももこさんは最後までケンジさんのことを信じていたけど、ケンジさんが私を不当解雇したことで目が覚めたらしい。
会長は「経営者になるならしっかり勉強して、社員を大切にしろと何度も言っただろうが」と社長を叱りつける。
でも社長はまだピンと来ていないようで「別に今からでも手続きをすればいい話じゃないか」という。
「いや、もう無理だ。うちの会社はな、希望する社員には自社株を与えていて、大体みんな持っている。ナツキさんは10%を持っているから、うちの主要株主だ。ナツキさんの意見は無視できないし、自社株を持っている他の社員たちだって、お前の味方をするはずないだろう」
少しずつ事態が飲み込めてきたのか、社長の顔色が悪くなる。
「なんだって…。でも俺だって株はあるんだろう」
「ゼロだよ。お前が本当の意味で社長になったら、私の株を渡そうと思っていた。お前には心底がっかりしたよ。どうせ私の余命があとわずかだからと、財産目当てだったんだろう」
会長はがっくりと肩を落とし、ももこさんも悲しそうな顔をして黙り込んでいる。
社長は開き直って「当たり前じゃないか!俺は長男なんだ!もらえるものをもらって何が悪いんだ!会社は俺のものだ!」と言い放つ。
私はもう許せなかった。
「いえ、違います。会社の全責任を持つ代表取締役は会長です。それから私は株主です。株主総会の招集を請求して、社長の解任を求めることもできるんですよ」
解任という言葉は理解できたのか、社長は見る見る真っ青になる。
「俺が首にされるかもしれないってことか…くそ…。ただの事務じゃなかったのかよ」
「ナツキさんの言う通りだ。こうなっては誰もお前の味方をしてくれる人はいないぞ。ナツキさんだけが、お前にもチャンスを与えるように言ってくれたんだ」
ももこさんがそこで口を開く。
「ナツキさん、あなたには本当に申し訳ないことをしたわ。息子可愛さであなたに迷惑をかけてごめんなさい。あなたがどうしたいか教えてちょうだい」
私は社長を見る。
「社長、私はあなたの元ではもう働きたくありませんから、このままやめさせていただきます。ただし、退職金はしっかりもらえますし、1ヶ月分の給与も、残業や休日出勤の未払い分もしっかり払ってもらいますからね。労基にも報告させてもらいますし、株主の1人として会社に害のある人物を排除するため、徹底的に戦いますよ」
私がにっこりと笑って言うと、社長は真っ青を通り越して真っ白になった。
私はついでに、愛さんが取引先を回りながらしっかりと新会社の営業をしてきた話をしてやる。ほとんどの取引先が今の会社を見限り、新会社に乗り換えてくれることになったのだ。社員もほぼ全員移動してくれる予定になっている。
「そ、そんな…訴えてやるぞ!」
社長が半泣きで脅してきたが、会長が一蹴する。
「代表取締役は私だ。お前にはそんな権利はない」
すると社長はついに立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。私は何とも言えない気分だ。
「社長、戻ってきた時に心を入れ替えて働けば、こんなことにはならなかったのに。残念ですね。何度もやり直せたし、調べたり勉強したりすれば分かる機会はあった。チャンスを棒に振ったのは、他でもない社長自身です。完全な自業自得ですよ」
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その後、結局会長は会社を廃業し、ケンジさんは無職になった。
社長の奥さんと強制下着の販売を始めたが、全く売れず。悪質な訪問販売で通報され、ついにはマルチ商法で逮捕されたそうだ。愛さんが用事で実家へ戻った時、強制下着の入ったダンボールがいくつも残っていたらしい。
娘さんはどこか別の会社に就職したようで、詳しいことは分からない。
私は愛さんと現場長の新しい会社に務め出し、毎日楽しく働くことができている。これからも人との縁を大切に、私は真面目に生きていきたいと思う。



