あの日、俺は婚約者の今日子と一流フレンチの個室でディナーを楽しんでいた。ところが、突然スマホが震え、画面には“吉井部長”の文字。出るなり、第一声がこれだった。「お前は左遷だ。社長命令だ。明日から会社に来るな」って。呆然とする俺をよそに、部長は勝ち誇ったように続けた。「お前の職務怠慢が社長の耳に入ったんだ。調子に乗った報いだな」と。でも、俺には分かっていた。社長が、そんな連絡をこの部長に頼むは…

あの日、俺は婚約者の今日子と一流フレンチの個室でディナーを楽しんでいた。ところが、突然スマホが震え、画面には“吉井部長”の文字。出るなり、第一声がこれだった。「お前は左遷だ。社長命令だ。明日から会社に来るな」って。呆然とする俺をよそに、部長は勝ち誇ったように続けた。「お前の職務怠慢が社長の耳に入ったんだ。調子に乗った報いだな」と。でも、俺には分かっていた。社長が、そんな連絡をこの部長に頼むは...

「おい、大変だぞ。今社長から連絡をもらったんだが、お前は左遷だそうだ。」
彼女との外食中、突然かかってきた電話で、部長にそんなことを言われた。
「え、俺が左遷?」
「そう、左遷。左遷な。とにかく明日から会社に来るなって。社長からの伝言だよ。」
「もう、それ本当に決まったんですか?」
「当たり前だろう。社長命令だから決まりだよ。」

事態が飲み込めずに混乱する。どこから突っ込み、何をしたらいいのか検討もつかない。ただ唯一俺の中ではっきりしていたのは、社長が部長にそんな連絡をするとは考えられないということだった。

「お前の職務怠慢が社長の耳に入ったんだ。課長に昇進して調子に乗った報いだな。だから俺は仕事を舐めるなと口を酸っぱくして言っていたんだ。」
「そうですか。けど、どうしても信じられなくて。」
「受け入れたくないのは分かるが、お前は左遷。それが現実だ。」
「お手数ですが、テレビ電話に切り替えてもらえませんか?それで社長に直接間違いないか確認していただけますか?」
「は?お前は何を言ってんだ?俺を上訴に批判し、欺いたのか?」

怒り狂った部長だったが、テレビ電話に映し出された人物を見るなり、言葉を失い、惨めな最後を迎えることになる。

俺の名前は立花新一郎。31歳の大手化学メーカーに務める会社員だ。

大学卒業以来、俺は順調に社会人人生を歩んでいる。第一志望の会社の内定が取れなかったというのはスタートの時点での不安要素だったが、それはすぐにどこかへ消えていった。仕事をするようになると、意外なほど会社が自分に合っていた。安直と言われようが、他の言い方が思いつかない。ただ、そのぐらい仕事に対して苦手意識も嫌な思いもせずに過ごしてきたのだ。

「課長、会議の時間変更を頼まれたんですが。」
「ああ、そうか。何時にして欲しいって?」
「15時からに。開発チームの戻りが遅れるらしいんです。電車の遅延で。」
「じゃあ、開発の希望通りに。」

昨年の春、俺は企画開発部署で課長に就任した。企画開発系では、会社最年少での課長昇進。

「ここは実力主義の会社だ。君の昇進に、君の能力の他に影響したものは何もない。そこを理解して、余計な声には耳を貸さないように。」

昇進後もなく、上司がこんな激励の言葉を送ってくれた。最年少での課長職への抜擢。年功序列を無視した形になった人事。それに対して祝福を与える人もいれば、嫉妬の視線を投げつける人もいる。だが、俺の昇進はここまでの成果と持っている能力を考慮しての結果。何も気にせず、俺は堂々としていればいいと上司はアドバイスをしてくれたのだ。

「課長、工場から納期について前倒しの相談がありました。」
「納期が早められるの?」
「そのようですね。その件で課長の納期設定に余裕があったおかげだと。」

上司の言葉を胸に、俺は堂々とこれまでと同じ仕事を心がけた。無理をせずに周囲を見ながら。俺に分かりやすい肩書きがついてから、後輩たちは皆、部下になった。しかし、それも気にせず、話を聞きながら今までの付き合い方を保っている。だからと言って、本当に全てが今まで通りと思ってはいない。俺の課長就任が、少なからずとも誰かの心に波を立たせたことはあるのだろうと考えてもいた。

「立花、お前のところから上がってくる進捗管理が分かりづらいんだよ。」
「え、ちょっと見せていただけますか?」
「ああ、手元にないよ。もう他に回してる。」
「いや、でもご迷惑をおかけしているのなら。」
「ご迷惑も何も、ないものはないんだよ。」

俺の直属の上司である吉井部長との噛み合わない会話。部長の嫌味な表情に、またかと思う。

吉井部長は、上司の言葉にあった「余計な声」を俺の耳に入れようとする人だった。50代前半で、元は研究部門に所属していた学者肌の人だ。会社直属の研究所から本社に転勤し、叩き上げのようにして企画開発部門の部長職まで登ってきた。頭が切れて集中力が高く、数字にも強い人だが、とてつもなく負けず嫌いな性格である。長所は長所だが、その過剰なまでの負けず嫌いのせいで、他人を妬み、すぐに行動へ移してしまう。

「大体、若いからいい加減なんだ。」
「あの、何かあれば、小さなことでもご指導ください。」

部長が最年課長の俺を嫉妬の対象にしているのは明確だった。俺が部長のデスク近くに座るようになってから、俺は何でもないことでイチャモンをつけられて呼びつけられた。後輩を連れて昼食に出ようものなら、「贅沢だ」と背後からぼやかれる。

吉井部長なりの向上心が変な方向に曲がって出ている。気にするまでもないのだろうが、気にならないと言ったら嘘になる。大人げない人だと思うようにしてはいるが、自分の上司であるので派手に言い返すわけにはいかなかった。

「資料を用意してなかった、っていうのは言い訳なのか?」
「すみません。」
「そんなの言い訳じゃないよな。ただのミスだろ。」

そんなある日、出張中に後輩の1人がミスをしたと知らせを受けた。連絡をくれたのは別の後輩だ。だが、それを聞いてすぐには腑に落ちなかった。ミスをしたと言われている後輩は、仕事ぶりが丁寧で有名な男で、気も優しく、わざとやらかすというのも想像できない。

出張から戻った俺は、真相を知りたい一心で後輩や同僚たちに話を聞いて回った。

「そもそもよ、指示ミスをしたんだと思うよ。」
「指示?」
「取引先とのただの打ち合わせだって伝えて。『正談前の打ち合わせだ』って言ってなかったみたいなんだよ。」

後輩のミスは、取引先との正談の場で起きていた。後輩は事前に指示されていた計画表や見積もり、資料の用意をしていなかったと部長から責められていたのだ。しかし、そもそも部長の指示が間違っていた。同期が後輩に確認したところでは、部長は後輩に「取引先との話し合いの席は正談ではない」と言っていたようだ。「定例の打ち合わせだから新たな書類の類いは不要。過去のファイルさえあればそれで十分」と後輩を欺いていたというのだ。

「それ、本当か?他に人たちにも確認していいか?」
「ああ、もちろん。みんな今回のことは首をかしげてるからな。」

俺は同部署と、正談について把握していそうな部署を回って話を擦り合わせた。その結果、誰もが吉井部長の行動がまずかったと口を揃えた。

「お前のせいで、俺が頭下げて回らないといけないんだよ。大体、取引先と打ち合わせって言われたら、気を利かせるのが筋だろうが。」
「申し訳ありません。私の確認不足で。」
「ああ、そうだな。全く分かってるか?お前のせいで会社が儲からなくなるんだよ。いいよな。若いから気楽で。」
「そんなことは。」
「おい、口答えか?あのな、若いからって謝れば済むと思ってるんじゃないぞ。お前の代わりはどこにでもいるんだよ。」

俺を見て、正式に部長に抗議をしようと考えていたが、その前に俺の我慢が限界に達した。相談の経緯について部長に説明しようとしていた後輩が、部長に激しく叱責されたのだ。後輩の背中が縮んでいくのを見ながら、俺はいつの間にか席を立ち、部長の前に歩み出ていた。

「部長、今回の件は、元を辿れば部長の説明不足に端を発しているんじゃないですか?」

いきなりはっきりと物申したのには、自分で驚いた。だが、それ以上に部長と後輩が目を丸くしていた。

「部署内と他所の関係者からも聞きました。吉井部長は彼に、今回の取引先との話し合いは打ち合わせだから書類の準備は必要ないと言ったそうですね。」
「何言ってるんだ。彼に正談だとは一言も伝えていない。」
「必要書類の作成も命じていなかったと聞いています。関係者の皆さん、同じように証言しています。」

吉井部長に謝罪を求めるまではしなかったが、部長に非があるのではないかという意思は伝えた。正直、部長が素直に謝罪するはずはないと踏んでいた。だが、後輩への叱責はこれで収まると、俺はどこか楽観していた。

「なるほどな。上司がそうやって調子に乗ってるからなんだな。その部下が仕事を舐めてかかるのは。」
「俺の反撃にしばらく黙っていた部長だったが、気を取り直したかのようにもう一度声を強めた。」
「どうだ?お前が取引先を下に見てるからなんじゃないのか。おまけに人の揚げ足取りしか考えず、ミスを認めようとしない。」

部長の言い分は、俺への当て付けや開き直り、自分の行いへの逆切れ。そんなところだった。しかし、怒りを最大限に爆発させて、窮地を乗り切ろうという部長の思いつきは、想像以上に効果があった。

「頭の下げ方を教えるのも、上司の勤めなんだよ。礼儀と常識も教えられないで、何が課長だ。」

部長の怒号と大声に、誰もが仕事の手を止めて振り返る。いつの間にか隣接する部署の辺りも、見事なまでに静まり返っていた。怒りがぶつかり合ったら、声が大きい方が有利だ。部長は自分の思惑通り、周囲の視線を集めていた。

「すみません。今日はこれで。ご指摘の件に関しては、私もフォローして対応しますので。」

部長に付き合っていれば、立場が悪くなるのは自分と後輩。俺はひとまず部長に頭を下げると、後輩の背中を叩いた。

「分かればいいんだよ」と勝ち誇った笑みを浮かべる部長の前から、静かに引き取る。

「課長、申し訳ありませんでした。」
「いや、こちらこそ申し訳ない。もう少し部長に反論できると思ってたんだけど。」
「いえ、ありがたかったです。」

俺はほっとした表情の後輩にも謝った。助けを出すつもりが、情けない形で失敗した。もし何か後輩に償えるとしたら、それは仕事で返すしかない。

俺は部長にも宣言した通り、問題の元になった案件の支援に回り、行く末を見届けた。なんとか後輩へのフォローの業務は無事完了し、ひとまずは胸を撫で下ろす。最後は周りが一体となって仕事を手伝ってくれて、大いに助かった。みんなが頑張る姿は、とどまることを知らない吉井部長への抗議に見えていた。だが、それがあって、最後は想定以上の爪痕を残す結果を出せた。結果的に、部長に対していい仕返しになっただろう。

「仕事、大変なんでしょう?」
「それはまあ、楽なことはないと思ってるから。」

激務の日々を潜り抜けた久々の休日。心配ごとに邪魔されない休日というのは、本当に久しぶりだった。心の底から楽しめる休日に何をするか。それを考えた時に思い浮かんだのは、彼女との時間だった。俺は忙しくて連絡も取れなかった彼女の今日子に詫びると、これもまた久しぶりのデートの約束を取り付けていた。

数週間ぶりに会った今日子は、俺を労わり、いつものように優しく話を聞いてくれた。

「期待されるって、難しいんだな。嬉しいだけじゃないって、やっと分かったよ。」
「そうだね。自分の感覚と他人の感覚は違うっていうのもあるだろうし。」
「うん。昔は、子供とか学生時代は、褒められることは純粋に嬉しかったけど、大人になるとそうはいかないな。褒められるにも裏があると思ったりして。」
「そんな感じだな。」

今日子は、柔らかく見えるが芯の強い女性だ。都内のデパートに務めていて、化粧品売り場でチーフとして活躍している。言うことは言うし、理不尽には果敢に声を上げる。友人の紹介で知り合ったのは3年前だが、最初はとても苦手な子だった。じっくり考えて、納得するまで議論を尽くす女性。一方、俺はどちらかといえば、時に周りに流される癖もあるタイプ。だから今日子との会話が深くなるたびに、最初は言葉足らずな自分を思い知らされた。

「でも、新一郎はちゃんと考えられるじゃない。一時の思いつきに左右されないし。」
「そうかもしれないけど。」
「そうなんだよ。それなら新一郎は、じっくり考えてその考え通りにやっていけばいいんだよ。」

今日子は少しずつ、俺を成長させてくれる人。しっかりと向き合う人間だから、俺のことも隅々まで見てくれていた。自分が何をどう考えて動くのか。俺はそれを今日子から教えてもらったと思っている。

「それで、今日はこれからどうする?」
「行きたいところがあれば任せるし、何もなければ家に帰ってのんびりして、夜は約束のディナーに行くっていうのはどう?」
「ああ、映画見たいって思ってたけど、家でのんびりして出かけるのもいいね。」

今日子に励まされながら、これと言って何もない日のプランを行き当たりばったりで決める。幸せな時間だと浮かれていたが、そこに不意に現れて水を差された。

俺が今日子と一緒にいたように、部長も家族連れで。奥さんと2人の子供がそばにいた。

「おい、立花じゃないか。」
「あ、どうも部長。こんにちは。」
「おお、偶然だな。」

嫌味な笑みを浮かべた部長は、するりと俺に近づいた。

「なんだ?彼女か?」
「ええ。はい。」
「ふん。お気楽にデートとは。お前、本気で調子に乗ってるんだな。少しはミスと自分のことを反省したらどうなんだよ。」
「はい。それはどういう意味ですか?」
「だから、この前のミスと、お前の監督不行き届きについてだよ。お前が仕事を舐めても構わないって部下に教えてることについてだ。」
「お前のせいで会社がどれだけ迷惑被ったと思ってるんだよ。」

部長は、俺のそばに今日子がいるからなのだろうが、それはもう嬉しそうにまくし立てていた。俺よりも今日子に向かって、俺をこき下ろす。

「お前は、どうせ上のご機嫌取りでもしたんだろう。そうじゃなかったら、お前みたいな小賢しい若造が出世するなんてありえないからな。」

ふと隣を見ると、今日子が何か言いたげに口を歪めていた。俺はそれを手で制して、部長の好きなように語らせた。

「な?仕事よりも女が大事っていうような奴だもんな。そんなことじゃ、この先はないぞ。」
「そうですか。」
「ああ、調子に乗れるのも今のうちだよ。せいぜい楽しめよ。」
「それはそれは、貴重なご意見をどうも。」
「本気でそう思ってるか?まあ、好きにしてろ。そのうち落ちぶれるかもしれないんだからな。」

部長は言いたい放題を尽くして、今日子に軽く一礼すると、家族のところへ戻っていった。俺は部長に慣れているから呆れるだけだったが、今日子はそうではなかった。部長の言動を失礼だと一刀両断し、珍しく直接的に怒っていた。

「あの人、本当に部長なの?あんなの、ただのパワハラじゃない?」
「ああ、そうかもしれないけど、うまく隠して立ち回ってるんだよ。上司の前では礼儀正しく、とかそんなところでね。」
「ますます気分が悪いわね。」
「そういう人は多いよ。慣れというのも怖い。」

俺は今日子のように、部長へ素直に怒る気持ちにはなれなくなっていた。部長とのやり取り一つ一つにこだわって怒るぐらいなら、自分のすべきことに集中している方がいい。その考えが当たり前になって、やり過ごすようになった。だからなのか、俺は悔しそうにしている今日子を、逆に慰めた。

それからディナーの時間まで家にいようと思っていたが、今日子が見たがっていた映画に付き合うプランを選んだ。嫌な時間を楽しさで打ち消して、ディナーには笑顔で臨もうと、気持ちを切り替えたのだ。

映画を見て時間を潰し、予約の時間の前にディナー会場の店に入る。以前から今日子が行きたがっていたフレンチレストランで、俺たちは個室に通された。

「すごいね。写真のままの雰囲気。」
「確かに、一流店は違うね。」

他愛のない話をしているうちに、俺のスマホが震えた。ポケットから取り出すと、ディスプレイには「吉井部長」の文字。

放置するのも面倒だと思い、今日子に断って電話に出る。

「おい、立花か。手短に言うぞ。」

俺が声を発する前から、部長は前のめりで切り出した。

「ああ。はい。あの、手短に済むなら助かります。」
「そうか。まあ、俺もお前なんかと長々と話したくないんでな。」

電話口に部長の鼻息が残った。すると、そのまま笑いを含んで部長が俺に告げた。

「じゃあ本題。今さっき、お前の話を社長にしたんだよ。これまでの問題の数々を。それで社長が、お前を左遷するって決めてさ。だから、明日からお前は出社しなくていいって。」

「え?はい。左遷ですか?」
「そう。左遷。左遷な。とにかく明日から会社に来るなって。社長からの伝言だよ。」

話の流れも掴めず、部長の言うことの意味も分からず呆然とする。どこから突っ込み、何をしたらいいのか検討もつかない。

「あの、私が左遷される。それ、本当に決まったんですか?」
「うるさいな。社長命令だから決まりだよ。」

でも、そんな左遷だなんて。はっきりと「分かりました」と言うべきか。とにもかくにも、明確な返事ができない。俺は一流フレンチの個室内で、知らず知らずのうちに電話を耳に当てて、挙動不審に動き回っていた。

「失礼するよ。」

あ、俺が部屋の扉近くに立つと、ちょうどウェイターに案内された待ち合わせの相手、今日子の両親がやってきた。とっさに電話口を塞ぎ、今日子の両親に頭を下げる。その瞬間、一つ思い付いた。

「あの、部長、今、私は社長と一緒にいるんです。」

俺は今日子の父親であり、勤務先の社長に、話の筋が見えるように意識して、部長に話しかけた。

「はあ?お前、何言ってんだ?」
「あの、お手数なんですが、ビデオ通話に切り替えてもらえませんか?それで、先ほどの私の今後についての処遇を、社長にご確認いただきたいんです。」

私の左遷について。さすがにまだ信じられないので。俺は必死で、社長へも語りかけていた。俺の身に何が起きているのか、とりあえず左遷という言葉だけ聞いてもらえればいい。

「あの、とにかく今からビデオに切り替えますから、お願いします。」

俺がスマホを操作するのを、社長は興味深そうに見ていた。電話が繋がったら真っ先に自分に画面を向けてくれと言い、背筋を伸ばす。

「もしもし。」
「ああ、なんだよ。バカなこと言い出して。」

ビデオ通話に切り替わるなり、画面には眉間に皺を寄せた部長の顔が大写しになった。部長は最初こそ気怠そうだったが、自分の画面に移っているであろう社長の顔を見るなり絶句した。

「立花君から左遷と聞こえたが、私の息子が何かしたのかね?」
「息子?息子?」
「ああ、立花君はこれから、私の息子になるんだよ。」
「はあ?これから息子になる?」
「私の娘と立花君が結婚するんだ。だから、これからは彼が私の義理の息子だ。分かったかね?」
「あいつが、立花が?」
「ああ、そうだ。」

社長は俺に代わって、吉井部長に全てを説明してくれた。俺の彼女であり、今は婚約者でもある今日子は、勤め先の社長の長女だ。昨年末のプロポーズから、それぞれの両親に挨拶をして、今は結婚式に向けて準備を進めている最中である。婚約をしてからというもの、社長夫婦と今日子と俺の、未来の家族との食事の回数は多くなった。部長がとんでもないことをしでかしたこの日も、たまたま食事の予定が入っていたのだ。

社長は、部長のように手短にではなく、部長に俺と今日子の関係も説明していた。ただ一つ、俺にとって誤算だったのは、社長が今日子との婚約まで話してしまったことだった。婚約に関して、俺は公表することを望んでいなかった。社長は俺と違い、娘の婚約を早く知らせたがっていたが、俺が周囲に気を使わせるのは申し訳ないと思い、渋っていた。会社が落ち着いている反撃のタイミング。そこまで待って、俺と今日子の婚約を発表してもらうつもりだったのだ。

社長が発表したくなるその気持ちは分からないでもなかったが、社長よりも身分も地位も低い自分としては、どんな場合であっても、先に言って欲しくはなかった。近いうちに家族になる、義理の父になる人への、俺の心中は複雑だった。

「君は一体、どういう経緯で立花君へ左遷と言ったんだ。私は何も聞いていない。」
「いや、あの。」
「それとも、社内で私へのクーデターでも起きているのか?」
「い、いいや。そんな、クーデターなど滅相もない。あの、私はただ、なんだね。立花は我が部署の課長として不適格だと考えておりまして。」
「ふん。やれやれ。」

俺ならば、安直な考えが失敗に終わってしまったら。あるいは、こんな状況になってしまったら、何もかも諦めて謝り、自分の将来がなくなってしまっても仕方がないと受け入れる。しかし、部長は粘り続けるという選択をしたようで、不機嫌な社長へ引きつりながらも笑顔を浮かべて、俺への不満をもらした。

「前日の取引先とのトラブルは、報告に上がっていると思いますが、その原因は立花の監督不行き届きが原因です。彼が部下に対して適切な指導や指示を怠った。そのせいであのようなミスが発生しました。」
「ほう。そうかね。」
「もしあのミスが発端になってしまえば、我々はどれほどの損を出したでしょうか?それを思うと、私は今でも背中が冷えるんです。」
「なるほど。」
「彼は若さに溺れています。ですから、仕事に対して敬意がない。今回のミスも含め、全ての部分が課長として足りていないと。私ですらそう思っているわけですから、社長も同じ考えかと。それで、差し出がましいですが、彼に処分を言い渡そうかと。」

部長は思いの外、達者だった。自分の考えに自信があるのか、不思議なほどだ。もし仮に滅多なことであっても、滑らかに動く口は見事だった。

「君の意見は分かったよ。」
「ああ、それでしたら。」
「が、君は自分のミスに気づいていないようだね。」
「ミス?私のですか?」
「今回の件は、立花君が出張中の案件だ。それは随分前から分かっていたことで、案件の性質と監督としての立場を任されていたのも、君だ。何よりも、君はそもそも部長なんだからな。」

社長はうんざりという様子で、大きく息をついた。それからは、部長に言い聞かせるように、言葉尻をくっきりと強調した。

「部下に対して十分な指導と指示を出さなかったのは、君じゃないのか?いや、私はその報告を受けている。」
「それは、何かの手違いかと。」
「いや、君は取引先からの要望を誰にも伝えず、見積もりと資料作成が必要だというのも、誰にも言っていない。それどころか、何もいらないと適当な指示を出したそうだな。」

部長の問題行動について、社長は丁寧に1から説明する。部長を告発する動きは、部長の知らないところで着々と進んでいた。俺も含めた部下たちと、部長と部下たちの間に起きる話の行き違いを不審に思った上司たちからの証言。それが功を奏して、正式な報告として役員や社長に信言されていた。その経過報告はまだだったが、社長の口ぶりから、全てが耳に入ったと分かった。

「君は、立花君が課長になってから、彼の仕事を妨害するような行為をしているそうだな。今回の件もそうだ。君のデスクで止まった連絡報告も、いくつもあるそうだね。総務からの嘆きを聞いたよ。」
「おかしいですね。何かの間違いじゃないんですか?」

社長から少し遅れて、部長の乾いた笑いが響く。

「何がおかしい?」
「ああ、申し訳ありません。それで、君には一体何の権限があるんだ?権限か。君には、私に変わって社員に左遷だのなんだのという権限があるのかね?」
「ああ、ないと思います。」
「処分だのなんだのというのならば、君へそうすべきだと考えていたところだ。」
「それはそれは、どうかご容赦を。」
「いや、容赦はしない。いいか。左遷ならば、君がされるべきだ。」

社長は最後に、部長へ断言した。そして、正式な処分は後日伝達すると言って、部長にそれ以上何も言わせない。

「では、これで失礼する。これからはプライベートな時間だ。電話など、絶対にしないでくれ。」

何かを言いすがる部長を無視して、社長は電話を切った。

「すまなかった。」
「あの、いえ、こちらこそご迷惑をおかけしてしまいました。」
「いや、構わんよ。」

社長は俺にスマホを返すと、俺の詫びを小さく笑った。「気を取り直して」と言うと、ウェイターを呼び、食事の時間を仕切り出す。それからは、スマホも鳴らず、ただただ楽しい時間が過ぎていった。

「立花君、お願いだ。君の望みも、言うことも、何でも聞く。君を全面的に助けるし、応援する。」

翌日、出社するなり部長に泣きつかれた。前日の出来事をどうにか揉み消してほしい。社長の娘の婚約者として、社長と自分を繋いでほしい。部長はとにかく、社内での自分の立場の維持に必死になっていた。あれほど嫌っていた俺に、靴を舐めるような勢いで頭を下げる。

「お願いします。謝罪でも何でもするから、私を助けてくれ。」
「お断りします。」

部長が考え直してやり直す機会は、いくらでもあったと思う。そもそも優秀な人なのだから、嫉妬心など持たずに自分の仕事に邁進していればよかったのだ。身から出た錆だと思いますよ。

俺は追いすがる部長を振り切った。部長も、そこでついに諦めたというよりも、部長を指さしてこそこそという人たちからの圧に耐えられなかったのだろう。いつの間にかフロアから消えていた。

その後、吉井部長は部長ではなくなった。社長と役員から正式な処分が下されて、部長職を剥奪されたのだ。そして、一職員になった上で、地方にある子会社の所長に左遷させ、自分が連発した左遷を自らの身に受けたのだった。

「良かったのか?部長にならなくて。」
「いやいや、おこがましい。まだまだ、そんな人間じゃないよ。」

部長のポストは空席になり、一時は俺に昇進の話が来た。社長からも打診をされたが、俺は辞退した。いくらなんでも、部長になるにはまだ若いだろうし、俺にはそれほどの実績もまだない。周囲からは何かと冷やかされているが、それは愛嬌だと思っている。

ちなみに、空席の部長の席には、公認の人物が来ると決まった。海外支社から帰国する人がその席に収まる。俺はそれが会社と部署にとって最善の選択だと納得している。

俺に必要なのは、自分の研鑚だ。会社のために力になれるように。それから、今日子にとって誇れる夫になるために。心の底から尊敬できる人の指導を受けながら、知識を深めて、人間性も磨いていく。

不満は飲み込み、ただただ前向きな日々を送る。今は、ただそう思っている。

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