スマホの着信履歴を見て、私は深く息を吐いた。夫からの着信が五十件を超えていた。私はわざと数回無視してから、電話に出た。
「やっと出た!ゆい、親族たちがホテルに帰ってこないんだ!電話しても繋がらないし、何か知らないか?」
夫・徹也の焦りきった声が飛び込んできた。私は淡々と答えた。
「あら、今頃気づいたの?大丈夫よ、心配しないで。親族の皆さんは揃って帰国したわ。じゃ、そういうわけだから」
「は?待て待て、何言ってんだよ。みんなが帰国するわけないだろ、俺がいるのに。知らないなら知らないって言えよ」
「やっぱり信じないかしら。じゃあ、これを見てくれる?百聞は一見に如かずって言うしね」
私はスマホを操作してテレビ電話に切り替えた。画面に映る夫のポカンとした表情。そして、その隣に映る私の姿。そのさらに隣には、帰国したはずの義両親と親族全員が並んでいた。
「なんでだよ…なんでゆいの隣にみんながいるんだ…」
「私は最初から冗談も嘘も言ってないわ。確かに親族たちは帰国して、今私の隣にいるの。全員、鬼の形相であなたを睨んでるけどね」
夫が混乱して喚き始めた時、義父が口を開いた。
「おい、徹也。お前は言ってたよな。俺の金でみんなに海外旅行をプレゼントするって。でも実際は、ゆいさんのクレカを盗んで使うつもりだったんだろう?全く、何を考えてるんだ」
「ち、違う!クレカを盗んだなんて人聞きが悪い!ちょっと借りただけだよ。後で返すつもりだったんだ!」
夫は必死に言い訳を並べ始めた。義母も続く。
「夫婦だからって、勝手にクレカを使うなんて本当に情けないわ」
「とりあえず、徹也。日本に帰ってきたら話し合いをしましょう。電話じゃみんなも納得できない様子だし」
私の言葉に、夫はしぶしぶ同意した。
「そ、そうだな…その方が良さそうだ。すぐに帰国するから待っててくれ」
そう言って電話を切った夫から、十分もしないうちに再び着信があった。
「おい!クレカが使えなかった!解約したってマジだったのか?旅行に来る前は確かに使えたのに!」
「あなたが海外に着いたタイミングで解約したのよ。二十四時間前くらいかしらね。あなたが私のクレカを盗むことは予想してたから、先に手を打っておいたの」
「嘘だろ…絶対にバレてないと思ったのに。あと、さっき気づいたんだけど、俺のクレカが偽物にすり替わってた。これもお前の仕業か?」
「大正解。なかなかよくできてるでしょ?あなたは私のクレカを使う気満々だったから、気づかないと思ったの」
「ふざけんなよ!人のクレカを盗むなんてありえないだろう!犯罪だぞ!お前、会社の社長のくせして何考えてるんだ!」
「特大ブーメラン投げないでくれる?あなたが先に私のクレカを盗んだんでしょうが。俺は盗んだんじゃない、借りようとしてただけだ。それに夫が嫁のクレカを使って何が悪い、ってね」
夫は言いたい放題だったが、私は一つの事実を告げた。
「とにかく、このままだと日本に帰れないわね。私は仕事でそっちに行けないから、無理。他の誰かに頼めば?」
「他の誰かって誰だよ!親族はみんな帰国したんだろうが!ここには俺しかいないんだ!さっさと金を送れよ!」
「何言ってるの、徹也。まだそっちに一人だけ帰国していない人がいるでしょう。私の姉、マキよ。あなたの浮気相手でもあるわね」
その瞬間、電話の向こうの夫の声がぴたりと止んだ。私は続ける。
「私は、あなたと姉に復讐するために準備してきたの。あなたがクレカを盗むことだけでなく、親族と海外旅行に行くことも知ってた。今回の旅行を計画したのはあなたと姉だったから、二人まとめて地獄に叩き落としてやろうと思ったのよ。ちなみに義両親を始め、親族たちにも相談済み。全員が私の協力者よ」
「え、いや…実はマキさんもお金を持ってないんだよ。だからこのままだと帰れないんだ。改めて頼むよ、金を送ってくれ」
「ごめんなさいね。姉がお金を持っていないことも想定済みなの。だって徹也は姉に何でも買ってあげてたでしょう?私のクレカを勝手に使ってね。だから旅行費も徹也が出すと思ってたの。このままだと海外に閉じ込められるわね。姉と二人きりになれるから、いいんじゃない?」
ようやく自分の立場を理解したのか、夫は完全に沈黙してしまった。しばらくして、恐る恐るといった様子で口を開く。
「あの…ゆいさん。いや、ゆい様。なんとかならないでしょうか。このままだと俺たちは日本に帰れないわけで…先ほどは大変失礼な発言をしてしまい、申し訳ございませんでした。どうか助けてください」
見事な手のひら返しだった。私は笑いをこらえるのに必死だった。だが、こうなることは想定内だ。私は次なる計画を実行する。
「仕方ないわね。じゃあ、私の知り合いにホテル経営者がいるから連絡してあげる。ちょっと待ってて」
そう言って一旦電話を切り、秘書の山本さんにホテルへ連絡を入れてもらった。山本さんはいつものように迅速に対応してくれ、数分で夫に折り返すことができた。
「なんとかなったわよ。今から伝える場所に行ってちょうだい。そこで皿洗いをしたら、特別に支援してくれるそうよ」
「そっか…ありがとう。俺、頑張るよ。じゃあ明日にはそっちに帰るから」
「え?何言ってるの?明日帰れるわけないじゃない。一ヶ月よ。一ヶ月、皿洗いしてきなさい。じゃあ、頑張ってね」
「い、一ヶ月?!そんなの聞いてない!おいおい、電話を切るな!」
私はお構いなく電話を切った。案の定、大量の着信が入ったが、そっとスマホの電源をオフにした。このまま簡単に帰国させてしまっては気が済まない。夫と姉には自分の行いを後悔させる必要があるのだ。
そして、私が次に電話に出たのは一ヶ月後だった。夫だけでなく、姉も怒り狂っていた。
「ゆい!お前ふざけんなよ!地獄のように忙しかったじゃねえか!」
「毎日のように怒鳴られたわよ!英語だったから何言ってるのか分からなかったけど、あんたのせいでひどい目にあったわ!」
「まあ、すごく有名なホテルだからね。っていうか、むしろ感謝してほしいんだけど?二人きりにさせてあげたんだから。そのまま海外に永住してもいいんじゃない?」
「ふざけるな!こっちこそ覚悟しておけよ!俺たちはただでやられないからな!お前の思い通りにはさせない!」
「そうよ!なんだかんだ言っても親族の皆さんは私たちのことを信じてくれるはずよ!こんなこともあろうかと、親切に接してきたんだから!」
そう言い残して、電話は一方的に切られた。夫と姉は親族に本性を隠してきたので、うまく言い訳すれば逃げ切れると思っているのだろう。だが、どれだけ逃げようとしても無駄だ。私は全て知っているのだから。
それから私たちが合流したのは、二週間後だった。期間が空いたのは、私に協力してくれた親族たちに温泉旅行をプレゼントしたので、その帰りを待っていたのが理由だ。親族たちは温泉旅行を気に入ってくれて、お土産を買ってきてくれた。ただし、夫と姉の分のお土産はなかった。二人を許さないという意思表示なのだろう。
夫と姉は無事帰国したようだが、余裕の笑みを浮かべていた。親族と対面した二人は、早速言い訳を並べ出した。
「父さん、母さん、俺とマキさんは浮気なんてしてないよ。俺にはゆいっていう大事な人がいるんだから」
「妹が勝手に言っているだけですよ。憶測です、憶測。私と徹也さんは仲がいいですからね。焼きもちを焼いているんですよ」
まるで台本を読むかのように、二人は口を揃えて浮気を否定した。しかし、私から事情を聞いている親族たちは、呆れた様子だった。
「俺と母さんも信じたかったんだがな。ゆいさんのクレカを盗んでいたお前を、簡単に信じることはできなくなった」
「この話は誤解があるよ。俺とゆいは夫婦なんだからさ。俺がゆいのクレカを使ったっていいじゃないか。それに前にも言ったけど、クレカは盗んだんじゃない。借りただけなんだ。後で返すつもりだったんだよ」
「よくもまあ、ここまで平然と嘘をつけるものだ。借りたとしても、後で返すなんて絶対にしないくせに」
私は心の中で思ったが、それを証明することはできないので何も言わなかった。私が黙っているのをいいことに、夫は自信ありげに話を続けた。
「ほら、俺とマキさんはゆいの会社で働いてるだろう。部署も同じで経理担当だ。だから毎日のように顔を合わせるし、自然と話す機会も多い。仕事終わりに飲みに行ったりもしたけど、それって普通でしょ?それをゆいが勘違いして浮気って言ってるだけです。そうですよね、マキさん?」
「ええ、そうですよ。お父さん、お母さん。ゆいは小さい頃から焼きもちを焼くことが多かったんです。学生時代も、ゆいが好きになった人と話しているだけで怒ってましたから。私が全然その気じゃないって言っても聞かなくて…困った妹ですよ」
私は、夫が言う通り、アパレル関係の会社を立ち上げて社長をしている。姉には起業当初から経理としてサポートしてもらっていた。そんな私の会社に入社した夫と私は結婚し、力を合わせてやってきたつもりだった。
「ゆいはさ、ちょっと神経質なんだよ。大体、証拠もないのに浮気を疑うなんてたまったもんじゃない。今すぐ訂正してくれ。証拠もないのにね」
私は静かに言った。
「なぜ私がクレカを盗まれることを知っていたか、考えなかったの?」
自信ありげだった夫の顔に、疑問が浮かんだ。それと同時に、私は待機していた人物を呼び出す。秘書の山本さんだ。山本さんはいつものようにキビキビとした動きで、私たちの前に数枚の書類と写真を並べた。その瞬間、夫と姉の顔色は一瞬で青ざめた。
「山本さんはね、本当に優秀なの。だから私、徹也とお姉ちゃんの監視をお願いしていたのよ。元々は浮気のための監視じゃなかったけどね」
並べられた書類には、夫と姉の行動の記録。写真には、浮気現場がばっちりと映っていた。これはすでに義両親にも見せているので、夫と姉がどれだけ浮気を否定しても呆れるばかりだった。
「卑怯だぞ、ゆい!秘書を使ってこそこそと!」
「勝手に人のクレカを盗んで、姉と浮気するのは卑怯じゃないのかしら。ホテルで皿洗いしている時も、姉といちゃいちゃしてたんでしょ」
追い打ちをかけるように、私はスマホに保存している動画を再生した。そこには、夫が姉といちゃいちゃしている姿が映っている。実はホテルの経営者にも頼んで、監視と撮影をしてもらっていたのだ。海外で気分が解放的になっていたのか、動画内の二人の顔はゆるみきっている。それとは対照的に、目の前にいる二人の顔はガチガチに固まっていた。
義両親が怒りをあらわにする。
「言い訳ばかりしよって!徹也、マキさん、自分が悪いことをしたという自覚はないのか?もし自覚がないというのなら、本当に情けないことだぞ!」
「なんで浮気なんてしたのよ!ゆいさんは立派に働いているし、家事だっておろそかにしたことないでしょ!」
義両親の問いかけに、夫と姉は下唇を噛みながら俯いた。重苦しい空気が広がっていく中、もう言い逃れができないと思ったのか、二人は明らかに開き直った様子だった。
「俺もゆいは立派だと思うよ。でもさ、気づいちゃったんだよね。ゆいは俺がいなくてもいいんだって。やっぱり嫁っていうのは、夫を立ててなんぼって言うか。その点、マキさんは俺のこと分かってくれるし。正直言うと、マキさんと結婚したいんだね。マキさんも俺と同じ気持ちですよね?」
「ええ、そうね。妹に徹也さんはふさわしくないわ。学生時代は勉強だけ。大人になったら仕事だけだし。男性の気持ちなんて分からないのよ。あんたは浮気されても仕方ないの。浮気されるあんたが悪いの」
二人の本音は、義両親の怒りをさらに高めた。義父は血管が浮き上がるほど怒り、義母は体を震わせている。
「ふざけるなよ!浮気する方が悪いに決まっている!自分たちの都合だけでゆいさんを傷つけるなんて、どう考えてもおかしいだろう!それが家族に対してすることなのか!お前らに感謝の気持ちはないのか!」
「本当にありえないわ!恩を仇で返すにも程があるわよ!すぐに謝罪しなさい!」
「そんなに暑くならないでよ。夫婦が離婚するなんて、世の中に溢れてるんだから。それに、ゆいは俺と離婚して独身になったらしいじゃないか。ゆい本人も俺との関係を断ち切ったんだから、マキさんと結婚したっていいじゃないか」
「そうですよ。それに、ゆいの会社で働いているのは、ゆいが私たちに助けを求めたからです。どうしてもって言うから手伝っていたんですよ。だから感謝されるのは私たちの方です。何も知らないで攻められるのは気分悪いですね」
その直後、夫の体が激しく床に叩きつけられた。とうとう義父が夫に掴みかかり、投げ飛ばしてしまったのだ。ドスンと音を立てて夫が床に倒れ込む。それと同時に、親族たちが立ち上がって夫と姉を取り囲んだ。
「徹也、お前を勘当する!マキさんも、二度と俺たちに関わらないでくれ!ゆいさんの気持ちを考えると、お前たちを一生許せそうにない!会社もやめろ!すぐに辞表を書け!」
「いってえなあ…そういうのうんざりするよ。分かった。喜んで縁を切ってやる。もうあんたらにごまかされるのも面倒だと思ってたんだ。俺はマキさんがいればそれでいいし、俺たちなら次の会社だってすぐに見つかるからね。そっちこそ、二度と関わらないでくださいよ」
「ゆい。あんたもね、もう妹だって思わない。助けて欲しいって言っても助けないから」
油を注ぎ続ける夫と姉のせいで、この場は異様な雰囲気に包まれていた。一触即発で空気がピリピリとしている。でも、そんな中で私だけは冷静だった。私は義両親と親族たちに向き直り、こう告げた。
「皆さん、私のためにありがとうございます。ですが、もう大丈夫です。どうか怒りを収めてください」
「ゆいさん、本当にいいのかい?二人とも全く反省していない。力づくでも分からせるべきではないか?」
「いいえ、その必要はありません。もう何を言っても無駄でしょうし」
私の言葉に、ピリピリとしていた空気は少しだけ緩んだ。私はにこりと微笑み、大丈夫だという意思を伝える。その様子に、夫と姉だけがニヤニヤとした表情を浮かべた。
「やっぱりゆいの思い通りにならなかったな。俺たちを怒らせたお前が悪いんだから、恨むなよ。これでようやくお前ともおさらばだな。調子に乗るからいけないのよ。あんたは私に一生勝てないんだから。じゃあ、徹也さんは遠慮なくもらうわね。残念だったわね、ゆい」
「好きにすればいいわ。でも、最後に一言だけ言わせて。この先何があっても後悔しないでね。ここにいる誰もあなたたちのことを助けないから。泣きついてきても来ないでね」
「最後の最後まで強がりか。後悔なんてしないから安心しろよ。それじゃあ、マキさん、行きましょうか」
結局、夫と姉は私の言葉をまともに聞こうともせず、家から出て行ってしまった。義両親と親族たちも、私が強がっていると思ったのか、心配した表情を浮かべていた。でも、強がりなんかではない。すでに夫と姉は詰んでいるのだ。最後の準備が整えば、二人は嫌でも後悔することになる。その時が来るのを、私は待つだけだった。
それから数日もしないうちに、元夫の徹也と姉から連絡が入った。二人とも今までにないくらい焦っており、すぐに話をしたいと言ってきた。私は山本さんと共に会社で二人が来るのを待った。そして、徹也と姉がやってきたが、顔面蒼白で今にも倒れそうだった。
「ゆい、教えてくれ。いつからだ?いつから知っていたんだ?絶対にバレてないと思ったのに」
二人が焦っているところにお構いなく、山本さんに書類を出してもらった。その瞬間、徹也と姉の顔色がさらに悪くなった。徹也と姉の目の前に並べた書類は、領収書、帳簿履歴、不正な送金履歴、不適切な請求書。これらは徹也と姉が会社のお金を横領していた証拠だ。そう、徹也と姉は浮気だけでなく、会社で不正をしていたのだ。
「どうしてバレてしまったのか?」と答えを求めている二人に、私は順を追って説明した。
「徹也、お姉ちゃん。前にも言ったけど、私は山本さんに二人の監視をお願いしていたわ。監視していた理由は、元々横領を調査するためだったの。その延長線上で、浮気が判明した。浮気よりも横領の方が先に発覚していたってことよ。ちなみに、横領に気づいたのも山本さんで、社員たちの証言を集めてくれたのも山本さんだ。本当に彼女は優秀で頼りになる。私のクレカを盗んで海外旅行に行ってしまうくらいだからね。横領をしていても不思議じゃないわ」
「悪かった。一回だけのつもりだったんだよ。だけど、全然バレないから調子に乗ってしまって…何年かかってもお金は返すから、穏便に済ませてくれないか?これからマキさんと幸せになりたいんだよ。頼むよ」
「本当にふざけた人ね。自分のことしか考えていない。だから平気で人を騙せる。私が徹也を許すわけないでしょう?これだけのことをしておいて、穏便に済ませるなんて笑わせないで。それにね、徹也は大事なことを見逃しているわ。これを見たら、全てが分かるわよ」
山本さんにアイコンタクトを取ると、彼女は別の書類を取り出し、徹也の前に並べた。書類には、姉と男性の姿が映っていた。その男性は、徹也とは別の男性だ。
「徹也、お姉ちゃんと結婚するなんて無理なのよ。お姉ちゃん、あなたのことを捨てる気だからね。その男性はホストで、お姉ちゃんの大本命よ。その人のためにお金が必要だったみたい。横領を持ちかけたのも、お姉ちゃんからでしょ?つまり、徹也はまんまと騙されていたってわけ」
「マジかよ…マキさん、嘘ですよね?俺、マキさんのために頑張ったのに…」
絶望感で満ちた表情で、徹也は姉を見た。姉は下唇を噛みながら、何も言えずにいる。
「別に後悔する必要ないじゃない。徹也さんは今まで通り私のために働けばいい。結婚はできないけどね。それに、あなたも妹を騙していたんだから、文句言えないでしょ」
「ふざけんな!俺がどれだけリスクを背負ってきたと思ってる!マキさんと結婚できるから無理してきたんだよ!その仕打ちがこれか!俺の人生返せよ!」
徹也は必死の形相だったが、姉は取り乱すことはなかった。そんな二人を見て、ふと昔のことが頭をよぎった。起業した当初は、徹也も姉も頼りになる存在だった。私が社長として頑張って来れたのも、二人のおかげだ。でも、それも全部嘘だったと思うと、胸にぽっかりと穴が開いた気分だ。信頼していた人に裏切られるということは、想像以上にダメージが大きかった。それはきっと義両親や親族たちも同じだろう。だからこそ、許せない。人を騙すことを何とも思わない二人には、相応の報いを受けてもらわなければならない。
「横領の弁済と浮気の慰謝料、全額回収させてもらうわね。それまで、今度は私があなたたちを監視します。ちなみに、懲戒解雇にするから、再就職は難しいかもね。でも、安心して。とってもいいホテルを知ってるの。あなたたちはそこで私に監視されながら働くのよ。逃げられると思わないことね」
「ねえ、ゆい、お願いよ。このままだとお姉ちゃんの人生が終わってしまうわ。私たち、家族でしょ?見逃してよ」
「改めて謝罪させてくれ。俺が悪かったんだ。どうかしてたんだよ。冷静じゃなかったんだよ。一度夫婦になった仲じゃないか。頼むよ、許してくれよ」
「二人とも忘れたの?私は忠告したはずよ。『この先何があっても後悔しないでね。ここにいる誰もあなたたちのことを助けないから、泣きついてこないでね』って。もう取り返しがつかないの。お金が問題なんじゃない。一度失った信用を、簡単に取り返せると思わないで」
その瞬間、徹也と姉は操り人形の紐が切れたように、崩れ落ちてしまった。もし二人が最初から罪を認めて謝罪していれば、違った未来があったかもしれない。でも、その未来は二度と訪れることはないと、私は確信するしかなかった。
その後、宣言していた通り、私は夫と姉を海外のホテルに送った。以前と同じように、毎日怒鳴られながら皿洗いからスタートしたらしい。全額回収まで長い時間がかかるだろうが、二人が反省と後悔をするには十分だと思う。ただ、二人が本気で変わろうとしない限り、同じことの繰り返しだろう。
一方、私はと言うと、会社も順調で前向きに楽しんでいる。しばらくは精神的に辛いものがあったが、なんとか立ち直ることができた。そうなれたのも、私を支えてくれている全ての人たちのおかげだ。ありきたりな言葉だが、感謝の気持ちを忘れないこと。それが大切なのだと私は思っている。
私の夫・修平は、突然愛人と義母を連れて実家に現れ、堂々と離婚を宣言した。
「京子、お前、価値ゼロだよな。仕事もしていない上に、不妊だし。というわけで、今日で離婚だ。不要物は捨てないとな」
私は何も動揺しなかった。なぜなら、私は全て知っているから。夫は何も知らない。愛人のことも、自分の立場も。
修平の隣に立つ愛人・ミナは、自分のお腹を誇らしげにさすりながら言った。
「さては嫉妬してるんでしょう?私が修平さんとの赤ちゃんを妊娠してるから」
義母もミナの肩に手を置き、私に冷たい視線を投げかけた。
「京子さん、あなたにはもうこの家での居場所なんてないのよ。修平も言ってたけど、あなたは役立たずだわ。子供もできないし、仕事もしていない。それに価値だって証明できていないじゃない。ミナさんには、修平みたいな若くて美しい女性がふさわしいの。あなたはもう修平の人生には必要ないのよ」
私は静かに口を開いた。
「ミナさん、あなたはまだ理解していないようね。あなたは既婚者なのに浮気している。それを知った旦那さんが怒っているの。その事実をもう一度しっかり受け止めた方がいいわよ」
「そんな嘘信じるわけないでしょ!私は修平さんと一緒になるの!あなたの言うことなんて何の意味もないわ!もうさっさと出ていきなさいよ!」
ミナが再び自分の腹を撫でる。私は微かに微笑み、バッグの中から一枚の紙を取り出した。
「これは不妊検査の結果よ」
その瞬間、三人の表情が一変した。修平は紙を受け取り、驚きと困惑が入り混じった表情で凝視する。不妊検査の結果は、夫の方に問題ありということだった。
「不妊?何のことだ?不妊検査なんて、いつやったんだ?」
「半年前よ。覚えていないの?私たち夫婦で検査を受けることを提案したの。でも、あなたは協力的ではなかったから、なんとかしてあなたの検体をもらって検査を受けたの。その結果、あなたが不妊であることが判明したのよ」
「そんなことありえない!俺が不妊だなんて!」
ミナも焦り始めた。
「これは何かの間違いよ!こんな検査結果、偽造されてるに違いないわ!修平さんが父親に決まってるじゃない!」
「いいえ、これは偽造なんかじゃないわ。地元の病院で行われた正式な検査結果よ。あなたたちもよく知っている病院でね」
修平は立ち尽くし、頭を抱え込むようにして座り込んでしまった。
「お前、なんで今まで黙ってたんだ?」
「話すタイミングがなかっただけよ。あなたは浮気に夢中だったからね。そう、あなたが浮気をしていることを私は知っていたの。あなたが私を避けるようになったあの日から、帰宅が遅くなり、休日も外に出かけてばかりで、私たちはすれ違うようになったわ。最初は何が起きているのか分からなかったけど、あなたの態度が明らかにおかしかった。それで、探偵に依頼してあなたの行動を監視してもらったの。そして、あなたがミナさんと浮気をしていることが分かったのよ」
部屋の空気が凍りついた。私は静かに続けた。
「もう一度言うわね。修平、あなたは不妊よ。そして、ミナさん、その子供、本当に修平の子供なのかしら?」
「違う!修平さんが父親に決まってる!そんなの嘘よ!」
「偽造されたですって?この検査結果は、あなたたちもよく知っている地元の病院で行われたものよ。もし本当に疑うのなら、今すぐその病院に電話して確認してもらっても構わないわよ」
その瞬間、ミナの顔は真っ青になり、口を閉じた。
「ミナさん、どうしたの?確認してもらえばいいじゃない。あなたに隠し事なんてないなら、病院に確認するのは簡単なことでしょう?ミナ、どうなんだ?なんで黙ってるんだ?あなたは修平の子供を妊娠しているのよね?他の人の子供なんてありえないわよね?」
ミナはその場で震えながら、何も言えずにいた。
「ミナさん、あなたの旦那さんが激怒していたと伝えたわよね。その意味、分からないかしら?私はすでに、あなたの旦那さん・正夫さんと連絡を取っているの。彼はあなたのことをずっと信じてきたと言っていたわ。仕事で家を開けることが多くても、いつもあなたのことを気にかけてくれていたらしいじゃない。でも、あなたはその信頼を裏切り、修平と関係を持ったのね」
「そんなの嘘よ!どうせ作り話でしょ!信じて欲しいなら証拠を見せなさいよ!」
私は静かにスマホを手に取り、通話中の表示を確認した。通話相手はミナの旦那・正夫さん。実は私たちが話し始めたと同時に、こっそりと正夫さんに電話をかけていたのだ。つまり、これまでのやり取りは全て彼に筒抜けというわけだ。
その時、玄関のドアがゆっくりと開く音が聞こえた。正夫さんが静かに、しかし確実な足取りで部屋に入ってきた。
「な…お前というやつは」
「ち、違うの、正夫さん!これは誤解よ!修平さんとはただの遊びだったの!全然本気じゃないのよ!」
ミナは慌てて弁解を始めた。
「寂しかったのよ!正夫さんがいつも仕事でいないから、私は一人で辛くて…それで修平さんと少しだけ…ただの憂さ晴らしだったのよ!」
正夫さんの表情は変わらない。
「君は前にも同じことを言ったよね。その時も君は寂しかったと言って浮気をした。そして、私はその時君を許した。二度としないという約束でね。一度目は許したが、二度目はない。これで終わりだ、ミナ」
その言葉に、ミナは完全に崩れ落ち、その場で泣き崩れた。修平は茫然としていた。
「修平、あなたはずっとこのことを知らずにいたの?ミナが既婚者であり、そして浮気を繰り返していたことを」
「そんなはずはない…彼女が俺を裏切るなんて…」
正夫さんは修平に向き直った。
「修平さん、ミナはこれまで何度も同じことを繰り返してきました。あなたも私と同じように、彼女に騙されていたんですよ」
修平の表情は一変した。彼は震える声で私に話しかけた。
「京子…すまなかった。俺が間違ってたんだ。ミナとは別れるよ。お前とやり直したいんだ」
「修平、やり直すなんて無理に決まってるでしょ。むしろ、あなたに対して慰謝料を請求させてもらうつもりよ」
「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!家事もまともにできず、子供も産めない。お前が何もできないせいで、俺がどれだけ苦労してきたか!それなのに、お前は生意気にも慰謝料を請求するだと?お前なんかにそんな権利はない!」
修平は怒り狂い、私を殴ろうとする仕草を見せた。しかし、義母が必死にそれを止めた。
「修平、やめなさい!京子さんも、少しは我慢しなさいよ。修平だってミナさんに騙されていたんだから」
「お母さんは何を言ってるんですか?修平は私を不妊と罵り、浮気して捨てようとしたんですよ。その結果、修平自身も騙されただけ。私に責任を押し付けるのは筋違いです。そもそも、お母さんにも責任があるんじゃないですか?修平にはミナさんがふさわしいと言って、後押ししていたんですから」
義母は何か言おうとしたが、言葉は次第に弱くなり、黙り込んだ。
「京子、絶対に許さないからな。俺をコケにしたことを後悔させてやる」
修平は怒りのままドアへと向かい、義母も慌てて後を追った。私はその背中をじっと見送りながら、一言も言葉を発しなかった。
「追いかけなくていいの?」
「はい。あのまま行かせましょう。もう何も変わらないでしょうから。それに、放置しても修平は終わりです」
その後、私は弁護士を通じて離婚が成立。慰謝料の請求も無事に済み、私の生活は少しずつ落ち着きを取り戻していた。しかし、ある日突然、修平が私の前に現れた。
「京子…話がある」
修平は弱々しく言いながら私の前に立ち尽くしていた。かつてのエリート社員という彼の面影はどこにもなく、顔は痩せ、服装も見すぼらしくなっていた。目の下には濃いクマがあり、髪も乱れていた。
「俺は仕事を失ったんだ。正夫さんが経営する会社が、俺の勤めていた会社にとって大事な取引先だったんだ。正夫さんは俺の不倫の件で会社に苦情を入れて、それが原因で社内で調査が始まった。その結果、色々と明るみに出てしまって…俺は元々会社で評判が良くなかったんだ。若手社員や女性社員から嫌われていた。嫌がらせの常習犯だとか言われてさ。実際、部下をこき使ってたこともある。俺が結果を出すために彼らを犠牲にしていたんだ。解雇されてから再就職を試みたけど、どこも受け入れてくれなかった。俺の評判はすでに業界中に広まっていて、どこへ行っても扉が閉ざされているんだ」
「それだけじゃない。家の中でも問題が増えた。家事なんて全然できないから、ずっと母さんに頼りっぱなしだった。でも母さんともうまくいかなくなって、毎日喧嘩ばかりだ。全てがうまくいかなくなって、今の俺は完全に落ちぶれた状態だ。そうなって初めて気づいたんだよ。今の京子の大切さに。お前がいれば、俺はここまで落ちぶれなかったかもしれない。頼む。もう一度やり直させてくれないか?お前が俺を支えてくれるなら、俺はきっとまた立ち直れるんだ」
私は心が動かなかった。
「修平、あなたが知らないことがあるわ。私は離婚する直前から、本格的に小説の執筆に取り組んでいたの。あなたがあの時、私のことを馬鹿にしていた小説ね。それがネットで話題になり、書籍化も決まったわ。今の私の収入は、会社員時代のあなたの収入を超えているのよ」
「は?何言ってんだ?そんな嘘をついてまで俺を遠ざけたいのか?俺は本当に反省しているのに、なんで分かってくれないんだよ」
「そうやって私のことを信じないから、痛い目に会うのよ。ほら、通帳を見せてあげるから、確認しなさい」
通帳を手に取った修平は、目を見開いた。そこには、私の言葉が本当であると分かる金額が表記されていた。
「なんでだ?なんで言ってくれなかったんだ?最初から知ってたら、役立たずなんて言わなかった。もっと京子を大事にしたのに」
「笑わせてくれるわね。お金を稼いでいるから大事にするの?私たちは夫婦だったのに、そんなものが基準になるの?そもそも、あなたが浮気をせずに私を見てくれていたら、気づけていたはず。価値ゼロだと見下して捨てようとしていたくせに、今更やり直したいなんて言わないで」
修平は沈黙し、何も言えなくなっていた。私は最後の一言を彼に告げた。
「修平、あなた、私に『不要物は捨てる』と言ったわよね。私も同じ。もう私の人生に、あなたは必要ないの」
彼は何も言えないまま私を見つめ、最後に深くため息をついて、黙ってその場を立ち去った。その姿には、かつてのエリート社員としての姿はなく、ただ一人の敗北者が立ち尽くすだけだった。
ミナは無事に子供を出産した。しかし、それは彼女にとって喜びではなく、さらなる試練の始まりとなった。出産後すぐ、彼女は正夫さんから離婚を言い渡され、子供の親権も正夫さんが持つこととなった。
「もう君を信じることはできない。君が浮気をしたこと、そしてその後の行動全てが、私の期待を裏切ったんだ。君との再スタートはもう考えられない。子供は私が引き取る。子供には、しっかりした家庭で育ってもらいたい」
ミナはその場で崩れ落ち、涙をこぼしたが、その涙は正夫さんを引き止めることはなかった。それから彼女は実家に戻ることになったが、実家に戻ったからと言って生活が楽になるわけではなかった。むしろ、ミナの家族は彼女の行いに激怒し、彼女を責め立てた。出産したばかりだというのに、自由を求めて全てを失った彼女は、実家という狭い枠の中で、厳しく管理される存在となった。
一方、私は再び正夫さんに会う機会を得た。彼の腕には、まだ幼い赤ちゃんがすやすやと眠っている。
「改めて感謝を伝えたいと思っていました。あなたが助けてくれなければ、私は今こんな風に落ち着いて生活することはできなかったでしょう。本当にありがとうございます」
「いや、京子さんが強かったんだ。私が助けたというより、あなたが自分で立ち上がったんだよ。だからこそ、今こうして穏やかに過ごしているんじゃないかな」
正夫さんは少し真剣な表情になりながら言った。
「実を言うと、私がどうして修平やミナを許せなかったのか、もう一つ理由があるんだ。それは、彼らが不妊のことを軽々しく扱ったことだ。出産や妊娠って、当たり前のことじゃないんだよ。私も子供ができるまで色々な苦労をしてきたし、その大変さを身近で見てきた。だからこそ、不妊を馬鹿にするようなことは許せなかったんだ」
私は深く共感した。出産や妊娠がいかに特別で大切なものかを、改めて感じた。
「あなたの赤ちゃん、本当に可愛いですね。命の大切さを改めて感じました」
正夫さんは穏やかに頷き、赤ちゃんをそっと抱きしめた。
「この子を守るために、私はこれから頑張るつもりだよ。どんな困難があっても、家族を守るために」
その言葉に、私は心が温まる思いを抱いた。私もまた、自分自身の人生を新たな視点で見つめ直すことができた。これからは過去に縛られることなく、自分の道をしっかりと歩んでいくつもりだ。
「ミオよ、好きな方を選べ。長男夫婦と同居するか、離婚するかだ。家族の役に立てない嫁は、いらないんだよ。お前に拒否権はないからな」
夫の皇代は離婚届を机に置きながら、私を脅した。隣には長男の巧、長男嫁の陽香がじっと見ている。三人の視線を一斉に浴びた私は、我慢した。我慢して、我慢して、思わず笑ってしまった。
「同居するか離婚するか選べって…そんなの絶対無理なのに」
いきなり笑い出した私に、三人ともドン引きした。
「なんだお前。気でも狂ったのか?拒否権はないって言っただろ。笑ってないで、さっさと決めろよ」
「母さん、空気読めて。はっきり言って気持ち悪いよ」
「強がってるんですよね、お母さん。家政婦としてこき使われるか、離婚して家から出ていくか、どっちを選ぶにしても惨めですから」
「だからどっちも絶対無理なの。だって…」
私は言いかけて閉じた。ここでネタ晴らしするのはもったいない。彼らに最大のダメージを与えたいから。私は全て知っているのよ。覚悟しておくことね。心の中で決意を固めるのだった。
一週間後、私は一歳になる孫の萌々花のお世話をしながら自宅にいた。萌々花はおしゃべりが早く、ぺちゃくちゃと喋り倒している。実に賑やかだ。ただ、彼女が寝てしまうと途端に家の中は静まり返る。なぜなら、この一週間、萌々花の他には私一人しか家にいないからだ。巧も陽香も、萌々花の実の親である二人は、萌々花の世話を私に押し付けて、旅行に行っていた。私への配慮や尊厳が全く感じられない行動だ。せめてお世話を任せるにしても、一緒に連れて行ってくれればいいものを。彼らにとって私は、ただの子守り兼家政婦なのだなと改めて感じる。
「楽しかったなあ、韓国旅行。本当、絶対また行きましょうね」
しかも海外だ。私は行き先すら知らされていなかった。萌々花が元気でいてくれたからいいものの、怪我や病気をしていたらどうなっていたことか。この二人には、親としての自覚が足りないように思う。そして、それを何とも思わない夫も、巧の父として、萌々花の祖父として失格だ。
「ああ?なんだよ、その目つき。気に食わねえな。言いたいことでもあるのか?残念だが、しがない家政婦に発言権なんてないんだよ」
「おいおい、父さん。さすがにまだ旅の余韻に浸ってるのに、台無しにしてくれるなよ」
「そうですよ。きっとお母さんも羨ましいだけですって。ここは一つ、広い心で私たちが許してあげましょう」
妙な上から目線で勝手に一方的に解釈され、勝手に許されてしまった。私を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。その余裕、今に崩して見せるから。
家のチャイムが鳴ったことで、いよいよ反撃の序幕が幕を開けたと私は悟った。私はいそいそとした足取りで来客を出迎える。
「突然のご訪問、失礼いたします。私、皇代さんの同僚である斎藤ひかりと申します。大切なお話があるのですが、皆様お時間よろしいでしょうか?」
「え、斎藤さん…ああ、まあ、そういうことでしたら、どうぞこちらにお座りください」
夫は歯切れの悪い様子で、のろのろとリビングの椅子を進めた。戸惑うのも無理はない。ひかりは確かに夫の会社の同僚だが、部署が違うのでほとんど接点がないのだ。
「こうやって突然驚かせてしまって、ごめんなさい。実はね、ひかりは私の学生時代の友人なのよ。だから私には前もって訪問の連絡があったんだけど、あなたたちはずっと旅行に行っていたから伝えそびれてしまったの。それとね、彼女が用があるのは、あなたではなく巧さんと陽香さんの方よ」
「え、なんだって?俺、こんな人知らないんだけど。人違いじゃない?」
夫は自分が関係ないと知ると、途端に緊張を解いて楽な姿勢になった。巧も顔をしかめ、困惑した表情を見せる。しかし、陽香の反応は二人とは違っていた。急に俯いて黙り込んでいる。心なしか顔色も悪いようだ。
ひかりはそれぞれの反応を確認しながら、淡々と話し始めた。
「私がお話ししたいのは、息子の陽翔についてです。ちょうど巧さんと同じくらいの世代かと思われます。陽翔には美しい奥さんがおりまして、それはそれは幸せそうに暮らしていました。しかし、奥さんは妊娠直後、突然姿を消してしまったのです。私はずっと、息子の奥さんを探し続けておりました」
「深刻な話であることは分かったんだが、それでなぜうちに来たんだ?」
「父さんの言う通りです。俺は陽翔さんとも面識がないですし、その話を聞いたところで、無関係の俺たちが力になれるとは思えません」
「いいえ。無関係ではございません。そうですよね、陽香さん?」
ひかりは鋭い目差しで陽香の方を見た。陽香はびくっと跳ねる。
「実は、陽翔の奥さんとは、今私の目の前にいる陽香さんのことなのです。本当は私が来た時点で名乗りをあげて欲しかったのですが、あなたは俯くばかり。残念ですね」
「え…確かに斎藤さんが来てから、陽香の顔色も悪いし、様子がおかしいとは思っていたが。斎藤さんを知っていたからだったのか。陽香、本当なのか?俺と結婚する時、初めてウェディングドレスを着れて嬉しいって、そう言ってくれたじゃないか。あれは嘘だったのか?」
「し、知らない!こんなおばさん見たことないし!私は人見知りだから、急に他人が来てびっくりしただけじゃん!巧もお父さんも、こんな人の言うことちいち真に受けないでよ!」
陽香は机を叩きながら叫び、巧に泣きつき始める。甘えられることに弱い巧は、先ほどまでの動揺はどこへやら、一転してひかりをきつく睨みつけ、陽香の背をさすっている。こんなちょろい男だから、悪い女に引っかかってしまうのだ。
これ以上言葉だけでは説得は不可能と判断したひかりは、鞄から一枚の書類を取り出し、夫や巧夫婦の前に突き出した。
「こちらもいきなりこんなことを言って、納得していただけるとは思っていません。これが私の言葉が真実だと裏付ける証拠です。ご確認ください」
「て言われたって、こんな紙切れ一枚で何が分かるって言うんだ?」
「ん?DNA鑑定の結果?斎藤陽翔は、平岡萌々花の生物学的な父として排除されません…へ、どういうこと?つまり、斎藤陽翔と萌々花に親子の繋がりがあるのか?」
「いや、こんなの嘘!こんなの嘘だから!」
突然陽香が暴れ出し、DNA鑑定書を破ろうとしたので、全員で慌てて取り押さえた。夫は書類を何度も読み返し、ようやく書いてあることを理解したのか、震える手で書類をひかりに返す。巧もすっかり顔色が悪くなり、唇まで紫色に染まっていた。
「萌々花が巧の娘ではないということは分かりました。ただ、一つ疑問があるのですが、どうやって検査をされたのですか?斎藤さんは巧とは初対面のようですし、陽翔さんも巧とは会ったことがないのに」
「こうやって、それに関しては私から説明するわ。ある意味であなたたちのおかげなのよ。だって、皇代も巧も、陽香さんまで、萌々花のお世話を私に任せっきりなんだもの。こっそり検体を用意するのなんて、簡単だわ。ひかりは私経由で萌々花の検体を受け取ったのよ」
私の話を聞いて、夫は苦虫を噛みつぶしたような顔になり、巧は一層顔色を悪くする。二人は揃って陽香の方を見た。陽香も、これ以上は白ばっくれられないと理解したのか、肩を落として震えている。
「陽香さん、もう一度尋ねるぞ。斎藤さんの息子である陽翔さんの妻だったというのは、本当か?萌々花は俺の子じゃなかったのか?頼む。陽香の口から聞かせてくれ」
「騙して…本当にごめんなさい。でも、悪意があったわけではないの。私がひかりさんと陽翔の前から姿を消したのは、今後の生活に不安があったから。だって、せっかく私の妊娠が分かったのに、陽翔が会社をやめてしまったんだもの。理由は分からないけど、彼はその頃精神的にボロボロになっていて、とても働ける状態じゃなかった。そんな時、私は巧と出会ったのよ。運命だと思ったわ。私は巧を好きになって、陽翔と住んでた家を出た。そして、今に至るわ」
話の途中にも何度も頭を下げる姿を見て、本当に彼女は反省しているのだなと思った。確かに嘘は褒められたものではないが、私も一人の母親として、彼女の不安が分からないわけではない。子育てにはお金がかかる。大人だけなら働けば何とでもなるだろうが、お腹に赤ちゃんを抱えていては、満足に働くことさえできないのだ。こんな時にパートナーまで頼れないとなれば、陽香の心細さはいかほどだっただろうか。決して無責任に責めてばかりはいられない。だからこそ、ひかりも直接話し合いに来たのだろう。
だが、男二人の意見はまるで違うようだ。
「全く、ようやく言い訳を聞いてやっているのに、とんだ見込み違いだ。女ってやつは、すぐに自分に都合のいいように話をすり替えてくる。全く油断ならないよ」
「父さんの言う通りだ。嘘つき女に用はないし、他の男の子供を俺の子だと言いは張るような、狂った奴の謝罪なんて、全く意味がない。なんだって女は涙を武器のように振りかざすんだ。気持ち悪くて見てられない。ちょうどいいや。父さんも母さんに離婚を突きつけてたし。俺たちも離婚しよう」
「そうだな。それがいい。俺も賛成するぞ。巧、親子で協力して、嘘つき女を追い出そうじゃないか。お前はまだ若い。すぐ次の女が寄ってくるさ。なんて言っても、俺に似てていい男だからな」
二人は笑い飛ばす。私は心底嫌気がさした。さっきまで三人で仲良く私をいびっていたというのに、ちょっと事実が明らかになるとすぐ手のひらを返す。なんて浅ましい人たちだろうか。この二人を野放しにしておけば、すぐにまた別の被害者が誕生するに違いない。今ここで、悪は確実に断つ必要がある。私は改めて気合いを入れた。
「二人とも、随分自己肯定感が高いのね。ポジティブも過ぎればただのおバカさんなのに、自分で気づくことさえできないのね」
「な、なんだよ。突然笑い出すなんて。母さんだって、陽香には散々馬鹿にされてただろ。いなくなって清々するじゃないか」
「その通りだ。嘘つき女なんて、退場が一番だろ。お前だって、この女が萌々花と共に出て行けば、育児から解放されるんだぞ。自分の時間が増えていいだろう。その分、俺らの世話はしっかりやってもらうがな」
気持ちのいいくらいの図々しさである。それでこそ、復讐のし甲斐があるというものだ。巧に関しては、こんな男になってしまったのは、しっかり育ててやれなかった私の責任もあるだろう。だからどうか、これは母からの最後の躾だと思ってほしい。私は笑顔で、分厚い封筒を二人の前に置いた。
「なんだよ、これ。まさかまたDNA鑑定書だとか言わないよな」
「そんなわけないでしょ。これは、浮気の調査報告書よ。皇代と巧のね」
「へ?俺と父さんの浮気?」
二人は大慌てで封筒の中身を確認する。書類を読み進めていくに連れ、親子揃って顔面蒼白になった。実は夫は会社の女性社員に手を出しており、巧の方はマッチングアプリで複数人の女性と関係を持っていたのだ。
「あら、不思議。二人とも陽香ちゃんのこと嘘つきって散々罵倒してたのに、あなたたちも立派な嘘つきだったみたいね。自分のことは棚にあげるって、まさしくこういうことだわ」
「ち、違うんだ母さん!これはほんの出来心だったというか…」
「お前、人の秘密を暴いたり調べるなんて、プライバシーの侵害だぞ!」
「皇代、何か勘違いしてない?そっちが先に私を裏切ったから、私も確認する必要があっただけなのよ。あなたがプライバシーを主張するなら、私も妻としての精神的苦痛を訴えるわよ。まあ、もう妻じゃないけどね」
今度は夫と巧が揃って目を丸くした。私は追加でもう一枚書類を取り出す。
「はい、これを見て。私の戸籍謄本。ほら、独身に戻ってるでしょ?実は、私と皇代はすでに離婚済みなの。覚えてるかしら?さっき言ったでしょ。『同居も離婚も無理』って。だってもう離婚してしまってるんだもの」
「いやいやいや、おかしいだろ!俺、何も聞いてないぞ!本人の承諾なしに離婚とかありえないだろう!」
「そうだよ!どうして急に離婚なんて!家族を捨てるとかありえないだろう!父さんだって、離婚なんて望んでなさそうじゃん!」
「へえ。あなたたちにとっては、そういう認識なの。おかしいわね。皇代と巧が私をいびり始めたのは、もうずっと昔のことなのに。辛かったわ。何度枕を濡らしたか分からない。それでも、私さえ我慢すればと思ってやり過ごしていたのよ。けど、ついに皇代は記入済みの離婚届まで持ち出して私を脅すようになって。ある日、吹っ切れたの。せっかく夫の分の署名はあるんだから、私も書いて出しちゃえばいいんだって。すっごくすっきりしたわ」
私が飛び切りの笑顔で説明してやると、二人はあんぐりと口を開けて固まった。やがて、離婚の衝撃からようやく立ち直った夫は、私を見て鼻で笑うと、家中に響く大声で笑い始めた。
「なんだ、そうか。全てバレていたのか。ならもう、こそこそする必要はなくなったわけだ。却ってすっきりしたな。ああ、そうさ。俺は浮気してる。でも、それがどうした?俺は一家の主人として、この家を支えてきたんだ。そのくらいのご褒美があって当然だろうが」
あろうことか、夫は完全に開き直ってきた。浮気を悪いと思うどころか、正当化してくるとは。これだから、人を簡単に見下してくる人間は好きになれない。さらに、夫がふんぞり返っているのを見て感化されたのか、巧まで勢いを取り戻して、私を心底バカにするような目つきで見下す。
「そうだよな。よくよく考えれば、浮気することの何が悪いんだって話だよ。男はそういう生き物なんだ。ほら、我慢するのって体に良くないだろ。人間は自由に生きなきゃいけないんだよ。ストレスは万病のもとって言うしさ。ただでさえ社会で働くって大変なことなんだ。ま、ただ暇を持て余してるだけの家政婦さんには分からないだろうけどな」
「そうそう。家政婦が意思を持とうなんて、生意気なんだよ。俺がいないと生きていけない、役立たずの存在のくせにさ。もっとお伺い立てないと、財布の紐も締めちまうぞ。俺を怒らせて困るのはお前なんだからな。ちゃんと俺に尽くしてくれないと、老後を迎えた時大変になるんじゃないかな。今は老後二千万円問題とか言うじゃん。家政婦にはどうにもできない金額だろう」
二人は揃って下品な笑い声をあげた。改めて、夫と巧は親子なんだなと思う。人間としての最低さが、実によく似ている。彼らは自分が無知であることを自覚すらしていない。
長年の友人として私のことをよく知っているひかりにとって、二人の言動は馬鹿馬鹿しいものに思えたのだろう。ひかりは、とてつもなく大きなため息をついてから、私の本当の正体について語り始めた。
「あなたたち、家族なのに、ミオのこと何も知らないのね。ミオはちゃんと経済的に自立してるわよ」
「はあ?斎藤さん、何をおっしゃってるんです?ミオは働きに出たことなど一度もありませんよ」
「外にはね。ミオは在宅でウェブライターをしているのよ。小説やブログを書いて収入を得ているの。そりゃ最初は微々たるお金だったけど、今じゃあ、あなたや息子さんの年収もはるかに超えているはずよ」
「え、俺や父さんよりも金持ちだって?嘘だろ!」
夫も巧も、今日一番の驚愕を見せる。相当衝撃が大きかったようだ。何せ、夫も巧も私を家政婦として扱うだけで、私自身に関心を持つことはなかったのだから。
ひかりは続ける。
「他人の私が、人の家庭に口出しするのもなんですが、あなた方の横柄な態度はひどすぎます。妻という存在は、便利に使っていい存在という意味ではないのですよ。それなのに、いざミオがここを離れようとしたら、ああだこうだと言って引き止める。いい年した大人が、実に見苦しいです。いい加減、私の親友を自由にしてちょうだい」
思わず泣きそうになってしまった。私のために本気で怒ってくれる人がいるなんて、信じられなかったのだ。そのくらい、この家で長く存在を否定されることに慣れてしまっていた。
「前々から思っていたんだけど、散々虐げた人が、自分から離れていくはずないって自信。どこからやってくるの?家族が寄り添い合って長く一緒にいられるのは、お互い思いやりを持って接しているからよ。ひどいことをする人と一緒にいたいなんて思うわけないでしょ。お金で私を縛りつけようと思ってたんでしょうけど、残念でしたね。私はもう皇代がいなくても生きていけるし、何も困ることなんてないわ」
今までで一番強い口調で宣戦布告した私に、夫も巧も気圧される。それでも、謝る気はないようだ。私とは目を合わせず、文句を垂れながらそっぽを向いてむくれている。まるで子供だ。なんだかすっかり脱力してしまった。
「あなたたちに私を認めてもらおうとは思わない。人の考えは、そう簡単に変わるものではないから。その代わり、今後何があっても後悔しないでね。もう、あなたたちとは他人だから」
「何を言うかと思えば。それはこっちのセリフなんだよ!今は稼いでるかもしれないが、小説やブログなんて運だ。俺たちみたいな優良企業の正社員とは、安定感が違うんだよ。いつまでもラッキーだけでやっていけると思うなよ」
「本当、母さんみたいに何の取柄もない家政婦でも、稼げる仕事ってそれ、仕事って呼べるレベルなの?一人で自滅していくのは勝手だけど、俺と父さんの足を引っ張るようなことだけはしないでくれよ。『立つ鳥跡を濁さず』って言うだろ。それが母さんにできる唯一のことだって、覚えておけよな」
夫も巧も、私の言葉など気に留めることなく、離婚したからには早々に家を出ていけと追い立てた。荷物はすでにまとめてあったので、私は無言で長年住み慣れた家を後にする。二人の顔を振り返ったりはしなかった。どうせ、気持ちの悪い薄笑いしか浮かべていないのだろうから。
途中から空気のようになっていた陽香も、私やひかりと一緒に出てきていた。ひかりに促されると、萌々花を連れて立ち去る。巧夫婦も離婚だと言っていたから、彼女もこれから慌ただしくなるだろう。
家から少し離れたところまで歩くと、私はひかりに深々と頭を下げた。
「ひかり、今日は忙しい中来てくれてありがとう。色々と我が家の恥ずかしいところを見せたよね。迷惑かけてごめん。それと、私のために怒ってくれてありがとう」
「何言ってるの?見苦しい姿を見せたのは、こちらも同じことよ。それに、私だって自分の目的があったんだから、迷惑なんて思ってない。私たちは協力し合ったのよ。親友としてね。あと、あいつらに一言物申すのは当然よ。人として最低な男たちなんだから」
拳を握って力説するひかりの姿に、私は声をあげて笑った。笑ってから気づいたが、心から大笑いしたのは随分久しぶりな気がする。それだけ長く自分を抑え込んでいたのだ。やっと一歩前に進めた気がする。
数ヶ月後、私は都内の単身者用マンションに住んでいた。駅からも近く、スーパーや郵便局など生活の利便性がいい。もちろん住所はひかりにしか教えていなかったが、美容院だけは以前から通っている店が気に入っていたので、変わらず通っていた。ある時、店を出たところで見覚えのある二人組と出くわした。元夫と巧だ。二人とも髪も髭も伸び放題で、着ている服も汚い。それに、なんとなく臭い気がする。
「何か用?あなたたちとは、もう接点がなくなったはずだけど」
すると二人は途端に大粒の涙を流し、その場に崩れ落ちた。
「頼む、ミオ!俺たちを助けてくれ!もうどうにもならないんだ!なんとかしてよ、母さん!」
突然往来のある場所で、いい年した大人二人に泣かれ、恥ずかしいことこの上ない。彼らの今の姿ではどこか店に入るわけにもいかないので、人の目につきやすい場所にある公園へと移動した。改めてどうしたのか尋ねると、二人は涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔で、ぽつりぽつりと話し始める。
「俺、実は会社を首になったんだ。俺が不正してるのがバレて…本当は前々から怪しいって睨まれてたみたいだ」
「そうね。離婚前には陽香ちゃん含めて三人で一週間旅行に行ったことがあったけど、あの時もちゃんと引き継ぎとかしたわけじゃないんでしょ?部下に仕事を押し付けて、自分だけ休みを取るなんて。そりゃ、上の立場としてあってはならないことよね」
「う…知ってたのか」
「当たり前でしょ。浮気の証拠を集める時に、徹底的にあなたたちの身辺を調査したんだから。もう知っている通り、私は調査に必要なお金を十分に持っていたからね。だから、全て知ってるのよ。あなたが陽翔君にしたこともね」
陽翔の名前を出すと、元夫は即座に身を震わせ、明らかに動揺を見せた。実は、ひかりの一人息子である陽翔は、元夫の取引先の社員であった。あろうことか、元夫は数年前から陽翔を脅迫していた。つまり、陽翔が精神的にボロボロになって会社を辞めたのは、元夫のせいだったのだ。
「知らなかったんだ!あの社員が斎藤さんの息子だったなんて!萌々花の実の父親だなんて、知らなかったんだ!」
「知らなかったら何をしてもいいことにはならないでしょう。そもそも、脅迫という行為自体が許されることではないのだから」
「でも、俺は別に脅したつもりはないんだ!ただ、言う通りにするよう『お願いした』だけで!」
「陽翔君よりあなたの方が立場が上よね。目上の人からの『お願い』なんて、言い方によっては命令に等しいでしょう。そういうこともちゃんと分かった上で、言うことを聞かせていたはずよ」
元夫はそれ以上何も言うことができず、黙って俯いた。普通ならば、この流れで自分だけ優しくしてもらえる可能性など、見当も考えないと思うのだが、頭の足りていない巧には分からないらしい。
「母さん!父さんばかりじゃなくて、俺の話も聞いてくれよ!俺さ、追われてるんだ!やばい女に一方的に追いかけられるんだぜ!狂ってるだろ!」
「狂ってるのは、散々マッチングアプリで女性を騙し続けたあなたの方じゃない?ええ、もちろん巧の身辺も詳しく調査済みよ。マッチングアプリを使って複数人の女性と関係を持っていることは知っていたけど、どうやら割り切った関係というわけではなく、自分は独身だと偽って交際していたらしいわね。嘘がバレそうになったら音信不通にして、次のターゲットに移る。そんなことを繰り返していたようだ。これでは、騙された方はたまらないわ。特に、真剣に結婚を考えた付き合いを望んでいた女性ほど、絶望感が大きいでしょう。純粋な女性の心をもて遊んだんだから、やり返されても文句は言えないんじゃない?それに、恋愛とは違うけど、実際ひどい扱いをした母親に復讐されたのに、まだ分かってなかったの?」
「あ、でも俺、その女に追いかけ回されてるせいで会社にも行けなくなって、気がついたら首になってて…今もまだまともに仕事できる状態じゃないし!」
「それが因果応報というものでしょ。最初から騙していなければ、そんなことにはならなかったんだから」
ばっさりと切り捨ててやると、巧もまたがっくりと肩を落とした。すると今度は、二人揃って地面に膝をつき、私に頭を下げてくる。
「ミオ、頼む!少しでいいから、お金を貸してくれないか?仕事は首になるし、次の働き口は決まらないし、生活に困窮してるんだ!」
「俺からもお願いします!毎日、腹が減って倒れそうなんだ!父さんと離婚したとはいえ、血の繋がった息子に変わりはないだろう!」
「あなたたち、大変な目に遭いすぎて、すっかり記憶力が落ちているみたいね。私、言ったでしょ。家を出ていく時に、『何があっても後悔しないでね』って。そしたら、あなたたちは何て答えたかしら?『それはこっちのセリフだ』、『立つ鳥跡を濁さず』だったわね。後悔してないんでしょ?それに、去る者は後の見苦しくないようにするのよね。あなたたちも、私の人生から去っていったのよ。どうか、引き際は潔くお願いね」
元夫と巧は、ふらりと体を傾け、倒れそうになった。私はそんな彼らには構わず、背を向ける。
「こんなことなら、最初から家族みんなで仲良く暮らせばよかった。母さんのありがたみを、人への感謝の気持ちを忘れちゃいけなかったんだ…」
そんな後悔のつぶやきが背後から聞こえる。今更気づいたのか。しかし、全てはもう遅すぎる。世の中には、戻れない道というのも存在するのだ。私は振り返ることなく公園を出て、そのまま家路についた。いつも以上に晴れた空が眩しく感じられた。
その後、巧と陽香は正式に離婚したらしい。萌々花は、ひかりが預かることにしたそうだ。陽香は働いていなかったし、そもそも萌々花のお世話自体も私に任せっきりだったので、全然育て方が分かっていなかったようだ。巧はそもそも萌々花と血の繋がりがない上、やはりお世話をしたことがないので、萌々花に大した愛情もない。結局、なるべくしてひかり親子の元へ行くことになったのだ。陽翔も今では無事社会復帰を果たし、萌々花のために仕事を頑張っているらしい。やはり、守るものがあるというのは強いものだ。ひかりの方も、口では久々の育児は大変だと言っているが、萌々花のことを語る時の表情は幸せそのものだ。きっとこれから、萌々花はすくすくと育っていくだろう。
私の方も、順調に仕事を続けており、今一度、ひかりには改めて感謝の気持ちを伝えた。私が小説を書くようになったのも、学生時代にひかりが応援してくれたことがきっかけだったからだ。「小説家になりたいな」と自分の夢を打ち明けた当時、ひかりは「絶対なれるよ」と言ってくれた。自分を後押ししてくれる人がいるのは、心強いものだ。今でもひかりは定期的に私に会う機会を作ってくれて、悩みがあれば聞いてくれるし、嬉しいことや楽しいことは自分のことのように喜んでくれる。結婚では失敗してしまったけれど、友人には恵まれていたと言える。これからも、かけがえのない友人を大切にしながら、新しい人生をスタートさせていこうと思う。



