アラームが鳴る前、午前2時。冷凍倉庫の記録を終えて立ち上がった瞬間、喉の奥が熱くなり、手のひらに赤黒い痰がついた。72歳の体に、医者に行く金も薬代もない。そんな時、5年ぶりに息子が現れた。頬に痣を作って。「親父、保証人になってくれ。俺は死ぬかもしれないんだぞ」—そう言って、翌日には俺の年金手帳と実印を持って消えた。そして3日後、スペアキーを握って戻ってきたのだ。「ここは俺が管理する。親父は仕…

アラームが鳴る前、午前2時。冷凍倉庫の記録を終えて立ち上がった瞬間、喉の奥が熱くなり、手のひらに赤黒い痰がついた。72歳の体に、医者に行く金も薬代もない。そんな時、5年ぶりに息子が現れた。頬に痣を作って。「親父、保証人になってくれ。俺は死ぬかもしれないんだぞ」—そう言って、翌日には俺の年金手帳と実印を持って消えた。そして3日後、スペアキーを握って戻ってきたのだ。「ここは俺が管理する。親父は仕...

血の混じった痰を吐き出した時、竜之助は初めて、自分の命がどこまで続くのかを考えた。冷凍倉庫の裏壁に手をつき、胃の底から込み上げるものを吐き出す。透明な唾液の中に、赤黒い筋が何本か混じっていた。72歳という数字が、ひどく遠いものに感じられた。

深夜2時を回った頃、黒川竜之助は冷凍倉庫の第3区画に立っていた。零下18度の空気が肺の奥まで刺さる。40年近く市の清掃局で働き続けた体は、とっくに限界を超えていた。左足は、ゴミ収集車の踏み台から飛び降りる作業を何千回と繰り返した末の後遺症だ。軟骨がすり減っていると言われたが、手術費も通院費も出せず、ただ引きずり続けてきた。

倉庫の仕事は警備の名目だが、実態は荷物の確認と温度計の記録だ。時給は820円。最低賃金を20円上回るだけの金額。それでも竜之助には必要だった。年金は月に6万円しか入らない。家賃と光熱費と食費を引けば、残るのはほんの少しだけ。だから72歳の今も、こうして夜の倉庫に立っている。

記録用のバインダーを取り出した時、胸の奥から波が来た。最初は小さな咳だった。それが見る見るうちに膨れ上がり、口を押さえて体をくの字に折る。咳は何度も重なり、一息つくたびに次の波が来る。喉の奥が熱い。ようやく収まった時、手袋の内側に湿ったものが残っていた。手袋を外すと、手のひらに赤黒いものがついていた。驚くより先に、ひどく疲れた気分になった。

病院に行くべきだとは分かっている。しかし、健康保険証の裏に書いてある自己負担額を考えると、足が動かなかった。今月はすでに食費を削って薬代を捻出していた。これ以上削れるものは何もない。

午前6時を少し回った頃、倉庫から外に出た。駅に向かう途中、コンビニの前でホットコーヒーの自動販売機を眺めたが、買わずに通り過ぎた。130円という値段が、今の竜之助には簡単に出せるものではなかった。

築40年のアパートに着き、鍵を取り出してドアのノブに手をかけた瞬間、竜之助は止まった。ドアの向こうから物音がする。誰かがいる。鍵を回してドアを開けると、部屋の中央に男が立っていた。黒川大毅。竜之助の息子。45歳。最後に顔を見たのは5年前、その時も金の話だった。

大毅の右頬には青紫色の痣があった。片方の目の下も腫れている。唇の端が切れ、乾いた血がこびりついていた。スーツは来ているが、ひどくシワが寄っていた。部屋の隅には黒いボストンバッグが置いてあった。竜之助は息子の顔から視線を外し、部屋の中をざっと見渡した。取られたものがないか確認するのが先に来た。

何しに来た。
大毅はテーブルに何かを置く音がした。振り向くと、1枚の書類があった。ローン会社の名前が見えた。聞いたことのない会社だ。
保証人になってくれ。
謝罪も前置きもなかった。金額は150万。借入れ先は消費者金融ではなく、住所の書いていない会社名だった。

金はない。
金を貸してくれと言ってるんじゃない。保証人になってくれと言ってる。
同じことだ。
親父の名前があればいい。それだけでいい。

会社はどうした。
潰れた。3ヶ月前。
嫁は離婚した。子供を連れて実家に帰った。
それで俺のところへ来た。
返すあてはある。もう少し時間があれば立て直せる。今この場をしのげばいい。保証人になってくれればそれだけでいい。

お前の会社が潰れたのはお前の責任だ。俺には関係ない。
親父には子供を助ける気はないのか。
助ける金はない。保証人になる気もない。
親父、聞いてるか? 俺は死ぬかもしれないんだぞ。

その頬の痣は誰につけられた。取り立てか。大毅は答えなかった。視線を外す。それが答えだった。

竜之助が台所で湯を沸かしていると、大毅が後ろからついてきた。
この部屋がある。親父名義の部屋がある。これを担保に入れれば金は借りられる。俺が返す。
ここを担保に入れたら、俺はどこへ行く?
一時的なことだ。返したらまた取り戻せる。
返せなかったら、俺はどこへ行く。

大毅は黙った。その沈黙が答えだった。
72になった親父が、この先どれだけ生きると思ってるんだ。この部屋が必要か。

その時、大毅が動いた。素早い動きだった。テーブルの上の竜之助の財布を、大毅が手でさっと引き寄せた。竜之助が反応するより早く、財布はジャケットのポケットに押し込まれていた。

何をしている。
この中に金庫の鍵が入ってる。年金と通帳はそこにある。それだけもらっていく。
返せ。
返さない。俺が死んだら親父の後悔になる。そうなる前にやってる。

竜之助が押入れを見ると、小型の金庫の扉が少し開いている。中に入っていたのは年金手帳と実印、そして緊急用の現金だった。
大毅はジャケットの内ポケットを叩いた。全部入ってる。

大毅はボストンバッグを持ち上げ、玄関へ向かいながら言った。
数日したら連絡する。それまで少し待ってくれ。
待てというのか。お前は今、俺から何を盗んだか分かっているのか。
大毅は振り向かなかった。盗んだんじゃない。借りてる。

ドアが閉まった。竜之助は部屋の中に一人残った。テーブルには息子が置いていった書類だけが残っていた。年金手帳がなければ来月の年金が降りない。実印がなければ何の手続きもできない。封筒の現金は、今月の薬代のために取っておいたものだった。心臓の薬も気管支の薬も、どちらも切れかけていた。

3日後の昼過ぎ、竜之助が倉庫の夜勤から戻って布団に横になっていると、玄関のドアが音を立てた。鍵が差し込まれる音がした。大毅がキャリーケースを引きずりながら入ってきた。黒いキャリーケースが2つ。右手には、竜之助が知らないスペアキーを持っていた。

スペアキーを作ったのか。
管理会社に頼んだ。緊急連絡先が息子だって言ったら、すぐ対応してくれた。

大毅はケースを部屋の隅に押しやり、初めて部屋を見渡した。自分の居場所を確認するような目つきだ。

ここで何をする気だ。
しばらく世話になる。親父の面倒を見る。それの何が悪い。

出ていけ。
嫌だ。ここは俺の部屋だ。親父名義の部屋だ。今、俺が管理している。文句があるなら警察でも呼べばいい。息子が親の面倒を見に来た。それだけのことだ。どの警官も追い出せない。

その言葉は正確だった。法的な意味で、大毅は間違っていない。同居する家族を追い出す手続きは、それだけで何ヶ月もかかる。そしてその間、竜之助には弁護士を雇う金もない。

その日の夕方、大毅はテーブルに年金手帳と実印を並べた。
返せ。
返さない。俺が管理する。親父、正直に話す。俺は今でも借金取りに追われている。もう1度金が必要だ。親父の年金を担保に使う。
俺の年金は月に6万しかない。
知ってる。でもそれで回せる。
6万から家賃を引いたら、残りは2万もない。食費も薬代も出ない。
薬は後回しでいい。食事は俺が何とかする。親父は仕事だけしていればいい。俺がやりくりする。

親父の判断は信用できない。老人は詐欺師に狙われる。俺が管理した方が安全だ。
その言い方は滑らかだった。怒鳴るわけでもなく、謝るわけでもなく、ただ整理された言葉を並べた。それが逆に竜之助には不気味に感じられた。

夕食は大毅がコンビニで買ってきた弁当だった。1つだけ、大毅自身の分だ。竜之助の分はなかった。冷蔵庫には、竜之助が3日前に買った豆腐の残りと、安売りの卵が3個あった。それが竜之助の夕食になった。

親父、明かりを落とせ。眩しい。
竜之助は台所の照明を見た。蛍光灯1本。これを消したら台所が暗くなる。まだ皿を洗い終わってない。もう少しかかる。
早くしろ。

翌朝、竜之助が目を覚ますと、大毅はすでに起きていた。スーツに着替え、玄関口でスマートフォンに向かって低い声で話していた。10万、50万、月末という言葉が断片的に入ってきた。大毅は台所へ行き、竜之助の買ったインスタントコーヒーを使いを明かして自分のカップに注いだ。竜之助の分は作らなかった。

財布を返せ。薬が切れている。
何の薬だ。
心臓の薬と気管支の薬だ。
いくらかかる。
気管支の薬は3000円ほど。心臓の薬は1000円ほどだ。
大毅はポケットから1000円札を1枚取り出し、テーブルに置いた。これで我慢しろ。

その夜の夜勤から戻った翌朝、アパートの外廊下で隣の住人とすれ違った。60代の女性で、長年ここに住んでいる。
昨日、業者の人が来ていましたよ。大きなものを運び出していた。息子さんでしょうか? 一緒にいた。

竜之助は部屋のドアを開けた。最初に気づいたのは、テレビがないことだった。次に台所を見ると、電子レンジがなかった。洗濯機もない。3つ、全部なくなっていた。

昼過ぎに大毅が戻ってきた。
何をした。
売った。2万円になった。
俺に断りもなく。
親父のものじゃない。この部屋のものだ。部屋は俺が管理している。売ったものは売った。帰ってこない。

洗濯機がなければ作業着が洗えない。テレビがなければ夜の時間が何もなくなる。レンジがなければ温め直しができない。お前は俺の生活を壊している。
壊してない。不要なものを整理した。俺は今、生きるか死ぬかのところにいる。

その2万円はどこへ行った。
借金の返済に当てた。
来月の家賃は出るか。
親父の年金が入る。それで払う。

竈之助は台所へ行き、湯を沸かして湯のみに注いだ。コーヒーもなくなっていた。ただの湯だった。

3日後、竈之助が郵便受けを開けると、封筒が一通入っていた。差出人の名前がない。開けると、1枚の紙が入っていた。印刷された文字で、短い内容だった。
「黒川さん、息子さんの借金のことはご存知ですか? 詳しいことはこちらまで。」
電話番号が1つ書いてあった。

夕方、仕事へ出かける前に管理人室の前を通った。管理人の老人が廊下を掃除していた。
最近、息子さんがいらっしゃるようですね。
ええ、少しの間だけのことですが。
届け出ておいただけますか? 入居者以外の方が常時いる場合は、規約上届け出が必要でして。
スペアキーを作ったのは息子の方で、私は聞いていなかった。
そうでしたか。管理人は少し間を置いた。最近、お顔の色が悪いように見えます。お体は大丈夫ですか?
竈之助は少し考えた。大丈夫です。それが正確な答えかどうかは、自分でも分からなかった。

その夜の倉庫は、いつもより気温が低かった。3列目に入った時、胸の奥から波が来た。今日の波は違った。最初から大きかった。喉の奥が急に閉まるような感触があり、息を吸ってもうまく入ってこない。竈之助は棚に手をついた。懐中電灯が床に落ちた。薬があれば5秒で収まる。しかしそれが今、手元にない。

2分ほどかけて波が引いた。完全には収まっていなかったが、歩けるくらいにはなった。休憩室に戻り、自動販売機の前で温かいお茶が1本買えるか確認した。120円。ポケットを探ると、小銭入れに100円玉が2枚あった。120円出すと残りは80円になる。しかし今は、飲まないといけないと思った。

午前6時に倉庫を出た帰り道、薬局の前を通った。シャッターが降りていた。開いていれば薬を買えた。しかし手元にある80円では買えない。

アパートに戻ると、大毅はまだいた。ソファで横になり、ジャケットを上にかけていた。竈之助は大毅の肩を揺った。
朝早く薬を買う金をくれ。
朝一番にその話か。いくらだ。
3000円あれば気管支の薬が買える。
3000円はない。
昨夜発作が来た。倉庫の中で薬がなければ対処できない。今夜も同じことが起きたら倒れるかもしれない。
大毅はしばらく黙った。何かを計算しているような目つきだった。今日、何とかしてみる。夕方までに連絡する。
夕方まで待てるか分からない。
夕方まで待つしかない。それまで無理に倉庫へ行くな。今日は休め。
休んだら金が入らない。
1日くらい休んでも死なない。

昼過ぎ、大毅が戻ってきた。手に何かの書類を持っていた。
親父に話がある。今日、不動産の人間に会ってきた。この部屋の査定をしてもらった。
俺は売らないと言った。
聞いてくれ。このまま行けばあいつらはここへまた来る。今度は書類だけじゃない。売却して別の安い場所を借りる。2人で移れば引っ越し先の敷金・礼金は俺が出す。それで借金の一部を片付けて、あいつらの圧力を減らす。
俺が今の家賃以下の部屋に引っ越せる保証があるか。
ある。もっと郊外に行けば、家賃3万以下の部屋はいくらでもある。
郊外に引っ越せば、今の仕事場まで通えない。仕事を失う。
仕事は別のを探せばいい。
俺は72だ。倉庫の夜勤でさえ、今の職場が俺を雇ってくれている。別の仕事が見つかるとは限らない。

竈之助は査定書の数字を見た。この部屋の価値として出された数字だ。30年近く住んだ部屋に、今、こういう数字がついている。
今日の薬はどうなった。
大毅は目を伏せた。今日は無理だった。明日には何とかする。
昨日も、今日には何とかすると言った。

翌日の昼、竈之助が夜勤から戻って横になっていると、ドアをノックする音がした。先日と同じ3人が立っていた。今日は後ろにもう1人いた。4人になっていた。
本日は具体的なご提案をお持ちしました。入っていいですか?
竈之助はドアを大きく開けた。4人が入ってきた。真ん中の男が鞄から分厚い書類を取り出した。
売買契約書の草案です。ご確認ください。

俺はこれにサインする気はない。
まあ読んでから判断してください。条件は悪くない。
読まなくていい。売る気がない。

男はテーブルの上に両手を置き、竈之助の顔を見た。
黒川さん、息子さんはもう限界です。今週中に一部でも返済がなければ、我々は次の段階へ進みます。具体的には、この部屋への出入りを制限させていただくことになります。管理会社に連絡を取り、入居契約の問題を指摘します。息子さんが無届けで同居しているという事実がありますので。それ以外には、ご近所への周知も考えています。

竈之助は書類を見た。署名欄が何箇所もある。実印を押す場所がある。実印は大毅が持っている。
実印は息子が持っている。俺の手元にない。
男は若い部下の方を向き、何か目くばせをした。若い男が書類をめくり、1枚を取り出した。
印鑑でも構いません。

竈之助はその言葉を聞いた。署名と拇印があれば、印鑑がなくても手続きが進む場合がある。それを彼らは知っている。
俺にはサインも拇印も、する気はない。
男の顔から何かが消えた。感情ではなく、余裕のようなものが消えた。
分かりました。では今週中に我々の方で別の手続きを進めます。その際、黒川さんのご生活に影響が出る可能性がありますが、それはご承知おきください。

4人は出ていった。竈之助はテーブルに両手をついた。手に力が入っていた。

大毅が戻ってきたのは夕方だった。竈之助は台所で米を解いていた。
あの男たちが来た。今日は4人だった。書類を持ってきた。署名を求めた。断った。
断ったのか。
断った。

近所への周知と管理会社への連絡をすると言っていた。
管理会社への連絡は、俺の無届け同居の問題を指摘するつもりだろう。規約違反として処理されれば、管理会社から退去勧告が来る。ただ、それはすぐには動かない。近所への周知は、法的にはグレーだ。ただ、実際にやってくる可能性はある。

お前は今日、どこへ行っていた。
大毅は少し間を置いた。仕事の面接に行った。倉庫の仕分け作業だ。正社員ではなく日雇いの仕事だが、結果は来週、もう1度来てくれと言われた。

翌朝、竈之助が郵便受けを確認すると、また封筒が入っていた。今度は3通だった。
一通は電力会社からの請求書だった。先月分の電気代、金額は3200円。今月の残金では払えなかった。
一通は差出人のない封筒だった。「黒川さんのご自宅に多額の借金を抱えた方が同居されているようです。近隣の方のご安全のため、詳しいことは下記までご連絡ください。」
三通目は管理会社からの書面だった。無届けの同居者がいるという通報があったため、状況を確認したいという内容だった。

管理会社に連絡すれば、大毅の同居の問題が正式に取り上げられる。しかし、大毅が退去を求められれば、あの男たちは竈之助に直接来るようになるかもしれない。何も良い方向がなかった。

翌日の午後、竈之助は管理会社のビルへ向かった。大毅は近くの公園で待つと言った。
担当者は30代の男性だった。会議室へ通された。
近隣の方から、契約外の方が長期にわたって同居されているとの通報をいただきまして。
竈之助は説明した。息子が体調を崩した自分の様子を心配してきていること。一時的なことであること。今後は規約に沿った手続きを取りたいこと。

息子さんが同居される場合、入居者として追加する手続きが必要になります。収入証明や身分証明の提出が必要です。
それは用意できる。
ただ、今回は近隣の方から複数の通報が来ておりまして。借金の取り立てと思われる方が出入りしているというご指摘もございまして。

正直に申し上げますと、今回の状況は管理会社として看過できないレベルに来ています。他の入居者の方への影響も出始めていますし、もし今後も同様のことが続くようでしたら、退去のお願いをせざるを得なくなります。猶予は2週間です。

2週間。またこの数字が来た。

管理会社を出ると、大毅が公園のベンチに座っていた。
どうだった。
2週間の猶予だ。それ以上続けば退去勧告が来る。
お前の面接の結果が出るまで、あと何日だ。
来週の初めに連絡が来る。仮に決まっても、最初の給料が出るまでに時間がかかる。その間に2週間が来る。

その夜、倉庫に着いた竈之助は、シフト担当の管理者に呼ばれた。
先日の夜、第3区画で体調が悪くなったとのことですが。翌朝の引き継ぎ記録に、通常より時間がかかったという報告がありまして。
問題なく業務は完了した。
それは分かっています。ただ、冷凍庫内での体調不良は安全管理上、報告していただく必要があります。お医者さんの診断書などはありますか?
診断書は1年前に処方された薬があったが、今は病院に行けていない。
黒川さん。率直に言います。72歳で冷凍倉庫の夜勤というのは、会社としても安全面でリスクが高い。今後、もし体調に問題が生じた場合は、業務を続けていただくことが難しくなる可能性があります。1度健康診断を受けて、問題がなければ継続ということでいかがでしょうか?
分かりました。近いうちに受けます。

健康診断。その結果次第では、この仕事がなくなる。

大毅が出ていった翌朝、竈之助は初めて一人で目を覚ました。部屋が静かだった。ソファに誰もいない。台所に誰もいない。自分の部屋が自分だけのものになった。その感触が体に戻るまでに、少し時間がかかった。

午前中、銀行へ向かった。3週間以上、自分の口座を確認できていなかった。ATMに通帳を差し込み、記帳ボタンを押した。残高は2342円だった。予想はしていた。しかし、数字として目の前に出ると、別の重さで来た。引き出し履歴を見た。3週間分の引き出しが並んでいた。1万円、2万円、5000円。大毅が竈之助の印鑑と通帳を使って引き出したものだ。総額で7万8000円。今月の年金とその前の月の金を合わせた額が、ほぼ消えていた。

銀行から戻った午後、竈之助は管理会社に電話をかけた。
息子は出ていきました。今後、同様のことは起きない。しかし電気代の支払いが一時的に遅れている。家賃については、来週の年金が入り次第、すぐ払う。
担当者は少し間を置いてから言った。息子さんが出られたのであれば、同居の問題は解決ということで記録します。家賃については、来週中であれば今回は猶予を設けます。

夕方、近所の薬局へ行った。処方箋なしで買えるものを聞いた。薬剤師の女性が説明してくれた。金額は1800円から2500円の範囲だという。財布には1000円札が2枚と小銭があった。合計で2300円ほど。1800円の薬であれば買える。1800円を払った。残りは500円になった。

その夜、夜勤に向かう前に横になっていると、電話がなった。液晶画面に番号が出た。大毅の番号だった。
親父。
なんだ、今。
大丈夫か。
夜勤の前だ。少し休んでいる。
あいつらから連絡が来た。今週中に親父の部屋に来ると言っている。
そうか。気をつけることは何もない。来たら来たで対処する。
大毅は少し黙った。それから言った。面接の結果が出た。採用になった。
そうか。
日雇いだが、来週から始まる。
それは良かった。
また連絡する。

電話が切れた。天井のシミが目の前にあった。

夜勤明けの朝、倉庫から出て帰り道を歩いていると、スマートフォンが鳴った。番号に心当たりがない。出た。
黒川さんですか? 聞き覚えのある声だった。あの男たちのうちの1人だ。
そうだ。
今日の午前中に伺います。10時頃いらっしゃいますか?
いる。

10時を少し過ぎた頃、ドアをノックする音がした。今日は2人だった。真ん中の男と若い男だ。
今日はよろしくお願いします。

男はファイルを開いた。1枚の紙を取り出した。債権譲渡通知書と上に書いてある。
説明します。息子さんの借金について、我々は別の会社に債権を譲渡しました。つまり、今後の取り立ては別の会社が行います。我々の役割はここで終わりです。
今後、お父さんのところへは来ませんか?
我々は来ません。ただ、別会社がどう動くかは分かりません。

男は玄関へ向かいながら、振り向かずに言った。
お父さん、1つだけ。息子さんは日雇いで仕事を始めると聞きました。それ自体は別に関係ありませんが、借金の額からすれば焼け石に水です。その点はご理解ください。

2人は出ていった。部屋に1人残った。問題が消えたわけではない。別の会社に移っただけだ。しかし、とりあえず今日、あの顔たちは来なくなった。

年金が入った。銀行で通帳を確認した。6万2000円入っていた。その足で電力会社の窓口へ向かい、電気代を払った。3200円。次に家賃を振り込んだ。6万2000円を超える金額が消えた。残りは数千円になった。

倉庫の管理者から指定された健康診断の期間に電話した。来月の初めに予約が取れた。費用は会社が負担してくれることを改めて確認した。

今月の問題は一つずつ片付いている。管理会社への対応は済んだ。電気代は払った。家賃は払った。健康診断の予約は取れた。薬は、来月病院へ行く。しかし、大毅の借金は別の会社に移った。いつ連絡が来るか分からない。できないことは考えても仕方がない。今日できることを今日やる。それだけだ。

洗濯機がない生活が続いていた。今週は手洗いにした。台所のシンクに水を張り、作業着を沈めた。指の腹に力を入れて汚れを落としていると、40年間の仕事のことが思い出された。ゴミ収集の仕事では、手を洗うことが癖になっていた。1日に何十回も洗った。それでも汚れと匂いは完全には落ちなかった。

夕方、作業着が乾いたかどうか確認しようと廊下に出ると、隣の女性がちょうど仕事から帰ってきたところだった。
息子さん、もう戻られないのですか?
出ていきました。しばらくは一人です。
そうですか。彼女は少し間を置いた。最近、変な手紙が来ていまして。差出人のない封筒で。
あなたのところにも届いたのですか?
ええ、先週。黒川さんのところの息子さんについて書いてあるような内容で。捨ててしまいましたが。すみませんでした。
竈之助は頭を下げた。ご迷惑をかけました。
いえ、ただ捨てたので気にしていないのですが。他の方にも行っていると思って、お知らせしようかと思いました。
ありがとうございます。

手紙が複数の部屋に届いていた。あの男たちが言っていた「周知」というのが、こういう形で動いていた。しかし、今は債権を譲渡した後だ。あの男たちはもう来ない。手紙も止まるかもしれない。止まらないかもしれない。

夜勤の前に横になった。眠れなかった。天井のシミを見ていた。この3週間に起きたことが、頭の中を静かに流れた。大毅が来た朝。金庫が開けられていた朝。テレビがなくなっていた朝。区役所の窓口で断られた日。男たちが4人で来た日。管理会社に呼ばれた日。健康診断の話をされた日。大毅がキャリーケースを持って出ていった朝。2342円という通帳の残高。こういうことが、72歳の人間に起きた。

大毅のせいではある。しかし、大毅だけのせいではない。あの男たちは確かに問題を大きくした。しかし、そもそもの借金は大毅が作った。区役所は制度の通りに動いた。それを責めるのは難しい。起きたことは起きた。これからどうするかの方が、誰のせいかよりも大事だった。

これからどうするか。年金が月6万円入る。倉庫の夜勤が健康診断の結果次第で続くかどうか決まる。大毅は日雇いで働き始めた。借金は別の会社に移った。部屋はまだある。72歳の人間が倉庫の夜勤をしながら、一人でこの部屋で生きていく。それが今の答えだった。

時計を見た。夜勤の開始まで30分を切っていた。起き上がり、作業着に着替えた。昼間手洗いしたもので、今日は乾いている。ジャンパーを羽織った。懐中電灯の電池を確認した。問題なかった。玄関で靴を履いた。立ち上がった時、ふと部屋を振り返った。テレビのない壁。電子レンジのないカウンター。洗濯機のない窓の下。ソファの座面のわずかなへこみ。それだけが残っている。しかし、部屋はある。仕事はある。今夜の仕事がある。

竈之助はドアを開けた。廊下の電球がまだ切れたままだった。暗い廊下を歩いた。階段を降りた。外に出ると、夜の空気が来た。冷たかったが、今夜は風がなかった。歩き始めた。左足を少し引きずりながら、駅へ向かった。空を見上げた。今夜は雲が少なかった。星がいくつか見えた。この町では珍しかった。竈之助は歩きながら、それを少しの間見ていた。見える時はある。それだけのことだ。しかし今夜は、見えた。

竈之助は前を向いて歩き続けた。

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