残業終わり、俺は同僚の鞄を落としてしまった。慌てて中身を拾い集めたその時──「これって……」。顔が真っ赤になるのを感じた。それは、いわゆる大人のおもちゃだった。厳しくて有名な彼女の、バッグの中から出てきたのだ。「どうしたの?…

残業終わり、俺は同僚の鞄を落としてしまった。慌てて中身を拾い集めたその時──「これって……」。顔が真っ赤になるのを感じた。それは、いわゆる大人のおもちゃだった。厳しくて有名な彼女の、バッグの中から出てきたのだ。「どうしたの?...

あ、やべ。大きく伸びをした右手が、デスクの端に置いてあったさやかさんのバッグを床に落としてしまった。床にぶちまけられた中身を慌てて拾い集めていると、あるものが目に飛び込んできて、俺はその場で固まってしまった。これは……いわゆる、大人のおもちゃ。なんでこんなものがさやかさんのバッグに。顔がカーッと熱くなるのを感じた。足音が近づいてくる。俺はそれを掴むと、慌ててバッグに突っ込み、元の場所に戻した。

「はい、コーヒー。一服してから帰りましょう」

にこやかにコーヒーを差し出すさやかさんの顔をまともに見られず、俺は俯くしかなかった。

「ん? どうした? 気分でも悪い?」

そう言って心配そうに覗き込んでくるさやかさんに、俺はたまらず言った。

「あ、終電間に合わないんで、失礼します。コーヒーありがとうございます」

コーヒーを掴み取ると、逃げるように部屋を後にした。帰りの電車でも、家に着いても、ベッドに入っても、あの妙な物体が頭から離れなかった。あれって、絶対あれだよな……。さやかさんがあんなものを使ってるなんて。頭の中は妄想でいっぱいで、なかなか寝つけなかった。

俺は三谷拓也、32歳。広告代理店で働くサラリーマンだ。新入社員の頃、指導係としてついてくれたのは、4つ上の美人社員のさやかさん。長い黒髪ですらりと背が高く、思わず見とれてしまうほどだった。だけどなかなか厳しい人で、新入社員だった俺は毎日何度も叱られていた。細かい指摘に嫌気が差したことも数えきれない。他の人に対しても厳しかったから、さやかさんははっきり言って会社で嫌われているようだった。とはいえ、理不尽なことを言われたわけでもないし、さやかさんの指摘はいつも正しかった。だからこそ悔しいし、できない自分が情けなくなる。さやかさんが悪いわけではないのだが、なんとなく彼女を避けてしまう自分がいた。

だけど俺たちは、毎日一緒に残業せざるを得ない状況だった。他の社員たちは厳しい口調のさやかさんを遠ざけていたが、俺はそうはいかない。ぐっと我慢しながら、いつも正論を言うさやかさんの言葉を受け入れていた。周りから見たら一目置かれて、必死に残業を頑張る仕事熱心な人だと思われていたかもしれないが、本音は違う。もちろん昇進はしたい。だがそれは、さやかさんの指導から逃れたいからだ。役職がつけば、さやかさんの指導を受けなくて済む。細かいところも妥協しないさやかさんとの仕事は、はっきり言って息が詰まる。尊敬はしているが、厳しい指導に心身共に疲れ果てていた。

そして今、俺とさやかさんは社運をかけた大きなプロジェクトを任されている。成功させることができれば、昇進だって夢じゃない。そのクライアントの本社がある大阪へ、俺はさやかさんと一泊で出張に行くことになった。

「ついに明日ね。準備は万全だけど、最後に一通りチェックしましょう」

残業時間はとっくに過ぎていたが、さやかさんは明日のプレゼン資料を全て広げ、そう言った。ここ最近、この案件に真正面から取り組んで、入念に準備を重ねてきた。失敗は許されない大きな案件だ。早く帰りたい気持ちを抑えながら、俺はさやかさんに言われた通り一つ一つ確認していった。1時間ほど作業した後、さやかさんは満足そうに微笑み、立ち上がった。

「飲み物を買ってくるね。コーヒーでいい?」

「すみません、ありがとうございます」

さやかさんは小さな財布を取り出し、部屋を出ていった。厳しい人だけど、時々こういう気遣いを見せてくれる。そういうところも人として尊敬できる。でも疲れたな……。さやかさん、めっちゃ細かいところまで妥協しないんだもんな。そんな独り言を言いながら、大きな伸びをした時だった。あ、やべ。

次の朝、遅刻寸前の時間に飛び起きた俺は、ダッシュで駅に向かった。さやかさんより先に着かなきゃと思っていたのに、待ち合わせ場所には不機嫌そうなさやかさんがすでに立っていた。

「すみません、遅くなりまして」

そうは言ったものの、時間には間に合っている。約束の5分前だったし。だけど、

「ギリギリね。ダメじゃない。もうちょっと余裕を持って行動しないと」

そう軽く怒られてしまった。厳しく睨みつけるさやかさんの視線を感じながらも、昨日の妄想で頭はいっぱい。次々に浮かんでくる新たな妄想を、俺は必死に消していた。これから大事なプレゼンに行くというのに、こんなことじゃいけない。新幹線では隣にいるさやかさんと目を合わせないようアイマスクをして眠ったふりをした。いや、というか昨日寝ていなかったから、気がつけば熟睡していた。あっという間に大阪に到着した。

取引先の会社までさやかさんと並んで歩くこと数分。超高層ビルに圧倒されたが、さやかさんは、

「よし、やるわよ。絶対に契約取りましょう」

そう言って、颯爽とビルに入っていった。気合いを入れて臨んだプレゼンは大成功。取引先の社長に「是非、契約させてくれ」と頭を下げて言われた時は、飛び跳ねるほど嬉しかった。思わずさやかさんと手を取り合って喜んだ。

「本当に良かったわ。無事契約が取れて、三谷君のおかげよ。うまくフォローしてくれて、本当に助かった。感謝してるわ」

緊張したプレゼンを終え、ほっとした俺たちはホテル近くの居酒屋で乾杯していた。さやかさんから褒められたのは初めてのことだ。ましてや感謝されるなんて。

「ありがとうございます。でも俺は何も。さやかさんのプレゼンが完璧でしたよ。あんな人を引きつける話し方、俺にはできません。すごいです」

さやかさんは仕事中とは違う、柔らかい笑顔を見せた。少し酔ったのか、頬をほんのり赤く染めている。

「褒めすぎよ。でもありがとう。三谷君がいてくれたおかげで、実力以上の力が出せた気がするわ。本当に頼りになるわね、三谷君」

「明日は先方と詳しく契約内容のすり合わせをする予定だし、飲みすぎないようにしないと」

そう言いながら、さやかさんは残ったビールをグイっと飲み干した。次の日のために酒はほどほどにと思っていたはずなのに、結局その後、話が盛り上がって、2人とも結構酔っ払ってしまった。

「ちょっと飲みすぎちゃったかな?」

「これくらいなら大丈夫でしょう。さやかさん、お酒強いんですよね」

忘年会などで何度か飲む姿を見ていたが、一度も酔いつぶれることなく、いつも冷静だった。

「うん、大丈夫。これくらい。私、お酒強いから」

その後、俺たちは気持ちのいい夜風に吹かれながら、予約していた近くのホテルまで2人で歩いた。ホテルに着き、フロントで鍵をもらおうとした時だった。

「確かに2部屋予約したんですけど」

ホテルのロビーに、さやかさんの声が響いた。

「いえ、1部屋で承っておりますが」

「じゃあ、もう1部屋お願いします。開いてる部屋ありますよね。どんな部屋でもいいんで」

「いえ、今日は満室でして……」

……え? 俺とさやかさん、それぞれ予約しておいたはずなのに。何の手違いか、1つしか抑えられていないらしい。

「仕方ないっすね。俺、近くのカプセルホテルにでも泊まりますよ」

確か駅近くにカプセルホテルがあったはずだ。俺はそこに向かおうとホテルを出ようとしたのに。気がつけば俺は、さやかさんと同じ部屋にいた。

「疲れてるのに、三谷君を狭いカプセルホテルに泊まらせるのは申し訳なさすぎるわ」

さやかさんは、俺の腕を掴んで強く引き止めたのだ。2人きりの部屋。俺の心臓はバクバクと音を立てていて、その音がさやかさんに聞こえてしまうんじゃないかと思うほどだった。

「じゃ、じゃあとりあえず、さやかさん、シャワー浴びてきてください。今日は早く寝ましょう。お疲れでしょうし」

動揺しすぎて声が上ずっているのが、自分でも分かった。

「じゃあ、お先に」

意味ありげな笑みを浮かべて、さやかさんはバスルームに消えた。その後、どうにか平静を保とうと、面白くもないテレビを一人で眺めていた俺のところに、あられもない姿のさやかさんが現れた。

「さ、さやかさん! 服、服着てください!」

「いいじゃない、三谷君」

俺の耳元に息を吹きかけ、甘くささやく。こんなの、我慢しろっていう方が無理だ。俺たちはそのままベッドに倒れ込み、肌を重ね合わせた。それは、一生忘れられない夜となった。さやかさんのバッグの中にあったあれ。忘れようと思ったけど、ずっと記憶にこびりついていたあれ。まさか今、あれを使うことになるとは。さやかさんがバッグからあれを取り出した時には、息が止まるかと思った。結局俺たちは、朝まで求め合った。

次の朝、ヘトヘトで朝食を取る元気もない俺だったが、さやかさんはもりもりとサラダやトーストを平らげていた。睡眠不足で目の下にクマを作っている俺をよそに、さやかさんの肌は心なしかツヤツヤと輝いている。いろんな意味で、この人には勝てないな。そう思った。

その後、予定通り取引先に向かう。先方との契約も順調に進み、俺たちは早々に東京に着いた。予定していた時間より随分早く帰れそうだ。寝不足だし、ちょうど良かった。家に帰って寝よう。そう思っていた俺に、さやかさんは言った。

「予定してた新幹線は19時だったわよね。あと5時間もあるわね。昨日の続き、楽しみましょう」

そう言って半ば強引に俺を引っ張って連れてこられたのは、昨日のホテル。俺たちは再び体を重ねた。それがどれだけ激しかったかと言うと、少なくとも俺は次の日、全身筋肉痛になったほどだ。帰りの新幹線で、俺はさやかさんに聞いてみた。

「あの……俺たちって……これから付き合うかどうかってこと?」

「それはこれからの三谷君次第かな?」

そうだ。とりあえず、今度の日曜日、映画にでも行かない? 見たい映画があるの。付き合ってよね。なぜか次のデートの約束を取り付けられてしまった。断ればいいものの、なぜか喜んでいる自分もいた。さやかさんから離れたくて仕事を頑張っていた俺なのに。休みの日に待ち合わせて、さやかさんと会うなんて初めてだった。

これは、やっぱりデートなんだよな。ドキドキしながら待っていると、さやかさんが小走りで駆け寄ってきた。いつものスーツ姿じゃなくて、無地のTシャツにデニムスカート姿のさやかさん。綺麗な顔にシンプルな装いがとても似合っている。映画を見終わって、併設されたカフェでおしゃべりしていたところだったのに――

「あれ? さやかさんと三谷?」

驚いた様子で声をかけられた。振り向くと、そこには会社の同僚、森本が目を丸くして立っていた。

「そっか。あ、そうなんだ。あ、大丈夫大丈夫。俺、口は硬い方だから。秘密なんだよね、2人の仲は」

「うん、うん。分かった。じゃあね」

俺たちは何一つ言っていないのに、一人で納得した様子で喋り続け、森本は去っていった。なんだか嫌な予感がした。その予感は、残念ながら的中してしまった。

「三谷君、さやかさんと付き合ってるって本当? さやかさんを落とすなんてすごいじゃん」

「いや、俺は勘弁だけどな。さやかさん、色々細かそうじゃん。嫉妬とかもすごそうだし」

みんな言いたい放題だった。俺もこんな経験は初めてでどう対応すればいいのか分からず、動揺するばかり。さやかさんも同じように戸惑っているようだった。ちょっとした騒ぎとなっていたけれど、時間が経てばそのうち落ち着くだろう。そう思っていたのだが、話は思わぬ方向に進んでいた。

「三谷君、会社で、あれは、いかんよ。さすがにねえ」

ある時、妙な顔をした部長に別室に呼ばれたかと思うと、いきなりそう言われた。俺は部長に話を聞いて、口が塞がらなかった。毎日毎日必死で残業していた俺とさやかさんに、根も葉もない噂が立っていたのだ。

「残業してるふりして、2人で夜な夜な楽しんでたってことじゃないか。いくら若いからってね。そういうことは、他の場所でやってくれたまえ」

ニヤニヤする部長に、虫の居所が悪くなった。

「そんなこと、ただの噂でしかありません。俺たちは必死で仕事をしていただけで、結果だって出してるじゃないですか」

大きな契約を取り付けて、部長も喜んでいたはずだ。

「それに、さやかさんは全力で一生懸命仕事をしています。そんな噂、でたらめです」

「いや、でも、火のないところに煙は立たないって言うしね」

それは否定できない。全く火がないわけでもないし。だけど、こんなことでさやかさんの頑張りが否定されるのは納得がいかなかった。

「ま、噂だったとしても、今後は2人だけの残業はやめてくれ」

部長はそれだけ言って、自分のデスクへと戻っていった。その後、噂は収まるどころか、さらに尾ひれがついていった。

「仕事中にホテルに行くとか、やばすぎない?」

「この前なんて、早朝から2人で出勤してきて。こっそりここで、あれしてたらしいよ」

「きゃあ、マジでやばすぎ」

俺に聞こえるように噂話をする女子社員たち。当然、さやかさんにも聞こえているだろう。俺は我慢できるが、さやかさんは大丈夫だろうか。そう心配していた矢先、さやかさんは無断欠勤をした。心配になって電話をかけてみると、その声はすっかり消沈しているようだった。

「さやかさん、大丈夫ですか?」

一瞬の静寂の後、嗚咽と共に、さやかさんは呟いた。

「……大丈夫じゃないかも。一生懸命仕事してたのに、あんな噂を立てられて。悔しくって」

話しながら鼻をすする音がする。

「頑張ってきたのよ、私。毎日必死で。力が入りすぎちゃって、ついきつい言葉で怒ってしまうこともあった。細かくて嫌になっちゃうこともあった。みんなが私のこと嫌ってるのも分かってた。でも、頑張ってたの。なのに……」

弱々しいさやかさんの声に、俺は思わず言った。

「分かってます。俺が一番分かってます。ずっとそばにいたんだから」

「そう……そうね。私の厳しい指導でも、必死についてきてくれた三谷君だけよ、そんなの」

俺はさやかさんの言葉を聞いて、胸がちくりと痛んだ。だって俺は、昇進したくて……さやかさんと離れたくて、仕事を頑張ってきたんだから。厳しい指導から逃れたかったから。もちろん、今は違う。俺はいつの間にか、さやかさんに心を奪われていた。あの夜をきっかけに。

「さやかさん。俺、さやかさんのことが好きです」

唐突な俺の告白に、さやかさんは驚いていたようだった。だけど、すぐに答えてくれた。

「私も……実はずっと気になってた。何を言ってもついてきてくれる、いつも一生懸命な三谷君が好き」

その甘い声に、俺はあの夜のことを思い出さずにはいられなかった。人が変わったように俺を求めてきた、さやかさん。内心、孤独で、とても寂しかったんじゃないだろうか。俺はそんなさやかさんが、愛しくてたまらなかった。

「さやかさん、明日、一緒に出勤しましょう。見せつけてやりましょうよ、くだらない噂話を好き勝手に広めてる奴らに」

翌日、2人揃って出勤してきた俺たちに、周囲はひそひそと騒いだ。俺たちを見つけた部長は、ひどく焦った様子で駆け寄ってくると、俺たちの腕を引っ張った。

「ちょっと、会議室に来なさい」

「……どういうつもりだね。なんでそう、火に油を注ぐようなことを」

「どういうつもりも何も、別に意味なんてありませんよ。社内恋愛禁止でしたっけ? 違いますよね」

部長は「うーん」と口を尖らせた後、言った。

「あの大きな契約を取ってきたのは、紛れもなく君たち2人だ。今後にも期待している。だからこそ、変な噂で潰したくないんだよ」

「ご迷惑はおかけしません。これ」

俺はさやかさんに目配せをした。昨日、あの後、さやかさんとは電話で色々と話していた。仕事の頑張りを正当に評価されず、子供のようなくだらない噂を流され、これ以上冷たい目で見られることに我慢できないということ。以前から独立したい気持ちがあったこと。俺と2人ならやっていける自信があるということ。俺たちは、そっと退職届を差し出した。

「私、これからは、心志を共にする人と頑張っていきたいと思っています。独立して会社を起こすことは、以前からの夢でした。今こそその時だと思いまして」

「君たちがいなくなったら困るよ。会社としても大きな損失だ」

部長は途端に慌て始めたが、俺たちは退職届を部長のデスクに置いたまま、部屋を出た。

そこからは、もう無我夢中だった。たった2人きりで立ち上げた新会社。やりたかったこととはいえ、苦労は耐えなかった。なんとか軌道に乗ってきたのは、起業して3年が経った頃。従業員も年々増やすことができ、起業から5年経った今では、社員50人を抱えるほどに成長した。

そして、出会いから10年。俺はやっと、さやかにプロポーズすることができた。さやかの部下であることから逃れるために必死で頑張っていた昔の俺。まさかさやかと一生一緒にいることになるとは、考えもしなかったな。あの頃の自分からは想像もしていなかった未来に立っているわけだが、後悔はない。尊敬できるさやかと一緒にいられて、本当に幸せだ。唯一の不満と言えば、今は体を重ね合うことができないということ。なぜなら、さやかのお腹の中には、俺たちの大切な命が育っているから。来年の春には、3人家族になる予定だ。昨日、お腹の中の子は女の子だと判明したばかり。さやかに似た可愛い女の子であればいいな。俺とさやか、そして娘の輝く未来が楽しみで仕方ない。

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