朝の六時、東洋正規の工場にはまだ誰もいない。木村は一番乗りで正門の鍵を開け、作業台を一枚ずつ布で拭いていく。六十八歳になった今も、その手順を五十年以上変えたことがなかった。擦り切れた作業着に、色の抜けた安全ゴーグル。胸ポケットには、古い手回しのマイクロメーターが一つ入っている。木村はそれを取り出し、柔らかい布で丁寧に磨いた。目盛りはもう読みにくい。それでも木村の指は、その数字を寸分の狂いもなく覚えていた。
定年を過ぎても木村は職人として現場に残っていた。だが、ここ数年で入った若い社員たちの目には、一日中掃除をしているだけの老人に映っている。決まった担当も持たず、機械の前にいる時間より雑巾を持っている時間の方が長い。
「ねえ、あのじいさんって結局何の人? 」
「さあ、職人らしいけど、何の職人なんだか。社長の気遣いで置いてもらってるんじゃない? 」
そんな陰口は木村の耳にも届いている。だが、言い返すこともなく、今日も黙って雑巾を絞っていた。
木村がこの会社に来たのは十五歳の時だった。家の事情で高校へは進めず、中学を出たその足で働き口を探したのに、中卒の少年を雇ってくれるところはどこにもなかった。町場を一軒ずつ訪ね、頭を下げては断られて回った。何件目かにたどり着いたのが、東洋正規だった。出迎えた森田社長は痩せた少年をじっと見て言った。
「お前に何ができるんだ? 」
答えにつまる木村に、森田は古い金具を一つ放り、「磨いてみろ」と顎で示した。木村は半日無心でそれを磨き続けた。光を放った金具を見て、森田の目の色が変わった。
「おお、お前のその手はいい手だ。会社の宝になるぞ。」
そう言って、森田は自分の胸ポケットから古い手回しのマイクロメーターを抜き、木村の手に握らせた。
「これでその手をもっと確かにしろ。」
それは気休めの言葉ではなかった。木村にとっては、生まれて初めて自分を認められた瞬間だった。あの日もらったマイクロメーターは、五十年経った今も胸ポケットで光っている。
それからの木村は金属の表面に取り憑かれた。どれだけ磨いても見えない傷が微細な歪みを生む。鏡のような面を作れないかと、来る日も来る日も試作を重ねた。同僚には笑われた。中卒が学者の真似かと。設備もなく、独学の十五年の長い夜の連続だった。試作が割れる度に自分の手を恨んだ夜もある。それでも諦めなかったのは、森田のあの一言があったからだ。あの人が宝だと言ってくれたなら、宝にしてみせる。十五年目の冬、木村の手はついに思い描いた面を生んだ。だが、木村はそれを誇ることもなく、また黙って現場に立ち続けた。
今、その木村の背中を追いかける若者が一人いる。田村翼、二十三歳。高校を中退して入った不器用な青年だ。この朝も翼は、前日の仕上げに一人で頭を抱えていた。
「師匠、どうしてもここで曇りが出るんです。何度やっても。」
木村は黙って翼の手元を覗き込み、指先で工具の角度をほんの少し変えてやった。
「力で押すんじゃねえ。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」
「聞く、ですか?

」
「ああ。手が覚えるまで何度でもな。」
翼はもう一度工具を握り直した。教わった通り力を抜いて、金属の声を聞くように刃を当てていく。すると、あれほど消えなかった表面の曇りが嘘のように引いていった。磨き上げた面が朝の光を鏡みたいに跳ね返す。
「え、嘘でしょ? すげえ。師匠、曇り完全に消えました。」
木村は何も言わず、作業に戻っていく。穏やかな朝だった。
その朝、東洋正機の朝礼に見慣れない男が立っていた。派手なイタリアンスーツに高級腕時計。本社から開発統括部長として送り込まれてきた白石である。四十三歳。現場に漂う油の匂いに早くも鼻をつまみ、嫌そうな顔をしていた。
「本社から来た白石です。あ、先に一つだけ言っておく。僕が口を聞くのはステークホルダー、つまり決定権を持つ人間だけだ。現場でネジを閉めてるだけの人と無駄話をする気はない。以上。」
それだけ言うと、白石は腕時計に目を落とした。もう朝礼には興味がないという顔だった。そして、白石の斜め後ろに立っていた若い男、大野が喋り始めた。
「僕、部長付きの大野です。要するにですね、部長に話しかけていいのは偉い人だけってことっす。現場のおじさんたちは黙ってネジ閉めときゃオッケーって話。」
朝礼が終わると、白石は大野だけを従えて現場を見て回った。機械には指一本触れず、油の染みを避けて歩く。その足が、木村と翼の作業台の前で止まった。だが、白石は二人に声をかけようとしない。
「あれ誰? 」
「あれっすよ、学歴ゼロコンビ。中卒のじいさんと高校中退の子。じいさんの方は掃除のおじさんみたいな感じで置かれてるだけっす。」
「ふうん。いる意味ある? 」
「さあ、どうなんすかね。少なくとも僕にはわかんないっす。」
目の前で見下げられても、木村は手を止めない。ただ、隣で顔を赤くした翼の袖口をぐいと引いた。落ち着けという合図だった。
「おはようございます。木村と申します。」
木村の挨拶には答えず、白石は作業机へ目をやった。手のひらほどの古びた手帳が一冊置いてある。木村が長年書き留めてきた内容が、小さな字でびっしりと綴られた一冊だ。手垢で黒ずんでいる。
「何これ?
手書き? 」
「それは表面処理の……」
「あ、説明はいい。見れば分かる。エビデンスもデータもなし。完全に時代遅れだな。こういうのが生産性を下げてんだよ。」
白石はパラパラとページをめくっただけで、一行も読まずに手帳を放った。それが床に滑り落ちる。振り返ると、白石の革靴がその上をぐっと踏みつけた。
「あ、それ師匠の……」
「ああ、踏んじゃいましたね。ま、ただの手帳だし。」
木村は静かに首を横に振った。翼は言いかけた言葉を喉の奥へ押し戻した。木村がかがんで手帳を拾い上げ、表紙についた靴の跡を指の腹で払い、折れたページを直して胸ポケットに収めた。
「掃除ちゃんとやっといてよ。それくらいはできるでしょう。あんたでも。」
大野と顔を見合わせ、白石は喉の奥で笑った。二人の足音が現場の奥へと遠ざかっていった。その背中を木村は黙って見送る。怒りはなかった。ただ、自分が長年書き留めてきたあの手帳を一行も読まれず、靴で踏みつけられたことだけが、胸の奥に小さな熱を残した。
数日後、会社に大きな仕事が舞い込んできた。海外の医療機器メーカーからの大口の受注。部品の表面処理にかけては世界でも指折りと言われる東洋正機の社運をかけたプロジェクトだった。受注額はこれまでの会社の規模からすれば桁が違う。
その朝、進捗会議のために社員が集められた。木村と翼も末席に並んで座っている。プロジェクトマネージャーを任された白石が、ホワイトボードの前で得意げに横文字を並べていく。説明がひと区切りしたところで、翼がおずおずと手を上げた。
「あの、部長。その納期だと表面処理の仕上げが間に合いません。あの工程は機械じゃなく手作業で一つずつ詰めていくので、どうしても時間が……」
「ストップ。」
白石は翼の言葉を途中で遮った。
「手作業。今時それ自体がもう非効率なんだよ。」
「で、でも、その仕上げをやってるのは……」
「誰がやってようと関係ない。データで詰めろ。以上。」
代わりに大野がニヤニヤと口を挟んだ。
「この子、田村っすけど高校も出てないんすよ。中卒のじいさんにべったりで、学歴ゼロコンビって有名な二人なんすよ。」
白石の視線がちらりと木村に向いた。下げるな、というような目だった。
「あのさあ、皆さんにも聞きたいんだけど、中学しか出てない人の勘とデータ、どっち信じます? 普通に考えて。」
誰も答えない。社員たちは手元の資料に目を落としてやり過ごすしかなかった。翼は油の染みた軍手の中で指を強く握り込んだ。だが、木村は眉も動かさない。ただ、隣の弟子の腕に黙って手を置いた。
その時、低く通る声が会議室に響いた。
「白石部長。」
いつの間にか後ろの扉が開いていた。社長の西村誠が出入り口に立っている。どうやらやり取りの最後を聞かれていたらしい。穏やかな人だが、その目は笑っていなかった。
「その仕上げの行程はうちの心臓です。効率だなんだと、そう簡単に切り捨ててもらっては困る。」
その一言で、白石の態度が手のひらを返したように変わった。
「あ、社長。いえいえ、とんでもないです。軽く見てるだなんて、滅相もない。むしろ僕は、この現場の技術を心からリスペクトしてまして。」
「へえ、本当に。」
「ただ、せっかくの素晴らしい工程をもっと効率的に、会社の未来のためを思って……」
さっきまで現場を見下していた男が、社長の前では別人のように腰を折る。社員たちは白けた目を向けていた。
「構わない。」
社長は短く流すと、一同を見回して告げた。
「来週、社運をかけた重要な契約の締結があります。その肝となる書類は、今私が自分の手で書き上げているところです。これが整って初めて契約は前に進む。書類の管理だけは最新の注意を払ってもらいたい。」
「もちろんです、社長。」
「おい、聞いたな。社長の大事な書類だ。粗末にしたら承知しないからな。」
社長が会議室を出ていくと、白石はすぐに舌打ちした。
「ったく、書類一枚で大げさなんだよ。どうせまた手書きのあれだろ。」
「手書きなんすよね。この会社、守りすぎなんすよ。」
会議が終わり、社員が散っていく。翼は顔を上げられずにいた。
「師匠、すいません。俺が余計なこと言ったから。」
「いいや。お前は正しいことを言った。仕上げはごまかしが効かねえ。それでいいんだ。あんな言われ方、気にするな。手は嘘つかねえからな。」
木村は胸ポケットから古い手帳を取り出すと、今日気づいたことを小さな字で書き出した。何を言われても、この老人の朝は変わらない。
それから数日後の夜、現場には木村と翼だけが残っていた。居残りで仕上げの手直しをしていた二人の元へ、西村社長が一人でやってくる。手には分厚い封筒を抱えていた。
「木村さん、あの契約の書類がようやく書き上がったよ。この中の仕上げの取り決めのところ、数字に無理がないか、あんたに見てもらえないか? 」
「私でよければ。」
「あんたが毎日見てる現場だ。あんたの目が一番確かだからね。」
封筒を渡すと、社長は少し声を柔らげた。
「それとね、この契約のまとめ役は白石部長に任せてあるんだ。本社から来たばかりでまだ青いが、ここらで一つ大きな手柄を立てさせてやりたくてね。あの人にもいい顔をさせてやりたい。明日の朝で構わない。頼むよ。」
社長が帰って行くと、翼が頬を膨らませた。
「師匠、なんであんな部長のために師匠が手を貸すんすか?
あの人、師匠のことをあんなバカにして。手柄なんて絶対やりたくないっすよ。」
木村は封筒の書類を作業台に広げながら、低い声で言った。
「そんな小さいことにこだわるな。俺たちが向き合ってんのは部長でも手柄でもねえ。この手が仕上げたもんが、海の向こうで誰かの機械を動かす。誰かの役に立つ。目指してんのはそっちだろうが。」
「はい、すいません。」
封筒の中には、徹夜して書いたのだろう、貴重な手書きの契約書類が収まっている。社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけてまとめた一本の原本だった。
翌朝、木村は書類を作業台に広げ、翼に仕上げの数字を一つずつ確かめさせていた。
「ここの数字は現場の手が分かってねえと書けねえ。社長がそれを俺たちに託してくれたんだ。」
「はい、ちゃんと覚えます。」
二人が顔を寄せていたその時だった。物音もなく白石が現場に入ってきた。効率化の名の下に紙の資料を片端からデータ化しろと現場を回っている最中だ。その視線が、作業台に広げられた手書きの書類で止まる。
「ここでも手書き? はあ、勘弁してよ。」
横からひょいっと書類をつまみ上げ、ヒラヒラと振ってみせる。
「ねえ、これだよ。これがこの会社をダメにしてんの。いい機会だ。みんなよく見てなよ。」
「あ、部長。それは……」
「中卒のおじさんがこさえた立派な企画書いちゃってさ。こういうのはこうすんだよ。」
白石の口元がにやりと釣り上がった。
「中卒の企画書はシュレッダー行きな。」
手を伸ばした翼の前に、大野がさっと立ちはだかった。
「おいおい、勝手に騒ぐなって。部長が処分してんだ。」
ガリガリと無情な音が鳴った。社長が一文字一文字書き上げた文字が、細い帯になって下のくずかごへ落ちていく。丁寧な手書きがバラバラの切れ端に変わっていき、最後の一枚が吸い込まれて機械が止まった。
我に返った翼が悲鳴のような声をあげた。
「あ、あんた何してんだよ! この前の、あの会議の時の大事な……! 」
白石は本気で意味が分からないという顔をした。
「おいおい、落ち着けって。学歴のないおじさんたちが書いたメモかなんかだろ。そんなの、したってどうせ無駄でしょ。」
「違う!
あれは、来週の契約の取り決めが全部……あそこに、百億の話なんですよ! 」
「百億? ああ、あれね。そのプロジェクトを回してんのはこの俺だぞ。」
白石にとっては、書類がなくてもまた作り直せばいい。そんな話を騒ぐなとしか思っていなかった。
「作り直すって……あれは部長のお仕事を支えるための、たった一つの書類なんですよ! 」
「うるさいな。なんだよ、支えるって。僕は聞いてないし、頼んでもいない。余計なお世話を勝手にされても困るんだよ。」
その時だった。
「これ、社長が作られた資料です。」
木村は低く淡々と続けた。
「社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけて自らの手でまとめた原本です。白石部長、あなたに大きな手柄を立てさせてやりたいと、社長はそう言っておられた。」
その一言は、現場の誰の耳にもはっきりと届いた。白石の顔が完全に青ざめた。足がわずかに震える。
「ふ、嘘だ。嘘だろ。そんな大事なもんを、なんでこんな……!
」
白石がすがるように大野を見た。
「そうっすよ。こんな紛らわしい場所に大事なものを置いてた現場が悪いんす。普通、こんな汚い作業台に大事な書類は置かないっす。完全に現場の管理ミスっす。」
「そ、そうだ。その通りだ。僕は悪くない。中卒のじいさんの机に置いてある書類なんか、誰がゴミと思わないんだ。むしろ僕は被害者だろ。大体僕はプロジェクトマネージャーだぞ。こんな書類の管理なんて雑務、僕がいちいち見るわけないだろう。」
「ですよね。部長は大局を見るのがお仕事すから。こんな細かいこと、いちいち部長の責任にされたらたまんないっすよね。」
吐き捨てるように言い残すと、白石は逃げるように現場を出ていった。大野がヘラヘラ笑いながらその後を追う。後に残ったのは、くずかごに詰まったバラバラの切れ端だけだった。
木村は何も言わない。ただ、かがんで社長の丁寧な文字の断片を一枚ずつ拾い上げていく。その背中を、翼はただ見ていることしかできなかった。現場は静まり返っていた。木村の胸の奥に、もう消えそうにない熱が灯っていた。
書類が裁断されたという知らせは、その日のうちに社長室へ届いた。西村社長が現場に降りてきた時、その顔からいつもの穏やかさは消えていた。くずかごに残った細い紙の帯を見て、社長はしばらく動けなかった。
「これが全部か。」
「申し訳ありません。うちの机に置いてしまったばかりに。」
「あんたが慌てることじゃない。」
社長はバラバラの切れ端を一つ、指でつまみ上げた。三週間、頭を下げて回った日々が、その指の中で乾いた音を立てた。
ほどなく現場に呼び出された白石が、社長の前で深く腰を折った。
「社長、本当に申し訳ありません。紛らわしい場所に置いていた、現場の管理に問題がございまして……」
「白石部長。」
低い声が白石の言い訳を断ち切った。
「来週の契約締結は、あの取り決めがなければ成立しない。先方の合意も署名の段取りも、全てあの一枚に集めてあった。分かるか? あの一枚で会社が傾くんだ。」
「でしたら、次はパソコンで作れば、なんとか間に合うかと……」
「何週間もかけて集めたものを、どうやって来週までに作り直すんだ。」
社長はそれ以上は責めなかった。ただ、深い疲れの滲む目で白石をしばらく見ている。
「君に任せたのは私の判断だ。その責任は私が取る。」
そう言い残して、社長は重い足取りで現場を出ていった。その丸まった背中を、木村は黙って見送る。あの人は森田の一人息子だ。自分を認めてくれた人の、たった一人の息子を。あの背中をこんな目に合わせるわけにはいかない。胸の奥の熱が、はっきりとした形を結んだ。
木村は社長の跡を追って廊下に出た。
「社長。あの取り決め、一枚、私らに集め直させてください。」
「木村さん、気持ちはありがたい。だが三週間かけたものを、来週までに……」
「中身は翼が組み直します。あいつはもう仕上げの数字が分かってる。頭を下げて回るのは私がやります。間に合わせます。」
社長はしばらく木村の顔を見ていた。そして、深く頷いた。
「そうか。頼む。あんたが言うなら信じるよ。」
その日から翼が走り回った。木村に言われた通り、現場と取引先をかけ回り、消えた中身を一から組み立て直す。仕上げの数字を測り直し、図面に起こし、相手先へ足を運んでは確認を取る。朝から晩まで、靴底が擦り減るほど歩いた。一方、木村は現場の片隅で古びた手帳を片手に電話をかけ続けた。何十年もこの手を通して付き合ってきた相手だ。
「ご無沙汰しております。木村です。」
電話の向こうで、相手の声がふっと変わった。
「木村さん? ああ、東洋さん。お久しぶりです。いや、あなたから直接なんて珍しいこともあるもんだ。」
その声は、さっきまでの事務的な口調とはまるで違っていた。長く付き合ってきた相手だけが見せる、打ち解けた柔らかさだ。あんなにそっけなかった相手が、師匠の名前一つでこうも変わる。翼にはそれが不思議でならなかった。
「無理を承知でお願いがあります。あの取り決め、もう一度だけ力を貸してもらえませんか? 中身はうちの若いのがもう全部組み直しました。あとはあなたの一筆だけなんです。」
相手の返事はすぐには出ない。一度断った話だ。簡単に戻るものではなかった。木村は何度も頭を下げ、ぽつぽつと言葉を重ねていく。翼はその背中を、祈るように見つめた。来週の締結まで、もういくらも残されていない。
数日後、現場を通りかかった白石が、まだ電話をかけ続ける木村を顎で指した。
「大野、見ろよ。あれまだやってんの?
あのじいさん。」
「あの、でもいいんすか? 一応部長のプロジェクトすけど。」
「いいんだよ。責任は私が取る。社長が自分でそう言ったんだ。僕は痛くも痒くもない。大体な、三週間かかった話を中卒が電話一本でひっくり返せるわけないだろう。どうせ失敗する。そしたら、現場が勝手に無理しただけって話で終わりさ。」
「ああ、なるほど。さすが部長。抜かりないっすね。」
白石は木村のそばまで歩み寄ると、わざと聞こえるように言い放った。
「無駄無駄。中卒のじいさんが頭下げたところで、何が変わるんだかね。」
木村はペンを置くと、ゆっくりと白石を見た。怒りではない。底知れない静けさだった。
「部長さん、一つだけ言わせてください。壊すのは一瞬だけどな。人の信用ってのは、そんなに安くねえ。あんたが今日捨てたものの本当の価値を、時に嫌でも知ることになる。」
「はあ? 何それ? 脅しか?
」
笑い飛ばそうとした白石だったが、木村の目の奥に消えない炎があった。
その後、翼の汗と木村の信頼で、契約は一件ずつ息を吹き返した。だが、白石だけは面白く思わず、祀り上げられるより手柄の横取りを選んだ。その夜、白石は大野だけを部長室に呼びつけていた。
「大野、あの契約、今まさに木村と翼が立て直してる最中だろう。その成果を、僕が再建したことにすればいい。」
「え、でも、実際に動いてるのは木村さんたちで……」
「だから誰が動いたかなんて、本社は知らねえんだよ。報告書を書くのはこの僕だ。現場の不始末で頓挫しかけた契約を、私が白石が立て直した。そう書けば僕は手柄を取れる。」
「うわあ、さすが部長。ファルジエだけはよく回りますね。」
「いいか、木村たちには絶対に気づかれるな。あいつらが流した汗は、全部僕の手柄になるんだ。」
その夜のうちに、虚偽の中間報告書が本社へ送られた。木村も翼も、まだ知らない。
約一週間後、契約は締結の日を迎えた。本社重役も同席する報告会。白石が救世主然として、大野が後に続いた。
「いや、皆さんお疲れ様でした。現場が一度は頓挫しかけた案件を、プロジェクトマネージャーであるこの私が白石式を取って立て直しまして……」
「白石君、その白石式だがね。具体的に君はどの取引先と、何を話したのかな? 」
「ええっと、私は全体を統括する立場として、各方面に方針を徹底させまして……」
その時、取引先の担当者、工藤が口を開いた。
「失礼ですが、私はあなたとは一度もお会いしてませんよ。何度も頭を下げに来てくださったのは、木村さんとそちらのお若い方です。」
「え? あ、ああ。もちろん足を運んだのは彼らですよ。私は彼らを動かした司令塔でしてね。現場の尻を叩くのも立派な仕事でしょう。」
工藤が資料をテーブルへ置いた。
「司令塔ですか? では、その司令塔殿に一つ教えて差し上げましょう。この会社の独自の表面処理。その特許の権利者は、たった一人の名義です。木村さん。あなたが学歴ゼロコンビと笑って顎で使ってきた、あのお方ですよ。」
白石の動きがぴたりと止まった。
「はあ?
あ、あの掃除のじいさんが? 」
「うちは長年木村さんから特許をお借りして製品を作らせてもらっている。あの人が首を横に振れば、この会社の主力は一つも世に出ません。あなたが見下してきたその人こそ、この会社を生かしている要の本人なんです。」
白石は血の気が引き、体に油汗を滲ませた。
「ふ、嘘だ。そんな、ただの中卒の掃除のおじさんが特許なんて。僕は聞いていない。何も聞いていないぞ。」
「では、これは。」
工藤はもう一枚、書類をテーブルへ滑らせた。
「あなたが本社へ送った中間報告書です。『現場の不始末で頓挫しかけた契約を、私が白石で立て直した』とはっきり書いてあります。」
「こ、これは。その報告書は、部下が私の名前で勝手に出したものでな。なあ、大野。」
白石はとっさに大野へ話を振った。
「え、僕は書いてませんよ。あれは部長が。『これで俺は救世主だ』って、自分で送るんだって……」
「大野君も同罪だ。共犯として今日で終わりだ。」
「そ、そんな。部長が言うから黙ってただけで……」
「黙って主人を売った。君の言葉も全部記録に残っている。」
大野は膝をつき、顔面蒼白だった。腰低く頭を下げ、ここぞとばかりに主人を踏み台にした。白石が自分の手で報告書を送った事実だけが、その場に残った。
「白石部長、一つだけ教えてくれ。ただの現場のミスだというなら、なぜ君は本社に『私が立て直した』などと報告できたんだ? 立て直さなきゃならんと最初から分かっていたからだろう。あの書類がもうこの世にないと、自分の手で刻んだんだからな。」
「あ、違う。違うんです……! 」
言い逃れするほど深みにはまり、会議室は冷たい視線だけだった。
「白石部長、法的に整理しておきましょう。一つ、社長が会社の命運をかけて用意した契約書類を、一行も読まずに破棄した。会社業務としての重大な過失。二つ、その損害を隠すため、部下の成果を自分の手柄と偽り、本社へ虚偽の報告を上げた。管理職としての明白な背信。三つ、この会社を生かす特許の持ち主、木村さんの仕事を土足で踏みにじった。四つ、木村さんへの名誉毀損。会社としても損害賠償を追求します。懲戒解雇の理由として、これ以上のものはありません。」
社長が静かに続けた。
「私はね、君に手柄を立てさせてやりたかったんだ。本社から来たばかりの君が、ここで一ついい仕事ができるように。だから私はあの書類を、自分の手で書き上げた。その手を、君は一行も読まずに刻んだ。最後まで人のせいにして、嘘で塗り固めた。うちの一番大事な人を、土足で踏みつけてな。」
「い、いずれにしろ社長。結果的に契約は取れたわけですし。それに元をたどれば、紛らわしい場所に置いていた現場の不始末で……」
「いい加減にしろ!
」
机を打つ音が響き、社員は初めて社長の怒声を見た。
「白石、会社は君を懲戒解雇する。本社にも異論はないね。」
「我々も、ありもしない報告書で欺かれた側だ。処分に口を挟む気はない。」
万事休すのはずだった。だが、白石は最後の悪あがきに出た。
「ふ、不当解雇だ。認めませんよ。訴えますからね。退職金と慰謝料はきっちり払ってもらえますからね。」
「どうぞご自由に。ただ、二つ。懲戒解雇に退職金は出ません。それが規定です。なお、あなたが訴えるより先に、会社があなたを訴えます。給与口座は差し押さえ、隠し資産があれば全て出せと言われる。刑事告発も検討中だ。契約書類の破棄は、業務上横領に当たり得る。金額、百億。」
「そ、そんな。無理だ。払えるわけが……」
白石の膝が落ち、腕時計が床で転がった。誰も味方はいなかった。白石は木村と目があった。縋るような目だった。
「木村さん。あんたが一言、許すと言ってくれればなあ。頼む。この通りだ。」
木村は、踏みつけられた手帳を白石の目の前にかざした。
「これに身に覚えがあるか? あんたが踏みつけたやつだ。壊すのは一瞬だったな。けどな、ここに書いてあるのは、俺が五十年この手で覚えてきたもんだ。あんたには、最後まで一行も読めなかったろう。学校や肩書きで測るのは、もうやめなさい。あんたに見えていなかったものは、まだ世の中に山ほどある。」
手帳を胸ポケットへ戻し、木村は背を向けた。
その日、契約は締結された。白石と大野は警備員に連れて行かれた。
夕方、木村はいつも通り現場で作業台を拭いていた。
「師匠、どうして黙ってたんですか? 師匠が特許の持ち主だって、会社の命綱だって、一言言ってやれば、あんな部長、最初から黙らせられたのに。」
木村は手を止めずに小さく笑った。
「肩書きをぶら下げて『俺は偉いんだぞ』ってやるのはな、一番つまらねえ生き方だ。俺はただ、いい仕事がしたかった。誰が見てなくても、手はちゃんと覚えてる。それで十分だったんだ。人の価値は、学校でも肩書きでも金でもねえ。その人が何をどれだけ、全力で積み上げてきたか。それだけだ。」
木村は胸ポケットのマイクロメーターに指を当てた。森田に教わった通りだ。
「さあ、続きをやるぞ。仕上げはごまかしが効かねえからな。」
「はい、よろしくお願いします。師匠。」
夕日が二人の作業台を赤く照らしていた。
五年後、懲戒解雇と虚偽報告の噂は業界を駆け巡り、白石に雇い口はなかった。今は六畳一間のアパートに追いやられている。大野も共犯として首を切られ、今はコンビニ夜勤。二人とも業界を追われ、拾ってくれたのは小さな下請け会社だった。注文も見積もりも、手書きとファックスだけだった。
ある日、得意先へ頭を下げに行くと、受付に東洋正機の表面処理ライセンスが掲げられていた。隣の壁には「現代の名人」と木村の記事が飾ってある。
「お、お願いします。この処理を施した部品を、なんとか分けていただけないでしょうか? 」
白石は震える手で手書きの依頼書を差し出した。窓口に出た若い担当者は、名刺を見て表情を曇らせた。
「白石さん。取引NGリストに載ってます。無理です。」
「そ、そこをなんとか。どうしても必要なんで……中身は同じですから、紙でも何卒……」
「ああ、すいません。こういう手書き、うちも受け付けてないんですよ。効率化で、データで出し直してもらえます?
」
手書きを切り捨て、データだけを求める。その冷たい言い草は、かつて白石が老人たちに向けていたものだった。
一方、東洋正機では、表面処理は世界の医療機器を支える技術となった。木村は相変わらず毎朝誰よりも早く鍵を開ける。翼は立派な技師になり、表面処理を一手に担う。その後ろには、新人が追いかけていた。
「田村さん、どうしてもここで曇りが出ちゃうんです。何度やってもダメで……」
翼は新人の手元を覗き込むと、ふっと笑った。かつて木村が自分にしてくれたのと同じように。
「力で押すな。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」
「こうですか? 」
「ああ。手が覚えるまで何度でもな。」
離れたところで、木村が目を細めて見ていた。弟子が誰かを守る側に回った。
その日の仕事を終え、木村は翼を呼び止めた。
「翼。これを、お前に。」
差し出されたのは、森田から受け継いだ手回しのマイクロメーターだった。
「師匠? それ、師匠がいつも欠かさず磨いてる。そんな大事なもの、俺なんかがもらえませんよ。」
「森田から俺が受け取らせてもらったもんだ。次はお前の番だよ。お前のその手も、もう立派な宝だ。」
翼の目から涙がこぼれた。木村自身が森田に言われたのと同じ言葉だった。
やがて木村は、森田の墓の前でしゃがみ込んだ。
「親方、ご無沙汰してます。」
木村は手帳の表紙を指で撫でた。
「いろいろありましたよ。腹の立つこともね。でも、守れました。会社も、あんたの息子も。あんたがくれたこの手で。」
風が草を揺らした。
「お前の手は会社の宝になる。あの日の約束、果たせたかね。」
地味な背中だが、手だけは五十年分の重みがあった。明日も、一番で鍵を開ける。


