「ごめんなさい、行けないわ。私、たった今赤ちゃんを産んだの」…

「ごめんなさい、行けないわ。私、たった今赤ちゃんを産んだの」...

離婚して半年、元夫から電話がかかってきた。来月の8日に結婚するから、私にも招待状を送ったという。私は答えた。
「行けないわ。私、たった今赤ちゃんを産んだの」
30分後、彼が息を切らしながら病室に飛び込んできた。鼻をつく消毒液の匂いで意識がはっきりした。昨夜の手術の痛みが、改めて押し寄せる。私は、ベッドの横の保育器で眠る小さな命を起こさないよう、音を立てないように努めた。私の息子、どんぐり。2週間早く生まれた小さな子は、まだ赤く、しわしわだった。
病室には孤独なほどの静寂だけが漂っていた。夫も家族もそばにいない。唯一の友人である弓が、必要なものを準備しに一時的に家に帰っているだけだった。
その時、テーブルの上のスマートフォンが静寂を破った。画面には「元夫」という文字が冷たく浮かび上がっていた。しばらくためらったが、指は無意識にボタンへと滑っていた。
「もしもし」
乾いた声で出た。向こうからは、大学時代あれほど私をときめかせた低い声が聞こえてきた。しかし今は、恐ろしく丁寧な距離感を帯びている。
「しおり、元気か」
藤堂健二。藤堂不動産グループ全体を経営する男。元妻の安否を尋ねるために電話してくるような人ではない。私は短く答えた。
「元気よ。何の用? 忙しいんでしょう」
彼は軽く笑った。全ての交渉で優位に立つ者特有の、自信に満ちた笑いだった。
「知らせたいことがあって電話したんだ。僕たちが夫婦だった仲なのに、他人から聞かせたくはなかったから」
不吉な予感がした。布団の端をそっと握りしめる。
「来月の8日、レナさんと帝国ホテルで結婚式をあげるんだ。しおりにも来てほしい。友達として付き合えるじゃないか」
一文字一文字がはっきりと耳に突き刺さった。レナは由緒ある家柄の娘で、事業的にも彼にとって大きな助けとなる相手だった。私たちが離婚した理由の一つも、私が彼の隣に立つには釣り合わなかったからではないか。それなのに、なぜ今も胸の片隅が刃物でえぐられたように痛むのだろう。彼は元妻を招待して、新しい女性との幸せな姿を見せつけようというのだ。離婚して半年。彼の残酷さは、完璧な紳士的な態度に包まれていた。
「しおり、聞いているのか?」
私が長く沈黙していたので、彼が促した。私は息子を見た。奇妙な力が、私の中から湧き上がってくる。私はもう、毎晩夫の夕食を準備して待っていた妻ではない。私は母親だ。この母親は、誰であろうと、自分をこれ以上傷つけることを許しはしない。
「招待してくれてありがとう。でもごめんなさい。行けそうにないわ」
「何か忙しいことでもあるのか? ギャラリーのせいなら1日くらい休めばいい。運転手を送らせるから」
「絵のことなんかじゃないわ」
私は彼の言葉を遮った。
「私、今、産後の療養中なの」
向こうが沈黙に包まれた。空間がそのまま止まったようだった。
「なんだって?」
彼の声はひび割れていた。
「産後の療養中だって言ったの。昨日の夜、帝王切開で男の子を産んだのよ。だから、あなたの晴れの日に私が欠けても構わないでしょう」
私は彼の返事を待たなかった。指で通話終了ボタンを断固として押した。数ヶ月間胸を押しつぶしていた石が、ようやく下ろせた気分だった。しかし、私は分かっていた。藤堂健二の性格からして、彼はこのことを決してただでは済まさないだろう。
30分後、病室のドアが乱暴に開けられたのは。私が子供にあげるミルクを作ろうと夢中になっている時だった。分厚い木製のドアが壁に強くぶつかる音に、すやすやと眠っていたどんぐりが火がついたように泣き出した。私は慌てて振り返り、騒ぎを起こした人物を一括してやろうと思った。しかし、その人物が健二だと確認した瞬間、言葉は喉の奥に消えていった。
私の前に立っている男は、信じられないほど見窄らしい姿だった。シャンタンゴールドの礼服を着ている。結婚式のために試着していた服だろう。しかしベストは乱れ、髪は汗でぐちゃぐちゃだった。息は荒く、額からは大豆ほどの汗粒が流れ落ちていた。彼はドアの前に立ち、大きな目で私と、私の腕の中で泣いている赤ん坊を交互に見た。その眼差しには、驚愕と疑念、そして恐怖が宿っていた。
「しおりさん……」
彼の声は、まるでドアの隙間から漏れ出る風の音のようにかすれていた。私はできるだけ冷静な表情を保とうと務めた。
「どうしてここに? ここは回復室よ。関係者以外禁止」
健二は私の冷たい言葉にも構わず、長い急ぎ足で部屋の中にずかずかと入ってきた。
「本当なのか? この子は誰の子なんだ?」
彼が震える声で、子供を指さした。私は顔を上げて、彼の目を真っすぐに見た。
「私の子よ」
「父親は誰なんだと言っているんだ」
健二が唸った。彼がさらに近づき、大きな手でベッドの柵を強く握りしめた。私は乾いた笑みを浮かべた。
「おかしな質問ね。私たち、離婚して半年よ。私には私の人生があるし、あなたにはあなたの人生がある。私の子が誰の子であろうと、藤堂代表に何の関係があるの?」
「俺を狂わせるな」
彼は理性を失っていた。身を乗り出して、私と顔を合わせた。
「半年だ。離婚して半年で子供を産んだ。そこから妊娠期間の10月を引けば、あんた、俺たちが裁判所に行く前から妊娠していたんだろう。違うか?」
実業家の鋭さが、数秒でその計算を終えさせていた。私はもはや隠せないことを悟った。
「そうよ。だから何?」
「なぜだ? なぜ言わなかった? なぜよくも俺に、こんな重大なことを隠していたんだ」
「言ってどうするの? 言って、あなたの道でも変えるつもりがあった? それとも、あの家柄の良いお嬢様を迎える準備で忙しい最中に、私に残った責任感でも、少し分けてもらおうと? あなた自身を見てみなさいよ。あの日、私たちが離婚届に判を押した日、あなたは何て言った? 『事業を助けられる妻が必要で、一日中無駄に不器用な絵ばかり描いている女は必要ない』って言ったじゃない。あなたは自由と成功が必要だって。私がその自由をあげたじゃない。これ以上、何を望むの?」
健二は凍りついた。ずっと昔、彼が私の心臓にナイフのように突き刺した言葉を、今、私は一言一句、彼に返したのだ。彼はベッドの柵から手を離し、一歩下がった。まるで、誰かに強く平手打ちされた人のようだった。私の腕に抱かれたどんぐりは、まだ泣いている。
「その子を……見せてくれ」
彼の声は、突然奇妙なほど力がなかった。
「だめよ」
私は子供をさらに強く抱きしめた。
「帰りなさい。あなたの婚約者が待っているでしょう」
「赤ん坊を見せろと言っているんだ!」
健二が突然叫び、子供を奪おうと飛びかかってきた。
「触らないで!」
私が悲鳴をあげ、身を乗り出したその時、病室のドアが再び開いた。年配の看護師が厳しい表情で入ってきて言った。
「お月ぎ添いの方、少し静かにしてください。ここは病院ですよ。どちら様ですか? まだ面会時間ではありませんので、今すぐお帰りください」
健二はその場で立ち止まった。彼は私と赤ん坊、そして看護師を交互に見た。そして、ゆっくりと手を下ろし、シワになったベストの裾を直した。深呼吸をして、本来の沈着さを取り戻そうと努めたが、両手はまだ震えていた。
「私がこの子の父親です」
彼が看護師に言った。声は冷たかったが、一文字一文字に力がこもっていた。それから彼は私の方を向いた。その眼差しは、嵐の前の空のように暗くなった。
「一生、俺を騙し通せると思っていたのか。しおり、あんたは間違っていた。あんたの人生最大の過ちは、この俺から父親になる権利を奪えると思ったことだ」
その言葉を残し、彼は背を向けて病室を出ていった。彼の後には、冷たい空虚感と、私の心の中で際限なく広がる不安感だけが残された。私は直感した。本当の嵐は、今始まったばかりだと。
健二が去った後、私はベッドの上で呆然として座っていた。どんぐりは泣き疲れ、母の腕の中で静かに眠っていた。小さな手で私の小指をぎゅっと握る姿が、まるで母を求めているようだった。私は息子を見て、また涙を流した。私の元夫の権力と金の前で、無力な一人の母親の恐怖だった。
ドアが再び開き、今度は弓だった。私の親友である彼女は、両手に大きなバッグを持って入ってきて、赤く晴れ上がった私の目を見てぎょっとした。
「どうしたの? 手術の傷が痛むの? それとも、赤ちゃんが泣いてるの?」
「健二さんが、さっき来たの」
弓は目を丸くして、口をあんぐりと開けた。
「何ですって? あの男がもう知ったの? どうしてそんなに早く?」
「さっき、結婚するって電話してきたの。私、口を滑らせたの。産後の療養中だって言っちゃったの」
弓は自分の額をパチンと叩いた。
「なんてこと? このおばかさん。あんた、蜂の巣をつついたのよ。それで、あの男の反応はどうだったの?」
私は先ほどの短い嵐のような再会を、かいつまんで話した。話を聞き終えると、弓の顔が曇った。
「藤堂健二の性格からして、絶対に黙ってないわ。あの男は野望の塊で、所有欲も人一倍だもの。自分の実の息子がいると知ったからには、何としてでも赤ちゃんを奪おうとするはずよ。あんた、どうするつもり?」
「分からない。私、一人でも育てられるわ。貯金もあるし、ギャラリーも順調だし。あの人のお金なんて、いらない」
「問題はお金じゃないでしょう!」
弓が語気を強めて叫んだ。
「問題はあの男のプライドと、あの家のことよ。あんた、あのお母様が、自分の家の長男が外にうろついているのを黙ってみていると思う?」
その言葉は針のように私の心臓を刺した。私の元姑は、鋭く家柄を何よりも重んじる女だった。健二の息子を産んだという事実を知れば、彼女はその子を私の子ではなく、藤堂家の財産と見なすだろう。
突然、病室のドアが再び乱暴に開かれた。今度は一人ではなく数人だった。健二が先頭に立っている。彼はネクタイを緩めた白いシャツ姿で、袖を肘までまくり上げていた。その後ろには権威のありそうな白衣を着た医師が三人と、様々な機材を押して入ってくる看護師が二人続いていた。
「今、何してるのよ!」
私は恐怖に怯え、子供を腕にしっかりと抱きしめた。健二は私を見ようともせず、最も年配に見える医師の方を向き、丁寧に言った。
「教授、この子の状態を総合的に見てください。二週間早く生まれたので、肺がまだ完全ではないかと心配なんです。これから遺伝子検査のサンプルも採取してください」
「健二、あなた、狂ったの!?」
私が叫びながら起き上がろうとすると、手術跡の痛みが私をベッドに押し留めた。健二が近づいてきて、私の肩を抑えた。
「じっとしていろ。手術の傷に触る」
彼の声は低く沈んでいたが、拒むことのできない命令口調が含まれていた。
「僕はこの子にとって一番良いことをしているだけだ。君に止める権利はない」
「私の子よ! 検査なんて必要ない!」
「この子は僕の子でもあり、君の子でもあるんだ」
健二が私の顔に向かって低く唸った。
「この子の顔を見てみろ。この広いおでこ。この尖った唇。いつまで現実を否定するつもりだ」
私はどんぐりを見下ろした。その子は眠っていた。小さな顔は、本当に健二の縮小版だった。彼らはプロフェッショナルに、そして優しく子供を扱った。私は無力に、検査のために息子のかかとから血を取るのを見守るしかなかった。針が皮膚を刺すと、子供が火がついたように泣き出した。その声に、私の胸は焼けつくようだった。
医師たちが診察を終えて去った後も、健二は残っていた。彼は椅子を引き寄せ、保育器の隣に座った。静かに座り、泣きやんで眠りに着いた赤ん坊を眺めていた。部屋の雰囲気は落ち着き、緊張感は、ぼんやりとした悲しみに変わっていた。
「どうして、告げてくれなかったんだ」
健二が私に尋ねた。同じ質問だったが、もはや怒りはなかった。困惑だけが残っていた。
「この半年間、僕は機械のように生きてきたのに、君は僕の子を腹に宿し、耐え、一人で子供を産んだ。僕を一体、何だと思っているんだ」
「あなたが選んだのは、あなたの事業だったじゃない」
私は疲れた声で答えた。
「あなたは長い出張と、接待のための飲み会を選び、あなたに莫大な契約をもたらしてくれるレナさんを選んだ。私はただ、私の子を、あなたの計算の中から守る方法を選んだだけよ」
健二が私を振り返った。彼の眼差しは、後悔と、自分が間違っていたことを決して認めない男の意地が入り混じった、複雑なものだった。
「僕が子供を望んでいないと言ったことは一度もない。君が妊娠していると知っていたら、絶対に離婚しなかっただろう」
「それこそが、私が言わなかった理由よ」
私は悲しげに笑った。
「私は、責任感だけで維持される結婚は望んでいなかった。愛されたかったのよ。でも、あなたはずっと前に、私を愛さなくなっていたじゃない」
健二は沈黙した。彼は反論しなかった。おそらく、彼もその赤裸々な真実を悟ったのだろう。私たちの結婚は、離婚届に判を押すずっと前から、ゆっくりと死んでいっていたのだ。
健二のスマートフォンが再び鳴った。彼は画面を見て、眉を潜め、電話を切った。しかし、またすぐに鳴った。
「レナさんでしょう」
私は壁の方に顔を向けながら言った。
「婚約者が電話してるじゃない。早く行きなさいよ。待たせないで」
健二は立ち上がったが、電話には出なかった。彼はスマートフォンの電源を切り、ソファに投げ捨てた。
「結婚式はキャンセルした」
彼がきっぱりと言った。私は驚いて振り返った。
「何ですって?」
「レナさんとの結婚は取りやめたんだ。ここに来るためにホテルを出るとすぐに、秘書に全てキャンセルするよう指示した」
私は彼を見つめた。自分の耳が信じられなかった。パートナーグループ会長の娘との結婚を取りやめるなんて、彼は狂っている。
「あなた、どうかしてるわ」
私が吐き捨てるように言うと、彼は口元を上げて、苦しげに笑った。
「そうかもしれないな。でも、僕の息子がここに寝ているのに、他の女と結婚するわけにはいかないだろう」
彼は慎重に手を伸ばし、布団からはみ出たどんぐりの小さな指にそっと触れた。その不器用な行動が、一瞬、私の心を揺さぶった。しかし理性がすぐに、痛みを伴って私を打ちのめす。信じるな。この遅すぎた後悔を信じるな。これは愛じゃない。これは所有欲だ。
健二は帰らなかった。彼はボディガードを全て外に出し、病室の狭いソファに横になった。弓は状況がただならぬことを感じたが、どうすることもできず、何かあったらすぐに連絡するようにと私に伝えて、家に帰っていった。
部屋は再び静寂に包まれたが、以前とは違う、行き詰まるような静寂だった。私は眠ろうとしたが、どうしても眠れなかった。向こうでうずくまっている男の姿が頭から離れなかった。
その時、記憶がスローモーションの映画のように蘇ってきた。私たちは美しかった。彼は経済学部の学生で、私は芸術学部の学生だった。彼は古いバイクで私を乗せて多摩川沿いを走り、私たちは一緒にアイスクリームを食べながら、いつか自分たちだけの小さな家を持とうと約束した。あの苦しい時代、彼のそばにいたのは私だけだった。私はフランス留学の機会を諦め、彼の支えになることを決めた。そして、彼は成功した。会社は大きくなり、お金は水のように流れ込んできた。しかし、夫婦の距離も通帳の残高と共に遠ざかっていった。彼は外で存分に仕事ができるようにしてくれる、従順な妻を求めていた。
決定的だったのは、結婚三周年の記念日だった。私はサントリーホールで開かれるオーケストラの公演チケットを二枚予約した。私たちが学生の頃、一緒に見ようとあれほど夢見ていた公演だった。私はきれいに化粧をし、彼が好きだった赤いシルクのワンピースを着て、ロビーで彼を待った。一時間、二時間、三時間が過ぎた。公演は終わり、人々は帰り、華やかな照明の下、私一人だけがぽつんと立っていた。真夜中近くになって、彼は酔っ払って家に帰ってきた。彼は忘れていたと、パートナー企業との合併の件で忙しかったと言った。彼は謝罪の意味でブランドのハンドバッグを私に投げつけ、死んだように眠りに着いた。私はそのハンドバッグと、いびきをかいて眠る夫を交互に見た。その瞬間、私は悟った。私が愛した男は死んだのだ。無感覚な金儲けの機会、藤堂健二代表だけが残っているのだと。
「サントリーホールであなたを待っていた日のことを、考えていたわ」
私は隠さずにぽつりと言った。健二はぎくりとした。彼の顔に陰りがよぎった。
「すまなかった。あの日は、本当に会議を抜けられなかったんだ」
「今更どうでもいいわ」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「過去は過去よ。あなたは欲しいものを全て手に入れたじゃない。事業も、名声も。ただ、私は私の息子が、将来あなたみたいな無神経で自己中心的な男になってほしくないと願うだけよ」
健二が勢いよく立ち上がると、ソファがきしむ音を立てた。
「夫としての僕を責めるのはいい。だが、父親としての資格を判断するな。僕には、それを見せる機会すらなかったんだからな。息子には、何ひとつ不自由させない。最高の学校に通わせ、最高のものだけを使わせ、最も輝かしい未来を持たせてやる」
「『最高』っていうのは、結局お金のことでしょう」
私は彼の目をまっすぐに見つめた。
「でも、子供に必要なのは愛よ。そばにいてくれることよ。限度額のないブラックカードや、サインだけしてくれる父親じゃない」
「じゃあ、何を望むんだ?」
健二がベッドに近づき、巨大な影で私を圧倒した。
「僕が全てを放り出して、家で子供のおむつでも変えているとでも言うのか? 少しは現実的に考えろ。君のその小さなギャラリーで、僕がしてやれるだけのことを、子供にしてやれると思うのか?」
「あなたほどお金持ちじゃないかもしれないけど、私は子供に平穏をあげられるわ」
「平穏?」
彼は嘲笑した。
「シングルマザーという世間の視線を避けられるとでも思うのか? 藤堂健二の元妻が、みすぼらしいアパートで子供を育てているのを、世間の人々が黙ってみていると思うか? 君は、あまりにも世間知らずだ」
議論は、ノックの音によって中断された。黒いスーツを着た秘書が入り、健二に頭を下げると、書類の束を机の上に置いた。
「代表、全ての手続きが完了しました。結婚式はキャンセルし、レナ様のご実家は大騒ぎになっております。あちらの会長が、直ちに代表にお会いしたいと」
「後で連絡すると伝えておけ。今は忙しい」
健二が手を振った。秘書は慌てて退出した。健二は書類の束を手に取り、その中から一枚の紙を取り出して、私に差し出した。
「これは何?」
私が疑わしげに尋ねると、彼は短く言った。
「養育計画だ」
私は紙を受け取り、太字の文字をざっと読んだ。それは、養育権及び監護に関するものだった。内容は、健二が全ての費用を負担し、家を買い、家政婦と個人運転手を雇う代わりに、彼はいつでも子供に面会する権利を持ち、息子は藤堂の姓を名乗り、戸籍に名前を記載しなければならない、というものだった。
「いつから準備していたの?」
私は震える声で尋ねた。
「子供のことを聞いてからまだ数時間しか経っていないじゃない」
「僕は、常に代替案を用意しておくんだ。そして、これは君の意見を尋ねているんじゃない。通告しているんだ」
私は手の中の紙をくしゃくしゃに丸めて、彼の顔に投げつけた。
「出ていけ。何もサインしないわ。私の子を奪うなんて、夢にも思わないで」
健二は避けもせず、紙が胸に当たって床に落ちるのをそのままにした。彼は身を乗り出してそれを拾い、シワを伸ばして、ベッドのヘッドボードのテーブルに置いた。
「考えてみろ。体も弱っているんだから、興奮するな。明日、また話そう」
そう言って、彼は背を向けて去っていった。私の後には、込み上げる怒りと、徐々に閉ざされていく黄金の檻に対する恐怖だけが残された。
次の二日間は、平穏な見かけの下、度の緊張感の中で過ぎていった。健二はほとんどの時間を病院で過ごした。彼はノートパソコンを持ち込み、病室で仕事をし、時折顔を上げて私たち母子を眺めた。彼は、父親になる練習を始めていた。彼は不器用に子供を抱く方法を学んだ。一度、彼がこっそり子供の手のひらに自分の指を入れてみるのを見た。寝ぼけて、どんぐりは無意識に父親の指をぎゅっと握った。健二はその場で固まった。彼の口元に、珍しく柔らかな微笑みが広がった。その姿は、いつか私と一緒に幸せな家庭を築こうと約束した、あの頃の大学生を思い出させた。
「すごい力だな」
健二がささやきながら、私に向かって言った。
「将来、この子は相当な力持ちになるぞ。僕に似てな」
私はぽつりと言ってから、後悔した。
「あなたに似てるの?」
健二が私を見た。眼差しが柔らかくなった。
「しおり、まだ僕に怒っているのは分かっている。でも、僕は本当に、僕たちの関係が、子供のためにも正常に戻ってほしいんだ」
「それが、そんなに簡単な問題だと思うの?」
私は彼の視線を避け、顔を背けた。心の傷は、忘れようとして忘れられるものではない。しかし、家政婦の指導を受けながら不器用に子供のおむつを変える彼を見る時、私はほとんど全てを諦めて、彼が描き出す幸せな家族の絵を信じたくなった。しかし、絶え間なく鳴り響く仕事の電話と、その向こうの部下に下す彼の冷徹な指示が、私を再び現実に引き戻した。彼は依然として野心的で独断的な藤堂健二だった。この変化は一時的なもの。初めて父親になった男の、瞬間的な感情に過ぎない。新しさが過ぎ去り、仕事のストレスが再び襲ってきたら、果たして彼は今のように忍耐強く座って眠る子供を眺めていられるだろうか。
脱出する前日の夜、健二は粥をいっぱい持ってきた。専属の料理人に作らせたもので、温かいうちに食べるようにと言った。彼は優しく粥をすくい、冷ましてから私の口元に運んでくれた。私は粥と彼を交互に見た。こんな気遣い、昔だったら嬉しくて泣いていただろう。しかし今は、罪悪感を抱かせるだけだった。私はもうすぐ、彼を騙し、彼の子供を連れて逃げようとしているのだ。
「ありがとう」
私は粥の器を受け取り、機械的に食べた。
「明日の朝早く、重要な会議があるんだ」
健二が言った。
「少し遅くなるから、何か必要なものがあれば、いつでも電話してくれ」
「うん。仕事のこと、気にしないで」
私はできるだけ平静な声を保とうと務めながら答えた。健二は身を乗り出して、子供の額に軽くキスをし、少し躊躇してから、私の額にもキスをした。彼が去り、ドアが閉まった。私はその場に座ったまま、左胸を抑えた。心臓が、恐怖と罪悪感で狂ったように打っていた。
ごめんなさい、健二さん。私には、他に選択肢がないの。
その夜、私はほとんど眠れなかった。こっそり子供に必要な物を小さなバッグに詰め、ベッドの下に隠した。外では雨が激しくなり始めていた。明日になれば、本当の嵐がやってくるだろう。
午前七時、雨の降る灰色の朝が病室を満たした。私はとても早く起き、温かい服を着た。どんぐりも二重のおくるみに暖かく包まれ、小さな鼻だけを覗かせていた。健二は株主総会に遅れないように六時半には出発した。残された唯一の問題は、家政婦のキムさんだった。彼女は部屋の隅で粉ミルクを作っていた。今朝、弓がこっそり彼女が好んで飲むコーヒーに、弱い下剤を混ぜておいたのだ。私は薬が効いてくれることだけを祈った。
「奥様、若様のミルクができました」
キムさんが哺乳瓶を持って振り返った。その時、突然彼女が腹を押さえ、顔色が変わった。彼女が言葉を言い終える前に、哺乳瓶をテーブルに置き、トイレに駆け込んだ。ドアが閉まる音が響いた。チャンスは今だ。
私は躊躇なく勢いよく立ち上がり、バッグを手に取り、どんぐりを腕に抱いた。部屋の中の高価な品々を振り返る間もなく、私は矢のように病室を飛び出した。朝の病院の廊下はがらんとしていた。私は俯き、廊下の突き当たりにある職員用のエレベーターに向かって早足で歩いた。エレベーターのドアが開くと、私は中に入り、地下のボタンを押した。表示板の数字が、私の目の前で踊っていた。ドアが開き、冷たい風が吹き込んできた。私は外に出て、辺りを見回した。弓の赤い軽自動車が、大きなゴミ箱の影に隠れるように駐車されていた。ヘッドライトが二回点滅し、私は駆け寄った。
「早く乗って!」
弓が緊張した顔で促した。私は後部座席に素早く乗り込み、ドアを閉めた。弓はすぐにアクセルを踏み、車は走り出した。
「成功よ!」
弓が叫びながらハンドルを叩いた。
「言ったでしょう。あの家政婦ごときが、私に敵うわけないって」
私は息を吐き、椅子の背にもたれた。安堵が全身に広がったが、恐怖はまだ私を解放してはくれなかった。
「まだ安心するのは早いわ。東京を抜け出さないと」
私たちの車は通勤ラッシュで混雑する町を抜け出し、高速道路に向かった。雨はますます激しくなり、車のガラスを叩いた。しばらく走った時、突然、けたたましいベルの音が鳴り響いた。私は驚いて、危うく子供を落としそうになった。音は、私のコートのポケットからなっていた。健二がくれた、あのスマートフォンだった。
「SIMカードを抜けって言ったでしょう!」
弓が恐怖に満ちた声で叫んだ。
「電源は切っておいたのに、どうして鳴るの?」
私は慌ててスマートフォンを取り出した。画面には、見知らぬ番号が表示されていたが、私はそれが誰なのか、はっきりと分かった。私は震えながら弓を見た。どうしよう。私が出なかったら、健二はどうするだろうか。彼は止まらないだろう。私は深呼吸をし、勇気を振り絞って、画面をスワイプした。
「もしもし」
受話器の向こうは、静かだった。長い沈黙が続いた。
「ドライブは楽しいかい?」
健二の声が聞こえた。ぞっとするほど平静だった。怒号も怒りもなかった。ただ、残酷な冷酷さだけがあった。
「どうして分かったの?」
私は思わず尋ねた。
「そのスマートフォンが、ただ通話ができるだけの白物だと思っていたのか?」
彼は低く笑った。
「独立した衛星追跡チップが内蔵されていて、安全区域から出ると自動的に起動するんだ。君が病院から一歩足を踏み出した瞬間から、僕のコンピュータに警告が来ていた」
私は凍りついた。全てが、彼の手のひらの上での出来事だったのだ。
「何を望むの?」
私は、絶望が混じった震える声で尋ねた。
「今すぐ戻ってこい」
「絶対に戻らないわ! あなたのあの牢獄には、絶対に戻らない! 私と子供は、もっと遠いところに行くのよ!」
「右の窓の外を見てみろ」
健二の声は、依然として平静だった。私は首を回して右を見た。巨大な黒いSUVが、私たちの車と並走していた。車の窓が下がり、黒いサングラスをかけた男が私に手を振ると、威嚇するように私たちの車を指さした。
「僕のボディガードだ。君が高速に乗った時から、ずっとつけていた」
この非情な人間。私は悔しさで涙が込み上げてきた。
「よく聞け」
彼の声が、厳しく断固としたものになった。
「30分やる。車を有らせて、戻ってこい。もしそうしなければ、君だけを捕まえるのではなく、君のその親友にも、一生後悔させてやるからな」
「弓に何をしようっていうの?」
私は恐怖に怯えて尋ねた。
「弓さんのインテリアデザイン会社は、うちのグループのリゾートプロジェクトを受け負っている。彼女が今まで受けた契約の中で最大のもので、何年もかけて築き上げてきた結果だろう。僕の電話一本で、その契約は即、破棄される。弓さんの会社は団体のブラックリストに載り、この東京では永遠に、どんなプロジェクトも受けられなくなるだろう。君のせいで友人が破産し、借金まみれになる姿を見たいか?」
その脅迫は、晴天の霹靂のようだった。私は彼が言った通りにできる人間だということを知っていた。
「やめて! 健二さん、お願いだから! 私たちの問題に、他の人を巻き込まないで!」
私は懇願した。涙が子供の顔の上にぽたぽたと落ちた。
「決めるのは君だ。戻ってくるか? それとも、友人が全てを失うのを見ているか? 30分だ。始めよう」
ツーツー。長い信号音が、通話が切れたことを知らせた。私は熱いスマートフォンを手に持ったまま、座っていた。全世界が、目の前で崩れ落ちるような気分だった。弓はまだ運転していたが、その手はハンドルを白くなるほど強く握りしめていた。
「あの男の言うことなんて、聞かないで!」
弓が怒りでひび割れた声で叫んだ。
「ただの脅迫よ。あんな契約、いらないわ。私、一からやり直せばいい。あんたが、あの男から逃げられるなら、私は何だってする」
私は弓を見た。硬いが、心配で一杯の友人の顔。彼女は本気だ。私のためなら、犠牲になる覚悟ができている。しかし、私がその犠牲を受けていいのだろうか。弓は何年も、どれだけ苦労して血と汗を流して、今日の地位に辿り着いたのだろう。私のせいで彼女が全てを失ったら、私は一生、罪悪感の中で生きることになる。
「だめよ、弓。私が、そんなに自己中心的になるわけにはいかない」
「本当に戻るつもりなの? 気でも狂ったの? 戻ったら、子供を奪われるのよ!」
「他に方法がないのよ」
私は喉を詰まらせながら言った。
「藤堂健二は、私の弱点を握ったの。彼は、私があなたを大事に思っていることを知っている。あなたを利用して、私を追い詰めているのよ。私が負けたわ。車を戻して、弓」
弓は唇を血が出るほど噛みしめた。そして、ハンドルを強く叩きつけ、怒りに満ちた叫びをあげた。車が少しふらつき、速度を落とした。彼女は路肩に車を止め、ハザードランプをつけた。そして、ハンドルに頭をうずめ、肩を震わせた。彼女が泣いていると分かった。私のための悲しみと、強大な権力の前に無力なことへの悔しさで、泣いているのだ。私は手を伸ばし、友人の肩をそっと撫でた。
「ありがとう、弓。私のために命をかけてくれて。でも、この戦いは私のものよ。私が直接、立ち向かわなきゃ」
弓が顔を上げた。目は真っ赤だった。
「しおり、ごめんね。私が、あまりにも無能で」
「そんなことないわ。あなたは、世界一の友達よ」
弓は深呼吸をして涙を拭うと、ハンドルを切り、車をゆっくりと回転させた。小さな軽自動車は、来た道を寂しく引き返していった。私を待っている東京の都心に向かって。
帰り道、私は子供を抱いて窓の外を見ていた。雨は止むことなく降り続いていた。灰色の空は、私の暗澹たる心情を映しているかのようだった。昔、私と健二が貧しい学生だった頃のことを思い出した。あの時、彼は私に三日月型の安物のネックレスをプレゼントしてくれた。
「将来お金持ちになったら、星を全部取ってきてやる。でも今は、この月しかないんだ。一番暗い時に、君を照らしてくれるだろう」
そのネックレスは、私たちが離婚した日、私が多摩川に投げ捨てた。私は過去を捨てたと思っていたが、過去は見えない鎖よりも強固な絆で、依然として私を縛りつけていた。
病院の裏口に着くと、健二の黒いリムジンが、そこに堂々と停まっていた。二人の大柄なボディガードが、傘をさして立っている。弓が車を止めると、私は深呼吸をしてドアを開け、降りた。リムジンの後部座席のドアが開き、健二が降りてきた。彼は、何の感情もない目で私を見た。その眼差しは、冬の池の底のように冷たく、深かった。
「時間通りだな」
健二が腕時計をちらりと見ながら言った。
「弓さんを巻き込まないで、って言ってたのに」
「あの女が、無関係な人間を巻き込んだんだろうが」
健二は私の方を向き、手を差し出した。
「子供を、こちらへ」
私は一歩後ずさりし、子供を抱きしめた。
「いやよ。あなたは、私が戻ってくればいいと約束したじゃない」
「子供を渡せ」
健二の声が低くなり、かすかな脅威を帯びた。
「雨が降って寒いだろう。子供を風邪引かせるつもりか。さっさと車に乗れ」
私は、抵抗できないと分かった。歯を食いしばり、近づいて、彼の腕に子供を渡した。健二は慎重に子供を受け取り、雨から守った。彼は子供をしばらく見下ろし、無事であることを確認して、ようやく表情が少し緩んだ。
「車に乗れ。家に帰るぞ」
「弓と、少し話をさせて」
「必要ない」
健二が口やかましく言った。
「これからは、その友人に会う必要はない。夫を捨て、自分勝手なことをさせるような友人と付き合う資格はない」
「あなたが、私の友人関係を妨げる権利はないわ」
「権利はあるさ」
彼は私の目をまっすぐに見つめた。
「夫の権利だ。君の人生を掌握している人間の権利だ。車に乗れ」
彼は私を後部座席に押し込み、ドアを閉めた。窓の向こうで、弓が雨の中で泣きながら、無力に私が連れて行かれるのを見守っていた。その姿は、私の心に深く刻まれ、決して癒えることのない傷となった。
車は水の上を滑るようにスムーズに動き出した。車内は暖かく、高級車の匂いと健二の香水の匂いが微かにした。しかし、私にとってここは、永遠の監禁場所へと私を運ぶ棺でしかなかった。健二は隣の席に座り、子供を抱いて一言も話さなかった。その沈黙が、何千もの言葉よりも恐ろしかった。
車は二十分ほど走り、多摩川沿いの最高級タワーマンションに入った。健二は私を最上階に連れて行った。数百平米にも及ぶペントハウスは、全面ガラス張りで、広大な多摩川が一望できた。内部は豪華で、目が膨らむほど華やかだった。全てが、健二のこのむついグレーのトーンで統一されていた。
「ここが、僕たちの新しい家だ」
健二が、がらんとしたリビングに入りながら宣言した。私は部屋の真ん中に立ち、自分が限りなく小さく、孤独に感じられた。ここは家じゃない。黄金の檻だ。健二は部屋の真ん中に準備されていた、精巧に彫刻された大きなゆりかごに子供を寝かせた。
「いつまで、私をここに閉じ込めておくつもり?」
私が疲れた声で尋ねると、彼は言った。
「一生だ。それとも、子供が大きくなるまでだ。君がもう、僕の子を連れて逃げようなんて考えがないと、確信できるまでだ」
「少しは身の程を知ってもらいたい。ここでは、全てを手に入れることができる。家政婦、個人運転手、料理人、クレジットカード。欲しいものは何でも。ただ一つを除いてな。僕の許可なく、このドアの外に出ることだ」
私は苦々しく笑った。
「結局、私はあなたのガラスの陳列ケースの中の人形に過ぎなかったのね」
「君は、僕の子供の母親だ」
健二が私の言葉を訂正した。
「そして僕は、僕の子供が完全な家庭で育ってほしい。たとえ、バラバラになりかけた家庭だとしても、父親がいないよりはマしだからな」
「『家庭』? 愛も尊敬もなく、ただ強制と支配だけがある場所のことを、家庭と呼ぶの? 子供が、こんな環境で幸せになれると思う?」
「僕たちにも愛はあった、しおり」
健二が振り返った。その眼差しが暗くなった。
「でも、それを捨てたのは君だ。離婚しようと言ったのも君だ。今更、何の愛を要求するんだ」
私は言葉に詰まった。そうだ、離婚を要求したのは私だった。しかし、その愛を先に殺したのは誰だったのか。
「もう、言い争うのはやめよう」
健二が疲れたように手を振った。
「入って休め。君の寝室は右側だ。子供部屋は、その隣だ。キムさんが、もうすぐ赤ちゃんの世話をしに来る」
「あの女、まだ雇ってるの?」
私が驚いて尋ねると、彼は平然と答えた。
「もちろん。ただの軽い腹痛だっただけだ。そして今回は、従業員を全員入れ替えた。二度と、君や君の友人に買収されて、裏切られることはないと保証する」
その言葉を残し、彼は書斎の方へ歩いていき、ドアを閉めた。私はその場に釘付けになったように立ち、窓の外を見た。眼下の多摩川は、雨の中で灰色だった。波が当てもなく岸を打っていた。私はあの波と自分が同じだと感じた。押し流され、ぶつかり、どこへ流れていくのかも分からない。
私は自分の部屋へと足を運んだ。部屋は広く、全ての快適な設備が整っていた。しかし、この豪華さは、私の心の空虚さを満たすことはできなかった。私はバスルームに入り、顔を洗った。冷たい水が、私を少しでも正気に戻してくれることを願いながら。顔を上げて鏡を見た時、私は驚いた。バスルームの壁、最も目立つ場所に、湿気から守るために丁寧にガラスの額に入れられた小さな油絵が一枚、かかっていたのだ。
絵は、日光の下でまぶしいひまわり畑を描いたものだった。黄色い花びらが光に向かって伸び、生命力と希望に満ちていた。これは、私の美大時代の最初の作品だった。駆け出しの頃の絵なので筆は未熟で、色合いも均一ではなかった。私は失敗作だと思って捨てようとしたが、健二が持っておくと言ったのだ。
「僕はこれが好きだ。君に似ている。いつも太陽の方を向いているじゃないか。何があっても、この花のように強く、眩しく生きなければならない」
私は彼が、壊れた結婚生活の他の記念品と一緒に、この絵もとっくに捨てたと思っていた。しかし違った。彼は依然としてそれを持っていた。自身の最もプライベートな空間に飾り、丁寧に額に入れて保護していた。私の手が震えながら、冷たいガラスの表面に触れた。なぜ? なぜ、彼は夫婦の情を捨てながら、この安物の記念品は持ち続けているのだろう。なぜ、彼は私を残酷に扱い、監禁しながらも、過去の私に属するものは大切にするのだろう。
心臓が、痛むように沈んだ。おそらく、あの冷たく残酷な男の心の奥深くのどこかには、大学のキャンパスの下で私と一緒にアイスクリームを食べたあの頃の少年の姿が、ほんの少しは残っているのかもしれない。しかし、その小さな片鱗が、この氷のような家庭を温めるのに十分だろうか。それとも、ただの厳しい現実に対する、痛ましい皮肉に過ぎないのだろうか。私は絵の前で長い間、無言で立っていた。涙が静かに、洗面台の上に落ちた。
外の漆黒の闇とは対象的に、ペントハウスの明かりが華やかに灯った。夕食の時間だと、健二が私の部屋のドアをノックした。出たくはなかったが、子供の世話をするための力を蓄えなければという思いから、仕方なく食堂へ向かった。広い食卓には、山海の珍味がずらりと並べられていた。しかし、私を驚かせたのは、健二がキッチンに立ち、お玉でスープをすくっている姿だった。彼はジャケットを脱ぎ、薄手のTシャツにエプロンをつけていた。
「座れ」
健二が向かいの椅子を指さした。
「今日、料理人が早く帰ったから、僕が君のためにスペアリブスープを温め直したんだ」
「そんな演技は必要ないわ。私たちは、新婚夫婦じゃないんだから」
「演技じゃないさ」
健二が自分の席に着いた。
「ただ、ちゃんとした食事がしたかっただけだ。僕たちが一緒に食事をするのも、久しぶりじゃないか」
「最後に一緒に食事したのが、いつだったかしら」
私は日やかに言った。
「ああ、思い出したわ。あなたが食卓の上に離婚届を投げつけて、私の『まずい』食事がもうたくさんだって言った。あの日だったわね」
健二は固まった。彼は俯き、声が低く沈んだ。
「僕が君に、傷つける言葉をたくさん言ったのは分かっている。すまなかった」
「謝れば済むの? その言葉が、私の心の傷跡を消してくれるの? 失われた私の青春を、取り戻してくれるの?」
「食べろ。スープが冷める」
食事は、重い沈黙の中で進んだ。山海の珍味も、私には藁を噛むようだった。
食事が終わり、健二は温かいお茶を私に差し出した。彼は計り知れないほど深い眼差しで私を見た。
「二度と、いなくならないでくれ。お願いだ」
健二の突然の言葉に、私は動きを止めた。彼の声には、命令ではなく、かすかな懇願が込められていた。
「じゃあ、いつまで私を閉じ込めておくつもり? 子供が大きくなるまで?」
「分からない」
健二が首を振った。
「僕が分かっているのは、二度と君と子供を失うというあの気持ちには耐えられない、ということだけだ。あの…空っぽの病室を見た時、心臓が凍りつくようだった。怖かったんだ。生まれて初めて、恐怖を感じた」
私は沈黙した。彼の言葉に込められた真心が、私を混乱させた。しかし、信じられなかった。また別の甘い罠ではないかと、恐れた。
「疲れたわ。部屋に戻る」
私は立ち上がり、広い食卓に一人座っている健二を残して、背を向けた。
翌日、健二は早く出勤した。彼は家政婦とボディガードに私を徹底的に監視するよう指示した。私はアパートに閉じ込められ、子供のそばをうろつくか、ガラス壁の間を歩き回る以外に、することがなかった。退屈に耐えかね、本でも読もうと、健二の書斎に入った。書斎は広く、何千もの本が並んでいた。私は背表紙を眺めながら、古典小説を一冊選んだ。本を引き抜いた時、偶然、本棚の小さなスイッチに触れた。カチッという音と共に、隣の木製の壁面が滑り、近代的な壁金庫が現れた。
私は好奇心に駆られ、金庫を見た。電子式のロックだった。そのまま立ち去ろうとしたが、奇妙な衝動に足が止まった。暗証番号は何だろう? 健二の誕生日。エラー。私たちの結婚記念日。エラー。どんぐりの誕生日。エラー。私はしばらくぼんやりと立ち、記憶を辿った。ふと、私たちが初めて会った日を思い出した。大学の桜の下でアイスクリームを食べていた、あの日。十月十七日。私は震える指で、数字を押した。緑色のランプが点灯し、金庫の扉が開いた。
私は呆然とした。彼がまだあの日を暗証番号に使っているなんて。私でさえ、ほとんど忘れてしまっていたあの日を。あの無神経な男は、まだ覚えていて、しかも最も重要なものを守るために使っていたのだ。金庫の中には、金や宝石はなかった。いくつかのファイルと、小さなベルベットの箱が一つだけだった。私はベルベットの箱を開けた。中には、三日月型の銀のネックレスがあった。私たちが離婚届に判を押した日、私が多摩川に投げ捨てた、まさにあのネックレスだった。それはまだそこに、傷一つなく輝いていた。どうやってこれを探し出したのだろう。あの広い多摩川で、潜水士でも雇って探したというのか。私が捨てた安物の品一つを取り戻すために、どれだけの労力を費やしたのだろう。
私はネックレスを持ち上げた。金属の冷たい感触が肌に伝わったが、心の中は熱かった。涙が込み上げてきた。私はネックレスを置き、隣のファイルを手にした。それは「藤堂家信託基金」という名前の信託設立書類だった。基金の額は、三十億円。設立日は、昨日だった。彼が私をここに連れてきた直後。私は震える手で書類を一枚一枚めくった。三十億円。彼は息子を取り戻すなら、全てを息子に与えるつもりなのだ。ファイルの間には、手書きのメモが一枚挟まっていた。健二の力強く断固とした筆跡だった。
「息子へ。お前の存在をもっと早く知ることができず、すまなかった。残りの人生を、お前に償いながら生きていく。この金は、お前が最も強固な未来を持つことを保証するための始まりに過ぎない。父はお前に、世界の最高のものを全て与える。昔父が血と汗を流して手に入れなければならなかった全てのものを。愛している。息子よ、父より」
私はその文面を、何度も何度も読み返した。息子への彼の愛は本物だった。彼の後悔も、本物だった。しかし、私の胸を刺すことが一つあった。名前欄には、「藤堂」と書かれていた。彼は、私に一言も相談せず、子供の名前を決めていた。彼は、子供が当然自分の姓を名乗り、自分が選んだ名前を持つべきだと考えている。彼の目には、私はただ子供を産んだ人間に過ぎず、決定権は家長であり経済力を持つ彼にあるのだ。私は挫折感を感じた。彼がどれだけ子供を愛していようとも、彼は私を尊重していなかった。彼は、子供を自分の所有物、後継ぎとして見ており、私は物質的な支援で償われる代理母に過ぎない。私は金庫を閉め、全てを元の場所に戻した。先ほどの感動は、すぐに冷たい挫折感に変わった。私たちの間の価値観に関する深い溝は、依然として存在していた。彼は金で愛を表現し、私は尊敬を求めていた。
その日の午後、健二はいつもより早く帰宅した。彼の顔は晴れやかで、手に遺伝子検査センターのロゴが入った大きな封筒が握られていた。
「しおり、こっちへ来てくれ」
健二がドアから入りながら大声で呼んだ。私は子供を寝かしつけ、慎重にゆりかごに寝かせてから出ていった。
「どうしたの? そんなに機嫌が良くて」
「DNA検査の結果だ」
健二が封筒を高く掲げて見せた。目が輝いていた。
「99. 99%、父子関係。もはや疑いの余地はない。どんぐりは、僕の実の息子で、うちの藤堂家の嫡男なんだ」
私は彼を見た。心が苦しかった。
「最初から言ったじゃない。信じられないなら、確認してみればって。これで満足?」
「満足だとも」
健二が笑いながら近づき、私をぐっと抱きしめた。
「ありがとう、しおり。こんなに素晴らしい息子を産んでくれて、本当にありがとう。これからは、僕たちやり直そう。僕が二人を、何不自由させないから」
私は彼の手を振り払い、後ずさった。
「勘違いしないで。DNA検査の結果は、あなたが生物学的な父親だということを証明しただけよ。あなたが父親として資格があるかどうかは、これから見ていかなきゃ分からないことだわ」
健二の口元から微笑みが消えた。彼は私を見た。表情が硬くなった。
「まだ、そんなに僕を憎んでいるのか。僕はできることは全部した。結婚を破棄し、君をここに連れてきて、子供のために基金まで作った。これ以上、何を望むんだ?」
「私は、あなたが『父親になる』ということが、子供の顔にお金を投げつけることじゃないって理解してほしいの」
私は爆発するように叫んだ。
「父親っていうのは、真夜中に起きてミルクを作ってあげて、子供が熱を出したら一晩中濡れタオルを変えてあげて、子供の最初の歩く姿を見守る人のことよ。あなたにできる? それとも、また海外のパートナーと会議で忙しいの? それとも、また子供を家政婦に任せて、長期出張にでも行くの?」
「子供を食べさせていくためには、仕事をしなければならないじゃないか!」
健二も叫んだ。
「青臭いことを言うのはやめろ。この豊かな生活を誰が作ってやったんだ? 僕だ。僕が昼も夜も働かなかったら、子供がこんなに良い環境を享受できたと思うのか?」
「じゃあ、あなたのそのお金でも抱きしめて、生きていきなさいよ」
私はドアを指さした。
「あなたがレナさんとの婚約を破棄したのは、私を愛しているからでも、子供が可哀想だからでもない。ただ、男としてのプライドのため、後継ぎが必要だっただけよ。あなたは、ひどく自己中心的だわ」
「黙れ!」
健二が手を上げた。私を殴ろうとして、途中で止まった。彼の手がぶるぶると震え、目は怒りで赤く充血していた。私は顔を上げ、挑戦的に言った。
「殴りなさいよ。あなたの本性が、どんなものかはっきりと見せて」
健二は手を下ろし、重く息を吐いた。彼は振り返り、壁を強く殴った。ドン。鈍い音が響いた。
「そうだ。君の言う通りだ。僕は自己中心的で、野心家だ。だが、子供を愛しているのは本心だ。そして、絶対に子供を僕のそばから離しはしない。君がどう思おうと、関係ない」
激しい言い争いの末、家の中の空気は葬儀場のように沈み込んだ。私は長い間、考えた。私は養育権争いで健二に勝てないことを知っていた。彼には金と権力、そして有能な弁護士がいた。法廷に行けば、私は間違いなく負けるだろう。そして、私は私の子供が、両親の争いと憎しみの中で育ってほしくなかった。私には、解決策が必要だった。痛みを伴うが、今のところは子供のための最善の解決策だった。
私はリビングへ出た。健二が、疲れた目で私を見上げた。
「話があるの」
私が異常なほど落ち着いた声で言うと、彼は眉を潜めた。
「何の話だ?」
「取引とでも言うべきかしら? あなたが子供を欲しがっているのは分かるわ。そして、私にあなたに勝つ力がないことも。だから、私が譲歩する」
私は込み上げてくる涙を抑え、深呼吸をした。
「養育権放棄の覚え書きに、サインするわ。全ての親権を、あなたに譲渡する」
健二は呆然とした。彼は自分の耳が信じられなかった。
「本気か?」
「でも、条件があるわ」
「条件?」
「子供が満三歳になるまで、私がここで直接子供の世話をすること。この三年間、あなたは全てを支援し、何よりも重要なのは、私の育児方針に干渉しないこと。あなたはただ、子供と遊んであげて、愛してあげて。父親の役割だけをするの。絶対に、子供を私から引き離してはだめ」
「なぜ、三年なんだ?」
「人生の最初の三年間が、子供の人格と情緒を形成する上で、最も重要な時期だからよ。私は私の子が、完全な情緒的基盤を持ってほしいの。母乳を飲み、母の腕に抱かれて、最も弱い時期に母親の愛が不足して育ってほしくない」
「じゃあ、三年後は?」
「三年後、子供の三歳の誕生日に、私は出ていくわ」
私は心臓をえぐり出すような思いで、一文字一文字吐き出した。
「ずっと遠くへ行く。あなたと、子供の人生から消えるの。その頃には子供も丈夫になって、保育園にも通うだろうから、あなたがもっとちゃんと面倒を見られるでしょう。私はもう、あなたを煩わせない。あなたも、私を探してはだめ」
健二は沈黙した。彼は、私の心の中をじっと見つめていた。彼は、私が自分自身にこれほど残酷な提案をするとは、想像もしていなかっただろう。
「子供を…捨てるというのか?」
彼が震える声で尋ねた。
「捨てるんじゃないわ。子供のために、犠牲になるのよ」
涙が頬を伝って流れた。
「一度だけ辛い思いをして、猿は、子供が権力のある父親のそばで安定した未来を持つ方が、この終わりのない争いに子供を巻き込むよりはマシよ。私にはもう、あなたの愛を信じる勇気も、あなたの家族と戦う力もないの」
健二は俯いた。彼は両手を組み、長い間考えていた。
「分かった」
ついに彼が言った。声はひび割れていた。
「その取引を、受け入れよう。三年間だ。僕たちには、三年間ある」
私は背を向けて、寝室へ向かった。足取りは、鉛のように重かった。私はたった今、自分自身に死刑宣告を下したのだ。三年間、私には子供を抱き、子供の匂いをかぎ、子供が成長するのを見ることができる。しかし、その後、私は他人になるのだ。
私はドアを開けて入った。どんぐりは目を覚まし、ゆりかごの中で一人で遊んでいた。手足をバタバタさせていた。私を見ると、その子がにっこりと笑った。その無邪気な笑顔に、胸が張り裂けそうになった。
「坊や」
私は子供を抱き上げ、腕の中にしっかりと抱きしめた。子供の胸に顔をうずめ、声を殺して泣いた。
「ごめんね、ママが。ごめんね」
リビングの外では、健二がまだ座っていた。彼は電気をつけておらず、闇が彼を包んでいた。彼はタバコに火をつけた。赤い火種が闇の中で燃え上がり、消えていった。彼は勝った。彼は息子を手に入れ、これから三年間、私の従順を手に入れた。それなのに、なぜ心はこれほど空っぽなのだろう。彼は固く閉ざされた寝室のドアを見つめた。ドアの隙間から、常夜灯の微かな光が漏れていた。これが、この広くて冷たい家の、唯一の光だった。彼は理性では勝ったが、感情では完全に敗北したことを悟った。彼は大切な人を手に入れたが、彼が最も愛した女性の心は、永遠に失った。彼女は彼を愛しているからではなく、子供を哀れんで、ここにいるのだ。そして、彼女は始まった瞬間から、去る日を決めていた。このペントハウスの灯りは、たった三年間だけ灯されるだろう。それは、バラバラになった家族のために作られた、幸せという名の演劇を照らし出すだろう。健二はタバコを揉み消した。彼は椅子の背にもたれ、目を閉じた。熱い涙が一筋、その男の目尻から静かに流れ落ちた。もしかしたら、それは幸福の涙だったのかもしれない。

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