豪雨の中、契約更新の書類を抱えて大手自動車メーカーへ向かった。2年に一度の更新日は、今日が期限だった。 しかし、新しく着任した資材調達部長は、ゲートさえ開けようとしない。受け取ってすらもらえなかった更新書類を濡らしながら、俺は最後の忠告をした。「再契約はできませんよ」。 奴は鼻で笑って言った。「無関係者は消えてください」。…

豪雨の中、契約更新の書類を抱えて大手自動車メーカーへ向かった。2年に一度の更新日は、今日が期限だった。 しかし、新しく着任した資材調達部長は、ゲートさえ開けようとしない。受け取ってすらもらえなかった更新書類を濡らしながら、俺は最後の忠告をした。「再契約はできませんよ」。 奴は鼻で笑って言った。「無関係者は消えてください」。...

雨が叩きつける中、俺は契約更新の書類を鞄に詰め込んだ。2年に一度の更新日。大手自動車メーカーとの間で交わしてきた特許部品の使用契約は、今年で丸10年になる。

俺の工場は、父の代からブレーキ部品を作ってきた。ブレーキは踏むたびに熱を持ち、ある温度を境に利きが急に鈍くなる。父はその「温度の壁」を引き上げる技術を開発し、特許を取った。長い下り坂でブレーキが効かなくなる恐怖をなくしたいんだ、と父はよく言っていた。

俺はその技術を改良し続け、そのたびに新しい特許を取り直してきた。父ならこの図面をどう詰めるだろうか。考えるだけで、答え合わせをする相手がもういないことを思い出す。それでも、父の感性を外さずにやってこられた自負だけはあった。

この特許部品は国の審査を通り、量産車に使って良い部品として認可を受けた。その認定があったからこそ、大手メーカーと契約を結ぶことができたのだ。契約は2年ごとに更新する取り決めで、主力車種は荷物運搬用の電気自動車。配送会社がまとめて買い入れる箱型の大型車で、電池を積んだ分だけ重い。認可を通すには、うちの部品の性能がどうしても必要だった。

昨日のうちに準備した更新書類には、認可を取った時の試験記録と他社製品との比較資料を重ねてある。鞄の口を閉じ、窓の外を見ると、朝から降り続く雨はまだ弱まる気配を見せない。テレビが河川の増水と外出注意を呼びかけていたが、更新の日を動かす気にはなれなかった。

2年に一度のこの日を逃せば、次はない。

先月末、前任の資材調達部長だった佐倉から電話があった。引き継ぎの話を済ませた後、こう付け加えていた。

「新しい担当者がもしあまり知識を持っていないようでしたら、荒川さんからも一言添えていただけると助かります。私が説明するより、作っている方の言葉の方が腑に落ちるでしょうから」

なるほど、そういうことか。俺は前情報を頭に入れて、取引先へと向かった。

本社の駐車場に車を止め、入館用のゲートへ向かう。傘を刺しても、横から吹きつける雨が足元と鞄を濡らす。

受付の女性に名前を告げ、更新の予定を伝えると、女性は困ったように顔を上げた。

「申し訳ございません。本日のご来訪について、担当部署から入館の許可が届いておりません」

これまで更新の手続きでこんなことは一度もなかった。俺が要件を繰り返し伝え、確認を頼むと、しばらくしてゲートの向こうから見覚えのない男が歩いてくる。年の頃は40代半ば。毅然としたスーツ姿だが、俺を見る視線だけが冷えていた。

「新しく資材調達部長になりました、平沢です」

名乗りながらも、入館証を渡す気配はない。ゲートは開かれないままだ。

「なぜ入館の許可を出さなかったんですか?」

俺はゲート越しに尋ねた。更新書類を持ってくる相手を、わざわざ足止めする理由が分からなかった。

平沢は面倒そうに息をついた。

「別に会って断るほどの話でもないと思ったんですよ。元々これで契約を終了する予定でしたし」

「終了? 本社の主力車種はうちの部品を積んだ状態で国の認可を受けています。別の会社の品に変えれば、認可を取り直すまであの車は1台も作れませんよ」

「ブレーキの部品なんて、どこの工場でも作れるでしょう。特許だなんだと言われても、正直ピンとこないんですよね」

平沢の口調には、わずかに嘲笑が滲んでいた。差し出したままの更新書類が、意味を失って宙に浮いたように感じられた。傘の縁から落ちた雨が、紙の端を黒く滲ませていく。

「だから、友人の会社に変えたんですよ」

「は? ちょっと待ってください。そんなことはできません」

俺が説明資料を取り出そうとする様子を一瞥し、平沢は鼻で笑った。

「結構です。無関係者は消えてください」

怒りで腹の底が冷たくなるのを感じた。父が命を削って通した特許を、この男は大量生産可能なものだと勘違いしている。俺は濡れた更新書類を鞄に戻し、平沢の背中に向かって言った。

「再契約はできませんよ。今日、更新に来た俺をこのまま入館させなければ、契約は今日限りで終わります。この技術は2度とこのメーカーでは使えなくなります」

平沢は片手を振って俺をあしらうと、そのままゲートの奥へ戻っていった。

俺は受付の女性に向き直り、本日更新書類を自ら持参したことと、受け取ってもらえなかったことを記録に残すよう頼んだ。女性は少し迷ってから、端末に何かを打ち込んだ。

工場に戻ったのは日が暮れかけた頃だった。机に更新書類を広げる。追い返したのは向こうだ。契約書の第9条に照らせば、更新が成立しなかった以上、契約は今日限りで終わっている。先月末に納めた分で、向こうの手持ち部品は尽きるはずだった。

「更新の日まではうちの部品で繋ぎ、その先から差し替える。おそらく明日の朝からは別の会社の部品がラインに流れていたはずだ」

しかし、別の会社の品を積んだ時点で、あの車は認可通りの車ではなくなる。

俺は立ち上がり、工場の奥で作業を続けている宮森を呼んだ。彼は父の代から数えて30年になる、工場で一番古い作業員だ。

俺が今日の出来事を一通り話すと、宮森は手にしていた部品を工具箱に戻しながら言った。

「初代の頃から、こっちが頭を下げて仕事をもらったことはない。向こうが中身を見ないなら、それまでの話でしょう」

そう言うと、また旋盤に向き直った。俺は壁に掛かった父の作業着を見上げる。技術に対して決して妥協しなかった父の顔を、その晩は何度も思い出していた。

翌日、雨は上がった。昼前に事務所の電話が鳴ると、聞こえてきたのは佐倉の声だった。

「荒川さん、朝から本社に何度も電話を差し上げようか迷ったんですが、まず私からお詫びをさせてください。私の引き継ぎが甘かったばかりに、こんなことになってしまいました」

そう言って、佐倉は一つ深呼吸した。

「実は、本社の部品を積んでいない車が出荷前の検査で止められたと聞きました。詳しい経緯はまだ耳に入っていませんが、ラインが動いていないのは間違いないようです。もう調達部の人間ではない私が言うのもおかしな話ですが、黙って見ていられませんでした。上には、本社にきちんと事情を説明し、契約を元の条件でお願いすべきだと申し伝えてあります。近いうちに、責任のある立場の者がそちらへ伺うはずです」

俺は礼を言って電話を切った。受話器を置いてからも、自分の非を認め、頭を下げてきた佐倉の声が耳に残っていた。向こうの部署の誰かが動くのを、ただ待つしかない。

その日の午後、佐倉から再び電話が入った。

「もう1点だけ、お耳に入れておきたいことがあります。実は本社から別会社への切り替えの件。決議の書類には目を通せる立場にまだいますので、少し確認してみたんです」

佐倉は少し声を落とした。

「切り替え先の代表というのが、平沢さんの個人的な知り合いらしいという話が社内で出始めています。まだ噂の域ですが、もしこの先条件を戻すという話になった時に、そちらの事情を知らずに応じてしまうと、本社が損をする形で丸め込まれかねません。念のため、頭の片隅に置いておいてください」

俺の中にあった疑いは、そこで初めて輪郭を持った。知らずに謝ったのではなく、知ろうとしなかった。会社の利益のためではなく、自分の知り合いを潤すために、俺の技術を切り捨てたのだ。指先にじわりと力が入るのが分かった。

また間もなく、事務所の電話が鳴った。

「ああ、荒川さん。急で悪いんですが、部品をすぐに納めてもらえませんか? 契約は前の条件のままで構いませんので」

昨日とは別人のような、腰の低い口調の平沢だった。要件だけ早口で告げると、返事も待たずに切ろうとする気配がある。

「契約書の第9条の定めに従えば、契約はすでに昨日の時点で切れています」

俺がそう答えると、電話の向こうで息を飲む気配がした。

「そこをなんとか……」

「再契約はできないと申し上げたはずです」

俺はそれだけ言って、先に電話を切る。それから何度か平沢から電話が入ったが、俺は事務員に取り次ぎは不要と言って、電話には出なかった。

夕方近く、事務員が最後の伝言を伝えに来た。近いうちに本社から責任の取れる者が直接伺いたいという申し入れだった。

翌日の午前、俺は事務所で伝言のメモを見返していた。宮森は変わらず旋盤の前に立ち、止まった発注の穴を埋めるように、別の取引先から回ってきた小口の仕事をこなしている。柱を失った穴はまだ埋まっていない。それでも、詫びの一言すら寄越さない大手メーカーに対して、こちらから頭を下げるつもりはなかった。

表の駐車場に車の止まる音が届いたのは、昼を過ぎてすぐのことだ。窓越しに目をやると、黒い乗用車から降りてきたのは平沢ともう1人、初めて見る年配の男だった。

作業着のまま、俺は工場の入口で2人を迎える。旋盤の音がそこで途切れた。宮森が油のついた手を拭い、2人を一度だけ見てから、また機械に向き直った。

年配の男は名刺を差し出し、「梶谷と申します。専務を務めております」と名乗った。低く落ち着いた声だ。無駄のない所作からは、何十年も現場と交渉ごとの両方を渡り歩いてきた気配が漂っていた。

平沢は名刺を出さず、梶谷の一歩後ろに立ったまま視線を伏せていた。昨日、取り合おうともしなかった男の姿はそこにはない。背中の肩の辺りが、心なしか小さく見えた。

俺は、判を押されないままの更新書類を机に置いた。雨に濡れた跡が残っている。その跡が、あの日の悔しさをそのまま形にしているようだった。

梶谷は俺に向かって、一度深く頭を下げた。

「本日は弊社の不手際でご迷惑をおかけしたことを、まずお詫び申し上げます」

頭を上げると、梶谷は淡々と続けた。

「昨日、生産ラインが停止した件は役員会にまで報告が上がりました。発注の経緯を確認したところ、今回の切り替え先の代表は平沢の学生時代からの知人でした」

梶谷は平沢をちらりと見る。平沢は深く俯き、その顔色は分からない。

「その工場は本社より2割高く、本社の部品が代替不可能であることは前任者が残した資料にも明記されていました。発注を変える理由は、弊社の側に一つもありません」

平沢は、俺と梶谷どちらの顔も見ないまま立ち尽くしていた。反論する言葉を最初から持っていないのが分かる。

「受付には、荒川様が更新書類を自ら持参された記録も残っていました。契約が切れた責任は当社にあると、専務も申しております。本社に損をさせた以上、ここまではお伝えするのが筋だと考えました」

梶谷はまた隣の平沢に目をやる。その一言には、詫びとけじめをつけるという決意の両方が込められているのが分かった。

俺は机の上の更新書類に、もう一度手を置いた。

「これに判を押していただいていれば、問題なくラインは動いていたはずです」

平沢は書類に目を落とすことすらしない。梶谷が隣の平沢を見た。

「平沢さん、荒川さんにきちんと詫びなさい」

平沢は一拍置いてから、形だけ頭を下げた。

「先日は言葉が過ぎました。申し訳ありません」

声には、詫びる響きがまるでなかった。

俺が黙って書類に手を置いたままでいると、平沢はその沈黙を自分への当て付けと受け取ったようだった。

「謝ったじゃないですか。これ以上何を求めるんですか? この程度、どこの会社でもよくあることでしょう」

声がまた尖り始める。

「下請けが1つ、取引を潰されたくらいで、そこまで意地を張る必要がありますか?」

「いい加減にしなさい」

梶谷の声が初めて強くなった。

「工場で開き直る神経が分からん。お前が壊したのは荒川さんの取引先じゃない。うちのラインだ」

平沢の顔から見るみる血の気が引いていく。工場の奥では宮森が旋盤の前に立ったまま手を止めて、成り行きを見守っていた。口を挟むことはしない。ただ、30年この工場で音を鳴らしてきた男の目には、何が起きているのかはっきりと映っているようだった。

黙り込んだかと思うと、今度はすがるような口調に変わった。

「荒川さん、お願いします。このままだと私は本当に居場所がなくなります。契約さえ元に戻れば、今回のことは私からもきちんと上に説明しますので」

保身のための頼みだということが、言葉の端々から伝わってきた。俺は静かに首を振った。

「再契約はできないと、あの日申し上げたはずです。今更あなたの都合で戻す話ではありません」

平沢は何も返せなかった。

梶谷が深く頭を下げる。

「弊社の不手際で、本社にご迷惑をおかけしました。本人の処遇については、社内で改めて対応いたします」

「今後のことは、本社として筋の通った形で進めてください」

それだけ答えて、俺は書類から手を離した。

2人が事務所を出ていく際、平沢は一度だけ振り返ったが、その口からは何も出てこない。車が走り去った後の駐車場を、俺は事務所の窓から見ていた。旋盤の音が再び工場に戻ってくる。宮森は何も言わず、ただいつも通りに手を動かし始めていた。

あの部長1人の問題ではないのだろうと思う。受付で拒まれてから、ここに詫びの一言すら寄越さなかった数日間。上に立つ誰かが、もっと早く動くべきだったはずだ。1人の暴走を何日も止められなかった会社と、これ以上組む理由は俺にはもうなかった。

それから1週間後、梶谷からその後の顛末を聞いた。平沢は業務上の必要もなく発注先を個人的な知人の会社に切り替え、生産ラインを止めるという実害を会社に与えたことを理由に、懲戒解雇の処分を受けたという。佐倉は資材調達部長の席に戻ったようだ。契約を元に戻したいという申し入れはその後も何度か届いたが、俺はその度に丁寧に断り続けた。

代わりに動いたのは、噂を聞きつけた別の大手自動車メーカーだ。

先方の技術担当者はうちの工場まで足を運び、試験の記録を1枚ずつ、時間をかけて読み込んでいく。話がまとまるまでにそう時間はかからなかった。先方の担当者は最後にこう言い添えた。

「これほど数字と現場の声が揃った部品は、正直初めて見ました」

値段でも肩書きでもなく、中身を見てくれる相手がいる。それだけで十分だった。

新しい契約は、以前よりも大きな取引になった。工場の壁の作業着は、父が置いていった時のまま掛かっている。それを見ながら、俺は改めて思う。中身を確かめもせずに取引先を決める相手とはもう組まない。俺の部品を、人の命を預かるものとして見てくれる相手とだけ、これからも仕事をしていくつもりだ。

旋盤が回り始める。父の代からこの工場で鳴り続けてきた音が、今日も変わらず響いている。

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